想像の共同体と、複数形の再部族化
池田光穂
政治学者ベネディクト・アンダーソンの著作『想像の共同体』(1983,1991)の議論に慣れ親しんだ者は、次のようなマクルーハンの 文章に出会ったとき、驚きを隠すことができない。
──印刷が及ぼす心理的および社会的帰結には、我々が新しいナショナリズムと関連させているような事態、つまり、印 刷の分裂的かつ画一的な性格を拡張して、さまざまの地域を次第に均質化させ、結果的に権力、エネルギー、侵略を増殖をさせる事態が含まれる。
──印刷されたページの画一性と反復性には、もう一つの重要な局面があった、それが正しい綴り字、文法、発音という ものに向けて圧力をかけ始めたということだ。
──印刷本の上に、画一の定価をつけられた商品という奇妙に新鮮な性格を付与したのが反復性であり、その結果、価格 システムへの道を開いた。‥‥加えて、印刷された書物には、携帯の便利さ、入手のしやすさという性格があった。‥‥こうした拡張的性格と直接の関係にある のが、表現の革命であった。‥‥活字印刷によって世界そのものに向かって。大声かつ大胆に訴えかけることのできるメディアが生み出された。
──活字印刷の影響が数多くあるなかで、たぶん、ナショナリズムの出現がもっともよく知られたものであろう。方言お よび言語の集団によって人間を政治的に統一するというのは、個々の方言が印刷によって広大なマス・メディアに変ずる以前には考えられないことであっ た。‥‥ナショナリズムそれ自体は、集団の運命と地位を強烈に示す新しい視覚的なイメージとして到来したもので、印刷以前には知られていなかったような迅 速な情報移動に依存していた。
──こんにち、一つのイメージとしてのナショナリズムは、あいかわらず印刷に依存しているけれども、それはすべて電 気メディアの挑戦を受けている。政治においてもビジネスにおいても、平等のジェット機のスピードの影響で、古い国家集団という社会組織はまったく役に立た なくなっている。ルネサンス期に、(均質の空間における連続と競合である)ナショナリズムが新しいものであったばかりか、自然なものでありえたのは、印刷 の迅速さと、その結果として生ずる市場と商業の発展のせいであった(邦訳pp.171-181を一部改訳、原著pp.175-177)。
我々が驚く理由は、アンダーソンがナショナリズムを醸成するものとしての出版資本主義(print capitalism)を定式化した際の諸特性が、すでにここで素描的に集約されてあるからだ。アンダーソンの著作のねらいは、ナショナリズムに先行する 同じ規模の文化システムである宗教共同体と王国との比較とのなかで、ナショナリズムを大規模に人々を動員する文化システムとしてとらえたことにある。その 中で地方新聞を代表とする出版資本主義の発達は、人々を「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体」として、歴史上まったく新しい範疇であり集団に属 する個人のアイデンティティの一部たる「国民」を形成することに貢献したとみる。マクルーハンの不定形で思いつき的な発想を、アンダーソンはより洗練され た形で整理し論証しようとしているからである。
マクルーハンは、ルネサンス以前の部族社会(性)、ルネサンス以降のナショナリズム、「電気」時代のナショナリズムと、メディアが形成す る社会意識の彼独自の時間的発達に沿って時代を区分するのに対して、アンダーソンは、政治学者らしく、宗教共同体、王国との政治形態の比較区分の中で国民 国家を出版資本主義との関連の中で分析する。
印刷言語は、それまでの写本の秘儀的な知識を、大量複製による「印刷知識」として再編成することに成功する。この印刷知識は、マクルーハ ンによると「最初の二世紀は、新しいものを読んだり書いたりしなければならない必要よりは、古代および中世の書物をみたいという欲望のほうにむしろ動機」 (p.173)がおかれていた。
フェーブルとマルタン『書物の登場』によると、17世紀の初頭には世界で2億冊の書籍が出版されていたが、これは商業資本主義の発達の賜 物であり、この事態はラテン語で書かれた書物を排除しながら、俗語で書かれた大量の本が席巻した結果である。アンダーソンは、俗語化の推進を第一に資本主 義の発達に求めているが、それを加速したのはラテン語の脱神秘化、宗教改革、中央集権化の道具としての俗語の使用があったとする。これらはメディア論以前 の古典的な歴史学者のあげる諸要因である。だが、それは彼に言わせれば、不可欠の要素ではない。
──新しい想像の国民共同体は、この要因のいずれか、いやそれどころか、すべての要因が欠落していたとしても、なお出現したであ ろうとすら考えられる。積極的な意味で、この新しい共同体の想像を可能にしたのは、生産システムと生産関係(資本主義)、コミュニケーション技術(印刷・ 出版)、そして人間の言語的多様性という宿命性のあいだの、なかば偶然の、しかし、爆発的な相互作用であった(p.79 強調は引用者)。
アンダーソンはさらに、この文章の脚注において、先のフェーブルとマルタンの所論を引き、ヨーロッパ社会における紙が歴史的に登場する以 前にブルジョアジーが先行して存在し、紙質の改善もまた紙の登場から75年後のことであった、と指摘する。つまり、資本主義において紙が利用され、それが 出版資本主義を成立を可能にしたこと、それ自体が偶然であったことを示唆している。彼によると、ナショナリズムの発達に出版資本主義は不可欠であったが、 その出版資本主義の成立は歴史における偶然だと言うのである。
ナショナリズムの成立と出版資本主義の関係について、もう少し考えてみたい。彼はナショナリズムを3つの類型としてとらえる。18世紀後 半から19世紀初頭の新大陸アメリカで生まれた最初のナショナリズム、19世紀ヨーロッパの民衆的ナショナリズム、そして19世紀後半から20世紀にかけ て周辺国ではじまる公定ナショナリズムである。新大陸における世界で初めてのナショナリズムが、出版資本主義との関連で論じられる。
新大陸生まれのヨーロッパ人であるクレオールの共同体が、なぜヨーロッパより歴史的に早く「我々国民という観念」を発展させたか、という 問題をアンダーソンは立てる。この種の問題には、先行研究によってすでに解答は与えられていた。従来の説は(1)18世紀後半におけるマドリードの支配強 化、と(2)自由主義的解放思想の普及、という観点から説明するものである。しかし、彼はそれを不十分なものとして退ける。
──しかし、マドリードの攻勢と自由主義の精神は、なるほどスペイン領アメリカにおける抵抗の衝動を理解する上で重要であって も、それ自体としては、チリ、ベネズエラ、メキシコのような実体が、なぜ、感情的に受け入れられ、また政治的にうまくおくことになったのかを、説明するも のではない。あるいはまた、なぜ、サン・マルティンが、特定の原住民を「ペルー人」なる新語によって定義すべしと布告せねばならなかったのか、そしてま た、結局のところ、なぜあのようなほんものの犠牲が払われたのかを説明するものでもない(p.95)。
新たな解答の手がかりは、南アメリカの新生共和国が植民地時代における行政単位と合致しており、それは植民地時代をとおして地域として実 体化されていったこととに注目すべきであるという。
また、行政組織がどのようにして「意味」としての祖国を創造するのかを考える必要がある。彼は、絶対主義王制下における人間と文書の互換 性に注目する。そして、人的な互換性を補完する文書の互換性は、標準化した国家語の発達によって促進されることになるという。
このような国家体制のもとで、はじめてクレオールはヨーロッパの人間──狭義にはイベリア半島居住および半島出身の新大陸人ペニンスラー ル──との類的な一致と制度上における処遇の不一致を知ることになる。それを、想像の共同性という観念を強化したものは、17世紀末から始まる新聞等のプ リントメディアである。
──新聞という概念それ自体がすでに、「世界的事件」すら地方語読者の特定の創造の世界には屈折して入ってゆくということを意味 しており、そして、想像の共同体にとって、時間軸に沿った着実で揺るぎない同時性の観念は、決定的に重要な観念であった。
─[18世紀後半初期のアメリカ大陸の地方新聞──引用者]は、基本的、市場の添え物として始まった。‥‥本国についてのニュー スの他に、商業ニュース──船の到着出帆予定、港での商品価格の動向──そしてされに植民地における政治的任命、金持ちの家族の結婚などが掲載されてい た。別の言い方をすれば、同一紙面に、この結婚とあの船、この価格とあの司教をまとめたのは、まさに植民地行政と市場システムの構造それ自体であった。こ うして、カラカスの新聞は、まったく自然に、また非政治的に、その特定の読者同胞の集団に、これらの船、花嫁、司教、価格の属する想像の共同体を創造した (pp.108-109; p.107)。
このようなアンダーソンの想像の共同体としての「国民」の議論は、メディアの発達がそれにふさわしい想像の共同体をつくることを示唆す る。この議論はマクルーハンが、荒削りの主張したまま放棄しておいた、地球の人間の一族(human family)が「もう一度、一つの部族になる」ことを思い起こさずにはおれない。これをマクルーハンの「単数の再部族化論」として名付け、さらに検討し てみよう。なお、「部族」は社会が個々の部族からなりたつことを前提に創出された分類範疇であるため、単数の部族化という表現は撞着語法であることを予め 理解しておこう。
電子メディアによって我々の五官は本来の感覚を取り戻し、世界はどんどん小さくなる、つまり我々は地球村の住民となる。そして我々は失わ れた神話的世界の中に再び生きるようになる。これが再部族化に関するマクルーハンの青写真である。彼の部族概念は、未開社会に関する幅の広い文献の渉猟か ら導かれ、その部族民のイメージは、アルカイックな世界に住む住民のことであり、彼らの思考法もまた近代人とは根本的に異なる人間と考えていた。その意味 でマクルーハンは部族民を今日では人種主義的な発想の源泉と見なされることが多い、本質主義的的なものとしてとらえている。もちろんこの見方は決して特異 なものではなく、次節に述べるように、西洋近代が培ってきた未開人イメージの基本形にほかならない。さて、この単数の部族民は地球村とセットで考えられ、 彼/彼女らはあたかも、認識と価値を共有する単一性の中に収斂してゆくと考えられている。マクルーハンの部族は、西洋文明の波に曝されて滅びゆく神話的世 界に住む人たちという見解を踏まえたものであり、後述するルース・ベネディクトの未開人観にも通底するのは当然で、北アメリカのヒューマニスティックな人 類学者が印刷メディアを通して生産してきたものなのである。植民地時代に培われた部族概念にみられるように特定の人間集団に当てはめられた本質主義──そ れを生産したのは印刷メディアだ──が、電気メディアによって結果的に克服(救済?)されるというのは、まったく皮肉である。彼は、電気メディアの発達に よって印刷言語が押しつける世界観から解放されるユートピアの人間像のなかに、かつての部族民──もちろん西洋によって想像として構築された部族民──を 見ている。換言するならば、それはルソーの高貴なる野蛮人の電子版、あるいはマルチメディア時代のピグマリオンにほかならない。
しかし、印刷メディアを通して「国民」という主体が人々によって想像=創造されてきたわけであるし、植民地時代に成立した西欧宗主国の民 族学や歴史学が「部族」や「カースト」という分類範疇の創出に少なからず貢献してきた、より正確に言い換えるなら、それらの分類範疇が実体化してきたとい う事実は、アンダーソンのみらならず多方面から指摘されている。それだけではない。世界各地の民族紛争の原因となっている、「民族」の本質主義的な対立 は、植民地時代における民族や部族の分類の確定に起源をもつことが多数ある。マスメディアを通して、民族の対立や差異が調和不可能な根本的であるかのよう な言説が現在横行している。不幸にも、民族学者の一部が、このような本質主義的な文化のイメージの再生産に荷担しているケースも見うけられる。このような 事態は、新たなる「国民」の再編成、つまり分離独立を要求したり、隣接内の「同胞」の保護を名目とする武力介入等をさらに引き起こす直接および間接的な原 因となっている。部族や民族の境界は、新たに細分化されたり再編成されることがあっても、単一化する見込みは現段階では、とうてい考えられない。
マクルーハンのメディアによる地球の再部族化の予言は当たっていたと言える。しかし、それは彼の言うような地球村の「単数の再部族化」で はなかった。距離の遠近を問わない部族の細分化であり、メディアの発達は差異の微分化、つまり複数の再部族化のみならず新部族化産出に拍車をかけていると 言っても過言ではない。このような西洋が自分で作り出した苦境に西洋はどのように立ち向かおうとしているのか。また我々はどう立ち向かうのだろうか。