本文
A.T.Iオフィス訪問、Totonicapan、990727
Con Don Domingo Menchu, Representante de A.T.I.(Asociacion
ToTo-Integrado).
ドン・ドミンゴは年齢60歳前半から半ば、右目が悪い。薄い色のついた老眼鏡をかけている。彼はプロジェクトの代表者(representante)で
あり、訪問時に出迎えてくれた。Elba Villatro,Almando CaceresさらにはDoctor
Miyanishiなどのことも覚えていた。とくに宮西さんには(後で触れる)プロジェクトに対する財政的援助を日本に求めたが返事がなかったと述べた。
インタビュー時には、彼の他に、ドニャ・フェリパ(Dona Felipa)と呼ばれるコマドロナ(伝統的出産介助者)もいた。
・団体の活動
トト・インテグラードには、4つの活動がある、と彼は言ったが、それを思い出してみよう。(1)伝統的薬草(Medicina
Traditional)の利用による伝統的治療者のコミュニティ・レベルでの活用、(2)「精神的ガイド」——ドン・ドミンゴはSacerdote
Mayaという言い方を「適切ではない」と言い、精神的ガイド(guia
espiritual)と言い直したが、その理由は後述する——の組織化、(3)化学医薬あるいは西洋医薬(medicina quimica o
medicina occidental)による保健センター(Puesto de
Salud)での診療の向上ならびに伝統医薬の接合(articulacion)、というのが彼から最初に聞いた活動内容である。
なお、「A.T.I. Asociacion Toto-Integrado,
Totonicapan」の3枚の用紙からなる簡単なパンフレットには、その目的として以下の5項目のことが掲げてある。「グアテマラの人々、特に村落共
同体の人々の統合的開発を育成する。人的資源ならびに自然環境の——潜在的にトトニカパンやその周辺の——資源の価値を高める。保健活動の機能を向上させ
確実にするための伝統的健康のシステムとその効力に対して援助・育成する。母語の価値づけつまりバイリンガル主義の育成、マヤ語話者の教育を豊かにする可
能性に貢献し、同時に国民的あるいは国際的諸機関と共同し、援助をおこなう。共同体の開発の過程における女性の統合を強調しつつ物資的条件を変えることを
通して、女性の自己評価と自己価値づけを養成する。」
・伝統的治療者のカテゴリー
—精神的ガイド(aj q'ij):いわゆるマヤ司祭
—伝統的出産介助者・コマドロナ(y'om)
—治療者・クランデーロ(kurandero)
—子供を治療する専門家(kunal a k'alab')
—接骨医・コンポウエソ(chapal b'aq)
この他に、プロジェクトが維持してい西洋医療関係の人間は、大学を卒業した看護婦(enfermera
graduado)が1名、普及員(promotora)が2名、養成教育者(capacitadora)が2名いるという。
・プロジェクトの歴史
1989年に調査がされて、1992年にイタリアのGRT(Grupo de Relacion
Transculturales)がやってきて、プロジェクトを組織し財政的援助をおこなった。そのプロジェクト名は、Desarrollo
Integrado del Municipio de
Totonicapan。GRTは1995年にこのプロジェクトを離れた。同年の1995年7月に伝統的治療をおこなうONG(NGO)団体として政府か
ら認可された。
ATIは、マヤ国民会議(Mesa Nacional de los
Mayas)に加盟しており、定期的にシェーラで会議が開かれ、それに参加するという。また、COPNAGUA(略称名は不正確、正式な名称全体名称も不
詳)にも加盟している。
なお、具体的なプロジェクトに対して外部とくに首都にある関係するような諸団体との相互協定関係は、現在のところないという。
・プロジェクトの構成
構成員会議(asambrea)は、執行部(Junta
Directiva)と、3つのエキポ(部隊=部門)からなる。第一の部門は伝統医療部門、第二は出産保健部門(Salud
Reproductiva)、第三が保健部門(Equipo de Salud)である。
・現在の財政基盤
OPSからの援助、FODIGUA(Fondo Nacional del Dessarollo
Indigena)、さらにUSAIDの下部機関(とドミンゴは言ったが)であるPCEである。
・マヤ司祭の位置づけ
マヤ司祭は、グアテマラを構成するエバンヘリコと衝突するのではないか?という質問をしたら、そのとおりだと言う。彼らが、マヤ司祭という<宗教用語>
で表現しないのは、そのような理由からだという。彼は、マヤの宇宙観(cosmovision)は宗教よりも、より広いもので、彼自身は、宇宙との関係と
は、創造主(creador)との関係、自然との関係、そして人間との関係で定義されるという。
・<精神>を全面に出す際のマニュアル
国連がゲリラと政府との間で締結した平和条約に関して、小さなパンフレットを作成したが、彼はそのパンフレットに書いてある、先住民に対する「精神の尊
重」の部分を引いて表現をおこなっていた。
・周りの住民のATIに対するステレオタイプ
平和条約が締結される前に、この団体の活動がはじまったが、当時は、「Resistencia
Maya」つまりファンダメンタルな主張をおこなう反国家的団体と、ステレオタイプされて見なされていたと語った。
・役員の改選
現在、このATIに加入している組合員(asociados)は250名で、毎月2ケッツアル、年間で24ケッツアル(3.7ドル:1999年7月現
在:1ドル7.33ケッツアル)を徴収している。当然、この費用だけでは運用資金にもならないぐらいで、資金は、先に述べた財政援助機関からの補助なしに
は運営不可能である。執行部は、この会員の互選によって決まるという。ドミンゴは、2年前に代表(representante)に選ばれて、今年暮れに役
員の改選があるという。それぞれのグループ?=部門には長(presidente)がいて、同じように互選で決まるという。
・セクレタリアの存在
現在、財政と管理をやっているのがFlorinda
Tzulである。彼女は、現在シェーラで能力向上の研修(capacitacion)を受けており、今週末にならないと帰らないという。
・ATIを組織する理由
この団体は、伝統的医療あるいはマヤの伝統的な行事に従事する専門家のアイデンティティを高めるためにあるという。というのは、マヤの伝統的な行事(特
に「マヤ司祭」や「産婆」)は、近年まで公衆の眼の前で、行われることがなかったという、認識に立っている。すなわち、これらの行事は非公式で隠れて行わ
れていたという。現在では、カトリックの司祭も、教会の前でさまざまな行事——ドン・ドミンゴが見せてくれたのは、亡くなったカトリック司祭の1周忌に教
会の前でコスチュームを着たマヤ司祭(「ガイドlos
guias」のプレジデンテ)が大衆(4,50名)を前にして儀礼を執り行っていた写真であった—— をすることすら認めるようになったと説明する。
イタリアの援助団体が着たときに、マヤ司祭をサポートし、彼らのアイデンティティを高めるということだけに関心があったのではないようだ。ドン・ドミン
ゴの話によると——これは私がそのイメージを改めなくてはならない点だが——薬草を使い、マヤ司祭の行事を執行(時間を数える chuch'ka
jaw
?)し、出産の介助もできる専門家はたくさんいる。従って、彼らの技量を復権し、公的なものにするためには、伝統的な宗教の要素の「復活」は不可欠だった
のだ。勿論この伝統的要素の復活は、かつてあったものが復元されるよりも、新しい社会的文脈の中で位置づけられるのだから、当然「刷新と創造
innovation and invention」の中にある。
・ATIの意義
私はインタビューの際に「敢えてマヤ司祭と表現しますけど、彼らはクライアントと私的な契約関係を作って営利活動に従事することにより多くの関心を置き
ませんか?、それでもATIを組織することの彼らにとっての利益bentajaはいったい何なのでしょう?」と質問した。ドン・ドミンゴの返答は以下のよ
うなものだった。(私的営利については明確なコメントをせずに、そのようなこともあると容認のみした)様々な儀礼や薬草や伝統的治療に関して、彼らは一人
一人で知識と技量を習得してきた。しかし、一緒に講習会に参加することで、次のようなことがおこった。伝統的出産介助者が、それぞれ経験した失敗を語った
り、治療に関する知識を交換することで、彼らの技量があがり、また彼らが一体感をもつことができた。このようなことはATIの活動が開始されるまでは、起
こり得なかった、と。
・エバンヘリコもまたマヤ司祭を利用する
エバンヘリコがマヤ司祭を批判し、また文化としてのマヤの儀礼=宗教(cosmovicion)を認めないのではないか、という質問をしたら、ドン・ド
ミンゴもそしてモレリーアのカルロスもまた「エバンヘリコの信者の多くも<隠れてこっそりと>ロス・ギーアスを利用している」という返事がかえってきた。
これと同じ説明は、モモステナンゴのドン・テオドーロ(Don
Teodro)もまた似たようなことを言っていたことを思い起こす。ドン・ドミンゴもまた「彼ら(=エバンヘリコ)もまた同じキチェだからlos
que queman(=マヤの儀礼と宗教)を捨てられないのだ」と解説する。
プロモトールの生涯(ドン・ドミンゴの場合)
Con Don Domingo Menchu, 19990728, en Totonicapan.
[インタビューの概要]
ATI(Asociacion de
ToTo-Integrado)への2日目の訪問。彼には、(前日から要請の出ている)財政的援助の話、ATIの簡単な歴史(ATI訪問のファイル参照)
を聞いた後に、彼のパーソナルヒストリーに関する事柄を聞いた。このメモはその最後の部分に関する覚書である。なお、同日づけのテープにも録音してある。
[内容の覚書]
彼は1937年にトトニカパンの村に生まれる。
(「1970年頃のグアテマラは厳しい時代だったから」と切り出すと)彼は、「生まれてからこの方、ずっと厳しい時代だったよ」と私のコメントを否定す
る。
自分が生まれたのは1937年で、この時代は独裁者ウビコの時代だった。1944年はレボルシオンで、トトニカパンでも、多くの人が糾弾されるのを見て
きた。アレバロの時代の時代でも、あるいは1956年(54年の間違い?)に始まる軍事政権の時代にも、その体制に反対する人には厳しい処罰があり、町で
も糾弾されるところを見てきた。軍事政権になれば、普及員のような人々を組織する人間はすべて「共産主義者」と見なされ弾圧の手が伸びた。
彼は1970年以前(32歳)になるまで、農業に従事していた。また彼の父親は商人で、行商の際に父親と一緒にグアテマラの国内を見て回ったことがあ
る。それまでにもいくつかの研修を受けていたが、1970年のCAPS(Capacitacio'n de Promotores
Sociales)は、彼の人生を変えるものだったという。というのは、それ以来、協同組合の仕事についたり、さまざまなボランティアーの仕事で、人々を
組織する活動に従事することができたからだ。
グアテマラでは先にも述べたように人を組織する人間は共産主義者と見なされたので、今までに組合の関係者や組合の普及員(promotores)は、行
方不明つまり誘拐されて殺害された者が多く、彼の知り合いも今まで多数、行方不明になった。
彼がこの団体活動に参加するようになるのは、またイタリアのミッションGRTが援助を行っていた頃である。ちょうど彼は協同組合の代表
(presidente)をやっていた時に、開発のグループ(grupo de
desarrollo)を組織するのに必要だと乞われて参加した。当時のプログラムの名称はDesarrollo Interado del
municipio de Totonicapanというので、「開発のグループ」という彼の名称は、これと混同しているかも知れない。
・マヤ司祭の信仰のこと
彼の父親は、敬虔なカトリックであったので、マヤ司祭がおこなっていることは、「悪いこと」「悪魔の所業」などを父親はドミンゴにそう教えていたらし
い。しかし、小さい頃からマヤ司祭の行事を身の回りで見ていて、それを賛美することも憎むこともなく、自然なものとして受け入れていたと彼は回顧する。
そのようなことが、ATIの活動に参加することで、自然に受け入れることができたという。彼は(多分現在でも)マヤ司祭を比較的客観的に評価できる立場
を維持しているが、それはコストゥンブレが彼の生活の中で、強力な影響力をもっていないからだと思われる。
彼がマヤ司祭のことを評価することができるようになるには、1984ー5年にメキシコ人の司祭で人類学者のChodomiro
L.Sillerと知り合って以降のことである。チョドミロは、マヤ司祭(los
gias)のことを調べて、それがマヤの宇宙観と深く関係していることを明かにした。マヤ司祭は日にちを数え(aj q'ij)える。chuche'
ajau というのは、chuche'はmama(madre?)という意味で、ajauはnuestro
creadorという意味で、アハ・キーヒと同じ意味だと言う。
[マヤ司祭あるいはlos gi'asの活動を擁護した]トマス神父は、トトニカパン出身だが、現在はカンティル(Paroquia
Cantil)にいるという。
・言語の標準化に関して
方言差の違いはある。確かに何日か滞在してみると、それぞれの先住民共同体で共通の単語があることを発見できるが、それはお互いに理解することが難し
い。キチェどうしでの違いもあるがそれは、ツッヒルやマムほどの違いではない。
我々が標記法を覚えて、共通のテキストを持ちうることは、我々のアイデンティティを高めるには必要なことであり、よいことだと思う。キチェはトトニカパ
ンだけでなく、キチェでも話されている。キチェ語を話すリゴベルタ・メンチュウは、私と同じ姓だが、もとは同じ家族の幹(tronco)をもっていたのだ
ろう。
・プランテーション労働について
自分はプランテーション労働に従事したことはない。しかし、自分の兄弟は働いたことがある。私の父は商人で、父について海岸地帯のプランテーションに行
商に出かけたことがあるが、労働者の生活は悲惨なものだ。カポラル(彼の意味では現場監督)が過酷に労働を強要する。複数の家族が同じ屋根の下で暮らさね
ばならない。女の場合はさらに悲惨で給金も安く、また子供が病気になっても与える薬すらない。多くの子供たちがプランテーションで死んでいった。
・ノルテで働くこと
ノルテで働くことは、悪い側面と良い側面がある。悪いこととは、家族が離れ離れになって暮らすことだ。おまけに、向こうで別の女を得てグアテマラに残し
た家族と永遠に連絡が途絶えることがある。しかし、それはそのうちの一部だろう。多くの人は、向こうで職業を得て、さらに幸運な者は、家族を連れて戻りに
くる者もいる。この現在のATIの事務所の所有者(dueno)もアメリカに住んでいる。
・人種差別
先住民どうしが、それぞれ違いを認識して、グループの間で優劣についての考え方があるが、それは人種主義とは言えない。グアテマラにおける人種主義と
は、我々(nodsotoros)と彼ら(ellos)の間にある——彼らとはladiosのことか?(池田):そうだ。彼らは、現在にいたっても、我々
に対してlos indiosという侮蔑的表現を使って、見下した態度をとる者がいる。人種主義はグアテマラでは解消していないのだ。
グアテマラの政治的状況について
Con Profesor Manuel de Jesus Poroj,48anos,Momostenango. con la feche 29
de julio, 1999.
[インタビューの概要]
フィエスタ・ティトゥラールの最中の7月29日(木)にモモステナンゴを再訪して、カハプ・ノホ(kaj'p
Noj)学校の校長ドン・マヌエルの自宅を訪問したが不在だった。彼は午前中、家族と共に墓場に行っていて、帰りにドン・ボニファシオの店の前をちょうど
通ったところで、私と偶然出会ったのだった。彼はちょうど髭を伸ばしていて、私と出会った時に、最初誰か思い出せなかった。自宅に来るかと質問され、その
誘いに応じた。
午後1時から昼食をはさんで午後4時半まで、途中SUNYの人類学の博士課程のJinsook
Choi(1969-)が午後3時ごろ訪問した前後の、大きく分けて2つの語りがあった。前半は、マヌエルと私の2人での議論、後半は奥さんを交えて、
Jinsookと4人での議論——彼女はフィールドノートをとりながら話を聞いていた——である。内容的には、ほとんど変わりはないが、前半は彼の関心に
引きつけた個人談が全面に出ていたのに対して、後半はマヌエルは個人的経験を語るよりも、より客観的な話に焦点があり、個人的経験はむしろ奥さんのほうが
よく語っていたような気がする。奥さんは後半は食器を片づけて、議論に全面的に参加はしなかったが。
[内容]
・グアテマラのゲリラの歴史
(マヌエルによると)1980ー82年当初、ORPAはソロラを中心に活動をおこなっていた。特にサンティアゴ・アティトランにはゲリラの本部があっ
た。ORPAは、モモステナンゴにもゲリラのリクルートにやってきて、マヌエル自身もそのゲリラ活動に参加した。彼によると、たとえば2名のラディノがい
ると8名のインディヘナがいるぐらいの人員構成だった。ゲリラは、それぞれの村々を回って情宣活動をおこなったが、インディヘナのゲリラは、すべての村々
を隈無く知悉しており精力的に動きまわった。しかし、ラディノのゲリラは土地の情報については精通していなかったにも係わらず、インディヘナに対して常に
指導者として振る舞おうとしたので、インディヘナの間には常に不満があったという。
OPRAは1982年に解散した。それと前後して、EGP、PGT、FARが結成された。EGPは、キチェやウェウェテナンゴなどの高地地帯を活動の根
拠にしたが、彼らはラディノとインディヘナを一切区別することはしなかった(とマヌエルは指摘する)。つまりORPAのようなラディノ優越主義というのは
みられなかった、と指摘する。それに対して、PGTは都市のインテリ層を中心に結成されて、先住民に対してあまり関心をもたなかったと分析する。FARは
東部のラディノを中心として、こちらにはほとんど活動がなかった。
モモステナンゴは伝統的に軍人を輩出し、現在では高位の軍人も多くおり、それがゲリラが十分な進展を計ることができなかった理由である——同時に軍隊に
よるテロリズムもまた回避することができた。
・ゲリラとカトリック教会
マヌエルによると、カトリック教会は最初からゲリラに対しては好意的だったという。あるいは、モモステナンゴのカトリック教会はほとんどORPAの拠点
だったという[これについては要チェックのこと]。総じて、カトリック教会は、もともとは政府よりも先住民や貧民を擁護する立場を全面に出しており——マ
ヌエルや彼の奥さんは証拠としてヘラルディ司教はほとんどゲリラの立場つまり伝統的なカトリックの立場をとったから殺されたと主張する——長い間の軍事政
権の中で徐々にゲリラ擁護の立場から徐々にゲリラと距離を置くようになり、現在では中立の立場を表明するようになったという。この中立の態度が、エヴァン
ヘリコの跋扈を結果的に容認したのだという。
カトリックがゲリラの立場に近かったという論拠として1975年(時期は確認のこと)にゲリラにシンパシーをもつ[とマヌエルは解説する]カトリック司
教が誘拐失踪した事件の際に全国のカトリック教徒は、その無事を祈るために国民的な安全の祈りのキャンペーンを実施したという。ちょうどマヌエルは、その
時シェーラのラサール校(カトリックのエリート校)に通学しており、彼もまたその祈りのキャンペーンに参加したことを覚えているという。
(池田註:1954年の反革命によって地歩を築いたカトリック勢力は「反共」という共通の政治的目標があったから各地で協同組合を組織する活動——それ
はUSAIDからも資金援助を通しての——が可能になったというのは、正統的歴史解釈と思われるのだが、マヌエルのこの解釈はかなり独自のものである。後
に触れる軍部の陰謀説と共に。しかし共同性や一体性を強調するのが共産主義だと彼の眼に写っているとすれば、この推論はあながち荒唐無稽なものとは思われ
ない)。
・国際世論の操作と軍部のリアクション
1980年代以降、ゲリラたちはラテンアメリカの左翼の協力をもって、軍部の非人道的な犯罪行為を全世界に伝えることができ、国際的世論がグアテマラ政
府を批判するように仕向けることができた。グアテマラの軍隊が、これに対して単純に非難を受けるがままにしていたとは考えがたい、というのがマヌエル説で
ある。ヘラルディ司教がリーダーシップをとった真実の究明の委員会の報告書によれば、殺害や誘拐の80%が軍隊のもの、15%がゲリラのもの、残りの5%
が不明となっている。80年代以降の、ほとんど動機の不明の殺害や誘拐失踪事件の原因は、軍隊が国際的な非難をかわし、治安が未だに不安定で、人々は治安
をの安定を求めているという世論を作り出すために、軍隊が未だに続けている情報戦略だという。チマルテナンゴで先日おこったマヤ司祭の殺害も、軍隊とプロ
テスタント(エヴァンヘリコ)勢力による陰謀のひとつだとマヌエルは指摘する。
グアテマラの国民的統合を妨げているのは、軍隊とエヴァンヘリコだという。その生きている証拠は、リオス・モントの存在そのものだという(彼はエヴァン
ヘリコel
regreso?派、で将軍)。したがって、マヌエルの解釈によると、グアテマラの一部の村落でリオス・モントは「救世主」という風評が立つのは、軍部に
よるさまざまな心理的工作(社会不安を煽って、軍部による秩序の維持に人々の期待を向かわしめる)の結果ということになる。
彼の陰謀説は、5月の国民投票(consulta)における政府の態度の分析にも及ぶ。つまり、国際世論に屈して、先住民の言語や文化的権利を国民投票
で決めることは決めたが、政府は国民投票で国民の合意を得るような活動を一切しなかった。幸いモモステナンゴでは、合意が過半数を占めたが(se
gano'
"si'")それは教師たちが、各地を回って国民投票の意義を説いてまわったからであり(選挙活動と同様に)多額のお金がかかったという。政府は、国民に
提案した以上、多くの人たちから合意を得るべきであったのだが、軍部に配慮して提案のみしただけで、一切合意をえようと努力しなかった。
・協同組合とテロリズム
歴代の政権や大統領は、ある時期には、協同組合や普及員を積極的に養成しながら、次の政権の時期には彼らを「共産主義者」と見なして誘拐殺害を続けてき
たという。例えばルカス・ガルシア将軍の時代は、その前の政権のもとで育成されてきた組合や普及員が多く殺された。やがてリオス・モントの時代には再び組
合などが政府の指導で作られたが、その後のオスカル・メヒア・ビクトーレス将軍(Oscar Mejia Victores,agost
1984-)の時代にはパージされた(殺された?)、次のビニシオ・セレソ(Vinicio
Cerezo,1986-1990)の時代には、再び養成が始まったが、次の政権のホルヘ・セラノ・エリアス(Jorge Serrano
Elias,1991-1993)では、それらのプログラムはことごとく破壊された。(池田註:セラノは自作自演のクーデタが失敗し、結局Ramiro
de Leon
Carpioが大統領に選出される。この時期の1994-6の国会議長にリオス・モントが選出される。1995年の選挙はFRGのAlfonso
PortilloとPANのAlvaro Arzuの一騎討ちで後者が勝利している)。
・先住民アイデンティティの歴史
マヌエルの奥さんによると「未だに先住民のアイデンティティが確立されたことはない(=我々は先住民のアイデンティティというものが一体どのようなもの
であるのか、未だに明らかになっていない)」という。
マヌエルは解説する。フスト・バリオスの独裁時代には、ある職業についている親をもつ子供はまた親と同じ職業に就かねばならないという封建的な法が存在
していた。これは職業の選択の自由を制限し、階級的な搾取を可能にさせるひとつの方法だったという。マヌエルのお祖母(お祖父さん)さんの時代にはホル
ヘ・ウビコだったが、この時代までは、身分証明書に「comerciante
ambrante」と書いてあれば、どこかで定着した場所を構えて商いをすることすらできなかった。しかし、1944年の革命によって、そのような職業の
身分制は廃止されて、彼のお祖母さん(お祖父さん?)は、かつて行商人であったがプエルト・バリオスに店舗を構えることが初めてできたという。
またバリオスの時代には、[グアテマラには先住民は存在しないという主張までなされた——1998年12月のマヌエルへのインタビューを参照のこと]多
くのインディヘナが名字を変えた。また1950年代の改革の時代にも名字を変える動きがあった。1970年代には、インディヘナ風の名前すら変える者もい
た。名前を変える理由は、インディヘナに対する差別に由来する。
マヌエルの奥さんの曾祖父はメキシコからやってきてモモステナンゴの先住民の曾祖母と結婚してここに住んだという。彼女の母親はインディヘナに対する差
別ゆえに伝統的なウィピルを着ることを辞めてしまい、彼女もそのように育った。そのため彼女はずっとラディノの衣装を着ている——このあたりの表現は難し
い。というのは彼女はしばしばJinsookの質問に答えて「インディヘナは自分のアイデンティティを未だ持ったことがない」と言いきり、伝統的な祭礼や
カトリックの信仰が先住民の「アイデンティティ」を表象するもの、あるいは一部を構成するものと(研究者が捉えるような)理解をしていないからである。し
かし、この主張は重要である。
ラ・ファージ「マヤ民族学」ノート
[出典]
La Farge, Oliver., Etonologia Maya: Secuencia de las culturas.
Guatemala: Universidad de San Carlos de Guatemala.1975.
(original title)"Maya ethnology: the sequence of cultures" in "The Maya
and their neighbors", New York:D.Appleton Century.1940.
・ラ・ファージはクチュマタン高地のマヤ先住民の歴史(征服から1940年まで)を5つの時期に分ける(pp.16-17)。
I. 征服期(Conquista)
1524年[註:Gonzalo de Alvaradoの侵略開始時期か]から1600年以前で、暴力の時期でそれまでの先住民文化が分解した時期。
II. 植民期(Indigena Colinial)
征服の完了期から1720年までの時期で、この年にエンコミエンダ制が廃止された。マヤの文化は、この時期に破壊され、変形を受け、そして大きく変化し
た。
III.最初の移行(Primera Transicion)
1720年から1800年頃まで。スペインによる支配は緩やかになり、先住民文化が復興すると同時に、双方の文化が総合(integracion)され
るようになる。
IV.近代先住民第I期(Indigena Reciente I)
1800年から1880年。この時期は1877年の土地法令によって先住民の共有地制度が廃止されることによって終わる。つまり国家による先住民族への
介入が始まる。
V.近代先住民第II期(Indigena Reciente II)
1880年移行から著者が論文を書いた1940年まで。ヒスパノアメリカ文化が先住民の生活に浸透する時期であり、変化の地域差が徐々に生じてくる時期
である。しかし、その変化の速度は緩やかであり、先住民文化は維持されている。
・1720年にエンコミエンダ制とレパルティミエントはスペイン王室自らによって廃止された。しかし、土地によっては負債を返済するための賦役労働制度は
形を変えて存続していた。さらにマンダミエントという形で強制労働は復活し18世紀を通してそれは続いた。
・1821年の独立以降、中米政府はメキシコとの紛争状態が続いており、さらにクチュマタン高地では、中央政府に服従しない反逆者たちがおり、これが結果
的に中米連邦政府にとって政治的脅威となっていた(p.7)。
・1877年ルフィノ・バリオス(J. Rufino
Barrios)は、大統領令を発して、共同体による共有地を廃止することを定めた(Directo nu'mero 170,
Recopilacion de Leyes Agracias,1890, pp.90-93.)(pp.4-5)。
・同じ頃(ca.1877)、ルフィノ・バリオス大統領は、マンダミエントmandamientoを発して、先住民を一定の期間労働に従事することを定め
る。このマンダミエントは、1894年には、ハビリタシオンhabilitacionあるいは賦役労働(peonaje de
deuda)の形をとって継続し、1934年に廃止されるまで続いた(p.5)。
・19世紀末になって、クチュマタン高原の村村(aldea y caceri'a)にラディーノが住みつくようになる。
・クチュマタン高原では、19世紀末のこの頃に、先の賦役労働に対する不満から反逆行動が散発し、サンファン・イシュコイ(San Juan
Ixcoy)では流血をみた(→Recinos 1913:207, Saper 1898)。
・このような状況の中で、低地のサンタ・アナ・ウィスタ(Santa Ana
Huista)のような町ではラディーノ進出によって、マヤの伝統的な衣装や文化が次第に放棄され、ラディーノと区別がつかないようになっていった
(p.6)。
・19世紀後半にはカトリック司祭が高地にも配されるようになったが、異教的信仰は根強く残っていた。ヌーネス・デ・ラ・ベガ(Nu~nez de
la
Vega)やガージ(Gage)によると、迷信や異教的信仰に対して常に廃絶を試みる動きはあったが、政府の強力な後押しがないために、その試みは消失し
た(p.8)。
・ただし、キチェ地方に存在するようなマヤのカレンダーに基づく伝統的宗教司祭とその組織の力は、クチュマタン高地では比較的弱かった(p.9)。
ゴウバウド・カレーラ「近代国家文化に対する先住民の適応」
[出典]Antonio Goubaud Carrera, Adaptacion del Indigena a la Cultura
moderna. in "Ensayos de Anthropologia Social", Seminario de Integracion
Social Guatemala, Guatemala: Tipografia Nacional, 1958,
pp.253-263.(ただし私が参照したのはUniversidad de Sancarlos,1970年版:著者は1951年の死去している)。
・ラ・ファージの第V期つまり1880年以降の特徴はつぎの5つにまとめられる(p.23)。
(1)コーヒーと砂糖黍の大幅な導入と、それによる先住民労働力への期待・依存が生じる。(2)先住民共有地の消失。(3)先住民・非先住民、都市・農村
を問わない国土全体に対する初等教育の普及。(4)先住民の社会的・文化的従属性の継続。(5)地方の共同体の自治あるいは自律性の消失。——コメント:
国民国家統合の過程は徴税ならびに初等教育の普及を通して行われ、それらの過程は結果的に地方共同体の自律性を弱体化させる作用があることは、常識的に考
えられることである。
【共有地の消失の社会的影響】
(1)コスタ労働移動の成立
協同労働の消失は、<労働力の私有化>(" la privatizacion de su propia
labor"——これは池田の造語)を促進し、これを貨幣に変えるためにコスタへの2カ月から半年にわたる労働移動が可能になった。
(2)先住民社会内部での不平等の成立
共有地が廃止され、土地の私有化が促進されると、経済的に優位な一部の先住民がより多くの土地を所有するようになる。
(3)労働・教育観の変化
土地所有概念の変化、初等教育の普及によって、都市に出て賃労働や専門職につくという職業選択の可能性が生じる——もちろん無条件ではない(池田)。
(4)ラディノの土地所有および経済的進出
先住民に慣習的に与えらえていた自治権が消失する——ラディノの町長が配されるようになるのはこの時期か?(池田)。さらに土地所有の自由化は、裕福な
先住民のみならずラディノにも先住民地帯への土地所有の可能性を広げる——よそ者に土地を売らないという慣習はこの頃の対抗的行動の名残りか(池田)。
・1945年の憲法に保証された先住民の権利に関する条項(Articulo 83.)
"Se declara de utilidad e interes macionales, el desarrollo de una
politica integral para el mejoramiento economico, social y cultural de
los grupos indigenas. A este efecto, pueden dictarse leyes, reglamentos
y disposiciones especiales para los grupos indigenas, contemplando sus
necesidades, condiciones, practicas, usos y costumbres."(p.25)
・1945年以降の社会の改革
(1)社会保障局(Instituto de Segridad Social)
先住民・非先住民を問わない、都市住民への医療保障制度。
(2)識字教育
Comision Nacional de Alfabetizacionが国家レベルでの識字教育を開始する。
(3)先住民局(Instito Indigenista Nacional)
インターアメリカン・インディヘニスタ研究所(Instituto Indigenista
Interamericano)との協力関係の中で、IINをグアテマラに設置する。その目的は以下のとうり。
" Su mision es idear los medios y formas de fomentar la actual politica
social nacional entre los grupos indigenas, pero al mismo tiempo trata
de evitar las caracteristicas traumaticas de las traansformaciones
sociales rapidas."(p.26)
(4)首長の自由選挙制
"Los votos rurales ganaron la eleccion y el alcarde indigena tomo
posesion del cargo, que ha desempenado durante dos
an~os[ca.1948?--Ikeda].Anteriormente, el cargo de alcarde siempre habia
sido desempen~ado por un indigena."(p.27)
・ゴウバウド・カレーラは1940年代後半の先住民族の国家への統合がスムースに進行していることを以下のように表現する。
"[E]l gobierno revolutionario fue la de eliminar la obligacion del
indigena de emigrar en busca de trabajo a las fincas de cafe y de
azucar. El indigena se ha adaptado en formas muy especificas a este
aspecto de la transformacion social."(p.28)
"1a., que el indigena se vera obligado a una adaptacion a la cultura
guatemalteca moderna, en una escala cada ves mayor de lo que ha
ocurrido en epocas anteriores de transformacion social, con la sola
excepcion de la Conquista; 2o., que existen differentes grados en la
rapidez con la ocurre la adaptacion a estos cambios; y 3a., que ahora
se estan eliminando las cargas economicas que anteriormente pesaban
sobre el indigena, y que la cultura nacional modernas, anque
lentamente, va reconociendo cada vez mas los valores
indigenas."(pp.30-1)
先住民族のラディノ化が、この当時(40年代後半)大きな障害もなく進行した理由は何であろうか?、またゴウバウド・カレーラは、その状況を中央のグア
テマラ市から見ていたから、そのように楽観的にラディノ化の状況を感じたのか。
カトリック教会神父ペドロ・シモン・M
Con Fray Pedro Simon Matias, 19990818, Todos Santos.
フライ・ペドロ・シモン・マティアスとは、98年8月18日に教会のオフィスで初めて出会う。
彼は、サンタ・エウラリア(Santa
Euraria)出身のカンホバル系先住民で、トドス・サントスに昨年の3?/5?月に赴任して、1年以上が経つという。サンタ・エウラリア出身なので、
オリバー・ラ・ファージ(Oliver La
Farge,人類学者)の民族誌のことについて言及すると、彼自身は面識がないし、ラ・ファージは故人となっているが、彼の民族誌には大変興味を示して、
トドス・サントスの教会の書架にも、その民族誌(CIRMAからスペイン語訳が出ている)を備えたいと言っていた。
フライ・ペドロによると、ラ・ファージはサンタ・エウラリアから、トドス・サントスを通ってアメリカ合衆国へ亡命したというふうなニュアンスで語ったの
で、私がビクトル・モンテホの名前を挙げ、混同しているのではないか?と確認したら、「彼は別の人類学者」と正しく指摘したので、それなりの知識の持ち主
なのだろう。
彼は、グアテマラ市のセミナリオで神父になる教育を受けたという。彼が教育を受けたのは、イエズス会(Jesuitas)修道院で、イエズス会はグアテ
マラでは、ラファエル・ランディバル大学(Universidad de Rafael
Landival)の母体になっているという。彼はもうひとつの大学フランシスコ・マロキン大学を経営する修道会の名前を教えてくれたが失念した(あるい
は、修道会と大学の関係は逆かも知れない)。
トドス・サントスには、メリノール教会の神父がいたが1979年を最後にトドス・サントスを去った。最後の神父はシカゴ出身で、1970ー79年まで
10年間神父を勤めたが、80年初頭にこの町を去ったという[※この時期はこの町の暴力の時代に突入する頃である]。フライ・ペドロは、その神父の名前を
教えてくれたが、私は失念した。
彼は神父である自称をする時に、パロコ(parroco:従持・主任司祭=cura)であると紹介した。彼によると、パロコは、トドス・サントスの人た
ちが神父を呼ぶ時に使う言葉で、サセルドーテ(sacerdote、僧・司祭)は、サンマルコス方面の低地のラディノたちが神父を呼ぶときにつかう言葉だ
と説明した。[※このあたりのニュアンスは私は未だに不案内である。]
私は今回初めて面識をもったが、彼がずいぶん昔ではあるがラ・ファージの仕事を評価するので、単刀直入にレノバシオン・カリスマティコ
(Renovacion Carismatico,
RCと略する)について聞いてみた。彼によると、RCは、カトリック宗教会議(...episcopal)でも、その活動が承認されている団体[ある種の
修道会]であり、それ自身が異端ではないそうだ。グアテマラでも2名のRCの司祭がいて、彼らはカトリック教会の立派な一員として認められている。RCは
トドス・サントスでは、一部のアルデアでその活動が知られている。フライ・ペドロの語り口では、彼は最初はRCがカトリック教会によって公認されており、
同僚として何の問題も無いかのように語っていたが、やがて次のような違和感があると説明するようになった。つまり、RCのメンバーにはしばしば閉鎖的で自
尊心が強く認められる傾向があるという。これは、彼のいうところの、カトリック教会は、すべての大衆に認められ、またすべての大衆のためにあるという教会
の位置づけに抵触するという。また、カトリック教会では幼児洗礼の費用は5ケッツアルを徴収するが、RCの司祭は、おなじ洗礼をその10倍の50ケッツア
ルとし、その収入を自分たちの活動費用にあてているが、これは教会の公的な位置づけに反すると批判していた。
彼は、私にフアン・ヘラルディ大司教(Arzobispo; Monsen~or Juan Jose
Gerardi)についてどう思うかと質問した。私は、最大の人権擁護者の一人の殺害の真相究明に努力すべきだし、グアテマラでは、それを妨害しているの
は軍隊関係者にほかならないという自分の意見を表明した。フライ・ペドロは、アメリカ合衆国では、すでにヘラルディ大司教殺害に関与した最高責任者は当時
の国防大臣であることは明白であるということをすでに声明していると私に説明した。
暴力の時期に、トドス・サントスにおけるゲリラが関与した民衆の殺害についても、彼は知っており、そのことを憂慮していた——もっともゲリラがORPA
かEGPだったか?という区別の知識は持ち合わせていなかった。また、今般の大統領選挙について、新聞メディアと同様に、PANとFRGの2大勢力のどち
らかが勝つだろうと予測していた。私がリオス・モントの影響力を懸念すると、彼はリオス・モントはヴェルボ(Verbo)教会における最高の地位である元
老(anciano)の地位について、またその党は、アメリカから多くの金銭的援助を受けていると指摘した。
彼はまたトドス・サントスで司祭をやるからには、そこで話されている言語でミサが行われるべきだと主張した。彼はマム語を学ばねばならないとも言ってい
た。もっとも現在すでにマム語で説教をおこなっているというので、彼の言葉を翻訳するカテキスタがその説教の補佐を努めているのだろう。
彼のトドス・サントスのカトリック信徒に対する印象は、きわめて表面的な話しかしていないが、「とても人間的、とても素朴、とても正直」(muy
humano, muy simpre, muy
humilde)という感想を述べていた。私は、このコメントは最初、外交辞令的なものだろうと感じていたが、2度にわたって言及したので、彼の腹蔵と違
わないのかも知れない。
私がこの町のすべての宗教全般に興味があり機会をみて調査していると言い、カトリック、エバンヘリコと挙げたあと、言葉を濁していたら、彼自身が「コス
トゥンブレも」とフォローした。彼はこの町のカトリック教徒の慣習を尊重するといい、来る10月4日のサン・フランシスコの日にはミサを行うと言ってい
る。
レノバシオン・カリスマティコスのこと
Sobre La Renovacion Carismaticos
Con Tat Alverto Geronimo Carillo,34 an~os, Cacerio Osma, Todos Santos,
19990905.
[インタビューの概要]
アルベルト・ヘロニモ・カリージョ(Alverto Geronimo Carillo)は、Erias Hernandez y Angelina
Ramirezの家のお手伝い(sirvienta)であるコルネリアス(Corneria)の父親で、レノバシオン・カリスマティコスの説教師
(predicador)である。たまたま、エリアスの家でレノバシオンの話をしていたときに、コルネリアスが自分の父親はその宗派の説教師だと告げた。
彼女が週末に実家に帰ったときに、彼の父親に私がインタビューしたいと言っていたことを伝言してもらった。彼——最初ドミンゴという名前と勘違いしていた
が——アルベルトは、メルカード(plaza)にはリンゴを売りにプエブロに行商に来ていたので、水曜日(9/1)にコルネリアスに紹介してもらった。
彼らの家および教会(iglesia,capilla)はオスマという五十戸ほどの集落にある。1999年9月5日(日)に礼拝(culto)があると
いうので、オスマ集落を訪れた。オスマはパホンからさらにマッシュに向かって2キロほど歩いた尾根伝いに谷間に散在する住居群である。
日曜日の礼拝は8時から13時までと、アルベルトはインタビューで語っているが、コルネリアスは日曜日の正午に訪れればよいと言っており、他の礼拝の時
間は3時間程度なので、ひよっとしたら9時から正午ごろまでかも知れない。というわけで、私は礼拝の最後の1時間ほどに参加したのだろう。礼拝の様子は、
990905のフィールド・ノートに書いてある。
インタビューは礼拝が終わっておよそ40分後ぐらいたってすべての礼拝参加者が去った後におこなった。内容は同日付けのテープに録音してある。以下は、
その時とったメモに依拠したものである。
[インタビューの内容]
(1)生涯と改宗の過程
アルベルトは現在34歳、妻との間に6人の子供がいる。年長の娘18歳、その後娘、息子が3人続き、一番年少は6歳の娘である。
アルベルトの生年月日は1965年4月1日で、オスマに生まれる。学歴は小学校5年生まで。
彼がレノバシオンを信仰し、かつ説教をするようになったのは以下のような経緯による。
彼はJusto Geronimo CarilloとMatea Carillo
Pabloの間の9人兄弟姉妹の最後の子として生まれた。父親のドン・フストは文盲で学校というものを知らなかったし、兄弟姉妹の3人までは、学校にいか
なかった(推定するに現在45歳から上の世代にあたる)。
彼が14歳の時(ca.1979)に父親が聖書を手に入れてきて彼に与えた。父親は母親と教会で結婚するほどのしっかりしたカトリック教徒だったので、
アルベルトに聖書を読ませて、それに聞き入っていたという。父親は今から15年前(ca.1984)、母親は今から9年前(ca.1991)に共に病気で
亡くなったという。
そのようなことからアルベルトは聖書を読むことに親しみ、またカトリック教会の礼拝に参加した。3年後の17歳にはすでに教会のカテキスタ
(catequista 教理講釈者)になっていた。
彼はカトリック教会に通い9年間、カテキスタを続けていた。彼は聖書に親しみ、その教え(特に新約聖書)に精通した。ところが、カトリック教会には、し
ばしば酔っ払いが参会し、また教会を出れば酒を飲んで酔っ払い、タバコを吸う。アルベルトによると、酒を飲むことによって、抑制が外れて、タバコを吸いた
くなったり、他人を罵倒したくなったり、さまざまな悪い企みに手を染めるようになるので、諸悪の根源は飲酒にあるようだ。しかし、カテキスタ当時の彼もま
た飲酒に親しんでいたらしい。
彼が26歳の時(ca.1991)に、カリスマティコスの信者に誘われて、Porvenir?というアシエンダにある礼拝に呼ばれ、カリスマティコの説
教師と交流を深めるうちに、その教えを受け入れるようになった。つまり改宗して8年ほどのキャリアーがあるということになる。
(2)オスマでの布教状況
オスマの礼拝堂(capilla)は98年4月に完成し、8月11日にシェーラのカルロス神父がやってきて洗礼を始めとするミサをおこなった。
オスマの現在50世帯ほど(これは要確認のこと)ある家族のうち15家族がカリスマティコスの信仰を受け入れているという(そのまま受け入れればオスマ
の成人の3割ということになる)。残りの30数世帯はカトリックの信仰を続けており、エバンヘリコは1世帯(Iglesia de
Dios)のみという。
オスマでは、「指導者 diligente」と「説教師 predicador」がそれぞれ2名ずついる。指導者には、Isario Carillo
とSenovio Martinが、説教師にはAlverto German Carillo とEligio Carillo
Pabloがおり、イサイロとアルベルトは義兄弟(cun~ados)にあたるという。
礼拝は、土曜日の午後6時から9時まで、日曜日は8時から13時まで、水曜日は午後6時から9時まで、おこなうという。
(3)トドス・サントス全体での布教状況
ファン・パブロから以前聞いたように、セントロ(Cabecera
municipalのこと)では、多くのカリスマティコスがいたが(アルベルトもオスマで熱心に活動を開始する数年以上前の時代にはトドス・サントスのプ
エブロでの礼拝に参加していた可能性がある)、最終的に多くの者がシナイ山教会(Iglesia de Monte
Sinai)に改宗したという。この改宗離脱グループ以外に現在までカリスマティコスの同じ信仰を続けているものは、プエブロには10家族ほどが残ってい
るという。
これ以外に先に述べたようにオスマでは15家族(familia)、Tzunulでは20家族、Valentonでは40家族、Tres
Crucesでは15家族、Tiogalでは20家族、Rio
Ochoでは25家族、Tuchicoxlajでは5家族が、カリスマティコスの信仰を受け入れているという。これを総計すると、150家族となり、世帯
の信者数を4名(配偶者と成人前の礼拝に意識的に参加することのできる子供を2名と想定)と仮定すると、600人ほどの信者がいることになる。
先に述べたように布教に中心的な役割を果たしている指導者と説教師たちは、月に1度、信者がいる集落をローテーションして集会をもつという、その際にカ
ルロス神父が来て洗礼を含むミサを執り行うことがある。カルロスが最後にトドス・サントスにやってきたのは今年の6月である。カルロス神父を呼ぶには、バ
レントンにいるドン・ラモンを介してシェーラの教会(カリスマティコスの[カトリック?]教会がシェーラにあるらしい)に要請する。
トドス・サントスのプエブロ(cabecera
municipal)においてはわずか10家族にまで減少したレノバシオンの信者であるが、アルベルトによると、その宗派の勢力を回復するさせるつもり
は、説教師たちの間にはないという。というのは、プエブロの人間は、より経済的活動に関心があり、布教のために人々を訪れてもまともにとりあってくれない
からだという——アルベルトは語らなかったが神父の常駐するカトリック教会とそのカテキスタたちの存在もまたプエブロに対する再布教をためらわせているの
だろう。だから、布教は今後は村落を中心に展開するだろうという——ただしマッシュへの布教については否定したが、これについての理由をアルベルトは明確
には指摘しなかった。
(4)洗礼の定義をめぐる問題
カリスマティコスは、成人洗礼を受け入れないというのが、エバンヘリコたちが彼らを批判するときに最もよく聞く特徴である。事実、彼らは成人洗礼をおこ
なう必要性はないと主張するが、それは「洗礼」を過小評価しているのではなく、逆に洗礼の精神を強調しているからである。
アルベルトが説明する洗礼の意味とは次のようなものである。<Efesios(エペソ)4>(新約聖書の章)の中に、ファンが川で洗礼を受けたが、それ
自体は彼にとって重要なことではなかった。重要なことは、その後キリストによる霊感——精神的な洗礼——を授かったということだ。また<Los
Hechos 1-2>(新約聖書の章)には、「聖霊による(火の)洗礼 bautismo de "fuego" Espiritos
Sentos」という文言があり、キリストによる霊感を受けることこそが、重要で、川で洗礼を受けることは、単に物理的に水を被ることで、それ自体は何ら
重要なことではないという。同様の指摘が、<San Marcos 4-7>にもあるという。
このような霊感は、礼拝中や夢の中で視認("la
vicio'n")されることがあるが、そのような経験をするか、しないかは、その人の運命("la
fe'")によるもので、経験できないことそれ自体は不幸なことではない。このあたりの指摘は、精神的な洗礼つまり霊感を強調する先の指摘と多少なりとも
矛盾するように思えるが、アルベルトの話を総合すると、信仰に自身を捧げることも、霊感のなせる技なのだから、直接的な霊経験が必須という訳ではないとい
うことなのだろう。
カリスマティコスが、エバンヘリコからの批判に反論するならば、後者の信者たちが、とても重要視する洗礼は物理的な洗礼に過ぎず、それを強調することは
意味のないことである、ということになろう。
アルベルトによれば、レノバシオン・カリスマティコスを2つの語義から説明する。つまりレノバシオンはそれまで存在しなかった新たなことであり、カリス
マティコスは神の霊感であり、霊感は熱い(calor)ものである——精神的な洗礼を火(fuego)と形容した先の説明を想起せよ。
(5)プエブロのカトリック教会との関係
カトリック教会は、レノバシオンをカトリック教会の統一を阻害する分派活動と見なしているようだ——少なくともアルベルトはそのように感じている。私は
彼に、現在のカトリック教会の神父ペドロと会ったことがあるか?、そして神父はどのようにコメントしたのか?と質問した。アルベルトは、ペドロ神父と会っ
たときに、「現在おこなっている騒音(buya)をすべて放棄すれば、カトリック教会に復帰してもよい」という旨の返答をしたという。これは、アルベルト
たちにとっては受け入れ難いものだろう。したがって、アルベルトあるいは彼の娘のコルネリアスが、「カトリック教会は我々を受け入れてくれない」という実
感は決して外れてはいないと思われる。ただし、カリスマティコスが、なぜ日常の礼拝においては完全にエバンヘリコとみまごうばかりの様式を採用しているの
か?について、アルベルトは自覚的とは言えない——なぜなら、他のカリスマティコスのメンバーが以前から同じ礼拝をおこなっているからという意見の他に何
が見つけられるだろうか。
(6)暴力の時代の頃
1981年の頃、プエブロで行われていた暴力についての情報はすぐにオスマにも伝わっていた。とくにエル・ランチョにおける軍隊の民家への放火と住民の
殺害事件以降は、周辺の村落民もまた、山中に逃げ隠れたり、より遠方の村へ避難した。アルベルトは当時14ー5歳だったが、家族はリオ・オーチョへと移動
した。しかし、軍隊は100人規模の遠征隊を組んでリオ・オーチョにもやってきた。軍隊は住民に対して「今何をしているのだ?」「連中が最後にやってきた
のはいつか?」などと質問したが、人々は「何もしていない」「知らない」「言葉がよく分からない」などと恐れながら答えるしかすべがなかったという。
(7)オスマの経済状況
オスマはリンゴの産地である。リンゴには2種類の樹木があり、以前は小さい果実をつけるものが主だったが、現在は大きな果実をつけるものに代わった。リ
ンゴを最初に栽培するようになったのは、アルベルトのお祖父さんの世代からで、年代に換算すれば、かれこれ30年以上前からになる(ca.1960年代後
半)。
現在では伝統的なトウモロコシ、フリーホーレス、ジャガイモの他に、ブロッコリーの栽培がさかんになってきた。ブロッコリーはNOPSEと
NECTAREの2つの会社が、住民に対して種や肥料を配り、収穫期に再びやってきて、収穫量に応じて換金して作物を町外に運び出すという。ブロッコリー
の生産には小規模の灌漑設備(miniriego)が必要となる——つまり契約農家になるには、自己投資が必要となる。
50世帯ほどがあると想定されるオスマには、現在アメリカに労働移民として渡米している若者が7名ほどがいるという。もし、50世帯が妥当な数字だとす
れば、14%の家族が、渡米に伴う付加的な収入を得ていると想定される。
●トドス・サントスにおける経済の変化と人々のハビトゥスに関する覚書(19990815)
[98年学会における発表]:「グアテマラ西部高地先住民共同体における開発と文化——エスニック観光・移民労働・アイデンティティ」
人々の経済活動に関するさまざまな言説の中にこめられた自画像に焦点をあて、人々が社会と経済発展についてどのように語っているのかについて、いくつか
の事例を検討しながら考察した。
【仮説】
共同体に関する自己意識は、開発援助や民族観光の発展を通して促進されてきた。
【理論的前提】
共同体に関する彼らの自己意識が、彼らの日常生活の観察、お喋り、質疑応答を通して把握されうるという、理論的根拠とは何か——(a)。
具体的な開発援助や民族観光の発展が、自己意識を形成する回路に具体的に影響を与えるさまを「具体的に」発見できるような、理論的根拠があるか——
(b)。
[問題点]
ミルパの論理(milpa
logic)は、閉鎖的な共同体の富の生産の論理ではなく、その時代・そのシステムにおけるもっとも効率的な富の生産のシステムの論理だということであ
る。
暴力の時代以前が外部の資本制に節合されていなく、以後は節合されるようになったという単純な論理を振り回さないようにする。節合の度合いが強化され、
またそれは単に量の変化ではなく、質の変化を引き起こしているということである。
——パナハチェル?におけるコフラディア崩壊の原因に関するソル・タックスの説明
Cabecera
municipalにおける成年人口の増大が、cofradiaの仕事に従事する関心を低下させ、ひいてはそれが伝統的な信徒組織の構成論理(Annis
の用語に従えばmilpa logic)の崩壊につながった、という仮説。(See, Tax
1953:206)。この仮説に従うと、cofradiaが円滑に維持されるには、或る程度の限られた男性の人口規模が続かねばならない。タックスは、パ
ナハチェルとチチカステナンゴを比較して、人口の多い後者はコフラディアの役職に就く人とそうでない人の階層分化(具体的には貧富の差)を押し進めると考
える。それは、政治と経済が分かち難くむすびついたコフラディアの構造に起因するものであると(Tax 1953:207)。
●経済合理性に関する論争に係わる問題
(a)人々の行動が、経済効率と合理性のドグマに合致するから、その行動を「合理的」であると判断できるのか?
カルヴァン派のセクトの信者の労働に関する信念は資本主義の精神に合致しないが、その行動様式(=ハビトゥス)は初期産業資本主義における労働様式と酷
似する。
(b)人々がある種の生産様式が生み出す文化的行動(=ハビトゥス)に深くかかわるから、人々の信念体系が「合理的」になるのか?
この場合は、人々が抱く観念の論理が、人々のハビトゥスを説明するという現象が見られなければならないが、それは必ずしも(我々が定義するところの)
「合理性」を前提とするものではない。
●トドス・サントスの人口学的説明
[問題]
人口圧が伝統的システムを崩壊させる(先のソル・タックスの「小銭資本主義」の議論)か?、あるいは社会に対してある種の革新をもたらす(ボズラップ)
か?
[説明]
過剰人口つまり高い人口圧は、トドス・サントスでは1970年代初頭にはすでに社会問題化していた。高い人口圧は、イシュカン地域ならびに太平洋岸地域
への移民を生み出していた。
伝統システムを維持強化していたという現象としては、フィエスタの時期に帰還するという伝統的な観念と慣行は維持されていた。
他方、コフラディアやチマンの伝統的システムは、オーソドックスなカトリック教会の前で、個人儀礼として維持されるだけであって、70年代以前にすでに
実質的に「地下に潜って」いた。また、バーター経済や労働交換なども70年代初頭には衰退期にあった(→フォルトゥナート98年インタビュー参照)。
総じて、人口圧の昂進は、伝統的システムの崩壊をより促進させたと結論できる。
●人口圧による伝統的システムの崩壊が協同組合組織の結成に与えた影響
[総論]
「協同組合」のルーツは、キイ・ワレン(Kay Warren,The symbolism of
subordination)によると、カトリック教会=カトリック・アクション(Accion
Catorica)がグアテマラ先住民社会の共産化の防止と共同体の生活水準の向上のために積極的に取り入れた社会組織の手法である(歴史的には英国の
フェビアン主義に由来する)。
これは、カトリック・アクションと協同組合の組み合わせの運動は、結果的に先住民共同体に2つの対比的な社会的効果を生み出した。一つは国民国家への統
合とラディノ化の促進であり、他方は、村落民のアイデンティティを打ち固め、時には共産主義ゲリラ活動にも共感するような「民衆」意識の確立である
(Ricardo Falla, Quiche
reberde.参照)。そして、それらの共通点は、伝統的儀礼システムの崩壊を促進させ、先住民共同体に「新たな」アイデンティティの形成の機運をもた
らしたことである。
[トドス・サントスの場合]
協同組合は、現在まで続いている民芸品協同組合や比較的新しく組織された冷涼野菜を生産する農業協同組合などの他に、カトリック教会もかつて組織化を試
みたことがある(→コンピュータファイル/フィールドノート?「失われた協同組合」を参照)。
民芸品協同組合の場合、共同体の内部に向けて発せられた組合の思想は、労働交換に代表されるような共同体の友愛意識の復古と、資本主義の中で幸福を得る
ための協働的アイデンティティの模索の複合ともいえるものである。
また、民芸品協同組合は、民芸品を外部に移出・輸出する商業的活動の第一歩であり、先住民が先導する外部経済への接合の第一号であった。
●伝統的宗教システムの崩壊に関するカトリック教会の関与
[歴史的事実]
メリノール修道会の神父とカテキスタ達は、伝統的なコフラディア、チマンによる儀礼などを、急速に廃絶させ、それらの活動を個人的儀礼への転化あるいは
「地下活動化」(clandesinizacion)させることに成功した。
[疑問]
(a)伝統的システムは、それに対して独自に対抗手段をとることができなかったのか?
(b)それとも、一般に人々が知っているように神父とカテキスタたちが破壊させた以上に、すでに伝統的宗教システムを崩壊させるような別の社会現象がすで
に始まっていたのだろうか?
●暴力の時代以降における社会変化のエージェント
(I)空白の時期(82年以降の数年間)
空白=切断とする私の解釈とそれに対する批判(社会は連続する)に対するに対する再反論としては、「人間が常に文化の担い手であるという強い強迫観念が
あるために、社会組織を連続した事象として見てしまう傾向がある(教訓としてのE・リーチであり、社会を複数の弁別的特性だけで分類してしまうことの危険
性を指摘する——高地ビルマとR=B批判講義)、トドス・サントスの人たちは、空白の時期以降の社会を再編する際に、残されていた社会経験から断片を組み
合わせて、別の社会を組み上げた」のである。
(II)80年代後半
外国のエージェントとの接合の時代に、ネオリベラリズモのイデオロギーの注入。
(III)90年代以降
「社会を推進させ、個人を幸せにするには、金(=資本)が必要であり、金を儲け、資本を増殖させるチャンスは誰にも開かれている」という外部由来の思想
の定着——資本主義的競争原理の理解。
「トドス・サントスの人は伝統的に熱心な働き者であり、どこへ移民しても成功する」という比較的昔から伝えられてきた内部由来の思想の再確認——コスタ
への季節労働からアメリカ合衆国への不法移民。
「資本を増殖させるためには、外部とのエージェント(援助団体・外国人・観光客)との接触が不可欠」という、全く独自の思想の創造——民芸品産業ならび
に民族観光市場の恒常的昂進、PLEMプロジェクトの成功と教師に対する反発的暴動(98年初頭)。
3番目の新しい思想のエージェントしての教師の存在は、人々の羨望の的であると同時に、教師たちが常に権力と権益の鍵を握っている点で、非常に危険な存
在だ。FRGの町長候補のフリアン・メンドーサ・B(教師)ならびに選挙参謀(Secretaria
General)ホセ・カルモに対する支持と批判もそれに由来する。
したがって、論争のポイントは、経済資本と教育資本に関して、人々がどのように考えているかに絞られる。
学校教育の発展
Con Jose Ramirez, 19990811, Todos Santos.
グアテマラの学校教育は小学校(primaria)6年、基盤教育学校=部門(basico)3年、多様化教育学校=部門
(diversificado)3年、そして高等師範学校(superior)3(2?)年の15年教育か、大学4年の16年教育である。学校へやる両親
は、都市学校(escuela
urbana)では年々増加しているが、ランチョでは、まだまだ学校へ子供をやろうとする両親が少ない——それについては後述しよう。初等教育の計画は、
PRONADE(Programa Nacional de Educacion)による。
また、就学してもなかなか進級せず落第する子供が多い。ランチョでは360名の在校生がいるいたい80名ほどが入学してくるが、6年生まで進級して卒業
するものは10名ほどだ。上級の学校に進んでも進学率は同様に悪い。ここで仮に50名の小学校卒業生がいるとすれば、そのうち半数25名が基盤教育へ進
む、そしてそのうち10名ほどが多様化教育へ進む、そしてさらにそのうちの5名ほどが大学へ進学する。しかし、大学で学士をとれるものはわずか1名ほどだ
ろう。
1970年になるまでトドス・サントス出身のインディヘナの教師は一人もいなかった。1971年になって初めてフォルトゥナートが師範学校を卒業して、
トドス・サントス最初のインディヘナ教師となった。翌年にはベニートとアンドレス(彼は癌で後年に死亡)が、卒業し、その後毎年1人づつ程度卒業し、
1980年には7名近くのインディヘナ教師がいた。80年代の中ごろにはその倍の十数名が、90年初頭には30数名が、90年代中ごろにはおよそ60数名
の、そして現在(1999年)では、100名ほどのインディヘナ教師が教えている。
最近目覚ましいのは女子生徒の増加である。昔は、小学校に進学する女子生徒は少数だったが、今では
1980年代初頭のトドス・サントスとホセ・ラミレス
Con Jose Ramirez, 19990810, Todos Santos.
[暴力の話]
ホセによるとトドス・サントスではとてもたくさんの人がラ・ビオレンシアの時期に殺された。トドス・サントスにおける暴力の特徴は、軍隊だけでなく、ゲ
リラもまた多くの人たちを殺したということだ。
彼の推定だと四百人から五百人は殺されたのではないか言うが、トドス・サントスにおける正式な統計は、彼の知るところ全く刊行もされていないし、また記
録もとられていない。ホセは、彼の親族ではおじさんが2人も殺されているし、また、彼はプロジェクトの近所に住んでいるドン・フエリックス以下、町のメイ
ンストリートに住む家族の名前を一件一件あげてゆき、このような調子でプエブロ全体に広げてゆけば、先のような推定でも決して多くないと主張する。
ゲリラによる殺害の例として、次のようなものがある。身内の弟が徴兵され兵隊になった姉を暗殺する。また、一家のうち、兵隊に連れ去られなかった家族の
メンバーの一人が殺される。ゲリラは一般に軍隊が一時駐屯し引き上げた後に、夜間に戻ってきては、軍隊の協力者を思しき人間の家を襲って、拉致し野外で殺
したというものである。
軍隊のやり方は、拉致した後、査問し(ほとんどおこなっていないという意見もある)拷問した後、殺すというものが多い。
軍隊もゲリラもこの町の人を殺すというもっともよく知られた典型例は次のようなものだ。まず、この町の教師を含む男性3名、女性2名が、軍隊に拘束され
ていった。男性3名はサン・ファン方面まで連れて行かれながら、残虐な拷問を受けつつ殺された。しかし、女性2名はその後、解放された。軍隊が去った後ほ
どなくしてゲリラがやってきて、解放された女性2名を夜間に連れさって、翌朝無残な方法——体中にマチェーテあるいは刃物で切り刻んだ後があった——で殺
されて道路の脇に死体が放置されていた。死体のあった家の軒先には次のような書き置きがなされてあった。「誰もこの死体を動かしてはならぬ(Nadie
puede recoger
cada'veras)」。そのために人々は恐れて死体を片づけず、野犬が死体を貪ることになった。[註:この話のアウトラインはホセから聞いていたが、
より詳細な状況はブラディミロのレクチャーより再構成している。19990811のフィールドノート参照のこと]。
[メキシコへの出稼ぎ]
ホセ・ラミレスは1982年初頭からメキシコに出稼ぎに行っている(22-3歳の頃か)。最初はコミタンの二級の安ホテル(Hotel
Morales)の掃除夫で、最初の1カ月は食事だけで給料は出なかった。ホテルのオーナーの「どこから来たのか?」という質問にはメキシコ領内のグアテ
マラに接した町であるパソ・オンダ(Paso
Honda)の名前を挙げておいた。出される食事も僅かで、満足のいくものではなかった。給料が出るようになって、仕事は掃除夫から夜勤のフロント係兼軽
作業の掃除係になった。しかし、仕事もきつく給料も安いので2カ月で辞めて、今度は国境の町タパチューラに出た。
タパチューラでは、建築作業の仕事に従事した。しかし、タパチューラの気候は暑く、トドス・サントスで育ったホセには辛かった。また建築作業の仕事、特
に左官に従事したが、仕事そのものがあまりなかった。また食事もあまりよくなかった。タパチューラでは2カ月仕事をして、次にメキシコ・シティーに出て
いった。
メキシコ・シティーでは、仕事が豊富にあった。彼は同じく建築現場で左官の仕事をおこなった。ここでは、特に昼飯が豪華で、トルティージャの他にフリー
ホーレスも米も、そして炭酸飲料も豊富に出てきた。しかし、左官の親方でさえ、夜の食事は僅かしか食べないので、ホセは彼らは本当は貧しいのではないかと
訝った[※メキシコの食習慣では昼食を時間をかけ豊富にとり、夜は軽食で済ます]。メキシコ・シティーでの生活は満足していたが、1982年のクリスマス
を前に、トドス・サントスに帰りたくなり、3カ月働いたシティーを後にしてトドス・サントスに帰還した。
彼の発言によると、総計7カ月間トドス・サントスを留守にしたことになる。
[地元での徴兵訓練]
1983年当時、トドス・サントスの200名の18歳から30歳までの男たちが召集されて、毎週日曜日に朝の7時から夜の7時まで軍事教練が施された。
教練の中には銃の取り扱い方や射撃訓練などが含まれホセ・ラミレスも参加させられた。
男女の古典的性的役割とそれに対する批判的視点
Con Jose Ramirez, 990809, en Todos Santos.
ホセ・ラミレスは、「我々人間と鼠」という説話をした。以下は彼による説話の内容とそれに対するコメントである。
[説話の内容の要約]
子供が生まれたとき、そこの家に住む鼠は喜んだり悲しんだりする。つまり、男の子が生まれたとき、子供が畑で働くようになりより多くのトウモロコシの収
穫を家にもたらすために、そのおこぼれに与(あずか)る鼠は小躍りして喜ぶ。他方、女の子が生まれたとき、彼女は焼き上げたトルティージャに保温と汚れを
防ぐために布で覆いをかけ、台所をきれいに掃除して、鼠が食べるようなものがなくなくために、鼠たちは嘆き悲しむ。
[説話]
(マム語)
Qe xjal i'ch'
Uj nala jun xuj nim nche b'isin qe i'ch'. B'ix at maj nim chitzalin qe
i'ch'.Qa ma tz'itz' jun k'wal xinak nim che b'ixin, b'ix nim che tze'n.
Ch'iqa, jala ma tz'itz' jun xinak k'wel nim tkon tzul nim axi'n tuj
tja, b'ix tzul nim qwa'. Qa ma tz'itz' jun txin xuj nim che b'isin b'ix
nim chq'oq' qe i'ch'. Chi'qa, jala ma tz'itz' jun xuj k'wel tpotzin twa
b'ix jaka q'ij kjawal ti'n tz'is tuj tja qo chmel tu'n we'yaj.
(スペイン語)
Cuando nace ni~no, le da tristeza a los ratones y otras veces mucho
alegria. Cuando nace un hombre varon las ratones bailan y alegrian
mucho. Dicen, "hoy ha nacido un hombre hara mucho milpa vendra mucho
maiz en su casa y vendra nuestro comida". Cuando nace la nin~a se pone
triste y lloran mucho los ratones. Dicen, "hoy ha nacido una nin~a
tapara su tortilla y cada dia limpiera la cocina y nosotros morimos de
hambre".
[ホセのコメント]
これは昔の人たちの言い伝えである。つまり、男は畑で勤勉に働き、女は家でこまめに家事を司るということだ。しかし、これは現在では多少なりとも差別的
(de
discriminacion)な表現になってしまった。というのは、現在では社会に進出する女性も多くなり、家事を手助けする男も増えてきたからだ。
ラディノとインディヘナの差別の起源に関する説話
Con Jose Ramirez, 19990809.
[背景]
先住民とラディノを区別する言説は、トドス・サントスでも無数にある。以下に述べるのは、そのエピソードのひとつである。このような説話が、人々の日常
生活の中でイデオロギー的機能を発揮しているとは到底考えられないが、ラディノとインディヘナの経済的な格差の起源やその理由を、何らかの形で説明するも
のであるので、以下に述べる。
[説話の内容]
昔、ラディノの男(xin mos)とインディヘナの男(xin qoy, xin maya)が、ある日のこと豊かさの神様(tawa pwaq,
tawa
q'uinamal)から呼ばれた。その神様は、2つの木の箱を見せた。その一つは光輝くきれいな箱で、もう一つは苔が生えたぼろぼろの古い箱だった。神
様は、インディヘナの男に対して「お前が先に一つだけ持って帰る権利を先に授けよう」と述べた。インディヘナの男は光り輝く箱をもって帰ることにした。ラ
ディノの男は、古い箱を仕方なくもって帰ることにした。さて、それぞれに住むところに戻ってきたときに、インディヘナは仲間が期待する中で箱を開けてみる
ことにした。彼らは輝く箱だからきっと何かよいものがあるはずだと確信していたが、中には何もなかった。
他方、古い箱をもって帰ったラディノは、仲間のいる前で期待することもなく箱を開けてみたところ、光輝く黄金がそこには入っていた。
[説話原文]
(マム語)
Jun q'ij o tzaj t-txkon tawa pwaq, jun xjal maya te Todos Santos b'ix
jun xjal mos te Guatemala. Tij chponxin tuj jun tx'otx' ochil kab'a
cajet, jun cajet b'an tche'nk ak'aj b'ix nim nqopapon b'ix jun cajet
q'anaq nim q'ux ti'j b'ix ochilxin nya b'an tche'nk.
O tzaj t'quma tawa pwaq mo tawa q'inamal lu bab'a cajet. Jay xjal maya
kyolila alche taja, xin xjal maya ok tachaxin jcajet b'an tchenk b'ix o
xi' t'in xin chuya txjal xin. Tij tponxin o jaw chjkonxin, minti' tku'x
tuj, tu'n tzunj, jala minti' chpwaq xjal kuma o chi tzpetxin ti'j cajet.
Xin xjal mos o xi' tin xin jun cajet q'anaq tij tponxin chuya txjalxin
nim b'is ti tanmaxin. B'ix tij tjaw chjkonxin at nim pwaq. Tuj tu'n
tzunj, jala at nim chq'inimal xin mos kuma otz'pet xin xjal maya.
(スペイン語訳)
Un dia llamo el duen~o de dinero, habia un hombre de Todos Santos y un
hombre de ladino de Guatemala. Cuuando ellos observaron(o vieron) a un
lugar, habia dos cajas, una caja buena era (o se ve) nuevo y muy
brillante, y otro caja negro(sucio?) con mucho musgo viejo y no se ve
buena.
El duen~o de dinero o duen~o de riquieza dijo sobre esas dos cajas. El
hombre maya hablo cual quiso, el encanto la caja que se ve bien y el
duen~o le dio al hombre maya. Cuando el hombre maya llego y abrio caja,
no habia nada, por eso hoy no hay dinero del hombre maya porque
ellos(=los hombres mayas) confundieron caja viejo.
El hombre ladino recibio una caja negro(o viejo) cuando el llego tenia
mucho tristeza en su corazon. Y cuando ellos abrieron la caja, habia
mucho dinero. Por eso hoy hay mucho riquieza con los hombres ladinos y
porque los hombres mayas confundieron.
[ホセ自身が説明する説話の意味]
ホセは、一応この物語の説話としての教訓を解説した。その中には、この登場人物たちが示唆する民族的差異と経済的落差の起源についての言及は一切なかっ
た。
ホセによると「古いものほどより価値がある」「あるいは外見がよいものは結局不幸を招くことがある」というものである。そのための例を彼は、「美しい女
はいろいろと問題を招く、他方美貌ではない女には内面でどこかに良いところがある」というふうに説明している。
[ホセの説明に関する注釈]
ホセの説明に民族的差異に関する説明がなくとも、インディヘナはどのような理由で貧乏になったのか、ラディノはなぜ資産をもつのかを、説話で説明してい
る。それは、インディヘナは目先のことを期待して行動して失敗し、ラディノはインディヘナの失敗(=犠牲)によって偶然に豊かさを手に入れた、つまり漁夫
の利を得ることに成功したということである。ラディノは彼ら自身の努力で豊かさを手にしたのではなく、インディヘナの失敗——もちろんその失敗には彼ら自
身の過失がないとは言えない——によって豊かになったのだという理解がそこにはある。
[池田の注釈]
この話は、ラディノとインディヘナの間の、G・M・フォスター流の限られた資源の奪い合いという物語としても解釈できるし、また、インディヘナが経済的
に従属的な地位にいる因果論としても解釈できる。
この説話の話者のホセは、我々インディヘナという表現を「トドス・サントスのマヤ民族」とし、彼らラディノという表現が「グアテマラのラディノ」として
いる。これは、1980年代以降のトドス・サントスにおける経済的に優位な立場をとり続けているインディヘナな、また90年代以降のマヤ民族という意識形
成以降の現代では、きわめて自然な置き換えに思われる。
かつてホセ・マルティネス(ラディノ)は、「トドス・サントスのナテュラーレス(=インディヘナ)はすべて我々から技術や職を奪っていった」と説明した
(98年調査)が、このような状況を勘案するに、ホセ・ラミーレスがラディノをグアテマラの彼らと表現したのは、90年代末の現在では完全に理に適ってい
る。
カトリック教会の誤り
Con Jose Ramirez,Todos Santos, 19990806.
・カトリック教会の神父が来るまで、トドス・サントスの人たちは子供を洗礼しなかった。最初スペイン人神父が来ていたが、それから以降はずっとアメリカ人
神父だった。
・人々はマヤの宗教つまりマヤ司祭(saserdote maya)の儀礼を、Chiman
tnomを長としておこなっていたが、アメリカ人神父[メリノール教会を指している]が来てから、カテキスタのグループを組織して、マヤの儀礼をとり除き
始めた。
・最初は教会にあったさまざまな聖人像をあつめて火をつけて燃やした。またチマンと人々の聖地であったトゥクマンチュン遺跡に介入して、Xoch(個人の
儀礼的シンボルとしての石——フィールドノート990804の「Chimanの教会組織」を参照)
※これを入力してから直後にトトニカパンに旅行したので、ホセ・ラミレスから聞いた話は99年8月6日の(1)から(6)までの項目に個条書きしてある。
グレゴリオの渡米
Con Gregorio Perez Mendoza, 990803.
[摘要]
グレゴリオの渡米については、1998年7月からトドス・サントスでフィールドワークを開始した時から聞いており、その8-9月のマリアニート(マリ
アーノ・ペレスとバシリアの息子)の洗礼の時に、パナハッチェルに住むドン・フランシスコ(カンデラリア?の夫)から、当時電話で渡米したグレゴリオと話
し、グレゴリオが米国の移民局に身柄を拘束された後に釈放され、わずかの許可(permiso)期間だけ働くことを許されただけなので、もうすぐ帰ると、
私は聞かされていたのであった。そのため、98年の暮れにトドス・サントスを再訪した際に、彼の家を訪れたときに、米国にまだ滞在中であったのを驚いたこ
とがある。
このように聞く範囲では、移民局による拘束は彼にとって受難かと私に思われていたが、99年7月31日にトドス・サントスで再会した時に、米国に対する
好印象を語っているのがとても気になった。しかし、以下に述べられる彼の渡米話によると、彼が米国に対して好印象をもった最大の理由は移民局による拘束期
間中の厚遇によるものであるという、皮肉な現実がよくわかる。
[内容]
彼がトドス・サントスを出発したのは、98年3月5日、La Mesillaの手前から、道を折れて国境に面した小さな町Gracias a
Dios(要確認)からメキシコに越境した。アメリカに旅立つ前は、多くのトドス・サントスの人たちが、山中には蛇、熊、虎など動物がおり危険だと言って
いたが、実際は山中を歩くだけで、動物などは出てこなかったという。トドス・サントスから一緒に旅立った道中は全部で17名いた。ソロマのコヨーテに支
払った費用は7千ケッツアル(当時は1ドル=6ケッツアル)、それ以外に5千ケッツアルを準備して持っていった。
コミタンの町に入るまでに1日、サン・クリトバルの町に入るまでは、1日半、ずっと山中を歩いてたどりついた(一般の道路はメキシコの移民局による車両
の取り調べがあるので、主要な道路を避けて彼らは移動する)。山の中では、コヨーテがそれぞれの集落でトルティージャや食べ物を売っている場所を知ってお
り、食物を調達してくれる。
サン・クリストバルでは宿屋に泊まり、移動はバスによったりトラックで移動したが、ほとんどはトラックと徒歩(主要な移民局のチェックポイントを越える
ため)で移動した。そのようにして、メキシコではおよそ20日間かかって国境のファーレスまで移動した。メキシコ国内で、一度、腕時計や金目のものを盗ま
れた(所持品を全部やられたのか一部なのか被害総額は不明)。
ニューメキシコに入ってすぐに、アメリカの移民局の係官にトドス・サントスから来た一行は一網打尽に捕まり、それぞれ各自取り調べを受けた。
複数のトドス・サントスの不法移民者が、取り調べ担当の係官から事情徴収を受けた。グレゴリオは、入国の目的を聞かれて「自分はアメリカで働きたい」と
述べた。取り調べ官は「君の行った行為はアメリカでは違法行為である」と述べたが、グレゴリオは「私はそれを知りませんでした」と答えた。係官は「君はど
こから来たのか?」グレゴリオ「グアテマラから来ました」。係官「グアテマラは内戦でまだ大変なのか?」グレゴリオ「いいえ、96年からは平和になりまし
た」と。答えている間に、他の取り調べを受けている仲間の返答を聞いていると、グアテマラはまだ政治的に危険な状態にありますと嘘の答えが聞こえてきた。
グレゴリオは、彼が後に移民局に身柄を拘束されても厚遇された理由を、自分が正直に移民局の係官に対して答えたことが幸いしたと回顧している。
さらに彼は別室に連れていかれた。そこでは不思議なことに("Era muy
extaran~o")グアテマラの大きな地図が貼ってあった。そこで係官は「君は読み書きができるのか」と質問し「少しなら読み書きできます」と答え
た。すると「では、グアテマラのどこから来たのか、この地図で示すことができるか?」と質問するので、「ウェウェテナンゴのトドス・サントスです。ここで
す」とウェウェテナンゴの場所を指し示すと、係官("Ese
cabro'n"=「この野郎」)はニヤニヤ笑って、再び別室へ連れていった。そこで全身にわたって健康診断を受けながら次のような質問を受け、そしてグ
レゴリオは答えた。「お前はタバコは吸うのか」——「吸いません」。「ビールは飲むのか」——「飲みません」。「マリファナやドラッグやったことがあるの
か」——「ありません」。
このようにして、トドス・サントスの一行17名のうち、5名はすぐにグアテマラに強制送還された。グレゴリオによると、これは正直者で身体壮健な者を移
民局が選別したと解釈している。
彼は7日間移民局に拘束されたが、その間に「君は弁護士をたてることができる。弁護士と話したいか?」と質問されたので、「そのようにしたい」と答えた
ら、弁護士がグレゴリオに接見して、米国での労働の意志を聞いてきたので、当然働きたいと述べると、弁護士はグレゴリオに「君はすぐにグアテマラに戻る必
要はない。滞在期間を延長できるように手配しよう」と答えた。結局30日間の滞在延長の許可をもらった。
グレゴリオによると、移民局の収容所はすばらしいところで「3度の食事、タオル、歯ブラシ、"Colgate"(=練り歯磨き)、衣服、など全部」を支
給してくれた。「メキシコの移民局では、持ち物を全部とられ、挙げ句の果てには殴られると聞いていたけど、アメリカの移民局の係官は、殴るどころか我々を
とても丁寧に取り扱った」。
ニューメキシコの収容施設を出て、弁護士に相談したら、「ニューメキシコには空港がないので、テキサスのエル・パソから飛行機にのって君の好きなところ
へ行けばよい」と行われた。ワシントン州のトドス・サントス出身の従兄弟に電話したら、シアトルまで来いと言われた。シアトルから3時間車で移動したとこ
ろにワシントン州シェルトンがあり、そこでトドス・サントス出身の多くの労働者が働いている。彼はそこで滞在中に、メキシコ人の牧師を紹介された。エルサ
ルバドル人の妻をもつこの牧師は、弁護士に電話してくれて、ワシントン州の移民局に係官と話してくれて1年間の滞在許可書(1999年7月29日まで)
——グアテマラ人労働者の間で「mica」と呼ばれている——を発行してくれた。micaの現物を見せてもらったが、ただ単に「Emproiment
Authorization」と書いて一年間の労働許可を記載してあるカードだった。
ワシントン州での労働やアメリカの印象は、グレゴリオに言わせると「最高だった」。彼の仕事は山のなかでla
brochaと呼ばれる草の葉を刈って出荷場に集めることだった。それ以外には、町の花壇を作ったり整理したりした。ブローチャの仕事は、朝4時に起きて
2時間かけて山まで出かけて6時から11時まで働くというもので、給料は日給の出来高払いで、一抱えのブローチャを摘み取ると35セント、50ドルから
70ドル程度稼いだ。彼が働いたところでは、50名近くのトドス・サントス出身の人がいて、そのうちの10名ほどが女性だった。シェルトンでは、ひとつの
大きな家を借りて(una
lenta)10名ほどが住んでいて、一月に(一人あたり?)80ドル支払っていた。彼はマネー・オーダーの小切手を切ってビセンタのところに手紙と共に
(グレゴリオは文字が書けるのでカセットではなく手紙を送っていた)送金していた。
滞在期間が切れる前に、モハードとして渡米に使った金取り返すばかりでなく、十分に金を稼いだので、帰国しようと決心した。飛行機の切符を買いに旅行代
理店にいってグアテマラ行きの切符のことを相談すると、パスポートを要求されたが、自分はグアテマラ人で、これ以外にはないとMICAの許可証を見せた
り、移民局へ問い合わせてくれたりして、切符が発行された。5月24日の夜にシアトルを発ち、ロサンゼルス経由のUA便(ちなみにグアテマラに直行する私
もこの便をよく使う)で25日の早朝にグアテマラ空港に到着した。
グアテマラの入国管理官は、パスポートの提出を求めたが、グレゴリオはグアテマラの住民証明書——ふつうは身柄を証明するものを一切持たずにモハードに
なるのに彼はこの証明書を携帯していたのは異例である——を係官に見せて「私はモハードで、この証明書(cedula)しか持っていない」と言うと、女性
の係官はさも困った様子で「さっさと行きなさい(vayase rapid,
apurese)」と通してくれた。また税関では、彼は一杯の荷物——テレビやビデオや靴などで——を持ち込もうとしていたが、係官に「自分の身の回りの
ジャンパーや靴、それに子供へのおもちゃのお土産だけですと」告げて、そこを通り抜けて無事帰国することができた。
[グレゴリオの将来計画]
・彼は来年の4月ごろ再びコヨーテを使って渡米し、ワシントン州で働ききたいと希望する。4月の渡米は、トウモロコシの植え付けなどが完了する時期を想定
しているというふうに語っていた。また、彼は儲けた金でピックアップのような自動車を帰国して買って、それを元手に商売したいという。自動車を購入して運
送業に従事するのは、彼によると一番効率のよい——需要もあるし確実に稼げる——手段であると言及する。
[設問19990802]
なぜリオス・モントが人々に受け入れらるのか?
[設問の背景]
人権問題に憂慮する多くの外国人は、現在の大統領選挙キャンペーンでFRGが優勢を保っているのか、いぶかる? というのは、リオス・モント将軍がクーデ
タをした後、失脚するまで内戦時にもっとも多くの犠牲者が出たことをよく知っているからである。これは、国連の調査団の報告書がでたり、またプレンサ・リ
ブレが特集を組んで、すでに国民にも情報が公に提供されている客観的に共有されている事実である。にもかかわらず、なぜ先住民農民層を中心に支持されてい
るのか?多くの外国人(私も含めて)はまったく明確な説明が求められない。
このような設問が出る背景には、グアテマラ人は国際的人権感覚に照らし合わせて「非合理的」である、ないしはグアテマラ人そのことには無知で無理解であ
る、という危惧を質問する人は、暗黙の設問の前提にもっている。しかし、なぜヒトラーは合法的に政権を奪取したのか?なぜフセインやミロシェビッチは国民
的英雄なのか?、という質問と同じように答えることがきわめて困難で、歴史上あるいは社会的文脈における一般的な「民衆」の無知に還元するほかは、「合理
的に」納得するすべがない。
そのような単純な反応以外に、別の回答があるとすれば、それは当の人々がなぜリオス・モントの党を支持するのか、その理由や分析を聞いてみるしかない。
[さまざまな解釈としての「回答」]
モモステナンゴの教師Mによれば、それは軍部の心理的な作戦が未だにつづいているということになる(→「政治と先住民」のファイル参照)。
トドス・サントスの教師たちは、リオス・モントのクーデタがルカス・ガルシア時代の軍隊によるさらに大量の殺戮を停止させてPAC(市民パトロール)に
よる秩序の回復を可能にさせたということをアピールする。教師たちが、リオス・モントの党の人気に乗じてトドス・サントスにおける政治的利権を誘導させよ
うという意図=真意があり、それがFRGへの表面的な支持を引き出しているのか?それとも党派への政治的忠誠があって、それゆえにこのような言説を弄して
いるのか?そのあたりは不明である。
ただし、FRGの支持者は、ゲリラに父親を殺害されたカルモ二兄弟(マルガリートとホセ)とフリアンという比較的若い世代であるのに対して、フォルトゥ
ナートはANN、さらにベニートの支持政党は不明で、現在予想されるのは、それに敵対する党派を支持しそうなので、ホルヘはもっと強烈なアナキスト的ゲリ
ラシンパサイザーである。つまり、ゲリラに関する実際的なコミットメントなどの度合いによって、トドス・サントスの教師がFRG支持と結論を出すのは性急
である。
[ホセ・カルモの意見]
彼は現在Secretaria Guneral de FRG, Sede de Todos
Santosである。8月6日に昼食に招かれた時に聞いた話が以下のようなものである。
(ホセの語り)
多くの外国人旅行者が、そして(ANNの候補者の可能性が高い)フォルトゥナートにも、私に「なぜ多くの教師たちが虐殺の責任者のリオス・モント率いる
FRGを支持するのか?」と聞く。私(=ホセ)はリオス・モントがどのようなことをしたのかよく知っている——君(=池田)には言うまでもないだろうを念
を押す。思い出してごらん、今まで多くの党派がトドス・サントスにやってきて、投票してくれたら、さまざまな利権をこの町にもたらすと約束して、実際はひ
とつも実現されたことがなかった。
インディヘナは長い間、彼ら党派(partido)によって搾取されてきた——私は「彼らとはラディノのことか?」と聞くと、ホセはそうだと言う。FRG
は今回の選挙で大統領が選出される可能性があるように思う。またフリアンも町長になる可能性は6割近くあると思う。FRGは、今回の選挙に関してたくさん
の資金的援助を我々に申し入れている。今までは先住民が党派によって搾取されてきたが、今度は我々が党派を搾取するよい機会だと、私は思っている。どうだ
Mitsu俺の考えは間違っているか?——「もし君が戦術的に党派から利益を引き出し、先住民のための利益誘導ができるのなら、君の考えに対して同意する
よ」(池田)。
ちょうどリゴベルタ・メンチュが、自分たちの主張をするために先住民言語ではなくスペイン語を使ったように、我々の意見を主張するためには、じつにいく
つもの方法があるのさ。
(池田コメント)このような真意が、はたして昨年からホセにあるのかどうかはよく分からない。というのは、ホセはもしかしたら候補者になるかも知れない1
年前の7ー8月時に、このような考えをもっていたのか不明である。しかし、彼によると、仮にフリアンがアルカルデに選出されて、フリアンがホセに町役場の
要職に就くように要請しても、教師を辞めないと私には表明している。
[エリアスとアンヘリナの意見]
1999年8月26日に夕食を取りながら、3人でトドス・サントスにおける政治状況について話す。エリアスは、現在の町役場で秘書局
(Secretario)の職員をやっている(月給は800ケッツアル)ので、今回の選挙で、現職(FDNG:Frente Democratica
Nacional Guatemalteca,???略号要確認)が勝利するか、あるいはPANが勝てば、現在の仕事は確保できる見通しだと踏んでいる。
エリアスの分析では、トドス・サントスの町長選挙は、私が他のところで聞いたようなPANとFRGの一騎討ちという構図ではなく、FDNGを交えた三者
の混戦と見ているようだ。エリアスは、最初に私の意見(PANとFRGの二分説)を聞いた後に、どうして投票予測がしにくいのかについて次のように解説す
る。「ここではFRGの支持者が集会をやっていたら町民はそれを聞きにゆき、候補者の意見に拍手をする。次にPANの支持者が集会をすれば、同じ町民が拍
手をする。FDNGの集会でも同じようなことが起こる。つまり、いつも表面的に賛同して、実際の投票行動はわからないよ」。
エリアスとアンヘリナは、グアテマラ全国の投票予測つまり大統領選挙に関して次のような意見を述べた。「PANの候補者(Berger)は前のグアテマ
ラ市長だ。都市住民はPANに多くを投じるだろう。しかし、グアテマラ全土とくに村落部ではPANよりもFRG(Portillo)が、そのほどんどの地
域で勝利するだろう。だから1回目の投票ではトップがFRG、そして2位にPANが続くだろう。ところが、それだけでは選挙規定に定められている過半数を
得ることができないから、1カ月後の12月7日に上位2党派を選択する2回目の投票がおこなわれる。その際には、PANをはじめFRGに反旗を翻す党派
——もちろんANNなどの左翼連合政党がそれだ——が、FRGは人権侵害の経験者(=リオス・モント)を擁するという反FRGキャンペーンをおこなって、
結局は第2位だったPANが勝利するというわけだよ」(エリアスとアンヘリナ)。
「だけど反リオス・モントのキャンペーンは、弱小左翼政党と国際的な団体——例えばMINUGUAの連中——が、好んで主張してもので、グアテマラ人の
多くが信じるものではないよ」(エリアス)。「そうだわ、81年と82年の時期に、多くの暴力や殺害をおこなったのはゲリラで、軍人による殺害はゲリラの
ものより少なかったわ」(アンヘリナ)。
アンヘリナは以前MINUGUA(要確認)の外国人の人たちと一緒にキチェ県で暴力のあった町に調査に派遣されたことがあるという。その時に、町の一部
の人たちに次のようなことを言われて激しく批判されたことがあるという:「町の人たちが軍人に殺されたことは、確かにある。だが、その人数は数えるほどで
しかない。しかし、アメリカでは、どうだ? 毎日たくさんの人たちが殺されているのではないか? 子供たちはどうだ? 数えられないほどの子供たちが死ん
でいるのではないのか? そんな国の人間に我々の数えられるほどの死人について調べて何の得になるのだ。お前たち(外国人)はさっさと自分の国に帰って、
自分たちの不幸の原因について調べてみたらどうかね?」
[リオス・モント問題への解決に向けて]
エリアスとアンヘリナと話していると、トドス・サントスの特殊事情についてよく知っている(クーデタを起こしPACを設立し平和をもたらしたリオス・モ
ントを英雄視する向きが強い)にもかかわらず、彼の政権の時代に最も多くの人たちが殺されたことについては、ほとんど知らないようだ。全く残念な話だが、
このことについて人々はよく知らされていないのが現状だ。他方、人権派を自称する観光客(いくつかのインタビューを通して、アメリカ合衆国の観光客はヨー
ロッパの観光客に比べて所謂人権派が多いように思われる)は、トドス・サントスの歴史の特殊事情についてよく調べもせず、やみくもにゲリラを支持したりあ
るいは左翼に問題があったとしても、それを「例外的事態」として、人々のリオス・モント支持について「信じられないこと」と不満あるいは時に不快感を示
す。
だからこそ、ブラディミロの最近のトドス・サントスの歴史に関するレクチャー(confarencia)において、PLEMの受講経験者から「彼の講義
は右翼的になった」とか、始めてのレクチャーをうけた者「暴力がこの町を文明化させる積極的意味を担ったという説明は、軍隊による人権侵害を正当化するも
のだ」という批判が聞かれるようになるのである。
観光客を含む外国人の人権派の人たちの期待を裏切るような事態が、起こったことは事実であり、そのことが住民をして右派政党を支持するという結果を生ん
だ。外国人が、その社会的背景を知らずに、住民の無知あるいは倒錯のせいにすれば、それは最終的にさらに住民の外国人嫌悪あるいは無視という事態を引き起
こすだろう。事実、「外国人はグアテマラの事情をよく知らずに我々に援助を申し出るものだ」という意見を地元の教養ある人から聞くことがあった。彼らは外
国人の気前の良さだけを信用し、外国人の意見や見解を聞き流す風潮すらあると言える。
このような悪循環を断ち切るには、まずトドス・サントスの人たちがFRGを支持する理由をよく理解するだけではなく、人権派を自称するグアテマラ以外の
人々が、自分の希望的観測が裏切られた時に失望することなく、その理由を分析し、また現地の人たちにより好ましい対話を求めてゆく態度が求められる。その
際に重要なことは、対話を求めるという態度には、必ずその背景に彼らの発話や態度に介入しようという動機があることを自覚しなけばならない。それは、ある
種の約束であり、相手と自分の未来を拘束すると同時に創発的で予測不可能な事態を未来において引き受けることを意味するのである。
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