Metabolism in Economica
★★〈まさにこうした自然生的な,個人の
知識や意思から独立した,そしてま さしく個人の相互的な独立性と無関心性とを前提する関連に,物質的かつ精
神的な新陳代謝に,美しさと偉大さとがもとづいていると言われてきたし, また言われてもよいであろう.そしてこの物的な関連が,諸個人の没関連性
や,あるいはまた狭い原始血縁的自然,支配と隷属の[関係]のうえにうち たてられている地域的関連ゃにまさっていることはまちがいない.同様に,
諸個人が彼ら自身の社会的関連をつくりださないうちは,彼らはこのような 関連を自己の支配下におくことのできないこともまちがいはない.しかしか
のたんに物的な関連を,自然生的な,個性の本性〈反省された知識や意欲と は反対に〉から分離できない,それに内在する関連として理解することは,
ばかげたことである.それは諸個人の産物である.それは,一つの歴史的産 物である.それは個人の歴史的発展の一定段階に属するものである.物的関
連が個人とまだ対立して存在する異質性と自立性の状態は,諸個人がまだそ の社会生活の諸条件を創造する過程にあり,こうした諸条件から出発してす
でに社会生活を始めているのではないことをしめしているだけである.社会 生活というのは,関連,自然生的な,一定の狭臨な生産関係内部での諸個人
の関連である.彼ら自身の共同的関係としてやはり彼ら自身の共同的規制に 服しているような社会的関係をもっ普通的に発展した諸個人は,自然の産物
ではなくて,歴史の産物である.こうした個性が可能になる力能の発展の程度
〈院と普遍性とは,まさに交換価値を基礎とする生産を前提としており,この生 産は,一般性とともに,個人の自己および他人からの疎外を,だがまたその
対外関係(Beziehungen)と能力(Fii.higkeiten)とのー般性と全面性をもはじ
めて生産する.初期の発展段階では,個々の個人はより完全な形で現れてい る.なぜなら彼はまさにそのありあまる対外関係をまだっくりだしていなか
ったし,それを彼とは独立した社会的な力や諸関係として自己に対立させて はいなかったからである.かの原始的な豊かさに帰りたいと望むことが笑う
べきことであるように,かのまったき空虚にとどまるべきだという信仰もま た笑うべきものである.ブルジョア的見解は,かのローマ的見解にたいす
る対立以上に出たことはないのであって,それゆえ正当な対立としてのロー マン 的見解は, 天国のはてまでもブルジョア的見解といっしょにいくだろ
う.)第一分冊 82-83
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