デカルトと神:ジョナサン・モレノ『操作される脳』16
「デカルトは「考えるもの」という自らの立場を基礎として、自分の身体を含め、物質世界の存在を推論した。結局、神は往々にして、デカルト の感覚がだまされるに任せているかもしれないが、常にだまされたままにしておくようなことはしない。なぜならそれは邪悪なことであり、神の性質は邪悪さと 相反するものなのだから。デカルトはこのように論を進めた。多くの現代人にとっては、神の存在を然るべき論拠から証明しようとせずに神の性質をもち出すの は、論点回避であるように思われる。しかし、神の本質的な性質を理論的枠組における「機械じかけの神」のように用いて、哲学的な問題の最後を締めくくる哲 学史ではよくあることだ(モレノ 2008:176)。
(再掲)
「デカルトは『省察』で主観性について入念に説明しようと企てる。そして結論として、外の世界とは異なり、私たちは内省によって自身の心に 直接接触できるが、対照的に外の世界についての私たちの知識は感覚器官に媒介されたものだと述べている。心の素材は場所をとらないが、脳の素材は場所をと る。それゆえデカルト学派によれば、宇宙は二元論的であり、心(精神)と物質とに分けることができる。だからこそ、心は完全に脳とは別のものなのだ」(モ レノ 2008:174-175)。
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