はじめによんでください

カント政治哲学講義(アーレント)

ingles

解説:池田光穂

「あたかもこの 偉人の著作ではなくて、平凡人(gewohnlicher Erdensohn) の産物であるかのごときもの」と言ったショー
ペンハウアーの言葉に同意せざるをえないでしょう。人間を立法的存在として理解する法の概念は、カン
ト実践哲学において非常に重要です。でも、もし法哲学一般を勉強したいのであれば、カントではなく、
プーフェンドルフやグロチウス、モンテスキューに取り組むべきであることは明白でしょう。
結局、ライス編集のもの、あるいはもう―つの論集( 『歴史について』)に収録されているその他の諸論考
を目にすれば、みなさんはそれらの多くが歴史に関連していることに気づかれることでしょう。そして最
初の印象として、カントが、彼の後に続く他の多くの哲学者と同様に、まるで歴史哲学を政治哲学の代用
品にしているかのように思われることでしょう。ただ、カントの歴史概念はそれ自体としては非常に重要
ですが、カント哲学の中心に位置するものではありません。歴史を勉強したいのであれば、ヴィーコやヘ
ーゲル、マルクスに取り組むのが普通でしょう。カントにおいては、歴史は自然の一部です。歴史の主体
は人頷ですが、人類は被造物の一部です人類は創造の業の最終目的であり、いわばその冠ともいうべ
18
カントの政治哲学を語り、
リストテレス、
ものはごく僅かです゜
<らいでしょう。
する限り、
てています(ヤスパースは、
うもありません。
またまそれが彼の主題だったので、
だけであって、
自身は、
第一講義
探究することには困難が伴います。他の多くの哲学者、
アウグスティヌス、
ある著者は、
トマス、
ての著作を書いたことがありません。
中の論文のいくつかは興味深いものです。
スピノザ、
ったただ一人弟子である、と言えるでしょう)。
ト政治著作知』と題されている最近の論文集は、
ヘーゲルなどと違って、
しかしここにおいてさえ、
これらのカントの論考群を
ヽ例えばプラトン
カントは政治哲学につい
カントについては膨大な文献がありますが、彼の政治哲TT~
・ザーナーの『戦争から平和へのカントの道その内で研究するに値するのはハンス(2)
フランスでごく最近、カントの政治哲学をテーマにする論文政治哲学の問題は、
してしか扱われていないことはすぐに見てとれます゜
〔ー'i
周辺的テーマと
、るあらゆる著作の中で、唯一ヤスパースのものだけが、
L
カントが今までに持ったただ一人の弟子であり、ザーナーは、
(3)
『歴史について』
質の面でも深さの面でも、

この
カント自身に関
カント哲学全体を扱って
その少なくとも四分の一をこの特定の主題に当
ヤスバースが今までに持
に収められているカントの諸論文や、
カントの他の著作とは比べよ
「第四批判」と名付けていますが、
『カン
それは、た
そのように格上げした言い方をしている
(5) もっともらしく見せるために
べきまとまりを成していないのは明らかです。カそれらの論考が「第四批判」と呼ぶ(6)
、は「単なる遊覧旅行」とさえ呼んでいまそれら論考のいくつかを単なる「観念の遊戯」あるし
そして、これらの論考の中でもずば抜けて重要な『永遠平和のために』が含んでいるアイロニカルなトー
ンから見ても、カント自身がこれらの著作に対してそれほど本気でなかったのは明らかでしょう。キーゼ
ヴェッター宛の書簡(一七九五年十月十五日付)の中でカントはこの『永遠平和のために』を「夢想」と呼
んでいます(かつてスウェーデンボルグに興じていた頃の思索の産物である『形而上学の夢によって解明された視霊
者の夢』(一七六六年)のことを思い出したかのような言い方です)。『沖一(権利)琴疇』ー|ーこれは英語はライス編集の『カント政治著作集』の中にしか見つからないと思いますが、これを読めば、恐らくみな
さんは退屈でペダンティック(街学的)だなあと感じることでしょうについて言えば、「あたかもこの
偉人の著作ではなくて、平凡人(gewohnlicher Erdensohn) の産物であるかのごときもの」と言ったショー
[3
]
ペンハウアーの言葉に同意せざるをえないでしょう。人間を立法的存在として理解する法の概念は、カン
ト実践哲学において非常に重要です。でも、もし法哲学一般を勉強したいのであれば、カントではなく、
プーフェンドルフやグロチウス、モンテスキューに取り組むべきであることは明白でしょう。
結局、ライス編集のもの、あるいはもう―つの論集( 『歴史について』)に収録されているその他の諸論考
を目にすれば、みなさんはそれらの多くが歴史に関連していることに気づかれることでしょう。そして最
初の印象として、カントが、彼の後に続く他の多くの哲学者と同様に、まるで歴史哲学を政治哲学の代用
品にしているかのように思われることでしょう。ただ、カントの歴史概念はそれ自体としては非常に重要
ですが、カント哲学の中心に位置するものではありません。歴史を勉強したいのであれば、ヴィーコやヘ
ーゲル、マルクスに取り組むのが普通でしょう。カントにおいては、歴史は自然の一部です。歴史の主体
は人頷ですが、人類は被造物の一部です人類は創造の業の最終目的であり、いわばその冠ともいうべ
18
19 カント政治哲学講義
き存在であるわけですが。思いがけず偶然という形で生じてくるその憂鬱さをカントが決して忘れること
がなかった歴史の問題というのは、物語でも歴史的個人でも、また善/悪に関わる人々の行為でもありま
せん。彼にとっての歴史の問題とは、人類を進歩させ、世代を経て行く中で人類の一切の潜在的可能性が
展開していくように仕向ける、自然の密かな狡知です。個人としての人の寿命は、全ての人間的な特質及
び可能性を発展させるためにはあまりに短い。そのため、人類の歴史が、「自然が人類のなかに蒔いたす
べての萌芽が完全に展開し、人類の使命がこの地上で実現されうる状態に高まつてゆく」プロセスになる
のです。これが、幼年期・青年期・壮年期という個人の有機的な発展との類比で見た「世界史」なのです゜
カントは過去には関心を持っていません。彼の関心は人類の未来です。人間が楽園から追放された原因は、
罪でも、復讐する神でもなく、自然です。自然は自らの胎内から人間を解き放ち、そして次に楽園から、「幼
(8)
児保育の無害安全な状態」から追放したのです。これが歴史の始まりです。歴史のプロセスは進歩であり、
このプロセスの産物は時には文化、時には自由と呼ばれます(「自然の後見から自由の状態へ」)。そしてカン
トはたった一度だけ、ほとんど通りすがりの一言のように、挿入句の形で、問題なのは「人間の使命の最
(11)
大の目的である社交性(Geselligkeit) 」をもたらすことであると述べています(社交性の重要性については後
で見ることにしましょう)。一八世紀において支配的な概念であった進歩それ自体は、カントにとってはむ
しろ憂鬱な観念です。カントは、進歩の観念が個人の生にとって明らかに悲しい意味合いを含んでいるこ
とを繰り返し強調しています゜
もしわれわれが人間の道徳的11自然的状態をこの世の人生において最善の状況で、すなわち(人間に
目標として定められた)最高善への絶えざる前進と接近という状況で想定するとしても、それでもは:・…彼の状態が永遠にわたって変化することへの展望には けっして満足を結びつけることはでぃ。なぜなら、彼がいまある状態は、彼がそこに入ろうと用意しているさらに善なる状態に較常に悪であり続けるからであ る。だから究極目的への無限な前進という表象はじつは同時に諸悪限な系列を予想することでもあるのだ。そのため:
..
:満足が生じることはないのである。
私が、カントの政治哲学というテーマを選んだことに対して異議を唱えるもう―つのやり方として、少
しばかり粗野だけれど、全く不当とも言えないやり方があります。それは、このテーマの下に通常そして実際に私も選んだこれらの論考は、すべてカントの晩年 のものであること、そして事実として年において彼の精神的な能力が減退し、最後は老人性の知能低下の症状を呈するまでに至ったことを指するやり方です。こ の議論に対抗するために、私はみなさんに、カントの極めて初期の著作である『崇高の感情にかんする観痣』を読んでみるようお願いします。この問題について の私の見解は、今学期この講義の中で正当化していくつもりですが、それを予め述べておきましょう。カントの著作を知り、そ
の伝記的な事情を考慮に入れれば、先の議論とは逆に、社会的なもの(
the social)から区別される政治的
なもの(th
e politi cal)こそが世界の中での人間の条件の墓本であることにカントが気付いたのはむ士ろ晩
年になってから、すなわち、この特定の問題について自分自身の哲学を作り出す余力も時間もなくなった
時期であった、と言いたくなるはずです。このように言ったからといって私は別に、カントがその生涯短さゆえに「第四批判」を書き損なったなどと言いたわけではありません。私はむしろ、第三批判であ21 カント政治哲学講義第ー講義20
『判断力批判』の意義を強調しようと思いますーーー『判断力批判』は、『実践理性批判』のように批判的観
察、疑問、挑発などに応えるために書かれたものではなく、自発的に書かれたものです。この『判断力批
判』こそが実際のところ、カントの偉大な仕事の中の欠落しているように見える部分をカバーする一冊に
なるはずだったのではないか、と言いたいのです。
[4
]
カントが批判の仕事を終えた後、彼自身の視点から見て、二つの問題が残されていました。それらは生
涯にわたってカントを悩ませた問題なのですが、彼は自らが「理性のスキャンダル(蹟きの石)」と呼ぶ問
題の方を先に片付けようとして、それら二つについての作業を中断していたのです。「理性のスキャンダ
ル」とは「理性が自己自身と矛盾する」という事実、言い換えれば、思考(
think ing)が私たちが知る(
know)
ことができるものの限界を超越し、自己自身とのアンチノミー(二律背反)に陥ることです。カント自身
の証言から、彼の生涯の転換点が人間精神の認識能力とその限界の発見(-七七0年)にあったことが分
かります。この発見を彼は十年以上かけて練り上げ、『純粋理性批判』として出版しました。また、カン
トの書簡から、多くの年月を費やしたこの膨大な仕事が、彼の他の計画や構想にとって何を意味してい
たかが分かります。カントはこの「主要テーマ」について、それは彼が完成し出版しようとしていた他
の全ての問題を背後に押しやり、まるで「堤防」のように立ちはだかって、彼がそれらと取り組むのを
妨げた、と書いています。それはまるで、それを除去しない限り先に進めない「途上の石」である、と
も書いています。そしてカントが再び批判期以前の関心に立ち返った時、これらの関心は当然、その間に
カントが知ったことに対応していくぶん変化したものの、その片鱗を認められないほど変化したわけでは
ありませんし、それらがカントにとって緊急の課題ではなくなったと言うこともできません。
最も重大な変化は、一七七0年の出来事の前に、カントは『人倫の形而上学』を執筆し、近出版したのは三十年後のことになってしまった、とい
(16)
しようとしていたけれど、実際この書物を執筆し、
う点でしょう。ただ、この早い時期には、後の『人倫の形而上学』は「道徳的趣で予告されていまし芦。カントが三批判書の最後に「第三批判」に取りかかた。このようにして二つの事態が生じてきました。一八世紀を通じてポ味の批判」と呼んでいまし
ーなトピックだった趣味の背後に、カントは全く新しい人間の能力、つまり判断力かし同時に彼は、道徳的な諸命題を、この新しい能力の権能の枠外に置い判断 力は今や、美/醜を決める趣味以上のものになったのです。正/不正の問ではなく、ただ理性によってのみ決定されるべきだというのです゜
23 カント政治哲学講義
第ー講義22
前回私は、カントの生涯の終わりに二つの問題が残された、と述べました。第一の問題は、人間の「社交性」
という言葉に要約されます、
れないという事実、
『判断力批判」
は明らかです゜
高theSublime 」
いまでも、
告しています゜
です。この実験は、

もしくは、そう表現することができます゜ それは、人は誰も一人では生きら
人々は単にニーズとケアにおいて相互依存しているだけでなく、最高の能力である人
間精神においても相互依存しているという事実です。人間の精神は、人間の社会の外では機能しません。「交
ヽヽヽ(17)
際は思索者にとって不可欠である」。この社交性という概念は、
あるいは「趣味の批判」が、
『美と崇高の感情にかんする観察』と同様に、『判断力批判』もまた「美theBeautifu l」と「崇
に区分されています゜
の初期の著作において既に、
―つの鍵になっています。
以下のようなものです゜
て彼の心を閉ざしてしまった。
『判断力批判』第一部の鍵になっています゜
批判期以前からの積み残しの問題に答えるために書かれたの
まるでフランスのモラリストによって書かれたかのような調子のこ
「社交性」あるいは交際の問題は、後の
そこでカントは、この「問題」の背後にある現実の経験について報
ただ現実の経験といっても、若きカントの現実の社会生活とは関係ない、
〔「カラツァンの夢」〕この吝薔な金特ちは彼の富が増えるに従って、
『判断力批判』と同程度とは言えな
一種の思考実験
あらゆる他人への同情と光に対し
しかし彼の心中の人間愛が冷めるのに応じて、彼の祈りと信心の行い
の熱心さは増えていった。こう告白した後、そこで彼は次のように言葉を続ける。かりの下で計算をして、商売の利益を見積もっていたとき、眠気がおそってき た。この天使が旋風のように私の上にやってくるのを見た。私が恐るべき一撃を容赦するは私を撃った。私の運命は永遠に定まつており、私がなしたあらゆる善 行にはなにきず、また私が示したあらゆる悪から少しも差し引きはできないのだと悟ったとき、私んだ。私は第三天に住む者の玉座の前に連れてゆかれた。私の 前で燃えさかる輝きがかけた。カラッァン、おまえの神への勤めは拒否された。おまえはおまえの心を人し、おまえの財宝を鉄のような手でつかんだのだ。おま えはただ自分のためだけに生ら、おまえは将来も永遠に一人だけで、全被造物とのあらゆる共同体から閉め出されて生なる。この瞬間私は目に見えない力によっ て引きさらわれ、創造の輝かしい建造物を通ていった。私はまもなく限りない数の世界を後にした。自然の一番果ての際に近づいたとい空虚の影が私の前に深く 沈み込んでいるのに私は気づいた。永遠の静けさ、孤独、王国。この眺めに対して言葉に出せない恐怖が私を襲った。次第に最後の星々も視界かとう暗闇の極み の中で最後のほのかな光の影も消えた。各瞬間ごとに生き物の住む最後距離が増すに従って、絶望の死ぬような不安が、各瞬間ごとに大きくなっていった安を抱 きっつ私は考えた。たとえ千の万倍の年の間、私を被造物のいる限界を超えてしても、助けも、いくらか後戻りする望みもなく、私はやはりなお測りがたい暗黒 の深見ているであろうと。1 この麻痺状態のなかで私は現実の物をつかもうと手を激しく伸ばしたので、
一講義
25 カント政治哲学講義
24
て今や私は人間を尊重すべきことを教えられた。それで私は目を覚ました。そし
戸口から追い払った人たちのうちの最も取るに足りない百田を合って、ネ''" "
にあっては、ゴルコンダのあらゆる財宝よりも、私には遥かに'に位置するものです。この第二部が第一部と第二の残された問題は、『判断力批判』第二部の中、い
そのことが絶えず注釈の必要性を喚起して
に異なっているため、本全体としては統一性を欠いています゜
(19)
Greisenschrulle 」以上の意味があるのか
きました。例えば、ボイムラ

いは、このことに「老人の気まぐれ
「そもそもなぜ人間が現存しなけ
と問いかけています。その第二の問題は、『判断力批判』の第六七節で
カントにとっての積み残しの課題の一っ
ればならないのか?」、という形で提起されています。これも、
それらに答えることこそが哲学に固有の任務
です。ご承知のように、カントは三つの有名な問いを上げ、
「私はなにをなすべきか?」、「私はなにを望であると述べています。「私はなにを知りうるか?」ヽ
、、、、、、、、
に「人間とはなにか?」という第四
が許されるか?」の三つです。そして彼は、講義の中で、これら三つ
「私たちはこれら四つの問いのすべてを『人間学]の問いを付け加えていました。そして、
ことができるだろう。最初の三つの問いは最後の問いに関連ーによって問われたもう―つの問いと関連してい
の第四の問いが、ライプニッツやシェリングやハイデガ
しろ或るものが有るのか」という問いです。ライプニるのは明らかです。「何故無ではなくて、む
「というのも、無は或るものよりも単
これを「私たちが第一に問うべき問い」と呼んでいます。そして、
(21)
純で容易であるからだ」と付け加えています。こうした
しで表現してみても、
際バカらしいものでしかないでしょう。
うているのではないからです。
べての目的がそうであるように、
この場合、自然、
『判断力批判』
それに対する
のだったのではないでしょうか。
というのも、
「何故\」
この
という形の疑問文をどのような言い回
は、実際のところ、
「何故なら\」という形の答えの全てがバカらしく聞こえますし、実
原因(
cause )
を問
例えば、
自然、生命、
生命、宇宙はそれぞれ、
私たちが「自然の目的
「何故」
いかにして生命は発展したのか、
を超ぇて、字宙の目的は宇宙を超えて求められなければならない、
また、
の一撃(bang) と共に、あるいはそういうものなしに)存在するようになったか、というような問いが原因ヘ
ヽヽ
の問いです。ライプニッツたちの問いはむしろ、これら一切が起こった目的Surpose) を問うものです。「自
(22)
然そのものの現存の目的は、自然そのものを超えて求められなければならない」し、生命の目的は生命
ということです。こうした目的は、す
あるいは宇宙それ自体を超えたものでなければなりません。
目的をめぐる問いによって直ちに、
のための手段に格下げされることになります(ハイテガーは後期の哲学において、人間と存在を、
し、条件付け合う一種の対応関係の中に置くことを繰り返し試みています存在は人間に呼びかけ、人間は存在の保
護者あるいは牧人になる、存在はそれ自身の現われのために人間を必要とする、人間は実存するために存在を必要とす
るだけでなく他のいかなる存在者(Se1endes : bemg) 、他のいかなる生命体とも異なって、自己自身の存在と関わってい
(23)
る、等々。彼がそうしたのは、無をめぐるあらゆる思想が陥るパラドクスを回避するためというよりは、むしろこれら
の「何故ー」という形の問い一般に内在するこうした相互格下げを回避するためです)。
第二部から生じてくるこの困惑させる問題に対するカント自身の答えは、
(purpose) は何か?」
いかにして宇宙は(最初
それ自体よりも高次の何か
お互いに前提
次のようなも
のような問いを立てるのは、
27 カント政治哲学講義
第二講義26
もっぱら、私たち自身が絶えず目標(aims) と終点(ends) を描き出し、そうした志向的存在者(intentional
beings) として自然に属している、目的を有する存在者だからである、という答えです。
界または宇宙は始まりを持つのか?」
在し続けるのか?」といった、明らかに回答不可能な問いに私たちが悩むのは何故かという問題に対して
も、次の事実を指摘することによって答えられるのではないでしょうか。
(begmners)
がある、
でも、
ません
ね)。
であろうとする、
(24)
という事実です゜
『判断力批判』
そうだとしても、
ていますが、
に話を戻しましょう。
つまり、
n‘
とカ
したがつて、
他の「批判」
び付きがあります。第一に、
者としての人間について語っていないということがあります。真理という言菓は、
第三批判の二つの部分の結び付きは弱いです。しかし実際
カント自身の心の中でのみ結び付いているのだとしても、この二つの部分は、
の中のどの部分よりも、政治的なものと密接に結び付いていると言えます゜
れているのを除いて、
『判断力批判』
二つの部分のいずれにおいてもカントが、叡知的存在者あるいは認識的存在
ここには出てきません。
人々について複数形で語っており、第二部は人類について語っています(カントはこのことを、先ほど私が引
用した第六七節の問いに以下のように付け足す形で強調しています。「そもそもなぜ人間が現存しなければならないの
か、という問いは、たとえばオーストラリアの先住民やフエゴ島人を思い浮かべるならば、そう簡単には答えられない
(25)
かもしれない」、と)。『実践理性批判』と
うした特殊的なものから見て、
「世界(あるいは宇宙)は神自身のごとく永遠から永遠へと存
全生涯を通じて始まり(beginnmgs) を構成しようとする傾向
第三批判の第一部は、
『判断力批判』
社会の中で現実に存在し、
の間の最も決定的な違いは、前者において、道徳
法則がすべての叡知的存在者に妥当するものであるのに対して、後者における規則は地上に生きる人間に
、う点にあります。第二の結び付きは、判断力が、その妥当性が厳格に限定される、とし
ぃ紅」特殊的なものを扱っ‘
遍的なものから見てなにか偶然的なものを含んで
更に二つの種類があります゜ 『判断力批判』
、う一般的カテゴリーに包摂する
それは正確に言うと、美それ自体(the Beauty as such)
と>
ことができないけど、私たちが
。これに適用しうるいかなる規則もあり
「美しい」と呼ぶような対象です
(みなさんが「なんと美しいバラだろう!」と言う場合、
みなさんは最初に「すべてのバラは美しい、、この判断に至るわけではありませんね。またはバラである、それゆえこのバラは美しい」というような形で
いうような形で、この判断に至るわけでもありはバラである、この花はバラである、それゆえこれは美しい」と
それと同様に、「世
私たちの本性の内には、創始者
二つの重要な結
一度特殊な文脈で使わ
生活する
という事実にあります。そ
第一部は判断力の対象を扱っ
ある特殊的な自然の所産を一般的
のです。「どのような人間の理性も(また、程度原因から引き出すことの不可能性に関わるも
第二部で扱われているもう―つの特殊的なものは、
、るどのような有限な理性でも)、草の葉一枚、質からみてわれわれの理性と類似して>
、」(カントの用語とし
ど超え出ていようとも(27)
たんに機械的な諸原因からこの産出を理解しようと期待することす。その逆は「技巧的technical 」で、カントは、「人為的
ての「機械的
mec hanical 」は、自然の諸原因に関係していま
れたものという意味でこの言葉を使っています。られる物との違いです)。ここでのポインartifi cial」なもの、すなわち目的をもって作ら
ょ、この特定の草の葉があるこ
ら存在するようになる物と、特定の終点あるいは目的のために作
、うことです。そもそも草というものがあること、更にi
いう問題です。カントの解決法は、目的
解understand 」とし
して(単に説明するのではなく)理解しうるかと
、「自然の特殊な諸法則を探究するためのとを、私はいかに
論的原理、つまり「自然の諸産物の諸目的の原理」を第



28
29 カント政治哲学講義
理」として導入することです。ただしその原理は、
(28)
くは把握させることがない」というのです。
にしておきましょう。というのはここでは、厳密な意味で特殊的なものについての判断力が扱われておら
ず、自然が主題になっているからです。これから見ていくように、
しています。地上に生きる動物の一っの種としての人類の歴史ということで
す。ここでの彼の意図は、判断力の原理というよりも認識の原理を見出すことにあります。ただ、「そも
そもなぜ人間が現存しなければならないのか?」という問いを立てることができるとすれば、それに続け
て、「なぜ樹木が現存しなければならないのか?」ヽ「なぜ草の葉やその他のものが現存しなければならな
いのか?」.:·:といった一連の問いを立てることも可能であることには注意しておいて下さい。
別の言い方をすれば、
的な事柄、
人々の社交性、
つまり、
Geschaft) を終えた後、
いていたのです。
り組もうとしていた、
予定でした。

れは美しい、
断は、
その場合の歴史というのは、
事に取りかかった時、
れでも、
『判断力批判』
政治的なものにとって重要なのです゜
「自然の諸産物の発生の仕方をわれわれにいっそうよ
ここでは、カント哲学のこの部分にあまり深入りしないこと
の中の様々な主題自然の事実や歴史上の出来事といった特殊
その特殊的なものを扱う人間の精神の能力としての判断力、
つまり身体と自然的な欲求とを持っているという理由からだけでなく、
力のためにも人間が仲間に依存しているという洞察ーーはすべて、
これらの主題は、
年老いてからようやく実際に着手するようになるずっと以前から、彼の関心を引
(29)
そしてカントが「加わりゆく老齢から幾らからの利用しうる時間を何とか捻出して」取
自らの哲学の教説的な部分(doctrmal part) をまとめる仕事を延期したのも、
らの主題のためだったのです。その教説的な部分には、「自然の形而上学と人倫の形而上学」が含まれる
的な事柄になってしまった、
でその知らせを侍ち焦がれ、
そこに「判断力のための特別なセクション」が入る余ヽヽ
これは醜い、
した。「趣味について、実践哲学では、
(31)
[8
]
呼ばれていま
だけ語られることであろう」というのです゜
そして
カントは歴史も自然の一部として理解
この能力が機能する条件としての
まさに精神的諸能
すぐれて政治的な意義を有しています゜
カントがその批判の仕事(das krit1sche
といった特殊的なものについての判
『判断力批判』
そして、意志は指令を発しま
「単なる観想的快あるいは非能動的はもともと
です。判断力は実践理性ではありませんてみせ、
って来ないから


して「推論reason」
カントの道徳哲学の射程に
は、何をなすべきであり、何をなすべきでないかを私に対
のであり、意志と同一です゜
(practical reason)
くれます。実践理性は法則を措定するも
これに対して判断力は、
教えて
す。つまり意志は命令形で語るのです。
」から生じてきます。
(30)
untatiges W ohlgefallen
この「観想的快の感情は趣味と名づけ」られます。
A ヽと力これは正しい、これは不正である、
それ固有の概念としてではなく、
いかにももっともらしい言い方だと思いませ:体どのようにして実践と関係しうるのか? 勺央と非能動的満足」カ占U ふ"ー
このことは、
これ

何故なら、こ
「趣味の批判」と
せいぜい挿話的に
カントが教説的な仕
対する自分の関心は過去のものであり、
彼が特殊的で偶然的なものに
トの最終的な立場に注目しておく必要はあるでしフランス革命に対するカン
い<ぶん周辺
吉倫寸tていたことを確定的に示しているのではないと糸言イi
「観想
ただそ
彼が毎日新聞
になったこの出来事に対する
彼の老年期において中心的な役割を演じること
した単なる注視者11観客(spectator) 彼の最終的立場は、そう
の態度によって規定されていました回、るつもりで、競技の行方
」けれど、「希望的かつ情熱的に関与」して>
「競技そのものには参加していない
を見守る人々の態度ということです。無論、
この希望的かつ情熱的な関与というのは、少なくともカント
第二講義30
31 カント政治哲学講義
カン
にとって、そうした人々がまさに革命を起こそうとしている、ということを意味するわけではありません。
彼らの共感(sympathy) は、単なる「観想的快と非能動的満足」から生じたわけですから。
これらの主題に関するカントの晩年の著作の中に、前批判期の彼の関心に由来するとは思えない要素
が一っだけあります。初期のカントには、厳密な意味での国家体制的(consti tuti onal) 、制度的な問題に彼
が関心を持っていた証拠を見出すことはできません。しかしこの関心は、カントの厳密な意味での政治的
な諸論考のほぼ全てが執箪された、彼の生涯の最後の時期になって、群を抜いて最重要になったのです゜
それらの政治的論考が書かれたのは、『判断力批判』が公刊された一七九0年以降です。より重要なのは、
フランス革命の年であり、彼が六十五歳になった一七八九年以降ということです。これ以降の彼の関心
は、もはや特殊的なもの、歴史、人間の社交性などに限定されることはなくなりました。彼の関心の中心
に位置するようになったのはむしろ、今日私たちが憲法(const itutionallaw)と呼んでいる事柄です。つま
り、政治体が組織(organize) され構成(cons titute)されるべき仕方、「共和制的republi can」、言い換えれば、
立憲的な政体(constit utiona lgovernment) の概念や、国際関係の問題などに関わる問題です。こうした変
化の最初の兆しは恐らく、『判断力批判』第六五節の注に見出すことができるでしょう。この注は、
トが既に大きな関心を寄せていたアメリカ革命に関連しています。彼は次のように書いています。
ある偉大な民族(Vo lk 11 people)を―つの国家へと全面的に改編しようと先頃企てられた企図に際し
、‘‘‘‘
ては、有機的組織(Organisation) という言葉は、行政機構などに対して、また全国家体制の組織に対
してすら表わすのにしばしばきわめて適切に用いられてきた。というのも、各構成員は、こうした全
体のうちではもちろんたんに手段であるべきでなく、同時に目的でもあるべきであり、各構成員は全
体の可能性のために協力することによって、ふたたび全体の理念によって自分の地位と機能に関して
規定されるべきだからである。
晩年の彼の心を常に捉えていたのは、まさにこの問題、つまり、いかにして―つの人民(p:o~le) を一
つの国家へと組織するか、いかに国家を構成するか、いかに共和政体11国家(commonwea lth)を創設(found)
するかという問題、そしてこれらに関連する一連の法的問題です。自然の狡知や人間の単なる社交性につ
いての昔からの関心が全く消えてしまったわけではありません。ただしこれらの関心は一定の変化を被り
ます、あるいは、新しい予期せぬ定式のもとに再浮上してきたと言った方がいいかもしれません。そうして、
『永遠平和のために』の中に、訪問権(Besuc hsrecht)を定めた奇妙な条項が出てきます。訪問権とは、他
(32)
国を訪間する権利、歓待の権利、そして「一時的滞在の権利」を意味します。そして、この同じ論考の中
(33)
で、偉大な芸術家としてとしての自然が、最終的な「永遠平和の保証」として再び登場してきます。しか
し、こうした新たな問題意識がなかったとしたら、彼が『人倫の形而上学』を「法論」から始めているの
はどうしてなのかしつくりこないでしょう。また、彼が(『諸学部の争い』第二部においてこの著作は彼の
精神能力の低下を明らかに示しているわけですが)、「憲法11国家体制を考案することは非常に甘美であるEsist
so suss sich Staatsverfassungen auszudenken 」レJ旱取絃以LL幸叩っT いス3こレj-,,)
、L っ<h ノこ45/ヽが5るでしょ、つ。こ
の「甘美な夢」は、その実現が「考えられうるばかりでなく、……義務、しかも国家市民の義務ではなく
(34)
て、国家元首の義務である」というのですから。
33 カント政治哲学講義第二講義32
カントの晩年ー—↓ てれはアメリカ革命、
らヽ1

目覚めさせたように)
徳哲学、
えって、
そしてそれ以上にフランス革命が彼をいわば政治的まどろみ
(ヒュームが若きカントを独断論のまどろみから目覚めさせ、
目覚めさせた時期でしたl における問題は、
つまり実践理性の命令と和解させるか、
けました。
ルソーが壮年期のカントを道徳的なまどろみから
ということでした。
道徳哲学がここでは役に立たないだろうことを知っていたのです゜
いかにして国家組織の問題を自らの道
そして驚くべきことに、彼は自分の
そこで彼は全てを道徳化することを避
そして問題は、「たとえ道徳的によい人間ではないにしても、
して人間に強制するかということであり、
>カー`
「道徳性から善き国家体制11憲法が期待されるのではなく、か
(35)
善き国家体制11憲法によって初めて人民11民族の善き道徳的教養が期侍されるのである」という
ことを彼は理解していました。ここから、「善い人間は、
というアリストテレスの見解が思い起こされてきます゜
テレスをはるかに超えているとさえ言えます)。
国家樹立の問題は、
ら(悪魔が悟性をもってさえいれば)ヽ
第三講義
ただ善い国家においてのみ善き市民でありうる」ヽ
ただし、
レスの見解とは異なります(これは実に驚くべき結論であり、道徳性を善き市民性から区別している点でアリスト
どんなにそれが困難に聞こえようとも、
よい市民であることを」
カントの次のような結論は、アリストテ
悪魔たちからなる民族11人民にとってす
解決可能な問題であって、それは次のように言い表される。すな
ゎち、「理性的な存在者の多くは、全体では自分たちを保持するために普遍的法かしそれぞれ個別にはひそかにその普遍的法則から逃れようとする傾向がある。そこで、そうした理
性的な存在者の集まりに、たとえ彼らが個人的な心情においては互いに対抗し合っていても、私情を
互いに抑制し、公の行動の場では、そうした悪い心情をもたなかったのと同じ結(36)
与え、体制11憲法を組織することが問題なのである」と。
この一節は決定的に重要です。カントが語っていることは、アリストテレスの悪い人間でも善い国家においては善い市民でありうる、ということです。カント義 は、彼の道徳哲学と一致しています。定言命法は、汝の行為の格率が常に普遍的法行為せよ、と命じます。これは、「自分の格率が普遍的法則となるべきこと を、自いう以外の仕方で、私は決して行為すべきでな這」ということです。ポント自身の言葉で言うと、私は自分だけのための特例として嘘をつきたいと思うこ つくことを普遍的法則にしたいとは思いも寄らないことだ。というのは、そのようそもそも約束というものが存在しなくなるからであ廷」。あるいは、私るが、 盗みをすることを普遍的法則にしたいとは思いも寄らない、という例でもそうした法則に従うとなると、いかなる所有も存在しなくなるからです自分自身のため に例外を設定する者のことであって、悪を意志する人間ではありまントに言わせれば、悪を意志するのは不可能だからです。したがつて、先の引用の35 カント政治哲学講義
34
のは、通常の意味での悪魔のことではなく、自分自身を「秘かに免除しようとする傾向がある」
ヽヽヽ
とです。肝心なのは、秘かにという点です。彼らはそれを公に行なうことはできないでしょう。
その場合、彼らは明らかに共通の利益に敵対することになり、人民の敵たとえこの人民が悪魔の種族
ヽヽ
であったとしてもになってしまうからです。道徳の場合と違って、政治においてはすべてが「公的行
為pu blic conduct 」
べています゜
に拠っているのです゜
こういう言い方をすると、
に聞こえるかもしれません。
この一節は
しかし、
『実践理性批判』
ヽヽ
の後にしか書かれえなかった、
そうではありません。
されるようになったというだけのことなのです゜
というのは、
懸案となっていた考え方だったからです。この段階に至って、
これもまた、
『美と崇高の感情にかんする観察』
という話のよう
批判期以前からの
その考えが、彼の道徳哲学の用語で定式化
では、
人々のこ
何故なら
次のように述
ヽヽヽ諸原則に従って行動する人々のうちでも、大変善き人は非常に少数である。これら諸原則で誤ること、、、、、、、、‘ が生じゃすいからである……善良な心の衝動から行為する人々は遥かに多数である:·:•これら有徳的
な本能は……規則正しく動物世界を動かしているその他の本能と同様に.:·:自然の大いなる意図を遂
ヽヽヽ
行するからである。:.
.
:最愛の自己に、じっと目を注ぎ、利已心を大いなる軸として、すべてをその
ヽヽヽ
周りに巡らせようとする人々が大多数であり、またこれ以上に有利なこともないのである。というの
は、これらの人々はきわめて勤勉で、きちんとし、用心深い人々であり、彼らは意図せずして公益的
(39)
になり、.:・・・全体に支えと堅固を与えるからである。
ここではまるで、「必要なものを調達し、より繊細な魂がその上にを提供す麟」ために、「悪魔の種族」が必要とされているかのよう理論のカント•ヴァージョ ンです。この理論には非常に重大な欠陥が限り、ここでのカントの立場の主要なポイントは以下の通りです。第る「自然の偉大な目的」を想定する場合にしかこ の図式が機能しないになってしまうからです(カントにおいては、悪は概して自己破ら、悪魔の種族が自らを破壊すること
す)。自然は種の保存を欲します。そして自然が自らの子供たち存的になり、知能を持つことです。第二に、政治における改善をもにおける革命も必要でなく、求められることも期待されることもない三に、一方において国家体制11 憲法(
const itut ions)か、他方において公恥応Sublicity) が重視されている
ことです。「公共性」はカントの政治的思考の鍵になる概念の一っでの定義からして、秘かなものである、というカントの確信に対応し作の一っ『諸学部の争い』には次のように書かれています。
何故支配者は、国民が私に反抗する権利など私はまった<承認しのだろうか。
....
:理由はこうである。もしそのように公に宣言するならば、たように、慈悲深く分別ある主人に導かれ、十分に餌をあたえられ、強37 カント政治哲学講義
第三講義36
ても、臣民は支配者にたいしてこぞって立ち上が
福に何かが欠けるといった不平がまったくないとし
(41)
るであろうからである。
つまりカントの書かれざる政治哲学を論じょうと私
文字通りの意味では存在しないカントのテーマ、
が決心したことについて、私はこれまでそれを正当化する理由をでの正当化にもかかわらず、決して全面的には克服することができそす。カントは、人々を哲学へと動機付ける三つの中心的な問いを繰それらの問いのいずれも政治的動物(N
6on る彼自身の哲学における答えを与えようと試みたわけですが、
その三つの問いというのは、「私は何を知りうるpolitikon) としての人間に関わるものではありません。
か?」、「私は何をなすべきか?」、「私は何を望むことが許され「私は何をなすべきか」という第二の問いと、形而上学の伝統的テーマである神と不死に関わるものです゜
かの形で私たちの探究の手がかりになるだろうと思うそれと相関関係にある自由の理念が、何ら
カントが問いを立てて自分でそれに答えているやり方は、カントいです(後で見るように、むしろその逆に、
いたとしたら彼の政治哲学がどのようなものとなったかの政治哲学を適切に表現するだけの時間と力が与えられて
自らの政治的洞察を自らの道徳哲学と調和させることを
しようとする私たちの試みの妨げとなりますー~もしカントが
つ)。第二の問いは、活動(
acti on) 試みていたとしたら、恐らくカント自身にとっても妨げになっていたことでしょ、
カントはいずれの著作においても活動という要素を考慮という側面とは全く関係していませんし、
れていません。カントは人間の基本的な「杜交性」について詳しカントは、
(communicate) しようとする人間の欲求としての伝達可能性(c ommunicability) と、単に思考するだけでな
ヽヽ
く公表(publish) するための公的自由としての公開11公共性(pub licity)「ペンの自由」を挙げて
ヽヽ
います。しかし彼は活動のための能力も、それへの欲求も知りません。そのためカントにあっては、「私
は何をなすべきか」という問いは、他者から独立した自己の行為に関わるものですこの自己は、人間
にとって知りうるものは何か、またたとえ知ることができないとしても思考することが可能なものは何か
を知ろうとする自己と同じ自己ですし、また不死性に関して何を合理的に望みうるかを知ろうとする自己
とも同じ自己です。これら三つの問いは、基本的なところで極めて単純かつほとんど原初的なレペルで相
互に連結しています。『純粋理性批判』で与えられている、第一の問いに対する回答は、「私は何を知りう
るか」について、そしてまた||I 最終的に、この問いよりも重要な意味を持ってくるー「私は何を知り
えないか」について教えてくれます。カントにおける形而上学的な問いは、まさに「私は何を知りえない
か」に関わるものです。だとしても私は、「私が何を知りえないか」について考えないわけにはいきません。
何故ならそれは、私が最も関心を持っている三つの問題に関わっているからです。それは、神の存在、そ
れなしには生が人間にとっての尊厳を失い、「獣のように」なってしまう自由、そして魂の不死の三つで
す。カントの用語法においては、これらは実践的な問いです。そしてこれらについてどう考えるべきか私
に教えてくれるのは実践理性です。宗教でさえ、理性的存在である人間にとっては、「単なる理性の限界内」
に存在するものです。私の主な関心、私が望みたいと思うものは、未来の生活における至福です。そして、
もし私がそれに値するつまり、もし私が正しい仕方で振舞うのであれば、私はそれを望むことが
許されるのです。―つの講義の、そしていくつかの「省察」の中で、これら三つの問いに第四
39 カント政治哲学講義第三講義38
の問いを付け加えています゜
いう問いです。
更に言えば、
ます。
してカントは、
視です゜
なかろう、
前(presence)
それによって三つの問いをまとめたわけです。
しかしこの最後の問いは、彼の三
「私はいかに判断するか」
まれている論点、
ということですが。
つまり、
から賛同していましたが、
『批判』
という問ぃーこれは、
それは、
書の中には出てきません。
第三「批判」
「人間とは何か」と
の問いですねー|はこれ
ら四つの問いに入ってないわけですから、彼が提起した基本的な哲学的問いのいずれも、
(plura lity)という条件について言及することさえしていないことになります。無論、
人間の複数性
第―一の問いに暗に含
他者がいなければ私がどう振る舞うかはあまり意味がないという論点を除いて、
しかし自己自身に対する義務についてのカントの主張、道徳的義務はあらゆる傾向性
から自由であるべきであり、道徳法則はこの地上の人間にとってだけでなく、宇宙のあらゆる叡知的存在
者にとって妥当すべきである、
だろうとも感じていました。
というカントの主張は、
三つの問いすべての根底にある考えは、
その一方で、
別の言葉それは、
いところで用いてきた言葉ですを使って言えば、
この複数性という条件を最小限にまで限定してい
自己関心であって、世界に対する関心ではありません。そ
「すべての人は幸福を欲する。mnes hommes beat1 esse volunt 」という古代ローマの格言に心
自分が幸福に値するという確信がなければ、
メンデルスゾーン宛の書簡(一七六六年四月八日付)
[10
]
を失うことが、私の身に起こりうる最大の災い」であって、
幸福に耐えられない
カントが何度も繰り返し、多くの場合本筋とは関係な
一人の人間にふりかかりうる最大の不運は、自己蔑
の中でカントは、「自己是認(Selbstbilligung)
他人からの尊敬を失うことが最大の害悪では
したがつて、
と書いています(「私は一人であるけれど、私にとっては、自分自身との調和を失うことよりは、多数の
[11
]
人々と不和になる方がまだましだ」、というソクラテスの発言を思い出して下さい)。この人生におけ
る個人の最高のコールは、この地上で得ることができない至、て追求する他の一切のゴールや目標1 それらのゴールや目標の
心事に比べれば、人々がこの人生にお>
、ずれにしても不確かな五種の進歩クも含まれ中には、自然が私たちの背後で進めているとされる、し
ーは、周辺的な事柄にすぎません。
しかしここで私たちは、政治と哲学との関係というひどく困くとも言及しておく必要があるでしょう。
政治の領域全体に対して哲学者が取りがちな態度について少な
ことをやったのは確かです。彼らは政治哲学を書きまし、、あるいは政
他の哲学者たちが、カントがやらなかった
かしだからといってこのことが、彼らが政治哲学に関してより高尚なったことを意味するわけではありません。そう
治的な関心が彼らの哲学にとってより中心的であったとい
す。ただ、プラトンが『国家』を書いたのが、哲した例は引用し切れないほどた<さんありま
。この考えは、哲学者が政治を楽
王になるべきだ、という考えを正当化するためだったことは明らかです
。考えられる第一の理由は、哲学者が、自分よしむであろう、という理由から出たものではありません
であろうからです。第二に、そのことによって、も劣った民衆によって支配されることは望まない
あの完全な平穏と絶対的平和が国家の内にもたらされ哲学者の生活の最良の条件である、
んでしたが、そのアリストテレスでさえも、政治的生(bios
す。アリストテレスはプラトンに従いませ
のためにあると考えていました。そして哲学者politik os)は最終的には、観想的生活(bios theoretikos)
てさえはっきりと、哲学のみが、人が他者の援身については、アリストテレスは『政治学』におい(42)
述べています。そ
なしに自分だけで独立に楽しむこと(di
,hauton chairein) を可能にすると
41 カント政治哲学講義
第三講義40
の文脈から、そうした独立あるいは自己充足が彼にとって、最大の善の一っであることも分かります(ア
リストテレスにとって、活動的生活のみが幸福を保証することができるというのは確かです。しかし「活動」が、自己
完結的で自分のためになされる「思考と一連の反省」として営まれるのであれば、それが「他の人々への関係を含んだ
(43) (12、
生活である必然性はない」というのです)。スピノザは、ある政治論文のタイトルそれ自体において、自分の
究極目標は政治的なものでなく、哲学する自由(li bertas phi losophandi) であると語っています。そしてホ
ッブズは確実に、他のどんな政治哲学の著者よりも政治的な事柄に密接に関わっていますが(マキアヴェ
ッリ、ボダン、モンテスキューは哲学に関わっていたとは言えません)、その~でさえ、『リヴァイアサン』を執
筆したのは、政治の危険を回避し、人間にとって可能な限りの平和と静穏とを確保するためだったのです゜
これらの哲学者全員ーーl例外になる可能性があるのはホッブズぐらいでしょうーが、人間的諸事象の内
のこの領域全般についてはあまり真剣に考える必要はない、というプラトンの見解に同意することでしょ
う。これらの問題についてのパスカルの言葉は、フランス・モラリストらしい口調になっており、そのた
め不謹慎で、言葉の二重の意味において〈fres h (新鮮11図々しい)〉であり、皮肉っぽく、問題をやや誇張
しているきらいはあるものの、的を外してはいません。
プラトンやアリストテレスといえば、学者らしいどうどうとした服装をしていた人としか、われわれ
は想像しない。ところが、かれらは普通人であって、ほかの人とおなじように、友人たちと談笑した
のだ。またかれらがその『法律篇』や『政治学」の著作に興じたときには、慰み半分でやっていたの
だ。それはかれらの生涯におけるもっとも哲学者らしくない、もっともふまじめな部分であった。も
、るときであった。かれらが政治学を書いたとしっとも哲学者らしい部分は、簡素に平静に生活して>
のであった。またかれらがいかにも重大たら、それは精神病院の規則をつくるために書いたようなも
事を語るような様子をしたとしたら、それはかれらの語りかける狂らである。かれらは狂人どもの狂愚から生じる害悪を、できる(44)
えているのを知っていたか
しようとして、かれらの行きかたにしたがったのである。
43 カント政治哲学講義
第三講義42
たのは、政治と哲学の鷹厨‘別の言い方を前回私がパスカルの『パンセ』の一文を読み上げ
ta ton anthropon pragmata) に対して取ってきた態度に、みな
とんどすべての哲学者が人間的事象の領域(
)卜:刀ミングは最近、「現代の政治哲学の主たるテ)マさんの注意を向けてもらうためです。ロバ
(45)
、哲学と政治の関係である」、と書いています。このは、ポリスあるいはポリスの政治ではなく
アテネにおいて誕生した草創期の政治哲学には。
実際全ての政治哲学に当てはまります。とりわけ、
クテイヴから|| 'つまり、彼の職業的な偏向
政治に対するカントの関係を、こうした一般的なパ)スペ
哲学者一般の特徴であるという前提に立って、と(deformation profess ionnelle) は彼だけの問題ではなく、
いくつかの一致点といくつかの極めて重要な相違点を見出ぃうことです—_考察すると、
ンが、自分の肉体だけが依然都市(ポリ
す。主な最も目立っ一致点は、生と死に対する態度です。プラト
イドン』では、哲学者の生活というのは死に向か
ス)に居住していると語っていること、そしてまた『パ
一般の民衆が正しく洞察していると述べていることを思い起こして
って生きているようなものであると
z46)
、30
ンにとっては歓迎すべきことだったのです。プラト下さし死、つまり肉体と魂の分離は、プラト
て、魂の探求を絶えず妨害するか
分死を愛してさえいました。何故かと言えば、肉体は様々な要求によっ
言い換えれば、真の哲学者は、人間の生命を制約している諸らで五。
単なるプラトンの気まぐれでも、肉体に対して彼が個人的に[
13
]
すべきものの意見」と感覚的経験の迷妄から逃れるためのパルメニデスの天空への旅に含意されています゜
ヘラクレイトスが同胞である市民たちを避けて隠遁したことにも、
天空を指さした人たちの態度にも含意されています゜
含意されていたのです。
とinter hommes esse」と同義であるi そして
は死んでいることと同義であると理解すれば、ピタゴラスの時代以来の哲学における宗派(sect) 的傾
向を理解するための最初の重要な手がかりが得られます゜
間で生きていくべきであるということが前提だとすれば、
ということになるでしょう。
も同じょうな態度を示しています。
えで、
寺を、廿
とのところに、
[14
]
王』1224 '26〕゜
そしてローマ人たちが考えていたように、
第四講義
非常に驚くべきことに、
『弁明』
つまり、
ギリシアの哲学者たちのこれらの証言を評価することには、
ければなりません。「生まれて来ないのが何よりもましだ。
なるべく早< /帰ったほうが、
また、真の故郷はどこかと尋ねられて
イオニアにおける哲学の始まりの内に既に
の中でソクラテスは、
`‘‘
/カ
ることなく、後世の伝統に可能な限り最大の影響を及ほしたのは、
生きていることは、「人々の間にあるこ
「人々の間にあるのを止めることsinere inter hommes esse」
ともかく生きていくべきである、
―つの宗派への引きこもりは、
そして人々の
次善の救済策だ
哲学を最終的に天から地へと引き降したソクラテス
死を夢―つ見ないような眠りに喩えたう
ペルシアの大王でさえ、夢によって煩わされることのなかった一夜よりもすばらしく、楽しかった
(48)
自分がこれまで過ごしてきた多くの昼夜の内から思い起こすのは困難であろう、と述べています。
―つの困難が伴います。これらの証言は、
ソフォクレスの有名な詩句の内に残存している、ギリシア人の一般的なペシミズムを背景として理解しな
この世に出て来てしまった以上は/も
それに次いで、ずつとましだ」[『コロノスのオイデイプス
生についてのこうした感惰は、ギリシア人たちと共に消えました。それに対して、消え
哲学とはそもそも何をめぐるものであ
45 カント政治哲学講義
44
るのかについての評価ですこの場合、
の特殊な経験から語ったかは関係ありません。プラトンの
恐らくないでしょう。哲学とは何よりもまずいかに死すべきかを人々に教えるものである、
人によって共有され、
せん
です゜
古代後期にまで継承されていく観念は、
(こういう発想は非ギリシア的です゜
リシアではその逆に、若者のためのものでした)。
ということが、
(三世紀に)、最善の生に到逹するために何をなすべきかデルフォイの神託に尋ねたところ、「死の色をまと
うがよい」
プラトン以降の哲学者たちの一般的なテーマになったことです。
という答えがありました。
のごとくに生きよ」という意味にも取れますし、
ように、「古人を研究せよ」という意味にも取れます(この逸話は、紀元後三世紀に生きたディオゲネス・ラエ
[15
]
ルティオスによって間接的に伝えられたものなので〔『哲学者列伝J
7•
21〕、デルフォイの神託の言棄もゼノンの解釈
の言葉もいずれも確実なものとは言えないわけですが)。
こうした率直な生への懐疑は、
ことができませんでした。
べき必要性が大いにある、
個々の著者がギリシア特有の経験から語ったか、
ローマでは、ギリシアから輸入された哲学は、老人の関心事でしたが、ギ
神託というのは常にそうですが、
キリスト紀元の時代に入ると、
そうなったのは、
『パイドン』ほど大きな影響を及ぼした書物は
その通俗化されたヴァージョンに他なりま
私たちにとってのここでのポイントは、
ストア派の始祖ゼノンが
この神託も両義的ですね。「死者
あるいは、ゼノン自身がそう解釈したと伝えられている
この問題に対する無関心のため生き残る
ここでの私たちの関心にとりあえずは関係のない理由のため
生に対する懐疑は、特徴的に変容した形で近代の弁神論の内に再び見出されることになります。弁
神論というのは神の正当化ということですが、その背後には当然、私たちが知っている生は正当化される
という懐疑が潜んでいます。こうした生に対する懐疑が、
哲学者として
というローマ
このように死を好む
人間的事象の全領域、
[16
]
「その憂鬱なまでのでたらめさme lancholy haphazardn ess」(カント)の格下げを含意しているのは明らかで
しょう。ここでのポイントは、地上での生が不死でないということではなく、ギリシア人ならそう言うで
あろうように、地上の生は神々のそれのように「容易」ではなく、厄介で、憂慮、心配、嘆き、悲しみに
満ちており、苦痛と不快が快と満足を常に凌駕している、ということです゜
この一般的なペシミズムが背景にありながら、哲学者たちが、生命が死へと定められていることや短
いことについて不平を言わなかったことには一定の意味があります。カントでさえ、「人生がさらに長く
(49)
続けば、ただひたすら労苦と戦い続ける戯れが長引くだけのことだろう」とはっきり語っています。また、
仮に「人間たちが八百歳あまりの寿命を見通すことができる」としても、それは人類にとっていかなる利
益にもならないというのです。何故かというと、「かくも長く生きる人類によって悪徳が高く積み上げれることになり、こうして人間たちは、一面の大地をおおいっくす洪水のなかで根絶される運命にのみ値
する、ということになるだろう」、と述べています。これはもちろん、人類の進歩に対する希望とは矛盾
します。人類の進歩は、古いメンバーの死と新しいメンバーの誕生によって常に中断されます。新しいメ
ンバーは非常に長い時間をかけて、古いメンバーが既に知っており、彼らがもっと長生きできたら更に発
展させたであろう事柄について学ばねばならないのです。
そういうわけで、生そのものの価値が問題なのです。そして、この側面から見た時、古典古代以降の哲
学者の中で、カントほどこの問題についてギリシアの哲学者たちと意見が一致した者はいないでしょうー
ー彼自身はそのことに気づいていなかったわけですが。
47 カント政治哲学講義第四講義46
、‘‘‘‘‘‘‘‘
人生の価値はたんにひとの享受するもの(すべての傾向性の総和という自然的がつて評価されるとすれば、人生がわれわれにとってどのような価値をもつかる。 人生の価値はゼロ以下に落ちる。というのも、同一の条件のもとで、あるたーただし、自然の経過には適合しているー新たな計画にしたがつてすら、もしたたん に享受をめざすとすれば、誰がこの人生を新たに始めようとするであろう峠あるいは、弁神論に関連して次のようにも述べています゜
〔もし神の善性の正当化が、〕人間の運命において、生の快適な享受よりもが誤っていること、何故ならどんな人間でも、どれほど苦しいことが起こるるほうを 望むからである、ということを示すことにあるとすれば……われわれは弁を、誰であれ健全な常識を有して十分に長く生きてきて人生の価値について見に、安ん じて委ねることができるだろう。われわれはただその人物に、まっ任意の別の状況で(ただし、妖精の世界ではなくこの地球上で)人生というを持っているかど うか、という問いを発すればよいのであ麟。
同じ論文の中で、カントは人生を、最良の人間でさえ「自らの生を喜ぶことができない(
semes Lebens
mcht froh wird) 試験期間」と呼んでいます。そして『人間学』では、「人生全般に付き(52)
われる心労」について語っています。これらの箇所では享受、快楽と苦痛、幸福に力点が置かれているので、
こうしたことは、哲学者としてまた人間としてのカントにとって些細なことだろう、と見なすことができ
るかもしれません。しかしカントは、今世紀になってようやく公刊されるに至った数多くの「省察」の中で、
快/不快(Lust und Unlust) のみが「絶対的なものを構成する。なぜならそれらは生活そのものであるか
(53)
ら」と書き記しています。そうかと思うと、『純粋理性批判』には、理性は「幸福に値することと幸福そ
れ自体」が密接に結びついた未来の生活を「想定せざるをえない。さもなければ、道徳的諸法則を空虚な
(54)
幻想(leere Hirngespinste) とみなさざるをえないと知っているからだ」と述べている一節もあります。「私
は何を望んでよいか?」という問いへの回答が、未来の生活であるとすれば、力点は不死性よりもむしろ、
より良い生(abetter kind of li fe)に置かれていることになりますね。
ここでまずカント自身の哲学を吟味して、彼がどのような思想によってこの根深い憂鬱気質を克服しよ
うとしたか見ていくことにしましょう。というのも、これがカント自身の問題であったことは明らかであ
り、彼自身がそのことをよく知っていたからです。「憂鬱質の人」についての次の記述は、たしかにカン
トの自画像になっています。この気質の人は、
他人の判断する事柄、他人が何を善や真と見なすかということを、ほとんど気にかけない〔自立的思
考Selbstdenken 〕……誠実は崇高であり、彼は嘘やごまかしを憎む。彼は人間本性の品位についての
高邁な感情を持っている。彼は自分を尊重し、人間を尊厳に値する者とみなす。彼はいかなるさもし
い従属にも耐えられず、気高い胸中に自由を呼吸している。ひとが宮廷でつけている黄金の鎖から、
49 カント政治哲学講義第四講義48
ガレー船の奴隷の重い鉄鎖に至るまで、
審判であり、
彼にはあらゆる鎖が厭わしい。彼は自分自身と他人の厳格な
自分にも世間にも厭わしく思われることもまれではない。:
..
: 彼は空想家や変わり者に
(55)
なる恐れがある。
でも私たちの探求においては、カントが、学説も、またこうした彼特有の憂鬱質も共有していない他の
哲学者たちと、人生についての一般的な評価を共有していた点を忘れないようにしましょう。
二つの特殊カント的な思想が思い浮かんできます。第一の思想は、啓蒙の時代が進歩と呼んだものの
中に含まれています。進歩については既に述べた通りです。進歩とは人類の進歩であり、したがつて各
個人にとってはほとんど役に立ちません。しかし、歴史全体における進歩、人類全体にとっての進歩と
いう思想は、特殊的なものを度外視し、人々の関心を、(「普遍〔一般〕史の理念Idea of a Universal
[G
enera
]l
History 」という論文のタイトル自体に見られるような)「普遍的なものuniversal 」や全体に向けさせます普
遍的なものあるいは全体のコンテクストの中で特殊的なものが意味を持つようになり、また翻って、普遍
的なものあるいは全体が存在するには特殊的なものが必要になる、という相関関係にあるわけですが。こ
うした、それ自体としては意味のない特殊的なものから、特殊的なものの意味の源泉である普遍的なもの
への、いわば逃避は、当然、カントに特有のことではありません。この点での偉大な思想家は、存在する
全てのものへの黙従、運命への愛(amor fati) を信条としたスピノザです。しかし、カントの内にも、「文
化」の産出のために、戦争、大災害、そして明白な害悪や苦痛がいかに必要であるかという発想を繰り返
し見出すことができます。そういうものがなかったら、人々は単なる動物的満足という粗野な状態に再び
埋没してしまうことになろう、というのです。
第二の思想は、個人としての人間の道徳的尊厳についてのカントの考え方です。この講義の中で、ぜ人間が存在するのか」というカントの問いに既に言及しました。カントによれば、この問いは、私ヽヽ
が人類を他の動物の種と同じ水準にあるかのごとV ーある意味、現実に同じ水準にあるわけですがI
、‘‘‘‘‘
みなす場合にのみ、意味をなします。「道徳的存在者としての人間(また、同様に世界におけるあらゆる理的存在者)については、人間はなんのために(quern in finem) 現存しているのか、と問うことはもはやでき
など。というのも人間は、目的それ自体だからです゜
そういうわけで私たちは、人間的な事象を考察するための一二つの極めて異なった概念、あるいはパース
ペクテイヴを獲得しました。人類とその進歩、道徳的存在者かつ目的自体としての人間、そして、複数形
のク人々
men" の三つです。この最後の複数形のク人々クは、実際私たちが進めている考察の中心に位置
ヽヽヽ
しており、その真の「目的end」は、既に言及したように、社交性(sociability) です。これら三つのパー
スペクティヴの区別は、カント理解にとって不可欠な前提条件です。カントが人間について語る場面では
常に、彼が人類のことを語っているのか、あるいは、道徳的存在者、すなわち字宙の他の部分にもるかもしれない理性的な被造物のことを語っているのか、それとも、地球の現実の住人である/人々クに
ついて語っているのかを分かっておくことが必要です゜
要約すると次のようになるでしょう。
人という種(H
uman species) 11人類(Mankind)11自然の一部11 「歴史」、つまり自然の狡知に従属して
いる11「目的」の理念の、目的論的判断力の下で考察されるべきであるーー'『判断力批判』第二部。
51 カント政治哲学講義第四講義50
第五講義
人間(Man) II理性的存在者であり、自分自身に与える実践理性の諸法則に従属しており、自律的、の国(
Geisterre1ch) 、英知的存在者の国に属する目的それ自体であるー『実践理性批性批判』゜
C0 mmon sense) /共通感覚(seusus communis) 、共同体
人々(Men) 11諸々の共同体の中に生き、常識(
感覚(community
sense) を賦与されている地上の被造物。自律的ではなく、思考(「ペンさえ同伴し合うことを必要とする11『判断力批判』第一部こ美的判断力。
前回私は、哲学者としてのカントが人間的諸事象の領域に対して取る態度が、他の哲学者たち、特に
プラトンのそれと、どのように一致しているか、また異なっているか指摘したい、と述べました。そこで、
しばらくの間、この主要テーマに話題を限定することにしましょう。つまり、地球上の人間に与えられて
いる生そのものに対して哲学者たちがどういう態度を取ったかです。『パイドン』での議論を思い起こし
て下さい。この著作では、哲学者がある意味死を愛してしまうことについて、その動機が述べられていま
すね。ここから、プラトンは肉体の快楽を軽蔑していたものの、不快が快楽を上回ることについて不平を
述べているわけではないことが分かります゜問題はむしろ、快楽が不快と同様に精神を混乱させ、道を踏
み外させること、真理を求めようとする時に肉体が重荷になるということです。真理は、非物質的で感覚
的知覚を越えたものであるので、同じく非物質的で感覚的知覚を越えた魂の眼によってしか、知覚されえ
ません。別の言い方をすれば、真の認識は感覚によって惑わされない精神によってのみ可能になるのです。
無論、これはカントの立場ではありえません。というのも、彼の理論哲学は、全ての認識が感性と悟性
の相互作用と協働に依拠しているという立場を取っています。彼の『純粋理性批判』は、人間の感性の賛
美ではないとしても、正当化であると見なしてよいでしょう。伝統の強い影響の下にあった青年時代のカ
ントは、肉体に対する一種のプラトン的な敵意を表明し、肉体は思考の迅速性(Hurtigke it des Gedankens)
(57)
を妨げ、それによって精神を制限し妨害すると不満を述べていましたが、そうした青年時代においてさえ、
53 カント政治哲学講義第四講義52
肉体と感覚が誤謬と悪の主要な源泉である、
実際問題として、
ンの名は平等です゜
理性批判』
しかし、
求するのか。
とは王張していませんでした。
このことには二つの重要な帰結があります。第一に、
たち全てが有する経験を明らかにする者です。カントは、
も、パルメニデスの天空への旅に加わることができるとも主張しませんでしたし、
メンバーになるべきだとも考えていませんでした。カントにとっての哲学者は、哲学者仲間だけで生活す
ヽヽ
るのではなく、みなさんや私と同様に、普通の人間仲間と共に生活する普通の人間であり続けます。第ニ
に、カントは、一度でも生について反省したことがある良識(good sense) の人でさえあれば、あらゆる
普通の人が、快/不快という視点から生を評価する仕事プラトンや他の哲学者たちは、多数の人はあ
るがままの生活に全く満足しているので、
すが1 を担うことができると考えてよい、
翻って考えてみれば、
からの引用で、
関しては、最高の哲学といえども、
げることはできないということを、
これと一緒に、『純粋理性批判』
カントにとって哲学者とは、私
[17
]
哲学者はプラトンの洞窟を去ることができると
そうした評価は哲学者だけの仕事であると主張していたわけで
と主張しています。
これら二つの帰結が、同じのコインの両面にすぎないのは明らかです。
カントの著作の三つの有名なくだりに即して考えてみましょう。最初の二つは
ある異論に答えたものです゜
すべての人間に関わる認識は、常識〔普通の悟性〕
哲学者が―つの宗派の
を凌駕すべきであるということ、
諸君にとってはただ哲学者たちによってのみ発見されるべきであるということを、
このコイ
そして
諸君はそもそも要..
:・・人間に無差別に付与されているものにおいて、自然はその賜物をえこひいきして分
かち与えたという罪を帰せられることはありないということ、そして、人間本性の本質的な諸目的に
自然が最も普通の悟性に対しても与えた指導以上のことを成(58)
人は発見するのである。
の最後の一節を考察してみましょう。
もし読者が私と連帯してこの道を遍歴する好意と忍耐とをもたれている場合していただきたい、すなわち‘}ヽJかい笙がか置いがぃために自分自身を捧げる気持ちが読合、何世紀にもわたって成就できなかったことが、まだ今世紀が過ぎ去らぬうちに達成されないのだ
ろうかどうかを、つまり、人間理性の知識欲をいつも没頭させたもの、しかしで没頭させたものにおいて人間理性を完全に満足させることが、今世紀が(59)
ないのだろうかどうかを、いま判断していただきたいのである。
三つ目に挙げるよく引用されるくだりは、自伝的な内容になっています。
私は傾向性からしても探究者である。私は認識への全き渇望と、認識において落ち着きのない好奇心と、またあらゆる認識の獲得に対して満足を感じている誉を なしうるのだと私が信じ、何も知らない俗衆を軽蔑していた時代があ戻してくれた。この優越の欺きは消え、私は人間を尊敬することを学ぶ、そして、もしこの 考案だけ
『純粋
55 カント政治哲学講義
第五講義54
が他のすべての考察に、
かったならば、
哲学すること、
人間性の権利を作り出すという価値を与えることができるのだと私が信じな
(60)
私は自分を俗な労働者よりもっと役立たずだと見なすことだろう
あるいは私たちが知りうるものの限界、人間の認識の境界線を超越する理性の思考は、
カントにとって、一般的な人間的「欲求need
」、言い換えれば、人間的な能力としての理性の欲求です゜
そうした哲学の営みにおいて、多数者と少数者が対置されることはありません(もしカントの中に少多数者を区別する線があるとすれば、それはむしろ道徳性の問題でしょう。人類の「反則発生地点foul spot 」は嘘をつ
<ことであり、それは一種の自己欺隔と解釈することができます。「少数者」は、自分自身に正直な人し、この古くからの区別が消失すると、それに伴って奇妙 な事態が生じてきます。哲学者のも消失してしまうことになります。哲学者はもはや政治に対して特別な関心(interest) も抱かなくなりま
す。哲学者には私利(
self
,
interest)がないはずなので、多数者に対して哲学者を守ってくれる権力や憲法
の必要性(
need)もない、ということになります。カントはアリストテレスと共に、プラトンに反する形(61 )〔咆
哲学者が支配すべきではなく、支配者が進んで哲学者の言葉に耳を傾けるべきた、という見ています。しかしカントはまた、哲学的な生活様式が最高であり、政治的な生活様式は結局、観想的生活
(
bios theoretikos) のために存在するというアリストテレスの見解には同意していません。全ての階層的造の廃棄を意味する、このヒェラルキーの廃棄によって、政治と哲学の間の古<からの緊張関係も消失し
ます。その結果、政治、そして「精神病院」用の規則を制定するための政治哲学を書く必要[
19
]
の差し迫った務めではなくなります。エリック・ヴェイユの言葉を借りれば、それはもはや(62)
っての気がかりの源泉ではなくなる。それは、歴史と共に‘―つの純粋に哲学的な問題となる」のです゜
更にカントは、生そのものにのしかかっているように見える重荷について語る際、快楽の興味深い本性
を示唆しています。それは、プラトンも別の文脈で語っていることです。それは、あらゆる快は―つの不
快を排除するものであり、快しか含まない生は、実際には一切の快を欠いたものになってしまうとい
うのは快を感じることも楽しむこともできなくなるからですという事実です。つまり、それに先立っ
欠如の記憶に悩まされることなく、また、その後に確実に生じる損失の恐れに悩まされることもない全く
純粋な満足などありえない、ということです。魂と肉体の確固として安定した状態としての幸福は、地上
の人々にとっては考えられないことなのです。欠乏が大きければ大きいほど、また不快が大きければ大き
いほど、快もその分だけ強烈になります。この規則には一っだけ例外があります。それは私たちが美に直
面する時に感じる快です。カントは、この快を言い表すためにことさら異なった言葉を選んで、「没利害
的な満足uninteress iertesW ohlgefallen 」という言い方をしています。一度も書かれることのなかった彼の政
治哲学の中で、この概念がいかに重要な役割を演じているかは後で見ることにしましょう。カント自身は、
彼の死後出版された「省察」の一っで、「人間が全くの自然芙によって感動するという事実は、人間がこ
(63)
の世界のために創られ、この世界に適合していることを示している」と書いていますが、それはこの快の
ことを指しています゜
ここでしばらく、カントが弁神論、つまり理性の法廷の前で創造者を正当化する議論を書いたと想定
したうえで、話を進めていくことにしましょう。私たちは、実際には彼がそういうものを書きはしなかっ
たことを知っています。むしろカントは、「弁神論の哲学的試みの失敗」についての論文を書いています゜
57 カント政治哲学講義第五講義56
『純粋理性批判』

では、神の存在証明が全て不可能であることを証明しています(カントはヨフの
立場を取っていますこ神の道は不可解なり)。だとしても、カントが弁神論を書いたとすれば、そこでは世界
における諸物の美という事実が重要な役割を演じることになるでしょうーーl有名な「自己の内なる道徳法
則」、つまり人間の尊厳という事実と同じくらい重要になるはずです(弁神論というのは概して、以下のよう
な論法を取ります。全体を見るならば、自分が不平を言っている特殊なものはその全体の一部分であること、そしてまた、
全体の一部としてその存在が正当化されることが見て取れるはずだ、というような論法です。オプティミズムに関する
(64)
初期の論文(一七五九年)でカントは同じ様な立場を取っています。「全体は最善であってすべてのものは全体のため
に善である」。カントはこの中で、「私はすべての被造物に向かって呼びかけたい。
....
:我々の存在に祝福あれ!」と書
いていますが、後になっても、こういう風に書くことができたかどうか疑わしいところです。しかしこの贄美は「全体」
の賛美、つまり世界の賛美です。青年時代のカントは依然として、そもそも世界の中に存在している以上、そのことに
対する生活上の代償を喜んで支払おうとしていたのです)。これはまた、カントがあれだけの尋常でない激しさ
で、「思わせぶりの賢者たち」を攻撃した理由でもあります。彼らは二われわれ人間にとって住処である
地上世界を非常に軽蔑すべきものとして紹介するために」ヽ「部分的には吐き気をもよおすような比喩」を
駆使してきた、というのです。
ヽヽヽ
(-)旅人宿(隊商宿)として〔の地上世界〕:…•その旅人宿では、自分の生涯の旅において立ち寄る
ヽヽヽ
者は誰でも、まもなく後続の者によって追い出される覚悟をしておかねばならない。(二)刑務所と
ヽヽヽ
して〔の地上世界〕:
..
:転落して天から追放された霊魂を懲戒し浄化する場所である。(三)瓶罰病
、‘‘‘ 院として〔の地上世界〕……。最後に、(四)下水溝として〔の地上世界〕。そこには他の世界からの
(65)
ありとあらゆる汚物が投げ込まれてきた…・・・全宇宙の便所…·:0
そこでさしあたり、次のように想定したうえで話を進めて行きましょう。世界は美しい、従って人が生
きるに相応しい場所です。しかし個々の人間は決してもう一度生きることを選択しない。道徳的存在者と
しての人間は、目的それ自体である。しかし人類は進歩に従う無論、人間が進歩に従うという想定は、
道徳的で理性的な被造物としての、目的それ自体としての人間という見方とある意味対立しています゜
カントの内に政治哲学は存在するが、他の哲学者たちとは違って、カントはそれを書かなかった、とい
う私の主張が正しいとすれば、次のことははっきりしています。そもそもカントの政治哲学なるものがあ
るとすれば、私たちはそれを、通常「カント政治哲学」というタイトルの下に集められるごく少数の論文
だけでなく、彼の著作全体の内に見出せるはずだ、ということです。もしカントの主要著作に政治的な含
意が全くない一方で、政治的主題を扱う周辺的な諸論考には、彼の厳密な意味での哲学的著作とは関連の
ない単なる周辺的な思索しか含まれていないとすれば、私たちの探求は的はずれか、せいぜい骨董的関心
でしかないでしょう。だとすれば、そういうものに関わることは、カントの精神そのものに反することに
なるでしょう。何故なら、単なる物知りの情熱はカントとは異質なものだからです。「省察」の一っで彼
自身が書いているように、カントには「自分の頭を羊皮紙みたいにして、書庫の中の古くて半ば消えかけ
(66)
た文書をそこに筆写する」つもりなぞなかったのです。
今となってはもう誰も驚かないけれど、でも依然として考察に値する問題から話しを始めましょう。サ
そして
59 カント政治哲学講義第五講義58
E21
]
ルトルを除けば、
いません。
カントの前にも後にも、「批判」というタイトルの付いた有名な哲学の本を書いた人は
カントが、まるで全ての先行者を批判しようとするかのような、この驚くべき、そしてい<
ぶん見下すような書名を選んだ理由について、私たちにはほとんど分かっていませんが、見方を変えあまりにも分かりすぎていると言うこともできます。カント がこの言葉によって、単に先行者を批という以上のことを意図していたのは確かですが、否定的な意味合いが彼の内に全くなかったわけではりません。「純粋理 性の全哲学の最大かつ恐らく唯一の利益は、たしかに消極的(
negati ve)なものにすぎ
ない」ーっまり、理性を「純粋」にし、いかなる経験や感覚も理性の思考の中に入り込まないように保
証するということです。「批判」という語についてカントは、彼自身が指摘しているように、「批(
criticism )
の時代」、つまり、啓蒙の時代から示唆を受けたのでしょう。「本来の啓蒙を成り立たせるものは、もっぱ
(68)
らその消極的態度」である、とカントは述べています。この文脈での啓蒙とは、偏見からの自由、らの自由、浄化の業を意味します。
現代は、すべてのものがしたがわねばならない批判の本来的時代である。宗教……そして立法は、共
通に批判から免れようとする。しかしその際、両者は自らに対するしかるべき嫌疑を引き起こりのなき尊敬を要求することはできない。尊敬とは、理性がその自由で公開の吟味に持ちこたえる(69)
とができたものにのみ是認するものである。
こうした批判の帰結が、自立的思考(Se lbstden ken )
ヽ つまり「自分自身の精神を使用すること」です゜
自分自身の精神を使用することによって、カントは「理性のスキャンダル」を発見しました。「理性のス
キャンダル」とは、私たちを迷わせるのは、伝統や権威ではなくて、理性の能力そのものであるというこ
とです。従って「批判」は、理性の「源泉と限界」を発見する試みを意味します。そういうわけでカン
ト自身は、自らの批判を「体系のための予備学」であると考えていました。そうした意味での「批判」は、
「教説doctrine J に対置されます。カントは、伝統的な形而上学の誤りは「教説」それ自体にあるわけで
はないと考えていたように思えます。批判とは、「建物を構成するすべての部分の完全性と安定性とを十
(70)
全に保証することによって……全計画を建築術的に構想すること」を意味します。そのようなものとして
の批判が、他の全ての哲学体系の評価を可能にするわけです。このこともまた、一八世紀の精神と結び付
ヽヽヽヽ
いています。つまり、美学、芸術及び芸術批評(art critic
包sm)への大いなる関心と結び付いているわけです。
芸術批評の目標は、趣味の規則の策定と芸術における基準の確立です゜
最後に、そして最も重要な点として、「批判」という語は、一方では独断論的形而上学、他方では懐疑
論に対立するという、二重の対立関係において用いられるということを指摘しておきましょう。両者に対
する回答が、「批判的思考Criticalthink ing」であったわけです。批判は両者のいずれにも屈しません。そ
ういう意味での「批判」は、思考の新しい道であって、新しい教説のための単なる準備作業には留まり
ません。つまり、一見消極的に見える批判の営みの後に、一見積極的に見える体系構築の営みが行われ
る、ということではないのです。現実には、カント後の哲学は体系構築の方向に向かって行ったわけです
が、カント的な見地からすれば、それはもう―つの独断論(dogma ti sm)にすぎません(この点についてのカ
ントの態度は、全くもってクリアであったとも、その逆に全くもって曖昧であったとも言うわけにはいきません。もし
61 カント政治哲学講義第五講義60
ヽヽ
カントが、自分自身の批判を契機として、
たれていく様を見届けることができたとすれば、彼の態度はもう少しクリアになっていたかもしれませんが)。
によれば、
たのです゜
批判的思考が独断論と懐疑論の間のどこかに位置すると考えるのは、
う。実際には、
判的思考とは、古い形而上学的な諸学派||'ヴォルフ及びライプニッツと、
せてくれたヒュームの新しい懐疑論の双方を克服するカント流のやり方です)。
的なところから出発します。哲学において独断論的であるか、
信じて一切の問題を解決しようとするかのいずれかである、
によって引き起こされます。懐疑論は、
恣意的に
批判と啓蒙の時代| |つまり人間が成人に達した時期ー| lにあって、
批判的思考とは、
めて見せるだけでよい、
フィヒテ、シェリング、ヘーゲルたちが全くもって思弁的な実践へと解き放
こうした二者択一を越えていく道なのです(列伝的な言い方をすれば、批
(arbitrarily) 選択してもよい、
あるいは、
という意味で独断論的です゜
の内なる独断論に対する、最初の反作用が懐疑論です。この反作用は、
ヽヽヽ
れ自体(
the trut h)を所有すると言い張る、多数の教義(
many dogmas)を不可避的に経験させられること
真理のようなものはなく、
プラグマティックなものであってもよいわけです)。あるいは、
ということになるかもしれません。
カント
哲学自体が批判的になっ
大きな勘違いだと言うべきでしょ
カントを独断のまどろみから目覚めさ
私たちは皆、何らかの形で独断論
なんらかの教会の教義や啓示を
こうした自ら

そのいずれもが自分こそが真理そ
したがつて私はある独断論的な教説を
という結論に通じる可能性があります(この場合の「恣意的に」と
いうのは、真理に関して任意に(arb itrari ly)、ということであり、私の選択が様々な利害から促されて、全くもって
そうした無益な仕事に対しては、単に肩をす<
本当の懐疑論者が「真理は存在しない」と明
言したとすれば、彼は独断論者によって直ちに次のような反論を受けるでしょう。「しかし君はそう明言
君は、することによって、君が主がぃ真理を信じていることを暗に語っている。真理はう君の明言の妥当性を主張しているのだから」。ここで、独断論者が勝っ たようには、議論の上での話でしかありません。懐疑論者は次のように答えることができ弁だ。たとえ私が明白な矛盾なしに言葉で表現できないとしても、君は 私が言わょ<分かっているではないか」。それに対して独断論者は言うでしょう。「分かっ逆らっているんだよ」。独断論者は通常かなり攻撃的な性格ですか ら、は矛盾を理解できるほどに知性的であるのだから、君は真理を破壊することに関心(interest) がある、と
私としては結論せざるをえない。君はニヒリストだ」。批判の立場は、この両者に反対します。批判は謙
遜さによって、自らの存在をアピールします。以下のように言うことでしょう。「たとえ人間が、自ら精神的プロセスをコントロールするために真理の概念ある いは観念を持っているしての人間には、恐らく、真理かか臣似を保有する力はないだろう(ソクラテスしかしその一方で、人間が、自分たちに与えられているあ るがままの諸能力を探求す可能であるー| 私たちはそれらの諸能力が、誰から、どのようにして与えられたか知らないそれらの能力と共に生きねばならない。だから、私たちが何を知りうるか、そして何 しようではないか」。これこそが、カントの著書が純粋理性の『批判』と題された理由です63 カント政治哲学講義
第五講義62
前回は、「批判」という用語について論じました。カント自身の理解によると、こ取った用語です。話を進めて行く内にカント自身の解釈を踏み越えてしまった かもにはカントの精神の内に留まったつもりです。カント自身が語っているように、後世の人者が自分を理解した以上に著者をよく理解すが」ということがあり ます。カントの内に批(
criticism)
という消極的精神が不在であったわけではないけれど、批判(criti
que)ということでカントが意図したのは、
「書物や体系の批評ではなく、理性能力そのも店」の批判であったといれから、カントが独断論と懐疑論の間の不毛な二者択一から抜け出す道を見出したと自と いう話もしました。懐疑論は通常、「まったくの無関心、つまり諸学における混します。懐疑論者と独断論者の間の対話という形で、あまりにも多くの真理(あ るいは、が真理
the truth を所有するとうぬほれる人々、そして彼らの間の激しい抗争)に直面して、「真理はと主張する懐疑論者のこと、そして、そうした懐疑論者が、全ての独断論者 を団結さの言葉を口にしてしまうだろうということについても話をしましたね。この闘いに批判11批評家が割って
入り、警盆飛び交う試合を中断させて、次のように語ります。「あなたたち双方が、疑論者も同じ真理概念を持っているように見えますよ。あなたたちの共有す る真理概はその定義によって他のすべての五(理クを排除してしまう性質を持っているようで概念は結果的に、全ての五真理クが相互に排除し合う状態を生み出 します。恐らく、あなたたちの真理概
念に何らかの誤りがあるのでしょう」。批判家は更に付け加えて言うでしょう。「恐らく有限な存在者であ
る人間は、真理についての一定の観念を持つことはあっても、真理そのものを所有することはできないで
しょう。だからまず、真理なるものが存在すると私たちに告げる、私たち自身のこの能力を分析してみよ
ヽヽヽ
うではありませんか」。「思弁的理性を制限する批判が、その限りにおいて消極的である」ということに疑
いの余地はないでしょう。しかし、そういう理由から11この理性に対して(for this reason) 、「批判のこう
ヽヽヽ
した任務の積極的な効用」を否定することは、「警察の主要な仕事が、各市民が自らの用務を落ち着き安心
して営むことができるように、市民が市民相互からのそれを警戒しなければならない暴力行為を阻止するこ
(74)
とにすぎないという理由で、警察は何ら積極的効用をなすのではない、と言うことにまさに等しい」と言え
ます。カントがその『批判』、つまり、私たちの認識能力の分析を終えた時、メンデルスゾーンは彼を「一
切の粉砕者All es'Zermalmer 」と呼びました。つまり、いわゆる形而上学的な事柄について「私」がそもそ
も何かを知ることができるという信念、形而上学のような「学」が他の諸学と同じ妥当性を有するものと
して存在しうるという信念の粉砕者である、というのです。
しかしカント自身は、自分の企ての破壊的な側面をはっきり見て取っていたわけではありません。彼は、
それまでしばしば攻撃を受けながら何世紀にもわたって持ち堪え、近代に至るまで持続したこの形而上学
、‘‘‘
の機構全体を、自分が実際に解体したのだ、ということを理解してはいなかったのです。カントは時代精
、、、、、、、‘‘‘
神に全く同調して、こう考えていました。「損失は、ただもろもろの学派の独占にのみ関わるのであって、
決してもろもろの人間の利益に関わるのではない」。「公衆(d
as Publik um ) のもとにまで到達し、彼らの
第六講義
65 カント政治哲学講義64
(75)
確信にほんのわずかの影響も与えることができない、細密ではあっても無力な概念区分」から人々は的に解き放たれることになるだろう、というのです(私が今読みあげているのは、『純粋理性批判』の二つの序
言に含まれているくだりで、カントが別の箇所で「読者である公衆」と呼んでいる人々に向けられたものです)。そし
てここでも再び、「諸学派の傲慢な自負」に対立する論点が取り上げられます。彼らは唯一の「真理の所
有者」であると言い張っているけれど、この真理は「一般的な人間的関心事」であるにとどまらず、「ゎ
(16)
れわれにとって最も尊敬に値する大多数の人々が、たやす<到達することのできる」ものなのです。これは、
大学に関する話ですが、カントはこの問題に対して政府の取るべき態度について、次のように付け加えて
います。もし政府が干渉するのが適当だと考えるのであれば、「諸学派の嘲笑すべき専制を支持するよりも、
:•そうした批判の自由を助成する方が遥かに賢明だろう。これら諸学派は、彼らのもろもろの蜘蛛の巣〔諸
体系・諸思想〕が引き裂かれる場合には、公共の危険について大声を挙げるのであるが、けれども公衆は
彼らの蜘蛛の巣には一度たりとも注目しなかったのであり、したがつて、その損失を感知することも決し
(77)
てできない」。
私は最初に予定したより多くの箇所を読み上げました。そうしたのは、一っには、これらの著作が書か
れた雰囲気を少し感じてもらうためであり、もう一っには、こうした議論の帰結が、武装蜂起を引き起こ
すわけではないにせよ、最終的にカント自身が予想していたより少しばかり深刻なものとなったからです゜
雰囲気について言えば、啓蒙のメンタリティはその最高水準のままで長続きすることはありませんでした。
このことは、青年ヘーゲルに代表される、次の世代の態度と対比すれば、分かりやすくなるでしょう。
哲学はその本性からして、群衆のために営まれるものでもなければ、群衆のために準備されることも
できない、秘教的なものである。哲学が哲学であるのはもっぱら、それが悟性に、更に言えば、世代
ごとの地域的・一時的な制約としての常識に対立する限りにおいてである。この常識との関係では、
(78)
哲学の世界はそれ自体として‘―つの転倒された世界なのである。
哲学の始まりは、普通の意識によって与えられる真理を越えて、より高次の真理を予告することでな
(79)
ければならないからである。
進歩という視点で考えれば、このことは確かに、哲学がその始まり以来そうであったものへの「後戻り」
でしょう。そしてヘーゲルは、プラトンが、笑うトラキアの農夫の娘のことを大いに憤慨しながらタレス
について語った話を繰り返しているわけです。カントの批判哲学がかなり早い時期からもう―つの「体系」
として理解されるようになってしまったこと、そして、この哲学にインスピレーションを与えた啓蒙の精
神が失われた時、もう―つのヶ体系クとして次の世代から攻撃されるようになったことについて、カント
自身も責任を免れることはできないでしょう。
しかし、この「後戻り」がドイツ観念論の諸体系と共に進行し始めた時、カントの息子たちの世代、ま
た彼の孫や曽孫にあたる世代|ーlマルクスからニーチェまでーは、見かけ上ヘーゲルの影響の下で、哲
というのは、
67 カント政治哲学講義第六講義66
学を全面的に放棄することを決意するに至りました。概念史の視点から考えてみれば、次のように言うこ
とができるでしょう。「理性批判」の帰結は、批判的思考の樹立、あるいは、嘩理性と哲学的思考は無用の
ものであり、制限と浄化としての「批判」というカントの観念とは逆に、「批判」とは思想が把握してい
るあらゆるものを思想の中で破壊することを意味するクという「洞察」のいずれかである、と。
ヽヽ
そのタイトルに批判という用語を使っている著作がもう一冊あります。それに言及することを忘れてい
[23
]
ました。マルクスの『資本論』はもともと『政治経済学批判』と呼ばれており、その第二版へのマルクス
の序文は、弁証法的方法が同時に「批判的で革命的」であることに言及しています。マルクスは、自分が
何をしているか知っていました。マルクスは、彼の後の多くの者がそう呼び、かつてヘーゲルもそう呼ん
[24
]
でいたように、カントを「フランス革命の哲学者」と呼びました。ただし、カントにとってはそうではな
かったわけですが、マルクスにとっては、理性を実践へ結合するものが批判だったのです。つまり、批
判は両者を関係づけるもの、言ってみれば、両者を媒介するものであったのです゜旧体制(
ancien regime) ヽヽヽの理論的解体に、それを破壊する実践が続いた例として、批判と啓蒙の時代の後にフランス革命という出
蕊〕
来事が続いたことを挙げることができるでしょう。この例は、「理念が大衆を掴む」さまを物語っている
ように思えます。ここでのポイントは、これが真であるかどうかーー'革命がこのようにして起こったかど
うか| —ということではありません。ポイントはむしろ、マルクスがそうした視点で思考したのは、彼が
カントの巨大な企てを啓蒙の最大の業績と見なし、カントと共に、啓蒙と革命は同じ部類のものだと信じ
ていたからである、ということです(カントにとって、理論を実践に結合し、理論から実践へと移行させる「中間
項」は判断力です。彼は実践家11実務家(pract it1oner) を念頭に置いていました例えば、医師あるいは法律家は
最初に理論を学んで医学あるいは法律を実践しますし、その実践の本質は自分の学んできた諸規則を個別事例に適用す
(80)
ることにあるわけです)
批判的に思考すること、つまり、偏見を通り抜け、吟味されていない意見や信念を通り抜けて、思想の
道筋を切り拓< ことは、古より哲学の関心事でした。それが意識的に企てられるようになった時期は、ア
テネにおけるソクラテスの産婆術にまで遡ることができるでしょう。カントはこの繋がりに気づいていな
かったわけではありません。彼は、「ソクラテス的な仕方で」議論を進め、全ての反対者を「〔彼らの〕無
(81)
知の最も明白な証明」を通じて沈黙させてやりたいと明言しています。ソクラテスとは違って、カントは
(82)
「形而上学の将来の体系」の存在を信じていましたが、彼が最終的に後世に残したのは批判であって、体
系ではありません。ソクラテスの方法の本質は、相手からすべての根拠付けられていない信念と「無精卵」
(83)
彼らの心を満たしている単なる空想を除去することにあります。プラトンによれば、ソクラテス
厨〕
はこれをクリネイン(krin
em)の術、つまり区分けし、分離し、区別する術(識別の術techne dia kritike) に
よって行ないましだ。(ソクラテスではなく)プラトンによれば、その帰結は、「知識の道を妨げる思い込み
からの魂の浄化」です。ソクラテスによれば、自らを吟味しようとする知識はどこにもなく、彼の対話相
手の中で無精卵でない卵を産んだものはいませんでした。ソクラテスは何も教えませんでした。彼は自分
が立てた問いに対する答えを知らなかったのです。彼はまさに吟味のために吟味を行ったのであり、知識
のために吟味したのではなかったのです。もしソクラテスが勇気、正義、敬虔等々が何であるかを知って
いたら、彼はもはやそれらを吟味する、つまり、それらについて考えたいという衝動を持たなかったでし
ょう。ソクラテスのユニークさは、その掃結に関わりなく、このように思考それ自体に集中したことにあ
69 カント政治哲学講義第六講義68
ります。この企て全体の背後に隠れた動機、あるいは隠れた目的のようなものが吟味を経ていない生活は生きるに値しない。それが全てです。ソクラテスがプロセスーっまり私の内で、私と私自身の間で、無言で進行していく対話1 を、言説において、公恥
ヽヽヽ
のものにすることでした。彼は、フルート奏者が晩餐会で演奏(
perform )するようなやり方で、市場で膏
技盲rform) しました。それは純粋なパフォーマンス、純粋な演技11 活動(
action)
です。そして、まさに
フルート奏者がうまく演奏するためには何らかの規則に従わねばならないよう支配する唯一の規則である一貫性(consistency) の規則|_『判断力批判]の中でカントはそう呼んでい(85)
ます_|を‘あるいは、後に無矛盾性の公理と呼ばれることになるものを発見しクラテスにとって「論理的」(「無意味なことを語ったり、考えたりするな」)、、、、、、‘
人であるけれど、私自身との調和を失う、つまり自己矛盾するよりは、多数の人々[
27
]
アリストテレスによって思考の第一原理となりました1 ただしそれは思考のみの原理ということですが。
しかしカントにあっては、その道徳的教理全体が事実上これに基づいており性が再び倫理学の一部になりました。何故かと言えば、カントの倫理学も盤にしてい るからです。つまり、「汝の行為の格率が、―つの一般的法則となるうに行為せよ」ということですね。この場合の一般的法則とは、自分自身が従うであろう法 則ということ
です。ここでもまた、思考と行為の双方を規定しているのは、同じ一般的規則です;自分自身と矛盾する
なかれ(この場合の自分自身(yourself) とは、自分の自己(your self) ということではなく、自分の思考する自我(
your
thinking ego) ということです)。
ソクラテスの流儀は、別の理由からカントにとって重要でした。ソクラテスはいかなる宗派の一員でも
ありませんでしたし、いかなる学派をも創設しませんでした。ソクラテスが「哲学者thephilosopher 」の
象徴となったのは、彼が市場にやって来る全ての人を相手にしたからです。彼は全ての質問者に対して、
彼の発言に説明とその実行を求める全ての要求に対して、全く無防備にオープンな態度を取っていました。
学派や宗派がカント的な語法で言えば啓蒙されていないのは、それらがその創始者の教説に依存
しているからです。プラトンのアカデメイア以来、それらは「公共の意見11世論public opini 0n」、社会全般、
「彼ら」と対立してきました。しかしこのことは、それらがいかなる権威にも依拠していないことを意味
するわけではありません。モデルは常にピタゴラス学派です。彼らの間の対立は、創設者の権威へ訴える
ことによって、すなわち「彼(11師)自身がそう語られたautosepha ; ipse dixit 」と訴えることによって解
決することが可能でした。別の言い方をすれば、多数者の思考停止的(unthinking) な独断論に対して、少
数者のえり抜きの、ただし同様に思考停止的な独断論が対抗していたのです゜
ここで今一度哲学の政治に対する関係を考えれば、批判的思考の技術には常に政治的な含意があること
が明らかになるでしょう。そしてこのことは、ソクラテスの場合、最も深刻な帰結をもたらしました。批
判的思考は独断論的な思考や思弁的思考とは異なります。独断論的思考が実際に新しい「危険な」信念を
広めるということがあるかもしれませんが、それはあくまで秘密の秘教的な教理(arcana) をありがたが
る学派の防護壁の内側で行なわれることです。思弁的思考はめったに人を悩ませることがありません。そ
れらとは違って、批判的思考は原則的に反権威主義的(antiauthoritarian) です。当局(authorities) にとって
最悪なことは、批判的思考を捕えることも掴むこともできないということです。ソクラテス裁判における
71 カント政治哲学講義第六講義70
告発、ソクラテスがポリスに新しい神々を導入したという告発は、でっちあげです。ソクラテスはえませんでした。新しい神々について教えたなどということは ありえません。しかし彼が青年を堕たというもう―つの嫌疑には、根拠がなかったわけではありません。批判的思考の人がもたらす困惑と「彼らが眼を向けると ころではどこでも、最もよく知られた真理の柱が揺さぶられる」(レノシうことです。カントの場合は確かにそれに当てはまります。カントは決して市場に笠場 したことはなかっ
たし、決して曖昧ではないにせよ最も難解な哲学書の一っである彼の『純粋理性批判』は、彼が愛した「読
者公衆」の間でさえポピュラーになりそうになかったけれど、それでもやはり、彼はあらゆる者でした。しかしポイントは、他のほとんどの哲学者と違って、カ ントはこのことを深く残念に思い(87) 分の思想を大衆化しうるという希望、つまり「〔少数者のための〕小径を〔万人にとっての〕大道にする」
希望を決して捨てなかったということです。『純粋理性批判』出版の二年後、カントは、一七八三年八月
十六日付のメンデルスゾーン宛の書簡で、珍しく言い訳めいた調子で、次のように書いています゜
私は少なくとも―二年間におよぶ思索の所産を、およそ四ヶ月から五ヶ月のあいだに言わば飛ぶに:· :読者のための分かりやすさの増進にはあまり念を入れずに、完成させました。……なぜならもしこう決意せず、通俗性を加味するためにさらに延期していたな らば、おそらくこの著作はまっく中断されたままであっただろうからです。それに、通俗性に関する欠如は、粗削りなままであれみ出されたものがともかくあり さえすれば、しだいに是正されるでしょ予。
カント、そしてソクラテスによれば、批判的思考は「自由かつ公開の吟味という試験」に自らを晒しま
す。このことは、その吟味に加わる人が多ければ多いだけ良いということを意味します。そういうわけで
カントは、一七八一年、『純粋理性批判』の出版直後にこれを「通俗化するための計画を考案」しました。
というのも、彼が一七八――一年に書いているように、「どんな哲学の書物も通俗性をもちうるものでなけれ
ばならず、さもなければその書物は、見せかけの鋭敏さの幻のもとに、おそらく無意味なものを覆い隠し
(89)
ていることになるから」です。通俗化への希望こういう希望を抱くということ自体、通常極めて強い
党派的傾向を示す哲学者連中にとっては、非常に奇異なことですl ということでカントが実際に希望し
ていたのは、彼の著作の吟味者たちの輪が徐々に広がつていくことです。啓蒙の時代とは「自分の理性を
公共的に使用」する時代です。つまりカントにとって最も重要な政治的自由は、言論及び出版の自由であ
って、スピノザの場合のように、哲学する自由(libertas
phil osophand i)ではなかったわけです。
これから見ていくように、「自由freedom 」という語はカントにおいて様々な意味を持っています。し
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
かし政治的自由は、彼の著作を通じて極めて明瞭かつ首尾一貫して、「万事において自分の理性を公共的
ヽヽヽヽヽヽヽ(90)
に使用すること」として定義されています。そして、「私は、自分自身の理性の公共的使用を、ある人が
読者世界の全公衆を前にして学者として理性を使用することと解している」とも述べられています。つま
り、理性の公的使用には、「学者として」という言菓で示される制約が付いているわけです。学者は市民
と同一ではありません。学者は全く異なった種類の共同体、つまり「世界公民社会」の一員です。そして、
この資格において学者は公衆に語りかけるのです(カントが出している例は至極明快です。軍務に就いている将
校は、命令に従うのを拒否する権利を持ちません。「しかし、彼が軍務における失策を学者として〔つまり世界公民と
73 カント政治哲学講義第六講義72
(91)
して〕批評し、この批評についての判定を自分の公衆に求めるのは、当然のことながら禁じられてはならない」)。
私たちの理解では、言論及び思想の自由は、他者を説得して自分の見解を共有してもらうことができる
ように、自分自身、そして自分の意見を表現する個人の権利です。この権利は、私が全面的に自分自身で
自分の心を決めることができること、そして、私が政府に対して有する請求権に基づいて、いかなること
であれ私が既に心の中で決めていることを宣伝することが許されることを前提にしています。この件に
ついてのカントの見解は、そうした私たちの常識とはかなり異なります。彼は、思考する能力それ自体が、
その公共的使用に依拠していると考えました。「自由かつ公開の吟味という試験」なしには、いかなる思
考も意見形成も不可能だというのです。理性は、「自らを孤立させるのではなく、他者との共同性を形成
するように」できているのです゜
この件に関するカントの立場が極めて注目に値するのは、それが政治的人間の立場ではなくて、哲学者
あるいは思想家の立場だからです。カントがプラトンに同意しているように、思考とは、自分自身との無
言の対話(das Reden mit sich selbst) です。そして思考がかつてヘーゲルがコメントしたように「孤
独な営み」であるというのは、全ての思想家の意見が一致する数少ないポイントの一っです。また、思
考に勤しむような場合には他者と付き合う必要がある、あるいは、付き合うことができるなどというのは、
当然のことながら、真ではありません。ただし、何ごとであれ、独りでいる時に発見した事柄を口頭ある
いは文書でとにかく伝達し、他者による試験を受けることができなかったら、孤独の中で発揮されるこの
(28
]
能力は消失することでしょう。ヤスパースの言葉に、真理とは私が伝達しうるもののことである、という
のがあります。諸科学における真理は、他者によって反復可能な実験に依拠します。真理は一般的妥当性
を必要とします。哲学的真理にはそうした普遍的妥当性はありません。哲学的真理にとカントが『判断力批判』の中で趣味判断に対して要求したことでもありますが、「一般的伝達可能性」です゜
「というのも、とりわけ人間一般にかかわることがらにおいては、互いに伝達しあう(93)
与えた定めなのだから」。
75 カント政治哲学講義第六講義74
前回は、批判的思考が政治的に何を含意するかについて、
しているという考え方について論じました。
他者を傾聴しており、
(Man) ではなく、人々
的に他者に依存する、
かつ他者から傾聴される可能のある人々の共同体を前提にしています。「何故人
トは気づいていました。
(men)
が互いに語り合うためである」ヽ
と主張する点で、
、‘‘‘‘‘、‘‘‘
話したり書いたりする自由は、
第七講義
さて、
そしてまた批判的思考が伝達可能性を含意
伝達可能性は明らかに、
が存在しているのか?」
と答えたことでしょう。
という問いに対して、
人々にとって、
私たちが属するところの種にとって、「自分の考えを伝達し語ることは、
語りかけることのできる人々、
カントなら、「それは人々
ひいては人類にとって、つまり、
•...
:自然が人間に与えた使命で
ある」これは私が前回引用したコメントです。思考は孤独な営みではあるけれど、その可能性は全面
自分は他の多くの思想家と意見を異にしているということにカン
上部の権力によって奪われることがあっても、
ヽヽ
思考の自由はそれによ
ヽヽヽ
って奪われることは決してないかもしれない。しかしながらわれわれが、他人に自分の思想を伝達し
、‘‘‘
また他人が彼らの思想をわれわれに伝達するというようにして、いわば他人と共同して考えることが
ヽヽヽ
なければ、われわれはどれだけのことを、どれほどの正しさをもって考えるであろうかー•それゆえ
ヽヽヽヽ
人はたぶん次のように言うことができるであろう。自分の思想を公に伝達する自由を人間から奪い去
ヽヽ
るような外的権力は、思考の自由をも人間から奪ってしまうのだ、と。思考の自由は、あらゆる市民
的足枷にもかかわらず、なおもわれわれに残されている唯一の宝であり、この宝によってのみ、この
(94)
ような状態のすべての害悪に抗してなおも策を講じることができるのである。
批判的思考に必要なこの公共性という要素について、私たちは更に別の視点から考察することができま
す。ソクラテスが哲学を天空から地上に引き降ろし、人々の間で起こっていることについての様々の意見
を吟味し始めたという時、彼が実際にやったのは、あらゆる言明から、その隠された潜在的な含意を抽出
することでした。それが彼の産婆術が実際に意味していたことなのです。赤ん坊が明るみに出て検査され
るのを産婆が助けるように、ソクラテスはそれらの含意を明るみに出し、検査されるように仕向けたので
す(これは、カントが進歩について不満を述べた時にやったことでもあります。カントはこの概念が含意しているもの
を抽出したのです。私たちも前に、有機体の隠喩に抗議する文脈で、それをやったことがありますね)。批判的思考は、
かなりの部分、この種の「分析」から構成されます。このような吟味は更に、すべての人が自分の考えた
り述べたりすることの説明を自発的に行なおうとする、また行うことができるということを前提していま
す。プラトンは、ソクラテス的な産婆術の学校を経険した後、今日でもなお哲学と認められるような仕方
で哲学を書いた最初の人になりました。それはアリストテレスによって、論文という形へと練り上げられ
ました。プラトンは、自分と古の「賢者たち」、すなわちソクラテス以前の哲学者たちの違いを、彼らは
賢かったけれど、自分たちの思想を決して説明11答弁(account) しなかったという事実にあると見ていま
した。彼らは偉大な洞察を持っていました。しかし人々に質問されても、沈黙したままでした。「説明(答弁)
77 カント政治哲学講義76
することLogon didona i」つまり証明するのではなく、いかにして自分が一っの意見に到達したか、ま
たいかなる理由でその意見を形成したのか述べることができることこそ、プラトンを、彼のすべての
先行者から隔てているものなのです。この「説明11答弁11計算account」という用語自体が、その起源に
おいて政治的です。説明11答弁することは、アテネの市民たちが金銭問題のみならず政治問題においても
政治家たちに求めたことです。政治家とは、責任を取る11応答することのできる(respons ible)者だった
のです。そしてこれつまり、自分自身と他のすべての人を、自分の考え教えたことに対して責任を取
り、答えることのできる(answerab le)者であるとみなすことこそが、イオニアに端を発する、あの
知識や真理への探究を哲学へと転換したものなのです。この転換は、既にソフィストたちと共に現われて
いました。彼らは正当にも、ギリシアにおける啓蒙の代表者と呼ばれています。この転換は更に、ソクラ
テスの産婆術による問答法へと磨き上げられました。これが批判的思考の起源です。近代におけるその最
大の代表者、そして恐らく古典古代以降の全時代を通じての最大の代表者は、カントです。彼は、批判的
思考が含意するところを全面的に自覚していました。カントはその最も重要な省察の一っで、次のように
書いています゜
事実に関する問い(q uaest10 facti) とは、
る。権利に関する問い(quaestio juris)
(95)
いるかという問いである。
いかなる仕方で人が最初に概念を獲得したかという問いであ
とは、いかなる権利をもって人はこの概念を所有し使用して
批判的思考は、単に他者から受け取った教説や概念、そして継承されてきた偏見や伝統にしか適用され
ないというものではありません。人は、まさに批判的な諸規準を自分自身の思想に適用することを通して、
批判的思考を学ぶのです。
そして、こうした自分自身への適用は、公開性なしには、つまり他の人々の思考との接触から生ずる吟
味なしには、学ぶことができません。これがいかに作用するかを示すために、ここで、カントが一七七〇
年代にマルクス•ヘルツ宛てに書いた書簡から、個人的なコメントをしている二つの箇所を読み上げるこ
とにしましょう。
あなたはご存じでしょうが、私は、理にかなった反論に対して、どうすればそれを論駁できるかとい
う面から吟味するだけでなく、さらに、熟考してそうした反論をつねに自分の判断の中に織り込み、
そして、もとから持っていてそうした反論がないときには好んでいた考えすべてをご破算にする権利
をその反論に与えさえするのです。私は、そのことをとおして、自分の判断を他の人の観点から公平
に(impartially) ながめて、私がそれまで持っていたものよりもよい第三の何かを発見できればと、つ
ねに望んでいま戸゜
、‘‘‘‘‘
ここから、公平11非党派性(impartia lity)が、他者の視点を考慮に入れることによって獲得されるもの
であることが分かるでしょう。公平性は、混戦状態(melee) を完全に越えたところにあって論争に実際
に決着を付けてしまう、より高次の視点のようなものの帰結ではありません。第二の手紙で、カントはこ
79 カント政治哲学講義第七講義78
励ましや気晴らしによって、精神の諸能力を、しなやかかつ機敏に働けるよう保っておかなければな
りません。それによって、われわれは、対象をいっでも別の面からながめ、顕微鏡的な観察から全般
的な眺望へと視野を拡大することができるようになり、そのような眺望をもつことにより、考えられ
るかぎりのすべての立場をとり、一方の立場が他方の立場の目から見た判断を検証するということが
かわるがわるできるようになるのです゜
ここでは、「公平性」という言葉は出てきません。その代わり、自分自身の思考を「拡大するenlarge 」
ことによって、他者の考えを考慮に入れることができるようになる、という考えを見出すことができます゜
「精神の拡大enlargement of the mind」は、『判断力批判』において決定的に重要な役割を演じます。それ
は「ひとが自分の判断を他の人々の現実の判断というよりも、むしろたんに可能な諸判断と照らし合わせ
(98)
て、.:·:他のあらゆる人の立場に自分を置き換えること」によって達成されます。これを可能にする能力
は構想11想像力(imagination) と呼ばれます゜『判断力批判』のいくつかのくだりを読み、先ほど引用した
書簡と比較してみれば、これらのくだりが、まさに書簡の中の極めて個人的に見えるコメントを概念化し
たものしか含んでいないことが分かるでしょう。批判的思考は、すべての他者の立場が検査に対して開か
れている場合にのみ、可能になります。したがつて批判的思考は、孤独な営みでありながら、自己を「す
べての他者」から遮断したりしないのです。批判的思考が孤立した状態で進行するのは確かですが、想像
力の力で他者を現前(present) させ、それによって、潜在的に公共的で、あらゆる方向に開かれた空間の
中で運動するのです。別の言い方をすれば、批判的思考はカントの世界市民の立場を採用するのです。拡
大された心性(enlarged mentality) で思考することは、訪問の旅に出かけられるよう自らの想像力を訓練
することを意味します( 『永遠平和のために」の中の訪問権と比較してみて下さい)。
ここで、よくありがちの安易な誤解について注意しておかねばなりません。批判的思考の秘訣は、す
べての他者の心の中で起こっていることを実際に知りうるような、途方もなく拡大された感情移入にある
わけではありません。カントの啓蒙理解に従えば、思考することは、自分で考えること(Selbstdenken) を
意味します。自分で考えることは「決して受動的ではない理性の格率である。受動的な理性に向かう性癖、
(99)
したがつて理性の他律に向かう性癖は、偏見と呼ばれる」。そして啓蒙とは、何よりもまず偏見からの解
放です。私自身とは異なる「立場」||'それは実際には、人々の立ち位置や彼らが従っている条件のこと
であり、個人ごと、あるいは、相互に比較される階級や集団ごとに常に異なっていますーに立っ人々
の心の中で起こっていることを受け入れるというのは、彼らの考えを受動的に受け入れること、すなわち、
彼らの偏見を私自身の位置に固有な偏見と交換することにすぎません。「拡大された思考enlarged thought 」
は、まずもって「われわれ自身の判断に偶然付随する諸制限を端的に捨象すること」の帰結であり、また
「それによって非常に多くの人たちが制約を受けているところの:…·主観的な私的諸条件」を排除するこ
と、つまり私たちが通常私利(self , interest) と呼んでいるものを排除することの帰結です。カントによれ
ば、私利というのは、啓蒙されておらずまた啓蒙されえないものですが、現実に私たちの判断を制限する
ように作用します。啓蒙された個人が立場から立場へと動<ことができる領域が大きくなり、その範囲が
の点を更にはっきりさせています゜
81 カント政治哲学講義第七講義80
広がれば広がるほど、その個人の思考はより「一般的」になるでしょう。ただしこの一般性は、概念のI
ー例えばその下に様々な種類の個々の建物が包摂されるような「家」という概念のー一般性ではありま
せん。逆にそれは、特殊的なもの、つまり人が自分自身の「一般的立場」に到達するために通過しなけれ
ばならない、様々の立場の特殊な条件と密接に結び付いています。この一般的立場を、私たちは先に、公
平性として論じました。それは、そこを起点に眺め、注視し、判断を形成するための視点です。あるいは
、‘‘‘
カント自身が語っているように、人間的な事象について反省するための視点です。それはいかに行為する
(a
ct)かを教えてくれるものではありません。「一般的立場」を取ることによって見出される知恵を、いか
にして政治的生活の特殊な事柄に適用するかを教えてくれることさえありません(カントにはそうした活動
の経駿は全くありませんでしたし、フリードリヒニ世統治下のプロイセンでそうした経験をするということはありえな
かったでしょう)。カントが教えてくれるのは、いかにして他者を考慮に入れるのかということです。活動
するためにいかに他者と結合するかについては、カントは教えてくれません。
このことから、「一般的な立場というのは単に、注視者11観客の立場のことか?」という問いが生まれ
てきます(カントが自らの心性の拡大にどれだけ真剣であったかは、彼が大学で自然地理学という科目を設け、それ
を教えたという事実が示しています。カントはまた、あらゆる種類の旅行記の熱心な読者でしたし、ケーニヒスベルク
を離れたことはありませんでしたが、ロンドンとイタリアのいずれの地理にも通じていました。彼は、自分はあまりに
も多くの国々についてあまりにも多くを知ろうとしたせいで、旅行する時間がなかったのだ、と言っています)。カン
ト自身の心の内では、それは確かに世界市民の立場だったのです。しかしこの「世界の市民」という、理
想主義者11観念論者たち(idealists) の安易なフレーズに意味はあるのでしょうか?市民であるという
ことは、とりわけ責任、義務と権利を有するということであり、これらはいずれも領域的に限定されて
いる場合にのみ、意味を持ちます。カントの世界市民は、実際には世界観察者(Weltbetrachter 11 world
spectator) でした。カントは、世界政府が想像しうる限り最悪の専制体制になるだろうということをよく
分かっていました。
この難しい問題は、カントの晩年において、フランス革命それ自体に対するほとんど限りない賞賛と、
フランス市民たちによる革命的な企てに対するそれと同じくらい限りない|— l反対の間の外見上の矛
盾という形で前面に出てきます。これから私が読み上げるいくつかのくだりは、みなほぽ同時期に書かれ
たものです。しかし、かつてハイネがカントをフランス革命の哲学者と呼んでいたように、マルクスもま
たカントをそう呼んでいたことに、みなさんの注意を喚起しておきたいと思います。こうした評価は、そ
の確固とした根拠を、「革命」それ自体の自己理解の内に見出すことができるので、尚更重要であるよう
に思えます。シェィエスは、『第三身分とは何か』の著者として有名で、ジャコバン派の創始者の一人で
もあり、フランス憲法の起草を委任された制憲議会の最も重要なメンバーの一人でしたが、そのシェィエ
スが、カントのことを知っていたらしく、ある程度カント哲学から影響を受けていたようです。少なくと
も、シェィエスの友人テルマンはカントに接近して、シェィエスがカント哲学をフランスに紹介する意図
を持っていると伝えています。何故なら、ニフランス人がこの哲学を学ぶことは、革命を補完することに
(Io)
なるだろう」、と思われるからです。それに対するカントの返事は、失われています゜
カントのフランス革命に対する反応は、一見しただけでは、あるいはもう一度見直してみても、決して
明白ではありません。先取りして言えば、カントは、彼が「最近の事件」と呼んでいる出来事の壮大さを
83 カント政治哲学講義第七講義82
評価する姿勢に関しては一度もぶれていませんし、またそれを準備した全ての人を非難する姿勢に関して
もほとんどぶれていません。先ず、この点に関連するカントの発言の中で最も有名なものから話を始めま
しょう。この箇所はある意味、カントの態度に見られる外見上の矛盾を解く鍵を含んでいるとさえ言えます゜
このような出来事〔フランス革命〕は、人間がなした重大な所行あるいは悪行にあるのではない。
つまり、人間のあいだで、偉大だったものを卑小なものにしたり、卑小だったものを偉大なものにし
たりするような、そしてあたかも魔法によるかのように、古<からの耀かしい国家組織が消滅し、そ
のかわりに別の国家組織がまるで地の底から出現するかのような、そのような所行あるいは悪行にあ
るのではない。断じてそういったものではないのである。それはたんに観客(Nuschauer 11 spectator)
ヽヽ
の考え方、こうした大転換劇にさいして思わず知らず公にあらわれ、非常に一般的ではあるけれども
非利己的な共感を劇の一方の役者に寄せて他方の役者には反感をもつということを、そんなふうに贔
贋すると自分にとって大きな不利になりかねないという危険を冒してまでも公言する、観客の考え方
でしかないのである。この考え方はそのようにして、(一般的であるがゆえに)人類が全体として一っ
の性格をもつことを証明すると同時に、(非利己的であるがゆえに)―つの道徳的性格を少なくとも素
質においてもつことを証明するのである。この道徳的性格は、より善い方向へ進歩するという希望を
あたえるのみならず、その能力が目下のところ十分にあるとすれば、それ自身がすでに―つの進歩な
のである。
われわれが今日そのなりゆきを見守ってきた、才気あふれる国民による革命は、成功するかもしれ
ないし、失敗するかもしれない。この革命は悲惨と残虐行為に満ちており、それは思慮ある人間なら、
二度目に企てればうまくいくであろうと望めるとしても、この実験をそこまで犠牲を払って行おうと
は絶対に決心しないくらいかもしれない。それでも私は言う、この革命はすべての観客(自分た
ち自身は共演者としてこの劇に巻き込まれていない)の心の中に、熱狂と紙一重の、願望としての参加を、
ヽヽ
つまり共感を得るのであり、またこの共感を表明することそのものが危険をともなっていたのである
から、この共感の原因は人類のうちなる道徳的素質以外にありえないのである。
••••
: 革命側の敵対者が、たんなる法概念によって革命側に立つ者の内面に生み出された熱意および
魂の偉大さと張り合うことは、金銭的報酬をもってしてもできなかった。古き軍人貴族の名誉の概念
(熟狂の類比物)ですら、みずからが所属する国民の法を注視し、みずからをその法の守護者と任じて
いた人々の武器を前に、消え去った。そのとき、外から見物していた公衆が、協力しようという意図
は少しもないのに共感を寄せたのは、人々の心のこうした高揚状態なのである。:・・・・
さて、私は次のように主張する。現代という時代の示すいくつかの局面や前兆から見て、人類がこ
の目的を達成し、それと同時に、より善い方向へ進歩して今後はもはや全面的に後戻りしたりしない
ということを、予言の才能がなくても予言できる、と。というのも、そうした〔自然法的体制の進化
、、、、、、、、、、、、、、
という〕現象は人間の歴史においてもはや忘れ去られることがないからである。……
しかし、こうした出来事にさいして意図された目的が今でも達成されないとしても、ある国民の体
制の革命もしくは改革が終わり近くなって失敗するとしても、あるいは、革命もしくは改革がしばら
<続いても、そのあと一切がふたたび旧に復する(いま政治家たちが卜占しているように)としても、そ
85 カント政治哲学講義第七講義84
れでも先の哲学的予言は少しもその力を失わない。というのも、その出来事はあまりに大きく、
人間性の関心にあまりに深く絡みあい、その影響が世界のあらゆる地域にも広がつているので、何か
好都合な事情でも生まれると、それをきっかけに諸国民は必ずその出来事を思い起こし、この種の新
たな試みを繰り返すよう呼び覚まされるからである。… •••そのことは、ある―つの国民に起こりうる
ことに目を向けるだけでなく、次々と進歩に参加するであろう地上のすべての国民への広がりにも目
(lol)
を向けるなら、見通せないほど先の時代への展望を開く。
第八講義
前回読み上げた『諸学部の争い』のくだり(第二部第六節及び第七節)でカントははっきりと、様々な帝
国の興亡をもたらし、かつて偉大だったものを卑小にし、卑小であったものを偉大にするような人間の偉
業や悪行に対して、自分は関心がない、と言い切っています。彼にとって、起こった事(Begebenhei t)の
重要性は、もっぱらそれを注視する者(beho lder)の内に、それに対する自らの態度を公に表明する傍観
者(on lo
0 ker) たちの意見の内にあります。出来事に対する彼らの反応が人類の「道徳性」を証明します。
こうした共感的な関与(sympathetic participation) がなければ、起こったことの「意味」は全く違うものに
なるか、あるいは端的に無意味になってしまうでしょう。というのも、人間に次のような希望を掻き立て
るのは、まさにこうした共感だからです。それは、
、‘‘‘、、‘
自然が最高の意図としている世界市民的状態が、最終的に体制再編のいくつもの革命がなされた後に、
(02)
人類の根源的素質がすべて発展させられる母胎としていつの日か実現されるという希望
です。しかし、このことから、カントが未来の革命を担う人々の味方をしているなどと努々結論すべきで
はありません。『諸学部の争い』の例のくだりに対する脚注で、カントは非常にはっきりと述べています゜
いかなる支配者も、民衆(people) が自分に反抗するのではないかと恐れるあまり、敢えて公然とそれに
87 カント政治哲学講義第七講義86
対して異議を唱えようとはしない
困らず、強い保護を受け、「福祉の欠乏について不平を言う」ことなどない状態にあったとしても、もっ
ぱら自由のために反抗を起こす可能性がある、と。民衆が「共同立法者colegis lators 」となる権利を含む、
人々の権利は神聖なのです゜
たと考えてもいいでしょう。
のために』を見ると、
「民衆の諸権利」と言うべきものがある。
しかし、
う条件に制限されるのであって、
この脚注しか材料がないとしても、
というのは、『人倫の形而上学』
そうだとしても、
この権利はやはり常に―つの理念であるにすぎず、
国民がこの条件を踏み越えることは許されない。
(103)
常に不正である革命によって生じることは許されないのである。
カントがこの脚注を付け加えた時、
しかし同様の警告は、
が達成された場合があるとしよう。その場合、
そして民衆は、たとえ食うに
ヽヽ
その実行は、実行の手段が道徳性に合致するとい
こうしたことが、
革命に関して用心深くなってい
他の多くの箇所でも繰り返されています。
カントの立場が最もよく説明されているのが見て取れます゜
、、
かりに劣悪な体制のために生じた革命の暴動により、非合法的にではあるが、より法に適合した体制
暴力や悪巧みをもって革命に参加した者は、
でカントが同じ様な脈絡で書いているように、
『永遠平和
旧体制の
下では当然反乱者の刑に服するとしても、だからといって国民をふたたび旧体制に引き戻そうとする
(104)
ことは、もはや許されることではないのである。
革命が成功して新しい体制が設立されたとすれば、その革命の開始と遂行が適法ではなくとも函)
はこの新しい秩序に善良な市民として服従する拘束を免れることはできなし
からです。したがつて、現状がどうであれ、善であれ悪であれ、反乱は決して正統ではないのです。国民の権利が侵害されており、だから暴君を退位させても、 暴君には何らの不正が行われたのでぃ。このことは疑う余地がない。それにもかかわらず、臣民にとっては、このような仕方で自分の権利を要求することは、は なはだしく不正なのである。また彼らがこの争いに敗れ、やがて(106)
めに極刑を受けなければならなくなるにしても、それを不正だと訴えることはできないのである
ここではっきり見て取れるのは、行為の基準になる原理と、判断の基準になる原理の間の衝突です。と
いうのも、カントは自分自身がその帰結をほとんど熱狂といえるほど満足して肯定している、当の行為を
非難しているのです。この衝突は単なる理論上の問題ではありませんでした。一七九八年にカ―つの反乱と対峙しました。それは、アイルランドで起こってい た、イングランドの「正統」なする反乱の一っです。知人であるアベッグの日記に記録されているところでは、カントはその反(07)
であると考えており、イングランドで将来共和国が創設されることに対する希望を表明して89 カント政治哲学講義第八講義88
II
これもまた、単なる意見、注視者11観客としての判断の問題です。そしてカントは同じ脈絡で次のように
書いています゜
賢明な人々でもよく用いる表現で、正直にいって、どうも私にはなじめないのであるが、そ的自由を梢緻化する作業に従事している)ある人民がまだ自由の段階 にまで成熟していないとか、土地有者の農奴がまだ自由の段階にまで成熟していないとか、一般に人間はまだ信仰の自由の段階に成熟していない、といった表現 である。しかしこのような前提にしたがうなら自由が生じることはっしてあるまい。そもそもあらかじめ自由のうちに置かれていなければ、自由の段などという ことはありえないのである(自由において力を合目的的に利用しうるには、まず自由でヽヽヽ
ならないのである):·:•こと理性に関しては、自分で試みる以外にはけっして成熟しないのでみてもよいという点では、自由でなければならないのであ る)。:・・・・〔隷従している民衆についてはそもそも自由は適していないし、彼らをいつもでも自由から遠ざけておいてもよいのだということ、
これを原則とすることは神性は人間を自由のために創造したもうたのに、その大権を侵害するこ(108)
のである。
それが成功すれば拍手喝釆するであろう事柄に対して、携わるべきでないとカントが主張してい由は、一切の政治的活動を支配する「公共性(II公開性)という超越論的原理」にあります。カントはこ
の原理を『永遠平和のために』(付録II)で前面に出しています。ここで彼は、現実に政治に関わる行為者
II演技者(actor) と判断を下す注視者11観客(spectator) の対立を、「政治と道徳の争い」と呼んでいます゜
政治活動を支配するこの最優先の原理とは、次のようなものです。
こう
この
「すべての他人の権利に関係する行為で、その行為の格率(maxim) が公開11公共性(publicity) と一
致しないものは、不正である」。:・・・・なぜならそれを公表することによって同時に私自身の意図を無
ヽヽ
に帰せしめることのないように、私があえて公表をはばかるような格率、あるいは成功するためにあ
ヽヽ
くまでも秘密にされなければならないような格率、また公にすることによって私の計画に対するすベ
、、、、、、
ての人の抵抗が必然的に引き起こされることがないように、公に告白することができない格率、
した格率が:··:アプリオリに知ることができる私に対するすべての人の反対を呼び起こすのは、
(109)
格率が誰をも脅かすところの不正というものに由来するからである。
「自分に反抗する民衆のいかなる権利も認めないと敢えて公言する支配者はこれまで一人もいなかった」
ということから、専制主義の不当性は明らかなわけですが、それと同様に、反乱の不当性は、「その反乱
、‘‘‘‘‘、
の格率が公に告白されると、そのとたんにその意図そのものが不可能になってしまうということによって、
(110)
明らになる。したがつて、格率は、必然的に秘密にしなければならないであろう」というわけです。例え
ば、「政治的方便」という格率は、「公に告白されると、そのとたんにその意図そのものが不可能になって
しまう」でしょう。一方、新政府樹立の企てに関与している人たちも、「反乱の意図を公表(publish) す
る」ことはできないでしょう。何故なら、国家を樹立することこそが「その人々の意図である」わけです
91 カント政治哲学講義第八講義90
ヽヽヽヽヽ(112)
その目的を逸しないために)公開性を必要とするすべての格率は、法と政治の両方に合致する。
が、反乱が起こるという前提の下では、
こうした推論に対して、
という原理は
認する格率は、
い方をすれば、
合には、
から一
「いかなる国家の存立も不可能」
カント自身は主として二つの反論を対置します。第一に、
「否定的.消極的な性格のものにすぎない。
それだからといって、
を離れた意見でなく、
取る超越論的な原理」を呈示します。
「政治と道徳の争い」
人は単一の個人として、
になってしまうからです゜
この公開11公共性
つまり、公開性を容
すなわちこの原理は、それを使うことによって、
(Ill)
他人に対して何が正しくないかを認識する手段として、役立つだけのものである」。
また正当であるというふうに、逆の推論はできないのです゜
(公開された)意見が不当である可能性もあるわけです。
別の言
それが、注視者11観客による利害
利害関係を有する市民による党派的11不公平(partial)
とりわけそうです。第二に、支配者と被支配者の間のアナロジーは誤っています。「決定的な権
力を所有している者は、彼の格率を隠す必要はない」
に対するこの解決は、
からです゜
カントの道徳哲学に由来するものです。
もっぱら自分自身の理性にのみ相談して自己矛盾的ではない格率を見出し、
つの命法を導き出すことができるとされています。
そこでカントは今―つの
そこでは既に、
で無批判的な意見である場
「肯定形の形を
彼の道徳哲学では、
そこ
公開11公共性が正しさの判定基
自分の格率についてはこれを隠さねばなら
準になっているわけです。そういうわけで、例えば次のように述べられています。「人は誰しも、道徳法
ヽヽヽ
則についてはこれを公的に表明することができると考えるが、
ぬと考え刻」。私的格率(
pnvate max ims )は、私がそれらを公的に表明できるかどうかを測るための吟味
にかけられねばなりません。ここでいう道徳性とは、私的なものと公的なものが一致しているというこです。格率の私秘性(
privacy)に固執することは、悪であるということになります。したがつて悪は、公
ヽヽヽヽ
的領域からの撤退として特徴付けられます。道徳性は見られるにふさわしいことを意味します。これは、人間によって見られるということだけでなく、最終的に11最終審級として(in the last
instance)‘
人の心を熟知する者(d
er Herzenskun dige) である神によって見られるにふさわしいということをも意味し
ます。
人間は、そもそも何ごとかを為そうとする際には、法を措定します。人間は立法者なのです。し人がそうした立法者になれるのは、その人自身が自由である場合 に限られます。同じ格率が、自でなく、農奴にも妥当するかについては疑問の余地があります。先ほど述べたようなカント式受け入れるとしても、その場合に は、明らかに「ペンの自由」という前提条件が必要になります。「ペン
の自由」とは、活動のための公共の場とは言わないまでも、少なくとも意見を闘わせることのの場が存在するということです。カントにとって、反乱の起こる瞬 間は、言論の自由が廃止す。その時点において反逆しないということは、かつてマキアヴェッリが道徳性に対して突に答えることができなくなることを意味しま す。汝が悪に抵抗しないならば、悪を為す者たに振舞うだろう。悪に抵抗すれば自分自身も悪に巻き込まれることになるかもしれないというすが、政治において は、世界に対する配慮が、自分自身この場合の自分自身というのが自分あれ魂であれに対する配慮に優先します(「私は自分の魂以上に自分の生まれ育った都市 を愛する」と93 カント政治哲学講義第八講義92
人間は前進する。
と悪徳、
為すべし」
しかし、
全体としてみるならば、
人類は固定した限界のあいだをたえず上下に揺れ続けているのであって、
どの時点においても道徳性は同じ段階にとどまつており、宗教と非宗教、徳
幸福(?)と不幸はほぼ同じ度合いにとどまつていな。
これに対してカントは、進歩という前提がなければすべてが無意味になってしまう、
ることはあっても断絶することはない、
かけています゜ それは『実践理性批判』
と命じます。「『為すべし』
と言い張るのは、
いう義務です゜
と答えています。ここでカントは
で用いているのと同じ論拠です゜
という義務概念に権威を認めた後で、
明らかに筋が通らない
(115)
posse nemo obhgat ur)」(
(なんびとも義務を負うのは自分ができることについてのみであるultra
ここで訴えかけられている義務というのは、
ちに働きかける」そのためには、子孫たちが進歩する可能が想定されていなければなりません— ーと
カントは更に主張します。こうした想定、
内の一っに気づいていました。カントの引用によると、
すなわち
進歩は中断され
「生まれながらの義務」に訴え
生まれながらの義務の声は「汝
、‘‘、‘‘‘‘‘
それを為すことができない
「子孫たちが進歩するように子孫た
「より良き時代が訪れるという希望」
がなかったら、あらゆる活動が全面的に不可能になる、というのです。というのも、こうし(16)
全な思考の持ち主たち」に「皆の幸福に役立っことをしたい」という欲求を生み出すものだからです。た
、‘‘‘、‘、
だ、今日私たちは、進歩の観念が登場した年代を特定することができるということを知っうした観念が現われる遥か以前から人間が常に活動してきたことも知っていますね゜
カントの第二の、更に重要な想定は、悪の本性に関わるものです。人々が自分自身で悪事をなすなる危険を犯してまで悪に抵抗することがない限り、悪が広く蔓 延することになる、といェッリの仮定です。カントの考えはこの逆で、いくぶん伝統と一致しています。カントは悪をの本性からして自己破壊的であると考えま した。次のように述べています゜
まさにそ
ヽヽ
摂理は…・・・人類全体としてのい胃缶の目的に対して、それだけ切り離して向から対立するような結果を用意するだろう。それというのも、悪の源である傾向 性が互ることによって、理性の自由な活動が可能となり、その結果、理性は傾向性を全部まとめて制圧けっきょくは自滅する悪の代わりに、いったん現存すれば その後おのずから維持される善を支配(117)
して優越性を立てることになるからである。
ここでも、傍観者(
onlooker) のパースペクティヴが決定的に重要になります。歴史を全体として見渡
してみましょう。進歩の仮定がなければ、どんな光景になるでしょうか?カントにとっての二者択絶望を生み出す後退か、死ぬほどに退阻な永遠に同じであることのいずれかです。もう一度傍観メンデルスゾーンは次のように語っています゜
実際のところ、
身、レッシングの言う「人類全体の進歩」を否定するモーゼス・メンデルスゾーンと論争した際に、その
カントの内には、紛争から身を引<ことを容易にする二つの仮定があります゜
エーションにすぎません)。
キアヴェッリの態度は、「私は自分の命あるいは自分自身以上に世界とその未来を愛する」という態度の
カント自
つのヴァリ
95 カント政治哲学講義
第八講義94
有徳の人が厄介なことや悪への誘惑と戦いながらも、それらに庖することなくもちこたえている光景
は、神性にふさわしい光景であるとしよう。だとすると、人類がときおり徳へ向かって歩みを進める
が、すぐに逆戻りして、やはりふたたび悪徳と不幸へと深く落ち込んでいく光景はどうだろう。:・・・・
これは、ごく平凡だが健全な考えの人にさえ、このうえなくふさわしくない光景なのだ。しばらくの
あいだこの悲劇を見物するならば、ひょっとすると心が動かされるかもしれないし、教えられること
が多いかもしれない。しかし、それでも最後には幕が下ろされるのでなければならない。というのも、
長く続いていると、道化芝居となってしまい、役者(ac tor)たちならば自分が道化師であるから飽き
ないとしても、どれか一幕で十分な観客(specta tor)は、けっして終幕にいたらない芝居は永遠に同
じことのくりかえし(Einerle i)だというとふうに先が見えてしまうと、そんな芝居には飽きてしまう
(118)
からである。
第九講義
少なくとも注視者11観客の目から見て、全てがうまく行っていることの究極の保証は、『永遠平和のた
めに』から分かるように、自然それ自体です。自然は、摂理あるいは運命とも呼ばれます。自然の「合目
(llg)
的性は、人間の不和を通じて、人間の意志に反してもなお、融和そのものを生み出すことにある」。実際
不和は、自然の計画の極めて重要な要因であって、これなしにはいかなる進歩も考えられませんし、進歩
なしには最終的な調和を産み出すことも不可能になるでしょう。
注視者11観客は、自らは関与していないおかげで、行為者11演技者(a
ctor)にとっては隠されている摂
理あるいは自然の計画を見てとることができます。つまり、一方の側に光景(spectacle) 及び注視者11観
客が、他方に行為者11演技者及びあらゆる個々の事件、そしてそれに付随する偶然的な出来事が位置する
形になります。フランス革命の文脈では、注視者の見方こそがたとえその見方が行為のためのいかな
る格率も産み出さなかったにせよこの事件の究極の意味を与えるものである、とカントには思われた
のです。ただ、カントには、むしろその逆ではないかと思えるような議論もあるので、そうした側面につ
いて検討しておきましょう。それは、単一の事件が、そしてそれに関わる行為者たちが、「崇高」とも言
うべき光景を呈する状況、更に言えば、その崇高さが自然の隠されたデザインと一致しているのではない
かと思えるような場面です|| ,私たちの行為の格率を産み出す理性は、私たちがそうした「崇高な」行為
に加わることを定言的(categor icall y)に禁じるはずです。戦争の問題に対するカントの立場に即して考え
性を強調するために、次のくだりを引用しておきましょう。
97 カント政治哲学講義第八講義96
カン
てみましょう。革命の問題ではカントは明らかに革命の側にシンパシ] を示していましたが、戦争の問題
では、明らかに、かつ絶対的に平和の側にシンパシーを示していました。
『永遠平和のために』では、以下のように述べられています。「理性は、道徳的に立法する最高権力の座
から、訴訟手続としての戦争を断固として弾劾し、これに対して平和状態を直接の義務とするのである。
しかしこの平和状態は諸民族相互の間の契約がなければ、樹立されることも保証されることも不可能であ
(120)
る」。この問題での私たちの行為の格率がどのようなものになるべきかについては、議論の余地はないで
しょう。しかしこれは決して、純粋な傍観者(on lo
0 ker) ー|右i為することがなく、自分が見ているもの
に全面的に依拠する者ということです|ーが五結論することではないでしょうし、この時事論文の風刺的な
タイトルは、そこでの議論から生じてくる可能性のある矛盾以上のものを暗示しているように思えます。
『永遠平和のために11永遠の安らぎに向かってZurn ewigen Frieden 』というのはもともと、あるオランダ
〔29〕ヽヽ
人の居酒屋の亭主が思いついた風刺的な看板の文句であり、当然、墓地を意味します。そこは、永遠の安
らぎ11平和の場所であり、居酒屋の亭主が、この現世において長く切望されてきた平和な状態へとあな
たを誘ってくれる飲み物を提供しますよ、というわけです。そもそも平和とは何でしょうか?平和とは、
ヽヽ
死と呼ぶことさえできる停滞なのでしょうか?カントは、歴史と人類の歩みについての省察( r且ections)
ヽヽ
の帰結として形成されてきた、戦争についての自らの意見(0
pin ion)を一度ならず語っていますが、それ
を最も強く述べているのは、『判断力批判』においてでしょう。『判断力批判』の崇高に関する節で、
トは、このテーマを十分特徴的に論じています゜
未開人にとってすら、最大の讃嘆の対象であるものはなんであろうか。それは、ものに動じず恐怖す
ることなく、それゆえ危険を避けない:: ・・人間である。もっとも文明化した〔社会〕状態においても、
軍人に対するこうした特別な尊敬は残っている。……なぜなら、危険に挫けない軍人の心の不囲さが
認識されるからである。したがつて、政治家と将軍とが比較される時にも、美的判断は将軍を勝ちと
する判決を下す。戦争ですら……それ自体ある崇高なものをもっている。:· : •これに反して、長期に
わたる平和は、たんなる支配根性を支配的にし、しかしそれとともに卑しい利己欲、臆病、柔弱を支
(121)
配的にし、国民の心構えを低劣にさせるのがつねである。
これは、注視者11観客の判断、つまり美的11感性的判断(aes thet1cal judgment) です。戦争の崇高な側面
ーー人間の勇気ーーを見つめる傍観者(onlo 0 ker) は、カントが別の文脈で冗談風に言及していることを
考慮に入れていません。それは、「交戦中の諸国家を見ると、陶磁器店のなかで二人の酔っぱらいが棒で
(122)
殴りあっているようなものだ」という箇所です。つまり、世界(陶磁器店)が考慮に入れられていないの
です。彼が「戦争は『進歩」や文明にとって何の役に立つのか?」、という問いを提起する時には、この
問題がある意味考慮に入れられています。ただ、この場合もカントの答えは、決してはっきりしたもので
ヽヽヽヽヽ
はありません。確かに、自然の「究極意図」は、「世界市民的全体、言い換えれば、互いに他を損なうよ
うに働く危険のあるすべての国家の―つの体系」を構築することにあります。しかし戦争、すなわち「人
間の奔放な激情によって引き起こされる……意図されていなかった企て」は、まさにその無意味さのゆえ
に、来るべき世界市民的な平和の準備として実際に役立っこともありうるつまり、理性によっても善
99 カント政治哲学講義第九講義98
意によっても完全には成就しえない平和が、戦闘による全面的消耗の帰結として現実化するかもしれない
ことというだけにとどまりません。戦争はまた、
最も恐るべき苦難を人類にもたらし、平和時の戦争に対する不断の準備は、おそらくいっそう大きな
苦難をもたらすにもかかわらず、…•••それでも文化に役立っあらゆる才能を最高度に発展させる、も
(123)
ぅ―つの動機なのである。
(24)
簡単に言えば、戦争は「墓のような普遍的な専制君主制ほどには癒しがたい悪ではない」ということで
す。国民(nation) が複数存在することが、それゆえに引き起こされる一連の紛争と相まつて、進歩の原
動力になっているのです。
ただし、美的.反省的判断力についてのこうした洞察から、活動に関する実践的な帰結が導き出されて
くるわけではありません。活動については、疑いの余地なく以下のように言うことができるからです゜
ヽヽヽヽヽヽヽ
われわれのなかにある道徳的実践理性は、その抗しがたい拒否権Vetoを行使して、戦争はあるべき
、‘‘、
ではない、と宣言する。:·:•したがつて、永遠の平和はありうるのか、それともありえないのか、あ
りうると想定すれば、われわれは理論的判断において自己欺腑をおかしているのではないかというこ
とはもはや問題にはならない。それどころか、……平和を実現しようとする意固の実現がつねにむな
しい願望であり続けようとも、永遠の平和の現実がありうるかのようにわれわれは行為しなければな
(125)
らない。
....
:というのも、そうすることが私たちの義務だからである。
しかし、こうした活動の格率が、美的.反省的判断力を無効にしてしまうわけでありません。別の言い
方をすれば、カントが常に平和のために活動11演技(act) しているとしても、彼は同時に、自らの(美的·
反省的)判断を知り、心に留めていたのです。もしカントが注視者11観客として得た認識をもとに活動し
ていたとすれば、彼は自分の心の中で罪を犯していると感じたことでしょう。ただし、彼がこの「道徳的
義務」のために注視者11観客としての自分の洞察を忘れてしまうようなことがあったら、彼は公的事柄に
関わり、献身している多くの善良な人々がなりがちな、理想主義のバカになっていたことでしょう。
要約しましょう。私がここまで読みあげたくだりでは、二つの極めて異なった要因がほぽ全面にわたっ
て、同時に現れています。この二つの要因は、カント自身の内で密接に絡み合っており、そうならざるを
えなかったのです。第一に、傍観者(onlooker) としての立場があります。傍観者の見たものが大きな意
味を持つということです。傍観者は諸々の出来事が辿るコースの内に、一っの意味、行為者11演技者(actor)
が見逃してしまうような意味を発見することができるものとして想定されるわけです。そして傍観者の洞
察の実存的根拠は、その没利害性(dis interestedness) 、非関与(nonpartic ipation) 、出来事に巻き込まれてい
ないこと(noninvolvement) にあります。つまり傍観者の没利害的な関心(disinterested concern) が、フラ
ンス革命を偉大な出来事として特徴付けたのです。第二に、進歩の観念、将来に対する希望があります。
進歩という前提の下で、出来事が、それが来るべき世代のために何を約束しているかによって判定される
わけです。カントのフランス革命評価においては、この二つのパースペクテイヴが一致していました。こ
101 カント政治哲学講義第九講義100
のことは、活動の諸原理に関しては、
おいても、この二つのパースペクテイヴはともかく一致していました。戦争は進歩をもたらします1 技
術の歴史が戦争の歴史といかに密に結びついているか知っている人であれば、決してこのことを否定しな
いでしょう。
なので、
そしてまた戦争は、
その恐ろしさが増せば増すほど人間たちが理性的になり、最終的に平和へと通じる国際的合意を
目指して働くようになるだろう、と考えられるからです(「運命は欲する者を導き、欲しない者を引きずつてい
(126
)
[30
]
v-Fata duncunt volentem, trahunt nolentem
.
」。
は進歩であり、
平和に向けての進歩さえもたらします。戦争はあまりにも恐ろしいもの
人間の背後にある計画、
注視者11観客のみがどういう事態であるのか知っており、行為者11演技者は決して知らない、
考え方は、極めて古<からあります。
した洞察の、最も単純で、
いかなる意味も持たないわけですが。
しかしカントにとって、
自然の狡知、あるいは、
それは実際、最も古<からある、最も重要な哲学的観念の一っです゜
観想的な生活様式(contemplat ive way of life)
活動すること(act ing)を慎む者にだけ明らかにされる、
カントの戦争に対する評価に
それは運命ではありません。
後に歴史の狡知と呼ばれるものです゜
の優位という観念それ自体が、意味(あるいは真理)
というこの古<からの洞察に由来します。
はとんど洗練されていない形の例を示しておきましょう。
ものとされる寓話として伝えられています゜
それ
という
は行為II
そう
それはピタゴラスの
人生は: ・…祭典のようなものだ。つまり、その祭典(の競技会)には、ある人たちは競技のために来るし、
ある人たちは商売のために来るが、しかし最もすぐれた人たちは観客(
spectators 11 thea tai)としてや
って来るのである。それと同様に、人生においても、奴隷根性の人たちは名誉(doxa) や利益を追い
かけている者であるが、これに対して、知恵を愛し求める人(哲学者)たちは真理を追求している者
(127)
なのだ。
こうした評価を支えている根拠として、まず第一に、注視者11観客だけが全体を見わたすことが可能な
位置を占めているということを挙げることができるでしょう。行為者11演技者(actor) は演劇の一部分(part)
であるので、自分の役(part) を演じ(enac t)なければなりませんーー'つまり行為者11演技者は、その定
義からして党派的11部分的(partia l)なのです。これに対して注視者11観客は、その定義からして非党派
II非部分的(impartia l) です—注視者にはいかなる役も割り当てられていません。そういうわけで、直
接的な関わり合いから身を引いて、ゲーム外の立場へと撤退することが、全ての判断の必要条件なのです゜
第二に、行為者11演技者が名誉(doxa) を気にかけるということがあります。名誉とは、他者の意見(opinion)
のことですl 〈doxa 〉という語には「名誉」と「意見」の二つの意味があります。名誉は他者の意見を
通して生じます。したがつて、行為者11演技者にとって決定的に重要な問題は、自分が他者にどう見えて
いるか(doke ihois all ois) ということです。行為者11演技者は、注視者11観客の意見に依存しており、(力
ントの言語で言えば)自律していないのです。行為者11演技者は生来の理性の声に従って演技11行為(act)
するのではなく、注視者11観客が自分に期待するであろうことに従って行為するのです。基準は、注視者
II観客です。そして、この基準こそが自律的なのです゜
このことを哲学者の使う用語に翻訳すると、注視者的11観想的な生活様式l 〈bios theoret ikos〉こニの
「観想的theoretikos 」という形容詞は、「見ることtolook at」を意味する動詞〈theorein 〉から派生したも
103 カント政治哲学講義第九講義102
のですの優位ということになるでしょう。この生活様式においては、人は世評(
opmions) の洞窟から
全面的に脱け出し、真理を求めての狩りに出かけることになります。この場合の真理とは、もはや祝祭の
ゲームの上での真理ではなく、永続する事物の真理、つまりあるがままの事物と異なっている—|'人な事象はすべて、その現実のあり方とは異なったものになる可能性がありますということがありえず、
したがつて必然的に真理であるような真理です。こうした撤退を通して、人は、アリストテレスが「不滅
にすることathanati zein」と呼んでいる営みこれも活動11現実態(
activity) の一種と解されま和1 を
実行するのです。自分の魂の神聖な部分(part) によって、それを実行するのです。カントの見方は違い
ます。カントの場合も、人は、「理論的11観想的theoretica l」な立場、傍観する立場、注視者11観客の立
場に撤退するわけですが、この立場は裁判官11判断者(the Judge) の立場です。カント哲学の術語全体が、
法のメタフアー(隠喩)で貰かれています。理性の法廷の前に、世界の様々な出来事が現われてくるわけ
です。いずれの場合も、眼の前の光景に心を奪われていても、私はその光景の外側におり、自らの事実在(factual existence) を様々の周辺的、偶然的な条件を含めて決定する立場を放棄しているわけです。カ
ントなら、「私は一般的立場に達している。裁判官が判決を下す時に行使すべき公平11非党派性に達して
いる」と言うことでしょうし、ギリシア人なら、「私たちは、dokei moi (= 私には\と見える)と、『他者
に\と見られたい』という願望を放棄している。私たちは、意見であり名誉であるドクサを放棄している
のだ」と言うでしょう。
こうした古<からの観念に加えて、カントには全く新しい観念、つまり進歩の観念があります。実際、
進歩は、私たちに判断の基準を与えてくれます。ギリシアの注視者11観客は、人生の祝祭に際しても、永
続する事物を見る際にも、個々の出来事の秩序をそれ自体として考察し判断しますそして、その真理
を見出します。その出来事が、一定の役割(part) を演じることもあれば演じないこともある、より大き
なプロセスに関係付けるということはしません。ギリシアの注視者11観客が実際に関心を寄せていたの
は、個々の出来事、特殊な行為だったのです(例えば、ギリシアの円柱や、階段の不在のことなどを考えてみた
らいいでしょう)。個々の出来事や行為の意味は、その原因にも結果にも依拠していなかったのです。物語
(story) は、終局に達した時点で、全ての意味を包含することになるのです。これは、ギリシアの歴史叙
[32
]
述(historiography) についても言えることで、それは何故ホメロス、ヘロドトスやツキジデスが敗北した
敵を正当に扱うことができたのかの説明になります。物語も、将来の世代にまで妥当する諸規則(rules)
を含んでいることがありますが、それでも、単一の物語(asingle story) に留まります。この精神で書か
ヽヽ
れた最後の書物は、マキアヴェッリの『フイレンツェ物語Flor entine Stories 』であるように思えます
みなさんは、これを『フイレンツェ史TheHistory of Florence 』というミスリーディングなタイトルで知っ
ているかもしれませんが。ポイントは、マキアヴェッリにとって歴史(Hi
story )とはもっぱら、人間のあ
らゆる物語(stories) を含んだ巨大な書物であった、ということです゜
歴史を判断する基準としての進歩は、ある意味、「物語の意味は終局においてのみ顕わになる」(II「何
人であれ、死の前に祝福された者とは呼ばれえないNemoante mortem beatus esse dici potest 」)、という古<から
の原理を覆します。カントにあっては、物語あるいは出来事の重要性は、厳密にはその終局にあるのでは
なく、それが未来のために新しい地平を開くということにあります。フランス革命をあれほど重要な出来
ヽヽ
事にしたのは、あの革命に含まれていた未来の世代にとっての希望です。そうした感情が広く行き渡って
105 カント政治哲学講義第九講義104
いたのです。ヘーゲルにとってもフランス革命は最も重要な転換点だったわけですが、彼は常にこの出来
事を「輝かしき日の出」、「夜明け」などのメタファーで描写しました。フランス革命は、未来の種子を芋
んでいるがゆえに、「世界史的な」出来事なのです。ここでの問いは、「では、その物語の主体は誰か?」
ということです。革命の人たちではありません。彼らが世界史を念頭に置いていたわけでないのは明らか
です。世界史は、次のような場合にのみ意味を持ちうるのです゜
世界史の中では人間の行為の結呆として生ずるものは、それが目指し、求めたもの、それが直接に意
識し、また意欲したのとは全くちがったものだということである。人間はそれぞれ自分の関心事を追
求するが、しかしそこから出て来るものはその関心以上のものである。もっとも、この結果も元来そ
の関心の中に内在していたものではあるが、ただ人間の意識と意図の中に現われてはいなかったので
ある。われわれはこれと類似する一例を、恐らく正当な復讐心から、すなわち不当な侵害をうけたこ
とから来る復讐心から、他人の家に放火する者にとってみる。……この直接的な行為そのものは、僅
かに梁の一小部分に一寸した火をつけてみたというだけのことであった。.:·:〔だがその帰結として、
もともと意図していなかった〕大火に発展した。……このことは、こんなことを仕出かした人間の一
般的行為の中にも、またその意図にもなかったことである。……以上の例によっても、直接的な行為
の中には行為者の意志と意識の中に含まれているよりも以上のものがあり得るということだけは、は
(128)
っきりわかると思う。
これはヘーゲルの言葉ですが、カントが書いたとしてもおかしくなさそうです゜でも、両者にはやはり
違いがあります。違いには二つの側面があり、そのいずれも非常に重要です。ヘーゲルにおいては、プロ
セスの中で自己を現わすのは絶対精神であり、この顕現の終局において哲学者が理解することができるの
は、絶対精神です。カントにあっては、世界史の主体となるのは、人類そのものです。更に言えば、ヘー
ゲルにおいては、絶対精神の顕現は‘―つの終局に到達するはずです(ヘーゲルにあっては、歴史(history)
には一っの終局11目的(
end)があります。プロセスは無限ではなく、したがつて物語(story) には―つの終局11目
的があります。もっぱらこの終局11目的のために、多くの世代と世紀が生ずる必要があるのです)。最終的に顕わに
されるのは、人間ではなく絶対精神であり、人間の偉大さは、もっぱら彼が絶対精神を最終的に理解で
きる限りにおいて認識11現実化(realize) されるのです。しかしカントの場合、進歩は永続するものであ
り、終局はありません。したがつて歴史に終局はないのです(ヘーゲルにおいては、マルクスの場合と同様に、
歴史に―つの終局があるという考え方が重要です゜というのは、この歴史の終局という考え方は、「その終局の後にかが起こるとすれば、それは一体何なのか?」、という問いを不可避的に含んでいるからですー~こうした終末論的な
終局が、自分たちが生きている間に訪れると思い込みがちな、どの世代にもよく見られる傾向のことは、ここでは脇に
置くことにしましょう。コジェーヴが正しく言い表しているように、マルクスにも影響を与えているヘーゲルの考え方
のこうした側面を、その論理の最も極端まで突き詰めていくと、「歴史の終局の後に人間が成しうるのはもっぱら(129)
結された歴史の過程を永遠に再考し続けることである」、ということになるでしょう。他方、マルクス自身においては、
豊かさに根ざした無階級社会あるいは自由の王国は、みんなが某かの趣味に耽ることができる状態を生み出すことにな
ります)。
107 カント政治哲学講義第九講義106
カントに話を戻すと、
人類(mank ind)の全ての潜在能力を開発することにあります。
理解されるわけですが、
全く異なります゜
人類という言葉が、
ない。
世界史に対応する主体は、種としての人間(human species)
この場合、
他の動物種とは決定的な違いがあります゜
人類は自然の動物種の一っと
動物の種は通常、
函)
てが互いに一致しなくてはならない徴表以上のものはなにも意味しなし」わけですが、
ヽヽ
無限(II 限定されないもの)を目指して進んでいく世代の系列の全体を意味し、こ
の系列は使命というその脇を走っている直線に絶えず近づ<ものと前提されるならば、
のあらゆる部分においてこの直線に漸近的ではあっても全体としては一致する、
言い方を換えれば、人類のあらゆる世代のいかなる成員でもなく、
です゜ 自然の計画は、
「まさに個体のすベ
人類については、
この系列はそ
と言っても矛盾では
ただ類だけがこの使命を成
、‘‘、‘‘、、
就する、と言っても矛盾ではない。:
..
:哲学者ならば、全体としての人類の使命は永続的に進歩する
ヽヽ
ことである、と言うであろう
以上のことから二、三の結論を引き出してみましょう。歴史とは、人(man) という種の内に組み込まれ
ているク何かクである、と言ってもいいでしょう。人間の本質を規定することはできません。そして、「そ
もそもなぜ人間は現存(exist) するのか?」というカント自身の問いに対しても、「この問いに回答する
ことはできません」、と答えるしかありません。というのも、「(人間の)存在(existence) の価値」は、い
かなる個々の人間にも世代にも顕れることはなく、「全体においてのみ」顕れるからです。プロセスそれ
自体が永続的であるからです゜
このように、カントの道徳哲学の中心には個人が位置するのに対し、彼の歴史哲学ーあるいは、自
然哲学と言っておいた方がいいかもしれませんーの中心には、人類(human race, or mankind) の永続
的進歩が位置します1 そこから、「一般的視点からの歴史」の構想が生まれてくるわけです。一般的
視点ないし立場を占めるのは、「世界市民」である注視者11観客、あるいは「世界観察者11観客world
spectator」です。全体という観念を持ったうえで、個別の特殊な出来事において進歩が成されて否か判定するのは、そうした注視者11観客なのです。
109 カント政治哲学講義
第九講義108
前回は、観者11観客と行為者11演技者の衝突について話をしました。観者11観客の眼前にまるで、
彼の判断11判定のために演じられるかのようにー繰り広げられる光景は‘―つの全体としての歴史であ
り、この光景の真の主役は、ある種の「無限」を目指して「進んでいく世代系列」としての人類です。こ
のプロセスには終局11目的(end) がありません。「人類の使命は永続的進歩です」。こうしたプロセスの
中で人類の潜在能力は現実化され、「最高度」にまで発展していきますーーが哀←し、絶対的な意味での至
高の者は、実在(exist) しません。終末論の意味での究極の使命(destination) なるものは実在しませんが、
行為者たちの背後でこの進歩を導いている二つの主たる目標があります。何人も他の人間を支配しない、ヽヽという単純かつ基本的な意味での自由(freedom) と、人類の統一のための条件である国民間の平和geace)
の二つです。自由と平和へ向けての永続的な進歩です。後者、つまり平和によって、地球上の全国民の間
の自由な交渉が保障されるわけです。これらは理性の理念(idea) であり、これらがなかったら、歴史と
いう単なる物語(t he mere story of history) は無意味になるでしょう。理性を備えた人間が個々の出来事を
見て判断するに際して、それらの出来事に意味を与えるのは全体です。人間は、自然の被造物であり、そ
の一部であるにもかかわらず、「自然の目的は何であるか」と問う理性のおかげで、自然を超えるのです゜
こうした問いを発する能力を有する―つの種を産出することによって、自然は自分自身の主人を産出した
のです。人という種が他の全ての動物種から区別されるのは、単に言葉と理性を所有しているからではな
第十講義
カント自身もし
く、その能力が、規定することができない発展の可能性を秘めているからです゜
これまで私たちは、注視者11観客(spectator) を単数のものとして論じてきました。
ばしばそうしていますし、十分な理由のあることです。第一に、眼前で繰り広げられる光景(spectacle)
を、自らもその一部となりながら提供してくれている多くの行為者11演技者たちを、ただ一人の傍観者
(
onlooker)が視野に入れることができる、という単純な事実があります。第二に、観想的な生活様式は多
数者からの撤退を前提にしているものと見なす伝統の大きな重みがあります。観想的生活が人を、いわば
単独化(
singularize)するのは、観想(contemplat ion)が孤独な営みである、あるいは少なくとも、孤独の
(32)
中で営むことが可能であるからです。みなさんは覚えていると思いますが、洞窟の寓話の中で、プラトは次のように述べています。洞窟の住人、すなわち自分たちの眼前のスクリーンに映っている影絵を見て
いる多くの者は、「手足も首も鎖で繋がれており、動<ことができない。鎖で頭を回らせることができな
いようになっているため、眼前にあるものしか見ることができない」。したがつて、彼らはまた、自分た
ちの見ているものについて互いに伝達(
comm unicate) することもできないのです。全面的に孤立した姿で
描かれているのは、イデアの天空の光から帰還してきた哲学者だけではありません。洞窟内の注視者11観
客たちもまた、相互に孤立しているのです。それに対して、活動は孤独な、あるいは孤立した状態では不
可能です。一人だけの孤独な人であったとしても、少なくとも、何かを企てて実行しようとするのであれ
ば、他人の助けを必要とします。政治的(活動的)生活と哲学的(観想的)生活という二つの生活様式の違
いは例えばプラトンの政治哲学においてそうであるように相互に排除し合う性質のものだと解す
、‘‘‘‘
るのであれば、何を為すのが最善かを知っている者と、その者の指導あるいは命令に従ってそれを実行し
111 カント政治哲学講義110
ようとする者の間には絶対的な違いがあるということになるでしょう。これが、プラトンの『政治家』の
要旨です。理想的な統治者(archo n)は全く活動(act) しないのです。彼は、活動の意図された目的11終
局を、始めから知っている賢者であり、だからこそ統治者なのです。そういうわけで統治者にとって、自
らの意図を知らしめることは全くもって余計なことであり、有害ですらあるでしょう。カントの場合に
はその逆に、公共性(pub li cness) が全ての活動を支配する「超越論的原理」であることを私たちは知って
います。どのような行為(ac t) であれ、それ自身の目的を挫折させないために「公開11公共性(
publicit y)
を必要とする」行為は、みなさん記憶しておられると思いますが、政治と正義(right) を結合する行為です。
行為することと、単なる判断、観想、あるいは知ることの間の関係について、カントがプラトンと同じ考
え方をしているということはありえないのです。
意図された行為に対して、その行為に着手する手がかりとなる公開11公共性を与えるとされるこの公衆
(public) なるものはどこにいるのか、また誰であるのかよく考えてみれば、カントの場合、それが、行為
者あるいは統治に参加する者としての公衆ではありえないことは極めて明白でしょう。カントが考える公
衆とはもちろん読者としての公衆です。カントが訴えかけているのは、公衆の意見の重みであって、彼ら
の票の重みではありません。一八世紀後半のプロイセン1 それは、専制君主が支配し、それをかなり啓
蒙化された文民の官僚機構(彼らもまた、君主同様に「臣民the subjects
」から完全に分離していました)が補佐
する国家であったわけですi においては、こうした読み手かつ書き手としての公衆(readi
ng and writing
public) 以外に真の公共領域はありえなかったのです。統治と行政の領域は、まさにその定義からして、
秘密に包まれた、近付くことのできない領域でした。そして、私がこの講義で引用している論文を読めば
分かるように、カントが活動(act10n) と考えることができたのは、もっぱらそれが何であれ時
の権力者の行為、すなわち統治行為だったのです゜ 臣民の側からのあらゆる現実の働きかけ(act i0 n)は、
陰謀的な活動(activity) 、秘密結社の行為ないし策略としか考えられなかったのです。別の言い方をすれば、
カントにとって、確立された政府に代わるものは革命ではなく、クーデターであったのです゜革命と違っ
てクーデターは実際に秘密裡に準備されねばなりません。それに対して、革命集団ないし革命党派は、自
分たちのゴールを公け(pub li c)にし、人口の主要な部分を自分たちの掲げる大義の下に結集させようと
常に奮闘してきました。こうした戦略が実際に革命をもたらしたかどうかは、別の問題です。しかし、革
命的活動に対するカントの非難が、革命をクーデターと見なしたがゆえの誤解に基づいていることを理解
しておくのは重要です。
私たちは、観想(contemplat ion)と活動(act i0 n)の違いを、理論と実践の関係という面から考えること
に慣れています。カントはこの問題について、『理論では正しいかもしれないが実践の役には立たない、
という通説について』という論文を書いていますが、彼がこの問題を私たちと同じ様に理解していないの
は確かであり、そのことはこの論文自体が最もよく示しています。実践についてのカントの考えは、実践
理性によって規定されています。『実践理性批判』は、判断や活動は扱っていませんが、実践理性につい
ては全てを教えてくれます。「観想的快contemplative pleasure」と「非能動的満足inacti ve delight 」から生
(33)
じてくる判断は、『実践理性批判』の中に位置を占めていません。実践的な事柄では、判断力ではなく意
志が決定的であり、その意志はもっぱら理性の格率にだけ従います。『純粋理性批判』においてさえ、カ
ヽヽヽ
ントは「理性の純粋使用」についての議論を、その実践的な含意から始めています。ただ彼はその際に、「理
113 カント政治哲学講義第十講義112
性をもっばらその思弁的使用の面から考察するために、実践的〔つまり、道徳的〕理念を暫定的に度外視
(134
)
<35
)
して」います。この思弁(spec ulation) は、個人の究極の目的地(巨目atedestinati 0
n)、「最も崇高な諸問題」の
内でも究極的に崇高なものに関わります。カントにおいては、実践的とは道徳的であることを意味し、個
、‘‘‘
人としての個人に関わります。この語の真の対立項は、理論ではなく思弁、つまり理性の思弁的使用です。
ヽヽ
政治的事柄に関するカントの現実的な理論は、永続的な進歩と、人類という理念(idea) に政治的リアリ
ティを与えるための諸国民の連邦的統一についての理論でした。この方向を目指して働く人は誰であれ歓
迎しました。しかし、カントが人間に関わる事柄一般について省察する際に援用するこれらの理念は、フ
ランス革命の注視者11観客たちを捕えた「熱狂と紙一重の、願望としての関与」とも、また「協力しよう
という意図は全くないのに」ただ共感をもって眺めるだけの「外から見物している公衆の高揚」とも、全
く異なるものです。カントの見解では、革命を「忘れさられることがない現象」にしたーー,別の言い方を
すれば、世界史的な意義をもつ公共的な事件にしたー|'のは、まさにこの共感(sympath
y) であったので
[34
) す







































11演





はなく、喝采を送る注視者11観客たちだったのです。
カントは政治哲学を書いていないわけですから、この問題について彼が考えていたことを知る最良の
やり方は、彼の「美的判断力の批判」に当たることでしょう。ここでカントは、芸術作品の制作廿産出
(production) を、作品について判定する趣味との関係で論じていますが、ここでも同じような問題に直面
しています。私たちには、ある光景について判断するためにまず自分がその光景に立ち会わねばならない
と考える傾向がありますーー'それには理由がありますが、その理由について立ち入って論じる必要はない
でしょう。
向がある、
つまり、注視者11観客は、行為者11演技者に対して二次的な位置しか占めていないと考える傾
ということです。正気の人間であれば、観客に注目されているという確信がないのに、見せ場
(spectacle) を演じたりしない、ということを私たちは忘れがちです。カントは、人間のいない世界は砂漠
であると確信していました。そして、カントにとって、人間のいない世界とは、注視者11観客のいない世
界を意味します。美的判断力を論ずるに当たって、カントは天才と趣味を区別します。芸術作品の制作に
は天才が必要ですが、それらの作品を判定するには、つまりそれらが美的対象か否かを決定するには、趣
味以上の「何ものも」これはカント自身ではなく、私たちなりの言い方ですが必要ではあり
、、、、、、ません。「美しい対象を美しい対象として判定するためには、趣味が必要である:·:•こうした対象を産出
ヽヽ(136)
するためには天才が必要である」。カントによれば、天才は、生産的構想力(produc tiveimaginat ion)と独
創性に関わる事柄であるのに対し、趣味は判断にのみ関わる事柄です。カントはこの二つの内のいずれが
「より高貴な」能力であるか、つまり、「技術(art) を芸術(beautifu lart) として判定(judge) する際に注
(芍
目しなければならない」不可欠の条件はどちら力という問いを立てていますもちろんカントは、美の
判定者のはとんどは天才と呼ばれる生産的構想力を欠いているけれど、天才を与えられている少数の者た
ちが趣味の能力を欠くことはない、と想定しているわけですが。この問いに対して、カントは次のように
答えています゜
美のためには、諸理念が豊かで独創的であることは必ずしも必要ではなく、むしろ構想力が自由であ
りながら悟性の合法則性に適合することこそ、必ず必要なことである。というのも、構想力はどれほ
115 カント政治哲学講義第十講義114
ど豊富であっても、構想力が無法則的な自由であれば、その豊富さは無意味なものだけを産み出すが、
これに反して判断力は、構想力を悟性に適合させる能力だからである。
趣味は、判断カ一般と同様に、天才の訓練(ないし訓育)であり、天才からその翼を切り縮めて
……指針を与え.:·:、〔天オの思想に〕明晰さと秩序をもたらすことによって、諸理念を確固とした
ものにするのであり、永続的で同時に一般的賛同を得られるものにし、また他のひとびとによる継承
と絶えず進む文化とに耐えうるものにする。それゆえ、ある産物についてこれら二種の特性が衝突し
て、あるものが犠牲にされるべきだとすれば、犠牲はむしろ天才の側で起こらなければならないであ
(138)
ろう。
天才がなければ判断力が判断する対象が何もなくなってしまうにもかかわらず、カントは、このような
形で、天才の趣味への従属を認めます。カントは、「美的芸術には:・…構想力、悟性、精神、趣味が必要
ヽヽ
である」と語った後、脚注ではっきりと、「最初の三つの能力は第四の能力〔趣味〕によってはじめて合一
(139)
される」と付け加えています。更に言えば、精神(spirit) は、理性、悟性、構想力とは別の特殊な能力で
あり、この能力のおかげで天才は、:める主観的な心の調和を生みだし、それを::••他の人々に対して伝
達可能」にする諸理念のための表現を見出すことができるのです。言い換えれば、精神とは、天才に、し
かも天才のみに霊感を与えるもの、「いかなる学も教えることができず、いかなる勤勉も学ぶことができ
ない」ものであり、その本質は、一定の表象(representation) によって私たち全ての内に呼び起こされる
けれど、私たちにはそれを表現する言葉がなく、天才の助けなしにはそれをお互いに伝達できないような
キケロの
こうした洞察は少なくとも(ギリシア古代とは区別される)ラテン古代
『弁論家について』の中に、その最初の表現を見出すことがで
「心の状態(Gemutszustand) における名付けがたきもの」を表現することにあります。天才に固有の仕事
(141)
は、そうした心の状態を「一般的に伝達可能に」することです。この伝逹可能性を導<能力が趣味ですが、
、‘‘、
趣味あるいは判断力は天才の特権ではありません。美的対象が実在するための不可欠の条件は、伝達可能
性です。つまり注視者11観客(spectator) の判断力が、それなしではいかなる美的対象も現われることが
できない空間を創造するのです。公的領域は演技者11行為者(ac tor)あるいは制作者(maker) ではなく、
批評家(critic) と鑑賞者11観客(spectator) によって構成されるのです。そして、この批評家と鑑賞者と
ぃうのは、あらゆる演技者11行為者と製造者(fabricator) に内在しています。こうした批評的・判定的能
カがなければ、演技者あるいは制作者は、観客から孤立し、認知されることさえないでしょう。あるいは
別の言い方をすれば、やはりカントの言い方ですが、芸術家の本当の独創性(あるいは演技者の本当の斬新さ)
は、自分のことを、芸術家(あるいは演技者)でない人たちに理解してもらえるかどうかにかかっています。
そして、天才についてはその独創性ゆえに単数形で語ることができますが、ピタゴラスにおいてそうであ
[35
]
ったように、観客(号e spectator) のことを単数形で語ることはできません。観客はもっぱら複数で存在し
ます。観客は演技11行為(act) に巻きこまれる(invo lvedin)ことはありませんが、常に仲間の観客たちと
関わり合って(involved with) います。観客は、天オの能力である独創性を制作者と共有するわけではなく、
また斬新さをもたらす能力を演技者と共有するわけでもありません。観客たちが共通に持っている能力は、
判断の能力です゜
制作(makinig) について言えば、
と同じぐらい古<からあります゜
117 カント政治哲学講義第十講義116
制作に関しては、
(43)
がない。
専門家と素人の間に雲泥の差があるのに、
技術や理論をいっさい知らなくても、
で何が正しいものであり、
佳しも、, ,
"= -
カントも『人間学』
きます。
の中で、
誰でも、本能的な直感によって、
何が問違ったものであるか、
彫像やその他の作品の善し悪しを判別するのであるが、
て示す直感ははるかに的確なものである。
全く同じ調子で、
善し悪しの判定においてはそれほどの差
さまざまな分野の学芸や学問
判別(d11 udicare)
この名称が含意しているのは、
できるのである。
そういったものを理解する天与の賜物にそれほど恵まれてはいないにもかかわらず、
言葉のリズムや声の調子に対する判断におい
なぜなら、言葉のリズムや声の調子といったものは共通感
覚に根ざした(infixa) ものであり、自然の意志によって、この世にはその共通感覚を経駿する(expert us)
(142)
ことのない者はいないからである。
これに続けて彼は、以下のことは真に驚嘆すべきであり、注目に値する、と述べています。
狂気の本質は、注視者としての判断を可能にする共通感
覚の喪失にある、と述べています。共通感覚の反対が私的感覚(sensus pnvatus)
(144)
情logicalEigensinn 」とも呼ばれますが、
です。これは
論理的能力、
こうして、
絵画や
「論理的強
つまり前提から結
論を引き出すことを可能にする能力は、実際コミュニケーションなしでも機能しうるであろう、というこ
とです。ただしその場合、つまり狂気によって共通感覚の喪失が引き起こされている場合には、この能力
は狂気の帰結に至ることでしょう。それはまさに、共通感覚を失った論理的能力は、他者が現前する場合
にのみ妥当する、または妥当性を与えられる経験から分離された状態にあるからです゜
ここで最も驚くべきは、正(
right) /不正(wrong) の判断能力ないし判別能力である共通感覚が、趣
味(t
aste) の感覚に基づいていることになる、という点です。私たちの五感の内、三感は明らかに、外界
の対象を私たちに与えるものであり、従ってこれらは容易に伝達可能です。視覚・聴覚・触覚は直接的に、
そしていわば客観的(
objecti vely) に対象(objec ts)を扱います。これらの感覚によって、対象は同定可能
になり、他者と共有することが可能になります||' つまり言葉で表現し、語り合うことなどができるよう
[36
]
になります。嗅覚(
sme ll) と味覚(t
aste)は、全く私的で伝達不可能な内的感覚を与えます。私が今味わ
っていることや匂いを嗅いでいることを、言葉で表現するのは全く不可能です。これらは元来私的感覚で
あるように思えます。更に言えば、対象に関わる先の三つの感覚には、再現(represent) することができる、
不在(
absent)のものを現前(present) させることができる、という共通の性質があります。例えば私は、
ある建物、あるメロディー、ビロードの触感を想い起こすことができます。この能カーカントはこれを
構想力(Imagination) と呼んでいますー_ は味覚や嗅覚にはありません。他方、この二つの感覚は、明ら
かに排他11判別的(discriminatory) な感覚です。人は、自分の眼で見たものによって判断するのを差し控
えることができますし、またそれよりも困難なことですが、聞いたり触れたりしたものによって判断する
のを差し控えることもできます。しかし、味や匂いに関しては、「私が快または不快を感じること」は直
119 カント政治哲学講義第十講義118
休暇の前に話題にしていたことを想い出すために、少し復習しておきましょう。カントにあっては、政
治的事柄における理論と実践の一般的な区別もしくは対立は、注視者11観客と行為者11演技者の区別だと
いうことを確認しましたね。そして驚くべきことに、注視者の方が優位にあることも分かりました。フラ
ンス革命において重要だったこと、この革命を世界史的出来事、忘れることができない現象にしたのは、
行為者11演技者たちの功績や悪行ではなく、注視者11観客たち、つまり自らは巻き込まれなかった人たち
の意見と熱狂的な賛同でした。巻きこまれることなく(uninvo lved) 、参加もしていないこうした注視者11
観客たち注視者11観客たちは、出来事を人類史上において、つまりは将来の一切の行為にとって、お
ヽヽヽ
馴染みのものにすると言うことができるでしょうが互いに関与し合っている(were involved with one
anot her) ということも確認しました(これは互いに伝達し合うことができないオリンピック(祝祭)のピタゴラス
的な観客やプラトンの桐窟の注視者たちとは正反対です)。以上は、大部分、カントの政治的著作から確認した
ことですが、私たちはこうした彼の立場を理解するために、『判断力批判』も参照しました。そしてここ
でもカントが、同様な、あるいは類似した状況に直面していることを知りました。芸術家・制作者あるい
は天才と、その鑑賞者の間の関係をめぐる問題です。ここでも、誰がより高貴なのか、制作の仕方を知っ
ているのとその判定の仕方を知っているのといずれがより高貴か、という問いがカントに生じてきました。
私たちは、これが古<からの問いで、既にキケロが提起していた問いであることを確認しました。つまり、
第十一講義
接的であり、抵抗できません。そして、こうした快/不快は全く独特な感覚です。では一体何故、趣味が
持ちあげられ、判断力という精神的な能力の器とされてきたこれは何もカントに始まるわけではなく、
窃〕
グラシアン以来のことですのでしょうか?また翻って、判断カーこの場合の判断力とは、単なる
認識的な判断力、つまり、同じ感覚器官を備えた全ての生物と私たちが共有している、対象を私たちに与
ヽヽ
える感覚に内在する判断力ではなくて、正/不正の判断力のことですー|'が、そうした私的感覚に基づい
ていることになるのは何故でしょうか?趣味が問題となる場合、私たちはほとんど伝達することができ
ず、議論することさえできない、というのが実情ではないでしょうか?「趣味については議論しえずDe
[38
]
gustibus nーn disputandum est」。
この謎に解答を与えるのが構想力です。不在のものを現前させる能力である構想力は、客観的感貨
(objective senses) の対象(object) を、まるで内的感覚の対象であるかのように、「感受されたsensed」対
象に変容させます。この変容は、対象自体ではなく、対象の表象11再現前化(
represen tation) についての
反省11反映(reflecting) を通して起こります。その際に、表象11再現前化された対象は、対象の直接的な
(145)
知覚ではなく、その人の快/不快を喚起するのです。カントはこれを「反省の作用」と呼んでいます゜
121 カント政治哲学講義第十講義120
誰しもが芸術に関してその善し(righ t)/悪し(w rong) を判別11判断できるように思われるのに、芸術を
制作できる者はほとんどいない、という問題です。そしてキケロは、こうした判定は「沈黙の感覚sil ent
sense」ーこの表現は恐らく、他に表現しようのない感覚という意味ですー|によってなされると語っ
ていました。
この種の判断力は、グラシアン以来、趣味(Taste) と呼ばれてきました。カントをして現に『判断力批判」
を産み出すに至らしめたのも、この趣味の現象であったことも私たちは確認しました。実際一七八七年の
時点でも、カントは依然として、この仕事のことを「趣味の批判」と呼んでいました。このことから次に
私たちは、判断という心的現象が、より客観的な感覚、とりわけ最も客観的な感覚である視覚に由来する
のではなく、趣味の感覚に由来するのは何故なのか考えました。私たちは、味覚(t
aste)と嗅覚(
sme ll )
が感覚の内で最も私的な感凸見であること、つまり、これらが感受するのは対象ではなく感覚(
sensati
0
n)
であり、しかもこの感覚は対象に拘束されず、想起も不可能であることに言及しました(バラの香りや特殊
な料理の味は、もう一度感受すればそれだと認識することができますが、そうしたバラや食べ物が不在の場合は、させることはできません。かつて見たことのあ る光景や聴いたことのあるメロディーであれば、たとえそれらが不も、現前させることはできますが、同じ様にはいかないのです。言い換えれば、香りや味は再 現前化できない感覚なの
です)。同時に私たちは、何故趣味が他のどの感覚にもまして、判断力の器となるのかについても検討し
ました。その理由は、味覚と嗅覚のみがまさにその本性からして排他11判別的(discr iminatory) であるこ
と、そしてこの二つの感覚のみが、特殊としての特殊へ関係するのに対して、客観的感覚に与えられる対
象は全て、他の対象とその属性を共有すること、つまりユニークなものではないということにありました。
更に言えば、「私が快または不快を感じること」は、味覚及び嗅覚において、圧倒的な仕方で現前します゜
それは直接的(immediate) で、いかなる思考や反省にも媒介されていない(unmediated) のです。これら
の感覚は、見たり聴いたり触れたりした物のような客観性が無である、あるいは少なくとも不在である、
ヽヽヽ
という意味で主観的です。私たちが味わう食べ物は私たち自身の内部にあり、またバラの香りもある意味
ヽヽ
でそうであるがゆえに、これらは内的感覚です。「私が快または不快を感じること」は、「私の同意するこ
とまたは同意しないこと」とほぼ同じです。この問題のポイントは、私が直接的に触発される、というこ
とです。まさにこの理由から、ここでは正/ 不正についての議論は起こりないのです。「趣味については
議論しえずDe唇stibus non disputandum est」。私が牡蠣を好まないとすれば、いかなる議論をもってしても、
牡蠣を好むように私を説得することはできません。別の言い方をすれば、趣味に関する事柄で私たちが困
惑させられるのは、それらが伝達不可能であるからです゜
、‘‘‘、‘‘
これらの謎に対する解決は、構想力及び共通感覚という他の二つの能力を名指すことによって示すこと
ができます゜
(146)
構想力は不在のものを現前させる能力ですが、この構想力は対象を、私が直接対面する必要がないけれ
ど、ある意味内面化しているものへと変容させます。そのため、私はその対象によって、まるでそれが非
客観的な感覚によって私に与えられたかのように、触発されうる状態に置かれます。カントは、「美しい
(147)
のは、たんなる判定のうちで快を与えるものである」と言っています。つまり、それが知覚において快を
与えるかどうかは重要ではないのです。単に知覚において快を与えるだけのものは、楽しみを与えるか
もしれませんが、美しくはないのです。美しいものは、表象11再現前化において快を与えます。構想力が
123 カント政治哲学講義第十一講義122
美しいものを用意すると、私がそれについて反省できるようになるからです。それが「反省人がもはや直接的な現前によって触発されえない時つまりフランス革 命の実際の行為に関与た注視者11観客たちのように、人が関与していない時||'には、表象の中でその人の(心に)触れ、触発
するものだけが、是(正)か非(不正)か、重要か無関係か、美か醜か、あるいは、それらのといった判断の対象になりうるのです。そうなると、問題になるの はもはや趣味ではなく故なら、それがなお趣味の場合のように人を触発することがあったとしても、その人は今ることで、それとの間に適当な距離を確立してい るからです。その場合の距離とは、是認や否認つまり、あるものをその固有の価値において評価するための必要条件である、隔たり、非関与性 (uninterestedness) です。対象を除去することによって、公平11非党派性のための諸条件が確立される
のです゜
共通感覚について言えば、カントは非常に早くから、最も私的(
private) で主観的な感覚のように見え
るものの内にも、非主観的なものがあるということに気づいていました。この認識は、次のようにれています。趣味に関して、以下の事実があります。「美しいものが経験的に関心を引く(
in terest )
のは、
ただ社会のうちだけである。.:·:荒涼とした島にひとり取り残された人間は、自分だ屋も自分自身も飾ることをしないであろう。:·:•ひとはある対象に ついての満足を他のることができなければ、その対象に満足することはなし」。あるいは、「私たちは自分の趣それと一致しない時には、恥かしく思う」—| ゲームをしている時、私たちはズルをすると内心蔑みますが、恥かしく思うのは、それがばれた場合だけです。あるいは、「趣味について(149 遵は他者のために」、つまり、他者に気に入られるために、「自分の好みを断念しなければならなし」とも言
っています。最終的には、最も徹底した言い方として、「趣味においてエゴイズムが克服される」とさえ
言っています、つまり、私たちが、言葉の本来の意味において「思慮深くconsiderate 」なるということです゜
私たちは他者のために、自分の特殊な主観的条件を克服しなければなりません。別の言い方をすれば、非
客観的な感覚の内の非主観的要素とは、間主観性です(思索するには一人にならねばなりませんが、食事を楽し
むには仲間が必要です)。
判断、特に趣味判断は、常に他者及び他者の趣味について反省し、他者が下す可能性のある判断を考慮
に入れます。こうしたことが必要なのは、私が人間であり、人間の仲間の外で生きられないからです。私
が判断を下すのは、この共同体の一員としてであって、超感覚的世界(asupersensible wor ld)の一員とし
てではありません。超感覚的世界というのは、恐らく、理性は備えているものの、同じ感覚器官を具えて
はいない存在者たちの住む世界でしょう。そこでは、そうした存在者としての私は、他者がどう考えるか
に関わりなく、自分に与えられる法(則)に従うことでしょう。この法(則)は自明であり、その本質か
らして有無を言わせないものです。判断力と趣味の基本的な他者指向性は、この感覚自体(味覚)の元々
の本性、その絶対的に特異な本性と、真っ向から対立しているように見えます。そう思うと、判断の能力
がこの感覚から派生するという推論は誤りではないか、と結論したいという誘惑に駆られます。カントは、
この推論が意味するところを十分承知したうえで、これが正しい推論だと確信し続けていました。また彼
自身が気に入っていた、最も説得力のある洞察に、美しいもの(the Beautifu l) の真の対立項は醜いもの
ヽヽヽヽヽヽ(150)
ではなく、「嫌悪感11吐き気(disgust) をもよおさせるもの」であるというのがありますが、Ugly)
(the
これは
125 カント政治哲学講義第十一講義124
判断力の内には二つの心的作用(men taloperat ion)があります。―つは構想力の作用です。そこでは、
もはや現前していない対象、つまり直接的な感性的知覚から引き離され、したがつてもはや私たちを直
接触発することのない対象が判定11判断(
judge) されます。ただしこの場合、対象は外的感覚からは引
き離されているものの、今度は内的感覚の対象となるわけです。不在のものを思い浮かべる11表象する
(represent) 時、私たちは、私たちに対象(ob ject) を客観的に(in objectiv ity)与える感覚を、いわば、閉
じているのです。趣味11味覚(taste) の感覚は、いわば、私たちが自分自身を感じる感覚です。それは内
的な感覚なのです。したがつて、『判断力批判』は「趣味批判」から発展してきた、と言うことができます゜
こうした構想力の作用が、「反省の作用」の対象を準備するのです。そしてこの第二の作用ーー'反省の作
用i こそが、あるものを判定11判断する現実の活動なのです゜
この二重の作用は、全ての判断のための最も重要な条件である公平11非党派性、あるいは「没利害的満
足disinterested deli ght 」を確立します。私たちは目を閉じることによって、可視的な事物の公平な注視者、
当該の事物によって直接触発されない注視者になります。盲目の詩人になるのです。また、外的感覚によ
って知覚したものを内的感覚の対象とすることによって、私たちは感覚的に与えられたものの多様性を集
約し凝縮します。そうやって私たちは精神の眼によって「見る」、つまり、特殊的ものに意味を与える全
体を見ることができるようになるのです。各行為者11演技者が自分の役割(part) しか知らない、あるいは、
第十一講義
全くもって的確です。そして、カントがもともと『道徳的趣味批判』を書うにしましょう。つまり、美しいものの現象というのは、言ってみれば、こうした彼が初期に行なった考察の遺物なのです。
127 カント政治哲学講義第十一講義126
『判断力批判』第三九節
演出の流れ
るいは否認」
(actmg)
をもつ人間が、
「どうしてある強烈な苦痛は、
に対する未亡人の悲しみ)。
るかもしれません。しかし、
感官の感覚(sensati 0 n of the senses 11 Smnenempfindung) は、「あまねく等しい仕方で伝達可能である。何
故なら、あらゆる人がわれわれの感官と同じ感官をもつと想定できるからである。しかしこのことは、個
別の感官について端的に前提することはできない」というのです。これらの感覚は私秘的(private) です゜
また、いかなる判断もそこに含まれていません。私たちはただ受動的に反応するだけであって、何かを意
「感覚の伝達可能性について」
の見通しに従って判断すべき時でさえ、
て知らないのに対して、注視者11観客の利点は、
ここで次の問いが生じてきます゜
に私たちの内的感覚に現前させます゜
に従属しているのです。
また、
事する学問についての楽しみのように)。
全体の内の自分の役割に関わる部分につい
劇(play) を―つの全体として見ていることにあります゜
行為者11演技者は元来、役割的11部分的11党派的11不公平(partial) なのです゜
反省の作用の基準は何か?
どうしてある楽しみは、
構想力の作用は、不在のものを直接的
つまり、
この内的感覚は排他11判別的で、「快感だit, pleases 」あるいは「不
、‘‘、
快だit -displeases 」というような語り方をします。それは、味覚(taste) のように選択するがゆえに、趣
、‘‘‘
味(taste) と呼ばれます。しかしこの選択自体が、更に別の選択に従属しています。私たちは、快感であ
る合leasing) という事実そのものを、是認あるいは否認することができます゜ 快もまた「是認あ
カントは次のような例を挙げています。「とほしくても善良な考え
彼を愛してはいるがけちであった父親の遺産に対してもつ喜び」
苦痛を受けるひとにそれでも満足を与えうるのか
の例。あるいはその逆に、
(多大な功績のあった夫の死
そのうえさらに快を与えうるのか(われわれが従
そのさらに、どうしてある苦痛(たとえば、憎悪、嫉妬、復讐心)は、
函)
うえさらにわれわれに不快を与えるの力」。こうした是認や否認は全て、後から付け加えた思案です。学
問的探究を行っている時に、自分がそれに従事していることに喜びを感じていると漠然と気づ<ことがあ
つまりそれまでやっ後でそのプロセスについて反省する時になって初めて、
、‘‘‘
ていたことに忙殺されなくなって初めて、それを是認するという付加的な「快」を得ることができるので
す。こうした付加的な快においては、快を与えるのはもはや対象ではなく、私たちが「それは快を与える
ヽヽ
ものである」と判断することが、快を与えるのです。このことを自然あるいは世界の全体に関係付けるな
らば、世界あるいは自然が私たちに快を与えることに、私たちが快を感じる、と言うことができるでしょ
う。是認する行為それ自体が快を与え、否認する行為それ自体が不快を与えるのです。そこで問題になる
のは、私たちがどのようにして是認と否認の選択をしているのか、ということです。先の例に即して考え
れば、容易に―つの尺度(criterion) が思い浮かんできます。伝達可能性(communicability) あるいは公共
II公開性(publicness) という尺度です。父親の死に際して過度に喜びを表そうとする者はいないでしょう
し、あるいは、憎悪や妬みの感情を表わす者もいないでしょう。他方で、学問的探究に喜びを感じている
ことを公表するのに良心の呵責を覚える者はいないでしょうし、また、多大な功績のあった夫の死に際し
て悲しみを隠そうとする未亡人もいないでしょう。
その場合の尺度となるのが伝達可能性であり、それを決定する基準(standard) が共通感覚(common
sense) です゜
129 カント政治哲学講義第十二講義128
『判断力批判」第四0 節
のままに想像したり、それについて反省したりする時のように、自発的になることはありません。
その対極に、道徳的諸判断があります。カントによれば、道徳的諸判断は必然的です。つまり実践理性
によって命じられているのです。道徳的諸判断は伝達されることがありますが、この場合の伝達は二次的
なものです。道徳的諸判断はたとえ伝達されえないとしても、依然として妥当するでしょう。
そして第三に、美しいものについての判断、あるいは美しいものにおける快があります。「この快は
‘、、‘
•••

: 構想力によるある対象の普通の把捉(apprehension) 〔知覚(perception) ではなく〈Auffas sun g (把
握)〉です〕に伴う。この把捉は、きわめて普通の経験のためにも行使しなければならないような判断力
の手続きを介して……行われるのである」。私たちが世界について為すいかなる経験の内にも、某かそ
うした判断があるのです。この判断は「万人に前提されてよい普通の健全な悟性(geme iner und gesunder
Verstand) 」に基づいています。では、私たちが共通に持っているにもかかわらず、感官の一致は保証し
ないこの「共通感覚common sense」は、一体どのようにして他の感覚から区別されるのでしょうか?
「一種の共通感覚(Sensus Communis) としての趣味について」
用語法が変化しています。ここでは、「共通感覚common sense」という語が、私たちの他の諸感覚のよ
うな―つの感覚(sense) を意味するものになっていますーそれは、極めて私秘的でありながら、万人が
同じく持っている感覚です。カントはラテン語を使うことによって、別のことを示唆しようとしていま
す。それは、私たちを共同体(community) に適合させる、ある特別な心的能力(ドイツ語で言えば、人間悟
性(Menschenverstand)) と同様に、私たちを共同体(C0 mmurnty) に適合させる、特別な感覚です。「普通
II共通の人間悟性(common understanding of men)は: ・・・・人間という名称を要求するものだけに期侍され
うるもののうちで最小限度のものとみなされている」。この能力によって、人間は動物や神々から区別さ
れます。この意味11感覚(sense) において明らかになるのが、まさに人間の人間性なのです。
共通感覚(sensus commun is)は、伝達(comm unication) 、つまり言葉(speech) が依拠するものであるがゆえに、
ヽヽヽヽ
特殊人間的な感覚です。私たちの欲求を知らせる、あるいは恐れや喜びなどを表現するのに、私たちは必
ずしも言葉を必要としません。身振りで十分でしょうし、また長い距離を繋ぐ必要がある場合でも、音が
十分に身振りの代用品となるでしょう。伝達は表現とは違います。そういうわけで、「精神異常に見られ
る唯一っの一般的徴表は、常識(sensus commun is 共通感覚(共通論理))の欠如と、それと入れ代わりに〔精
(152)
神異常者の人格の内に〕現われる論理的強情(s ensus privatus 私的感覚(私的論理))である」というのです。
狂気の人間も、自分の欲求を明らかにし、他人に知らせるための表現力を失っていないのです。
ヽヽヽ
共通感覚(sens us c 0 mmums)は、ある共通の感覚(geme inschaft li cherSinn) の理念、すなわち、次のよ
うな判定能力の理念と理解されなければならない。この判定能力は、自らの反省において他のあらゆ
ヽヽヽ
るひとの表象の仕方を思想のうちで(アプリオリに)顧慮する。それは、いわば総体的な人間理性と
自分の判断を照らし合わせるためである、·: ·:こうしたことは、ひとが自分の判断を他のひとびとの
現実的判断というよりも、むしろたんに可能な諸判断と照らし合わせて、われわれ自身の判定に偶然
付随する諸制限をたんに捨象して、他のあらゆるひとの立場に自分を置き換えることによって起こる
131 カント政治哲学講義第十二講義130
のである。……ところで、反省のこうした作用は、おそらくあまりにも技巧的すぎるので、われわれ
ヽヽ
が共通感覚(gemeiner Sinn) と呼ぶ能力にそれを帰することはできないようにみえる。しかしながら、
この作用は、抽象的な諸方式として表現される場合にだけ、そのようにみえるのである。普遍的規則
として役立っべき判断を求める場合には、魅力と感動を捨象することほどそれ自体として自然なこと
(153)
はないのである。
この後に、この共通感覚の諸格率が続きます。「自分で考えること」(啓蒙の格率)。「他のあらゆるひと
の立場に立って考えること」(拡大された心性(enlarged mentality) の格率)。そして、一貰性の格率、つまり
(154)
「自分自身と一致して考えることmitsich selbst einstimmig denken 」。
これらは、認識の問題ではありません。真理は強制的であり、いかなる「格率」をも必要とされません。
格率が適用され、必要となるのは、もっぱら意見や判定の問題です。また、道徳問題において、行為の格
率が、行為する人の意志の質を証明するように、判断力の格率は、共同体感覚(community sense) によっ
て支配される世俗的問題(wor ldlymatters) に対するその人の「考え方Denkungsart 」を証明します。
その人間の天賦のオが達する範囲と程度とがどれだけ小さくても、それにもかかわらず、他の多くの
ひとがその中にいわば括弧づけられている判断の主観的な私的諸条件を乗り越えることができ、(他
、‘‘‘、
のひとびとの立場へと自分を置き換えることによってのみ規定し得る) 一般的立場(ageneral standpoint) から、
、‘‘、‘‘‘
自分自身の判断を反省するならば、このことは、そのひとが、拡大された思考(enlarged thought) の
ここから、通常、常識(
com mon sense) と呼ばれているものと、共通感覚(sensus communis)
確な区別が看て取れます。趣味とは後者の意味系列に属する「共同体感覚gemeinschaftlicher Sinn

この場合の感覚とは、「精神に対する反省の影響」を意味します。この反省は、あたかも一っの感るかのように、私を触発します。これはまさに趣味の感覚、排他11判別的で選択的な感覚です。「さらに
ある与えられた〔知覚ではなく〕表象についてのわれわれの〔感官に似た〕感情を、概念を(156)
趣味は、
、‘‘‘、‘‘‘
ず一般的に伝達可能にするものの判定能力であると定義することができるであろう」。
の間の明
であり、
、‘‘‘‘、
それゆえ趣味は、与えられた表象と(概念を介さず)結合している諸感情の伝達可能性をア判定する能力である。
....
:自分の感情のたんなる一般的伝達可能性は、それ自体ですでにわれわれに
対するある関心をともなわなければならないと想定されてよいとすれば、
....
:どのようなわけで趣味
(157)
判断におけるこの感情はいわば義務としてあらゆるひとに要求されるのかが説明されうるであ(155)
持ち主であることを示している。
133 カント政治哲学講義第十二講義132
これから、特殊カント的な意味での共通感覚についてこれまで行なってきた私たちの議論に決着を付け
ることにしましょう。カント的な意味での共通感覚(common sense) とは、私的感覚(sens us privatus) か
ら区別されるものとしての共同体感覚(sens us c 0 mmunis)
で判断力が訴えかけるものであり、
つの感情として全く私的で伝達不可能に見える「私が快または不快を感じること」は、現にこの共同体感
覚に根ざしており、他の全ての人々とその感情を考慮に入れた反省によっていったん変容されると、伝達
に対して開かれたものになります。これらの判断の妥当性には、
ありません。
といった、
この可能な訴えこそが、
認識命題や科学的命題は、
自分の判断について、
『判断力批判』
第十三講義
正確に言えば、
制されて、有るがままのものについて語っているのです)。
のことです゜ この共通感覚は、
判断にその特殊な妥当性を与えるのです゜
認識命題や科学的命題のような妥当性は
判断ではありません
あらゆる人の内
(「空は青い」とか「――プラスニ
は四である」と言う時、人は「判断している」わけではありません。人は、自分の感覚ないし自分の精神の明証性に強
同じ様に、「これは美しい」とか「これは間違っている」
他の誰かに同意するよう強制することはできません(カントは道徳的判断
を反省と構想力の産物とは考えていません。したがつて、厳密に言えば、後者は判断とは言えません)。つまり、人
は他のみんなの同意を「せがむwoo 」か「乞い求めるcourt」ことしかできません。そしてこの説得的活
動において、人は実際「共同体感覚」に訴えます。言い換えれば、人は判断を下す時、共同体の一員とし
て判断を下すのです。「判断力の正しい使用はきわめて必要であり、
したがつて、健全な悟性(sound understanding 11 gesunder V erstand)
sense (共通感覚)〉を指します〕という名前で呼ばれているのは、
また一般的にも要求されているので、
〔この言葉は通常の意味では、〈common
(58) u0 まさにこの能力にほかならなし」
四_節ーー「美しいものに対する経験的関心について」
ここで短く、『判断力批判』第四一節を見ておきましょう。私たちはこれまでしい判断のか応応条件である、ということを見てきました。共同体感覚によっにな るのです。消極的な言い方をすれば、このことは、判断力に関する限り、そのような、私的な諸条件や状況を捨象することができることを意味します。私的ヽヽ
付けますが、私たちは構想力と反省によって、そうした条件から解放(liberate) され、判断力に特有の美
点である相対的な公平さ11非党派性に到達することができます。その人の趣味の特異性が低けど、それは一層よく伝達されるようになります。ここでもまた、 伝達可能性が試II 非党派性は、カントにおいては「没利害性disinterestedness 」と呼ばれます。つまり、美しいものにお
ける利害を離れた快です。この没利害性は、是11正(r ight)/非11不正(wrong) という言葉には含意され
ていませんが、美/醜という言葉には含意されています。したがつて、第四一節関心
Interest in the Beautif ul」について語っているとすれば、それは実際のところ、没利害性II 利害関係
interes t」を持つことについて語っているのです。ここでの〈interes t(利害11関心)〉は、有用
性と関係があります。自然を見渡せば、みなさんが直接的な関心(interest) を抱く多くの自然な対象があ
135 カント政治哲学講義
134
りますが、みなさんが関心を寄せるのは、それらが生のプロセスにとって有用であるからで見るところでは、問題は自然の過剰にあります。つまり、例えば水晶 のように、そ外には、文字通り何の有用性もないように見える多くの事物があるということですを美しいと呼ぶことができるがゆえに、「がいか変応がが、)ぃ 恥」を抱て「全ての関心が成立する」のです(ノートに書き留めた省察の一っでカントは、きで(ohne
Eigennutz) 愛すること」を教える、と記しています)。この関心の独特な性質は、それがうちでだけ関心を引き起こす」ことにあります。
杜会への衝動が人間にとって自然であると認容され、だが社会に対する有能性ヽヽヽ
性が、社会〔形成〕のために規定された被造物としての人間の要件として、それゆ(
Humanitii. t)
ヽヽ
に属する特性として認容されるとすれば、趣味もまた、ひとが自分の感情すらも他のあら伝達できるようなすべてのものの判定能力として、したがつて各人の自然的傾向性促進する手段としてみなされることは、間違いないであろ吠。
『人間の歴史の臆測的始元』でカントは、「人間の使命の最大の目的は社交性であ紅」と述べており、こ
れからすると、社交性(sociability) こそが文明のプロセスを通して追求されるべきゴールであるかのよう
に聞こえます。しかし、ここではその逆に、社交性は、人間の人間性のゴールではなく、が分かります。つまり、人間がこの世界にだけ属する限り、社交性こそがまさに人間、‘‘‘
ことです。この考え方は、人間の相互依存は必要と欠乏(needs and wants) のために仲間に依存すること
ヽヽヽヽ
であることを強調する他の全ての理論とは、根本的に一線を画しています。カントは、私たちの心的諸能
力(mental faculties) の少なくとも一っ、つまり判断の能力が、他者の現前を前提にしていることを強調し
ます。そして、この心的能力は、私たちが判断力という用語で呼んでいるものには限定されません。カン
トの場合、そこには、「感情(feeling) や情動(emotions 11 Empfindungen) はそれらが一般に伝達可能であ
る場合にのみ価値があるとみなされる」、という観念が結び付いています。つまり、判断力には、言って
みれば、私たちの魂の機構全体が結び付いているのです。伝達可能性は明らかに、拡大された心性に依拠
しています。私たちは他の人物の立場から思考することができる場合にのみ、自分の考えを伝達すること
ができるのです。そうでなかったら、他者に出会うこともなく、他者が理解できるような仕方で話すこと
もないでしょう。自分の感情、自分の快、利害を離れた喜びなどを伝達することによって、私たちは自分
ヽヽ
の選択を語り、自分の仲間を選んでいるのです。「私はピタゴラス派とともに正しい意見をもつぐらいなら、
むしろプラトンとともに間違っている方がいいで中」。結局、私たちが伝達することができる人たちの範
囲が広ければ広いほど、伝達される対象の価値も大きくなるのです。
各人がこうした対象について覚える快が
ぬものであり、
〔その人がその快を他者と共有していない限り〕
それだけでは著しい関心をひかないとしても、
あるという理念は、
取るに足ら
それでもこの快が一般的に伝達可能で
(162)
この快の価値をほとんど無限に増大させるのである。
137 カント政治哲学講義第十三講義136
この点で
ズに結び付きます゜
各人が、
『判断力批判』は、永遠平和の内に生きる、統一された人類についてのカントの熟考とスムー
カントが戦争の廃絶に関心を抱き、
めではありません。戦争の残酷さ、流血、
ぶながら結論付けているように、戦争の廃絶は、
要条件なのですーー加窯“しぶしぶなのは、
生命の犠牲の内に崇高なものがある、
残虐行為の除去のためですらありません。
拡大された心性を可能な限り最大限拡大するための必
戦争が廃絶されると人が羊のようになってしまう可能性がある、
といった理由からです゜
〔快あるいは没利害的満足感についての〕
待しかつ要求するのであれば、
するかのようである
奇妙な平和主義者になったのは、
カントが時折しぶし
一般的伝達を顧慮することを、
争いの除去のた
あらゆるひとに期
あたかも人間性そのものによって厳しく命じられた根源的契約が存在
(163)
〔と見なすことのできる地点に私たちが到達したことになる〕。
カントによれば、こうした契約は単なる理念であって、こうした事柄についての私たちの反省を統制す
ることはないけれど、実際、私たちの活動を鼓舞するだろう、というのです゜人々(men) が人間的(human)
であるのは、あらゆる単独の人の内に現前するこうした人類(mankind) の理念によってであり、人々は、
この理念がその判断力のみならず活動の原理になっている度合いに応じて、文明化されている、あるいは
人間的であると呼ばれうるのです。まさにこの点において、行為者と注視者が一体となるのです。つま
り、行為者の格率と、注視者が世界の光景を判定する際に従う格率、「基準standard 」が一っになるので
す。活動のための定言命法というべきものがあるとすれば、それは次のようなものになるでしょう。「常に、
この根源的契約がそれを通して一般的法則へと現実化されることが可能になるような格率に基づいて行為
せよ」。カントが『永遠平和のために」という論文を書き、その第一章の予備条項及び第二章の「を詳述したのは、まさにこうした視点からであって、単に平和への愛からではありません。第一章項の中では、第六条項が最も重要かつ最も独創的です゜
いかなる国家も他国との戦争において、将来の平和に際し、相互の信頼関係を不可能にしてしまうよ
(64)
うな敵対行為をすべきではなし
第二章の諸条項の中で、社交性と伝達可能性から直接的に導き出されるのは、第三条項です゜
ヽヽ(165 )
世界市民法は、普遍的な歓待(h
ospitality)をうながす諸条件に制限されるべきである。
もしそうした人類の根源的契約が存在するならば、「一時に滞在する権利、友好を結ぶ権利」は譲ることのできない人権の一っになるでしょう。人間が、
そうした権利を有するということは、地球表面の共同所有権に基づいている。つまり地球の面で、人間は無限に分散して拡がることはできず、結局は並存するこ とを互いに忍び合わね、‘‘‘‘‘‘ い:・…〔こうしたことすべては〕地球上の一っの場所で生じた法の侵害が、あらゆる場所139 カント政治哲学講義第十三講義138
るほどにまで発展を遂げた
は次のように結論します〕
〔という事実によって消極的に証明することができます。ここからカント
羞巴界市民法の理念は、もはや空想的で、とっびな考え方ではな区。
既に話題にしたことを確認しておきましょう。人は常に、自分の共同体感覚、自分の共通感覚に導か
れながら、共同体の一員として判断します。しかし最終的な分析として、人は、人間であるな事実によって、世界共同体の一員である、と言うことができます。これが人の「世界市民的なあり方
cosmopolitan existence 」です。人が政治的な事柄に関して判断を下し、行為する時、人は自分が世界市であり、したがつて世界観察者(Welt betr achter)
、世界注視者でもあるという現実ではな<_| '理念
に基づいて、自分の位置を見極めねばなりません。
最後に、残された困難のいくつかをクリアすることを試みることにしましょう。判断力における主要な
困難は、判断力が「特殊的なものについて思考する能が」であることにあります。瞑象とを意味します。したがつて、判断力は特殊的なものと一般的なものを神 秘的な仕方で結合するる、ということになります。一般的なものが1 規則•原理·法則としてー与えられていて、判断力が、
その一般的なものに特殊的なものを包摂するだけでよい場合には、そうした結合は比較的容易でし、「特殊的なものだけが与えられており、判断力が特殊的なもののために普遍的なものを見出さ(168)
らない場合には」、困難は大きくなります。というのも、そのための基準を経験から借りること、外部か
ら導き出すことができないからです。特殊的なものを他の特殊的なものによって判断することはん。特殊的なものの価値を決定するには、第三の何か(atertium quid)、あるいは比較のための第一二項(a
tertium comparat10rns) 、つまり‘- ―つの特殊的なものに関係付けられているものの、そのいずれからも区
別される何かが必要になるのです。カントの内には、実際のところ、この困難に対する二つの全く異なる
解決を見ることができます゜
判断に達するための反省が基づくべき、本当の「比較のための第三項」として、カントには二つの考え
方があるように思われます。第一の考え方は、政治的著作の中に、また時折『判断力批判』の中に現われる、
人類全体の根源的契約という理念です。この理念から人間性(human ity)の概念が導き出されます。人間
性とは、この世界、何世代にもわたって共同で居住し、共有してきた―つの天体であるこの地球上で生を
受け死んでいく人間たちの人間らしさ(humanness) を現実に構成しているものです。『判断力批判』の中
には、合目的性(purpos iveness) という理念も見出せます。自らを現実化するための根拠を必要とし、か
つ、それを自らの内に含む特殊者としてのあらゆる対象には‘―つの目的がある、とカントは述べていま
す。無目的であるように見える対象はもっぱら、美的対象、そして人間だけです。この両者については、「い
かなる目的のためにquernad finem? Jと問うことはできません。というのも両者とも、何かにとって有用
(good) であるということがないからです。しかし私たちは、無目的な芸術的対象にも、一見無目的に見
える自然の多様性と同様に、人間に快を与え、世界の内でくつろいだ気分(at home) にさせる、という「目
的」がある、ということを確認しました。このことは決して証明されません。しかし合目的性は、反省的
判断において私たちの反省を統制する理念なのです。
(169)
カントの第二の解決は、範例的妥当性(exemp laryvali dity )にあります(「範例は判断力の歩行器である」)。私は、
この第二の解決の方がはるかに重要だと見ています。では、これがどういうことか見ていきましょう。あ
141 カント政治哲学講義第十三講義140
らゆる個々の対象例えば一個の机ーには、
対応する概念があります。これは、
ようなものとして理解することができます。
の仕方でそれに適合しなければならないような、
の型を持っています゜
から全ての二次的性質を取り去っていくならば、
、‘‘、
わば抽象的机(abstract table) が残ります゜
判断に関わってきます゜
私たちは前に、
学は、
あるいはその逆に、
例えば、
そういう机を考え出して、それを、
等々。
ミネルヴァの臭のように、
ったのは全くもって正当です゜
私たちがそれによって机を机と認めるような、
「プラトン的な」
見なすということがあるかもしれません
つまり、
イデア
人は、
(理念)ヽあるいはカントの図式(schema) の
自分の精神の眼の前に、あらゆる机が何らか
ヽヽヽヽヽ
―つの固式的な、あるいは単に形相的な机(f0 rmal table)
人がこれまでの人生で見てきた多くの机から出発し、
机が実際どうあるべきかの範例、
それに
それら
全ての机に共通するミニマルな属性を含んだ机一般、し>
更にもう―つの可能性が残されています。これは認識ではなく、
可能な限り最高の机だと判断できるような―つの机に出会う、もしくは
、‘‘‘
いわば範例的机(exemplary table) と
(「(範)例example 」という言葉は、「ある特殊的なものを選び出す」と
いう意味のラテン語の動詞〈eximere 〉に由来します)。こうした範例は、
方では定義しえないような一般性を顕わにする特殊的なものであり、
ヽヽヽ
アキレスのようである、
技者の不公平11党派11部分性のことを話題にしました。これは、
カントの用語で言えば、美しいものは目的それ自体です。
まさにその特殊性において、他の仕
かつ特殊的であり続けます。勇気は
事件に巻き込まれているがゆえに、決して全体の意味を見通すことのない、
全ての物語について言えることです。哲
日の暮れた黄昏時になってようやく、その翼を広げる、
ただしそれは、美しいものや、行為(deed)
行為者11演
とヘーゲルが語
それ自体には当てはまりません。
何故なら美しいものの全ての可能な意味は、美
しいもの自体の内に含まれており、他のものを参照しないーー言ってみれを持たないー—からです。カント自身の内に次のような矛盾があります法則です。しか し同時に、人間の尊厳は、人間(私たちの一人一人)がそうした特殊者としてーただし比較なしに、かつ時間とは独立にー人類一般を反映(reflect) するもの
と見られることを要求します。言い換えれば、まさに進歩という観念それ自体ーもしそれが環境の変化
や世界の改善以上のものだとすればーが、カントの人間の尊厳という概念に矛盾するのです。進ずることは、人間の尊厳に反します。更に言えば、進歩とは物語に終わそのものの終わり11 目的(
end)は、無限の内にあります。私たちが静かに仲み、歴史家の後差しで歴史を振り返ることのできる地点は存在しないのです。
143 カント政治哲学講義
第十三講義142
(原注)
『カント全集一四巻』-O-――頁(三I
, 115))

(1)H目s Saner, Kanis rセ,g vom Kneg zum Frieden, vol. 1 : Widerstreit und Einheil : r10ge zu Kanis politischem Denken Muruch :
R•
Piper•
Verlag, 1967 ; English translation by E. B. Ashton, Kanl s Political Thoughl : !Is Origin and Developmenl (Chicago : University of
Chicago Press,
1973•
(2)〔これは、LaPhilosophie Polilique de Kanl, vol 目1e4 0 f the Annales de Philosophie Politique Paris : lnstitut International
de Philosophie Politique, 1962のことと思われるー編者注〕
(3)I目nanuel Kant, On Hislory, ed. Lewis White Beck,
trans

L. W. Beck, R. E. Anchor, and E. L. Fackenheim, Library of Liberal
Arts Indianapolis : B 0 bbs , Merrill,
1963•
(4) Kanis Polilical Wrilings, ed. Hans Reiss,
trans•H·B
.
Nisbet Cambridge, Eng. : At the University Press, I 971.
(5) Kurt
Borries•
Kanl als Poliliker: N ur Slaals , und Gesellschaftslehre des Krilizismus Leip N ig,
1928•
(6) Kant, On Hislory, ed. Beck,
p•
75 (カント「万物の終わり」I ヵント全集一四巻j岩波書店、二oo0 年、二三五頁〔旨I,
332)) , and p.54 (カント「人間の歴史の憶測的始元」二同、九六頁).
(7) Ibid.,
p•
25 (カント「世界市民的見地における普遍史の理念」こ同‘―-O頁).
(8) Ibid., p.59 (「人間の歴史の憶測的始元」〔同‘-O三頁).
(9) Crilique of Judgmenl, ァ83 (カント「判断力批判」i 『カント全集九巻j、二000 年、一〇七I- ―四頁)〔アー
レントは碁本的に『純粋理性批判」についてはノーマン・ケンプ11スミス(Norman Kemp Smith) による英訳(New
York: St. Martin's Press, 1963) を、『判断力批判』についてはJ.H· バーナード(J• H. Bernard) による英訳(New
York: Hafner, 1951) を参照している。しかし、他の翻訳を用いる場合と同様に、これらについても実際に用いるに
際しての独自の小さな変化を加えている。他の著作については、どの訳か特定されていない場合、アーレント自身
のものと推定してよいだろ、つ—編者注〕
(lo) On Hislory, ed. Beck
,p
・60 (「人間の歴史の憶測的始元」[
(11)
Ibid
p.,•
54 (同、九六頁)
(12)
Ibid
p.p, •
78 , 79 「万物の終わり」、同、二三九頁[―部改訳した)
(13) Immanuel Kant,
0 bservations on the Feeling of the Beautiful and Sublime, trans. John
T•
Goldthwait Berkley: Umvers1ty of
Califi
0
rnia Press, 1960 (カント「美と崇高の感情にかんする観察」i 「カント全集二巻』、二000 年、三一九ー―二八三頁)
(14)ごtter to Christian Garve, September 21,
1798

Kant, Philosophical Con錢pondence 1759 , 99, ed. Amulf Zweig Chicago: University
ofChicag 0 Press, 1967,
p•
252 (『カント全集二二巻j、二00 五年、クリスチアン・ガルヴェ宛書簡〔一七九八年九月ニ―
H 付〕、三八一頁)を参照。
(15) Letters to Marcus Herz, November 24, 1776, and August 20, 1777. Philosophical Correspondence 1759 , 99, ed. Zweig,
pp•006"
89 (『カント全集ニ―巻j、二oo 三年、マルクス•ヘルツ宛書簡〔一七七六年―一月二四日付及び七七年八月二0
日付〕‘-O八頁及び―一三頁)
(16) Lewis White Beck, A Commentary on Kant苔ritique of Practical Reason Chicago: University Press, 1966,
p•
6(L.w .ベッ
ク/藤田昇吾訳『実践理性批判の注解j新地書房、一九八五年、三一二八頁).
(17) Immanuel Kant,
"Reflexionen zur Anthropologie,"
no•
763 (イタリック〔傍点〕編者) , In Kants Gesammelte Schrifien,
Prussian Academy editi 0n" 29 vols. Berlin: Reimer & de Gruyter, 1909 ,00 3,
15:333•
(18) Immanuel Kant, Observations on the Feeling of the Beautiful and Sublime, trans. John
T•
Goldthwait (「美と崇高の感情に
かんする観察」ぃ『カント全集二巻』、三二五ー三二六頁).
(19) Alfred Baumler, Kanis Kritik der Urteilskraft: lhre Geschichte und Systematik, vol.
I•
Das Irrationalitiitsproblem in der Asthetik
und Logik des 18. Jahrhunderts bis zur R ` ritik der Urteilskraft Halle: Max Niemeyer Verlag, 1923, p.15.
(20) Immanuel Kant, Logic, trans.
R•
Hartman and W. Schwarz, Library of Liberal Arts Indianapolis: Bobbs , Merrill, 1974, p

29
(カント「論理学」]"カント全集一七巻」、二oo 一年、三五頁[―部改訳した)〔ここでアーレントは、カントの『形
而上学講義」(『カント全集一九巻」、二oo 二年、二四五頁(蓉戸5,6))のことも念頭に置いているー編者注〕
(21) Gottfried Leibniz, "Principes de la Nature et de la Grace, fondes en raison" (1714) ,
par

7 (ライプニッツ/米山優訳「理
性に基づく自然と恩寵の光」i 『ライプニッツ著作集九巻—後期哲学」エ作舎、一九八九年、二五一頁)
(22) Critique of Judgment, ァ67 (「判断力批判」i 『カント全集九巻』、六七節三六頁)
145 注
144
(2)
Martin Heidegger, Bezng and Time, trans. John Macquarne and Edward Robmson (New York and Evanston: Harper & Row, 3
1962) , e.g., ァ4 (ハイデソガー/辻村公一+ハルトムート・ブノフナー訳「有と時」[[ハイテガJ創文社、
一九九七年、―-O_――五頁).
(24) Gerhard Lehmann, Kants Nachlaj]werk und die Kritik der Urteilskraji (Berlin, 1939) ,
pp

73
'
74.
(25) Critique of Judgmentァ67 (「判断力批判」i『カント全集九巻』、六七節――工ハ頁)
(26) Ibid., ァ76 (同、七六節七―――頁] 一部改訳した)
(27) Ibid., ァ77 (同、七七節八0ー八一頁).
(28) Ibid., ァ78 (同、七八節八二頁)
(29) Ibid., Preface (同、序文、一三頁[―部改訳した).
(30) Kant, Introducti 0 n to The Metaphysics of Morals, secti 0 n I : "Of the Relati 0
n of the Faculties of the Human Mind to the Moral
Law": Kant's Critique of Practical Reason and Other Works on the Theory of督p
trans•
Thomas Kingsmill Abbot (London:
Longmans, Green. & Co.,19 00 9)
p, •
267 (カント「人倫の形而上学」[『カント全集-ご巴岩波書店ヽニo ゜ -石十[
「人倫の形而上学への序論」、「I 人間の心の諸能力と人倫の法則との関係について」、二四頁)
(31) Ibid. (同[-部改訳した)).
)
On History, ed. Beck, p. l 02 (Perpetual Peace) `(「永遠平和のために」[『ヵント全集-四巻I 二o゜O年、二七四頁)
2 (3
(33) Ibid., p. l 06 (同‘―一七八頁)
(34)
Ibid., pp.151'52 : The Strife of Faculties, Part II : "An Old Question Raised Again: Is the Human Race Constantly Progress ing
●3(力
ント「諸学部の争い」[『カント全集[八巻jヽ
ニo ゜-石ャ[「あらためて立てられる問い—人類はより善い方
向へ絶えず進歩しているか」‘―――六頁).
(35) Ibid., pp.112 , 113 (カント「永遠平和のために」[『カント全集―四巻」ヽニ八六頁●二部改訳した)
(36) Ibid., pp. I 12 (―一八六頁[―部改訳した) .
(37)
Kant, Fundamental Principles of the Metaphysics of Morals,
trans•
Thomas K. Abbott, Library of Liberal Arts (Indianapolis:
Bobbs
, Merrill, 1949) ,p.19 (カント「人倫の形而上学の基礎づけ」・『カント全集七巻j、二oo0 年、二五頁[―
部改訳した).
(38) Ibid.,
pp•
20 , 21 (同、―-七頁)
(39) Qbservations on the Feeling of the Beautiful and Sublzme, (end of Section Two) , trans. John
T•
Goldthwait (カント「美
と崇高の感情にかんする観察」[ [カント全集二巻l、二章の末尾、三四七頁[ ―部改訳した).
(40) Ibid. (同)

(41) On History, ed. Beck, p.145, note (「諸学部の争い」i『カント全集一八巻』i「あらためて立てられる問い」ヽ
――八I - ―九頁i一部改訳した) .
(42) Aristotle, Politics, 1267a!Off・(アリストテレス/山本光雄訳「政治学」i『アリストテレス全集一五巻」岩波書店、
一九六九年、六―一頁)

(43) Ibid., 1325b I 5ff (同、―-八― ―-| -「八四頁)
(44) Blaise Pascal, Pensees, no・331
,
trans•V[
F. Trotter (New York: E. P.Dutton, 1958) (パスカル/由木康訳『パンセ』白水社、
一九九0 年、一三八頁).
(45) Robert D. C 0 nuning, Human Nature and History: A Study of the Development of Liberal Political Thought (Chicag 0 : Chicag 0
University Press, 1969) ,
vol
•2’p
1.6•
(46) Phaedo, 64 (プラトン/松永雄一一訳「パイドン」[ [プラトン全集一巻』岩波書店、一九七五年、一七六ー一七七頁).
(47)
Ibid•
67 (同‘-八六頁)
(48) Apology, 40 (プラトン/田中美知太郎訳「ソクラテスの弁明」ぃ『プラトン全集一巻」岩波書店、一九七五年、
―-O|-――頁).
(49) On History, ed. Beck,
p•
67 ("Conjectural Beginning of Human History
" 「人間の歴史の憶測的始元」i『カント全集
一四巻j

― 一三I ――四頁[ ―部改訳した).
(50) Critique of Judgment, ァ83 (note) (『カント全集九巻」‘―一三頁[ ―部改訳した).
(51) Kant,
"Uber das Misslingen aller philosophischen Versuche in der Theodicee" (1791) , in Gesammelte Schrifien, Prussian
Academy edition, 8:253'71 (カント「弁神論の哲学的試みの失敗」]『カント全集一三巻』
、二oo 二年、一八〇頁[
147 注146
一部改訳した).
(52) Anthropology ji-om a Pragmatic Point of View,
trans

Gregor, ァ29, trans. Mary
J•
Greg 0 r (カント「実用的見地における人
間学」[ 7 ント全集一五巻j、二oo 三年、二九節、八六頁[―部改訳した)
(53) Gesammelte Schrifien, Prussian Academy ed., 18: 11.
(54) Critique of Pure Reason, B839・(カント「純粋理性批判」i 『カント全集六巻」、二〇〇六年、九四頁[ ―部改訳した).
(55) Observati 0 ns on the Feeling of the Beaut 苓land Sublime, trans. John
T

Goldthwait (カント「美と崇高の感情にかんす
る観察」[ 『カント全集二巻j
ヽ三四OI 三四二貝[ 二即改訳した)
(56) Critique of Judgment, ァ84 (「判断力批判」『カント全集九巻」‘―一六頁:イタリック〔傍点〕編者) .
(57) Kant, Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels (1755) , Appendix to Part Ill, Gesammelte Schrifien, Prussian
Academy ed., 1:357 (カント「天界の一般自然史と理論」[『カント全集二巻」ヽご立九頁)
(58) Critique of Pure Reason, B859・(カント「純粋理性批判」i 『カント全集六巻j

― -O頁[-部改訳した) .
(59) Ibid., B884 (同、一三〇頁ぃ傍点付加)

(60)c’Bemerkungen
zu den Beobachtungen iiber das Gefiihl des Schinen und Erhabenen;'Gesammelte Schrifien, Prussian Academy
ed., 20:44 (カント「「美と崇高にかんする観察jへの覚え書き」i 「カント全集一八巻j‘一八六頁) .
(61)とistotle
'
s epistle to Alexander,
"Concerning Kingship," in Ernest Barker, The Politics of Aristotle (Oxfi 0 rd: Oxford University
Press, 1958) , p
・386•
(62) Eric Weil,'^ Kant et le probleme de la politique", in La Philosophie Politique de Kant, vol. 4 of Annale de Philosophie Politique
(Paris, 1962) , p.32.
(63) "Reflexi 0 nen zur Logik,
"no. I 820a, Gesammelte Schrifien, Prussian Academy ed., 16:
127

(64) Kant,
"Versuch einiger Betrachtungen iiber den Optimismus" (1759), in Gesammelte Schrifien, Prussian Academy ed., 2:27'35.
(カント「オプティミズム試論」[ 『カント全集二巻I 二八四頁i 一部改訳した)●
(65) On Hist 09 ed. Beck, p.73'74, note (「万物の終わり」[ 『カント全集―四巻jヽ三『畜〖]一部改訳した)
(66) "Reflexionen zur Anthropologie," no. 00 90, Gesammelte Schrifien, Prussian Academy ed.,15:388 (カント「人間学遺稿」[
『プラトン全集二巻j 岩波書店、一九七四年、
[カント全集一五巻」、三八四頁)
ヤスパース/重田英世訳
(67) Karl Jaspers, Kant, ed. H. Arendt (New York: Harcourt Brace & World, 1962) , p.95 (カール・
「力t 」[ 『ヤスパース選集第八巻」、三二四頁」ヤスパースは引用先を示さずにカントから引用しているが、以
下の箇所を参照。
Critiqueof Pure Reason, B823 〔カント「純粋理性批判」ぃFカント全集六巻」、八一頁〕)
(68) Critique of Judgment, ァ40 (note) (『カント全集八巻j‘一九九九年、一八二頁[―部改訳した)
(69)
Critique of Pure Reason, Axi, note (カント「純粋理性批判」[ 『カント全集四巻r 二o ゜ニヰ、〔第ご巴序言へ
の注、一八頁i 一部改訳した)
(70) Ibid., B27
・(同、八九頁i 一部改訳した)
(71)
Ibid., B.370. (カント「純粋理性批判」・『カント全集五巻j、二oo -―一年、二八頁[ ―部改訳した).
(72) Ibid., Axii・(カント「純粋理性批判」] 『カント全集四巻』、一八頁[-部改訳した)
(73) lbid
.,
Axi・(同、一七頁[ ―部改訳した)
(74) Ibid., Bxxv. (同、四〇頁[-部改訳した) .
(75) Ibid., Bxxxii ・(同、四五頁[-部改訳した).
(76) Ibid., Bxxxiii ・(同、四五ー四六頁i 一部改訳した)
(77) Ibid., Bxxxv. (同、四七頁[ -部改訳した).
誓k"(1802) , in Siimtliche We食ed
.
Herm昔Glockner (Stuttgart (78) G.W. F. Hegel,
"Uber das Wesen der philosophischen
1958) , vol. 1, p.185 〔アーレントによる英訳ー編者注〕.
〔アーレントによる英訳—編者注〕.
9) Hegel,
"Verhaltnis des Skepticismus zur Philosophie" (1802) , ibid.,
P•
243
." 3 「
(7
'This May be True in Theory, but it does not Apply t 0 Prac!lce, m (80) Kant's Preface to his essay,
" 0 n the Common Saying:
Kant's Political Writings, ed. Reiss,
p

61 (カント「理論と実践」i 『カント全集一四患、一六三頁以下)を参照。
(81)
Critique of Pure Reason, Bxxxi (カント「純粋理性批判」[ 『カント全集四巻Jヽ四四頁i 一部改訳した)
(82) Ibid., Bxxxvi. (同、四八頁)
(83) Theaetetus, l 48ff• (プラトン/田中美知太郎訳「テアイテトス」
149 注
148
一九四頁以下)
(84) Sophist, 226'3 I. (プラトン/藤沢令夫訳「ソピステス」・『プラトン全集三巻」ヽ
) Critique of Judgment, ァ40 (rカント全集八巻」、一八一ー一八―一頁)
5 (8
(86) Gorgias, 482c・(プラトン/加来彰俊訳「ゴルギアス」・『プラトン全集九巻』

一九七四年、一――頁)
7••
(8)
Crztzque of Pure Reason, B884. (カント「純粋理性批判」i『カント全集六巻』、一――-O頁[―部改訳した)
ントによる。Kant, Philosophical Correspondence 1759 ,99" ed, Zweig, pp.105 , 6 (『カント全集ニ―巻」ヽ
(88)〔傍点はアーレ
メンデルスゾーン宛書簡(一七八三年八月一六日付)‘-八九ー一九〇頁i 一部改訳した)〕.
(89)
Jaspers, Kant, p.123 (ヤスバース/重田英世訳「カント尺『ヤスパース選集八巻K埋想社、一九六二年、三二二頁)こ
の引用は、Letter to Christian Garve, August 7, 17 00 3 (rカント全集ニ―巻]‘クリスチアン・ガルヴェ宛書簡〔一七八三
年八月七日付〕‘-八二頁)から。
)0 n Hist01y, ed. Beck, pp.4'5 ("What is Enlightenment"? : カント「啓蒙とは何か」[『ヵント全集_四巻Jヽニ七頁i
゜ (9
一部改訳した).
(91) Ibid., p.5 (同、―-八頁[ ―部改訳した).
(92)' 誓exionen zur Anthr 0 pologie,"
no•
897, Gesammelte Sch喜n"Prussian Academy ed., 15:392.
(93)
Kant's Political Writings, ed. Reiss,
pp•
85-86 ("Theory and Practice" : カント「理論と実践」]カント全集一四巻』、
――-Oーニ― ―頁[―部改訳した)
99 4 (9)
"Was heisst: Sich im Denken 0 nentJeren? (1780), in Gesammelte Schriflen, Prussian Academy ed., 8:137
,
47 (カント「思
考の方向を定めるとは」i『カント全集一三巻』、八四頁).
(95) Gesammelte Schriflen, Prussian Academy ed., 18:267 (no.5636)

(96)
Letters to Marcus Herz, June 7,
1771•
Kant, Selected Pre-Critical Writings,
t·Jans
• G.
B•
Kerferd and D. E. Wolford (New York:
Barnes & Noble, 196
00) , p.108 (
『カント全集ニ―巻』、マルクス•ヘルツ宛書簡(-七七一年六月七日付)、六三頁).
7 (9)
Letters to Marcus Herz, February 21,
1772•
Kant, Philosophical Correspondence/759
,
99, ed. Zweig, p・73 (『カント全集
三巻』、マルクス•ヘルツ宛書簡〔一七七二年二月ニ―日付〕、七〇頁[-部改訳した)
(98) Critique of Judgment, ァ40 (fカント全集八巻」ヽ
(99) Ibid. (同、一八一頁)
面) Gesammelte Schriften, Prussian Academy ed., 12:59 (Correspondence)
(101) On History, ed. Beck, pp.143 , 48 (「諸学部の争い」[『カント全集-八巻jヽ「ぁらためご止てられる問い」第六節
及び第七節、一―六I ―ニ― 頁i一部改訳した).
(102)kant こPolitical Writings, ed. Reiss, p.51 ("Idea fi 0 r a General History fr 0 ma Cosmopolitan Point of View," end of Eighth
Thesis : 「世界市民的見地における普遍史の理念」[『カント全集二臼巻』第八命題の末尾ヽ-九頁).
(103) Ibid., p.184,note (「諸学部の争い」i『カント全集一八巻』、原注‘――九頁).
(104) On Histo1y, ed. Beck, pp.12 0(Perpetual Peace, Appendix I : 1、永遠平和のために」付録ー、二九五頁)
(105) Kant's Political Writings, ed. Reiss, p.147 (The Metaphysics of Morals, General Remark A afterァ49 : 「人倫の形而上学」[
『カント全集― 一巻』、第四九節の後の一般的注釈A‘一六七頁).
(106) On History, ed. Beck, pp.130 (Perpetual Peace, Appendix II : 「、水宰心平_lD のために」付録II、三0 八頁[―部改訳した).
(107)B0 rries, Kant als Politiker (Sc1entia Verlag Aalen, 1973; reprint of 1928 Leipzig editi 0 n) , p.16'IN~\ 昭唸
(108) Kant, Religion within the Limits of Reason Alone, Book IV, Part Two, ァ4,
trans
• T.M•
Greene and H.
H•
Hudson (New York "
Harper Torchbooks, 196
0)’pp
1.76
'77
(note) (「たんなる理性の限界内の宗教」ぃ『カント全集一〇巻j
、二000 年、
二五四ーニ五五頁[ ―部改訳した)を参照。
(109) On History, ed. Beck, pp.129 , 130 (Perpetual Peace, Appendix II : 「、永宰心平l和のために」[『カント全集_四巻j 付
録II、三0 七ー三〇八頁i 一部改訳した).
(110) Ibid., p.130 (同、三0 九頁[―部改訳した).
(lll) Ibid., p.130 (同、三0 八頁[―部改訳した).
(112) Ibid.,p.134 (同、三一四頁).
(113) 〔Eine 苓rlesung Kants fiber Ethik, ed. Paul Menzer, Berlin: Pan Verlag Rolf Heise, 1924 (Kant, Lectures on Ethics, trans・
Louis Infield, London: Methuen, 1979 p. 43, secti 0 n on "The Supreme Principle of M 0 rality"キ パウル・メンツアー絹/小
一八〇頁)
一九七六年、三ニー四九頁)
151 注150
『カント全集一四巻j、二八五頁
西國夫+永野ミッ子訳『カントの倫理学講義] -―一修社、
者注〕.
(114) Kant's} 客tical Writings, ed. Reiss, p.88 ("Theory and Practice," Pa言[「理論と実践」· 『カント全集一四巻j、第一_ 一部、
三四ーニ―五頁).
(115) Ibid., p.116 (Perpetual Peace, Appendix I : 「永遠平和のために」[『カント全集―四巻」付録ー、二九-頁[一
部改訳した).
(116)kant こPolitical Writings, ed. Reiss, p

89 ("Theory and Pract ice,' 誓戸「理論と実践」[ 『¢卜全集一四巻』、第三部、
二―六ー― ――七頁).
(117) Ibid., p.91 (同、三――頁)
(118)
Ibid·
P,•
88 (同‘-―-五頁).
(119)0 n History, ed. Beck, p.106 (Perpetual Peace, First Supplement : 「永遠平和のために」[7 パント全集一四巻j、第
一補説、二七八頁i 一部改訳した).
(120)
Ibid•
, p.100 (Second Definitive Article : 同、第二確定条項、二七一頁)

(121) Critique of Judgment, ァ28 (カント「判断力批判」[ 『カント全集八巻I 第二八節ヽロニ七| 二二八頁i 二郡改訳
した).
(122)kant ごPolitical Writings, ed. Reiss, p.l 9 0 (カント「諸学部の争い」] 『カント全集一八巻」、ご一八頁)〔引用は実際、
ヒュームからの借用ー編者注〕[〔ヒユ|ム『市民の国について(下) j岩波文庫ヽニユニ貝参照_訳者巴
(123) Critique of Judgment, §003 〔「判断力批判」[ 『カント全集九巻」‘第八三節ヽ-二畜〖[こ都改訳した〕●
(124) Religion within the Limits of Reason Alone,
p•
29 (note) (「たんなる理性の限界内の宗教」[『カント全集一O 巻」ヽ
四五ー四六頁i 一部改訳した).
(125)kant こPolitical Writings, ed. Reiss, p.147 (The Metaphysics of Morals, ァ62, Conclusion : 「人倫の形而上学」
ト全集―一巻」、第六二節、結語、二〇七頁i 一部改訳した).
(126) 以下を参照。OnHistory, ed. Beck, pp.111 (「永遠平和のために」
二0 四頁]一部改訳した) .
カから)
(127) Diogenes Laertius, Lives of Philosophers, 8•8 五目S
•G. S•K己: 111d J. E. Raven, The Presocratic Philosophers (Cambridge, Eng.
"
At the University Press, 1977) , p

228(ディオゲネス・ラェルティオス/加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝(下)」岩
波文庫、一九九四年、第八巻第一章、一九頁i 一部改訳した).
(128) Hegel, Reason in History, trans. Robert S•Hり旦Library of Liberal Arts (国息polis " Bobbs , Merrill, 1953)
,pp・35, 36 (Hegel's
百oducti
0
n to The Philosophy of History : ヘーゲル/武市健人訳『歴史哲学(上巻)11ヘーゲル全集第一〇巻』岩波書店、
一九五四年、五五ー五六頁).
(129) Alexandre Kojeve,
"Hegel, Marx, and Christianity," Interpretation 1 (1970)
"
37 ,
(130) On History, ed. Beck, p.51 (「J•G• ヘルダー著『人類史の哲学考」についての論評」[『カント全集二幽巻I ヘルダー
への第三論評、六四頁).
(131) Ibid. (同]一部改訳した)
(132) The Republic 514a ff. (プラトン/藤沢令夫訳「国家」[ Iプラトン全集―一巻」、四九―一頁以下[ ―部改訳した).
(133) Introduction to The Metaphysics of Morals, section I (「人倫の形而上学への序論」[『ヵント全集―-巻』ヽニ四頁前掲注(30) 参照).
(134) Critique of Pure Reason, B825ff. (カント「純粋理性批判」] 『カント全集六巻』、八三頁一部改訳した).
(135)
Ibid·
,
B•00
83•(同‘-―-九頁).
(136) Critique of Judgment, ァ48 (カント「判断力批判」[『カント全集八巻』‘第四八節ヽ
(137) Ibid., ァ50 (同、第五0 節、ニ―五頁[―部改訳した).
(138) Ibid. (同、ニ―五頁以下i 一部改訳した) .
(139) Ibid. (同、ニ―六頁).
(140) Ibid., ァ49 (同、第四九節、ニ―二頁[ ―部改訳した)
(141) Ibid ・(同i 一部改訳した) .
(142) Cicer 0
, On the 0 rator 3. 195 (キケロ/大西英文訳「弁論家について」. 『キケロー選集7 』岩波書店、一九九九年、
引用はセネ
『カン
一九六八年、五五頁)からのアーレント自身の英訳ー編
153 注
152
レントが一貫して〈general (一般的)〉という語を当てていることに留意が必要である。この変化の重要な理レントの論文「文化の危機」で示唆されている(mBetween Past and Future, en!. ed. New York " Viking Press, 196
00
,p•
221
II『過去と未来の間j みすず書房、一九九四年、二九九頁)。ここで彼女は以下のように述べている。「判断特有の妥当性を具えているとはいえ、決して曹愚聡(universa 苓)に妥当するわけではない。その妥当性の要求は、
判断する者が自らの考慮にあたってその人の立場に身を置き入れた他者を超えては拡張できない。カントによれば、
判断力は『単独に判断する各人j に妥当するが、この旬で強調されるのは『判断するj であって、判断しない人びと、
いいかえれば判断の対象がそこに現われる公的領域の一員ではない人びとには妥当しないのである」〔傍点〕編者) 。このようにここでのアーレントの訳語の選択は、彼女のカント読解との関係で一定の重要な持つー編者〕
(156) Critique of Judgment, ァ40 (カント「判断力批判」・
『カント全集八巻j、第四0 節、一八三頁[―部改訳した) .
(157) Ibid. (同、一八三頁以下i 一部改訳した〕.
(158) Ibid., Preface (同、「序文」‘― ―頁i 一部改訳した).
(159) Ibid., ァ41 (同、第四一節、一八四頁以下[ -部改訳した)
(160) On History, ed. Beck, p.54 (「人類の歴史の憶測的始元」・
『カント全集一四巻」、九六頁]一部改訳した)
(161) Cicero, Tusculan Disputations 1. 39 , 40 (キケロ/木村健治+岩谷智訳「トゥスクルム荘対談集」[『キヶロ1 選集
12』岩波書店、二oo 二年、三六頁ぃ一部改訳した)
(162) Critique of Judgment, ァ41 (カント「判断力批判」[『ヵント全集八巻』‘第四二即二八五頁以下9 二部改訳した)’
(163) Ibid. (同、一八五頁i 一部改訳した)
(164) On History, ed. Beck,
p•
89 (「永遠平和のために」[『カント全集-四巻r
(165) Ibid., p. l 02 (同、―-七四頁i 一部改訳した)
(166) Ibidキ,pp.103, 105 (同、—-七四、二七七頁).
(167) Critique of Judgment, Introduction, secti 0 n!V (カント「判断力批判」i
(168) Ibid. (同、一部改訳した)
『カント全集八巻」、序論W‘―一六頁)
四三九頁一部改訳した)
(143) Ibid., 3.197 (同、四四〇頁]一部改訳した)
(144)An~hr0polo 怨from a Pragmatic Point of View,
trans•
Gregor, ァ53 (カント「実用的見地における人間学」
全集一五巻j‘五三節、一五八頁)(前掲注(52) 参照)
(145) Critique of Judgment, ァ40 (カント「判断力批判」i 『カント全集八巻j、第四0 節、一八一頁)
(146) パルメニデス〔断片4 〕は、不在であるけれど現前している事物を私たちがしっかり見つめることを可能にする
理性(nous) について語っている[「されど汝は思いもて見よヽ/現わにはあらず遠みに/去りゆきし世にはあれ
ども/ 思いには確と近みに/現われてあるものどもを」(Kathleen Freeman, Ancilla to the Pre , Socratic Philosophers)
[Oxford
:
Basil Blackwell, I 971) , p.42 : =i:r 上中心訳「パルメニデス全文」[『パルメニデスj 青土社ヽ_九九六年ヽ
二四頁)。
(147) Critique of Judgment, ァ45 (カント「判断力批判」[ Iカント全集八巻」、第四五節、一九八頁]一部改訳した).
(148) Ibid., ァ41. (同、第四一節、一八四頁以下[―部改訳した).
盆坪.)
c,Reflexionen zur Anthropologie,"
no•
767, Gesammelte Schriflen, Prussian Academy ed., 15:334'35 (カンk_ _9kハ問唸字清心
稿」[ 『カント全集二与巷jヽ-デ七九頁i 一部改訳し芯)
(150) Critique of Judgment, §48 ・(カント「判断力批判」i 『カント全集八巻』、第四八節‘― -O互頁)
(151) Ibid., ァ54. (同、第五四節、ニ――-O頁以下i 一部改訳した).
(152) Anthropology from a Pragmatic Point of Vi塁trans• Gregor, ァ5 3 (カント「実用的見地における人間学」[ 『カント
全集一五巻」、五三節、二九八頁[―部改訳した)
) Critique of Judgment, ァ40 (カント「判断力批判」i 『カント全集八巻」、第四0 節、一八〇頁以下[―部改訳した). 3 (15
) Ibid. (同、一八一頁)" Kant, Logik, trans.
R•
Hartman and W Schwarz, p.63 (カント「論理学」『カント全集一七巻』、4 (15
八〇頁)も参照〔前掲注(20) 参照〕。
(155) Critique of Judgment, ァ40 (「判断力批判」[『カント全集八巻I 第四O 節、「岱面〖] 二都改訳した)●〔カント
の〈allgemein 〉という用語の訳について]この語の標準的な訳は〈universal(普遍的)〉であるにもかかわらず、アー
二五七頁)
『カント
155 注
154
169
(訳庄)
Critzque of Pure Reason, B 173 (カント「純粋理性批判」
一般の人間たちが、「ィ
「カント全集四巻」、二三八頁.一部改訳した).
〔1 〕ここで言及されているのは、ヤスパースの哲学史研究の集大成とも言うべきDzegroj3en Philosophen, Erster Band,
I 957, R. Piper に収められているカントに関する部分を指す。カントに関するこの部分は、アーレントの編集に
よって一冊の本として英訳されている。Cf.Karl Jaspers, Kant, ed. by Hannah Arendt, transキby Ralph Manheim, 1962,
Harcourt, Brace & World.
〔2 〕ライス編集の政治論文集に収められている、『人倫の形而上学』(一七九七)の前半に当る「法(権利)論」を指す゜
〔3 〕このコメントは『意志と表象としての世界j に付録として収められているカント論に見られる。ショウペンハウ
ェル/磯部忠正訳「意志と表象としての世界(皿)j理想社、一九七―一年、ニ―九頁参照。
〔4 〕「純粋理性批判」『実践理性批判」「判断力批判」の三批判書に関連した仕事を指していると考えられる。
〔5 〕カントは一七六五年に『道徳的趣味批判Kritik des moralischen Geschmacks J の刊行を告知したが、実現しなかった。
この関心を継承したと思われる『人倫の形而上学DieMetaphysik der Sitten 」が刊行されたのは、一七九七年のこと
なので、三十二年経っている。「人倫の形而上学」の英訳タイトルは、〈Metaphysics of Morals (道徳形而上学)〉な
ので、英語の方が、「道徳」つながりが分かりやすい。
〔6 〕当事発行されていた「プレ1 メン雑誌」の第四巻(一七六一)に、ある東洋人の夢として掲載されていた記事か
らの引用。引用の末尾に出てくるゴルコンダはインド南部の古代都市で、ダイヤモンドの産地として有名。
[7] Alfred Baumler (
1887 ,
1968) ド





































ナチスに入党し、ナチスの政権掌握以降、ナチスの教育・大学政策の立案に指導的な役割を果たすようになる。
〔8 〕原文で引用されている英訳では、この部分は、「観想的快について、実践哲学は1 」となっているが、『人倫の形
而上学」の原文(ドイツ語)では、「観想的快」ではなくて、「趣味」になっていると取れる。ただし、この文脈で
は両者はほぽ同一視されているので、いずれであっても大差はない。
〔9〕第七講の末尾で引用されている、『諸学部の争いj のある箇所に基づく記述。
〔10〕『カント全集ニ―巻」、メンデルスゾーン宛書簡( -七六六年四月八日付)、三七頁。
〔11 〕『ゴルギアス」の中のカリクレスとの対話でのソクラテスの発言(482C)を要約したもの。正確な発言は、「ぽ
くのリュラ琴の調子が合わないで不協和な音を出すとか、ぽくが費用を負担することになる合唱であるとか、また、世の大多数の人たちがぽくに同意しないで反 対するとしても、そのほうが、のに、ぽくがぽく自身と不調和であったり、自分に矛盾したことを言うよりも、まだましなの/ 加来彰俊訳『プラトン全集第九巻」岩波書店、一九七四年、一――頁)。
〔12〕スピノザの『神学·政治論j には副題として以下の文章が付されている。「哲学する自由が敬虔の念と国家和を損なうことがなく、むしろ哲学する自由を奪うことが同時に国家の平和と敬虔の念を危うとを示すいくつのかの論文が、ここに収められている」。
〔13〕パルメニデスの作品として残されている叙事詩の序章は、若き日のパルメニデスが馬車にに、忘我状態になって、日常的なことを忘れて、天の門にまで至り、その門の向こう側にある「真理」を教えられる、というストーリーになっている。
〔14〕ソポクレース/引地正俊訳「コローノスのオイデイプース王」[ 『ギリシァ悲劇全集j 岩波書店ヽ「九九O 年‘
一八七ー一八八頁゜
〔15〕ディオゲネス・ラエルティオス/加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝(中)」岩波文庫、一九八九年、第七巻第一章、
二〇六頁゜
祠〕『世界市民的見地における普遍史の理念j の第一命題に出てくる〈絶望的な偶然trostloses Ungefahr 〉(『カント全
集九巻j ―四巻、五頁)という表現の英訳である。アーレントは、『過去と未来の間j (―九六一)でも、〈trostloses
Ungefah r〉の訳語として〈me lancholy haphazardness 〉を当てている。以下を参照[ Hannah Arendt, Between Past
and Future, 1993, Penguin Books, p.85,
p•
243 (アーレント/引田隆也+斎藤純一訳『過去と未来の間j みすず書房、
一九九四年、一〇九頁、三二九頁).
〔17〕プラトンの『国家」に出てくる「洞窟の比喩」の「洞窟」を指す。この洞窟の中では、
157 注
156
デアの光11真理」を見ることができないよう方向を固定して縛り付けられている。この洞窟から外に出て、自ら目て「イテアの光」を見て、依然として洞窟に繋がれている同胞たちに真理を伝える使命を担っているのが学者」である。
〔18〕注(61) では、「支配者が進んで哲学者の言葉に耳を傾けるべきだ」というァリストテレスの発言の典拠としァレクサンドロス大王のために書いたとされる「王位について」という文章が参照されているが、この文章自体は
現存しておらず、後代の人物によって断片的にその中身が伝えられているだけである。宮内璃+松本「アリストテレス全集一七巻』岩波書店、一九七―一年、六0 八頁参照。「すなわち彼は、『王たる者にとって、哲学
することは、不必要であるばかりでなく、むしろ妨げとさえなり得るものである。彼にとって為すべきこと当に哲学している人々と交わり、彼らの言に耳を傾 け、よく彼らの勧めに従うことである。そうすることによっ彼はその統治を、言葉を以てではなく、善き行いを以て充たしたことになるからである』と主張して いる[
19
]
Eric Weil (1904 , 77)ドイツ生まれのフランスの哲学者。ヒトラーの政権掌握後、フランスに亡命し、レイモン・
ァロン、アレクサンドル・コイレ、コジェーヴ等と交流しながら、新しいヘーゲル読解の発展に貢献する。
元〕旧約聖書のヨブ記の主人公。サタンによって様々な試練を受け、家族や財産を失い、自らも重い皮膚病にかかる
が、最後まで神に対する信仰を貫き、義人として認められる。
〔21〕サルトルの『弁証法的理性批判』(-九六0)を指す゜
〔22〕『テアイテトス』の中てプラトンがタレスについて語らせているエピソード。タレスが天の星のことを考えて上
を見ながら歩いていたところ、穴に落ちてしまい、トラキア地方の農夫の娘に笑われた。娘はタレスに対しなたは天上のことばかり考えて、自分の且の前のこと や足元のことは分かっていらっしゃらないと冷やかしたとう。哲学者が観念的.抽象的なことばかり考えて、地上のことに関心を持とうとしないことの是非をめ ぐるしばしば参照される。プラトン/田中美知太郎訳「テアイテトス」i 『プラトン全集2」岩波書店、一九七四年、
―一七八頁以下参照。
〔23〕マルクスは一八万八年に『資本論」の原型となる『政治経済学批判要綱jを執筆し、翌五九年から『政治経済学
批判』の刊行を開始したが中断し、大幅な改稿を進める。六七年になって、『資本論j というタイトルに変更して、
その第一巻を刊行している。
〔24〕具体的には、マルクスの『歴史法学派の哲学的宣言J (一八四二)での以下の発言を指している。「カントの哲学
をフランス革命のドイツ的理論とみることが正当であるとすれば、そのようにフーゴーの自然法はフランスの旧制
度のドイツ的理論とみられる」(マルクス/出隆訳「歴史法学派の哲学的宣言」[ 『マルクス●エンゲルス全集ー』
大月書店、一九五九年、九三頁)。
〔25〕マルクスが「ヘーゲル法哲学批判j で述べた「理論もそれが大衆をつかむやいなや物質的な力となる」というフ
レーズを指していると思われる。マルクス/ 花田圭介訳「ヘーゲル法哲学批判序説」[ 『マルクス●ェンゲルス全
集1]大月書店、四―――一頁。
〔26〕「区分けすること」あるいは「決定すること」を意味するギリシア語の〈百inein〉は、「批判」を意味する英語の
〈crillque 〉やドイツ語の〈Kritik 〉の語源である。
〔27〕アリストテレスの論理学において、矛盾律が同一律、排中律と共に第一原理になったことを指すと思われる。
〔28〕具体的には『哲学入門j (一九五0) の以下の箇所を指していると思われる。「このことはすでに最初からして、
あらゆる哲学は伝達への衝動をもち、自己を語り、傾聴されることを欲するということ、すなわち哲学の本質は伝
達可能性そのものであり、またこの伝達可能性は真理存在から離すことのできないものであるということにおいて
明らかになっているのであります」(ヤスパース/草薙正夫訳『哲学入門j新潮文庫、一九五四年、三七頁)。
〔29〕このエピソードは、「永遠平和のために』の冒頭で紹介されている。この論文の〈Zurnewigen Frieden 〉というド
イツ語のタイトルは、「永遠平和のために」という通常の日本語訳の意味の他に、「永遠の安らぎ11平和に向かって」
という「死」を連想させるような意味にも取れる。
〔30〕セネカの『道徳書簡j第一八巻四からの引用。
〔31〕アリストテレス哲学における〈energeia (現実態)/dynamis (可能態)〉の二分法の〈energeia 〉は、英語では〈activity
(活動)〉と訳される。アーレントが参照していると思われるのは、『ニコマコス倫理学jの十巻七章で、ここでは、「不
死のもの」に近づこうとする「活動」の重要性が述べられている。アリストテレス/ 加藤信朗訳「ニコマコス倫理
学」・『アリストテレス全集一_二巻』岩波書店、一九七――一年、三四三ー三四四頁参照。
159 注158
構想力
一九七0年秋、ニュー•スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで
行なわれた、カントの可鉗i力批判」についてのセミナー
〔32〕ギリシア語の〈histona 〉には、「物語」と「歴史」の双方の意味が含まれており、両者にはもともと明確な境界
線はない。英語以外の近代の西欧語でも、例えば、フランス語の〈histoire 〉やドイツ語の〈Gesc hichte 〉のように、
両者は基本的に同じ単語で表される。
扇〕原題は、〈Leistorie fiorentine 〉゜筑摩書房から刊行されている『マキアヴェッリ全集j第三巻の日本語訳のタイ卜
ルも『フイレンツェ史jとなっている。マキアヴェッリは一互二0 年にフイレンツェ共和国の学術部の依頼を受け
て執筆を開始し、七年かけて八巻の大著として完成させる。フイレンツェ市の誕生から、共和国最盛期のメディチ
家の当主ロレンツォ・デ・メディチ( -四四九ー九二)の死に至るまでの、様々な人物や政治勢力の興亡盛衰を年
代記的に描いている。
〔34〕第七講の末尾で引用されている、「諸学部の争い』のある箇所に基づく記述。
〔35〕原注(127) 参照。
〔36〕アーレントは、英語、ドイツ語、フランス語などの西欧語で、「趣味」と「味覚」がいずれも、〈taste=
Geschmack 11 gout 〉という言葉で表されることを利用して、「趣味」と「味覚」を絡めて論じている。
[37
]
Baltasar Gracian (160 I'58) バロック時代のスペインの散文作家、ィエズス会の修道士。処世訓的な作品を多く残
している。彼の哲学的寓意小説『妄批家Critic6n j (―六五一、五――-、五七)は、ヨーロソパ諸国、特にドイツ語圏
に大きな影響を与えている。シヨーペンハウアーはこの作品の熱心な読者であることが知られている。
〔38〕かなり広範に流布しているラテン語の諺。
函〕この部分の原文はc^Wir miissen uns gleichsam anderen zu gefallen entsagen
"で、そのまま訳せば、「私たちはいわば
他者に気に入られることを断念しなければならない」で、むしろアーレントの話の流れと逆であるが、このカント
の発言が「他者」のことを意識した議論であるのは確かであるし、ドイツ語の原文に合わせると本文の流れが分か
りにくくなるので、あえて本文中の英訳の方に合わせておいた。
160
〔このセミナー・ノートの中でハンナ・アーレントは、『純粋理性批判』第一版での図式性(Schematism)
の説明に際してカントが行なった超越論的構想力についての分析を参照しながら、「カント講義録」〔本
訳書〕の(-四―|―四二頁)で導入した「範例的妥当性exemplary validity 」の概念を詳細に論じている。
、、、、、、
範例的妥当性が決定的な重要性を持つのは、それが普遍的なもの(歴史的プロセスの概念や歴史の一般法則)
、、、、、‘
ではなく、特殊的なもの(物語や歴史的実例)を中心とする政治学の構想のための基礎を提供するものだか
らである。アーレントは、認識のために図式が担っている役割を、判断力については範例が担っているこ
とを示唆する、カントの一文を引用している(『判断力批判』第五九節)。『第一批判』に由来する、図式性
についてのこうした重要な背景を視野に入れなければ、表象、そしてそれに伴って判断における構想力の
ヽヽ
役割に関して、私たちは十分な評価をすることができないだろう。構想力についての以下の論考を、別の
原理に関するもの、判断力にほんの通りすがり的に関わっているにすぎないものと考えるのは誤りだろう。
むしろ、このセミナー資科は、範例的妥当性の説明を拡張し、それを図式性における構想力の機能に関係
付けており、私たちがアーレントの判断理論の十分な輪郭を再構成したいと望むのであれば、これはその
パズルを解くための不可欠の一片を提供するものとなるだろうIR ・ベイナー〕
カントは、
5 ercept1 0n)
(I) 構想力(1magina ti 0 n)とは、不在(absent) のものを現前(present) させる能力、すな
ゎち表象11再・現前化作用(re'presentation) の能力であると述べている。「構想力とは、対象をその対象
ヽヽ
が現前(present) していない場合にも直観において表象(represent) する能力である」。「構想力(facultas
ヽヽ(2 )
imaginandi) とは、対象が現前していない場合の知覚の能力である」。不在のものを現前させ
るこの能力に「構想力」の名を与えるのは極めて当然である。もし私が不在のものを表象(represent) す
ヽヽ
るのであれば、私は精神(
m ind)の内に‘―つの形象(image) 1 私がかつて見たことがあり、今また何
らかの仕方で再生(reproduce) しているあるものについての形象ー| 'を持っていることになる(『判断力批判』
の中でカントは時として、この能力を「再生的reproductive 」ーー|私がかつて見たことのあるものを表象することー~
と呼び、「産出的productive 」能力未だかつて見られたことのないものを産出する芸術的能力から区別している。
しかし、産出的構想力〔天才〕も、決して全面的に産出的であるわけではない。例えば、それはケンタウルスを、人という所与のものから産出する)。このよう に言うと、私たちが記憶について論じているかのように聞こるかもしれない。しかしカントにとっては、構想力は記憶のための条件であって、記憶よりはるかに 包括、‘‘‘ 的な能力である。『人間学』の中でカントは、「過去を現前させる能力」である記憶を、未来を現前させ「予見能力」と併せて論じている。両者とも「連想 association 」の能力、すなわち「もはやないもの」及
び「未だないもの」を現在(
present)と結び付ける能力である。「両者ともそれ自身は知覚ではないのだが、
時間における知覚の結合に奉仕する」。構想力は時間的連想によって導かれる必要はない。構想力は、であれ自らが選ぶものを意のままに現前させることができるのである。
カントが構想力と呼ぶもの、つまり感官知覚からみれば不在のものを精神に対して現前させる能力は記憶に関係するというより、むしろもう―つの能力、哲学の 始まり以来知られてきたある能力に関係しいる。パルメニデス(『断片]四)はそれをヌース(nous) (不在であるけれど現前している事物をしつかり見つめ
る能力)と呼ん[°このことでパルメニデスが言おうとしたのは、存在は決して現ヽヽ
に対して自らを現わさない、ということである。物の知覚の内で現前していないものとは、「有ると163 構想力162
ヽヽ
ことthe1t-is」である。感覚に対して不在である、この「有るということ」は、にもかかわらず精神に対
しては現前している。あるいは、アナクサゴラスの言によれば、「見えざるものが一瞬垣間見えるのが諸
(5)
現象であるOps is ton adelon ta phainomena 」。別の言い方をすれば、諸現象(カントの場合には直観に与えられる)
を見ることによって、人は現象することのない何かに気づく、あるいはそれを垣間見る。この何かが、存
在それ自体(Being as such) である。したがつて形而上学それは、自然的実在を超えていながら、な
おある神秘的な仕方で、諸現象中の非現象として精神に与えられるものを扱うディシプリンであるーは
存在論、存在の学となる。
(II) 私たちの認識諸能力にとっての構想力の役割は、恐らくカントの『純粋理性批判』の中の最大の発
(6)
見であろう。私たちの目的からすれば、そこでの「純粋悟性概念の図式論」に立ち返るのが最善だろう。予
め言っておくと、認識に図式を与えるのと同じ能力である構想力が、判断力に範例を与えるのである。
カントには経験と認識の二つの幹があることが想い起こして頂きたい。直観(感性)と概念(悟性)であ、‘‘‘‘‘‘ る。直観は常に、特殊的な何かを私たちに与える。概念はこの特殊的なものが私たちに知られるようにする。
私が「この机」と言う場合、あたかも直観が「この」と言い、悟性が「机」と付け加えるかのようである。「こ
の」はもっばら、この特殊な品目(アイテム)に関係する。「机」はそれを同定し、対象を伝達可能にする。
ここで二つの問いが生じてくる。第一に、いかにしてこれら二つの能力は一緒になるのか?確かに、
悟性概念は精神が感覚の多様性を秩序付けることを可能にする。しかしこの総合(synt hesis) 、両者の共同
作業は、どこから生じて来るのか?•第二に、この「机」という概念は、そもそも概念なのか?もしか
して、それもまた一種の形象ではないのか?つまり知性の内にも、ある種の構想力が現前しているので
はないか?答えは以下の通りである。「多様の総合が:·: •初めて認識を産出するのである。:・・・・〔それは〕
諸要素を認識のために集め、ある種の内容として結合するものである」。この総合は、「構想力の単なる作ヽヽ
である。この構想力とは、魂の不可欠とはいえ盲目的な機能であるが、この機能なしには、われわれはそヽヽヽヽヽヽヽ
そもいかなる認識ももたないであろう。けれども、われわれがこの機能を意識しているということさえも極
めてまれである」。そして、構想力(
imagination
11
Einbildungskraft)は、「概念にその形象を付与する」こと
によって総合を産出する。そうした形象(image 11 Bild)が「固式schema 」と呼ばれる。
両極端、すなわち感性と悟性は構想力:
..
:を介して必然的に連関しなければならない。なぜなら、そ
うでなければ感性はたしかに諸現象を与えるであろうが、しかし経験的認識のいかなる対象も、した
がつていかなる経験も与えないだろうからである。
ここでカントは、二つの能力の間に結合を与える役割を構想力に求めている。また同じ『純粋理性批判』
第一版において、カントはこの構想力を「総合一般の能力」と呼んでいる。私たちの悟性に含まれる「図
(10)
式性」に直接言及している他の箇所では、それを「人間の魂の深みに隠された技術」と呼んでいる(つま
ヽヽヽ
り、私たちは決して現前しない何かについて一種の「直観」を持っている、というのである)。これによってカは、構想力が実際に他の様々な認識能力に共通する根となっていること、すなわち感性と悟性に「共通す
る、しかしわれわれには知られない梱」となっていることを示唆している。カントは『純粋理性批判』の
165 構想力164
序論で、その共通の根について語っており、そして最終章でも、名指してはいいて再度語ってい

年。
(皿)図式。ポイントは、図式なしには人は何も認識できない、というこ言う時、机の一般的な「形象」がその精神に現前しており、人はそこにある「なわち、 それ自体としては一個の特殊的な物でありながら、他の多くのそうした物と性質を共有かであることを認識しているのである。私が一軒の家を認識している場 合、この一般に
家というものがどのように見えるかをも含んでいるのである。これはプラトンが11-
般的形式)と呼んだものであり、決して自然な感覚に与えられることがなく、たれるものである。厳密に言えば、それは「精神の眼」にさえ与えられるわけヽヽヽ
のようなもの、より適切には、「図式」である。人が一軒の家を描くか建てる時<か建てるのであって、家それ自体を描く、あるいは建てるのではない。だとし 形相を精神の眼の前に持つことなしには、そうすることはできないだろう。あ「三角形一般の概念には一_一角形のおよそいかなる形象も決して合致し概念は、 直角三角形とか不等辺三角形とかに関わりなく、すべての一_一角をもつが、〔_二角形の〕形象は〔三角形の〕概念の普遍性には到達しないであろうし、む域 の一部にのみ制限されているであろうからである。三角形の図式は決して思(13)
ることはできなし」。しかし、思考の内にのみ存在するにもかかわらず、図式は一種図式は思考の産物でもなければ、感性に与えられるものでもない。ましてや、感性的に与えられた与件か
らの抽象の産物などではない。それは思考と感性とを超えたもの、あるいはそれらの中間にある何かであ
ヽヽヽ
る。それは、外に対して不可視である限りでは思考に属しており、形象のようなものである限りでは感性
に属している。そういうわけでカントは、構想力を時に「すべての経験の根源的源泉の一っ」と呼び、そ
して構想力自体は「他のいかなる心性の能力からも導出し」えないと語っている。
もう一っ例を挙げれば、「〈犬〉の概念はある規則を意味している。すなわち、この規則に従って、私の
構想力は、経験が私に提供する何らかの唯一な特殊な形態や、私が具体的に表示しうるおのおのの可能
な形象にも制限されることなしに、四本足の動物の形態を一般的に描くことができるのである〔とはいえ、
[l
](
15)
紙の上に描かれるや否や、再び特殊な動物になってしまう!〕」。それは「人間の魂の深みに隠された技術である。
この技術のこつをわれわれが自然からいっか察知し、これを目前に露わに呈示することは難しいであろ
う」。カントに言わせれば、形象例えはショーシ・ワシントン橋は「産出的構想力の経験的な能
力の産物であるが、.
...
:図式〔橋〕はアプリオリな純粋構想力の産物である。
...
.
:形象自身もこの純粋
(17)
構想力によって初めて可能となる」。言い換えれば、もし私が「図式化」の能力を持っていなかったとし
たら、私は形象を持つこともできなかったであろう。
(W) 私たちにとって、
も不可能である。
次の諸論点が決定的に重要である。
①この特殊な机の知覚の内に、「机」
カントは、
それ自体が含まれている。従って、構想力なしにはいかなる知覚
「構想力が知覚そのものの必然的成分であることを、いかなる心理学者もた
167 構想力166
(18)
ぶんまだ考えつかなかったのである」とコメントしている。
②「机」という図式は全ての特殊な机に妥当する。こうした図式がなけれと「これ」……とでも言うしかない諸対象の多様性に取り囲まれることになるだろう。認識がになるだけでなく、伝達(コミニュケーション)ー「私のところに(どれで—も不可能になるだろう。
③そういうわけで、「机」と言う能力がなかったとしたら、私たちは決してとができないだろう。私たちがジョージ・ワシントン橋を記述することがを知ってい るからである。「橋」を知らない者が一緒にいて、しかも、これすることのできる橋もない、という状況を想定してみよう。その場合、私は恐象—|無論それは 既に‘ ―つの特殊な橋である1 を描いて、その人物が知っている何らかの図式、例え
ば「川の一方の岸から他の岸への移行」のようなものを想起させようとするだろう。
ヽヽヽヽ
言い換えれば、特殊的なものを伝達可能にしているのは、(a)特殊的なものを知覚するに際して、私
たちが心(mind) の奥で(あるいは「魂の奥底」で)、それと同じ様な多数の特殊的なヽヽヽ
shape 」を備えた「図式」を私たちが持っていること、そして(b)この図式的形状が多くの異なった人々
の心の奥にもあること|—である。たとえ「図式が決して形象化されえな(
V」としても、これらの図式的
形状は構想力の産物である。個々のあらゆる同意.不同意は、私たちが同じ物に1
ーつまり、多数者である私たちが、私たち全員にとって一にして同一であるようし、一致していること—|を前提している。
④『判断力批判』は、反省的判断力を規定的判断力から区別されたものとして扱っている。規定的判断
カが特殊的なものを一般的規則の下に包摂するのに対し、反省的判断力は逆に、特殊的なものから規則を
「導出する」。図式において、人は実際、特殊的なものの内に何らかの「普遍的なもの」を「知覚する」。人は、
言ってみれば、机を机と認識することで、「机」という図式を見ているのである。カントは、『純粋理性批判』
の中で、「―つの概念の下に包摂すること」と「―つの概念にすること」を区別することによって、規定
的判断力と反省的判断力の区別を暗示している。
⑤最後に、私たちの感性は、認識の助けとしてだけでなく、多様性の内に同性(sameness) を認識する
ためにも構想力を必要としているように思われる。そうしたものとしての構想力は、全ての認識の条件で
ある。つまり、「統覚に先立つ構想力の純粋(産出的)総合の必然的統一の原理は、すべての認識の、特に
(21)
経験の可能性の根拠である」。そのようなものとしての構想力は、「感性をアプリオリに規定する」、つまり、
全ての感官知覚に内在している。構想力がなければ、世界の客観性ー|'世界が知られうること1 もない
だろうし、またいかなる伝達の可能性—|'私たちが世界について語りうること1 もないだろう。
(V) 私たちの目的にとって、
遭遇するということにある。
おいては知性11悟性が
『判断力批判』こよ、
I~"
「図式」
図式の重要性は、
『純粋理性批判』
(22)
「構想力に仕える」
構想力を通しての図式の産出において、
においては構想力が知性11悟性に仕える。
のである。
ヽヽ(23)[4 〕
に類似するものとして範例(科甘pie) が出てくる。
れる直観が経験と認識に対して果たしているのと同様な役割を、
感性と悟性が
『判断力批判』に
カントは、図式と呼ば
判断力においては、範例に与えている。
169 構想力168
反省的判断力と規定的判断力の双方において、つまり私たちが特殊的なものに関わる時には常に、範例が
ある役割を果たす。『純粋理性批判』そこでは、「判断力は決して教えられていることではなく、ただ
訓練されていることだけを欲する特殊な才能」であり、「このオ知が欠けると学校では埋め合わせはでき
(24)[ i (25)
ない」と述べられているでは、範例は「判断力の歩行器(Gange lband) 」と呼ばれている。『判断力批判』
では、つまり、特殊的なものが概念に包摂されることのない反省的判断力についての論述では、人が机を
机と認識するのを図式が助けるのと同じ様な仕方で、範例が判断の助けになっている。範例は私たちを導
(26)
き案内する。それによって判断力が「範例的妥当性」を獲得するのである。
範例は、それ自体の内に概念または一般的規則を含む、あるいは含むものと想定されている特殊的なも
のである。例えば、人はいかにして、ある行為を、勇気あるものと判断し、評価することができるのであ
ろうか?判定に際して人は、一般的規則からの推論によらず、自発的に、「この男には勇気がある」と言う。
ギリシア人であれば、「心の奥底で」アキレスを範例にするかもしれない。ここでも構想力が必要になる。
アキレスは明らかに不在であるのに、アキレスを現前させねばならないからである。私たちがある人を善
[6, -
良だと言う時にも、私たちは心の奥で、聖フランシスやナザレのイエスを範例としているのである。判断
カは、範例が正しく選ばれる限りにおいて、範例的妥当性を有する。あるいは、別の例を挙げれば、フラ
ンス史の文脈で、私は特殊な一人の人間としてのナポレオン・ボナパルトについて語ることができる。し
かし、ボナパルティズムについて語る瞬間には、私はナポレオンを一っの範例にしているのである。この
範例の妥当性は、ナポレオンの同時代人として、あるいは、この特殊な歴史的伝統の継承者として、ナポ
レオンについての特殊な体験を所有する人たちに限定されるであろう。歴史学や政治学における概念のほ
とんどは、こうした限定された性質を有している。それらは、ある特殊な歴史的出来事にその起源を有す
るわけであるが、私たちは後になってそれを「範例的」なものとし、その特殊的なものの内に、複数の事
例に妥当するものを見るようになるのである。
171 構想力170
〔l 〕〔〕内の部分は、『純粋理性批判』の原文にはなく、アーレントによる挿入。
〔2〕「ジョージ・ワシントン橋」は当然、『純粋理性批判』の原文にはなく、アーレントによる挿二ューヨーク市のワシントンハイツ(マンハッタン島の北端)とニュージャージー州のフォートリで、一九二七年に着工され、一九三一年に完成された。
〔3ご産出的
pro
dukti v J ではなく、「再生的reprod uktiv」としている版もあり、アーレントの使っている英訳でも

repro ducti ve〉となっているが、ここではアカデミー版や岩波のカント全集に従って、「産出的」と直〔4 〕原文では、「象徴Symbol」という言葉が使われている。
〔5〕原文では、〈B ei
sp
iel〉になっている。アーレントの文章では、〈Symbol〉にも〈Beispiel訳語が当てられているので、英語の表現としては辻棲が合っているが、原文に即した解釈としてはではアーレントの文章に合わせて、いずれも「範例」と訳した。
〔6 〕フランシスコ会の創設者であるアッシジのフランチェスコ(一
(訳注)
原注)
一八一/八ニー―二二六)のこと。裕福な家庭に
『カント全梨八巻』、二ニ節、
二四一頁以下)
(l) Critzque of Pure Reason, B 151. trans.
N•
K. Smith (New York : St.Martin's Press, 1963) (カント「純粋理性批判」『カ
ント全集四巻j‘-――-O頁[―部改訳した).
(2) Kant, Anthropology from a Pragmatic Point of View, ァ28 (傍点付加), trans. Mary J. Greg 0 r (The Ha磨e→Nijhof, 1974) (力
ント「実用的見地における人間学」[ Iカント全集一五巻』、二八節、八三頁[-部改訳した) .
(3) Ibid., ァ34 (同、三四節‘-O四頁).
(4) Kathleen Freeman 又foci/la to the Pre , Socratic Philosophers (Ox」0 rd: Basil Blackwell, 1971) , p.42を参照。
(5) Hermann Diels and Walther Kranz, Die Fragmente der Vorsokratiker, 5th ed・(Berlin) , B.2la. Freeman, Ancilla to the Pre ,
Socratic Philosophers (Oxford: Basil Blackwell, 1971) ,
p•
86を参品源。
(6) Critique of Pure Reason, B 17 6ff・(カント「純粋理性批判」i『カント全集四巻j‘
(7) Ibid., Bl03 (同、一五四頁[イタリツク〔傍点〕編者)●
(8) Ibid., B 180 (同、二四三頁:イタリック〔傍点〕編者).
(9) Ibid., Al24 (同、一九八頁).
(10) Ibid., Bl8 0(同、―-四四頁).
(11) Ibid., B29 (同、九0 頁] 一部改訳した).
(12) Ibid., B863 (『カント全集六巻l‘――四頁).
(13) Ibid., Bl80 (『カント全集四巻」、二四四頁[―部改訳した).
(14) lbid.,A94 (同、一七三頁[―部改訳した) .
(15) Ibid., BISO (同、一_四四頁i 一部改訳した).
(16) Ibid., Bl80'ool(同、二四四頁) .
(17) lbid.,Bl81 (同、二四四頁[-部改訳した)
(18) Ibid., A 120 Anrn. (同、一九五頁)
一〇五頁)
(19) Ibid., Bl81 (同、二四四頁).
(20) Ibid., BI04 (同、一五四頁i一部改訳した)
(21) Ibid.,All8 (同‘-九三頁).
(22) Critique of Judgment, General Remark t 0名22
, trans. J. H. Bernard (New York: Hafuer, 1951) (カント「判断力批判」]
ント全集八巻」、分析論第一章に対する一般的注解‘-O九頁).
(23) Ibid., ァ59 (同、五九節、二五八頁以下)
(24) Critique of Pure Reason, B 172 (カント「純粋理性批判」[
(25) Ibid. Bl73 (同、一一三八頁) .
(26) Critique of Judgment, ァ22 (カント「判断力批判」
[カント全集四巻l、二三七頁)
Iカ
173 注
172
ハンナ・アーレントの判断論
生まれたが、家を出て、清貧の修道生活を送ったことで知られている。
ロナルド・ベイナー
174

KANT'S
Political Philosophy
Judging was to have been the third and final volume of Hannah Arendt's The
Life of the Mind. All that she actually wrote was this title page, which, with its
tWQ epigraphs, was found in her typewriter shortly after her death.
".
i
II. Title.
JC181.K4A73 320'.01'0924 82-A817
ISBN 0-226-02594-2 AACR2
Hannah Arendt's "Postscriptum" to The Life of the Mind, volume one,
iI) 1977, 1978 by Harcourt Brace Jovanovich, Inc.,
is reprinted with the permission of the publishers,
Harcourt Brace Jovanovich, Inc., and
Martin Seeker Be Warburg, Limited.
HANNAH ARENDT (1906-75) was educated at the universities of Marburg,
Freiburg, and Heidelberg, where she received her Ph.D. in philosophy under
Karl Jaspers. She was professor of philosophy at the University of Chicago from
1963 to 1967; she then returned to the New School for Social Research. Among
her many honors were. a fellowship in the American Academy of Arts and
Sciences, the Lessing Prize, and the Sigmund Freud ~ for prose. She was the
author of over a dozen books, including The Hwman Condition (University of
Chicago Press, 1958), and the unfinished, posthumously published two-volume
work The Life of the Mind (1978).
RoNALD BEINER received his D.PhlL at Oxford with a thesis on Hannah Arendt.
He is currently a lecturer at the University of Southampton in England.
Contents
Preface, by Ronald Berner vii
PART ONE
Texts by Arendt
Postscriptum· to Thinking 3
Lectures on Kant's Political Philosophy 7
Imagination 79
PART TWO
Interpretive Essay
Hannah Arendt on Judging, by Ronald Beiner 89
Notes 157
Preface
HANNAH ARENDT never lived to write "Judging," which was to
have been the third and concluding part of her work The Life oj
the Mind. Yet students of her thought would have ample
justification for believing that, had it been written, it would have
been her crowning achievement. The purpose of the present
book is to draw together the main available tex~ by Arendt on this
important topic. Obviously, these texts can be no substitute for
the work that was not written, but I think they can offer clues to
the likely direction Hannah Arendt's thinking would have taken
in this area, especjally when they are viewed in the context of her
work as a whole. In my interpretive essay I have hoped to show
that something coherent can indeed be gleaned from these texts
and to help give the reader some sense of their importance. No
more than this is claimed for my speculative reconstruction.
The first text is Arendt'sPostscriptum to volume one of The Life
oj the Mind. This forms a prelude to "Judging," since it offers a
brief plan of the projected work and' indicates the basic themes
and overall intention. (The PostsCriptum, the last chapter of Thinking,
forms a transition between the two volumes of The Life oj the
Mind, and announces the main topics intended for treatment in
volume two.) The Lectures on . Kant's Political Philosophy, the
core of the present volume, are an exposition of Kant's aesthetic
and political writings, designed to show that the Critique oj Judgment
contains the outlines of a powerful and important political
philosophy-one that Kant himself did not develop explicitly
(and of which he was perhaps not fully conscious) but that may,
nonetheless, constitute his greatest legacy to political philosophers.
Hannah Arendt gave these Kant Lectures first at the New
School for Social Research, during the Fall semester of 1970.
She had presented an earlier version of them at the University of
Chicago in 1964, and material on judging was also inclu4ed in
viii PREFACE
lectures she gave on moral philosophy at Chicago and at the
New School during 1965 and 1966. Arendt was scheduled to
lecture again on the Critique of Judgment in the Spring semester
of 1976 at the New School, but her death came in December,
1975. The notes on Imagination are from a seminar on the
. Critique of Judgment given at the New School during the same
semester as the 1970 Kant Lectures. (Arendt commonly gave
seminars concurrendy with lectures on closely related topics in
order to explore certain ideas .in greater depth.) These seminar
notes help to elaborate the Kant Lectures by showing that the
notion of exemplary validity that emerges in the third Critique
and the doctrine of the Schematism in the first Critique are linked
by the role of imagination, which is fundamental to both, providing
schemata for cognition as well as examples for judgment.
My aim has been to provide as full a selection of texts as the
reader would need in order to glimpse' Hannah Arendt's
emerging reflections on judging. Other available lecture materials
have been left 01,lt because to have included them would
have produced either repetitiveness, where her views .had not
changed, or inconsistency, where her views had developed be-
. yond those expressed in the earlier sketches. I have, however,
made use of these other materials, where they are relevant, in
my commentary.'
The writings assembled in this volume are, in the main, lecture
notes that were never intended for publication. Although
changes have been made where the wording or punctuation
seemed ungrammatical or insufficiendy clear, the substance has
not been altered, and they retain their original form as notes for
lectures. Thus the contents of this volume should in no way be
mistaken for finished compositions. The reason for their being
made available is simply to give access to ideas of signal
importance-ideas that the author herself did not live to develop
in the way she had intended. .
Arendt's citations of sources in the lecture and seminar notes
were often rather sketchy, and some were simply inaccurate.
The responsibility for the notes accompanying Arendt's texts is,
therefore, entirely mine.
I am deeply indebted to Mary McCarthy for her constant help
and unfailing kindness, without which this volume would not
have been possible. I am obliged also to the staff of the Manuscript
Division of the Library of Congress for their helpful cooperation.
PART ONE
Texts by Arendt
Postscriptum to Thinking
From The Life of the Mind, Volume One
IN THE SECOND VOLUME of this work [The Life of the Mind] I shall
deal with willing and judging, the two other mental activities.
Looked at from the perspective of these time speculations, they
concern matters that are absent either because they are not yet
or because they are no more; but in contradistinction to the
thinking activity, which deals with the invisibles in all experience
and always tends to generalize, they always deal with particulars
and in this respect are much closer to the world of appearances.
If we wish to placate our common sense, so decisively offended
by the need of reason.to pursue its purposeless quest for meaning,
it is tempting to justify this need solely on the grounds that
thinking is an indispensable preparation for deciding what shall
be and for evaluating what is no more. Since the past, being past,
becomes subject to our judgment,judgment, in tum, would be a
mere preparation for willing. This is undeniably the perspective,
and, within limits, the legitimate perspective, of man insofar as
he is an acting being.
But this last attempt to defend the thinking activity against the
reproach of being impractical and useless does not work. The
decision the will arrives at can never be derived from the mechanics
of desire or the deliberations of the intellect that may
precede it. The will is either an organ of free spontaneity that
interrupts all causal chains of motivation that would bind it or it
is nothing but an illusion. In respect to desire, on one hand, and
to reason, on the other, the will acts like "a kind of coup d'etat," as
Bergson once said, and this implies, of course, that "free acts are
exceptional": "although we are free whenever we are willing to
get back into ourselves, it seldom happens that we are willing. "1 In
other words, it is impossible to deal with the willing activity without
touching on the problem of freedom~
3
4 PART ONE
[Three paragraphs of the original text, pertaining to the account
of willing in volume two of The Life oj the Mind, are omitted
here.-R.B.]
I shall conclude the second volume with an analysis of the
faculty of judgment, and here the chief difficulty will be the
curious scarcity of sources providing authoritative testimony.
Not till Kant's Critique oj Judgment did this faculty become a
major topic of a major thinker.
I shall show that my own main assumption in singling out
judgment as a distinct capacity of our minds has been that judgments
are not arrived at by either deduction or induction; in short,
they have nothing in common with logical operations--as when
we say: All men are mortal, Socrates is a man, hence, Socrates is
mortal. We shall be in search of the "silent sense," which-when
it was dealt with at all-has always, even in Kant, been thought of
as "taste" and therefore as belonging to the realm of aesthetics.
In practical and moral matters it was called "conscience," and
conscience did not judge; it told you, as the divine voice of either
God or reason, what to do, what not to do, and what to repent of.
Whatever the voice of conscience may be, it cannot be said to be
"silent," and its validity depends entirely upon an authority that
is above and beyond all merely human laws and rules.
In Kant judgment emerges as "a peculiar talent which can be
practiced only and cannot be taught." Judgment deals with particulars,
and when the thinking ego moving among generalities
emerges from its withdrawal and returns to the world of particular
appearances, it turns out that the mind needs a new "gift"
to deal with them. "An obtuse or narrow-minded person," Kant
believed, " ... may indeed be trained through study, even to the
extent of becoming learned. But as such people are commonly
still lacking in judgment, it is not unusual to meet learned men
who in the application of their scientific knowledge betray that
original want, which can never be made good."2 In Kant, it is
reason with its "regulative ideas" that comes to the help of judgment;
but if the faculty is separate from other faculties of the
mind, then we shall have to ascribe to it its own modus operandi, its
own way of proceeding.
And this is of some relevance to a whole set of problems by
which modern thought is haunted, especially to the problem of
theory and practice and to all attempts to arrive at a halfway
plausible theory of ethics. Since Hegel and Marx, these questions
have been treated in the perspective of History and on the as-
Postscriptum to Thinking 5
sumption that there is such a thing as Progress of the human
race. Finally we shall be left with the only alternative there is in
these matters. Either we can say with Hegel: Die Weltgeschichte ist
das Weltgericht, leaving the ultimate judgment to Success, or we
can maintain with Kant the autonomy of the minds of men and
their possible independence of things as they are or as they have
come into being.
Here we shall have to concern ourselves, not for the first time,3
with the concept of history, but we may be able to reflect on the
oldest meaning of this word, which, like so many other terms in
our political and philosophical language, is Greek in origin, derived
from historein, "to inquire in order to tell how it was"legein
ta eonta in Herodotus. But the origin of this verb is in turn
Homer (Iliad XVIII), where the noun histor ("historian," as it
were) occurs, and that Homeric historian is the judge. If judgment
is our faculty for dealing with the past, the historian is the.
inquiring man who by relating it sits in judgment over it. If that
is so, we may reclaim our human dignity, win it back, as it were,
from the pseudo-divinity named History of the modern age,
without denying history'S importance but denying its right to be
the ultimate judge. Old Cato, with whom I started these
reflections--"Never am I less alone than when I am by myself,
never am I more active than when I do nothing"-has left us a
curious phrase, which apdy sums up the political principle implied
in the enterprise of reclamation. He said: "Victrix causa deis
placuit, sed victa Catoni" ("The victorious cause pleased the gods,
but the defeated one pleases Cato").
Lectures on
Kant's Political Philosophy
Delivered at the
New School For Social Research,
Fall, 1970
First Session.
To TALK ABOUT and inquire into Kant's political philosophy has
its difficulties. Unlike so many other philosophers-Plato, Aristotle,
Augustine, Thomas, Spinoza, Hegel, and others-he never
wrote a political philosophy. The literature on Kant is enormous,
but there are very few books on his political'philosophy,
and, of these, there is only one that is worth· studying-Hans
Saner's Kants Weg vom Krieg zum Frieden. 1 In France there appeared,
very recently, a collection of essays devoted to Kant's
political philosophy,2 some of which are interesting; but even
there you will soon see that the question itself is treated as a
marginal topic as far as Kant himself was concerned. Of all the
books on Kant's philo.sophy as a whole, it is only Jaspers' treatment
that devotes at least a quarter of the space to this particular
subject. (Jaspers, the only disciple Kant ever had; Saner, the
only one Jaspers ever had.) The essays that make up On History3
or the recent collection called Kant's Political Writings4 cannot
compare in quality and depth with Kant's other writings; they
certainly do not constitute a "Fourth Critique," as one author .
called them, eager to claim for them that stature since they happened
to be hi& subject.5 Kant himself called some of them a
mere "play with ideas" or a "mere pleasure trip."8 And the ironical
tone of Perpetual Peace, by far the most important of them,
shows clearly that Kant himself did not take them too seriously.
In a letter to Kiesewetter (October 15, 1795), he calls the treatise
"reveries" (as though he thought of his early fun with Swedenborg,
his Dreams of a Ghost-Seer, Elucidated by Dreams of Metaphysics
[1766]). As far as The Doctrine of Right (or of Law) is
concerned-which you will find only in the book edited by Reiss
and which, if you read it, you will probably find rather boring
8 PART ONE
and pedantic-it is difficult not to agree with Schopenhauer,
who said about it: "It is as if it were not the work of this great
man, but the product of an ordinary common man fgewohnlicher
Erdensohn]." The concept of law is of great importance in Kant's
practical philosophy, where man is understood as a legislative
being; but if we want to study the philosophy of law in general,
we certainly shall not turn to Kant but to Pufendorff or Grotius
or Montesquieu.
Finally, if you look at the other essays-either in the Reiss
book or in the other collection (On History), you will see that
many of them are concerned with history, so that, at.first, it looks
almost as though Kant, like so many after him, had substituted a
philosophy of history for a political philosophy; but then, Kant's
concept of history, though quite important in its own right, is not
central to his philosophy, and we would turn to Vico or Hegel
and Marx if we wanted to inquire into history. In Kant, history is
part of nature; the historical subject is the human species understood
as part of the creation, though as its ·final end and creation's
crown, so to speak. What matters in history, whose
haphazard, contingent melancholy he never forgot, are not the
stories, not the historical individuals, nothing that men did of
good or evil, but the secret ruse of nature that caused the species
to progress and develop all of its potentialities in the succession
of generations. The lifespan of man as an indiVidual is too short
to develop all human qualities and possibilities; the history of the
species is therefore the process in which "all the seeds planted in
it by Nature can fully develop and in which the destiny of the
race can be fulfilled here on earth."7 This is "world history," seen
in analogy to the organic development of the individualchildhood,
adolescence, maturity. Kant is never interested in the
past; what interests him is the future of the species. Man is
driven from Paradise not because of sin and not by an avenging
God but by nature, which releases him from her womb and then
drives him from the Garden, the "safe and harmless state of
childhood."8 That is the beginning of history; its process is progress,
and the product of this process is sometimes called. culture, 9
sometimes freedom ("from the tutelage of nature to the state of
freedom");lO and only once, almost in passing, in a parenthesis,
does Kant state that it is a question of bringing about "the highest
end intended for man, namely, sociability [Geselligk~t]."ll
(We shall see later the importance of sociability.) Progress itself,
the dominant concept of the eighteenth century, is for Kant a
Kant Lectures 9
rather melancholy notion; he repeatedly stresses its obviously
sad implication for the life of the individual.
If we accept the moral-physical condition of man here in life
even on the best terms, that is to say, of a perpetual progression
and advance to the highest good which is marked out as
his destination, he still cannot ... unite contentment with the
prospect of his condition .. , enduring in an eternal state of
change. For the condition in which man now exists remains
ever an evil, .in comparison to the better condition into which
he stands ready to proceed; and the notion of an infinite
progression to the ultimate purpose is still simultaneously one
prospect in an unending series of evils which ... do not per:
rp.it contentment to prevail.12
Another way of raising objections to my choice of topic, a
somewhat indelicate but by no means entirely unjustified way, is
to point out that all of the essays that are usually chosen-and
that I too have chosen-date from Kant's last years and that the
decrease of his mental faculties, which finally led into senile
imbecility, is a matter of fact. To counteract this argument, I
have asked you to read the very ea:dy Observations on the Feeling of
the Beautiful and Sublime. 13 To anticipate my own opinion on this
matter, which I hope to justify to you in the course of this term:
if one knows Kant's work and takes its biographical circumstances
into account, it is rather tempting to turn the argument
around and to say that Kant became aware of the political as
distinguishedfrom the social, as part and parcel of man's condition
in the world, rather late in life, when he no longer had either the
strength or the time to work out his own philosophy on this
particular matter. 'By this I do not mean to say that Kant, because
of the shortness of his life, failed to write the "fourth
Critique" but rather that the third Critique, the Critique of
Judgment-which in distinction from the Critique of Practical Reason
was written spontaneously and not, like the Critique of Practical
Reason, in answer to critical observations, questions, and
provocation~actually should have become the book that
otherwise is missing in Kant's great work.
After he had finished the critical business, there were, from
his own viewpoint, two questions left, questions that had
bothered him all his life and that he had interrupted work on in
order first to clear up what he called the "scandal of reason": the
fact that "reason contradicts itself"14 or that thinking transcends
the limitations of what we can know and then gets caught in its
10 PART ONE
own antinomies. We know from Kant's own testimony that the
turning point in his life was his discovery (in 1770) of the human
mind's cognitive faculties and their limitations, a discovery that
took him more than ten years to elaborate and to publish as the
Critique oj Pure Reason. We also know from his letters what this
immense labor of so many years signified for his other plans and
ideas. He writes, of this "main subject," that it kept back and
obstructed like "a dam" all the other matters he had hoped to
finish and publish; that it was like "a stone on his way," on which
he could proceed only after its remova1.15 And when he returned
to his concerns of the precritical period, they had, of
course, changed somewhat in the light of what he now knew; but
they had not changed beyond recognition, nor could we say that
they had lost their urgency for him.
The most important change can be indicated in the following
way. Prior to the event of 1770, he had intended to write, and
soon publish, the Metaphysics oj Morals, a work that in fact he
wrote and published only thirty years later. But, at this early
date, the book was announced under the title Critique of Moral
Taste.16 When Kant finally turned to the third Critique, he still
called it, to begin with, the Critique of Taste. Thus two things
happened: behind taste, a favorite topic of the whole eighteenth
century, Kant had discovered an entirely new human faculty,
namely, judgment; but, at the same time, he withdrew moral
propositions from the competence of this new faculty. In other
words: it is now more than taste that will decide about the beautiful
and the ugly; but the question of right and wrong is to be
decided by neither taste nor judgment but by reason alone.
Second Session
IN THE FIRST LECTURE I said that for Kant, toward the end of his
life, two questions were left. The first of these could be summed
up, or rather indicated, by the "sociability" of man, that is, the
fact that no man can live alone, that men are interdependent not
merely in their needs and cares but in their highest faculty, the
human mind, which will not function outside human society.
"Company is indispensable for the thinker. "17 This concept is a
key to the first part of the Critique oj Judgment. That the Critique oj
Judgment, or of Taste, was written in response to a leftover question
from the precritical period is obvious. Like the Observations,
Kant Lectures 11
the Critique again is divided into the Beautiful and the Sublime.
And in the earlier work, which reads as though it had been
written by one of the French moralists, the question of "sociability,"
of company, was already, though not to the same extent, a
key question. Kant there reports the actual experience that lies
behind the "problem," and the experience, apart from the actual
social life of the young Kant, was a kind of thought-experiment.
The experiment goes as follows:
["Carazan's Dream":] In proportion as his riches increased,
this wealthy miser had closed off his heart from compassion
and love toward all others. Meantime, as the love of man grew
cold in him, the diligence of his prayer and his religious observances
increased. After this confession, he goes on to recount
the following: "One evening, as by my lamp I drew up
my accounts and calculated my profits, sleep overpowered
me. In this state I saw the Angel of Death come over me like a
whi~lwind. He struck me before I could plead to be spared his
ternble stroke. I was petrified, as I perceived that my destiny
throughout eternity was cast, and that to all the good I had
done nothing could be added, and from all the evil I had
committed, not a thing could be taken away. I was led before
the throne of him who dwells in the third heaven. The glory
that flamed before me spoke to me thus: 'Carazan, your service
of God is rejected. You have closed your heart to the love
of man, and have clutched your treasures with an iron grip.
You have lived only for yourself, and therefore you shall also
live the future in eternity alone and removed from all communion
with the whole of Creation.' At this instant I was
swept away by an unseen power, and driven through the
shining edifice of Creation. I soon left countless worlds behind
me. As I neared the outermost end of nature, I saw the
shadows of the boundless void sink down into the abyss before
me. A fearful kingdom of eternal silence, loneliness, and
darkness! Unutterable horror overtook me at this sight. I
gra~ually lost sight of the last star, and finally the last glimmenng
ray of light was extinguished in outer darkness! The
mortal terrors of despair increased with every moment,just as
every moment increased my distance from the last inhabited
world. I reflected with unbearable anguish that if ten
thousand times a thousand years more should have carried
me along beyond the bounds of all the universe I would still
al~ays be looking ahead into the infinite abyss of darkness,
WIthout help or hope of any return.-In this bewilderment I
thrust out my hands with such force toward the objects of
12 PART ONE
reality that I awoke. And now I have been taught to esteem
mankind; for in that terrifying solitude I would have preferred
even the least of those whom in the pride of my fortune
I had turned from my door to all the treasures of Golconda."
18
The second leftover question is central to the Critique's second
part, which is so different from the first that the book's lack of
unity has always provoked comment; Baeumler, for example,
asked if it was anything more than an "old man's whim"
(Greisenschrulle).19 This second question, raised in §67 of the
Critique oj Judgment, reads: "Why is it necessary that men should
exist at all?" This question, too, is a kind ofle~tover concern. You
all know the famous three questions whose answer, according to
Kant, constituted the proper business of philosophy: What can I
know? What ought I to do? What may I hope? To these three, he
used to add a fourth in his lecture courses: What is Man? And he
explained: "One could call them all together 'anthropology' be-·
cause the first three questions relate to [indicate] the last one."20
This question has aD obvious relationship to the other question,
asked by Leibniz, by Schelling, by Heidegger: Why should there
be anything and not rather nothing? Leibniz calls it "the first
question we have a right to raise" and adds: "For nothing is
simpler and easier than something."21 It should be obvious that,
however you phrase these why-questions, every answer that
would start with Because ... would sound, and be, only silly. For
the why actually does not ask for a cause, as, for example, How
did life develop, or How came the universe into existence (with
or without a bang); rather, it asks for what purpose did all this
happen, and "the purpose, for instance of the existence of nature,
must be sought beyond nature,"22 the purpose of life beyond
life, the purpose of the universe beyond the universe. This
purpose, like every purpose, must be more than nature, life, or
the universe, which immediately, by this question, are degraded
into means for something higher than themselves. (When
Heidegger, in his late philosophy, tries time and again to put
man and being into a kind of correspondence in which one
presupposes and conditions the other-Being calling for Man,
Man becoming the guardian or shepherd of Being, Being
needing Man for its own appearance, Man not just needing
Being in order to exist at all but being concerned with his own
Being as no other entity [Seiendes: being], no other living thing,
is,23 etc.-it is to escape this kind of mutual degradation, inher-
Kant Lectures 13
ent in these general why-questions, rather than to escape the
paradoxes of all thoughts about Nothingness.)
Kant's own answer to this perplexity, as derived from the second
part of the Critique oj Judgment, would have been: We ask
such questions as What is the purpose of nature? only because
we ourselves are purposive beings who constantly design aims
and ends and belong, as such intentional beings, to nature. In
the same vein, one could answer the question why we perplex
ourselves with such obviously unanswerable questions as Does
the world or the universe have a beginning, or is it, like God
himself, from eternity to eternity? by pointing to the fact that it is
in our very nature to be beginners and hence to constitute beginnings
throughout our lives.24
But to come back to the Critique oj Judgment: The links between
its two parts are weak, but, such as they are-i.e., as they can be
assumed to have existed in Kant's own mind-they are more
closely connected with the political than with anything in the
other Critiques. There are two important links. The first is that in
neither of the two parts does Kant speak of man as an intelligible
or a cognitive being. The word truth does not occur-except
once, in a special context. The first part speaks of men in the
plural, as they really are and live in societies; the second part
speaks of the human species. (Kant underlines this in the passage
I have just quoted by adding: the question "why it is necessary
that men should exist ... we shall not find so easy to answer
if we sometimes cast our thoughts on the New Hollanders or
[other primitive tribes].")25 The most decisive difference between
the Critique oj Practical Reason and the Critique oj Judgment
is that the moral laws of the former are valid for all intelligible
beings, whereas the rules of the latter are strictly limited in their
validity to human beings on earth. The second link lies in the
fact that the faculty of judgment deals with particulars, which "as
such, contain something contingent in respect of the universal,"
26 which normally is what thought is dealing with. These
particulars are again of two kinds; the first part of the Critique oj
Judgment deals wth objects of judgment properly speaking, such
as an object that we call "beautiful" without being able to subsume
it under a general category of Beauty as such; we have no
rule that could be applied. (If you say, "What a beautiful rosel"
you do not arrive at this judgment by first saying, "All roses are
beautiful, this flower is a rose, hence this rose is beautiful." Or,
conversely, "Beauty is roses, this flower is a rose, hence, it is
14 PART ONE
beautiful.") The other kind, dealt with in the second part of the
Critique of judgment is the impossibility of deriving any particular
product of nature from general causes: "Absolutely no human
reason (in ,fact, no finite reason like ours in quality, however
much it may surpass it in degree) can hope to understand the
production of even a blade of grass by mere mechanical
causes."27 ("Mechanical" in Kant's terminology refers to natural
causes; its opposite is "technical," by which he means "artificial,"
i.e., something fabricated with a purpose. The distinction is between
things that come into being of themselves and those that
are fabricated for a specific end or purpose.) The accent here is
on "understand": How can I understand (and not just explain)
that there is grass at all and then this particUlar blade of grass?
Kant's solution is to introduce the teleological principle, "the
principle of purposes in the products of nature," as a "heuristic
principle for investigating the particular laws of nature," which,
however, does not make "their mode of origination any more
comprehensible."28 We are not concerned here with this part of
Kant's philosophy; it does not deal with judgment of the particular,
strictly speaking, and its topic is nature, although, as we
shall see, Kant understands history also as part of nature-it is
the history of the human species insofar as it belongs to the
animal species on earth. Its intention is to find a principle of
cognition rather than a principle of judgment. But you should
see that just as you can raise the question Why is it necessary
that men should exist at all? you can continue and ask why it is
necessary that trees should exist, or blades of grass, and so on.
In other words, the topics of the Critique of judgment-the
particular, whether a fact of nature or an event in history; the
faculty of judgment as the faculty of man's mind to deal with it;
sociability of men as the condition of the functioning of this
faculty, that is, the insight that men are dependent on their
fellow men not only because of their having a body and physical
needs but precisely for their mental faculties-these topics, all of
them of eminent political significance-that is, important for the
political-were concerns of Kant long before he finally, after
finishing the critical business (das kritische Geschiift), turned to
them when he was old. And it was for their sake that he postponed
the doctrinal part, to which he had intended to proceed
"in order to profit, as far as is possible, by the more favorable
moments of my increasing years."29 This doctrinal part was supposed
to contain "the metaphysics of nature and of morals";
Kant Lectures 15
there would be no place in them, "no special section, for the .
faculty of judgment." For judgment of the particular-This is
beautiful, This is ugly; This is right, This is wrong-has no place
in Kant's moral philosophy. Judgment is not practical reason;
practical reason "reasons" and tells me what to do and what not
to do; it lays down the law and is identical with the will, and the
will utters commands; it speaks in imperatives. Judgment, on the
contrary, arises from "a merely contemplative pleasure or inactive
delight [untiitiges Wohlgejallen]."3o
This "feeling of contemplative pleasure is called taste," and
the Critique of judgment was originally called Critique of Taste.
"If practical philosophy speaks of contemplative pleasure at all,
it mentions it only in passing, and not as if the concept were
indigenous to it."31 Does that not sound plausible? How could
"contemplative pleasure and inactive delight" have anything to
do with practice? Does that not conclusively prove that Kant,
when he turned to the doctrinal business, had decided that his
concern with the particular and contingent was a thing of the
past and had been a somewhat marginal affair? And yet, we shall
see that his final position on the French Revolution, an event that
played a central role in his old age, when he waited with great
impatience every day for the newspapers, was decided by this
attitude of the mere spectator, of those "who are not engaged in
the game themselves" but only follow it with "wishful, passionate
participation," which certainly did not mean, least of all for
Kant, that they now wanted to make a revolution; their sympathy
arose from mere "contemplative pleasure and inactive delight."
There is only one element in Kant's late writings on these
subjects that we cannot trace to concerns of the precritical
period. Nowhere in the earlier period do we find him interested
in strictly constitutional and institutional questions. Yet this
interest was paramount in the last years of his life, when nearly
all of his strictly political essays were written. These were written
after 1790, when the Critique of judgment appeared, and, more
significantly, after 1789, the year of the French Revolution,
when he was sixty-five years old. From then on his interest no
longer turned exclusively about the particular, about history,
about human sociability. In its center was rather what we today
would call constitutional law-the way a body politic should be
organized and constituted, the concept of "republican," i.e., constitutional
government, the question of international relations,
16 PART ONE
etc. The first indication of this change is perhaps to be found in
the note to § 65 of the Critique oj Judgment, which relates to the
American Revolution, in which Kant had already been very
interested. He writes:
In a recent complete transformation of a great people into a
state the word organization for the regulation of magistracies,
etc., and even of the whole body politic, has often been fitly
used. For in such a whole every member should surely be
purpose as well as means, and, whilst all work together towards
the possibility of the whole, each should be determined
as regards place and function by means of the Idea of the
whole.
It is precisely this problem of how to organize a people into a
state, how to constitute the state, how tofound a commonwealth,
and all the legal problems connected with these questions, that
occupied him constantly during his last years. Not that the older
concerns with the ruse of nature or with the mere sociability of
men had disappeared altogether. But they undergo a certain
change or, rather, appear in new and unexpected formulations.
Thus we find the curious Article in Perpetual Peace that
establishes a Besuchsrecht, the right to visit foreign lands, the right
to hospitality, and "the right of temporary sojourn."32 And, in
the same treatise, we again find nature, that great artist, as the
eventual "guarantee of perpetual peace."33 But without this new
preoccupation, it seems rather unlikely that he would have
started his Metaphysics oj Morals with the "Doctrine of Law." Nor
is it likely that he would finally have said (in the second section of
The Strife oj the Faculties, the last section of which already shows
clear evidence of his mind's deterioration): "It is so sweet to plan
state constitutions [Es ist so sUss sich Staatsverfassungen
auszudenken]"-a "sweet dream" whose consummation is "not
only thinkable but •.. an obligation, not [however] of the citizens
but of the sovereign."34
Third Session
ONE WOULD THINK that Kant's problem at this late time in his
life-when the American and, even more, the French Revolution
had awakened him, so to speak, from his political slumber
(as Hume had awakened him in his youth from dogmatic
Kant Lectures 17
slumber, and Rousseau had roused him in his manhood from
moral slumber)-was how to reconcile the problem of the organization
of the state with his moral philosophy, that is, with the
dictate of practical reason. And the surprising fact is that he
knew that his moral philosophy could not help. here. Thus he
kept away from all moralizing and understood that the problem
was how to force man "to be a good citizen even if [he is] not a
morally good person" and that "a good constitution is not to be
expected from morality, but, conversely, a good moral condition
of a people is to be expected under a good constitution."35 This
may remind you of Aristotle's remark that a "good man can be a
good citizen only in a good state," except that Kant concludes (and
this is so surprising and goes far beyond Aristotle in separating
morality from good citizenship):
The problem of organizing a state, however hard it may seem,
can be solved even for a race of devils, if only they are intelligent.
The problem is: "Given a multitude of rational beings
requiring universal laws for their preservation, but each
of whom is secretly inclined to exempt himself from them, to
establish a constitution in such a way that, although their private
intentions conflict, they check each other, with the result
that their public conduct is the same as if they had no such
intentions."36
This passage is crucial. What Kant said is-to vary the Aristotelian
formula-that a bad man can be a good citizen in a good
state. His definition of "bad" here is in accordance with his moral
philosophy. The categorical imperative tells you: Always act in
such a way that the maxim of your acts can become a general
law, that is, "I am never to act otherwise than so that I could also
will that my maxim should become a universallaw."31 The point
of the matter is very simple. In Kant's own words: I can will a
particular lie, but I "can by no means will that lying should be the
universal law. For with such a law there would be no promises at
all. "38 Or: I can want to steal, but I cannot will stealing to be a universallaw;
because, with such a law, there would be no property.
The bad man is, for Kant, the one who makes an exception for
himself; he is not the man who wills evil, for this, according to
Kant, is impossible. Hence the "race of devils" here are not devils
in the usual sense but those who are "secretly inclined to
exempt" themselves. The point is secretly: they could not do it
publicly because then they would obviously stand against the
common interest-be enemies of the people, even if these
18 PART ONE
people were a race of devils. And in politics, as distinguished
from morals, everything depends on ''public conduct."
Hence, it might appear that this passage could have been
written only after the Critique of Practical Reason. But this is an
error. For this, too, is a leftover thought from the precritical
period; only now it is formulated in terms of Kant's moral philosophy.
In the Observations on the Feeling of the Beautiful and
Sublime we read:
Among men there are but few who behave according to
principles-which is extremely good, as it can so easily happen
that one errs in these principles.. . . Those who act out of
goo.dhearted impulses are far more numerous [ than those a~ting
on the basis of principles] .... [However,] those other instmcts
that so regularly control the animal world ... perform the
great purpose of nature just as well.... [And] most
men ... have their best-loved selves fixed before their eyes as
the only point of reference for their exertions, and ... seek to
turn everything around self-interest as around the great axis.
Nothing can be more advantageous than this, for these are
the most diligent, orderly, and prudent; they give support
and solidity to the whole, while without intending to do so
they serve the common good. 39
Here it even sounds as though "a race of devils" is necessary to
"provide the necessary requirements and supply the foundations
over which finer souls can spread beauty and harmony."4o
We have here the Kantian version of the theory of enlightened
self-interest. This theory has very important shortcomings. But
the main points in Kant's position, as far as political philosophy
is concerned, are the following. First, it is clear that this scheme
can work only if one assumes a "great purpose of nature" working
behind the backs of acting men. Otherwise, the race of devils
would destroy themselves (in Kant, evil is generally selfdestructive).
Nature wants the preservation of the species, and
all it demands of its children is that they be self-preserving and
have brains. Second, there is the conviction that no moral conversion
of man, no revolution in his mentality, is needed, required,
or hoped for in order to bring about political change for the
better. And third, there is the stress on constitutions, on the one
hand, and on publicity, on the other. "Publicity" is one of the key
concepts of Kant's political thinking; in this context, it indicates
his conviction that evil thoughts are secret by definition. Thus we
read, in one of his late works, The Strife of the Faculties:
Kant Lectures 19
Why has a ruler never dared openly to declare that he
recognizes absolutely no right of the people opposed to
him ... ? The reason is that such a public declaration would
rouse all of his subjects against him; although, as docile sheep,
led by a benevolent and sensible master, well-fed and powerfully
protected, they would have nothing wanting in their
welfare for which to lament. 41
Against all of the justifications I have offered for choosing to
discuss a Kantian topic that, literally speaking, is nonexistent-
i.e., his nonwritten political philosophy-there exists one
objection that we shall never be able to overcome altogether.
Kant repeatedly formulated what he held to be the three
central questions that make men philosophize and to which
his own philosophy tried to give an answer, and none of
these questions concerns man as a zoon politikon, a political being.
Of these questiong-:What can I know? What ought I to do?
What may I hope?-two deal with the traditional topics of
metaphysics, God and immortality. It would be a serious error to
believe that the second question-What ought I to do?-and its
correlate, the idea of freedom, could in any way be relied on to
help us in our inquiry. (On the contrary, we shall see that the
way Kant phrased the question and answered it will be in our
way-and probably was in Kant's own way, too, when he tried to
reconcile his political insights with his moral philosophy-when
we try to suggest what Kant's political philosophy would have
been like had he found the time and the strength to express it
adequately~) The second question does not deal with action at all,
. and Kant nowhere takes action into account. He spelled out
man's basic "sociability" and enumerated as elements of it communicability,
the need of men to communicate, and publicity,
the public freedom not just to think but to publish-the "freedom
of the pen"; but he does not know either a faculty or a need
for action. Thus in Kant the question What ought I to do? concerns
the conduct of the self in its independence of others-the
same self that wants to know what is knowable for human beings
and what remains unknowable but is still thinkable, the same self
that wants to know what it may reasonably hope for in matters of
immortality. The three questions are interconnected in a basically
very simple, almost primitive, way. The answer to the first
question, given in the Critique of Pure Reason, tells me what I can
and-what is more important in the last analysis-what I cannot
20 PART ONE
know. Metaphysical questions in Kant deal precisely with what I
cannot know. Still, I cannot help thinking about what I cannot
know, because it concerns what I am most interested in: the
existence of God; freedom, without which life would be undignified
for man, would be "beastly"; and the immortality of
the soul. In Kant's terminology, these are practical questions,
and it is practical reason that tells me how to think about them.
Even religion exists for men as rational beings "within the limits
of Reason alone." My main interest, what I wish to hope for, is
felicity in a future life; and for this I may hope, if I am worthy of
it-that is, if I conduct myself in the right manner. In one of his
lecture courses and also in his reflections, Kant adds a fourth
question to the three, which is meant to sum them up. This is the
question What is Man? But this last question does not appear in
the Critiques.
Moreover, since the question How do I judge?-the question
of the third Critique-is also absent, none of the basically philosophical
questions even so much as mentions the condition of
human plurality-except, of course, for what is implicit in the
second question: that without other men there would be not
much point in conducting myself. But Kant's insistence on the
duties toward myself, his insistence that moral duties ought to be
free of all inclination and that the moral law should be valid not
only for men on this planet but for all intelligible beings in the
universe, restricts this condition of plurality to a minimum. The
notion underlying all three questions is self-interest, not interest
in the world; and while Kant wholeheartedly agreed with the old
Roman adage, Omnes homines beati esse volunt (All men desire
happiness), he felt that he would not be able to stand happiness
unless he was also convinced that he was worthy of it. In other
words-and these are words repeated many times by Kant,
though usually as asides-the greatest misfortune that can befall
a man is self-contempt. "The loss of self-approval [Selbstbilligung],"
he writes in a letter to Mendelssohn (April 8, 1766),
"would be the greatest evil that could ever happen to me," not
loss of the esteem in which he was held by any other person.
(Think of Socrates' statement "It would be better for me to be at
odds with the multitudes than, being one, out of harmony with
myself.") Hence, the highest goal of the individual in this life is
worthiness of a felicity that is unattainable on this earth. Compared
to this ultimate concern, all other goals and aims that men
may pursue in this life-including, of course, the in any case
Kant Lectures 21
dubious progress of the species, which nature works out behind
our backs-are marginal affairs.
At this point, however, we are bound to mention at least the
curiously difficult problem of the relationship between politics
and philosophy or; rather, the attitude philosophers are likely to
have toward the whole political realm. To be sure, other philos-
. ophers did what Kant did not do: they wrote political
philosophies; but this does not mean that they therefore had a
higher opinion of it or that political concerns were more central
to their philosophy. The examples are too numerous even to
begin to quote. But Plato clearly wrote the Republic to justify the
notion that philosophers· should become kings, not because they
would enjoy politics, but because, first, this would mean that they
would not be ruled by people worse than they were themselves
and, second, it would bring about in the commonwealth that complete
quiet, that absolute peace, that certainly constitutes the best
condition for the life of the philosopher. Aristotle did not follow
Plato, but even he held that the bios politikos in the last analysis
was there for the sake of the bios theoretikos; and, as far as the
philosopher himself was concerned, he said explicitly, even in
the Politics, that only philosophy permits men di' hautlin chairein,
to enjoy themselves independently, without the help or presence
of others,42 whereby it was self-understood that such independence,
or rather self-sufficiency, was among the greatest goods.
(To be sure, according to Aristotle, only an active life can assure
happiness; but such "action" "need not be ... a life which involves
relations to others" if it consists in "thoughts and trains of
reflections" that are independent and complete in themselves.)43
Spinoza said in the very title of one of his political treatises that
his ultimate aim in it was not political but the libertas
philosophandi; and even Hobbes, who certainly was closer to
political concerns than any other author of a political philosophy
(and neither Machiavelli nor Bodin nor Montesquieu can be said
to have been concerned with philosophy), wrote his Leviathan in
order to ward off the dangers of politics and to assure as much
peace and tranquillity as was humanly possible. All of them, with
the possible exception of Hobbes, would have agreed with Plato:
Do not take this whole realm of human affairs too seriously. And
Pascal's words on these matters, written in the vein of French
moralists, hence irreverent, fresh in both meanings of the word,
and sarcastic, may have exaggerated the matter a bit but did not
miss the mark:
22 PART ONE
We can only think of Plato and Aristotle in grand academic
robes. They were honest men, like othc:rs, laughing with their
friends, and when they wanted to divert themselves, they
wrote the Laws or the Politics, to amuse themselves. That part
of their life was the least philosophic and the least serious.
The most philosophic [thing] was to live simply and quietly. If
they wrote on politics, it was as if laying down rules fo~ a
lunatic asylum; if they presented the appearance of speakmg
of great matters, it was because they knew that the madmen,
to whom they spoke, thought they were kings and emperors.
They entered into their principles in order to make their
madness as little harmful as possible.44 .
Fourth Session
I READ TO YOU a "thought" of Pascal in order to draw your attention
to the relation between philosophy and politics or, rather, to
the attitude nearly all philosophers have had toward the realm
of human affairs (ta tlin anthrDpon pragmata). Robert Cumming
recently wrote: "The subject-matter of modern political philosophy
... is not the polis or its politics, but the relation between
philosophy and politics."45 This remark actually applies to all
political philosophy and, most of all, to its beginnings in Athens;
If we ~onsider Kant's relation to politics from thi~ general
perspective-that is, not attributing to him alone what is a general
characteristic, a deformation proJessionnelle.,.-we shall find
certain agreements and certain very important divergences. The
main and most striking agreement is in the attitude toward life
and death. You will remember that Plato said that only his body
still inhabited the City and, in the Phaedo, aJ.so explained how
right ordinary people are when they say that a philosopher's life
is like dying.46 Death, being the separation of body and soul, is
welcome to him; he is somehow in love with death, because the
body, with all its demands, constantly interrupts the soul's pursuits.
47 In other words, the true philosopher does not accept the
conditions under which life has been given to man. This is not
just a whim of Plato, and not just his hostility to the body. It is
implicit in Parmenides' trip to the heavens to escape "the opinions
of mortals" and the delusions of sense experience, and it is
implicit in Heraclitus' withdrawal from his fellow citizens and in
those who, asked about their true home, pointed toward the
skies; that is, it ill implicit in the beginnings of philosophy in
Kant Lectures 23
Ionia. And if, with the Romans, we understand being alive as
synonymous with inter homines esse (and sinere inter homines esse as
being dead), then we have the first important clue to the sectarian
tendencies in philosophy since the time of Pythagoras:
withdrawal into a sect is the second-best cure for being alive at all
and having to live among men. Most surprisingly, we find a
similar position in Socrates, who, after all, brought philosophy
down from the heavens to earth; in the Apology, likening death to
a dreamless sleep, he states that even the great king of Persia
would find it difficult to· remember many days or nights he had
spent better or more pleasantly than a single night in which his
sleep was undisturbed by' dreams.48
To estimate these testimonies of Greek philosophers involves
a difficulty. They must be seen against the general Greek pessimism
that survives in Sophocles' famous line.s: "Not to be born
prevails ~ver all meaning uttered in words; by far the secondbest
thing is for life, once it has appeared, to go back as quickly
as possible whence it came" (jIA.e phunai ton hapanta nika logon,· to
d', epei phane, benai keis' hopothen per hekei polu deuteron has tachista
[Oedipus at Colonus, 1224--26]). This feeling about life disappeared
with the Greeks; what did not disappear but, on the
contrary, had the greatest possible influence on the later tradition,
was the estimate' of what philosophy was all about.,.-no
matter whether the authors still spoke out of a specifically
Greek experience or out of the specific experience of the
philosopher. There is hardly any book that had greater influence
than Plato's Phaedo. The common Roman and lateantiquity
notion that philosophy teaches men first of all how
to die is its vulgarized version. (This is un-Greek: in Rome, philosophy,
imported from Greece, was a concern of the old; in
Greece, on the contrary, it was for the young.) The point for us
here is that this preference for death became a general topic of
philosophers after Plato. When (in the third century) Zeno, the
founder of Stoicism, asked the Delphic Oracle what he should
do to attain the best life, the Oracle answered, "Take on the
color of the dead." This, as usual, was ambiguous; it could mean,
"Live as though you were dead" or, as Zeno himself allegedly
interpreted it, "Study the ancients." (Since the anecdote comes to
us from Diogenes Laertius [Lives oj the Philosophers 7. 21], who
lived in the third century A.D., both the words of .the Delphic
Oracle and Zeno's interpretation are uncertain.)
This outspoken suspicion of life could not survive in all its
24 PART ONE
recklessness in the Christian era, for reasons that do not concern
us here; you will find it in a characteristic transformation in the
theodicies of the modern age, that is, in the justifications of God,
behind which there lurks, of course, the suspicion that life as we
know it stands in great need of being justified. That this suspicion
of life implies a degradation of the whole realm of human
affairs, "its melancholy haphazardness" (Kant), is obvious. And
the point here is not that life on earth is not immortal but that it
is, as the Greeks would say, not "easy," like the life of the gods,
but troublesome, full of worries, cares, griefs, and sorrows, and
that the pains and displeasures always outweigh the pleasures
and gratifications.
Against this background of general pessimism, it is of some
importance to understand that the philosophers did no"t complain
about life's mortality or its shortness. Kant even mentions
this explicitly: a "greater length would merely prolong a game of
unceasing war with troubles."49 Nor would the species profit if
"men could look forward to a life of eight hundred or more
years"; for its vices, "endowed with so long a life, would reach a
degree where it would deserve no better fate than to be wiped
from the face of the earth." This, of course, is in contradiction to
the hope for progress in the species, which is constantly being
interrupted through the dying of the old members and the birth
of new ones, who must spend a very long time learning what the
old ones knew already and could have developed further had
they been granted a longer lifespan.
Hence, it is life itself whose value is at stake, and in this respect
there is hardly any postclassical philosopher who agreed with the
Greek philosophers on this point to the same extent as Kant did
(albeit without knowing it).
The value of life for us, if it is estimated by that which we enjoy
[that is, by happiness], is easy to decide. It sinks below zero;
for who would be willing to enter upon life anew under the
same conditions? Who would do so even according to a new,
self-chosen plan (yet in conformity with the course of nature),
if it were merely directed to enjoyment?50
Or, with respect to theodicies:
[If the justification of divine goodness consists] in showing
that in the destinies of men evils do not outweigh the pleasant
enjoyment of life, since everybody, no matter how badly 9ff
he is, prefers life to death, ... one can leave an answer to this
Kant Lectures 25
sophistry to the good sense of each man who has lived long
enough and reflected on the value of life; you have only to ask
him whether he would be willing to play the game oflife once
more, not under the same conditions, but under any conditions
of our earthly world and not. those of some fairyland.
51
In the same essay, Kant calls life a "time of probation" ~n
which even the best man "will fret his life away" (seines Lebens nicht
froh wird) , and he speaks in the Anthropology of the "bur~en
which seems to lie on life as such."52 And, should you thmk
that-because the stress is on enjoyment, pleasure and pain, and
happiness--this is a small matter for Kant, as a person as well as
a philosopher, he once wrote in the numerous reflections he left
behind (which have been published only in this century) that
only pleasure and displeasure (Lust and Unlust) "constitute the
absolute, because they are life itself."53 But you can also read in
the Critique oj Pure Reason that reason "finds itself constrained to
assume" a future life in which "worthiness and happiness" are
properly connected; "otherwise it .would have to regard the
moral laws as empty figments of the brain [leere Himgespinste]."54
If the answer to the question What may I hope? is Life in a
future world, the stress is less on immortality than on a better
kind of life.
We now look first into Kant's own philosophy to find out with
what thoughts he might have been able to overcome this deeprooted
melancholy disposition. For that this was his own case is
beyond doubt, and he himself knew it well. The following description
of "the man of melancholy frame of mind" is certainly
a self-portrait. This man
cares little for what others judge, what they consider good or
true [Selbstdenken] ... Truthfulness is su?lime, and ?-e ~ates
lies or dissimulation. He has a high feeling of the dlgmty. of
human nature. He values himself and regards a human bemg
as a creature who merits respect. He suffers no depraved
submissiveness, and breathes freedom in a noble breas~. All
chains, from the gilded ones worn at court ~o the ?-e~vy lrons
of galley slaves, are abominable to hi~. He IS a st~ct Judge of
himself and others, and not seldom IS weary of himself as of
the world. . .. He is in danger of becoming a visionary or a
crank.55
In our inquiry, we should not forget, however, tha~ Kant shared
his general estimate of life with philosophers With whom he
26 PART ONE
shared neither doctrines nor this specific melancholy.
Two specifically Kantian thoughts come to mind. The first
thought is contained in what the Age of Enlightenment called
progress, about which we have already spoken. Progress is the
progress of the species and is thus of litde avail to the individual.
But the thought of progress in history as a whole, and for mankind,
as a whole, implies disregard of the particular and directing
one's attention, rather, to the "universal" (as one finds it in the
very tide of the "Idea of a Universal [General] History") in whose
context the particular makes sense-to the whole for the existence
of which the particular is necessary. This escape, as it were,
from the particular, which is in itself meaningless, to the universal,
from which it derives its meaning~ is of course not peculiar to
Kant. The greatest thinker in this respect is Spinoza, with his
acquiescence in everything that is-his amor fati. But in Kant,
also, you will find repeatedly the- notion- of how necessary war,
catastrophes, and plain evil or pain are for the production of
"culture." Without them, men would sink back into the brute
state of mere animal satisfaction.
The second thought is Kant's notion of the moral dignity of
man as an individual. I mentioned earlier the Kantian question -
Why do men exist at all? This question, according to Kant, can
be asked only if one considers the human species as though it
were on the same level (and in a certain sense it is on the same
level) as other animal species. "Of man (and so of every rational
creature in the world [i.e., in the universe, not just on earth]) as a
moral being it can no longer be asked why (quem infinem,) [to what
end] he exists,"56 for he is an end in himself.
We now have three very different concepts of, or perspectives
under which we can consider, the affairs of men: we have the
human species and its progress; we have man as a moral being
and an end in himself; and we have men in the plural, who
actually are in the center of our considerations and whose true
"end" is, as I mentioned before, sociability. The distinctions
among these three perspectives are a necessary precondition for
an understanding of Kant. Whenever he speaks of man, one
must know whether he is speaking of the human species; or of
the moral being, the rational creature that may also exist in
other parts of the universe; or of men as actual inhabitants of the
earth.
To summarize: Human species = Mankind = part of nature =
subject to "history," nature's ruse = to be considered under the
Kant Lectures 27
idea of "end," teleological judgment: second part of Critique oj
Judgment.
Man = reasonable being, subject to the laws of practical reason
which he gives to himself, autonomous, an end in himself, belonging
to a Geisterreich, realm of intelligible beings = Critique oj
Practical Reason and Critique oj Pure Reason.
Men = earthbound creatures, living in communities, endowed
with common sense, sensus communis, a community sense; not
autonomous, needing each other's company even for thinking
("freedom of the pen") = first part of the Critique oj Judgment:
aesthetic judgment.
Fifth Session
I SAID THAT I would point out how Kant's attitude as a philosopher
toward the realm of human affairs coincides with and diverges
from the attitudes of other philosophers, especially Plato.
For the moment we shall restrict ourselves to this main point: the
attitude of philosophers toward life itself as it is given to men on
earth. If you think back to the Phaedo and to the motivation
given there for the philosopher's being somehow in love with
death, you will recall that, though Plato despises the pleasures of
the body, he does not complain that the displeasures outweigh
the pleasures. The point is rather that pleasures, like displeasures,
distract the mind and lead it astray, that the body is a
burden if you are after truth, which, being immaterial and beyond
sense perception, can be perceived only by the eyes of the
soul, which also is immaterial and beyond sense perception. In
other words, true cognition is possible only to a mind untroubled
by the senses.
This, of course, cannot be Kant's position, for his theoretical
philosophy holds that all cognition depends on the interplay and
cooperation of sensibility and intellect, and his Critique oj Pure
Reason has righdy been called a justification, if not a glorification,
of human sensibility. Even in his youth-when, still under the
impact of tradition, he expressed a certain Platonic hostility to
the body (he complained that it interfered with the swiftness of
thought [Humgkeit des Gedankens], thus limiting and hindering
the mind)57-he did not claim that the body and the senses were
the chief source of error and evil.
Practically speaking, this has two important consequences.
28 PART ONE
First, for Kant, the philosopher clarifies the experiences we all
have; he does not claim that the philosopher can leave the
Platonic Cave or join in Parmenides' journey to the heavens, nor
does he think that he should become a member of a sect. For
Kant, the philosopher remains a man like you and me, living
among his fellow men, not among his fellow philosophers. Second,
the task of evaluating life with respect to pleasure and
displeasure-which Plato and the others claimed for the philosopher
alone, holding that the many are quite satisfied with life as
it is-Kant claims can be expected from every ordinary man of
good sense who ever reflected on life at all.
These two consequences, in turn, are obviously but two sides
of the same coin, and the name of the coin is Equality. Let us
consider three famous passages from Kant's works. The first two
are from the Critique of Pure Reason, answering some objections:
Do you really require that a kind of knowledge which concerns
all men should transcend the common understanding,
and should only be revealed to you by philosophers? ... [In]
matters which concern all men without distinction nature is
not guilty of any partial distribution of her gifts, and ... in
regard to the essential ends of human nature the highest
philosophy cannot advance further than is possible under the
guidance which nature has bestowed even upon the most ordinary
understanding. 58
Together with this, consider the very last paragraph of the
Critique:
If the reader has had the courtesy and patience to accompany
me along this path, he may now judge for himself whether, if
he cares to lend his aid in making this path into a high-road, it
may not be possible to achieve before the end of the present
century what many centuries have not been able to accomplish;
namely, to secure for human reason complete satisfaction
in regard to that with which it has all along so eagerly
occupied itself, though hitherto in vain.59
The third passage, much quoted, is autobiographical:
By jnclination I am an inquirer. I feel a consuming thirst for
knowledge, the unrest which goes with desire to pr0lP"ess in it,
and satisfaction in every advance in it. There was a ome when
I believed this constituted the honor of humanity, and I despised
[the] people, who know nothing. Rousseau has put me
right [hat mich zurecht gebracht]. This blinding prejudice dis-
Kant Lectures 29
appeared, and I learned to honor man. I would find myself
more useless than the common laborer if I did not believe that
[what I am doing] can give worth to all others in establishing
the rights of mankind. 60
Philosophizing, or the thinking of reason, which transcends the
limitations of what can be knowl4 the boundaries of human
cognition, is for Kant a general human "need," the need of
reason as a human faculty. It does not oppose the few to the
many. (If there is a distinctive line between the few and the many
in Kant it is much rather a question of morality: the "foul spot"
in the human species is lying, interpreted as a kind of selfdeception.
The "few" are those who are honest with themselves.)
With the disappearance of this age-old distinction, however,
something curious happens. The philosopher's preoccupation
with politics disappears; he no longer has any special interest in
politics; there is no self-interest and hence no claim to either
power or to a constitution that would protect the philosopher
against the many. He agrees with Aristotle, against Plato, that
the philosophers should not rule but that rulers should be willing
to listen to the philosophers.61 But he disagrees with Aristotle's
view that the philosophical way of life is the highest and that
the political way of life, in the last analysis, exists for the sake of
the bios theOretikos. With the abandonment of this hierarchy,
. which is the abandonment of all hierarchical structures, the old
tension between politics and philosophy disappears altogether.
The result is that politics, and the necessity to write a political
philosophy to lay down the rules for an "insane asylum," ceases
to be an urgent business for the philosopher. It is, in the words
of Eric Weil, no longer "une preoccupation pour les philosophes; elle
devient, ensemble avec l'histoire, un probleme philosophique" [it is no
longer merely "a source of anxiety for the philosophers; it becomes,
together with history, a genuine philosophical problem"].
62
Moreover, when Kant speaks of the burden that seems to lie
on life itself, he alludes to the curious nature of pleasure, which
Plato, in a different context talks about too; namely, the fact that
all pleasure dispels a displeasure, that a life that contained only
pleasures would actually lack all pleasure-for man would be
unable to feel it or enjoy it-and that, therefore, an entirely pure
delight, untroubled by either the remembrance of the want that
preceded it or the fear of the loss that will certainly succeed it,
does not exist. Happiness as a solid, stable state of soul and body
30 PART ONE
is unthinkable for men on earth. The greater the want and the
greater the displeasure, .the mor~ intense will be. the pleasure.
There is only one excepuon to thIS rule, and that IS the pleasure
we feel when confronted with beauty. This pleasure Kant calls
"disinterested delight [uninteressiertes Wohlgefallen]," choosing a
different word for it on purpose. We shall later see what an
important role this notion plays in that political philosophy that
Kant never wrote. He himself alludes to it when, in one of the
posthumously published reflections, he writes: "The fact th~t
man is affected by the sheer beauty of nature proves that he IS
made for and fits into this world [Die schonen Dinge zeigen an,
dass der Mensch in die Welt passe und selbst seine Anschauung
der Dinge mit den Gesetzen seiner Anschauung stimme]."63
Let us suppose for a moment that Kant had written a theodicy,
a justification of the Creator before the Tribunal of Reaso~: ~ e
know that he did not; rather, he wrote an essay about the failure
of all philosophical attempts in theodicies," and he prove~ in
the Critique of Pure Reason the impossibility of all demonstrauons
of God's existence (he took Job's position: God's ways are inscrutable).
Still, had he written a theodicy, the fact of beauty·of
things in the world would have played· an important part in
it-as important as the famous "moral law within me," that is,
the fact of human dignity. (Theodicies rely on the argument
that, if you look at the whole, you will see that the particula~,
about which you complain, is part and parcel of it and, as such, IS
justified in its existence. In an early essay [1759] on optimism, 64
Kant took a similar position: "The whole is the best, and everything
is good for the sake of the whole." I doubt that he would
later have been able to write, as he did there: "I call out to each
creature ... : Hail us, we are! [Heil uns, wir sind!]." But the
praise is praise of the "whole," i.e., of the world; in his youth
Kant was still willing to pay the price of life for being in the
world at all.) This is also the reason why he attacked with such
unusual vehemence the "obscurantist sages" who, in "partly
nauseous allegories," presented "our world [the. earth], the
domicile of mankind, completely contemptuously," as
an inn . .. where every man putting up there along his journey
through life must be prepared to be soon supplanted by a
successor; as a penitentiary ... for the chastisement and
purification of fallen spirits expelled from heaven ... ; as a
lunatic asylum . .. ; as a cloaca to which all refuse from other
Kant Lectures 31
worlds has been conjured ... [a kind of] privy for the whole
universe. 65
So let us retain for the moment the following ideas. The
world is beautiful and therefore a fit place for men to live in, but
individual men would never choose to live again. Man as a moral
being is an end in himself, but the hu~an spe~i~s is subject to
progress, which, of course, is someho~ m .0PPosluon to man as a
moral and rational creature, an end m hImself.
If I am right that there exists a political philosophy in .Kant b~t
that, in contrast to other philosophers, he n~v~r wrote It, th~n It
seems obvious that we should be able to find It, If we can find It at
all, in his whole work and not just in the few essays that are
usually collected under this rubric. If his main wo~ks, on the one
hand, contain no political implications at all, and If: ~:m the o~er
hand, the peripheral writings dealing with pohucal s.ubJec~s
contain merely peripheral thoughts, unconnected WIth hIS
strictly philosophical works, then our inquiry ~ould be pointl~s~,
at best of antiquarian interest. It would be agamst the very spmt
of Kant to concern ourselves with them, for the passlOn for
erudition remained alien to him. He did not intend, as he noted
in his reflections, "to make his head into a piece of parchment to
scribble down on it old half-effaced bits of information from
archives [Ich werde ja meinen Kopf nicht zu einem Pergament
machen, um alte halb-erloschene Nachrichten aus Archiven
darauf nachzukritzeln]."66
Let us start with something that today will hardly surprise
anyone but that still is worth taking into consideration. No ~ne
before Kant or after him, except Sartre, wrote a famous phdosophical
book that he entitled Critique. We know both too little and
too much why Kant chose this surprising and some~?~t derogatory
title, as though he meant no more than to ~nu~lze. all
his predecessors. To be sure, he meant more than thIS WIth the
word, but the negative connotation was never altogether a?se~t
from his mind: "The whole philosophy of true reason IS dlrected
solely toward this negative benefit"67-namely, to make
reason "pure," to assure that no experience, no sensation, would
introduce itself into reason's thinking. The word may have been
suggested to him, as he hi~self pointed out, by the "age o.f
criticism," i.e., the Age of Enlightenment, and he remarks that It
is "that merely negative attitude which constitutes enlightenment
proper."68 Enlightenment means, in this context, liberation
from prejudices, from authorities, a purifying event.
32 PART ONE
Our age is, in especial degree, the age of criticism, and to such
criticism everything must submit. Religion ... and legislation
... may seek to exempt themselves from it. But they then
awaken just suspicion, and cannot claim the sincere respect
which reason accords only to that which has been able to
sustain the test of free and open examination,89
The result of such criticism is Selbstdenkeri, to "use your own
mind." Using his own mind, Kant discovered the "scandal of
reason," that is, that it is not just tradition and authority that lead
us astray but the faculty of reason itself. Hence, "critique" means
an attempt to discover reason's "sources and limits." Kant thus
believed that his critique was a mere "propaedeutic to the system,"
and "critique" is here placed in opposition to "doctrine."
Kant believed, it seems, that what .was wrong with traditional
metaphysics was not "doctrine" itself. Thus critique means "to
lay down the complete architectonic plan ... to guarantee ... the
completeness and certainty of the structure in all its parts."70 As
such, it will make it possible to evaluate all other philosophical
systems. This, again, is connected with the spirit of the
eighteenth century, with its enormous interest in aesthetics, in
art and art criticism, the goal of which was to lay down rules for
taste, to establish standards in the arts.
The word critique, finally and most importantly, stands in a
tWofold opposition to dogmatic metaphysics on the one hand, to
skepticism on the other. The answer to both was: Critical thinking.
Succumb to neither. As such, it is a new way of thinking and
not a mere preparation for a new doctrine. Hence, it is not as
though the seemingly negative business of critique could be followed
by the seemingly positive business of system-making. This
is what indeed took place, but, from a Kantian viewpoint, this
was but another dogmatism. (Kant never was quite clear and
unequivocal on this point; could he have seen to what exercises
in sheer speculation his Critique would liberate Fichte, Schelling,
and Hegel, he might have been a bit clearer.) Philosophy itself,
according to Kant, has become critical in the age of criticism and
Enlightenment-the time when man had come of age.
It would be a great error to believe that critical thinking stands
somewhere between dogmatism and skepticism. It is actually the
way to leave these alternatives behind. (In biographical terms: it
is Kant's way of overcoming both the old: metaphysical
schools-Wolff and Leibniz-and the new skepticism of Hume,
which had roused him from dogmatic slumber.) We all start out
Kant Lectures 33
as dogmatists in one way or the other; we are either dogmatic in
philosophy or we solve all problems by believing in the dogmas
of some church, in revelation. One's first reaction against this,
triggered off by the inescapable experience of many dogmas, all
of which claim to possess the truth, is skepticism: the conclusion
that there is no such a thing as truth, that therefore I may either
arbitrarily choose some dogmatic doctrine (arbitrarily with regard
to truth: my choice may be prompted simply by various
interests and be entirely pragmatic). Or I may simply shrug my
shoulders about so profitless a business. The real skeptic, the one
who states, "There is no truth," will immediately be answered by
the dogmatist: "But you imply, by stating this, that you do believe
in truth; you claim validity for your statement that there is no
truth." It seems that he has won the argument. But no more
than the argument. The skeptic can reply, "This is sheer sophistry.
You know very well what I mean even though I cannot utter
it in words without an apparent contradiction." Whereupon the
dogmatist will say, "See? Language itself is against you." And,
since the dogmatist is usually a rather aggressive fellow, he will
proceed and say, "Since you are intelligent enough to understand
the contradiction, I must conclude that you have an interest
in destroying truth; you are a nihilist." The critical position
stands against both of these. It recommends itself by its modesty.
It would say: "Perhaps men, though they have a notion, an idea,
of truth for regulating their mental processes, are not capable, as
finite beings, of the truth. (The Socratic: 'No man is wise.')
Meanwhile, they are quite able to inquire into such human
faculties as they have been given-we do not know by whom or
how, but we have to live with them. Let us analyze what we can
know and what we cannot." This is why his book is entitled the
Critique of pure reason.
Sixth Session
WE WERE DISCUSSING the term "critique," which Kant, according
to his own understanding, had taken from the Age of Enlightenment;
and if we went beyond Kant's self-interpretation in
our presentation, we still remained within Kant's spirit. As he
himself said, posterity often "understands an author better than
he understood himself."n We said that Kant, though the negative
spirit of criticism was never absent from his mind, meant, by
34 PART ONE
critique, not a criticism of "books and systems but of the faculty
of reason as such";72 we also said that he believed that he had
found the way out of the sterile choice between dogmatism and
skepticism, which usually is resolved in "complete
indifferentism-the mother, in all sciences, of chaos and
night."73 I told you, in the dialogue between the skeptic an~ the
dogmatist, of the skeptic who exclaims, when confronted WIth so
many truths (or rather with people, each of whom pretends to
have the truth, and with the fierce batde between them), "There
is no truth" and therewith speaks the charmed words that unite
all dogmatists. Into this batde the critic enters and interrupts the
shouting match: "Both of you, dogmatists and skeptics, seem to
have the same concept of truth, namely, 'something which by
definition excludes all other truths, so that all of them become
mutually exclusive. Perhaps," he says, "there is something wrong
with your concept of truth. Perhaps," he adds, "men, finite beings,
have a notion of truth but cannot have, possess, the truth.
Let us first analyze this faculty of ours which tells us that there is
truth." No doubt, the "Critique limits speculative reason, it is
indeed negative"; but to deny that, for this reason, "the service
which the Critique renders is positive in character would be like
saying that the police are of no positive benefit, inasmuch as
their main business is merely to prevent the violence of which
citizens stand in mutual fear, in order that each may pursue his
vocation in peace and security."74 When Kant was through with
his Critique, the analysis of our cognitive faculties, Mendelssohn
called him the Alles-Zermalmer, the "all-destroyer," namely, the
destroyer of any belief that I can know in so-called metaphysical
matters and that there can be such a "science" as metaphysics,
having the same validity as other sciences. .
But Kant himself did not see the clearly destructive side of his
enterprise. He did not understand that he had actually dismantled
. the whole machinery that had lasted, though often
under attack, for many centuries, deep into the modern age; He
thought, quite in tune with the spirit of the time, that the "loss
affects only the monopoly of the Schools, but by no means the
interest of men," who will finally be rid of the "subde but ineffectual
distinctions" that in any case have never "succeeded in
reaching the public mind [lias Publikum] or in exercising the
slightest influence on its convictions."75 (I am reading to you
from the two prefaces to the Critique oj Pure Reason, which are
addressed to what Kant calls elsewhere "the reading public.")
Kant Lectures 35
And the polemical point is again against "the arrogant pretensions
of the Schools," which claim to be the sole "possessors of
truths," truths that are not only "matters of general human concern"
but also "within the reach of the great mass of men--ever
to be held in the highest esteem by US/'76 SO much for the universities.
As far as governments are concerned, Kant adds that,
should they think it proper to interfere, it would be much wiser
"to support such critique ... than to support the ridiculous despotism
of the Schools, which raise a loud cry of public danger
when somebody destoys their cobwebs, to which the public has
never paid any attention and the loss of which it therefore can
never feel."77
I have read to you more than I originally intended, pardy to
give you an inkling of the atmosphere in which these books were
written, and pardy because the consequences--though they did
not result in an armed uprising-were, after all, a bit more serious
than Kant himself foresaw. As for the atmosphere: the
mentality of the Enlightenment, on the highest level, did not last
for long, and it may best be illustrated by contrasting it with the
attitude of the next generation, well represented by the young
Hegel: .
Philosophy by its very nature is something esoteric which is
not made for the mob nor is it capable of being prepared for
the mob; philosophy is philosophy only to the extent that it is
the very opposite of the intellect and even more the opposite
of common sense, by which we understand the local and temporary
limitations of generations; in its relation to this common
sense, the world of philosophy as such is a world turned upside
down. 78 .
For
the beginning of philosophy must be a lifting oneself up
above that kind of truth given by common consciousness, the
premonition of a higher truth. 79
If we are thinking in terms of progress, this certainly is a "relapse"
into what philosophy had been since its beginning, and.
Hegel repeats the story Plato told about Thales, with a great
show of indignation at the laughing Thracian peasant girl. Kant
is not free of responsibility for the fact that his critical philosophy
was almost immediately understood as another "system"
and was then attacked as such by the next generation, when the
spirit of the Enlightenment, which had inspired it, was lost.
36 PART ONE
Still, when this "relapse" had run its course with the systems of
German idealism, the generation of Kant's sons, the generation
of what could have been his grandsons and great-grandsonsfrom
Marx to Nietzsche-decided, seemingly under the influence
of Hegel, to leave philosophy altogether. If you think in
terms of the history of ideas, you could say that the consequences
of the Critique of Reason could have been either the
establishment of critical thinking or the "insight" that reason and
philosophical thinking are good for nothing and that "critique"
means the destruction, in thought, of whatever it seizes upon, as
against Kant's notion of "critique" as limitation and purification.
There exists another book that uses the word critique in its
tide, and one I had forgotten to mentiori. Marx's Capital was
originally called The Critique ojPoliticalEconomy, and Marx's Preface
to its second edition mentions the dialectical method as
being at the same time "critical and revolutionary." Marx knew
what he was doing. He had called Kant, as many did after him
and as Hegel had done before him, "the philosopher of the French
Revolution." For Marx, but not for Kant, what joined theory to
practice was critique; it related them and, as the saying goes,
mediated between them. It was the example of the French Revolution,
an event that had been preceded by the Age of Criticism
and Enlightenment, that suggested that the theoretical dismantling
of the ancien regime had been followed by· the practice of destroying
it. This, the example seemed to say, is how "the idea seizes
the masses." The point here is not whether this is true-whether
this is the way revolutions come about; the point is rather that
Marx thought in these terms because he saw Kant's huge enterprise
as the greatest work of the Enlightenment and believed with
Kant that enlightenment and revolution belong together. (For
Kant "the middle term" that links and provides a transition from
theory to practice is judgment; he had in mind the practitionerfor
example, the doctor or lawyer, who first learns theory and
then practices medicine or law, and whose practice consists in
applying the rules he has learned to particular cases.)80
To think critically, to blaze the trail of thought through
prejudices, through unexamined opinions and beliefs, is an old
concern of philosophy, which we may date, insofar as it is a
conscious enterprise, to the Socratic midwifery in Athens. Kant
was not unaware of this connection. He said explicidy that he
wished to proceed "in Socratic fashion" and to silence all objectors
"by the clearest proof of [their] ignorance."81 Unlike Soc-
Kant Lectures 37
rates, he believed in a "future system of metaphysics," 82 but what
he finally bequeathed to posterity were critiques and no system.
Socrates' method consisted in emptying his partners of all unfounded
beliefs and "windeggs"-the mere phantasies that filled
their minds. 83 According to Plato, he did this by the art of krinein,
of sorting out and separating and distinguishing (techne
diakritike, the art of discrimination). 84 According to Plato (but not
according to Socrates), the result is "the purification of the soul
from conceits that stand in the way of knowledge"; according to
Socrates, no knowledge follows the examination, and none of his
partners was ever delivered of a child that was no windegg.
Socrates taught nothing; he never knew'the answers to the questions
he asked. He did the examining for examining's sake, not
for the sake of knowledge. Had he known what courage,justice,
piety, etc., were, he would no longer have had the urge to
examine them, i.e., to think about them. Socrates' uniqueness
lies in this concentration on thinking itself, regardless of results.
There is no ulterior motive or ulterior purpose for the whole
enterprise. An unexamined life is not worth living. That is all
there is to it. What he actually did was to make public, in discourse,
the thinking process-that dialogue that soundlessly goes on
within me, between me and myself; he peiformed in the marketplace
the way the flute-player performed at a banquet. It is
sheer performance, sheer ,activity. And just as the flute-player
has to follow certain rules in order to perform well, Socrates
discovered the only rule that holds sway over thinking-the rule
of consistency (as Kant was to call it in the Critique of Judgment)85
or, as it was later called, the axiom of noncontradiction. ~his
axiom, which for Socrates was "logical" (Do not talk or think
non-sense) as well as "ethical" (It is better to be at odds with
multitudes than, being one, to be at odds with yourself, riamely, to
contradict yourself),86 became with Aristode the first principle of
thinking, but of thinking only. However, with Kant, whose
whole moral teaching actually rests on it, it became again part of
ethics; because ethics in Kant is also based on a thought process:
Act so that the maxim of your action can be willed by you to
become a general law , that is, a law to which you yourself wo~ld
be subject. It is, again, the same general rule-Do not contradict
yourself (not your self but your thinking ego }-that determines
both thinking and acting. ' ,
The Socratic fashion was of importance to Kant for another
reason. Socrates was a member of no sect, and he founded no
38 PART ONE
school. He became the figure of the philosopher because he took
on all comers in the marketplace-was entirely unprotected,
open to all questioners, to all demands to give an account of and
to live up to what he said. The schools and sects are unenlightened
(in Kantian parlance) because they depend on the
doctrines of their founders. Ever since Plato's Academy, they
have stood in opposition to "public opinion," to society at large,
to the "they"; but that does not mean that they rely on no authority.
The model is always the school of the Pyth~goreans,
whose conflicts could be solved by appeal to the authOrity of the
founder: to the autos epha, the ipse dixit, the "he himself said so."
In other words, the unthinking dogmatism of the many is countered
by the select but equally unthinking dogmatism of the few.
If we now consider once more the relation of philosophy to
politics, it is clear that the art of critical thinking alwa~s has
political implications. And it had the gravest consequences m the
case of Socrates. Unlike dogmatic thought, which indeed may
spread new and "dangerous" beliefs but does so behind the
protective walls of a school that takes care of the arcana, the
secret, esoteric doctrine, and, again, unlike speculative thought,
which rarely bothers anyone, critical thought is in principle antiauthoritarian.
And, as far as the authorities are concerned, the
worst thing is that you cannot catch it, cannot seize it. The accusation
in the trial of. Socrates-that he introduced new gods
into the polis-was a trumped-up charge; Socrates taught nothing,
least of all new gods. But the other charge, that he corrupted
the young, was not without grounds. The trouble with
men of critical thought is that they "make the pillars of the
best-known truths shake wherever they let their eyes fall" (Lessing).
This certainly was Kant's case. Kant was the all-destroyer
though he never entered the marketplace and though the Critique
of Pure Reason, one of the most difficult, though certainly.
not obscure, books in philosophy, is not likely ever to become
popular, even among Kant's beloved "reading public." The
point, however, is that Kant, in distinction from almost all other
philosophers, regretted this deeply and never gave up hope that
it would be possible to p<?pularize his thought, that the "narrow
footpath for the few would become a high-road [for all]."87 In a
curiously apologetic tone, he writes to Mendelssohn on August 16,
1783, two years after publication of the Critique of Pure Reason:
[Though the Critique is] the outcome of reflections which had
occupied me for a period of at least twelve years, I brought it
Kant Lectures 39
to completion in the greatest haste within some four or five
months ... with litde thought of ... rendering it easy of comprehension
by the reader, ... since otherwise, had I ... sought
to give it a more popular form, the work would probably
never have been completed at all. This defect can, however, be
gradually removed, now that the work exists in a rough
form. 88
Critical thinking, according to Kant and according to Socrates,
exposes itself to "the test of free and <:>~en e~a~ination," and
this means that the more people partlclpate m It, the better.
Hence, in 1781, immediately after publication of the Critique of
Pure Reason, Kant "devised a plan for popularizing" it. "F~r," he
wrote in 1783, "every philosophical work must be susceptible of
popularity; if not, it probably conceals nonsense b~ne~th a fog of
seeming sophistication."89 What Kant hoped for m hIS hope for
popularization-so strange in a philosopher, a tribe t?at usual~y
has such strong sectarian tendencies-was that the clrcl~ of hIS
examiners would gradually be enlarged. The Age of Enlightenment
is the age of "the public use of one's reason"; hence, the
most important political freedom for Kant was not, as for
Spinoza, the libertas philosophandi but the freedom to speak and
to publish. .
The word "freedom" has many meanings in Kant, as we shall
see; but political freedom is defined quite unequivocally and
consistendy throughout his work as "to make public use of one's
reason at every point. "90 And, "by the public use of. one's reason I
understand the use which a person makes of It as a scholar
before the reading public." There are restrictions on this use,
indicated by the words "as a scholar"; the scholar is not the same
as the citizen; he is a member of a very different kind of co~munity,
namely, "a society of world citizen~,"and it is. in t~IS
capacity that he addresses the public. (Kant s example. IS qll1te
clear: an officer in service has no right to refuse to obey. "But the
right to make remarks on errors in the military servi.ce and to lay
them before the public for judgment cannot eqll1tably be refused
him as a scholar," that is, as a world citizen.)91
Freedom of speech and thought, as we understand it, is the
right of an individual to express himself and his opinion in order
to be able to persuade others to share his viewpoint. This presupposes
that I am capable of making up my ~ind all b~ myself
and that the claim I have on the government IS to permit me to
propagandize whatever I have already fixed in my mind. Kant's
40 PART ONE
view of this matter is very different. He believes that the very
faculty of thinking depends on its public use; without "the test of
free and open examination," no thinking and no opinionformation
are possible. Reason is not made "to isolate itself but
to get into community with others."92
Kant's position on this matter is quite noteworthy because it is
not the position of the political man but of the philosopher or
thinker. Thinking, as Kant agreed with Plato, is the silent dialogue
of myself with myself (das Reden mit sick selbst), and that
thinking is a "solitary business" (as Hegel once remarked) is one
of the few things on which all thinkers were agreed. Also, it is of
course by no means true that you need or can even bear the
company of others when you happen to be busy thinking; yet,
unless you can somehow communicate and expose to the test of
others, either orally or in writing, whatever you may have found
out when you were alone, this faculty exerted in solitude will
disappear. In the words of Jaspers, truth is what I can communicate.
Truth in the sciences is dependent on the experiment that
can be repeated by others; it requires general validity. Philosophic
truth has no such general validity. What it must have,
what Kant demanded in the Critique if Judgment of judgments of
taste, is "general communicability."93 "For it is a natural vocation
of mankind to communicate and speak one's mind, especially in
all matters concerning man as such."
Seventh Session
WE WERE TALKING about the political implications of critical
thinking and the notion that critical thinking implies communicability.
Now communicability obviously implies a community of
men who can be addressed and who are listening and can be
listened to. To the question, Why are there men rather than
Man? Kant would have answered: In order that they may talk to
one another. For men in the plural, and hence for mankindfor
the species, as it were, that we belong to-"it is a natural
vocation ... to communicate and speak one's mind"-a remark I
have quoted before. Kant is aware that he disagrees with most
thinkers in asserting that thinking, though a solitary business,
depends on others to be possible at all:
It is said: the freedom to speak or to write can be taken away
from us by the powers-that-be, but the freedom to think can-
Kant Lectures 41
not be taken from us through them at all. However, how
much and how correctly would we think if we did not think in
community with others to whom we communicate our
thoughts and who communicate theirs to usl Hence, we may
safely state that the external power which deprives mati of the
freedom to communicate his thoughts publicly also takes away
his freedom to think, the only treasure left to us in our c.ivic
life and through which alone there may be a remedy agaInst
all evils of the present state of affairs. 94
We can look at this factor of publicity, necessary for critical
thinking, from still another viewpoint. What Socrates actually
did when he brought philosophy from the heavens down to
earth and began to examine opinions about what went on between
men was that he extracted from every statement its hidden
or latent implications; that is what his midwifery actually
amounted to. As the midwife helps the child to come to light to
be inspected, so Socrates brings to light the implications to be
inspected. (That is what Kant did when he complained abo~t
progress: he extracted the implications of thi~ concept; that ~s
what we did here when we protested agaInst the orgaruc
metaphor.) Critical thinking to a very large extent consists of this
kind of "analysis." This examination, in turn, presupposes that
everyone is willing and able to render an account of what he
thinks and says. Plato, having gone through the school of Socratic
midwifery, was the first to write philosophy in the way we
still recognize as philosophy and what later, with Aristotle, became
the treatise. He saw the difference between himself and the
"wise men" of old, the Presocratics, in the fact that they, wise
though they were, never gave an account of their thoughts.
There they were, with their great insights; but when you asked
them a question, they remained silent. Logon didonai, "to give
an account"-not to prove, but to be able to say how one came
to an opinion and for what reasons one formed it-is actually
what separates Plato from all of his prede~essors. The te~m
itself is political in origin: to render account~ IS what Atheruan
citizens asked of their politicians, not only In money matters
but in matters of politics. They could be held resp~)llsible. And
this-holding oneself and everyone else responsible and answerable
for what he thought and taught-was what transformed
into philosophy that search for knowledge and for truth
that had sprung up in Ionia. This transformation had already
come about with the Sophists, who have rightly been called the
42 PART ONE
representatives of Enlightenmen~ in Greece; it was the~
sharpened into a method of questIon and answer by Socrates
midwifery. This is the origin of critical thoug~t, whose grea~st
representative in the modem age, perhaps In all postclasslcal
ages, was Kant, who was entirely conscious o~ its implications. In
one of his most important reflections, he WrItes as follows:
Quaestio facti, the question. o~ f~ct, is ~ ~h~ch way o?e h~s fi!st
obtained a concept; quaestto .fUns, the JUrIdIcal questIon, IS WIth
what right one possesses this concept and uses it. 95
To think critically applies not only to doctrines and concepts one
receives from others, to the prejudices and traditions one inherits;
it is precis~ly by applying critical standards to one's own
thought that one learns the art of critical !hought. .. .
And this application one cannot lea~ WIthOUt pub~clty.' w~thout
the testing that arises from contact WIth other people s thinking.
In order to show how it works, I shall read to you two personal
passages from . letters Kant wrote in the 1770s to Marcus
Herz:
You know that I do not approach reasonable obj~ctio~s ~ith
the intention merely of refuting them, but that In thinking
them over I always weave them into my judgments, and afford
them the opportunity of overturning all my. ID:0st
cherished beliefs. I entertain the hope that by thus VIewIng
my judgments impartially from the standp?int ?f c;>thers some
third view that will improve upon my prevIous InsIght may be
obtainable. 96
You see that impartiality is obtained by taking the viewpoints of
others into account; impartiality is not the result of some higher
standpoint that would then actually setde the dispute by bein.g
altogether above the melee. In the second letter, Kant makes thIS
even clearer:
[The mind needs a reasonable amount of relaxations and
diversions to maintain its mobility] that it may be enabled ~o
view the object afresh from every side, and so to enlarge I~S
point of view from a micrc;>scopic to a ge.neral 0!l~ook that It
adopts in tum every conceIvable standpOInt, venfyIng the observations
of each by means of all the others.97
Here the word "impartiality" is not mentioned. In its stead, we
find the notion that one can "enlarge" one's own thought so as to
take into account the thoughts of others. The "enlargement of
Kant Lectures 43
the mind" plays a crucial role in the Critique of Judgment. It is
accomplished by "comparing our judgment with the possible
rather than the actual judgments of others, and by putting ourselves
in the place of any other man."98 The faculty that makes
this possible is called imagination. When you read the paragraphs
in the Critique of Judgment and compare them with the
letters just quoted, you will see that the former contain no more
than the conceptualization of these very personal remarks. Critical
thinking is possible only where the standpoints of all others
are open to inspection. Hence, critical thinking, while still a solitary
business, does not cut itself off from "all others." To be sure,
it still goes on in isolation, but by the force of imagination it .
makes the others present and thus moves in a space that is potentially
public, open to all sides; in other words, it adopts the
position of Kant's world citizen. To think with an enlarged
mentality means that one trains one's imagination to go visiting.
(Compare the right to visit in Perpetual Peace.)
I must warn you here of a very common and easy misunderstanding.
The trick of critical thinking does not consist in an
enormously enlarged empathy through which one can know
what actually goes on in the mind of all others. To think, according
to Kant's understanding of enlightenment, means
Selbstdenken, to think for oneself, "which is the maxim of a
never-passive reason. To be given to such passivity is called prejudice,"
99 and enlightenment is, first of all, liberation from prejudice.
To accept what goes on in the minds of those whose
"standpoint" (actually, the place where they stand, the conditions
they are subject to, which always differ from one individual
to the next, from one class or group as compared to another) is
not my own would mean no more than passively to accept their
thought, that is, to exchange their prejudices for the prejudices
proper to my own station. "Enlarged thought" is the result of
first "abstracting from the limitations which contingendy attach
to our own judgment," of disregarding its "subjective private
conditions ... , by which so many are limited," that is, disregarding
what we usually call self-interest, which, according to
Kant, is not enlightened or capable of enlightenment but is in
fact limiting. The greater the reach-the larger the realm in
which the enlightened individual is able to move from standpoint
to standpoint-the more "general" will be his thinking.
This generality, however, is not the generality of the conceptfor
example, the concept "house," under which one can then
44 PART ONE
subsume various kinds of individual buildings. It is, on the contrary,
closely connected with particulars, with the particular
conditions of the standpoints one has to go through in order to
arrive at one's own "general standpoint." This general stand- .
point we spoke of earlier as impartiality; it is a viewpoint from
which to look upon, to watch, to form judgments, or, as Kant
himself says, to reflect upon human affairs. It does not tell one
how to act. It does not even tell one how to apply the wisdom,
found by virtue of occupying a "general standpoint," to the particulars
of political life. (Kant had no experience of such action
whatsoever and could have had none in the Prussia of Frederick
II.) Kant does tell one how to take others into account; he does
not tell one how to combine with them in order to act.
Which brings us to this question: Is the general standpoint
merely the standpoint of the spectator? (How serious Kant was
about the enlargement of his own mentality is indicated by the
fact that he introduced and taught a course in physical geography
at the university. He was also an eager reader of all sorts of
travel reports, and he-who never left Konigsberg-knew his
way around in both London and Italy; he said he had no time to
travel precisely because he wanted to know so much about so
many countries.) In Kant's own mind it was certainly the standpoint
of the world citizen. But does this easy phrase of idealists,
"citizen of the world," make sense? To be a citizen means among
other things to have responsibilities, obligations, and rights, all
of which make sense only if they are territorially limited. Kant's
world citizen was actually a Weltbetrachter, a world-spectator.
Kant knew quite well that a world government would be the
worst tyranny imaginable.
In Kant himself, in his last years, this perplexity comes to the
fore in the seeming contradiction between his almost boundless
admiration for the French Revolution and his equally boundless
opposition to any revolutionary undertaking on the part of the
French citizens. The passages I shall read to you were all written
at about the same time. But before we proceed, let me remind
you that Marx called Kant the philosopher of the French Revolution,
as Heine had earlier. More important, perhaps, this
evaluation had a solid foundation in the self-understanding of
the Revolution itself. Sieyes, famous author of the Tiers Etat and
one of the founders of the Jacobin Club, who then became one
of the most important members of the Constituent Assembly,
the assembly commissioned to draft the French Constitution,
Kant Lectures 45
seems to have known Kant and to have been influenced to some
degree by his philosophy. At any rate, a friend of his, Theremin,
approached Kant to say that Sieyes intended to introduce Kant's
philosophy in France because "l'etude de cette philosophie par
les Franc;ais serait un complement de la Revolution [the study of
this philosophy by Frenchmen would complement the Revolution]."
loo Kant's answer is lost.
Kant's reaction to the French Revolution, at first "and even
second glance, is by no means unequivocal. To anticipate: he never
wavered in his estimation of the grandeur of what he called the
"recent event," and he hardly ever wavered in his condemnation
of all those who had prepared it. I shall start with the most
famous of his utterances in this connection; moreover, it contains,
in a sense, the key to the seeming contradiction in his attitude.
This event [the Revolution] consists neither in momentous
deeds nor misdeeds committed by men whereby what was
great among men is made small or what was small is made
great, nor in ancient splendid political structures which vanish
as if by magic while others come forth in their place as if
from the depths of the earth. No, nothing of the sort. It is
simply the mode of thinking of the spectators which reveals
itself publicly in this game of great transformations, and
manifests such a general yet disinterested sympathy for the
players on one side against those on the other, even at the risk
that this partiality could become very disadvantageous for
them if discovered. Owing to its generality, this mode of
thinking demonstrates a character of the human race at large
and all at once; owing to its disinterestedness, a moral
character of humanity, at least in its predisposition, a character
which not only permits people to hope for progress toward
the better, but is already itself progress insofar as its
capacity is sufficient for the present.
The revolution of a gifted people which we have seen unfolding
in our day may succeed or miscarry; it may be filled
with misery and atrocities to the point that a sensible man,
were he boldly to hope to execute it successfully the second
time, would never resolve to make the experiment at such
cost-this revolution, I say, nonetheless finds in the hearts of
all spectators (who are not engaged in this game themselves) a
wishful participation that borders closely on enthusiasm, the
very expression of which is fraught with danger; this sympathy,
therefore, can have no other cause than a moral predisposition
in the human race .
. . . Monetary rewards could not elevate the adversaries of
46 PART ONE
the revolution to the zeal and grandeur of soul which the
pure concept of right produced in [the revolutionaries]; and
even the concept of honor among the old martial nobility (an
analogue to enthu~iasm) v~nished before the weapons of
those who kept in VIew the nght of the people to WhICh they
belonged and of which ~ey consi~ered themselyes th~ guardians;
with what exaltation the umnvolved public looking on
sympathized then without the least intention of assisting ....
Now I claim to be able to predict to the human race-even
without prophetic insight-according to the aspects and
omens of our day, the attainment of this goal. That is, I predict
its progress toward the better which, from now on, turns
out to be no longer completely reversible. For such a
phenomenon in human history is not to be forgotten . .•.
But even if the end viewed in connection with this event
should not now be attained, even if the revolution or reform
of a national constitution should finally miscarry, or, after
some time had elapsed, everything should relapse into its
former rut (as politicians now predict), that philosophical
prophecy still would lose nothing of its force. For that event is
too important, too much interwoven with the interest of humanity,
and its influence too widely propagated in all areas of
the world to not be recalled on any favorable occasion by the
peoples which would then be roused to a repetition of new
efforts of this kind .... To him who does not consider what
happens in just one people but also has regard to the whole
scope of all the peoples on earth who will gradually come to
participate in these events, this reveals the prospect of an
immeasurable time.IOI
Eigh~h Session
IN WHAT I READ TO YOU from The Contest of the Faculties (Part II,
sections 6 and 7), Kant said explicitly that he was not concerned
with the deeds and misdeeds of men that make empires rise and
fall, make small what was formerly great and great what was
formerly small. The importance of the occurrence (Begebenheit)
is for him exclusively in the eye of the beholder, in the opinion
of the onlookers who proclaim their attitude in public. Their
reaction to the event proves the "moral character" of mankind.
Without this sympathetic participation, the "meaning" of the
occurrence would be altogether different or simply nonexistent.
For it is this sympathy that inspires hope,
Kant Lectures 47
the hope that, after many revolutions, with all their transforming
effects, the highest purpose of nature, a cosmopolitan
existence, will at last be realized within which all the original
capacities of the human race may be developed.lo2
From this, however, one should not conclude that Kant sided
in the least with the men of future revolutions. In a footnote to
the passage from The Contest of the Faculties, he makes this very
explicit: there are "rights of the people" that no ruler dares to
contest publicly for fear that the people will rise up against him;
and this they would do for the sake of freedom alone, even if
they were well fed, powerfully protected, and had "no lack of
welfare to complain of." The rights of men, implying the right of
the people to be "colegislators," are sacred. And yet:
These rights ... always remain an idea which can be fulfilled
only on condition that the means employed to do so are compatible
with morality. This limiting condition must not be
overstepped by the people, who may not therefore pursue
their rights by revolution, which is at all times unjust.IO~
If we had no more than this footnote, we might suspect that
Kant was cautious when he appended it; but the same warning is
repeated in a number of other passages. We tum to Perpetual
Peace, where his position is best explained:
If a violent revolution, engendered by a bad constitution, introduces
by illegal means a more legal constitution, to lead the
people back to the earlier constitution would not be permitted;
but, while the revolution lasted, each person who openly
or covertly shared in it would have justly incurred the
punishment due to those who rebeI,lo4
For, as he writes in the same vein in The Metaphysics of Morals,
if a revolution has succeeded and a new constitution has been
established, the unlawfulness of its origin and success cannot
free the subjects from the obligation to accommodate themselves
as good citizens to the new order of things.I05
Hence, whatever the status quo may be, good or bad, rebellion is
never legitimate. To be sure, if
The rights of the people are injured, [then] no injustice befalls
the tyrant when he is deposed. There can be no doubt on
this point. Nevertheless, it is in the highest degree illegitimate
for the subjects to seek their rights in this way. If they fail in
48 PART ONE
the struggle and are then subjected to severe punishment,
they cannot complain about injustice any more than the tyrant
could if they had succeeded.l06
What you see here clearly is the clash between the principle
according to which you should act and the principle according to
which you judge. For Kant condemns the very action whose
results he then affirms with a satisfaction bordering on enthusiasm.
This clash is not a mere matter of theory; in 1798,
Kant was once more confronted with a rebellion, one of the
many rebellions of Ireland against the then "legitimate" authority
of England. According to an acquaintance, as recorded in the
diary of Abegg, he believed the rebellion to be legitimate and
even expressed hope for a future republic of England.l07 Again,
it was a mere matter of opinion, the judgment of the spectator.
And he writes in the same vein:
I cannot admit the expression used even by intelligent men: A
certain people (engaged in elaborating civil freedom) is not
yet ripe for freedom; the bondmen of a landed proprietor are
not yet ripe for freedom; and thus also, men in general are
not yet ripe for freedom of belief. According to such a presupposition
freedom will never arrive; for we cannot ripen to
this freedom unless we are already set free-we must be free
in order to be able to use our faculties purposively in freedom
[and] we never ripen for reason except through our own efforts,
which we can make only when we are free .... [To
maintain that people who are subject to bonds] are essentially
unfit for freedom ... is to usurp the prerogatives of Divinity
itself, which created man for freedom. lOS
The reason why you should not engage in what, if successful,
you would applaud is the "transcendental principle of publicness,"
which rules all political action. Kant sets forth this principle
in Perpetual Peace (Appendix II), where he calls the conflict
between the engaged actor and the judging spectator a "conflict
of politics with morality." The overriding principle is:
All actions relating to the right of other men are unjust if
their maxim is not consistent with publicity ... [for a] maxim
which I cannot divulge publicly without defeating my own
purpose must be kept secret if it is to succeed; and, if I cannot
publicly avow it without inevitably exciting general opposition
to my project, the ... opposition which can be foreseen a
priori is due only to the injustice with which the maxim
threatens everyone. 1 09
Kant Lectures 49
Just as the wrongness of despotism can be demonstrated, because
"no ruler ever dared to say openly that he does not recognize
any rights of the people against himself," so the wrongness
of rebellion "is apparent from the ·fact that, if the maxim
upon which [the people] would act were publicly acknowledged, it
would defeat its own purpose. This maxim would therefore have
to be kept secret."110 The maxim of "political expediency," for
instance, would "necessarily defeat its own purpose if made
public"; on the other hand, a people engaged in the establishment
of a new government could not "publish its intention to
revolt" because "no state would be possible" on this condition,
and to establish a state "was the purpose of the people."
The two main arguments against this reasoning are
mentioned by Kant himself. First, the principle is "only negative,
i.e., it only serves for the recognition of what is not just, [and] we
cannot infer conversely that the maxims which bear publicity are
therefore just."111 In other words, opinion too, especially if it is
not the disinterested opinion of the onlooker but the partial,
uncritical opinion of interested citizens, may be wrong. Second,
the analogy between ruler and ruled is wrong: "no one who has
decidedly superior power needs to conceal his plans." He therefore
proposes an "affirmative and transcendental principle":
All maxims which stand in need of publicity in order not to fail
their end agree with politics and right combined.112
This solution of "the conflict of politics with morality" is derived
from Kant's moral philosophy, in which man as a single
individual, consulting nothing but his own reason, finds the
maxim that is not self-contradictory, from which he can then
derive an Imperative. Publicness is already the criterion of
rightness in his moral philosophy. Thus, for instance, "E;verybody
considers the moral law as something he can declare publicly,
but he considers his maxims as something which must be hidden"
("Jeder sieht das moralische Gesetz als ein solches an,
welches er offentlich deklarieren kann, aber jeder sieht seine
Maximen als solche an, die verborgen werden miissen").113 Private
maxims must be subjected to an examination by which I
find out whether I can declare them publicly. Morality here is
the coincidence of the private and the public. To insist on the
privacy of the maxim is to be evil. To be evil, therefore, is
characterized by withdrawal from the public realm. Morality
means being fit to be seen, and this not only by men but, in the
50 PART ONE
last instance, by God, the omniscient knower of the heart (der
Herzenskundige). .
Man insofar as he does anything at all, lays down the law; he IS
the legislator. But one can be this legislator only if one is oneself
free· whether the same maxim is valid for the bondsman as for
the free man is open to question. And even if you accept Kant's
solution as stated here, the precondition obviously is the "freedom
of the pen," that is, the existence of a public space f~r
opinion, at least, if not for action. For Kant, the moment to rebel IS
the moment when freedom of opinion is abolished. Not to rebel
then is to be unable to answer the old Machiavellian argument
against morality: If you do not resist evil! tJ:te evil~oers will ~o as
they please. Though it is true that, by reSisting evil, you are likely
to be. involved in evil, your care for the world takes pr~cedenc~
in politics over your care for your self-whethe~ thi~ self IS
your body or your soul. (Machiavelli's "I love my native oty mo~e
than my soul" is only a variation of: I love the world and Its
future more than my life or my self.) . ..
Actually, there are two assumptions in Kant tha.t permxt him to
extract himself thus easily from the conflict. He 18 aware of oD:e
of them in his polemics with Moses Mendelssohn, who had denied
Lessing's "progress of mankind as a whole": Mendelssohn
said, as quoted by Kant:
"Man as an individual progresses; but mankind constantly
fluctuates between fixed limits. Regarded as a whole, mankind
maintains roughly the same level of mo~ty, the sam.e
degree of religion and irreligion, of virtue and VIce, of happIness
and misery."114
Kant replies that, without the assumption of progres~, ?,othing
would make sense; progress may be interrupted, but It IS never
broken off. He appeals to an "inborn duty," the s~e argum~nt
that he uses in the Critique of Practical Reason: an mborn vOIce
says: Thou shalt, and it would be a contradiction to assume that I
cannot where my own reason tells me that I should (ultra posse
nemo obligatur: what exceeds the possible obliges ~o one).115. T~e
duty appealed to in this case is that "of influencmg postenty m
such a way that it will make constant progre.ss" (henc~ progress
must be possible), and Kant asserts that, Without this as~umption,
"the hope for better times to come," no action is pOSSible at
all; for this hope alone has inspired "right-thinking men" to "do
something for the common goOd."118 Wel.l, we know today that
Kant Lectures 51
we can date the idea of progress, and we know that men have
always acted, i.e., long before this idea appeared.
The second and even more important assumption held by
Kant concerns the nature of evil. Machiavelli assumes that evil
will spread wildly if men do not resist it even at the risk of doing
evil themselves. Kant, on the contrary, and somehow in agreement
with the tradition, believes that evil by its very nature is
self-destructive. Hence:
The end of man as an entire species ... will be brought by
providence [sometimes he says "nature"] to a successful issue,
even though the ends of men as individuals run in a diametrically
opposite direction. For the very conflict of individual
inclinations, which is the source of all evil, gives reason
a free hand to master them all; it thus gives predominance not
to evil, which destroys itself, but to good, which continues to
maintain itself once it has been established.H 7
And here again the perspective of the onlooker is decisive. Look
at history as a whole. What kind of a spectacle would that be without
the assumption of progress? The alternatives for Kant are
either regress, which would produce despair, or eternal sameness,
which would bore us to death. I quote the following passage
to underline once more the importance of the onlooker:
It is a sight fit for a god to watch a virtuous man grappling
with adversity and evil temptations and yet managing to hold
out against them, But it is a sight quite unfit ... even for the
most ordinary but honest man to see the human race advancing
over a period of time towards virtue, and then
quickly relapsing the whole way back into vice and misery. It
may perhaps be moving and instructive to watch such a
drama for a while; but the curtain must eventually descend.
For in the long run, it becomes a farce. And even if the actors
do not tire of it-for they are fools [Are all actors fools?]-the
spectator does, for any single act will be enough for him if he
can reasonably conclude from it that the never-ending play
will be of eternal sameness [Einerlei].118
Ninth Session
THE ULTIMATE GUARANTEE that all is well, at least for the spectator,
is, as you know from Perpetual Peace, nature herself, which
can also be called providence or destiny. Nature's "aim is to
52 PART ONE
produce a harmony among men, against their will and indeed
through their discord~"119 Discord, indeed, is so important a
factor in nature's design that without it no progress can be
imagined, and no final harmony could be produced without
progress.
The spectator, because he is not involved, can perceive this
design of providence or nature, which is hidden from the actor.
So we have the spectacle and the spectator on one side, the actors
and all the single events and contingent, haphazard happenings
on the other. In the context of the French Revolution, it seemed
to Kant that the spectator's view carried the ultimate meaning of
the event, although this view yielded no maxim for acting. We
shall now examine a situation where the opposite somehow
seems to be true for Kant: a situation where the single events
offer a spectacle that is "sublime," and so do the actors, and
where, moreover, the sublimity may well coincide with the hidden
design of nature; and still reason, which yields our maxims
of action, categorically forbids us to engage in this "sublime" act.
We are now dealing with Kant's position on the question of war;
and while his sympathies in the matter of revolution were clearly
with revolution, his sympathies in the matter of war are clearly
and absolutely with peace. .
We read in Perpetual Peace that "reason, from its throne of
supreme moral legislating authority, absolutely condemns war as
a legal recourse and makes a state of peace a direct duty, even
though peace cannot be established or sec1,lred except by a compact
among nations."120 There is not the slightest doubt what
our maxim for action should be in this matter. However, this is by
no means what the pure onlooker-who does not act and relies
entirely on what he sees-would conclude, and the ironical title
of the pamphlet more than hints at the possible contradiction.
For the original title, Zum ewigen Frieden, the satirical inscription
of a Dutch innkeeper, means, of course, the cemetery. That is the
place of Eternal Peace, and the innkeeper offers the beverages
that will bring you to this much-longed-for state even in this life.
How about peace? Is peace the stagnation that could also be
called death? Kant more than once stated his opinion on war,
formed as the result of his reflections on history and the course of
mankind, and nowhere does he do so more emphatically than in
the Critique of Judgment, where he discusses the topic, characteristically
enough, in the section on the Sublime:
Kant Lectures 53
[W]hat is that which is, even to the savage, an object of the
greatest admiration? It is a man who shrinks from nothing,
who fears nothing, and therefore does not yield to danger ....
Even in the most highly civilized state this peculiar veneration
for th: sol?ier. remains ... because even [here] it is recognized
tha~ hIS mmd IS unsubdued by danger. Hence ... in the companson
of a statesman and a general, the aesthetical judgment
decides for the latter. War itself ... has something sublin;
te in it.. .. On the other hand, a long peace generally
~>rIngs about a predomin~nt commercial spirit and, along with
It, low selfishness, cowardIce, and effeminacy, and debases the
disposition of the people.121
This is the judgment of the spectator (Le., it is aesthetical).
What does not enter into the account of the onlooker, who sees
the sublime side of war-which is man's courage-is something
Kant mentions in a different context in ajoke: nations engaged
in a war are like two drunkards bludgeoning each other in a
china shop.122 The world (the china shop) is left out of account.
But this consideration is taken care of in a way when Kant raises
this question: What are wars good for with respect to "progress"
and civilization? And here, ~gain, Kant's answer is by no means
unequivocal. To be sure, nature's "final design" is a "cosmopolitan
whole, i.e., a system of all states that are in danger of acting
injuriously upon one another."123 Yet, not only can war, "an
unintended enterprise ... stirred up by men's unbridled passions,"
actually serve, because of its very meaninglessness, as a
preparation for the eventual cosmopolitan peace (eventually
sheer exhaustion will impose what neither reason nor good will
have been able to achieve), but
In spite of the dreadful afflictions with which it visits the
human race, and the perhaps greater afflictions with which
the constant preparation for it in time of peace oppresses
them, yet is it ... a motive for developing all talents serviceable
for culture to the highest possible pitch.124
In short, war "is not so incurably bad as the deadness of a universal
monarchy." And the plurality of nations, together with all
the conflicts this engenders, is the vehicle of progress.
These insights of aesthetic and reflective judgment have no
practical consequences for action. As far as action is concerned,
there is no doubt that
54 PART ONE
moral-practical reason within us pronounces the following
irresistible veto: There shall be no war . ... Thus it is no longer a
question of whether perpetual peace is really possible or not,
or whether we are not perhaps mistaken in our theoretical
judgment if we: a~sume that it is. On the contrary, we. must
simply act as If It could really come about ... even If the
fulfillment of this pacific intention were forever to remain a
pious hope ... for it is our duty to do SO.125
But these maxims for action do not nullify the aesthetic and
reflective judgment. In other words: Even though Kant would
always have acted for peace, he knew and kept in mind his
judgment. Had he acted on the knowledge he had gained as a
spectator, he would, in his own mind, have" been criminal. Had
he forgotten, because of this "moral duty," his insights as a
spectator, he would have become what so many good men, involved
and engaged in public affairs, tend to be-an idealistic
fool.
Let me sum up: In the sections I have read .to you, two very
different factors were present almost everywhere-two factors
closely interconnected in Kant's own mind but by no means
otherwise. First, there was the position of the onlooker. What he
saw counted most; he could discover a meaning in the course
taken by events, a meaning that the actors ignored; and ~e
existential ground for his insight was his disinterestedness, his
nonparticipation, his noninvolvement. The onlooker's disinterested
concern characterized the French Revolution as a
great event. Second, there was the idea of progress, the hope for
the future," where one judges the event according to the promise
it holds for the generations to come. The two perspectives coincided
in Kant's evaluation of the French Revolution, but this
meant nothing as far a~ principles of action were concerned. But
the two perspectives also somehow coincided in Kant's evaluation
of war. War brings about progress-something no one can
deny who knows how intimately the history of technology is
connected with the history of wars. And war even brings about
progress toward peace: war is so awful that, the more awful it
gets, the more likely it is that men will become reasonable and
work toward international agreements that will lead them
eventually to peace. (Fate guides the willing ones, it drags the
nonwilling along: Fata ducunt volentem, trahum nolentem.)126 But
for Kant it is not fate; it is progress, a design behind men's backs,
a ruse of nature or, later, a ruse of history.
Kant Lectures 55
The first of these notions-that only the spectator but never
the actor knows what it is all about-is as old as the hills; it is, in
fact, ~ong the oldest, most decisive, notions of philosophy. The
whole Idea of the superiority of the contemplative way of life
comes from this early insight that meaning (or truth) is revealed
only to those who restrain themselves from acting. I shall give it
to you in the simplest, least sophisticated form, in the form of a
parable ascribed to Pythagoras:
Life ... is like a festival; just as some come to the festival to
compete, some to ply their trade, but the best people come as
spectators [theatai], so in life the slavish men go hunting for
fame [doxa] or gain, the philosophers for truth.127
The data underlying this estimate are, first, that only the
spectator occupies a position that enables him to see the whole;
the actor, because he is part of the play, must enact his part-he
is partial by definition. The spectator is impartial by
definition-no part is assigned him. Hence, withdrawal from
direct involvement to a standpoint outside the game is a condition
sine qua non of all judgment. Second, what the actor is concerned
with is doxa, fame-that is, the opinion of others (the
word doxa means both "f~e" and "opinion"). Fame comes
about through the opinion of others. For the actor, the decisive
question is thus how he appears to others (dokei hois allois); the
actor is dependent on the opinion of the spectator; he is not
autonomous (in Kant's language); he does not conduct himself
according to an innate voice of reason but in accordance with
what spectators would expect of him. The standard is the spectator.
And this standard is autonomous.
Translating this into the terms ~f the philosophers, one arrives
at the supremacy of the spectator's way of life, the bios
thearetikos (from theorein, "to look at"). Here one escapes from the
cave of opinions altogether and goes hunting for truth-no
longer the truth of the games in the festival but the truth of
things that are everlasting, that cannot be different from what
they are (all human affairs can be different from what they
actually are) and therefore are necessary. To the extent that one
can actualize this withdrawal, one does what Aristotle called
athanatizein, "to immortalize" (understood as an activity), and
this one does with the divine part of one's soul. Kant's view is
different: one withdraws also to the "theoretical," the onlooking,
standpoint of the spectator, but this position is the position of
56 PART ONE
the Judge .. The whole terminology of Kant's philosophy is shot
through wIth legal metaphors: it is the Tribunal of Reason before
which the occurrences of the world appear. In either case:
absorbe? by the specta~le, I am outside it, I have given up the
standpomt that determmes my factual existence, with all its circumstantial,
contingent conditions. Kant would have said: I have
reached a gene~al standpoint, the impartiality the Judge is supposed
to exerCIse when he lays down his verdict. The Greeks
would have said: we have given up the dokei moi, the it-seemsto-
me, and the desire to seem to others; we have given up doxa
which is both opinion and fame. '
There is j~ined to this old notion in Kant an altogether new
one, the notlon of progress, which actually provides the standard
according t~ which one judges. The Greek spectator,
whether at the festlval of life or at the sight of the things that are
everlasting, looks at and judges (finds the truth of) the cosmos of
the particular event in its own terms, without relating it to any
larger process in which it mayor may not playa part. He was
act~ally concerned with the individual event, the particular act.
(Thm~ of. the Greek column, the absence of stairs, etc.) Its
meamng dl~ not depend on either causes or consequences. The
sto~,. once It had come to an end, contained the whole meaning.
ThIS IS also true for Greek historiography, and it explains why
Homer, .Herodotus, and Thucydides can give the defeated
enemy hIS due. The story may contain rules valid for future
generations also, but it remains a single story. The last book, it
seems, that is written in this spirit is Machiavelli's Florentine
Stories, which you know under the misleading title of The History
of Florence. The point is that, for Machiavelli, History was only
the huge book that contained all the stories of men.
Progress as the standard by which to judge history somehow
~everses the <;>ld principle that the meaning of a story reveals
Itself only at ItS end (Nemo ante mortem beat:us esse dici potest [No
one can ,b~ called blessed before his death]). In Kant, the story's
or event s Importance lies precisely not at its end but in its opening
up new honzons for the future. It is the hope it contained for
future generations that made the French Revolution such an
important event. This feeling was widespread. Hegel, for whom
th~ French Revolution also was the most important turning
pomt, always describes it by metaphors like "a splendid rise of
the sun," the "dawn," etc. It is a "world-historical" event because
it contains the seeds of the future. The question here is: Who,
Kant Lectures 57
then, is the subject of the story? Not the men of the revolution;
they certainly did not have world history in mind. World history
can make sense only if
~omething else ~esults from the actions of men than what they
mtend and aC~leve, ~0I?-ething else than they know or want.
T?ey acco~phsh th.eIr I~ter~st;. but s?mething else is accomphshed
WhICh was Imphed m It, whIch was not in the consciousness
and the intentions of the actors. To give an analogy,
a man may set fire to the house of another out of revenge
.... [The] immediate action is to hold a small flame to a
small part of a beam.... [What follows had not been inte~
ded:] a vast conflawation develops .... This result was
neither part of the pnmary deed nor the intention of him
~ho co~men~ed it .... T?is example merely shows that in the
ImmedIate actlon somethmg else may be involved than is consciously
willed by the actor.128
These are Hegel's words, but they could have been written by
Kant. Yet there is a distinction between them, and it is twofold
and of great importance. In Hegel, it is Absolute Spirit that
reveals itself in the process, and it is this that the philosopher, at
the end of this revelation, can understand. In Kant, the subject
of world history is the human species itself. In Hegel, furthermore,
the revelation of Absolute Spirit must come to an end
(history has an end in Hegel; the process is not infinite, hence
there is an end to the story, only this end needs many genera?
ons and c~nturies to come about); not man but Absolute Spirit
IS finally dIsclosed, and the greatness of man is realized only
insofar as he is finally able to understand. But in Kant, progress
is perpetual; there is never an end to it. Hence, there is no end to
history. (In Hegel, as well as Marx, the notion that there is an
end to history is decisive; for it implies the inevitable question
What, if anything, is going to happen after this end has come
about?-leaving apart the rather obvious inclination of each
generation to believe that this eschatological end will come about
in its own lifetime. As Kojeve rightly put it, driving to its inherent
extreme the part of Hegel that influenced Marx: "After the
end of history, man can do nothing but perpetually rethink the
historical process which has been completed."129 In Marx himself,
on the other hand, the classless society and the realm of
freedom, based on abundance, will result in everyone's indulging
in some sort of hobby.)
To come back to Kant: The subject that corresponds to world
58 PART ONE
history is the human species. The design of nature is to develop
all of mankind's capabilities-mankind being understood as one
of nature's animal species, with this decisive difference: Species
in animals "means nothing more than the characteristics in virtue
of which all individuals must directly agree with one another."l30
It is altogether different with the human species. By it,
we understand the totality of a series of generations proceeding
into infinity (the indeterminable) .... [This] line of
descent ceaselessly approaches its concurrent destination ....
[It] is asymptotic in all its parts to this line of destiny, and on
the whole coincides with it. In other words, no single member
in all of these generations of the human race, but only the
species, fully achieves its destination.;.. The philosopher
would say that the destination of the human race in general is
perpetual progress. l3l
From this, let us draw a few conclusions. History, we would say,
is something built into the species man; the essence of man cannot
be determined; and to Kant's own question, Why do men
exist at all? the answer is: This question cannot be answered, for
the "value of [their] existence" can be revealed "only in the
whole," that is, never to any man or generation of men, since the
process itself is perpetual.
Hence: In the center of Kant's moral philosophy stands the
individual; in the center of his philosophy of history (or, rather,
his philosophy of nature) stands the perpetual progress of the
human race, or mankind. (Therefore: History from a general
viewpoint.) The general viewpoint or standpoint is occupied,
rather, by the spectator, who is a "world citizen" or, rather, a
"world spectator." It is he who decides, by having an idea of the
whole, whether, in any single, particular event, progress is being
made.
Tenth Session
WE WERE TALKING ABOUT the clash between the spectator and
the actor. The spectacle before the spectator-enacted, as it
were, for his judgment-is history as a whole, and the true hero
of this spectacle is mankind in the "series of generations proceeding"
into some "infinity." This process has no end; the "destination
of the human race is perpetual progress." In this pro-
Kant Lectures 59
cess the capabilities of the human species are actualized, developed
to "the highest pitch"-except that a high~st ~:me, .in an
absolute sense, does not exist. The ultimate desunatIOn, m the
sense of eschatology, does not exist, but the two chief aims by
which this progress is guided, though behind the backs of the
actors, is freedom-in the simple and elementary sen~e that no
one rules over his fellow men-and peace between natIOns as the
condition for the unity of the human race. Perpetual progress
toward freedom and peace, the latter guaranteeing free intercourse
between all nations on the earth: these are the ideas of
reason, without which the mere story of history would not make
sense. It is the whole that gives meaning to the particulars if they
are seen and judged by men endowed with reason. Men, though
they are natural creatures and part of nature, transcend nature
by virtue of a reason that asks: What is the purp.ose of nature?
By producing one species with a faculty for askmg such que~tions,
nature has produced its own master. The human speCIes IS
distinguished from all animal species not merely by its possession
of speech and reason but because its faculties are capable of
indeterminable development.
Up to now we have discussed the spectator in ~e singul~r, as
Kant himself often does, and with good reason. FIrst, there IS the
simple fact that one onlooker can behold many actors, who together
offer the spectacle that unfolds before his eyes. ~econd,
there is the whole weight of tradition, according to whIch the
contemplative way of life presupposes withdrawal fr~m ~e
many; it singularizes one, as it were, because contemplauon IS a
solitary business or, at least, can be carried on in solitude. Y~u
remember that, in the Parable of the Cave,t32 Plato says that Its
inhabitants, the many, who watch the shadow-play on the screen
in front of them, are "chained by the legs and also by the neck, so
that they cannot move and can see only what is in front of them,
because the chains will not let them turn their heads"; hence
also, they cannot communicate with one an?ther about ~hat
they see. It is not only the philosopher returmng from the hght
of the sky of Ideas who is a completely isolated figure. The
spectators in the cave are also isolated, one from the other. Actio.
n, on the other hand, is never ·possible in solitude or isolation;
one man alone needs, at the very least, the help of others to carry
through whatever his enterprise may be. When the distinction
between the two ways of life, the political (active) way and the
philosophical (contemplative) way, is so construed as to render
60 PART ONE
th~m mutually exclusive-as it is, for instance, in Plato's political
phdosophy--one gets an absolute distinction between the one
who knows what is best to do and the others who, following his
guidance or his commands, will carry it through. This is the gist
of Plato's Statesman: the ideal ruler (archon) does not act at all; he
is the wise man who begins and knows the intended end of an
action and therefore is the ruler. Hence, it would be entirely
superfluous and even harmful for him to make his intentions
known. We know that for Kant, on the contrary, publicness is
the "transcendental principle" that should rule all action. Whatever
act "stands in the need of publicity" in order not to defeat
its own purpose is, you will remember, an act that combines
politics and right. Kant cannot have the'same notions as Plato
about acting and mere judging or contemplating or knowing.
If you ask yourself where and who this public is that would
give publicity to the intended act to begin with, it is quite obvious
~hat in Kant's case it cannot be a public of actors or participators
In government. The public he is thinking of is, of course, the
reading public, and it is the weight of their opinion he is appealing
to, riot the weight of their votes. In the Prussia of the last
decades of the eighteenth century-that is, a country under the
rule of an absolute monarch, advised by a rather enlightened
bureaucracy of civil servants, who, like the monarch, were completely
separated from "the subjects"-there could be no truly
public realm other than this reading and writing public. What
was secret and unapproachable by definition was precisely the
realm of government and administration. And if you read the
essays from which I have quoted here, it should be clear that
Kant could conceive of action only as acts of the powers-that-be
(whatever they might happen to be)-that is, governmental acts;
any actual action from the side of the subjects could consist only
in conspiratorial activity, the acts and plots of secret societies. In
other words, the alternative to established government is, for
him, not revolution but a coup d'etat. And a coup d'etat, in contradistinction
to a revolution, must indeed be prepared in secrecy,
whereas revolutionary groups or parties have always been eager
to make their goals public and to rally important sections of the
population to their cause. Whether or not this strategy has ever
brought about a revolution is another matter. But it is important
to understand that Kant's condemnation of revolutionary action
rests on a misunderstanding, because he conceives of it in terms
of a coup d'etat.
Kant Lectures 61
We are used to thinking about the difference between contemplation
and action in terms of the relation between theory
and practice, and though it is true that Kant wrote an essay on
this matter, "On the Common Saying: 'This May be True in
Theory, But It Does Not Apply in Practice,'" it is also true, and is
best demonstrated by that essay, that he did not understand the
issue as we understand it. Kant's notion of practice is determined
by Practical Reason; and the Critique of Practical Reason, which
deals with neither judgment nor action, tells you all about it.
Judgment, arising out of "contemplative pleasure" and "inactive
delight," has no place in it.133 In practical matters, not judgment
but will is decisive, and this will simply follows the maxim of
Reason. Even in the Critique oj Pure Reason Kant starts his discussion
of the "Pure Employment of Reason" with its practical implication,
although he then provisionally "sets aside practical
[i.e., moral] ideas to consider reason only in its speculative
... employment."134 This speculation concerns the ultimate
destination of the individual, the ultimate of "the most sublime
questions."135 Practical means moral in Kant, and it concerns the
individual qua individual. Its true opposite would be, not theory,
but speculation-the speculative use of reason. Kant's actual
theory in political affairs was the theory of perpetual progress
and a federal union of the nations in order to give the idea of
mankind a political reality. Whoever worked in this direction
was welcome. But these ideas, with whose help he reflected on
human affairs in general, are very different from the "wishful
participation bordering' on enthusiasm" that caught the spectators
of the French Revolution and "the exaltation [of] the uninvolved
public" looking on in sympathy "without the least intention
of assisting." In his opinion, it was precisely this sympathy
that made the revolution a "phenomenon ... not to be
forgotten"--or, in other words, that made it a public event of
world-historical significance. Hence: What constituted the appropriate
public realm for this particular event were not the
actors but the acclaiming spectators.
Since Kant did not write his political philosophy, the best way
to find out what he thought about this matter is to turn to his
"Critique of Aesthetic Judgment," where, in discussing the production
of art works in their relation to taste, which judges and
decides about them, he confronts an analogous problem. Wefor
reasons we need not go into-are inclined to think that in
order to judge a spectacle you must first have the spectacle-that
62 PART ONE
the spectator is secondary to the actor; we tend to forget that no
one in his right mind would ever put on a spectacle without
being sure of having spectators to watch it. Kant is convinced
that the world without. man would be a desert, and a world
without man means for him: without spectators. In his discussion
of aesthetic judgment, Kant makes a distinction between
genius and taste. Genius is required for the production of art
works, while, for judging them, for deciding whether or not they
are beautiful objects, "no more" (we would say, but not Kant) is
required than taste. "For judging of beautiful objects taste is
required ... , for their production genius is required."136 Genius,
according to Kant, is a matter of productive imagination and
originality, taste a mere matter of judgment. He raises the question,
which of the two is the "more noble" faculty-which is the
condition sine qua non "to which one has to look in the judging of
art as beautiful art?"137-assuming, of course, that most of the
judges of beauty lack the faculty of productive imagimition,
which is called genius, but that the few who are endowed with
genius do not lack the faculty of taste. And the answer is:
Abundance and originality of ideas are less necessary to
beauty than the accordance of the imagination in its freedom
with· the conformity to law of the understanding [which is
called taste]. For all the abundance of the former produces in
lawless freedom nothing but nonsense; on the other hand the
judgment is the faculty by which it is adjusted to the understanding.
~a.ste, like the judgment in general, is the discipline (or
tr~mng) of genius; it clips its wings ... , gives guidance ... ,
bnngs clearness and order [into the thoughts of genius;] it
makes the ideas susceptible of being permanently and generally
assented to, and capable of being followed by others, and
of an ever progressing culture. If, then, in the conflict of these
two properties in a product something must be sacrificed, it
should be rather on the side of genius. l38
K~nt allows. this su~ordination of genius· to taste even though
WIthout gemus nothmg for judgment to judge would exist. But
~~t says explicitly that "for beautiful art ... imagination, intellect,
sfrtnt, and taste are required," and he adds, in a note, that "the
~hree former .f~culties are united by means of the fourth," that
IS, by taste-I.e., by judgment.l39 Spirit, moreover-a special
faculty .apart from reason, intellect, and imagination--enables
the gemus to find an expression for the ideas "by means of which
Kant Lectures 63
the subjective state of mind brought about by them ... can be
communicated to others."l40 In other words, spirit-namely,
that which inspires the genius and only him and which "no sci~
nc~ can. teach and no industry can learn"---consists in expressmg
the meffable element in the state of mind [Gemiitszustand]"
that certain representations arouse in all of us but for which we
have ~o words and would therefore be unable, without the help
of gemus, to communicate to one another; it is the proper task of
genius to make this state of mind "generally communicable."141
The faculty that guides this communicability is taste, and taste or
judgment is ~ot the privilege of genius. The condition sine qu4 r:on for the eXistence of beautiful objects is communicability; the
Judgment of the spectator creates the space without which no
such objects could appear at all. The public realm is constituted
by the critics and the spectators, not by the actors or the makers.
And this critic and spectator sits in every actor and fabricator;
without this critical, judging faculty the doer or maker would be
so. isolated from the spectator that he would not even be perceIved.
Or, to put it another way, still in Kantian terms: the very
originality of the artist (or the very novelty of the actor) depends
on his making himself understood by those who are not artists
(or actors). And while one can speak of a genius in the singular
~ca~se of his originality, one can never speak, as Pythagoras
dId, m the same way of the spectator. Spectators exist only in the
plural. The spectator is not involved in the act, but he is always
involved with fellow spectators. He does not share the faculty of
genius, originality, with the maker or the faculty of novelty with
the actor; the faculty they have in common is the faculty of
judgment.
As far as making is concerned, this insight is at)east as old as
Latin (as distinguished from Greek) antiquity. We find it expressed
for the first time in Cicero's On the Orator:
For ev~rybody discrimi.nates [dijudicare], distinguishes between
!"lght and wr~>ng m matters 'Of art and proportion by
s?me sIlent s~nse WIthout any knowledge of art and proportIon:
an? while they can do this in the case of pictures and
statu~s, m other such works, for whose understanding nature
. ~as given them less equipment, they display this discriminatIon
much .more in judging th~ rhythms and pronunciations
of words, sI~ce these are rooted [i1ifixa] in common sense, and
of such things nature has willed that no one should be
altogether unable to sense and experience them [expertus].l42
64 PART ONE
And he goes on to notice that it is truly marvelous and remarkable
how little difference there is between the learned and the
ignorant in judging, while there is the greatest difference in
making. 143
Kant, quite in the same vein, remarks in his Anthropology that
insanity consists in having lost this"common sense that enables us
to judge as spectators; and the opposite of it is a sensus privatus, a
private sense, which he also calls "logical Eigensinn, "144 implying
that our logical faculty, the faculty that enables us to draw conclusions
from premises. could indeed function without communication-
except that then, namely, if insanity has caused the
loss of common sense, it would lead to insane results precisely
because it has separated itself from the experience that can be
valid and validated only in the presence of others.
The most surprising aspect of this business is that common
sense, the faculty of judgment and of discriminating between
right and wrong, should be based on the sense of taste. Of our
five senses, three clearly give us objects of the external world and
therefore are easily communicable. Sight, hearing, and touch
deal directly and, as it were, objectively with objects; throu?h
these senses objects are identifiable and can be shared With
others-can be .expressed in words, talked about, etc. Smell and
taste give inner sensations that are entirely private and incommunicable;
what I taste and what I smell cannot be expressed
in words at all. They seem to be private senses by definition.
Moreover, the three objective senses have this in common:
they are capable of representation, of making p~e~nt something
that is absent. I can. for example. recall a building, a melody,
the touch of velvet. This faculty-which in Kant is called
Imagination-is possessed by neither taste nor smell. On the
other hand, they are quite clearly the discriminatory senses: ~ne
can withhold judgment from what one sees and, though less"easlly,
one can withhold judgment from what one hears or touches.
But in matters of taste or smell, the it-pleases-or-displeases-me is
immediate and overwhelming. And pleasure or displeasure,
again, are entirely idiosyncratic. Why then should taste-not beginning
with Kant but ever since Gracian-be .elevated to and
become the vehicle of the mental faculty of Judgment? And
judgment, in turn-that is, not the judgment that is simply co~nitive
and resides in the senses that give us the objects we have In
Kant Lectures 65
common with all living things that have the same sensual equipment,
but judgment between right and wrong-why should this
be based on this private sense? Isn't it true that when it comes to
matters of taste we are so little able to communicate that we
cannot even dispute about them? De gustibus non disputandum est.
The solution to this riddle is: Imagination. Imagination, the
ability to make present what is absent, transforms the objects of
the objective senses into "sensed" objects, as though they were
objects of an inner sense. This happens by reflecting not on an
object but on its representation. The represented object now
arouses one's pleasure or displeasure, not direct perception of
the object. Kant calls this "the operation of reflection."145
Eleventh Session
LET ME REPEAT, to remind you of what we were talking about
before the vacation: We found that in Kant the common distinction
or antagonism between theory and practice in political
matters is the distinction between the spectator and the actor,
and to our surprise we saw that the spectator had precedence:
what counted in the French Revolution, what made -it a worldhistorical
event, a phenomenon not to be forgotten, were not the
deeds and misdeeds of the actors but the opinions, the enthusiastic
approbation, of spectators, of persons who themselves
were not involved. We also saw that these uninvolved and nonparticipating
spectators--who, as it were, made the event at
home in the history of mankind and thus for all future actionwere
involved with one another (in contradistinction to the
Pythagorean spectator at the Olympic games or the spectators in
the Platonic cave, who could not communicate with one
another). This much we got from Kant's political writings; but in
order to understand this position we turned to the Critique oj
Judgment, and there we found that Kant was confronting a similar
or analogous situation, the relation between the artist, the
maker, or the genius and his audience. Again the question arose
for Kant: Who is the more noble, and which is the more noble
quality, to know how to make or to know how tojudge? We saw
that this was an old question, one that Cicero had already raised,
namely, that everyone seems to be able to discriminate between
right and wrong in matters of art but that very few are capable of
making them; and Cicero said that this judging was done by a
66 PART ONE
"silent sense"-meaning, probably, a sense that otherwise does
not express itself.
This kind of judgment has, ever since Gracian, been called
Taste, and we recalled that the phenomenon of taste was what
actually led Kant to produce his Critique of Judgment; in fact, as late
as 1787, he still called it a Critique of Taste. This then led us to ask
ourselves why the mental phenomenon of Judgment w~s ~erived
from the sense of taste and not from the more objective
senses, especially the most objective of them, the sense of sight.
We mentioned that taste and smell are the most private of the
senses; that is, they sense not an object but a sensation, and this
sensation is not object-bound and cannot be recolle~ted. (Y ~u
can recognize the smell of a rose or the taste of a particular dIsh
if you sense it again, but in the absence of the rose or the food
you cannot have it present as you can any sight you have ever
seen or any melody you have ever heard, even though they are
absent; in other words, these are senses that cannot be represented.)
At the same time, we saw why taste rather than any of
the other senses became the vehicle for judgment; it was because
only taste and smell are discriminatory by their very nature and
because only these senses relate to the particular qua particular,
whereas all objects given to the objective senses share their properties
with other objects, that is, they are not unique. Moreover,
the it-pleases-or-displeases-me is overwhelmingly present in
taste and smell. It is immediate, unmediated by any thought or
reflection. These senses are subjective because the very objectivity
of the seen or heard or touched thing is annihilated in them or at
least is not present; they are inner senses because the food we
taste is inside ourselves, and so, in a way, is the smell of the rose.
And the it-pleases-or-displeases-me is almost identical with an
it-agrees-or-disagrees-with-me. The point of the matter is: I am
directly affected. For this very reason, there can be no dIspute
about right or wrong here. De gustibus non disputandum est-there
can be no dispute about matters of taste. No argument can persuade
me to like oysters if I do not like them. In other words, the
disturbing thing about matters of taste is that they are not communicable.
The solution to these riddles can be indicated by the names of
two other faculties: imagination and common sense.
Imagination, that is, the faculty of having present what is absent,
146 transforms an object into something I do not have to be
directly confronted with but that I have in some sense internalized,
so that I now can be affected by it as though it were
Kant Lectures 67
giv~n to me by.a nonobjective sense. Kant says: "That is beautiful
~hIch pleases m the mere act of judging it."147 That is: It is not
Impo~nt whether or not it pleases in perception; what pleases
merely m p~rception is gratifying but not beautiful. It pleases in
representation, for now the imagination has prepared it so that I
can reflect on it. This is "the operation of reflection." Only what
touches, affects, one in representation, when one can no longer
~e affected by immediate presence-when one is uninvolved,
lIke the spectator who was uninvolved in the actual doings of the
French Rev?lution-can be Judged to be right or wrong, important
or Irrelevant, beautiful or ugly, or something in between.
One then speaks of judgment and no longer of taste
because, though it still affects one like a matter of taste, one now
has, by means of representation, established the proper distance,
the remoteness or uninvolvedness or disinterestedness that is
requisit.e for· .approbation and disapprobation, for ev~luating
somet.hmg at Its proper worth. By removing the object, one has
established the conditions for impartiality.
As for common sense: Kant was very early aware that there
was something nonsubjective in what seems to be the most private
a?d subjective se?se. This awareness is expressed as follows:
there IS the fact that, m matters of taste, "the beautiful, interests
. [us] only [when ~e are] in society. '" A man abandoned by himself
on a deser~ Island would adorn neither his hut nor his person.
. . . [Man] IS not contented with an object if he cannot feel
satisfaction in it in common with others."148 Or: "We are
ashamed if our taste does not agree with others," whereas we
despise ourselves when we cheat at play but are ashamed only
when we get caught. Or: "In matters of taste we must renounce
ourselves in favor of others" or in order to please others (Wir
miissen uns gleichsam anderen zu gifallen entsagen).149 Finally, and
most radically: "In Taste egoism is overcome'" that is we are
"considerate," in the original meaning of the ~ord. We must
overcome our special subjective conditions for the sake of
others. In other words, the nonsubjective element in the nonobjective
senses is intersubjectivity. (You must be alone in order to
think; you need company to enjoy a meal.)
Judgment, and especially judgments of taste, always reflects
upon others. a~d their taste, takes their possible judgments into
account. ThIS IS necessary because I am human and cannot live
outsi?e the company of men. I judge as a member of this com~
um~y and .not as, a member of a supersensible world, perhaps
mhabited WIth bemgs endowed with reason but not with the
68 PART ONE
same sense apparatus; as such, I obey a law given to myself
regardless of what others may think of the matter. This law is
self-evident and compelling in and by itself. The basic otherdirectedness
of judgment and taste seems to stand in the greatest
possible opposition to the very nature, the absolutely idiosyncratic
nature, of the sense itself. Hence we may be tempted to conclude
that the faculty of judgment is wrongly derived from this
sense. Kant, being very aware of all the implications of this derivation,
remains convinced that it is a correct one. And the most
plausible thing in his favor is his observation, entirely correct,
that the true opposite of the Beautiful is not the Ugly but "that
which excites diSgust. "150 And do not forget that Kant originally
planned to write a Critique of Moral Taste, so that the
phenomenon of the beautiful is, so to speak, what is left of his
early observations about these· phenomena of judgment.
Twelfth Session
THERE ARE TWO MENT AL OPERATIONS in judgment. There is the
operation of the imagination, in which one judges objects that
are no longer present, that are removed from i~ediate sense
perception and therefore no longer affect one directly, and yet,
though the object is removed from one's outward senses, it now
becomes an object for one's inner senses. When one represents
something to oneself that is absent, one closes, as it were, those
senses by which objects in. their objectivity are given to one. The
sense of taste is a sense in which one, as it were, senses oneself; it
is an inner sense. Hence: the Critique of Judgment grows out of the
Critique of Taste. This operation of imagination prepares the
object for "the operation of reflection." And this second
operation-the operation of reflection-is the actual activity of
judging something.
This twofold operation establishes the most important condition
for all judgments, the condition of impartiality, of "disinterested
delight." By closing one's eyes one becomes an impartial,
not a directly affected, spectator of visible things. The
blind poet. Also: by making what one's external senses perceived
into an object for one's inner sense, one compresses and condenses
the manifold of the sensually given; one is in a position to
"see" by the eyes of the mind, i.e., to see the whole that giv~s
meaning to the particulars. The advantage the spectator has IS
that he sees the playas a whole, wh;ile each of the actors knows
Kant Lectures 69
on~y his part or, if he should judge from the perspective of
actmg, only the part of the whole that concerns him. The actor is
partial by definition.
The question that now arises is this: What are the standards of
the operation of reflection? The operation of imagination has
made the absent immediately present to one's inner sense, and
this inner sense is discriminatory by definition: it says it-pleases
or it-displeases. It is called taste because, like taste, it chooses. But
this choice. is itself subject to still another choice: one can approve
or disapprove of the very fact of pleasing: this too is subject
~o "approbation or disapprobation." Kant gives examples: "The
JOY of a needy but well-meaning man at becoming the heir of an
affectio~ate but penurious father"; or, conversely, "a deep grief
may sausfy the person experiencing it (the sorrow of a widow at
the death of her excellent husband); or ... a gratification can in
addition please (as in the sciences that we pursue); or a grief (e.g.
hatred, envy, revenge) can, moreover, displease."151 All these
approbations and disapprobations are afterthoughts; at the time
you are doing scientific research you may be vaguely aware that
you are happy doing it, but only later, in reflecting on it, when you
are no longer busy doing whatever you were doing, will you be
able to have this additional "pleasure": of approving it. In this
additional pleasure it is no longer the object that pleases but that
we judge it to be pleasing. If we relate this to the whole of nature
or the world, we can say: We are pleased that the world or
nature pleases us. The very act of approbation pleases, the very
act of disapprobation displeases. Hence the question: How does
one choose between approbation and disapprobation? One
criterion is easily guessed if one considers the examples given
above; it is the criterion of communicability or publicness. One is
not overeager to express joy at the death of a father or feelings
of hatred and envy; one will, on the other hand, have no compunctions
about announcing that one enjoys doing scientific
work, and one will not hide grief at the death of an excellent
husband.
The criterion, then, is communicability, and the standard of
deciding about it is common sense.
Critique of Judgment, § 39:
"Of the Communicability of a Sensation"
It is true that the sensation of the senses is "generally communicable
because we can assume that everyone has senses like our
own. But this cannot be presupposed of any single sensation."
70 PART ONE
These sensations are private; also, no judgment is involved: we
are merely passive, we react, we are not spontaneous, as we are
when we imagine something at will or reflect on it.
At the opposite pole we find moral judgments. These, according
to Kant, are necessary; they are dictated by practical
reason. They might be communicated, but this communication
is secondary; even if they could not be communicated, they
would remain valid.
We have, third,judgments of,orpleasure in, the beautiful: "this
pleasure accompanies the ordinary apprehension [Auffasung; not
"perception"] of an object by the imagination ... by means of a
procedure of the judgment which it must also exercise on behalf
of the commonest experience." Some such judgment is in every
experience we have with the world. This judgment is based on
"that common and sound intellect [gemeiner und gesunder Verstand]
which we have to presuppose in everyone." How does this
"common sense" distinguish itself from the other senses, which
we also have in common but which nevertheless do not guarantee
agreement of sensations?
Critique oj Judg;ment, §40:
"Of Taste
as a Kind of Sensus Communis"
The term is changed. The term "common sense" meant a sense
like our other senses-the same for everyone in his very privacy.
By using the Latin term, Kant indicates that here he means
something different: an extra sense-like an extra mental capability
(German: Menschenverstand)-that fits us into a community.
The "common understanding of men ... is the very least to be
expected from anyone claiming the name of man." It is the
capability. by which men are distinguished from animals and
from gods. It is the very humanity of man that is manifest in this
sense.
The sensus communis is the specifically human sense because
communication, i.e., speech, depends on it. To make our needs
known, to express fear,joy, etc., we would not need speech. Gestures
would be enough, and sounds would be a good enough
substitute for gestures if one needed to bridge long distances.
Communication is not expression. Thus: "The only general
symptom of insanity is the loss of the sensus communis and the
logical stubbornness in insisting on one's own sense (sensus
privatus), which [in an insane person] is substituted for it" ["Das
Kant Lectures 71
einzige allgemeine Merkmal der Veriicktheit ist der Verlust des
Gemeinsinnes (sensus communis) und der dagegen eintretende
logische Eigensinn (sensus privatus)"].152 The insane person has
not lost his powers of expression to make his needs manifest and
known to others.
[U]nder the sensus communis we must include the idea of a
sense ~ommon to all, i.e., of a faculty of judgment which, in its
r.eflectlon, takes accou.nt (a priori) of the mode of representatIon
of all other men In thought, in order, as it were, to compa~
e ~ts judgment with the collective reason of humanity ....
ThIS IS done by comparing our judgment with the possible
rather th~n the actual judgments of others, and by putting
ours~lv~s I!l the pl~ce of ~y other man, by abstracting from
the hffiltatlons whIch contlngently attach to our own judgment
.... Now this operation of reflection seems perhaps too
arti?cial to be attributed to the faculty called common sense,
but It only appears so when expressed in abstract formulae. In
itself there is nothing more natural than to abstract from
charm or emotion if we are seeking a judgment that is to serve
as a universal rule. 153
After this, follow the maxims of this sensus communis: Think for
oneself (the maxim of enlightenment); Put oneself in thought in
the place of everyone else (the maxim of the enlarged
mentality); and, the maxim of consistency, Be in agreement with
oneself ("mit sich selbst Einstimmung denken").154
These are not matters of cognition; truth compels, one doesn't
need any "maxims." Maxims apply and are needed only for
matters of opinion and in judgments. Andjust as, in moral matters,
one's maxim of conduct testifies to the quality of one's will,
so the maxims of judgment· testify to one's "turn of thought"
(Den~ngsart) in the worldly matters that are ruled by the commumty
sense:
However small may. be the area or the degree to which a
man's ~atural. gifts reach, yet it indicates a man of enlarged
thought If he dIsregards the subjective private conditions of his
own judgment, by which so many others are confined, and
reflects. upon it fr?m a. general standpoint (which he can only
determIne by plaCIng himself at the standpoint of others). 155
After this we find a clear distinction between what usually is
called common sense and sensus communis. Taste is this "community
sense" (gemeinscliajtlicher Sinn), and sense means here "the
effect of a reflection upon the mind." This reflection affects me
72 PART ONE
as though it were a sensation, and precisely one of taste, the
discriminatory, choosing sense. "We could even define taste as
the faculty of judging of that which makes generally communi- .
cable, without the mediation of a concept, our feeling [like sensation]
in a given representation [not perception]."158
Taste is then the faculty of judging a priori of the communicability
of feelings that are bound up with a given representation.
. .. If we could assume that the mere general communicability
of a feeling must carry in itself an interest for us
with it ... we should be able to explain why the feeling in the
judgment of taste comes to be imputed to everyone, so to
speak, as a dUty.157
Thirteenth Session
WE NOW CONCLUDE our discussion of common sense in its very
special Kantian meaning, according to which common sense is
community sense, sensus communis, as distinguished from sensus
privatus. This sensus communis is what judgment appeals to in
everyone, and it is this possible appeal that gives judgments their
special validity. The it-pleases-or-displeases.:me, which as a feeling
seems so utterly private and noncommunicative, is actually
rooted in this community sense and is therefore open to communication
once it has been transformed by reflection, which
takes all others and their feelings into account. The validity of
these judgments never has the validity of cognitive or scientific
propositions, which are not judgments, properly speaking. (If
one says, "The sky is blue" or "Two and two are four," one is not
'~udging"; one is saying what is, compelled by the evidence
either of one's senses or one's mind.) Similarly, one can never
compel anyone to agree with one's judgments-"This is beautiful"
or "This is wrong" (Kant does not believe that moral judgments
are the product of reflection and imagination, hence they
are not judgments strictly speaking); one can only "woo" or
"court" the agreement of everyone else. And in this persuasive
activity one actually appeals to the "community sense." In other
words, when one judges, one judges as a member of a community.
It is in "the nature of judgment, whose right use is so
necessarily and so generally requisite, that by the name of 'sound
understanding' [common sense in its usual meaning] nothing
else but this faculty is meant."158
Kant Lectures 73·
Critique of Judgment, §41:
"Of the Empirical Interest in the Beautiful"
We turn now, briefly, to §41 of the Critique of Judgment. We saw
that an "enlarged mentality" is the condition sine qua non of right
judgment; one's community sense makes it possible to enlarge
one's mentality. Negatively speaking, this means that one is able
to abstract from private conditions and circumstances, which, as
far as judgment is concerned, limit and inhibit its exercise. Private
conditions condition us; imagination and reflection enable
us to liberate ourselves from them and to attain that relative
impartiality that is the specific virtue of judgment. The less
idiosyncratic one's taste is, the better it can be communicated;
communicability is again the touchstone. Impartiality in Kant is
called "disinterestedness," the disinterested delight in the Beautiful.
Disinterestedness is actually implied in the very words
beautiful and ugly, as it is not in the words right and wrong. If,
therefore, § 41 speaks of an "Interest in the Beautiful," it actually
speaks of having an "interest" in disinterestedness. Interest here
refers to usefulness. If you look at nature, there are many natural
objects in which you have an immediate interest because they
are useful for the life process. The problem, as Kant sees it, is
the superabundance of nature; there are so many things that
seem literally good for nothing except that their form is
beautiful-for instance, crystals. Because we can call something
beautiful, we have a "pleasure in its existence," and that is "wherein
all interest consists." (In one of his reflections in the Notebooks,
Kant remarks that the Beautiful teaches us to "love without
self-interest [ohne Eigennutz].") And the peculiar characteristic of
this interest is that it "interests only in society":
If we adm~t the impulse to society as natural to man, and his
fitness for it, and his propension toward it, i.e., sociability, as a
requisite for man as a being destined for society, and so as a
property belonging to being human and humaneness [Humanitat],
we cannot escape from regarding taste as a faculty for
judging everything in respect of which we can communicate
our feeling to all other men, and so as a means of furthering
that which everyone's natural inclination desires.159
In "Conjectural Beginning of Human History" Kant states that
"the highest end intended for man is sociability,"180 and this
sounds as though sociability is a goal to be pursued through the
course of civilization. We find here, on the contrary, sociability as
74 PART ONE
the very origin, not the goal, of man's humanity; that is, we find
that sociability is the very essence of men insofar as they are of
this world only. This is a radical departure from all those
theories that stress human interdependence as dependence on
our fellow men for our needs and wants. Kant stresses that at least
one of our mental faculties, the faculty of judgment, presupposes
the presence of others. And this mental faculty is not just what
we terminologically call judgment; bound up with it is the notion
that "feelings and emotions [Empfindungen] are regarded as of
. worth only insofar as they can be generally communicated"; that
is, bound up with judgment is our whole soul apparatus, so to
speak. Communicability obviously depends on the enlarged
mentality; one can communicate only if one is able to think from
the other person's standpoint; otherwise one will nev,er meet
him, never speak in such a way that he understands. By communicating
one's feelings, one's pleasures and disinterested delights,
pne tells one's choices and one chooses one's company: "I
would rather be wrong with Plato than right with the Pythagoreans."
161 Finally, the larger the scope of those to whom one can
communicate, the greater is the worth of the object:
[A]lthough the pleasure which everyone has in such an object
is inconsiderable [that is, so long as he does not share it] and
in itself without any marked interest, yet the idea of its general
communicability increases its worth in an almost infinite
degree. 162
At this point, the Critique oj Judgment joins effortlessly Kant's
deliberation about a united mankind, living in eternal peace.
What interests Kant in the abolition of war and makes him an
odd kind of pacifist is not the elimination of conflict, not even
the elimination of the cruelty, the bloodshed, the atrocities of
warfare. It is, as he sometimes even grudgingly concludes
(grudgingly, because men could become like sheep; there is
something sublime in the sacrifice of life; etc.), the necessary
condition for the greatest possible enlargement of the enlarged
mentality:
[If] everyone expects and requires from everyone else this
reference to general communication [of pleasure, of disinterested
delight, then we have reached a point where it is as
if there existed] an original compact, dictated by mankind
itself.16s
This compact, according to Kant, would be a mere idea, reg-
Kapt Lectures 75
ulating not just our reflections on these matters but actually
inspiring our actions. It is by virtue of this idea of mankind,
present in every single man, that men are human, and they can
be called civilized or humane to the extent that this idea becomes
the principle not only of their judgments but of their actions. It
is at this point that actor and spectator become united; the
maxim of the actor and the maxim, the "standard," according to
which the spectator judges the spectacle of the world, become
one. The, as it were, categorical imperative for action could read
as follows: Always act Qn the maxim through which this original
compact can be actualized into a general law. It is from this
viewpomt, and not just from love of peace, that the treatise
Perpetual Peace was written, that the "Preliminary Articles" of the
first section and the "Definitive Articles" of the second section
were spelled out. Among the former, the most important and
also the most original is the sixth:
No state shall, during war, permit such acts of hostility which
would make mutual confidence in the subsequent peace impossible.
164
Among the latter, it is the third that actually follows direcdy
from sociability and communicability:
The law of world citizenship shall be limited to conditions of
universal hospitality. 165 .
If such an original compact of mankind exists, then a "right of
temporary sojourn, a right to associate," is one of the inalienable
human rights. Men
have it by virtue of their common possession of the earth,
where, as a globe, they cannot infinitely disperse and hence
must finally tolerate the presence of each other .... [For] the
common right to the face of the earth ... belongs to human
beings generally .... [All of which can be proved negatively by
the fact] that a violation of rights in one place is felt throughout
the world, [from which Kant concluded that] the idea of a
law of world citizenship is no high-flown or exaggerated notion.
166
To come back to what we said before: One judges always as a
member of a community, guided by one's community sense,
one's sensus communis. But in the last analysis, one is a member of
a world community by the sheer fact of being human; this is
one's "cosmopolitan existence." When one judges and when one
76 PART ONE
acts in political matters, one is supposed to take one's bearings
from the idea, not the actuality, of being a world citizen and,
therefore, also a Weltbetrachter, a world spectator.
In conclusion, I shall try to clear up some of the difficulties.
The chief difficulty in judgment is that it is "the faculty of
thinking the particular";167 but to think means to generalize,
hence it is the faculty of mysteriously combining the particular
and the general. This is relatively easy if the general is given-as
a rule, a principle, a law-so that the judgment merely subsumes
the particular under it. The difficulty becomes great "if only the
particular be given for which the general has to be found."16s
For the standard cannot be borrowed from experience and cannot
be derived from outside. I cannot judge one particular by
another particular; in order to determine its worth, I need a
tertium quid or a tertium comparationis, something related to the
two particulars and yet distinct from both. In Kant we find actually
two altogether different solutions to this difficulty:
As a real tertium comparationis, two ideas appear in Kant on
which one must reflect in order to arrive at judgments. The first,
which appears in the political writings and, occasionally, in the
Critique oj Judgment, is the idea of an original compact of mankind
as a whole, and derived from this idea is the notion of
humanity, of what actually constitutes the humanness of human
beings, living and dying in this world, on this earth that is a
globe, which they inhabit in common, share in common, in the
succession of generations. In the Critique oj Judgment one also
finds the idea of purposiveness. Every object, says Kant, as a
particular, needing and containing the ground of its actuality in
itself, has a purpose. The only objects that seem purposeless are
aesthetic objects, on the one hand, and men, on the other. You
cannot ask quem adjinem?-for what purpose?-since they are
good for nothing. But we saw that the purposeless art objects, as
well as the seemingly purposeless variety of nature, have the
"purpose" of pleasing men, making them feel at home in the
world. This can never be proved; but purposiveness is an idea by
which to regulate one's reflections in one's reflective judgments.
But Kant's second, and I think by far more valuable, solution is
exemplary validity. ("Examples are the go-cart of judgments.")169
Let us see what this is. Every particular object-for instance, a
table-has a corresponding concept by which we recognize the
table as a table. This can be conceived of as a "Platonic" idea or
Kantian schema; that is, one has before the eyes of one's mind a
Kant Lectures 77
schematic or merely formal table shape to which every table
somehow must conform. Or one proceeds, conversely, from the
many tables one has seen in one's life, strips them of all secondary
qualities, and the remainder is a table-in-general, containing
the minimum properties common to all tables: the abstract
table. One more possibility is left, and this enters into judgments
that are not cognitions: one may encounter or think of some
table that one judges to be the best possible table and take this
table as the example of how tables actually should be: the
exemplary table ("example" comes from eximere, "to single out
some particular"). This exemplar is and remains a particular
that in its very particularity reveals the generality that otherwise
could not be defined. Courage is like Achilles. Etc.
We were talking about the partiality of the actor, who, because
he is involved, never sees the meaning of the whole. This is true
for all stories; Hegel is entirely right that philosophy, like the owl
of Minerva, spreads its wings only when the day is over, at dusk.
The same is not true for the beautiful or for any deed in itself.
The beautiful is, in Kantian terms, an end in itself because all its
possible meaning is contained within itself, without reference to
others-without linkage, as it were, to other beautiful things. In
Kant himself there is this contradiction: Infinite Progress is the
law of the human species; at the same time, man's dignity demands
that he be seen (every single one of us) in his particularity
and, as such, be seen-but without any comparison and independent
of time-as reflecting mankind in general. In other
words, the very idea of progress-if it is more than a change in
circumstances and an improvement of the world---contradicts
Kant's notion of man's dignity. It is against human dignity to
believe in progress. Progress, moreover, means that the story
never has an end. The end of the story itself is in infinity. There
is rio point at which we might stand still and look back with the
backward glance of the historian.
I mag;ination
Seminar on Kant's Critique oj Judgment, given at the
New School for Social Research, Fall, 1970·
[In these seminar notes Hannah Arendt elaborates the notion of
exemplary validity, introduced on pages 76-77 of the Kant Lectures,
by turning to Kant's analysis of Transcendental Imagination in the
account of the Schematism in the first edition of the Critique of Pure
Reason. Exemplary validity is of crucial importance, for it supplies the
basis for a conception of political science centered on particulars (stories,
historical examples), not universals (the concept of historical process;
general laws of history). Arendt quotes Kant to the effect that what the
schemata do for cognition, examples do for judgment (Critique of Judgment,
§ 59). Without this important background concerning the
Schematism from the first Critique, we lack a full appreciation of the role
of imagination in representation and, therewith, in judgment. It would
be a mistake to suppose that these pages on Imagination are on a different
topic, of only passing relevance to judging. On the contrary, this
seminar material, with its extended account of exemplary validity, relating
it to the function of imagination in the Schematism, supplies an
indispensable piece in the puzzle if we hope to reconstruct the full
contours of Arendt's theory of judging.-R. B.]
I. Imagination, Kant says, is the faculty of making present what
is absent, the faculty of re-presentation: "Imagination is the faculty
of representing in intuition an object that is not itself present."
l Or: "Imagination ifacultas imaginandi) is a faculty of perception
in the absence of an object."2 To give the name "imagination"
to this faculty of having present what is absent is natural
enough. If I represent what is absent, I have an image in my
mind-an image of something I have seen and now somehow
reproduce. (In the Critique oj Judgment, Kant sometimes calls this
faculty "reproductive"-I represent what I have seen-to distinguish
it from the "productive" faculty-the artistic faculty that
produces something it has never seen. But productive imagination
[genius] is never entirely productive. It produces, for instance,
the centaur out of the given: the horse and the man.)
80 PART ONE
This sounds as though we are dealing with memory. But for
Kant, imagination is the condition for memory, and a much
more comprehensive faculty. In his Anthropology Kant puts
memory, "the faculty to make present the past," together with a
"faculty of divination," which makes present the future. Both are
faculties of "association," that is, of connecting the "no longer"
and the "not yet" with the present; and "although they themselves
are not perceptions, they serve to connect the perceptions
in time."3 Imagination does not need to be led by this temporal
association; it can make present at will whatever it chooses.
What Kant calls the faculty of imagination, to make present to
the mind what is absent from sense perception, has less to do
with memory than with another faculty,· one that has been
known since the beginnings of philosophy. Parmenides (fragment
4) called it nous (that faculty "through which you look
steadfastly at things which are present though they are absent"),4
and by this he meant that Being is never present, does not present
itself to the senses. What is not present in the perception of
things is the it-is; and the it-is, absent from the senses, is
nevertheless present to the mind. Or Anaxagoras: apsis ton adeLon
ta phainomena, "A glimpse of the nonvisible are the appearances."
5 To put this differently: by looking at appearances
(given to intuition in Kant) one becomes aware of, gets a glimpse
of, something that does not appear. This something is Being as
such. Hence, metaphysics, the discipline that treats of what lies
beyond physical reality and still, in a mysterious way, is given to
the mind as the nonappearance in the appearances, becomes
ontology, the science of Being.
II. The role of imagination for our cognitive faculties is perhaps
the greatest discovery Kant made in the Critique if Pure Reason.
For our purposes it is best to turn to the "Schematism of the Pure
Concepts of Understanding."6 To anticipate: the same faculty,
imagination, which provides schemata for cognition, provides
examples for judgment.
You will recall that in Kant there are the two stems of experience
and knowledge: intuition (sensibility) and concepts (understanding).
Intuition always gives us something particular; the
concept makes this particular knoum to us. If I say: "this table," it
is as though intuition says "this" and the understanding adds:
"table." "This" relates only to this specific item; "table" identifies
it and makes the object communicable.
Imagination 81
Two questions arise. First, how do the two faculties come together?
To be sure, the concepts of understanding enable the
mind to order the manifold of the sensations. But where does
the synthesis, their working together, spring from? Second, is
thi~ concept, "table," a concept at all? Is it not perhaps also a kind
of Image? So that some sort of imagination is present in the
intellect as well? The answer is: "Synthesis of a manifold ... is
what first gives rise to knowledge .... [It] gathers the elements
for knowledge, and unites them into a certain content"; this
synthesis "is the mere result of the faculty of imagination, a blind
but indispensable function of the soul, without which we should
have no knowledge whatsoever, but of which we are scarcely ever
conscious."7 And the way imagination produces the synthesis is
by "providing an image for a concept."8 Such an image is called a
"schema."
The two extremes, namely sensibility. and understanding,
must be brought into connection with each other by
means ... of imagination, because otherwise the former,
though indeed yielding appearances, would supply no objects
of empirical knowledge, hence no experience.9
Here Kant calls upon imagination to provide the connection
between the two faculties, and in the first edition of the Critique
if Pure Reason he calls the faculty of imagination "the faculty of
synthesis in general [uberhaupt]." At other places where he·
speaks directly of the "schematism" involved in our understanding,
he calls it "an art concealed in the depths of the human
soul"10 (i.e., we have a kind of "intuition" of something that is
never present), and by this he suggests that imagination is actually
the common root of the other cognitive faculties, that is, it is
the "common, but to us unknown, root" of sensibility and understanding,
l1 of which he speaks in the Introduction to the Critique
if Pure Reason and which, in its last chapter, without naming the
faculty, he mentions again. 12
III. Schema: The point of the matter is that without a "schema"
one can never recognize anything. When one says: "this table,"
the general "image" of table is present in one's mind, and one
recognizes that the "this" is a table, something that shares its
qualities with many other such things though it is itself an individual,
particular thing. If I recognize a house, this perceived
house also includes how a house in general looks. This is what
82 PART ONE
Plato called the eidos-the general form-of a house, which is
never given to the natural senses but only to the eyes of the
mind. Since, strictly speaking, it is not given even to "the eyes of .
the mind," it is something like an "image" or, better, a "schema."
Whenever one draws or builds a house, one draws or builds a
particular house, not the house as such. Still, one could not do it
without having this schema or eidos before the eye of one's mind.
Or, as Kant says: "No image could ever be adequate to the concept
of triangle in general. It would never attain that universality
of the concept which renders it valid of all triangles, whether
right-angled, obtuse-angled, or acute-angled; ... the schema of
the triangle can exist nowhere but in thought."13 Yet, though it
exists in thought only, it is a kind of "image"; it is not a product
of thought, nor is it given to sensibility; and least of all is it the
product of an abstraction from sensibly given data. It is something
beyond or between thought and sensibility; it belongs to
thought insofar as it is outwardly invisible, and it belongs to
sensibility insofar as it is something like an image. Kant therefore
sometimes calls imagination "one of the original sources ... of all
experience," and says that it cannot itself "be derived from any
other faculty of the mind."14
One more example: "The concept 'dog' signifies a rule according
to which my imagination can delineate the figure of a
four-footed animal in a general manner [but as soon as the
figure is delineated on paper it is again a particular animall],
without limitation to any single determinate figure such as experience,
or any possible image that I can represent in concreto,
actually presents."15 This is the "art concealed in the depths of
the human soul, whose real modes of activity nature is hardly
likely ever to allow us to discover and to have open to our
gaze."16 Kant says that the image-for instance, the George
Washington Bridge-is the product "of the empirical faculty of
reproductive imagination; the schema [bridge] ... is a product
... of pure a priori imagination ... through which images
themselves first become possible."17 In other words: if I did not
have the faculty of "schematizing," I could not have images.
IV. For us, the following points are decisive.
1. In perception of this particular table there is contained
"table" as such. Hence, no perception is possible without imagination.
Kant remarks that "psychologists have hitherto failed to
Imagination 83
realize that imagination is a necessary ingredient of perception
itself." 18
2. The schema "table" is valid for all particular tables. Without
it, we would be surrounded by a manifold of objects of which we
could say only "this" and "this" and "this." Not only would no
knowledge be possible, but communication-"Bring me a table"
(no matter which}-would be impossible.
3. Hence: Without the ability to say "table," we could never
communicate. We can describe the George Washington Bridge
because we all know: "bridge." Suppose someone comes along
who does not know "bridge," and there is no bridge to which I
could point and utter the word. I would then draw an image of
the schema of a bridge, which of course is already a particular
bridge, just to remind him of some schema known to him, such
as "transition from one side of the river to the other."
In other words: What makes particulars communicable is (a)
that in perceiving a particular we have in the back of our minds
(or in the "depths of our souls") a "schema" whose "shape" is
characteristic of many such particulars and (b) that this schematic
shape is in the back of the minds of many different people.
These schematic shapes are products of the imagination,
although "no schema can ever be brought into any image whatsoever.
"19 All s.m gI e agreements or d·I sagreements presuppose
that we are talking about the same thing-that we, who are
many, agree, come together, on something that is one and the
same for us all.
4. The Critique of Judgment deals with reflective judgments as
distinguished from determinant ones. Determinant judgments
subsume the particular under a general rule; reflective judgments,
on the contrary, "derive" the rule from the particular. In
the schema, one actually "perceives" some "universal" in the
particular. One sees, as it were, the schema "table" by recognizmg
the table as table. Kant hints at this distinction between determinant
and reflective judgments in the Critique of Pure Reason
by drawing a distinction between "subsuming under a concept"
and "bringing to a concept."20
5. Finally, our sensibility seems to need imagination not only
as an aid to knowledge but in order to recognize sameness in the
manifold. As such, it is the condition of all knowledge: ·the
"synthesis of imagination, prior to apperception, is the ground
of the possibility of all knowledge, especially of experience."21 As
:1
,
" ,
84 PART ONE
such, imagination "determines the sensibility a priori," i.e., it is
inherent in all sense perceptions. Without it, there would be
neither the objectivity of the world-that it can be known-nor
any possibility of communication-that we can talk about it.
v. The importance of the schema for our purposes is that sensibility
and understanding meet in producing it through imagination.
In the Critique of Pure Reason imagination is at the service of
the intellect; in the Critique of judgment the intellect is "at the
service of imagination."22
In the Critique of judgment we find an analogy to the "schema":
the example. 23 Kant accords to examples the same role in judgments
that the intuitions called schemata have for experience
and cognition. Examples playa role in both reflective and determinant
judgments, that is, whenever we are concerned with
particulars. In the Critique of Pure Reason-where we read that
'judgment is a peculiar talent which can be practiced only, and
cannot be taught" and that "its lack no school can make
good"24-they are called "the go-cart [Giingelband] of judgment."
25 In the Critique of judgment, i.e., in the treatment of
reflective judgments, where one does not subsume a particular
under a concept, the example helps one in the same way in
which the schema helped one to recognize the table as table. The
examples lead and guide us, and the judgment thus acquires
"exemplary validity."26
The example is the particular that contains in itself, or is supposed
to contain, a concept or a general rule. How, for instance,
is one able to judge, to evaluate, an act as courageous? When
judging, one says spontaneously, without any derivations from
general rules, "This man has courage." If one were a Greek, one
would have in "the depths of one's mind" the example of Achilles.
Imagination is again necessary: one must have Achilles pres- .
ent even though he certainly is absent. If we say of somebody
that he is good, we have in the back of our minds the example of
Saint Fra:ncis or Jesus of Nazareth. The judgment has exemplary
validity to the extent that the example is rightly chosen. Or, to
take another instance: in the context of French history I can talk
about Napoleon Bonaparte as a particular man; but the moment
I speak about Bonapartism I have made an example of him. The
validity of this example will be restricted to those who possess the
particular experience of Napoleon, either as his contemporaries
Imagination 85
or as the heirs to this particular historical tradition. Most concepts
in the historical and political sciences are of this restricted
nature; they have their origin in some particular historical incident,
and we then proceed to make it "exemplary"-to see in
the particular what is valid for more than one case.
PART TWO
Interpretive Essay
i
i
i
Hannah Arendt on Judging
Ronald Beiner
1. Judging: Resolution of an Impasse
JUDGING WAS TO HAVE SUCCEEDED Thinking and Willing as the
third and concluding part of Hannah Arendt's final work. The
Life of the Mind. But as Mary McCarthy, editor of the posthumous
work, tells us in her Postface to the two published volumes,
Arendt's sudden death came less than a week after she had
completed the draft of Willing: "After her death, a sheet of
paper was found in her typewriter, blank except for the heading
'J udging' and two epigraphs. Some time between the Saturday
of finishing 'Willing' and the Thursday of her death, she must
have sat down to confront the final section."l It can be maintained
that, without the account of judging, our picture of The
Life of the Mind is in a decisive respect incomplete. First of all, we
have the testimony of Hannah Arendt's friend J. Glenn Gray
that "she regarded judging to be her particular strength and in a
real sense a hoped-for resolution of the impasse to which the
reflections on willing seemed to lead her. As Kant's Critique of
Judgment enabled him to break through some of the antinomies
of the earlier critiques, so she hoped to resolve the perplexities
of thinking and willing by pondering the nature of our capacity
for judging."2 It is not merely that the already completed accounts
of two mental faculties were to be supplemented by a
yet-to-be-provided third but, rather, that those two accounts
themselves remain deficient without the promised synthesis in
judging. Michael Denneny, commenting on Arendt's precursory
lectures on thinking, willing, and judging, which he attended in
1966, offers a similar verdict: "The lectures on thinking (and
conscience and consciousness) were brilliandy original and
stimulating; those on the will, difficult and puzzling. And it became
increasingly clear that the heart of the matter lay in judg90
PART TWO
ment." Denneny adds that this involved a strange irony, for,
"surprisingly., the discussion of this faculty was constantly postponed,
and, in the end, it was treated only summarily in the very
last lecture."3
Indeed, we are forced to consider The Life of the Mind, without
Judging, as a tale without an ending. For we arrive at the end of
the volume on Willing in something like a state of suspense.
Willing, we are told, drives us into a theoretical impasse. Willing,
ifit means anything, implies an "abyss of pure spontaneity." But
the established traditions of Occidental philosophy shied away
from this abyss, sought to explain away the new by understanding
it within the terms of the old. Only in Marxian utopianism
was freedom in this sense of the genuinely new not abandoned.
Arendt calls this a frustrating conclusion and says that she knows
"of only one tentative alternative to it in our entire history of
political thought": Augustine's notion of "natality," the human
capacity for beginning, rooted in the fact of human birth. But on
the last page of Willing we read thafeven the Augustinian theory
"is somehow opaque":
it seems to tell us no more than that we are doomed to be free
by virtue of being born, no matter whether we like freedom
or abhor its arbitrariness, are "pleased" with it or prefer to
escape its awesome responsibility by electing some form of
fatalism. This impasse, if such it is, cannot be opened or
solved except by an appeal to another mental faculty, no less
mysterious than the faculty of beginning, the faculty ~f
Judgment, an analysis of which at least may tell us what IS
involved in our pleasures and displeasures.4
So we arrive at the threshold of Judging still in search of solutions
to the basic problems that impelled Arendt to write The Life
of the Mind. In this situation, it seems virtually an obligation to
attempt to reconstruct her theory of judging, on the basis of
lecture notes and posthumous material available to us, so that we
can conjecture how she might have prepared her escape from
the impasse in which she found herself at the end of the published
text of The Life of the Mind.
It may seem highly speculative (not to say presumptuous) to
endeavor to reconstruct what would have been contained in
Judging had Arendt lived to complete this final chapter in her
life's work. After all, we know that all she had completed at the
time of her death was a single sheet, "blank except for the
Interpretive Essay 91
heading 'Judging' and two epigraphs." And the two epigraphs,
interesting as they are, can hardly be said to offer a transparent
guide to Arendt's intentions. The pathos of that single page
seems almost to warn against proceeding. To complicate matters
further, Arendt, in taking Kant as her guide to the faculty of
judgment, tells us that she is addressing herself to a set of ideas
that he never lived to develop propedy.5 So we are in the same
position regarding Arendt as she, herself was in relation to Kant.
The task is doubly elusive. Still, there are persuasive reasons for
thinking that the Kant lectures presented in this volume are a
tolerably reliable indication of the work that was planned. For
one thing, t.he account of judging in these lectures is entirely
consistent with the passages on judging contained in the work
that has been published, Thinking. 6 In fact, some passages from
the latter work are taken, more or less verbatim, from the thenunpublished
Kant lectures, which must indicate that she was
reasonably satisfied with the understanding of judgment she had
already formulated in them. Even more decisive is the fact that
the outline of the theory of judgment she offered in a postscript
to the Thinking volume corresponds very closely to the actual
development of the Kant lectures (as we shall argue below).
There is thus a foundation for assuming that the lectures on
Kant's political philosophy offer a reasonable basis for reconstructing
Hannah Arendt's theory of judging.
As if our undertaking were not already hazardous enough,
there is a further difficulty to be contended with. Surveying
Arendt's work as a whole, we can see that she offers not one but
two theories of judgment. There are scattered references to the
faculty of judgment throughout Arendt's published writings of
the 1960s. However, beginning in 1970 we can detect a subtle
but important reorientation. In her writings up until the 1971
ess;;ty, "Thinking and Moral Considerations,"7 judgment is considered
from the point of view of the vita activa; in her writings
from that essay onward, judgment is considered from the point
of view of the life of the mind. The emphasis shifts from the
representative thought and enlarged mentality of political
agents to the spectatorship and retrospective judgment of historians
and storytellers. The blind poet, at a remove from the
action and therefore capable of disinterested reflection, now becomes
the emblem of judging. 8 Removed from first-order perception,
the objects of judgment are re-presented in imagination
by a mental act of second-order reflection. The blind poet judges
92 PART TWO
from a distance, which is the condition of disinterestedness.
Thus Homer prepares the way for the impartial judgments of
ancient historiography. Homer and Herodotus alike proffer
examples of human excellence for pleasurable reflection.9
As I interpret Arendt, her writings on the theme of judgment
fall into two more or less distinct phases: early and late, practical
and contemplative. I am aware that there are certain problems
involved in dividing her works into "early" and "late." It would
be unreasonable to expect any neat division into distinct periods,
and to single out a particular date as marking a clear break
between "early" and "late" will obviously appear in some respects
arbitrary; one should not be surprised to encounter an overlap,
both conceptual and chronological, between the two "phases."
The point of the division, however, is to draw attention to the
fact that in, say, the discussion of "representative thinking" in
"Truth and Politics" there is as yet no concern with judging as a
distinct mental activity (namely, as one of three articulations of
mental life); here Arendt is concerned only with judging as a
feature of political life. (In fact, it was only at a relatively late
stage in her thinking that she came to see judging as an autonomous
mental activity, distinct from thinking and willing.)lO In
what I call her "later" formulations, she is no longer concerned
with judging as a feature of political life as such. What emerges
instead is a conception of judging as one distinct articulation of
the integral whole comprising the life of the mind. In order to
challenge the conclusion that Arendt offers two distinct conceptions
of judgment (the first relating to the world of praxis,
the second to that of contemplation), one would need to give an
account of precisely why, in her last writings, judging as an activity
is placed exclusively within the life of the mind instead of
being assigned a more equivocal status. The only explanation I
myself can conceive of is that judgment had become for her a
part of a concern very different from the original one, which
had been a concern with the vita activa, the life of politics. The
more she reflected on the faculty of judgment, the more inclined
she was to regard it as the prerogative of the solitary (though
public-spirited) contemplator as opposed to the actor (whose
activity is necessarily nonsolitary). One acts with others; one
judges by oneself (even though one does so by making present in
one's imagination those who are absent). In judging, as understood
by Arendt, one weighs the possible judgments of an imagined
Other, not the actual judgments of real interlocutors.
Interpretive Essay 93
In her earlier writings (for example, in "Freedom and Politics,"
"The Crisis in Culture," and "Truth and Politics")l1 Arendt
had introduced the notion of judgment to give further grounding
to her conception of political action as a plurality of actors
acting in concert in a public space. Human beings can act
as political beings because they can enter into the potential
standpoints of others; they can share the world with others
through judging what is held in common, and the objects of
their judgments as political beings are the words and deeds that
illuminate the space of appearances. In the later formulation,
which begins to emerge in the Kant Lectures as well as in both
"Thinking and Moral Considerations" and the Thinking volume,
she approaches judging from a quite different, and much more
ambitious, point of view. Here judgment is described as the
"opening" or "solution" of an "impasse." Looking at the final
chapter of Willing, we are able to reconstruct the nature of this
impasse. The guiding concern of this last chapter, tided "The
Abyss of Freedom and the novus ordo seclorum," is the problem of
human freedom and its relationship to the faculty of willing.
The implication is that only by analyzing the faculty that corresponds
to "our pleasures and displeasures" can we find a way of
embracing human freedom and of seeing it as bearable for natal
and mortal beings like ourselves.
The Kant Lectures form an organic whole. The themes that
inform them are all of a piece: the question of what gives meaning
or worth to human life; the evaluation of life from the point
of view of pleasure and displeasure; the hostility of the contemplative
men to the world of human affairs; the unavailability
of metaphysical truths and the need for critical thinking; the
defense of common sense and of the common understanding of
men; the dignity of man; the nature of historical reflection; the
tension between Progress and the autonomy of the individual;
the relationship between the universal and the particular; and,
finally, the redemptive possibilities of human judgment. Despite
the status of this material as mere notes for lectures, these
themes are woven into a highly original meditation on whether
man's worldly existence occasions gratitude for the givenness of
being or whether, on the contrary, it is more likely to invite
unrelieved melancholy.
According to Mary McCarthy, Arendt expected Judging to be
much shorter than Thinking and Willing and to be the easiest to
handle, but "one can guess that Judging might have surprised
94 PART TWO
her" and led her in unexpected directions.I2 This may well be so.
Still, one can discern a unity and consistency in the conception of
judgment that emerges from Arendt's discussions of this topic in
"Thinking and Moral Considerations" (1971), in volume 1 of The
Life of the Mind, and in the lecture notes published here. Furthermore,
these writings, taken together, disclose an account of
judging that differs markedly from that to be found in her
writings prior to "Thinking and Moral Considerations." In
order to pinpoint what it is that gives Arendt's later theory its
coherence and sets it apart from the earlier account, it is necessary
to trace the development of her thinking about the nature
of judgment. Let us, then, retrace the steps along which the idea
of judging developed in Arendt's work in order to see how a
concern with an interesting but long-neglected capacity of political
man evolved into something far more ambitious--something
that promised affirmation of worldly affairs and the salvaging of
human freedom.
2. Understanding and Historical Judgment
THE THEMES AND CONCERNS that Arendt eventually wove into
the reflections on judging first emerged in her essay "Understanding
and Politics," published in Partisan Review in 1953.13
Understanding "is an unending activity by which ... we come to
terms with, reconcile ourselves to reality, that is, try to be at
home in the world" (p. 377). However, the activity of reconciliation
becomes radically problematical in the. century of totalitarianism,
that is to say, in the wake of deeds to which we
s~em incapable of being reconciled: "To the extent that the rise
of totalitarian governments is the central event of our world, to
understand totalitarianism is not to condone anything, but to
reconcile ourselves to a world in which these things are possible
at all" (ibid.).
"The result of understanding is meaning, which we originate
in the very process of living insofar as we try to reconcile ourselves
to what we do and what we suffer" (p. 378). But, confronted
by the unique horror of totalitarianism, we suddenly
discover "the fact that we have lost our tools of understanding.
Our quest for meaning is at the same time prompted and frustrated
by our inability to originate meaning" (p. 383). Understanding
is an activity that can be neither avoided nor concluded.
Interpretive Essay 95
But we find ourselves faced with what seems like an insuperable
problem, namely, that thinkers and political analysts, obliged to
reflect on the historical fact of totalitarianism, are confronted by
a phenomenon that appears to resist comprehension. The unprecedented
evils of totalitarianism "have clearly exploded our
categories of political thought and our standards for moral
judgment" (p. 379). The task of understanding assumes proportions
never before encountered in historical judgment.
The crisis in understanding is identical to a crisis in judgment,
for understanding is "so closely related to and interrelated with
judging that one must describe both as the subsumption" of
something particular under a universal rule (p. 383). The
trouble is that we no longer possess th€ reliable universal rules
required for this subsumption; the inherited wisdom of the past
fails us "as soon as we try to apply it honestly to the central
political experiences of our own time" (p. 379). Even "normal"
common-sense judgment no longer suffices: "we are living in a
topsy-turvy world, a world where we cannot find our way by
abiding by the rules of what once was common sense" (p. 383).
According to Arendt, the growth of meaninglessness in the
twentieth century has been accompanied by an atrophy of common
sense, the faculty we ordinarily rely on to get our bearings
in the world.
This moral and intellectual crisis of the West did not, however,
originate with totalitarianism; it had its roots deep within the
Western tradition. The demonic politics of the twentieth century
merely exposed the latent crisis for all to see. Thus, what is
frightening about the rise of totalitarianism is "that it has brought
to light the ruin of our categories of thought and standards of
judgment" (p. 388; my italics). Arendt points out that as early as
the eighteenth century it was already evident to Montesquieu
that only customs, mores, "prevented a spectacular moral and
spiritual breakdown of occidental culture" (p. 384). Given a
political body "held together only by customs and traditions," it
is hardly surprising that European civilization proved vulnerable
to the sweeping transformation wrought by the Industrial Revolution:
"the great change took place within a political
framework whose foundations were no longer secure and therefore
overtook a society which, although it was still able to understand
and to judge, could no longer give an account of its
categories of understanding and standards of judgment when
they were seriously challenged" (p. 385). By the nineteenth
96 PART TWO
century, "our great tradition" was running out of answers to "the
'moral' and political questions of our own time .... The very
sources from which such answers should have sprung had dried
up. The very framework within which understanding and
judging could arise is gone" (pp. 385-86).
Seen from the perspective of the historian, the story is at an
end; but viewed from the perspective of the actor, we have no
choice but to make a new start. Here Arendt invokes the principle
of beginning discovered by Augustine, "the one great
thinker who lived in a period which in some respects resembled
our own more than any other in recorded history, and who in
any case wrote under the full impact of a catastrophic end, which
perhaps resembles the end to which we have come" (p. 390).
Like Augustine, we live and think in the shadow of great catastrophe,
and therefore, like him, we must attend to man's capacity
for beginning; for man is the being whose essence is beginning.
In the light of these reflections, our endeavoring to understand
something which has ruined our categories of thought
and our standards of judgment appears less frightening.
Even though we have lost yardsticks by which to measure, and
rules under which to subsume the particular, a being whose
essence is beginning may have enough of origin within himself
to understand without preconceived categories and to
judge without the set of customary rules which is morality. If
the essence of all, and in particular of political, action is to
make a new beginning, then understanding becomes the
other side of action, namely that form of cognition, in distinction
from many others, by which acting men (and not men
who are engaged in contemplating some progressive or
doomed course of history) eventually can come to terms with
what irrevocably happened and be reconciled with what unavoidably
exists. [Po 391]
In other words, it is precisely when yardsticks of judgment disappear
that the faculty of judgment comes into its own.
Arendt ends the essay by relating understanding to the faculty
of imagination, which she distinguishes from mere fancy:
Imagination alone enables us to see things in their proper
perspective, to put that which is too close at a certain distance.
so that we can see and understand it without bias and prejudice,
to bridge abysses of remoteness until we can see and
understand everything that is too far away from us as though
Interpretive Essay 97
it were our own affair. This "distancing" of some things and
bridging the abysses to others is part of the dialogue of
understanding. [P.392]
Imagination allows for the proximity that makes understanding
possible, and it also establishes the distance needed for judgment.
Without this kind of imagination, which actually is understanding,
we would never be able to take our bearings in the
world. It is the only inner compass we have .... If we want to
be at home on this earth, even at the price of being at home in
this century, we must try to take part in the interminable
dialogue with its essence. [Ibid.]
3. Judging Eichmann
ACCORDING TO Hannah Arendt, "thought itself arises out of
incidents of living experience and must remain bound to them
as the only guideposts by which to take its bearings."14 If this is
so, what particular experience gave rise to her theory of judging?
Needless to say, her work on the rise of totalitarianism is
relevant: it alerted her to the complexities of human judgment
and to the threats posed to it by developments in modern society.
But there is good reason for supposing that another, more
specific, though obviously related "incident of living experience"
precipitated her efforts to theorize about the nature of judgment,
namely, her presence at the trial of Adolf Eichmann in
Jerusalem in 1961. Her report of the trial, which appeared in
1963, first in the New Yorker and then in book form, generated a
huge storm of controversy.15 We know that this experience provided
the impetus for wide-ranging reflection on her part, for
she herself informs us that her reflections on the status of truth
and on the critical function of thought were motivated by her
involvement in the Eichmann controversy.16 There is thus little
reason to doubt that what was preoccupying her when she began
to think seriously about judgment was the unavoidable need to
render judgment in the case of Adolf Eichmann, together with
the fact that Eichmann himself clearly abstained from responsible
judgment-an evil generated by his "thought-defying"
banality.
There are two main sources for assessing the impact the
Eichmann trial had on Arendt's concept of judging: a lecture
98 PART TWO
"Personal Responsibility under Dictatorship," published in The
Listener in 1964 17 and a Postscript added to the second (1965)
edition of Eich:nann in Jerusalem. The question that lies at the
heart of these two pieces is whether we are entitled. to presuppose
"an independent human fac~lty, unsupporte~ by law
and public opinion, that judges ane~ m f~ll s~ntanelty every
deed and intent whenever the occaSlOn arIses. Do we possess
such a faculty, and are we lawgivers, every single one of us,
whenever we act?18 Arendt says that this "touches upon one of
the central moral questions of all time, namely upon the nature
and function ofhumanjudgment."19 What had been demanded
in both the Eichmann and Nuremberg trials was
that human beings be capable of telling right from wrong
even when all they have to guide them is their own ju~gment,
which moreover, happens to be completely at odds Wlth what
they :nust regard as the unanimous opinion of all those
around them .... Those few who were still able to tell right
from wrong went really only by their ownjud~ents, and they
did so freely; there were no rules to be abided by, under
which the particular cases with which they were confronted
could be subsumed. They had to decide each instance as it
arose, because no rules existed for the unprecedented.20
There is a second aspect involved here, which is in some ways
equally disturbing, for it too places in question the very status of
judgment itself. In Eichmann in J e:usalem Arendt had so~ght to
do justiee to the Holocaust experIence not by representm? the
war criminals as subhuman creatures, who are beneath Judgment,
or the victims as innocents without responsibility, who
surpass judgment, but by making clear that human judgment
can function only where those judged are neither beasts nor
angels but men. However, many of Arendt's readers objected
(quite' vociferously) that if this is how human judgment must
operate, it would be better to abstain from judgment altogether.
Arendt notes that the uproar occasioned by the Eichmann book
shows "how troubled men of our time are by this question of
judgment."21 This whole issue was confronted most dir~ctly in
the fascinating exchange of letters in Encounter magazme between
Gershom Scholem and Arendt.22 AreI;l.dt's final reply is
contained in the Postscript to the revised edition of Eichmann in
Jerusalem, where she ·writes: "The argument that we cannot
judge if we were not present and involved ourselves seems to
Interpretive Essay 99
convince everyone everywhere, although it seems obvious that if
it were true, neither the administration of justice nor the writing of
history would ever be possible. "23 This point is unassailable. A second
argument, that the person who judges cannot avoid the
reproach of self-righteousness, proves upon examination to be
no more valid than the first. Arendt responded to it by saying:
"Even the judge who condemns a murderer can still say when he
goes home: 'And there, but for the grace of God, go I.'"
Moreover, "the reflection that you yourself might have done
wrong under the same circumstances may kindle a spirit of forgiveness,"
but this in no way preempts judgment. For Arendt,
forgivenessJollows judgment, it does not displace it: "Justice, but
not mercy, is a matter of judgment."24
Arendt states that public opinion everywhere seems to be in
happy agreement that "no one has the right to judge somebody
else. What public opinion permits us to judge and even to condemn
are trends, or whole groups of people-the larger the
better-in short, something so general that distinctions can no
longer be made, names no longer named."25 Thus we find, for
instance, a flourishing of theories of the collective guilt or collective
innocence of entire peoples. "All these cliches have in common
that they make judgment superfluous and that to utter
them is devoid of all risk."26 This goes with a "reluctance evident
everywhere to make judgments in terms of individual moral
responsibility."27 The sad irony is that this atrophy of the faculty
of judgment was precisely what had made Eichmann's monstrous
crimes possible in the first place.
The Eichmann affair brought to Arendt's full awareness judgment's
function of assimilating in a humanly intelligible way
whatever most strenuously resists such assimilation. Judgment
brings its objects of judgment within the reach of huma!!
meaningfulness. This is brought to light most strikingly in the
exchange between Arendt and Gershom Scholem over the
Eichmann question. Scholem wrote in his letter to Arendt:
"There were among [the elders of the Jews] many people in no
way different from ourselves, who were compelled to make terrible
decisions in circumstances that we cannot even begin to
reproduce or reconstruct. I do not know whether they were
right or wrong. Nor do I presume to judge. I was not there." Arendt
replied: "[The behavior of Jewish functionaries] constitutes our
part of the so-called 'unmastered past,' and although you may be
right that it is too early for a 'balanced judgment' (though I
100 PART TWO
doubt this), I do believe that we shall only come to terms with this past
if we begin to judge and to be frank about it."28 Thus judgment
serves to help us make sense of, to render humanly intelligible,·
events that otherwise could not be made so. The faculty of
judgment is in the service of human intelligibility-the very
same service that Arendt ascribes to the telling of excellent deeds
in a story-and conferring intelligibility is the meaning of politics.
In this respect, Arendt's Eichmann in jerusalem bears comparison
with another work of similar moral dimensions, Maurice
Merleau-Ponty's Humanism and Terror. These two books are addressed
to the two most extreme (and most distressing) political
experiences of our century, Naziism and Stalinism, respectively.
What the two works share is that both place the effort to understand
at the center of their respective inquiries. When understanding
is placed in the service of judgment, it requires the free
exercise of imagination-in particular, the ability to imagine
how things look from a position that we do not in fact occupy.
Judgment may require us to make the effort to understand those
whose point of view we not only do not share but may even find
highly distasteful. Disagreement does not release us from the
responsibility to understand what we reject; if anything, it rather
heightens this responsibility. Merleau-Ponty writes: "true liberty
takes others as they are, tries to understand even those doctrines
which are its negation, and never allows itself to judge before understanding.
We must fulfill our freedom of thought in the freedom
of understanding."29 For Merleau-Ponty too, judgment assumes
the tragic tasks of understanding and forgiving, these composing
the tragic dimensions of judgment. Arendt's efforts to come
to terms with the experience of the Holocaust convey the same
message. To judge a genuinely human situation is to partake of
the tragedy that is potential in circumstances where human responsibility
is exercised and borne to its limit. This helps to
explain why Arendt associates the faculty of judging with the
sense of human dignity.
The relevance of the Eichmann case for the theme of judging
is twofold: first, there is the inability of Eichmann himself to
think and to judge-to tell right from wrong, beautiful from
ugly-in the critical political situation in which he was involved;
second, there is the problem of retrospective understanding, of
how to judge the meaning of Eichmann from a vantage point
temporally and spatially removed from the events in question.
Interpretive Essay 101
Arendt is concerned with both dimensions of this twofold relevance:
the first, in which Eichmann is the judging subject; the
second, in which Arendt herself and her fellow American Jews
are called upon to judge. The lesson of the first is that inability to
think has fatal implications for the faculty of judging. The lesson
of the second is that the responsibility for making judgments
cannot be shirked even when commitments and allegiances of a
familial or national kind would seem to intrude. The activity of
judging cannot be inhibited by supposedly prior relations oflove
or loyalty. Judgment must be free, and the condition of its autonomy
is the ability to think.
The second of these two dimensions of the Eichmann case--namely,
the retrospective judgment of the Jewish-American
community two decades later-poses, as we have seen, a challenge
to the very status of judgment. For the issue is whether one
ought perhaps, out of concern or the fear of committing a betrayal,
to suspend judgment altogether. Arendt's reply is uncompromising
and unconditional. Without judgments by which
to render our world intelligible, the space of appearances would
simply collapse. The right of judgment is therefore absolute and
inalienable, for it is by constantly pronouncing judgments that
we are able to make sense of the world to ourselves. If we forfeited
our faculty of judgment, through love or diffidence, we
would be sure to lose our bearings in the world.
4 . Taste and Culture
IT IS IN AN ARTICLE BY Arendt entitled "Freedom and Politics,"
published in 1961, that we first encounter the idea that Kant's
Critique of judgment contains the seeds of a political philosophy
distinct from, and indeed opposed to, the political philosophy
associated with the Critique of Practical Reason. Arendt writes that
Kant
expounds two political philosophies which differ sharply
from one another-the first being that which is generally accepted
as such in his Critique of Practical Reason and the second
that contained in his Critique of judgment. That the first part of
the latter is, in reality, a political philosophy is a fact that is
seldom mentioned in works on Kant; on the other hand, it
can, I think, be seen from all his political writings that for
Kant himself the theme of 'judgment" carries more weight
102 PART TWO
than that of "practical reason:" In the Critique of l.udgrr:ent
freedom is portrayed a~ a predIcate of the pow.er of. Im~gm~tion
and not of the wIll, and the power of Imagmatlon IS
linked most closely with that wider manner of thinking which
is political thinking par excellence, because it enables us to
"put ourselves in the minds of other men."30
The theory of judging delineated in Arendt's subsequently published
works consists simply in the endeavor to draw out and
develop this "other" (hitherto unknown or unappreciated)
political philosophy.
Among the writings published in her lifetime, Arendt's fullest
account of judgment is contained in her essay "The Crisis in
Culture: Its Social and Its Political Significance," included in
Between Past and Future. 31 The basis of Arendt's analysis in "The
Crisis in Culture" is a triadic differentiation between things
(cultural objects), values (exchange values), and consumer
goods. The rightful dignity of cultural goods inheres in their
being "things," that is, "permanent appurtenances of the world"
whose "excellence is measured by their ability to withstand the
life process" (pp. 205-6). These cultural objects were degraded
into "values" by the cultural philistinism of eighteenth- and
nineteenth-century "good society," since they were used as exchange
values for social advancement by the educated European
bourgeoisie. The subsequent rise of mass society has brought a
new development: the abandonment of culture as an exchange
value and the substitution for it of a concern with something of a
wholly different nature: entertainment. (Mass man is defined by
"his capacity for consumption, accompanied by inability to
judge, or even to distinguish," as well as a "fateful alienation
from the world") (p. 199). Entertainment is a "consumer good"
in the strict sense, an integral part of man's "metabolism with
nature," "consumed" as soon as it serves the need for which it
was intended, along with everything else produced-andconsumed
in a laboring society (the distinction between exchange
values and consumer goods obviously corresponds to
Arendt's distinction between work and labor in The Human Condition).
The consumerism of a laboring society, Arendt believes,
is in a sense a lesser threat to culture than was the philistinism of
"good society" because its preoccupation with entertainment has
nothing whatever to do with culture and therefore does not
infringe upon it the way philistinism did. On the other hand,
culture, too, is eventually absorbed into the consumer society'S
Interpretive Essay 103
need for entertainment, by virtue of an all-encompassing
functionalization:
Culture relates to objects and is a phenomenon of the world;
entertainment relates to people and is a phenomenon of life.
An object is cultural to the extent that it can endure; its durability
is the very opposite of functionality, which is the quality
which makes it disappear again from the phenomenal world
by being used and used up. The great user and consumer of
objects is life itself, the life of the individual and the life of
society as a whole. Life is indifferent to the thingness of an
object; it insists that every thing must be functional, fulfill
some needs. Culture is being threatened when all worldly
objects and things, produced by the present or the past, are
treated as mere functions for the life process of society, as
though they are there only to fulfill some need. [Po 208]
[A] consumers' society cannot possibly know how to take care
of a world and the things which belong exclusively to the space
of worldly appearances, because its central attitude toward all
objects, the attitude of consumption, spells ruin to everything
it touches. [P.211] .
What this tells us is that the cultural and the political both involve
caring for the world, that both converge upon concern for
the public world. Politics and culture are not essentially separate
spheres of human endeavor: both are concerned with how the
world looks, how it appears to those who share it, and both
attend to the quality of the worldly dwelling that envelops us and
in which we pass our mortal existence.
This is brought out very well in a striking passage from Pericles'
Funeral Oration, as rendered by Thucydides, which Arendt
translates as: "We love beauty within the limits of political
judgment, and we philosophize without the barbarian vice of
effeminacy" (p. 214). The reason "love of beauty" can be encompassed
within "political judgment" is that they share the
fundamental requirement of public appearance, they presuppose
a common world. "The common element connecting
art and politics is that they both are phenomena of the public
world":
[C]ulture indicates that the public realm, which is rendered
politically secure by men of action, offers its space of display
to those things whose essence it is to appear and to be beautiful.
In others words, culture indicates that art and politics,
their conflicts and tensions notwithstanding, are interrelated
104 PART TWO
and even mutually dependent. Seen against the background
of political experiences and of activities which, if left to themselves,
come and go without leaving any trace in the world,
beauty is the very manifestation of imperishability. The
fleeting greatness of word and deed can endure in the world
to the extent that beauty is bestowed upon it. Without the
beauty, that is, the radiant .glory in which potential immortality
is made manifest in the human world, all human life
would be futile and no greatness could endure. [P.218]
Taste, the discriminating, discerning, judging activity of love of
beauty, is the cultura animi, the possession of "a mind so trained
and cultivated that it can be trusted to tend. and take care of a
world of appearances whose criterion is beauty" (p. 219).
Arendt introduces her discussion of judgment in connection
with "the spectator" who apprehends cultural and political appearances.
Kant's Critique oj Judgment is now appealed to, she
tells us, because in the first part, the "Critique of Aesthetic
Judgment," it offers "an analytic of the beautiful primarily from
the viewpoint of the judging spectator" (pp. 219-20). This concern
with the judging spectator is simply the extension of
Arendt's definition of politics in terms of virtuosity or performance
(p. 153). The deeds of the actor are as in need of the spectator's
judgment as those of any other performer. Arendt begins
her account of this idea of spectatorship by calling attention to
the plurality presupposed in judgment as opposed to the solitary
nature of thought. She refers to the Kantian notion of "enlarged
mentality," which she elsewhere speaks of as "representative
thinking": "thinking in the place of everybody else" (p. 241). This
involves "potential agreement with others," coming finally to
some agreement.
A further aspect of judgment is that, unlike logical reasoning,
it does not compel universal validity. Rather, it appeals to judging
persons who are "present," who are members of the public
realm where the objects of judgment appear. Arendt appeals to
the Aristotelian distinction between phronesis and sophia: the latter
strives to rise above common sense; the former is rooted in
common sense, which "discloses to us the nature of the world·
insofar as it is a common world"; it "enables man to orient himself
in the public realm, in the common world." This defense of
common sense, it should be noted, is a persistent theme in
Arendt's work. Common sense means sharing a nonsubjective
and "objective" (object-laden) world with others. "Judging is
Interpretive Essay 105
one, if not the most, important activity in which this sharingthe-
world-with-others comes to pass" (p. 221).
. Arendt credits Kant with having dislodged the prejudice that
judgments of taste, concerning merely aesthetic matters, lie
therefore outside the political realm (as well as outside the domain
of reason). She claims that the alleged subjective arbitrariness
of taste offended not Kant's aesthetic but his political sense.
It is because of his awareness of the public quality of beauty and
the public relevance of beautiful things, she maintains, that Kant
insisted that judgments of taste are open to discussion and subject
to dispute.
In aesthetic no less than in political judgments, a decision is
made, and although this decision is always determined by a
certain subjectivity, by the simple fact that each person occupies
a place of his own from which he looks upon and
judges the world, it also derives from the fact that the world
itself is an objective datum, something common to all its inhabitants.
The activity of taste decides how this world, independent
of its utility and our vital interests in it, is to look
and sound, what men will see and what they will heaF in it.
Taste judges the world in its appearance and in its worldliness;
its interest in the world is purely "disinterested," and
that means that neither the life interests of the individual nor
the moral interests of the self are involved here. For judgments
of taste, the world is the primary thing, not man,
neither man's life nor his self. [P.222]
Arendt returns to the contrast between judgment and philosophical
argument oriented toward truth. The latter, demonstrable
truth, seeks to compel agreement by a process of compelling
proof. Judgments of taste, by contrast, are, like political opinions,
persuasive; they are characterized by "the hope of coming to
an agreement with everyone else eventually."
Culture and politics ... belong together because it is not
knowledge or truth which is at stake, but rather judgment and
decision, the judicious exchange of opinion about the sphere
of public life and the common world, and the decision what
manner of action is to be taken in it, as well as to how it is to
look henceforth, what kinds of things are to appear in it.
. [P.223]
Arendt concludes her discussion of taste in "The Crisis in
Culture" with an affirmation of humanism, with specific reference
to Cicero. Taste, she points out, "decides not only how the
106 PART TWO
world is to look, but also who belongs together in it." It defines a
principle of belonging, is an expression of the company one
keeps, and, as such, like politics itself, it is a matter of selfdisclosure.
32 Thus "taste is the political capacity that truly
humanizes the beautiful and -creates a culture" (p. 224). Arendt
interprets Cicero to be saying that "for the true humanist neither
the verities of the scientist nor the truth of the philosopher nor
the beauty of the artist can be absolutes; the humanist, beca~se
he is not a specialist, exerts a faculty of judgment and taste whIch
is beyond the coercion which each specialty imposes upon us" (p.
225). Against specialization and philistinism, Arendt counterposes
a humanism that "knows how to take care and preserve
and admire the things of the world" (ibid.). She concludes from
these reflections upon taste that a cultivated person ought to be
"one who knows how to choose his company among men, among
things, among thoughts, in the present as well as in the past"
(p. 226).33
5. Representative Thinking
THE ALL-IMPORTANT CONTRAST between persuasive judgment
and compelling truth is further developed in Arendt's essay
"Truth and Politics."34 Here she places it in the context of the
traditional conflict between the philosophical life and the life of
the citizen. The philosophers opposed to truth "mere opinion,
which was equated with illusion, and it was this degrading of
opinion that gave the conflict its political poignancy; for opinion,
and not truth, belongs among the indispensable prerequisites of
all power." This antagonism between truth and opinion is such
that
every claim in the sphere of human affairs to an absolute
truth, whose validity needs no support from the side of opinion,
strikes at the very roots of all politics and all governments.
[P.233]
Arendt appeals to Madison, Lessing, and Kant in trying to resist
the aspersions cast on opinion by philosophers, from Plato onward,
and the devaluation of the life of the citizen that these
imply. Opinion derives its own distinctive dignity from the condition
of human plurality, from the need for the citizen to address
himself to his fellows; for "debate constitutes the very
Interpretive Essay 107
essence of political life." The trouble, as Arendt sees it, is that all
truth, by peremptorily claiming to be acknowledged, precludes
debate: "The modes of thought and communication that deal
with truth, if seen from the political perspective, are necessarily
domineering; they do not take into account other people's
opinions, and taking these into account is the hallmark of all
strictly political thinking" (p. 241).
It is here that Arendt introduces her notion of the representative
character of political thought:
I form an opinion by considering a given issue from different
viewpoints, by making present to my mind the standpoints of
those who are absent; that is, I represent them. This prQcess
of representation does not blindly adopt the actual views of
those who stand somewhere else, and hence look upon the
world from a different perspective; this is a question neither
of empathy, as though I tried to be or to feel like somebody
else, nor of counting noses and joining a majority but of being
and thinking in my own identity where actually I am not. The
more people's standpoints I have present in my mind while I
am pondering a given issue, and the better I can imagine how
I would feel and think if I were in their place, the stronger
will be my capacity for representative thinking and the more
valid my final conclusions, my opinion. [Ibid.]
This capacity, according to Arendt, is the Kantian "enlarged
mentality," which is the basis for man's ability to judge (though
Kant, having discovered this capacity for impartial judgment,
"did not recognize the political and moral implications of his
discovery" [ibid.]). We try to imagine what it would be like to be
somewhere else in thought, and "the only condition for this
exertion of the imagination is disinterestedness, the liberation
from one's own private interests" (p. 242). This process of opinion
formation, determined by those in whose place somebody
thinks and uses his own mind, is such that "a particular issue is
forced into the open that it may show itself from all sides, in every
possible perspective, until it is Hooded and made transparent by
the full light of human comprehension" (ibid.).
Arendt illustrates this notion of representative thinking in an
unpublished lecture on judgment:
Suppose I look at a specific slum dwelling and I perceive in
this particular building the general notion which it does not
exhibit directly, the notion of poverty and misery. I arrive at
this notion by representing to myself how I would feel if I had
108 PART TWO
to live there, that is, I try to think in the place of the slumdweller.
The judgment I shall come up with will by no means
necessarily be the same as that of the inhabitants, \\Thom time
and hopelessness may have dulled to the outrage of their
condition, but it will become for my further judging of these
matters an outstanding example to which I refer .... Furthermore,
while I take into account others when judging, this
does not mean that I conform in my judgment to those of
others, I still speak with my own voice and I do not count
noses in order to arrive at what I think is right. But my judgment
is no longer subjective either.35
"The point of the matter," says Arendt, "is that my judgment of
a particular instance does not merely depend upon my perception,
but upon my representing to myself something which I do
not perceive."36
It is clear that judgment and opinion belong inextricably together
as the chief faculties of political reason. Arendt's intention
is fairly obvious: to concentrate attention on the faculty of
judgment is to rescue opinion from the disrepute into which it
has fallen since Plato. Both faculties, that of judging and that of
forming opinions, are thus redeemed simultaneously. This is
brought out very well in a passage from On Revolution, where
judgment and opinion are spoken of in the same breath: "opinion
and judgment, ... these two politically most important, rational
faculties, had been almost entirely neglected by the tradition
of political as well as philosophic thought."37 She notes that
the Founding Fathers of the American Revolution were made
aware of the importance of these two faculties, in spite of the fact
that they "did not try consciously to reassert the rank and dignity
of opinion in the hierarchy of human rational abilities. The same
is true with respect to judgment, where we would have to turn to
Kant's philosophy, rather than to the men of the revolutions, if
we wished to learn something about its essential character and
amazing range in the realm(of human affairs."38 The Founding
Fathers themselves were not able to transcend "the narrow and
tradition-bound framework of their general concepts" to the
extent of reconceptualizing these two rational faculties of political
life. In other words, the required reassertion is still awaited,
and to formulate it is a task that Arendt herself undertakes as
expositor of Kant.
We can now see the real import of Arendt's opposition between
philosophical truth and the judgment of the citizen. Her
Interpretive Essay 109
aim is to bolster the "rank and dignity" of opinion. It is judgment
that gives to opinion its own distinctive dignity, lending it a measure
of respectability when it is weighed against truth. It is on
account of judgment that opinion is not the disgrace that philosophers
have traditionally made it out to be. It is because we, as
plural beings, can engage in "representative thinking" that
opinion cannot be as summarily dismissed as traditional philosophy
assumed. And since opinion is the mainstay of politics, an
upgrading of the status of opinion serves at the same time to
elevate the status of the political.
Thus far, Arendt's theorizing about the nature of judgment
has followed a consistent line of development. However, when
we turn to her writings of the 1970s, we find in her reflections on
judging a discernible shift of emphasis. No longer does she stress
the representative thinking of political agents. Instead, judging
is aligned with thinking, which "has no political relevance unless
special emergencies arise."39 Instead of being conceived in
terms of the deliberations of political actors deciding on possible
courses of future action (an activity Arendt subsequently
identifies with projects of the will), judging now comes to be
defined as reflection on the past, on what is already given, and,
in common with thinking, "such reflections will inevitably arise
in political emergencies."40
6. The Wind of Thought:
Judging in Emergenc'tes
THE LATER SET OF CONCERNS, which Arendt subsequently
treated in The Life of the Mind, first emerged in print in "Thinking
and Moral Considerations: A Lecture," an article published
in 1971.41 At the end of the essay Arendt turns to the role of the
faculty of judgment. In times of historical crisis, she writes,
"thinking ceases to be a marginal affair in political matters" because
those who possess the capacity for critical thought are not
swept away unthinkingly, like everyone else:
their refusal to join is conspicuous and thereby becomes a
kind of action. The purging element in thinking, Socrates'
midwifery, that brings out the implications of unexamined
opinions and thereby destroys them-values, doctrines,
theories, and even convictions--is political by implication. For
no PART TWO
this destruction has a liberating effect on another human faculty,
the faculty of judgm~!lt, which o?e may call, .~i~ s0In:e
justification, the most politlcal of man s mental abilitles. It 1S
the faculty to judge particulars without subsuming them under
those general rules which can be taught and learne~ until
they grow into habits that can be replaced by other hab1ts and
rules. .
The faculty of judging particulars (as Kant discovered it),
the ability to say, "this is wrong," "this is beautiful," etc., is not
the same as the faculty of thinking. Thinking deals with invisibles,
with representations of things that are absent; judging
always concerns particulars and things close at hand: But
the two are interrelated in a way similar to the way conSC10USness
and conscience are interconnected. If thinking, the
two-in-one of the soundless dialogue, actualizes the difference
within our identity as given in consciousness and thereby
results in conscience as its by-product, then judging,
the by-product of the liberating effect of thinking, realizes
thinking, makes it manifest in the world of appearances,
where I am never alone and always much too busy to be able
to think. The manifestation of the wind of thought is no
knowledge; it is the ability to tell right from wrong, beautiful
from ugly. And this indeed may prevent catastrophes, at least
for myself, in the rare moments when the chips are down.42 .
For Arendt, politics is defined by phenomenality, as selfdisclosure
in a space of appearances. Political things, as Arendt
conceives them, are phenomenally manifest: "great· things are
self-evident, shine by themselves," the poet or historiographer
merely preserving the glory that is already visible to all. Among
the Greeks, "great deeds and great words were, in their greatness,
as real as a stone or a house, there to be seen and heard by
everybody present. Greatness was easily recognizable."43 Again,
it is this that connects art and politics: "both are phenomena of
the public world."44 The phenomenality of politics is therefore
analogous to the phenomenality of art:
in order to become aware of appearances we first must be free
to establish a certain distance between ourselves and the object,
and the In:0re im~ortant.the she~r appearance of ~ ~ing
is, the more d1stance 1t requ1res for 1ts proper appreclatlon.
This distance cannot arise unless we are in a position to forget
ourselves, the cares and interests and urges of our lives, so
that we will not seize what we admire but let it be as it is, in its
appearance.45
Interpretive Essay 111
This point is expressed very well by Ernst Vollrath in an excellent
article on Hannah Arendt's "method of political thinking."
Vollrath writes that impartiality (as distinct from objectivity)
implies essentially "to say what is," ... to recognize phenomena
in their facticity and to determine this facticity in
a phenomenal sense rather than to construe it from an epistemic
basis .... Hannah Arendt's kind of political thinking
regards topics within the political field not as "objects" but as
phenomena and appearances. They are what shows itself,
what appears to the eyes and senses .... Political events are
phenomena in a special sense; one might say that they are
phenomena per se.... The space in which political
phenomena occur is created by the phenomena themselves.46
Judgment discriminates· among the self-disclosive phenomena
and captures phenomenal appearance in its fullness. Accordingly,
the capacity of judgment for discerning the qualities of the
particular without prior subsumption under a universal is closely
related to the nature of politics as disclosure. Judgment, as it
were, confirms the being of that which has been disclosed. Thus
it is in a very emphatic sense that human judgment always proceeds
in a world of appearances.
The objects of our judgment are particulars that open themselves
to our purview. Naturally, we can apprehend particulars
only to the extent that we class them under some universal. A
bare (unclassed) particular is not a possible object of judgment.
But when the universals under which we subsume those judged
particulars turn into fixed habits of thought, ossified rules and
standards, "conventional, standardized codes of expression and
conduct,"47 the danger is that we will not open ourselves fully to
the phenomenal richness of the appearances that make themselves
available for our judgment. It is in this situation that the
faculty of judgment undergoes its most severe test, and the
acuteness or dullness of our judgments will have real practical
consequences. For instance, for those accustomed to the ordinary
brutality and oppression of conventional tyrannies, despotlsms,
and dictatorships, it was aifficult to recognize in
twentieth-century totalitarianism something entirely novel and
unprecedented.48 It requires a special quality of judgment to
diSCriminate. between what we are used to and what is genuinely
new and d1fferent. Those who possess taste, who are discriminating
in things beautiful and ugly, good and bad, will be
less likely to be caught off their guard in times of political crisis.
112 PART TWO
According to Arendt, thought-the critical movement of
thinking-loosens the hold of universals (e.g., entrenched moral
habits ossified into inflexible general precepts) and thus frees
judgment to operate in an open space of moral or aesthetic
discrimination and discernment. Judgment functions best when
this space has been cleared for it by critical thinking. In this way,
the universal does not domineer over the particular; rather, the
latter can be apprehended as it truly discloses itself. Thinking
itself thereby assumes a political relevance by virtue of its relationship
to the faculty of judgment. By loosening the grip of
the universal over the particular, thinking releases the political
potency of the faculty of judgment-the potency that inheres in
its capacity to perceive things as they are, that is, as they are
phenomenally manifest.49
In her lectures on "Basic Moral Propositions," given in
Chicago in 1966, and, before that, in a lecture course, "Some
Questions of Moral Philosophy," given at the New School for
Social Research in 1965, Arendt had described how Western
morality has been rendered so vulnerable by developments in
Western politics that what formerly were regarded as basic ethical
tenets of Western civilization ("It is better to suffer wrong
than to do wrong," "Do unto others as you would have them do
unto you," etc.) have come to be devalued to the level of mere
conventions (as easily exchangeable as a set of table manners).50
It is in this context that Arendt turns to Kant, seeking an account
of moral life that recognizes the nonself-evidency of moral
propositions yet does not require that we forgo moral judgment
altogether. Kant's analysis of taste provides the concepts of
communication, intersubjective agreement, and shared judgment
that Arendt seeks for the reconstruction of moral horizons.
If we can no longer count on the presumption of moral
objectivity, perhaps we can at least hope to find a way out of pure
subjectivity by appealing to a notion of moral taste that can act as
a bridge between judging subjects brought into a company of
shared or agreed judgments. At the same time, Arendt sought
an account of evil that would allow her to come to grips with the
political evils of the twentieth century. Here again the analysis of
judgment is central, for it is here that she locates the source of
the greatest evils in the political realm, the evil of totalitarianism
epitomized in Eichmann: "In the refusal to judge: lack of imagination,
of having present before your eyes and taking into account
the others whom you must represent."51
Interpretive Essay 113
This evil implicit in the refusal to judge is addressed at the end
of the final lecture of the course on "Basic Moral Propositions":
In the last analysis ... our decisions about right and wrong
will depend upon our choice of company, with whom we wish
to spend our lives. And this company [in turn] is chosen
through thinking in examples, in examples of persons dead
or alive, and in examples of incidents, past or present. In the
unlikely case that someone should come and tell us that he
would prefer Bluebeard for company, and hence as his
example, all we could do would be to make sure that he would
never come near us. But the likelihood that someone would
come and tell us that he does not mind and that any company
will be good enough for him is, I fear, by far greater. Morally
and even politically speaking, this indifference, though common
enough, is the greatest danger. And in the same direction,
only a bit less dangerous, does this other very common
modern phenomenon lie, the widespread tendency to refuse
to judge at all. Out of the unwillingness or inability to choose
one's examples and one's company, and out of the unwillingness
or inability to relate to others through judgment, arise
the real skandala, the real stumbling-blocks which human
powers cannot remove because they were not caused by
human and humanly understandable motives. Therein lies
the horror and, at the same time, the banality of evil.52
The real danger in contemporary societies is that the bureaucratic,
technocratic, and depoliticized structures of modern life
encourage indifference and increasingly render men less discriminating,
less capable of critical thinking, and less inclined to
assume responsibility. 53
Arendt's theory of judging is thus placed within an overall
account of the present historical situation, which she interprets
as one of a general crisis of Western morals and politics: traditional
standards of judgment are no longer authoritative,54 ultimate
values have ceased to be binding, the norms of political and
moral civility have become acutely vulnerable. In this situation,
the best that we can hope for is "agreement in judgments" within
an ideal judging community. The supreme danger is abstention
from judgment, the banality of evil, the danger that, "when the
chips are down," the self will surrender to the forces of evil
rather than exercise autonomous judgment. As long as we continue
to discriminate among things good and beautiful, as long
as we continue to "choose our company" in matters of taste and
114 PART TWO
politics--that is, as long as we refuse to forgo our faculty of
judgment-all is not lost.
These same issues are raised in a very interesting way in an
exchange between Arendt and Hans Jonas that occurred at a
conference on "The Work of Hannah Arendt" held at York
University in November, 1972, the tra~script of which has recently
been published in a volume edited by Melvyn Hill, Hannah
Arendt: The Recovery if the Public World. 55
JONAS: That there is at the bottom of all our being and of our
action the desire to share the world with other men is incontestable,
but we want to share a certain world with certain
men. And if it is the task of politics to make the world a fitting
home for man, that raises the question: "What is a fitting
home for man?"
It can only be decided if we form some idea of what man is
or ought to be. And that again cannot be determined, except
arbitrarily, if we cannot make appeal to some truth about man
which can validate judgment of this kind, and the derivative
judgment of political taste that crops up in the concrete
situations--and especially if it is a question of deciding how
the future world should look-which we have to do all the
time dealing with technological enterprises that are having an
impact on the total dispensation of things.
Now it is not the case that Kant simply made appeal to
judgment. He also made appeal to the concept of the good.
There is such an idea as the supreme good however we define
it. And perhaps it escapes definition. It cannot be an entirely
empty concept and it is related to our conception of what man
is. In other words, that which has by unanimous consensus
here been declared dead and done with-namely, metaphysics--
has to be called in at some place to give us a final
directive.
Our powers of decision reach far beyond the handling of
immediate situations and of the short-term future. Our powers
of doing or acting now extend over such matters as really
involve a judgment or an insight into or a faith in-I leave
that open-some ultimates. For in ordinary politics as it has
been understood until the twentieth century we could do with
penultimates. It is not true that the condition of the commonwealth
had to be decided by the really ultimate values or
standards. When it is a matter, as it is under the conditions of
modern technology, that willy-nilly we are embarking on
courses which affect the total condition of things on earth and
Interpretive Essay 115
the total future condition of man, then I don't think we can
simply wash our hands and say Western metaphysics has got
us into an impasse and we declare it bankrupt and we appeal
now to shareable judgments--where, for God's sake, we do
not mean by shared judgments shared with a majority or
shared with any defined group. We can share judgments to
our perdition with many, but we must make an appeal beyond
that sphere!
Arendt does not really face up to this question of the ultimate
cognitive status of shared judgments; instead, she deflects the
argument to historical and sociological considerations.
ARENDT: ... Now if our future should depend on what you
say now-namely, that we will get an ultimate which from
above will decide for us (and then the question is, of course,
who is going to recognize this ultimate and which will be the
rules for recognizing this ultimate-you have really an infinite
regress here, but anyhow) I would be utterly pessimistic. If
that is the case, then we are lost. Because this actually demands
that a new god will appear ....
For instance, I am perfectly sure that this whole totalitarian
~atastr~phe would not have happened if people still had belIeved
in God, or in hell rather-that is, if there still were
ultimates. There were no ultimates. And you know as well as I
do that there were no ultimates which one could with validity
appeal to. One couldn't appeal to anybody.
And if you go through such a situation [as totalitarianism],
the first thing you know is the following: you never know how
somebody will act. You have the surprise of your lifel This
goes throughout all layers of society, and it goes throughout
various distinctions between men. And if you want to make a
generalization, then you could say that those who were still
very firmly convinced of the so-called old values were the first
to be. ready to change their old values for a new set of values, .
provlded they were given one. And I am afraid of this, because
I think that the moment you give anybody a new set of
values--or this famous "bannister"-you can immediately exchange
it. [Arendt is referring here to "thinking without a
bannister," Denken ohne Gelander, a phrase she had coined
to convey the fact that we no longer possess a secure set of
ul?mate values to guide our thought.-R. B.] And the only
thmg the guy gets used to is having a "bannister" and a set of
values, no matter. I do not believe that we can stabilize the
116 PART TWO
situation in which we have been since the seventeenth century
in any final way ....
We wouldn't have to bother about this whole business if
metaphysics and this whole value business hadn't fallen down.
We begin to question because of these events.
Rather than press his question, jonas backtracks, claiming for
judgment-as Arendt does-only a negative or limiting check
upon practice:
JONAS: I share with Hannah Arendt the position that we are
not in possession of any ultimates, either by knowledge or b.y
conviction or faith. And I also believe that we cannot have thiS
as a command performance because "we "need it so bitterly we
therefore should have it."
However, a part of wisdom is knowledge of ignorance. T~e
Socratic attitude is to know that one does not know. And thiS
realization of our ignorance can be of great practica! i~portance
in the exercise of the power of judgment, which IS
after all related to action in the political sphere, into future
action, and far-reaching action. . .
Our enterprises have an eschatolOgIcal tendency I~
them-a built-in utopianism, namely, to move toward~ ultImate
situations. Lacking the knowledge of ul~mate
values-or, of what is ultimately desirable-or, of what IS man
so that the world can be fitting for m;an, we should at least
abstain from allowing eschatological situations to come about.
This alone is a very important practical injunction t?at we ca~
draw from the insight that only with som~ con~eptIon of ultImates
are we entitled to embark on certaIn things. So that at
least as a restraining force the point of view I brought in may
be of some relevance.
To this, naturally, Arendt gives her assent. .
In the end, Arendt adopts a decidedly skeptical attItude toward
the capabilities and limits of mental life. Thinking, we are
told "does not create values; it will not find out, once and for all,
wha~ 'the good' is; it does not confirm but, rather, dissolves accepted
rules of conduct."56 Thinking is S~cratic, that is to s~y
negative; it destroys unexamined assumptIo~s rather .t?an diScovers
truths. It is enough if we can succeed In reconcIlIng ourselves
to the way things are, for which purpose judging is indispensable,
since it allows us to extract a modicum of pleasure
from the contingencies of life and the free deeds of men.
Interpretive Essay
7. The Unwritten Treatise
Life, said Pythagoras, is like a festival; just as some come to
the festival to compete, some to ply their trade, but the best
people come as spectators, so in life the slavish men go
hunting for fame or gain, the philosophers for truth.
Diogenes Laertius
117
AMONG THOSE who have closely and sympathetically followed
the progress of Hannah Arendt's thought, it is a commonly held
view that her theory of judging would have been the culmination
of her life's work and that this final chapter of her philosophy
would have provided an answer to many of the unresolved
problems of preceding chapters. j. Glenn Gray's observation,
quoted earlier, is a typical one:
For those who knew her mind with some intimacy it was evident
that she regarded judging to be her particular strength and in a
real sense a hoped-for resolution of the impasse to which the
reflections on willing seemed to lead her. As Kant's Critique of
Judgment enabled him to break through some of the antinomies
of the earlier critiques, so she hoped to resolve the
perplexities of thinking and willing by pondering the nature
of our capacity for judging.57
But what is this "impasse" to which Gray refers, and how is
judging supposed to resolve the impasse?
To answer this question, we must turn back briefly to the point
at which Arendt's explorations had arrived by the end of the
Willing volume. The problem that was central to Willing concerned
the nature of human freedom. The question Arendt asks
is: How can something as radically contingent and ephemeral as
the faculty of willing provide a sustainable basis for human freedom?
In other words, how can men affirm their worldly condition
if freedom has its source in something as private and individualizing
as the human will? Throughout her writings Arendt
had consistently characterized freedom as something essentially
worldly and public, related to the tangible world of political
action. But in her final work she traces freedom as action in a
public world to the spontaneity, contingency, and autonomy of
the will. This culminates in her invoking the Augustinian notion
of natality, "the fact that human beings, new men, again and
again appear in the world by virtue of birth." "That there be a
U8 PART TWO
beginning, man was created, before whom nobody.was."58 The
problem is that this prospect of absolute spontaneIty, abso~ut~
beginning, is not exacdy easy for men to face up to, nor IS It
something they can comfortably ~mbrace. Thus w~ commonly
find even the men of action draWIng back from theIr own revolutionary
initiatives, seeking 0';l~ precedents or histo~cal sanction
to mitigate the uncondItional novelty of theIr ~eeds.
Thus willing, even as depicted in the most favorable. light-;in
Augustine's image of the mi.raculousness of n~~hty-still
carries an implication of compulslOn rather than posItiVe attraction.
Mter all, we do not choose to be born; it is something that
befalls us, whether we like it or not. The problem remains: How
to affirm freedom? The will, with its radical contingency, offers
no compelling answer. Arendt describes this as an "impasse~"
and she turns to the faculty of judging as the only way out of thIS
impasse. The notion that we are born to freedom suggests somehow
that we are merdy fated or, worse, "doomed" to be free.
Judging, by contrast, allows us to experience a sense of positive
pleasure in the contingency of the particular. Arendt's thought
here is that human beings have commonly felt the "awesome
responsibility" of freedom to be an insupp~rtable weight, w~ich
they have sought to evade by various doctnnes, such as. fatali~m
or the idea of historical process, and that the only way In which
human freedom can actually be affirmed is by eliciting pleasure
from the free acts of men by reflecting upon and judging them;
'and this, for Arendt, comes to pass quintessentially in the telling
of stories and the writing of human history. Politics, in her view,
is ultimately justified by the stories that are told afterwards.
Human action is redeemed by retrospective judgment.
To place Arendt's problem in its proper contex~, i.t may he~p
to recall very briefly the problem of freedom as It IS posed In
Kant's three Critiques. From the perspective of the first Critique,
the phenomenal world presents nothing but causal necessities
for theoretical contemplation. Therefore, to keep freedom from
being completely submerged by the faculty of theoretical reason,
Kant houses freedom in the noumenal will of the practical subject.
The problem here, however, is that freedom seems to ~e~r
no relation to goings-on in the phenomenal world, and It IS
preserved only on condition that it disappear from the sensible
and visible world in which we dwell. Reflective judgment, as
interpreted by Arendt, offers a form of contemplation that is not
restricted to the beholding of necessities and, at the same time, is
Interpretive Essay U9
not divorced from the worldly phenomena of human action.
Reflective judgment thus provides some measure of respite from
the antinomy of freedom and nature that characterizes the first
two Critiques.
Arendt's reflections on judging took the form of a commentary
on Kant, owing to "the curious scarcity of sources providing
authoritative testimony. Not till Kant's Critique oj Judgment did
this faculty become a major topic of a major thinker."59 To open
our discussion of this material, we shall briefly survey the sources
in Kant's work that Arendt appropriates for her theory of judgment,
providing a kind of extended paraphrase of what she
seeks to draw from Kant's work.
Kant defined judging as an activity of subsuming particulars
under a universal. He calls judgment "the faculty of thinking the
particular,"60 and to think a particular means of course to bring
it under a general concept. Furthermore, Kant distinguished
between two types of judging, one in which the universal (the
rule, principle, or law) is given for the subsumption, and one in
which the universal is lacking and must somehow be produced
from the particular; the former he labeled "determinant," the
latter "reflective."61 This activity of judging occurs when we are
confronted with a particular. It is not a question of rendering a
general commentary on a given kind of object; rather, this particular
object calls for judgment. Judgment is reasoning about
particulars as opposed to reasoning about universals. In the act
of subsuming a particular rose under the universal category
"beauty," I do not judge it to.be such because I have available to
me a rule of the type "All flowers of such-and-such a species are
beautiful." Rather, the particular rose before me somehow
"generates" the predicate beauty. I can understand and apply
the universal only through experiencing the kinds of particulars
to which we attach this predicate. Aestheticjudgment, therefore,
is a matter of judging this rose, and only by extension do we
broaden it into a judgment about all roses.
Kant also held that the activity of judging (as explicated in the
"Critique of Aesthetic Judgment") is inherendy social, because
our aesthetic judgments make reference to a common or shared
world, to what appears in public to all judging subjects, and thus
not merely to the private whims or subjective preferences of
individuals. In matters of "taste" I never judge only for myself,
for the act of judging always implies a commitment to communicate
my judgment; that is, judgment is rendered with a view to
120 PART TWO
persuading others of its validity. This effort at persuasion is not
external to the judgment; rather, it supplies the very raison d:etre
of judging. This is because there is no epistemically secure procedure
for achieving correspondence to the object judged short
of consensus arrived at in the actual course of truth-seeking
communication. Judgment is the mental process by which one
projects oneself into a counterfactual situation of disinterested
reflection in order to satisfy oneself and an imagined community
of potential collocutors that a particular has been adequately
appraised.62
Yet the objection might be made that political judgments-as
well as aesthetic judgments-are merely re~ative, dependent on
"the eye of the beholder." After all, the concept of "taste," which
is the crucial one for Kant, refers in its primary signification to
the kinds of judgment involved in, say, "the preference for clam
chowder over pea SOUp."63 Why should a more exalted meaning
than this be accorded to "matters of taste" in either the aesthetic
or the political realm? Why should one person's taste be considered
better or worse than another's? And, if they are equally
good, are they not then mutually irrelevant? It was to provide a
satisfactory answer to such questions that Kant devoted his "Critique
of Aesthetic Judgment" to the argument that aesthetic
judgments (and, by extension, other kinds of judgment relating
to things we all hold in common) are not subjectively relative or
egoistic, although neither do they refer to a concept of the object
that simply determines the judgment cognitively. Rather, Kant's
account of taste implies a concept of "intersubjectivity," where
the judgment concerned is neither strictly objective nor strictly
subjective. Needless to say, Kant did not use the term "~nte~subjectivity."
He called it "pluralism," which he defined In hiS
Anthropology as "the attitude of not being occupied with oneself
as the whole world, but regarding and conducting oneself as a
citizen of the world."64 Intersubjective judgment arises from what
is held in common among the subjects, from what is-literallybetween
them; namely, what Kant in the definition just cited calls
"the world." The "in-between" of judging subjects is the realm of
objects fit for judgInent, and we display taste in renderingjudgment
upon them. This display of taste is a social relation, for we
are always already committed to seeking acknowledgment from
our fellows, to get them to acknowledge the reasonableness or
rationality of our judgment and, thereby; to confirm our own
"good taste." Although our present concern is with aesthetics,
Interpretive Essay 121
one can extend the argument to show that this process of claiming
and winning acknowledgment for our judgments is actually
a general feature of human rationality.65 In short, as a response
to those who allege the relativity of judgments, we may aver that,
in the words of Burke, "if there were not some principles of
judgment as well as of sentiment common to all mankind, no
hold could possibly be taken either on their reason or their passions,
sufficient to maintain the ordinary correspondence of
life."66
Let us now introduce some of the fundamental concepts of the
"Critique of Aesthetic Judgment." Aesthetic taste for Kant is
disinterested; contemplative rather than practical, autonomous
rather than heteronomous, it is, in a word, free. What endows it
with these qualities of disinterestedness, autonomy, and freedom
is the ability of the aesthetic judge, critic, or spectator to rise
above everyday interests by claiming an experience of aesthetic
form to which all men can (in principle) give their assent. All
men share the faculties of understanding and imagination, the
formal interaction of which results in the ascription of beauty to
aesthetic. objects. Thus, as Kant puts it, "we are suitors for
agreement from everyone else, because we are fortified with a
ground common to all."67 Kant calls this ground of shared
judgment "common sense," which he characterizes not as a private
feeling but as "a public sense."68 Kant describes this process
of claiming universal assent as follows: "The assertion is not that
everyone will fall in with our judgment, but rather that everyone
ought to agree with it. Here I put forward my judgment of taste
as an example of the judgment of common sense, and attribute
to it on that account exemplary validity."69 I posit common sense
as an "ideal norm" that demands universal assent, "the consensus
of different judging subjects." The task that Kant sets for
himself is to inquire into the basis for this ideally posited "consensus."
In the present context, the most important section of Kant's
work is § 40 of the Critique of Judgment, entitled "Taste as. a kind
of sensus communis." Kant writes that
by the name of sensus communis is to be understood the idea of
a public sense, i.e., a critical faculty which in its reflective act
takes account (a priori) of the mode of representation of
everyone else, in order, as it were, to weigh its judgment with
the collective reason of mankind .... This is accomplished by
weighing the judgment, not so much with actual, as rather
122 PART TWO
with the merely possible, judgments of others, and by putting
ourselves in the position of.ev~ry~)lle. els~, as the. result of a
mere abstraction from the hmltatIOns whIch contmgently affect
our own estimate.
Kant specifies three "maxims of common hu~an understanding"
which are: (1) Think for oneself; (2) Thmk from the
standpoi~t of everyone else; and (3) Always think consisten.tly. It
is the second of these, which Kant refers to as the maxlm of
enlarged thought, that concerns us here, for it is the <;me that,
according to Kant, belongs to judgmen~ (the first and thIrd apply
to understanding and reason, respecuvely). Ka~t obse~es that
we designate someone as a "man of enlarged mznd: : . If he d~taches
himself from the subjective personal condluons of hIS
judgment, which cramp the minds of s~ many other~, and :eflects
upon his own judgment from a unzversal standpoznt (wh~ch
he can only determine by shifting his ground to the standpomt
of others)." Kant concludes that we can rightf~lly r~fer ~o
aesthetic judgment and taste as a sensus communzs~ .or pubhc
sense." This particular discussion issues in the defi.mu<;>n of ~ste
as "the faculty of estimating what makes our feehng m. a .gIven
representation universally communicable without the medlauon of
a concept."
To these concepts of common sense, consensus, and ~nlarge~
mentality, let us add another, from Kant's short essay What IS
Enlightenment?"-namely, the concept of "public use.of one's
reason." In the context of Kant's argument, the pubhc use of
one's reason pertains particularly to the problem of freedom of
the press in the Age of Enlightenment. Kant's own proble~s
with the Prussian censor are well known. But what renders thIS
concept of considerably wider application is the idea t~at. th~nking
in public can be constitutive of thi~king as such. ThIS mSlght
runs counter to widespread assumpuons about the ~ature of
thinking, according to which thought can operate. pnvately.no
less well than publicly. Kant.denies such a~sump~ons, ~rgumg
that public presentation of ideas, for pubhc consI~erauon a~d
debate--in his case, the right of the scholar to put hIS thought. m
writing for the judgment of a reading public-is absolut~ly mdispensable
for the progress of enlightenment (not ~erely.m the
sense that thoughts once arrived at should then be dissemmated
as widely as possible, but in the deeper sense that exchange of
views on a universal basis itself contributes to the development of
Interpretive Essay 123
those thoughts). Kant regards restriction of the private use of
reason, as exercised in a particular civil post or office or before a
private congregation, a~ a much less serious infringement of
liberty than limitations on the scholar who addresses writings to
an enlightened public. This precedence accorded to public over
private prerogatives may appear as something of an inversion of
traditional liberal priorities on the part of one of the leading
fountainheads of liberal thought. But on this point Kant is unequivocal:
the use of reason in addressing a domestic or private
gathering is dispensable to freedom, whereas the right to publicity,
the right freely to submit one's judgments for public testing
before "a society of world citizens," is not dispensable but is
utterly necessary for freedom, progress, and enlightenment.
The public airing of judgments thus takes precedence over the
private exchange of opinions. The predominant concern here is .
with a world, or a community of world citizens, to whom we
appeal even more urgently than we do to those immediately
around us. Judgment must be universal, and it must be
public-must address itself to all men and be concerned with
those public things that appear before and are visible to all men.
This draws us toward the next leading concept of Kant's
theory of judgment, that of "the spectator." We have already
mentioned that the paramount qualities of aesthetic judgment,
as described in Kant's work, include its being disinterested, contemplative,
and free from all practical interest. Accordingly, in
Kant's aesthetic and political writings, the full prerogative of
judgment is granted to the spectator who stands back from the
work of art, or stands back from political action, and reflects
disinterestedly. In Kant's "pragmatic anthropology" his position
is more ambiguous, since it would seem evident that the man of
practice too, in making moral and prudential choices, exercises
reflectivejudgment and taste. However, the guiding model or
paradigm in Kant's work is that the genius first produces the
work of art, and only then is it submitted to the taste of the critic.
Judgment is retrospective and is pronounced by the bystander
or onlooker, not by the artist himself. Correspondingly, only the
political spectator, removed from the action, can render disinterested
judgment on the human significance of events unfolding
in the political world. The major political event that
unfolded in Kant's own time, was, of course, the French Revolution,
and he did not fail to apply his theory of judgment to this
particular e~perience.
124 .PART TWO
In his fascinating commentary on the French Revolution in
Part II of The Contest of the Faculties ("An Old Question Raised
Again: Is the Human Race Constandy Progressing?"), Kant
specifically emphasizes that his concern is not with the actual
deeds of the political agents but only with
the mode of thinking of the spectators which reveals itself
publicly in this game of great revolutions, and manifests such
a universal yet disinterested sympathy for the players on one
side against those on the other, even at the risk that this partiality
could become very disadvantageous for them if discovered.
Owing to its universality, this mode of thinking
demonstrates a character of the human race at large and all at
once; owing to its disinterestedness, a moral character of humanity,
at least in its predisposition.70
Kant then declares that in spite of all the atrocities that render
the French Revolution morally and practically objectionable, "this
revolution nonetheless finds in the hearts of all spectators (who
are not engaged in this game themselves) a wishful participation
that borders closely on enthusiasm, the very expression of which
is fraught with danger." Kant explains that it is enthusiasm for
the pure concept of right that accounts for the exaltation with
which "the uninvolved public looking on sympathized without
the least intention of assisting."71 It is worth noting that the two
qualities by which Kant here distinguishes political judgmentnamely,
universality and disinterestedness--are the very same
two outstanding marks of judgment ascribed by Kant to aesthetic
taste. This famous passage shows unmistakably that political
judgment, like aesthetic judgment, is reserved to the spectator.72
Other passages in the works of Kant confirm this conception
of political judgment. For instance, in an early work, Observations
on the Beautiful and Sublime, Kant remarks that ~bition, as an
attendant impulse, is most admirable (as long as it does not subordinate
the other inclinations). "For since each one pursues
actions on the great stage according to his dominating inclinations,
he is moved at the same time by a secret impulse to
take a standpoint outside himself in thought, in order to judge
the outward propriety of his behaviour as it seems in the eyes of
the onlooker."73
Arendt affirms this concept of judgment. For her, judginglike
thinking-entails a withdrawal from the "doings" of men in
order to reflect on the meaning of what they do. Arendt argues
in support of Kant that the actors in a political drama have only a
Interpretive Essay 125
partial view (by definition, since they can enact only their own
"parts") and that therefore the "meaning of the whole" is available
only to the spectator.74 Furthermore, as she elaborates in
the Kant Lectures, there would be no point to the spectacle if the
spectator were not accorded the primary role. She writes:
We ... are inclined to think that in order to judge a spectacle
you must first have the spectacle-that the spectator is secondary
to the actor; we tend to forget that no one in his right
mind would ever put on a spectacle without being sure of
having spectators to watch it. Kant is convinced that the world
without man would be a desert, and a world without man
means for him: without spectators. 75
Kant in one plate observes that in the drama of human history
the spectator must discern a meaning, for otherwise he will tire of
the never-ending farce. But only the spectator of history. will tire
of it, not the historical actors, "for the actors are fools" (since, as
Arendt explains, they see only a part of the action, whereas the
spectator views the whole).76 "It may perhaps be moving and
instructive to watch such a drama for a while; but the curtain
must eventually descend." The spectator tires of it, "for any
single act will be enough for him if he can reasonably conclude
from it that the never-ending play will be of eternal sameness."77
This is not the only instance in which Kant portrays judgment as
a wearisome and melancholy business. In the Anthropology he
specifically contrasts judgment with wit, on the grounds that
judgment "limits our concepts and contributes more to correcting
than to enlarging them. It is serious and rigorous, and limits
our freedom in thinking. So, while we pay it all honour and
commend it, it is unpopular." Wit is like play: "Judgment's activity
is more like business.-Wit is more the bloom of youth:
judgment, the ripe fruit of age." "Wit is interested in the sauce:
judgment, in the solid food."78 This passage echoes Burke, who
likewise concludes that, compared to wit, the task of judgment is
"more severe and irksome."79 And in Kant's portraits of the
various human temperaments in his Observations, it is the melancholy
man who is distinguished chiefly by his uncompromising
judgment: "He is a strict judge of himself and others, and not
seldom is weary of himself as of the world .... He is in danger of
becoming a visionary or a crank."80 (To which Arendt adds:
"[This] is certainly a self-portrait.")81
Arendt contends that Kant's desperate search for a way to
escape the melancholy induced by the activity of judging gave
126 PART TWO
rise to a grave tension within his theory of political judgment.
One means of escape is through the idea of human progress, or
the notion that history has a meaning. According to Arendt,
however, this postulate contradicts the absolute supremacy accorded
to the disinterested spectator, who is autonomous and
therefore stands wholly independent of the actual course of
history. This view becomes especially clear when we arrive at the
closing paragraph of the Kant Lectures:
We were talking about the partiality of the actor, who, because
he is involved, never sees the meaning of the whole.
This is true for all stories; Hegel is entirely right that philosophy,
like the owl of Minerva. s}?reads its wings only wh~n the
day is over, at dusk. The same IS not true for the beautiful or
for any deed in itself. The beautiful is, in Kantian terms, an
end in itself because all its possible meaning is contained
within itself, without reference to others-without linkage, as
it were, to other beautiful things. In Kant himself there is this
contradiction: Infinite Progress is . the law of the human
species; at the same time, man's dignity demands that he be
seen (every single one of us) in his particularity and, as such,
be seen-but without any comparison and independent of
time-as reflecting mankind in general. In· other words, the
very idea of progress-if it is more than a change in circumstances
and an improvement of the world--contradicts Kant's
notion of man's dignity. It is against human dignity to believe
in progress. Progress, moreover, means that the story never
has an end. The end of the story itself is in infinity. There is
no point at which we might stand still and look back with the
backward glance of the historian.82
In the light of these concluding sentences, we can begin to make
sense of Arendt's two epigraphs, the first of which (also quoted
at the very end of the "Postscript:um" to Thinking) translates: "The
victorious cause pleased the gods, but the defeated one p~eases
Cato." The second, taken from Goethe's Faust, Part II, Act V,
lines 11404-7, may be rendered thus: "If I could remove the
magic from my path, / And utterly forget all enchanted spells, /
Nature, I would stand before you as but a man,/Then it would
be worth the effort of being a man." (The line preceding these
reads as follows: "Noch hab' ich mich ins Freie nicht
gekampft"-"I have not won my way to freedom yet." The verse
must, then, be read in accordance with the general intention
already characterized at the beginning of this section.) The im-
Interpretive Essay 127
port of Arendt's first epigraph, at least, should be visible: The
"miracles" of history give disinterested "pleasure" to the historical
spectator. One may think of those episodes of political history,
all of them ill-fated, where hope flickered briefly: the revolutionary
councils of the Paris Commune of 1871, the Russian
soviets of 1905· and 1917, the German and Bavarian Rate of
1918-19, the Hungarian uprising of 1956, each of which Arendt
is so fond of citing.83 Among these "miraculous" moments, entirely
unpredictable and free, even if doomed to failure, we may
include the Warsaw Ghetto resistance: "Not one of us will leave
here alive. We are fighting not to save our lives but for human
dignity."84 For Arendt, the judging spectator-the historian, the
poet, the storyteller-rescues these unique episodes from the
o~livion .of history, thereby salvaging a portion of human digmty,
which would otherwise be denied to the participants in
these doomed causes.
Events of this kind possess what Arendt, following Kant, calls
"ex~mplary validity." By attending to the particular qua particular,
III the form of an "example," the judging spectator is able to .
illuminate the universal without thereby reducing the particular
to universals. The example is able to take on universal meaning
while retaining its particularity, which is not the case when the
particular serves merely to indicate a historical "trend." Only in
this way can human dignity be upheld. .
In the same light, I offer an exegesis of the second, more
elusive, epigraph. What the two have in common is their concern
for human worth or dignity. It is impossible to interpret the
German verse with complete confidence, but I can perhaps render
the meaning it had for Arendt as follows: The worth or
dignity of man demands the removal of what, in The Life of the
Mind, are called "the metaphysical fallacies," the most pernicious
of which is the metaphysical idea of History. Judgment is
rendered not by the collective destiny of mankind but by the
"man alone," the judging spectator who stands before nature
unencumbered by metaphysical dreams and illusions. His judgment
is more decisive for the securing of human dignity than
even the absolute fulfillment of history, as envisioned by Hegel
or Marx, would be. Not History, but the historian, is the ultimate
judge.
Let us now see whether we can begin to fit "Judging" within the
context of the life of the mind as a whole, to give us some indication
of its significance within the overall structure of Arendt's
128 PART TWO
philosophy. Arendt's work The Human Condition is misleadingly
named, since it actually deals with only half of the human condition,
the vita activa. Indeed, Arendt herself titled this work Vita
Activa, reserving the other half of the human condition, the vita
contemplativa, for later treatment.85 When Arendt finally returns
to the half-completed project in her last work, she substitutes for
the vita contemplativa the more general term "life of the mind."
There is little of the contemplative in willing, and even thinking
and judging, since they are said to be mental activities proper to
every man, are denied the exclusive prerogative previously enjoyed
by the contemplative men of philosophy and metaphysics.
The Life qf the Mind is modeled on the three critiques of Kant, for
whom contemplation had ceased to be the ultimate standard of
human existence. Thoughtful reflection, speculation, the raising
of unanswerable questions, and the search for meaning are not
the monopoly of the contemplative man, as traditionally conceived,
but extend to the common reach of mankind, to the
extent that men exercise their properly human faculties. Thus
the question that Arendt addresses in The Life qf the Mind is this:
What are these characteristically human activities or faculties of
the mind? What are the natural abilities, capacities, and potentialities
of the thinking, willing, and judging ego, as disclosed by
the phenomenology of mental life?
Like The Human Condition, The Life qf the Mind was conceived as
a trilogy, "Judging" constituting the third part, after Thinking
and Willing. It is therefore important to understand and appreciate
the relationship among the three parts of The Life qf the
Mind. According to Arendt, the three mental activities are autonomous,
not only with respect to each other but with respect to
other faculties of the mind as well.86
Thinking, willing, and judging are the three basic mental activities;
they cannot be derived from each other and though
they have certain common characteristics they cannot be reduced
to a common denominator.
I called these mental activities basic because they are autonomous;
each of them obeys the laws inherent in the activity
itself.
In Kant, it is reason with its "regulative ideas" that comes to
the help of judgment; but if the faculty is separate from other
faculties of the mind, then we shall have to ascribe to it its own
modus operandi, its own way of proceeding.87
Interpretive Essay 129
Arendt is especially concerned to establish the autonomy of
these activities vis-a-vis intellect, for subordination of thinking,
willing, and judgment to intellectual cognition would be to forfeit
the freedom of the thinking, willing, and judging ego. In the
Thinking volume, this autonomy is asserted by means of the distinction
between truth and meaning. In the Willing volume, it is
achieved by counterposing Duns Scotus to Aquinas and by
suggesting that the former had a deeper insight into the
phenomenology of the will than the latter. In what I surmise
would have been the account of "Judging," the same objective
would have been accomplished by affirming Kant's dichotomy
between the noncognitive operation of reflective judgment and
the cognitive operation of intellect. This would explain why
Arendt ends the section on Willing by stating that an analysis of
the faculty of Judgment "at least may tell us what is involved in
our pleasures and displeasures."88 She also points out that in
neither of the two parts of the Critique qf Judgment does Kant
speak of man as a cognitive being: "The word truth does not
occur."89 In the same vein, she writes that cognitive propositions
"are not judgments, properly speaking."90 Judgment arises from
the representation, not of what we know, but of what wefeel.
This account clearly conflicts with some of her earlier formulations.
In particular, there is a curious passage in "What is
Freedom?" where action is said to stand in the following relation
to will, judgment, and intellect:
The aim of action varies and depends upon the changing
circumstances of the world; to recognize the aim is not a matter
of freedom, but of right or wrong judgment. Will, seen as
a distinct and separate human faculty, follows judgment, i.e.,
cognition of the right aim, and then commands its execution.
The power to command, to dictate action, is not a matter of
freedom but a question of strength or weakness.
Action insofar as it is free is neither under the guidance of
the intellect nor under the dictate of the will-although it
needs both for the execution of any particular goal. 91
In this account, action, but not will, is said to be free, and
judgment is associated with the intellect (as it was for Aquinas).
In her later formulation, by contrast, will and judgment are both
seen to be free-which, for Arendt, means not subordinate to
intellect.92
"Judging" (or what we are able to reconstruct of it) is inte130
PART TWO
grally bound up with Thinking and. Willing. ~ three ar~ intensely
concerned with concepts of ume and hIStOry. Th~ ?m~concept
of Thinking is an "enduring present"; that of Wzllzng IS
future-oriented.93 The growing ascendancy of the faculty of the
will (as documented by Heidegger) occasions the modern concept
of historical progress, which in turn poses a. threat ~o the
faculty of judging, for judging depends on a genume relauon to
the past. To the extent that we embrace a notion of mankind's
progress and thereby subordinate the particular (e~ent). to the
universal (course of history), to that extent we rehnqUIsh the
dignity that comes from judging the particular. in itse~f,. apa~t
from its relation to the universal history of mankind. (It IS m thIS
context that Arendt invokes Kant's idea of exemplary validity,
where the example discloses generality without surrendering
particularity.) .
On a first reading, it is not easy to discern how the vanous
themes of the Kant Lectures hang together. Consider, once
again, the closing words of the manuscript: To believe in pro?ress
means that "there is no point at which we might stand sull
and look back with the backward glance of the historian." Why
do the lectures break off precisely here? Were Arendt's reflections
merely interrupted at this point, and would they have
been continued beyond this point when she resumed work on
"Judging"? Or can an underlying coherence "?e established, o~e
that allows us to see this as a naturalendpomt and to surmIse
that the finished version would have struck a similar note at its
close? I would maintain that, if we read the last lines of Thinking
with care, the internal structure of "Judging" will become clear
to us and will make perfect sense of the closing lines of the version
available to us.
In the Postscriptum to Thinking, Arendt writes:
Finally we shall be left with the only alternative there is in
these matters. Either we can say with Hegel: Die Weltgeschichte
ist das. Weltgericht, leaving the ultimate judgment t~ Success, or
we can maintain with Kant the autonomy of the mmds of men
and their possible independence of things as they are or as
they have come into being.
Here we shall have to concern ourselves, not for the first
time, with the concept of history .... [The] Homeric historian
is the judge. If judgment is our faculty for dealing with the
past, the historian is the inquiring man who by relating it sits
in judgment over it. If that is so, we may reclaim our human
Interpretive Essay 131
dignity, win it back, as it were, from the pseudo-divinity
named History of the modern age, without denying history'S
importance but denying its right to be the ultimate judge. Old
Cato ... has left us a curious phrase, which aptly sums up the
political principle implied in the enterprise of reclamation.
He said: "Victrix causa deis pZo,cuit, sed victa Catoni" ("The victorious
cause pleased the gods, but the defeated one pleases
Cato").94 .
For Arendt, the ultimate alternative in deciding on a theory of
judgment is between Kant and Hegel-between autonomy and
history (with the proviso that Kant himself actually faltered between
these alternatives).95 A concept of judgment is ultimately
bound up with a concept of history. If history is progressive,
judgment is infinitely postponed. If there is an end to history,
the activity of judging is precluded. If history is neither progressive
nor has an end, judgment redounds to the individual historian,
who bestows meaning on the particular events or "stories"
of the past.
The P ostscriptum indicates that the Kant Lectures reflect the
full intended structure Qf"Judging," since it makes clear that the
ultimate destination of "Judging" would be a return to the concept
of history-and that, in fact, is where the Kant Lectures
terminate.
8. Critical Questions
THUS FAR I HAVE A TIEMPTED to make sense of the internal
structure of Arendt's thoughts on 'judging." I now wish to confront
certain problems in order to clear the way for a critical
assessment. First of all, let me summarize the essential elements
of a Kantian contribution to a theory of political judgment.
There is, to begin with, the distinction between reflective and
determinant judgment, as formulated In the Introduction to the
Critique of Judgment and defined also in Kant's Logic. Second,
there are the concepts of enlarged mentality, disinterestedness,
sensus communis, etc., as developed in the "Critique of Aesthetic
Judgment," especially §§39 and 40. Third, there is the notion of
the spectator, as it emerges in the discussion of the French Revolution
in Contest of the Faculties (Part II: "An Old Question
Raised Again"); this concept of the spectator also appears in
Kant's Obseroations on the Beautiful and Sublime and elsewhere.
132 PART TWO
Fourth, there is the rather lengthy treatment of social taste in
Kant's Anthropologyfrom a Pragmatic Point oj View, a work that also
contains a detailed analysis of the cognitive faculties of reason,
understanding, and judgment and a commentary on the distinction
between wit and judgment, borrowed from some of the
English empiricists. Fifth, there is the idea of the "public use of
reason," the clearest expression of which is to be found in the
short essay "What is Enlightenment?" Finally, there are scattered
remarks about judgment in Kant's other works, such as his essay
on "Theory and Practice" and his treatise Education. These, then,
are the sources for formulating a Kantian approach to political
judgment. But the question arises: Is Kant the only, or even the
best, source for a theory of judgment? And is judgment the
single irreducible or "autonomous" faculty that Arendt believes
it to be and for an account of which she appeals exclusively to
Kant? Or does this term take in a wide range of different
capacities, exercised in a multiplicity of ways?
Before pursuing these questions, it might help to recapitulate
the theory of judgment offered in the Critique oj Judgment. Kant's
theory is difficult and at times perplexing, but his account of
aesthetic judgment is, in very rough outline, as follows: All
human beings possess two faculties, the faculty ofimagination and
the faculty of understanding. The faculty of imagination corresponds
to the sense of freedom; the faculty of understanding corresponds
to the sense of conformity-to-rule. When we represent
to ourselves the form of an aesthetic object in what Kant calls
an act of "reflection" (as opposed to immediate apprehension
of the object), certain formal features of the representation
cause these two faculties to fall into harmony with each other,
and this in turn generates a sense of pleasure in the subject.
Thus the judgment of taste, as opposed to the judgment of
sense, is "reflective," because, while it refers to the feeling of
pleasure and displeasure evoked in the subject, this pleasure
arises from a second-order representation that is not limited to
experience of the object as immediately pleasing but, rather,
"re-flects," or turns back upon, the object of our experience. The
pleasure on which aesthetic judgment is based is a mediated or
second-order pleasure, arising out of reflection; it is not immediate
gratification. Since all human subjects possess the two
faculties whose relation of harmony gives rise to this pleasure,
we can rightly expect others to be capable of our experience of a
given aesthetic form, just as we can try to project ourselves into
their experience of it. This of course does not mean that we
Interpretive Essay 133
should expect that they will actually assent to our judgment; it
means only that they ought to, if they purged themselves of
extraneous influences and made the requisite effort to see the
object from other points of view. According to Kant, there is no
need to find actual alternative judgments, for we can reflect on
the potential alternative standpoints by exercising imagination.
We imagine how things would look from other perspectives
without actually being presented with them in fact. This appeal
to "enlarged mentality" fails when we are unable to free ourselves
from "the limitations which contingently affect our own
estimate."96 In other words, a failure of aesthetic imagination is
ascribed to an immersion in "empirical interests," in which the
judgment of taste is overwhelmed by the judgment of sense, or
mere gratification.
It may be objected that this account seems excessively formal
and appears to address only a very narrow range of aesthetic
experience (being more appropriate, for instance, to sculpture
and painting than to drama; to poetry than to other forms of
literature, such as the novel; to photography than to the
cinema), but this objection is diminished when the account is
considered in the light of the purposes a Kantian '~critique" of
judgment is intended to serve. Kant is concerned with an inquiry
into the conditions of the possible validity of aesthetic judgments.
He sets up the question by asking, Given that we sometimes
make valid aesthetic judgments, how is this possible? He answers:
"We are suitors for agreement from everyone else because we
are fortified with a ground common to all."91 The specification
of this common ground requires a highly formal inquiry into
human cognitive faculties (although taste is not regarded by
Kant as itself a cognitive faculty, since it refers not to what we
know but to what we feel). Provided that he can show some basis
for shared judgment (however formal), he will have succeeded
in securing a transcendental foundation for the possible validity
of judgments of taste. The fact that some of our judgments operate
in a quite different fashion in no way contradicts or is incompatible
with Kant's project of justifying or legitimating the
claims of taste.
In short, Kant offers a highly formalized account of what it is
to judge because he is concerned not with substantive features of
this or that judgment but, rather, with universal conditions of
the possible validity of our judgments. The idea of applying such
an account to politics is somewhat curious yet not altogether
unintelligible. Political events are public, disclose themselves to
134 PART TWO
the gaze of the apprehending spectator, and constitute a realm
of appearances suitable for reflection. Politics, construed
phenomenologically, evokes both imagination's freedom and ~e
understanding's conformity-to-rule. A theory as formal as this
may not prove sufficient for conceptualizing political judgment,
but it does certainly provide a very .interesting stimulus to
further thought. .
Now to consider some of the difficulties. First of all, we may
note the conspicuous absence from Kant's account of, on the one
hand, any attention to the kinds of knowledge involved in judgment
and, on the other hand, any specification of epistemic
capacities that render men qualified, in a greater or lesser degree,
to judge-for instance, the whole dimension of judgme~t
that we associate with the notion of prudence. Nowhere ill
Kant's discussion of judgment do we find a concern with the
qualities of experience, maturity, and sound habit~atio~ that
have traditionally been observed as the mark of practIcal wlsdom
in a man of action. Prudence was explicitly excluded by Kant
from practical reason, for reasons deeply bound up with his
moral philosophy. Although his moral philosophy and political
philosophy are in many respects in mutual tension, Kant's rej~ctioD;
of prudence is carried over into his political thought, Wlth
the consequence that he deems experience to be quite irrelevant
to political judgment on the grounds that politics is not about
empirical happiness but about self-evident and indisputable
rights.98 He conceived of prudence as a species of tec~nicalpractical
rules of art and skill-in particular, rules govermng the
skill involved in exercising an influence over men and subordinating
their will to one's own.99 Thus he classified it among
what ·he termed "hypothetical imperatives"; for example, if it is
given that I want a certain end, prudence determines the instrumental
means by which I can achieve that end. In Kant's
terms, this is a quasi-theoretical, not a genuinely practical, capacity,
and it serves to reduce prudence to a techne, in Aristotle's
sense. Prudentia, we may recall, was the Latin term used by
Aquinas for Aristotle's phronesis (which, unlike mere techne, comprehends
the· full dimensions of ethical deliberation and the
determination of proper human ends). Therefore, if we wished
to test the sufficiency of a Kantian theory of judgment, we would
have to go back to Book VI of Aristotle's Nicomachean Ethics, for
it is from there that we must trace the source of the term prudence,
orphronesis. Customarily translated as "practical wisdom,"
Interpretive Essay 135
phronesis is the centerpiece of Book VI, around which all the
other concepts discussed-episteme, techne, nous, sophia, political
episteme, deliberation, understanding, judgment, arete-gravitate
and to which they are all related, by way of both comparison and
contrast.
The confrontation of Aristotle with Kant raises the following
very serious questions. First, does the spectator possess a
monopoly of judgment, or does the political agent, too, exercise
a faculty of judging? And, if the latter, how is the burden of
judgment distributed between actor and spectator? Second, is
disinterestedness the decisive criterion of judgment, or are other
criteria, such as prudence, equally requisite? This links up with
the question of teleology (in the Aristotelian, not Kantian, sense)
and the relationship between aesthetic judgment and purposive
judgment. Kant, as we have seen, regards aesthetic judgment as
purely contemplative, divorced from any practical interest. Accordingly,
a judgment of taste must abstract from any consideration
of ends; aesthetic judgment must make no reference to
teleology. But can political judgments abstract from practical
ends, and is a strictly nonteleological conception of political
judgment coherent? This, in turn, gives rise to further questions.
For instance, what is the status of rhetoric within political
judgment, and are the two necessarily related? Because Kant
expels teleology from judgments of taste, he condemns rhetoric,
since it corrupts aesthetics with the pursuit of ends.IOO But if the
pursuit of ends is inseparable from, and indeed constitutive of,
political as opposed to aesthetic judgment, is not rhetoric, too, in
a constitutive relation to political judgment? Some of Aristotle's
most important reflections on political judgment are contained
in his treatise on Rhetoric; again one is confronted with questions
about the sufficiency of the Kantian theory.
Kant also excludes from taste what he calls "empirical interests,"
such as social inclinations and passions. He offers the
example of "charms," which are valued for their social attraction.
IOI Charms, for Kant, are not subject to aesthetic judgment,
which must be a priori and purely formal, not a product of mere
sensation. Thus the aesthetic object must be appraised as to its
form, apart from any sentiments of love or sympathy that it may
evoke. Similarly, appealing to the judgment of one's fellows is, in
the account Kant gives of it, a purely formal appeal, having
nothing at all to do with any substantive relations of community
(hence he speaks repeatedly of judgment being exercised a
136 PART TWO
priori).102 In judging the configuration of forms offered to
mental reflection by an aesthetic object, I claim the assent of
humanity as such (regarded as a formal judging community),103
not that of any particular society. The substantive needs, purposes,
and particular ends of my own community are as stricdy
irrelevant to the judgment as those of any other. This set of
issues is posed most sharply in Hans-Georg Gadamer's critique
of Kantian aesthetics. In Part I of Truth and Method, Gad.amer
claims that Kant "de politicizes" the idea of sensus communis,
which formerly had important political and moral connotations.
According to Gadamer, Kant's formal and narrowed concept of
judgment empties the older, Roman-rooted! conception of the
very full moral-political content it once had. Kant, as it were,
strips "common sense" of the richness of its Roman meaning. As
countermodels to Kant, Gadamer cites Vico, Shaftesbury, and,
above all, Aristode. From Gadamer's Aristotelian standpoint,
Kant "intellectualizes" the sensus communis; "aestheticizes" the
faculty of taste, which had previously been understood as a
social-moral faculty; very narrowly circumscribes and delimits
the range of these concepts, including the concept of judgment;
and generally abstracts these concepts from all relationships of
community. Thus, if we wish to explore other possible sources of a
theory of political judgment, one very promising avenue of inquiry
is offered by Gadamer's philosophical hermeneutics,
which presents a theory of hermeneutical judgment that eschews
Kant and appeals to Aristode's ethics.
As we have seen, Arendt states quite categorically that judging
is not a cognitive faculty.lo4 This prompts us to investigate the
question whether reflective judgment is stricdy noncognitive, or
whether it unavoidably involves claims to truth. In contrast to a
theory of judgment derivable from Aristode, a Kantian th~?ry
of political judgment would not allow one to speak of pohtical
knowledge or political wisdom. The problem with this exclusion
of knowledge from political judgment is that it renders o~e ~ncapable
of speaking of "uninformed" judgment and of dIstinguishing
differential capacities for knowledge so that some persons
may be recognized as more qualified, and some as less
qualified, to judge. This point can be elabora~d in connection
with an objection that Jiirgen Habermas leveled against Are~dt
in his well-argued critique in "Hannah Arendt's CommunIcations
Concept of Power":
Interpretive Essay 137
Arendt sees a yawning abyss between knowledge and opinion
that cannot be-closed with arguments.
She holds fast to the classical distinction between theory and
practice; practice rests on opinions and convictions that cannot
be true or false in the strict sense .... An antiquated concept
of theoretical knowledge that is based on ultimate insights
and certainties keeps Arendt from comprehending the
process of reaching agreement about practical questions as
rational discourse.lo5
Habermas argues that Arendt, by refusing to bring practical
discourse within the ambit of rational discourse, denies it cognitive
status and thereby severs knowledge from practical judgment.
Arendt's claim is that to specify a cognitive foundation for
political beliefs (which Habermas seeks to do) would com-
. promise the integrity of opinion. However, it is not clear how we
could make sense of opinions that did not involve any cognitive
claims (and therefore, by implication, truth-claims that are potentially
corrigible) or why we should be expected to take seriously
opinions that assert no claims to truth (or do not at least claim more
truth than is claimed by available alternative opinions). It would
seem that aU human judgments, including aesthetic (and certainly
political) judgments, incorporate a necessary cognitive dimension.
A rigid dichotomy between the cognitive and the noncognitive,
excluding any cognitive dimension from aesthetic judgment,
seems to neglect the "reflective" element that pertains
even to cognitive judgments (the elements of discretion· or
'~udgment" in a reflective sense required for problematical cognitive
judgments); it also appears to neglect the extent to which
even, say, aesthetic judgments depend on cognitive discriminations
and cognitive insights (as, for instance, when our
appreciation of a painting is enhanced by our knowing that it
belongs to a certain period). .
Kant, as we have seen, offers a highly formal account of
judging. This is acceptable insofar as what is sought is a transcendental
deduction of the faculty of taste. But at some point
one must ask: What is it in the content of the ends and purposes
of political actors or historical agents that makes this set of political
appearances, rather than that set, worth attending to? What
is it in the content of a given judgment that renders it an informed
judgment, a reliable judgment, a practiced judgment, as
138 PART TWO
opposed to judgments that lack these ~ttri?u~es?~06 What, substantively,
characterizes someone as dIscnmmatmg or knowledgeable
or responsible in his judgments-apart from the formal
conditions of disinterestedness and freedom from extrane0.us
influences or heteronomous constraints? What are the substantwe
conditions that allow us to acknowledge wisdom and expe~ience
in the judging subject and appropriatenes~ an~ releva~ce m the
object of judgment? Without at some pomt mtrodu~mg .questions
like these, the attempt to transpose a theory of Judgmg. as
formal as Kant's into a theory of political judgment runs the nsk
of turning from a genuine appreciation of p~li.tic~ appeara?~es
qua appearances into an unwarranted aesthetIclZatIon of politics.
It is at this juncture that Arendt would have ~o~e well to consult
Aristotle, for he situates judgment firmly wI~m the c.ontex~ of
the substantive ends and purposes of political dehberatIon,
rhetoric, and community. .'
There are, as we have seen, various problems mvolved m
using Kant as the source of a theory ?f politi~~ judgment. However,
to judge by her later formulations, thIS IS not really what
Arendt seeks from Kant. Her objective is no longer a theory ~f
political judgment, for, as she now conceives. th~ ~~tter, th~re ~s
only one faculty of judgment, uni~ry and m~IvIslble, whIch ~s
present in various circumstances-m the verdIct ~f an a~sthetIc
critic, the verdict of a historical observer, the tragIc verdIct of a
storyteller or poet-and the variety of circumstance does not
relevantly affect the character of the faculty thus. inst~ntiat~d.
Hence there can be no distinct faculty that we mIght Identify,
characteristically, as political judgment; there is only the ordinary
capacity of judgment, now addressing itself to poli~cal ~vents (or
as Arendt would say, political appearances). ThIS dIscloses a
deep tension between Arendt's earlier reflections on J~d~~ent
(as found in "The Crisis in Culture," "Truth and POhtICS, .a?d
elsewhere) and what seemed to be emerging as her defimtive
formulation. In the earlier formulations we find discussions of
the relation of judgment to "representative thinking" and opinion,
leading one to suppose that judgment is a fac~lty. exercIsed
by actors in political deliberation and action. (T!llS, It had" appeared,
was what originally led Arendt to call Judgment the
most political of man's mental abilities," "one of the fundamental
abilities of man as a political being," the political faculty par
excellence.) But this approach is implicitly denied in her later
Interpretive Essay 139
account. We have already mentioned that in "What is Freedom?"
Arendt aligns judgment with intellect or cognition, in stark contrast
to her eventual denial that judgment is an intellectual faculty
or is indeed cognitive at all. In unpublished lectures delivered
in 1965 and 1966, Arendt went to the opposite extreme,
defining judgment as a function of the will (identifying it with
the liberum arbitrium, the "arbitrating function" of the will). And
in one context she even went so far as to say that "whether
this faculty of judgment, one of the most mysterious faculties of
the human mind, should be said to be the will or reason, or
perhaps a third mental capacity, is at least an open question."107 So
~e s~e that it was only gradually that Arendt came to regard
Judgmg as a separate mental activity, distinct from both intellect
and wi~l; and, by the time she had settled this question in her
own mmd, she had come to reformulate the very relation between
judgment and politics-between "the life of the mind"
and "the world of appearances."
. !he q~estion is whether (and to what extent) judgment partiCIpates
m the vita activa or whether it is confined, as a mental
activity, to the vita contemplativa-a sphere of human life that
A~endt conceived to be, by definition, solitary, exercised in
WIthdrawal from the world and from other men. This fundamental
uncertainty as to where judgment fits within the overall
perspective is finally resolved by Arendt only by negating some
of her own broader insights into judgment. On the one hand,
she is temp~ed to integrate judgment into the vita activa, seeing it
as a f~nctIon ?~ the representative thinking and enlarged
mentalIty. of political actors, exchanging opinions in public while
engaged m common deliberation. On the other hand, she wants
to emphasize the contemplative and disinterested dimension of
judgment, which. operates retrospectively, like aesthetic judgment.
Judgment m the latter sense is placed exclusively within
the ambit of the life of the mind. Arendt acheives a final resolution
by abolishing this tension, opting wholly for the latter conception
of judgment. This resolution ultimately produces consistency,
but it is a strained consistency, achieved at the price of
excludmg any reference to the vita activa within the revised concept
of judgment. T~e only point at which the exercise of judgment
. ~cox:nes prac~c~y efficacious, or even practically relevant,
IS m times of cnSIS or emergency: judgment "may prevent
catastrophes, at least for myself, in the rare moments when the
140 PART TWO
chips are down." Aside from these "rare moments," judgment
pertains only to the life of the mind, the mind's communion with
itself in solitary reflection.
Judgment is thus caught in the tension between the vita activa
and the vita contemplativa (a dualism that pervades Arendt's entire
work). Arendt tries to overcome this tension by placing
judgment squarely within the life of the mind, yet it remains the
mental faculty that verges most closely upon the worldly activities
of man and (of the three powers of the mind) maintains
the closest ties to those activities. By adhering to a firm disjunction
between mental and worldly activities, Arendt was forced to
expel judging from the world of the vita activa, to which it
maintains a natural affinity. The upshot is diat her more systematic
reflection on the nature of judging resulted in a much narrower
(and perhaps less rich) concept of judgment. lOS
At this point we return to our initial question and ask again: Is
Kant our only source in these matters? Did Kant discover "an
entirely new human faculty,"lo9 previously unknown? No, unless
one construes the faculty of judgment so narrowly that only
someone with a theory of judgment identical to his would count
as having been aware of it. At times, however, Arendt herself is
willing to acknowledge that Kant did not hold an exclusive
monopoly in this field. In particular, she notes in "The Crisis in
Culture" that the recognition of judgment as a fundamental
political ability of man rests on "insights that are virtually as old
as articulated political experience. The Greeks called this ability
phronesis, or insight, and they considered it the principle virtue
or excellence of the statesman in distinction from the wisdom of
the philosopher." In note 14, accompanying this text, she then
remarks: "Aristotle, who (Nicomachean Ethics, Book VI) deliberately
set the insight of the statesman against the wisdom of
the philosopher, was probably following, as he did so often in his
political writings, the public opinion of the Athenian polis."l1O But
if Arendt herself is willing to admit that Aristotle offers an
alternative approach to a theory of judging, our question becomes
even more pressing. We must inquire why she turned
exclusively to Kant for inspiration when she sought to explore
the theme of judgment (assuming that the converse does not
hold-namely, that it was her lasting fascination with Kant that
initially led her into a concern with judgment-which is of
course quite possible).
Interpretive Essay 141
No one well acquainted with Arendt's work can fail to apprec~
ate the profound hold that Kant had on her thought. Kant provld.
ed not merely the source from which to appropriate a theory
of Judgment; for Arendt, he embodied her entire conception of
the public, and he is in that sense her only true precursor. To
gra~~ ho.w Arendt could see in Kant's writings on judgment an
antICIpatIon of her own conception of politics, we must remember
that, for Arendt, politics is a matter of judging appearances,
not purposes. It is for this reason that she can assimilate
p~litical judgment to aesthetic judgment. Thus it is hardly for~
UltOUS that Arendt turns to aesthetics for a model of political
Judgment; she had already assumed an affinity between politics
and aesthetics, for hoth concern the world of appearances. And,
as she writes: "In the work of no other philosopher has the
concept of appearance ... played so decisive and central a role as
in Kant."111 From this it follows, for Arendt, that he also possessed
a unique awareness of the essence of the political.
In an earlier version of the Kant Lectures (1964), Arendt ad~
its that, because of the old prejudices according to which politIcs
was about rule or dominion, about interest, instrumentality,
and so on, even Kant himself did not realize that the Critique of
Judgment be.lon?ed to political philosophy. But in concerning
ourselves WIth Judgment, she holds, we break free of the old
prejudices about politics: "We deal with a form of being together
[shared judgment, community of taste] where no one rules and
no one obeys. Where people persuade each other." And she
continues: "This is not to deny that interest and power and
rule ... are very important and even central political concepts
.... The question is: Are they the fundamental concepts,
or are they derived from the living-together that itself springs
from a different source? (CompanY-Action)."112
Arendt's view is that we are more likely to get at this other
source by turning to a work whose explicit theme is "appearances
qua appearances" than by concentrating on the works that
make up the established tradition of political philosophy:
!he Critique oj]u~gment is the only [one of Kant's] great writIngs
where hIS POInt of departure is the World and the senses
and capabilities which made men (in the plural) fit to be inhabitants
of it. This is perhaps not yet political philosophy,
but i~ certainly is its condition sine qua non. If it could be found
that In the capacities and regulative traffic and intercourse
142 PART TWO
between men who are bound to each other by the common
possession of a world (the earth) there ~xists aX?- a priori J?~nciple,
then it would be proved that man IS essenually a pohucal
being.113
At this point we may pause to consider a question that of~ers
perhaps the most obvious obj.ection to Are?d.t's enterp~se,
though it need not cause exceSSIve concern; thIS IS the quesuo~
whether Arendt takes undue liberties with Kant's texts. It IS
undeniable that she is very free in her handling of Kant's work,
making use of his writings in accordance with her own p~r?oses.
There is, for example, scarcely any reference to the Crztzque if
Practical Reason in lectures purporting to explicate his political
philosophy.114 In an early essay she goes so far as to say ~at it
can "be seen from all his political writings that for Kant hImself
the theme of )udgment' carried more weight than that of 'practical
reason."'115 Kant's writings on history are treated with a
similar latitude, with Arendt implying that Kant was just playing
games in his philosophy of history.116 Clc::arly, this liberty w~th
Kant's written work is to some extent dehberate, for the claIm
that he did not have a viable political philosophy serves to justify
Arendt's retonstruction of his unwritten political philosophy.
She thinks that Kant failed to develop fully the potential for a
political philosophy that is latent in the insights of the Critique if
judgment, and she accordingly pushes the doct~nes of th~t work
in the direction that is likely to fulfill thIS potenual. In
downgrading the importance of his actual political writings (in
favor of the political philosophy that he did not write), Arendt
may have underestimated the importance of the political philosophy
that Kant did write. Indeed, the Kantian version of
liberalism enjoys a growing appeal among liberal political p~ilosophers
in the present day (John Rawls and Ronald Dworkm
being the notable examples). However, in weighing this objection
we should bear in mind that Arendt herself, more concerned
with philosophical appropriation than scholarly fidelity,
is not unaware of the fact that she is interpreting Kant very
liberally.11 7 She is quite ready to admit that what concerns her is
not his actual political philosophy but the political philosophy he
could have written had certain of his ideas been developed systematically.
11s There is nothing intrinsically objectionable about
such a procedure so long as one is clear that the enterprise is not
purely exegetical. As Heidegger, in his own work on Kant, remarks:
"In contrast to the methods of historical philology, which
Interpretive Essay 143
has its own problems, a dialogue between thinkers is bound by
other laws."119
From what I have said thus far, it should be somewhat clearer
why Arendt would immediately and most naturally turn to Kant
for counsel on the question of judgment. But another, perhaps
more subtle, reason suggests why Kant so dominated Arendt's
thinking about judgment. For this, the decisive clue is provided
by the one and only passage in The Human Condition that refers
to the faculty of judgment:
Where human pride is still intact, it is tragedy rather than
absurdity which is taken to be the hallmark of human existence.
Its greatest representative is Kant, to whom the spontaneity
of acting, and the concomitant faculties of practical
reas?~, including force of judgme.nt, remain the outstanding
quahues of man, even though hIS action falls into the determinism
of natural laws and his judgment cannot penetrate
the secret of absolute reality.120
Human judgment tends to be tragic judgment. It continually
confronts a reality it can never fully master but to which it must
nonetheless reconcile itself. Arendt finds in Kant a unique expression
of this tragic quality associated with judgment. This
helps us also to see why the image of the spectator is so vital and
why the burden of judgment is conferred wholly upon the
judging spectator. In history, as in drama, only retrospective
judgment can reconcile men to tragedy:
We m~y see, with Aristotle, in the poet's political function the
~perauon of a catharsis, a cleansing or purging of all emo~
ons that could prevent men from acting. The political funcUon
of the storyteller-historian or novelist-is to teach acceptance
of things as they are. Out of this acceptance, which
can also be called truthfulness, arises the faculty of judgment.
121
Political judgment provides men with a sense of hope by which
to sustain them in action when confronted with tragic barriers.
Only the spectator of history is in a position to proffer such
hope.122 (This is in fact the preponderant message of Kant's
explicitly political writings.) And if a concern with judgment
le~ds one ~nto an awareries~ of tragic imperatives, perhaps only a
thmker WIth a full appreCIation of those tragic realities (which
Kant d~d indeed possess) could penetrate to, and capture in
theoreucal terms, the essence of judgment.
144 PART TWO
For Arendt the act of judging represents the culmination of
the tripartite activity of the mind because, on the one hand, it
maintains the contact with "the world of appearances" that is
characteristic of "willing," and, on the other hand, it fulfills the
quest for meaning that animates "thinking." Hence Arendt
agrees with Pythagoras that in the festival of life "the best people
come as spectators."123 She departs from Pythagoras, however,
in her denial that it is the truth-seeking of the philosophers that
corresponds to this spectatorship. In her account, the contemplative
function of the judging spectator supplants the discredited
contemplative function of the philosopher or
metaphysician.124 The life of the mind reaches its ultimate
fulfillment not in the comprehensive vision of a metaphysics, as
it did for the ancients, but in the disinterested pleasure of the
judging historian, poet, or storyteller.
9. Further Thoughts: Arendt and Nietzsche
on "this gateway, Moment"
Eveningjudgment.-He who reviews his day's and life's work
when he is weary and worn out, generally arrives at a
melancholy conclusion: this, however, is not the fault of day
and life, but of weariness. In the midst of our work, and
even our pleasures, we usually find no leisure to muse over
life and existence: but should this for once actually happen,
we should no longer concede the point to him who was
waiting for the seventh day and for rest to find all things in
existence very beautiful-he had missed the right moment.
Nietzsche, The Daum of Day, no. 317
(trans. Johanna Volz)
THE SAME STRUCTURE of thinking animates both Arendt's concept
of judgment and Nietzsche's thought of eternal return; one
might say that both arise from something like the same thoughtexperiment.
Imagine a moment completely isolated from all
others, all its possible meaning "contained within itself, without
reference to others, without linkage, as it were, "125 a moment of the
most intense existential import. How can this moment, by itself,
sustain the meaning of an entire life-existence? For Nietzsche
this ontological anchoring is achieved through an anticipation of
its infinite recurrence. For Arendt it is achieved through the
backward glance of historical judgment.
Interpretive Essay 145
Both thoughts derive furidamentally from the insight that the
problem of meaning is coterminous with the problem of time,
that the securing of a genuine sense of meaning hinges on the
possibility of somehow overcoming the tyranny of time. (This is
why the problem of the time dimensions of the mental faculties
looms so large in The Life oj the Mind.) Meaning must transcend
time; it must be sheltered against the ravages of temporal flux.
Unless the past can be recaptured (in an act of judgment), or
unless there is the promise of its eventual return, all human life
is rendered utterly meaningless and without point. Without ontological
support for the moment against the flux of time,
human life is indeed "like a leaf in the wind, a plaything of
nonsense."126
In his very first book, The Birth oj Tragedy, Nietzsche stated a
problem that was to preoccupy him throughout his philosophicallife;
his ultimate solution for it was to be the thought of the
eternal return. Arendt, also, constantly grappled with this
problem; it prompted the reflection on political action that constitutes
her book The Human Condition, and its ultimate solution
lay, for her, in the idea of judging. The problem is how to meet
the challenge of Silenus, found in Sophocles' play Oedipus at
Colonus: "Not to be born prevails over all meaning uttered in
words; by far the second-best thing is for life, once it has appeared,
to go back as quickly as possible whence it came"-a
challenge restated at the very end of Arendt's book On Revolution
(as well as in the Kant Lectures themselves).127 Arendt's first
solution to this problem was, as we said, based on the concept of
political action. As she put it in the last sentence of On Revolution:
"it was the polis, the space of men's free deeds and living words,
which could endow life with splendor"; it was this "that enabled
ordinary men, young and old, to bear life's burden."128 In her
later works, however, another, though related, solution
emerges. The political actor on his own cannot secure meaning;
the actor needs a spectator. Hence the necessity of judgment. It
is not politics alone that supports the moment against transient
time; it is rather the act of judging on the part of a detached
spectator, who reflects back on what the actor has done, on the
"great words and deeds" of the past. It is in this light that Arendt
interprets Goethe: "Nature, I would stand before you as but a
man, / Then it would be worth the effort of being a man."
The aphorism in which Nietzsche first introduces the thought
of the eternal return is entitled "The greatest stress":
146 PART TWO
How, if some day or ni~ht a demon were to "sne~k .after you
into your loneliest lonehness and say to you, This life as you
now live it and have lived it, you will have to live once more
and innumerable times more; and there will be nothing ~ew
in it, but every pain and every joy and every ~ought ~nd sigh
and everything immeasurably small or great m your life must
return to you-all in the sa~e succession and sequ~nce-even
this spider and this moonlight between the trees, an? even
this moment and I myself. The ete~na} hourglass ~f eX1stenc~
is turned over and over, and you With It, a dust gram of dust.
Would you not throw yourself down and ~ash your teeth
and curse the demon who spoke thus? Or did you once experience
a tremendous moment when you would have ~nswered
him, "You are a god, and never .have I he~rd anythin~
more godly." If this thought were to gam possession of you, It
would change you, as you are, or perhaps crush yo~. The
question in each and every thing, "Do you ~ant thiS once
more and innumerable times more?" would weigh upon your
actions as the greatest stress. Or how well disposed would you
have to become to yourself and to life to crave nothing more
fervently than this ultimate eternal confirmation and seal?129
For Nietzsche the decisive question is whether we are prepared
to relive our life exactly as we have lived it, and to reli~e it
innumerable times. (Kant actually poses the very same quesoon;
measured in terms of happiness, the value of life for us "is less
than nothing. For who would enter life afresh under the same
conditions?"130 Kant's answer was that consciousness of our own
dignity as bearers of the moral law ~edeems an otherwi~ intolerable
existence; needless to say, Nietzsche had a very different
answer to the question.) The thought of eternal return pos~s
this question in its starkest form-dramatizes it, as it were. ObvI.ously,
the overall achievements of our life in no way redeem
existence from the point of view of this question; if each mom.e~t
is to be relived innumerable times, the only way to endure thiS IS
to embrace the eternity of the moment itself. If the moment is
incapable of absolutely justifying itself, there is no possibility of
wishing to relive it eternally by reference to what wtll happen at
some other point in the course of life. End, goal, telos, cease to be
relevant in the evaluation of human existence; thus the eternal
return has the effect of forcing the moment to answer for itself.
It may seem that what is at stake in Nietzsche's tho~ght ~f t~e
eternal return is not the moment but the whole of ome, all m
the same succession and sequence." But this would be a misun-
Interpretive Essay 147
derstanding, for it is by affirming the moment that we affirm all
time. What allows one to bear "the greatest stress" is the experience
of "a tremendous moment." (This distinction corresponds
to Arendt's contrast between Hegelian Weltgeschichte as
Weltgericht and Kantian autonomy of human judgment.) This becomes
even clearer in Nietzsche's account of the eternal return
in Thus Spoke Zarathustra:
Behold ... this moment! From this gateway, Moment, a long,
eternal lane leads backward: behind us lies an eternity. Must not
whatever can walk have walked on this lane before? Must not
whatever can happen have happened, have been done, have
passed by before? And if everything has been there
before--what do you think, dwarf, of this moment? Must not
this gateway too have been there before? And are not all
things knotted together so firmly that this moment draws
after it all that is to come? Therefore--itself too? For whatever
can walk~in this long lane out there too, it must walk once
more.
And this slow spider, which crawls in the moonlight, and
this moonlight itself, and I and you in the gateway, whispering
together, whispering of eternal things-must not all of us
have been there before?And return and walk in that other
lane, out there, before us, in this long dreadfullane--must we
not eternally return?131
It is true enough that Nietzsche here sees "all things knotted
together so firmly" that the moment is anything but "without
linkage, as it were," to other moments. On the other hand, however,
affirmation is possible only on the basis of the moment:
Behold this gateway, dwarf! ... It has two faces. Two paths
meet here; no one has yet followed either to its end. This long
lane stretches back for an eternity. And the long lane out
there, that is another eternity. They contradict each other,
these paths; they offend each other face to face; and it is here
at this gateway that they come together. The name of the
gateway is inscribed above: "Moment." But whoever would
follow one of them, on and on, farther and farther--do you
believe, dwarf, that these paths contradict each other eternally?
132
This passage is highly reminiscent of Kafka's parable, from
the collection of aphorisms entitled "He," upon which Arendt
lays such emphasis in Thinking. (Arendt actually quotes
Nietzsche's "The Vision and the Riddle" in the context of her
148 PART TWO
exegesis of Kafka in chapter 20 of Thinking, where she also cites
Heidegger's commentary on Nietzsche, according to which eternity
is in the moment because the two eternities are brought into
collision only by the man in the gateway, the one who himself is
the moment.133 It is not fortuitous that Arendt herself cites this
passage from Zarathustra in the last chapter of Thinking because
the problem she is struggling with in The Life oj the Mind replicates
the very problem that induces Nietzsche to formulate
the thought of eternal return.) Like the contradiction between
two eternities in Nietzsche's account, Kafka's "He" is caught in a
struggle between the past and future. To arbitrate this conflict,
"He" must leap beyond this struggle, ')umping out of the
fighting line to be promoted to the position of umpire, the spectator
and judge outside the game of life, to whom the meaning
of this time span between birth and death can be referred because
'he' is not involved in it."134 This is the position of Arendt's
judging spectator, caught in "the gap between past and future,"
as she puts it.
In this gap between past and future, we find our place in time
when we think, that is, when we are sufficiently removed from
past and future to be relied on to find out their meaning, to
assume the position of "umpire," of arbiter and judge over
the manifold, never-ending affairs of human existence in the
world ....
And what is the "position of umpire," the desire for which
prompts the dream, but the seat of Pythagoras' spectators,
who are "the best" because they do not participate in the
struggle for fame and gain, are disinterested, uncommitted,
undisturbed, intent only on the spectacle itself? It is they who
can find out its meaning and judge the performance.135
This place of judgment "between past and future" is, as Arendt
herself indicates, identical to Nietzsche's gateway inscribed with
the name "Moment."
Why is the gateway named "Moment"? Because it has no purpose
outside itself, it leads to nothing but itself. Being is circular.
Therefore, nothing outside the moment can serve to justify it; it
alone can justify itself. It is, in Kantian terms, autonomous, an
end-in-itself. Affirmation of the moment is possible only by reference
to itself, not by reference to anything outside itself, for in
the last analysis the ultimate conclusion or result of this moment
is its own recurrence. The meaninglessness of temporal succes-
Interpretive Essay 149
s~on (a.nd therefore of all Being, regarded as a temporal successl~
n) IS ~e har? truth that must be faced, according to
Nietzsche, m bearmg up under "the greatest stress." The circle is
the symbol of pointlessness and futility; therefore, if the mo~
ent is to ?e affirmed, it shall have nothing to support it but
Its~lf. T~at IS the ~eaning of the eternal return: for purposes of
eXistentIal affirmatIon, the moment stands entirely on its own; it
leads nowhere (since it leads back merely to itself), nor is it, itself,
the culmination of a teleological sequence. How is it redeemable,
how can it be affirmed? For Nietzsche the will, the iron resolve,
to think this problem is itself its own solution. Those who can
bear to think this problem in all its starkness will be the new
creators, the redeemers of Western decadence. Arendt seeks
elsewhe~e for a s~lution to what amounts to the same problem.
For Nletzsc~e, m common with Arendt, mastery of the problem
~f mea~mg depends on the possibility of establishing a
genume relatIon to the past. The problem, as Nietzsche sees it, is
t~at failure to come to terms with the intractability of time gives
r.lse t~, revenge~· social-political ills stem from ontological frustration:
That tIme does not run backwards, that is [the will's]
wrath; 'that which was' is the name of the stone he cannot
move .... [The will] wreaks revenge for his inability to go backwards.
This, indeed this alone, is what revenge is: the will's ill will
a~a~,nst time a~d its 'it was.'''136 To allow the will to feel a "good
WIll toward tIme would liberate man from revenge and thus
revolutionize his entire social-political existence:
To redeem those who lived in the past and to recreate all "it
was" into a "thus I willed it"-that alone should I call rede.
mption. Will-that is the name of the liberator and joybnnger;
thus I taught you, my friends. But now learn this too:
the will itself is still a prisoner. Willing liberates; but what is it
that puts even the liberator himself in fetters? "It was"-that
is the name of the will's gnashing of teeth and most secret
melancholy. Powerless against what has been done, he is an
angry spectator oj all that is past. The will cannot will backwards;
and that he cannot break time and time's covetousness that is
the will's loneliest melancholy.137 '
Arendt's concern is not with liberation of the will but with
liberation of the faculty of judgment, which, she says, takes place
through exercise of the faculty of thinking. But the problem
both she and Nietzsche confront is iQ. this crucial respect the
same: How can "an angry spectator" of the past be turned into a
150 PART TWO
satisfied spectator? How can melancholy spectators hip be converted
into happy spectatorship? Nietzsche wants t? m~e the
will contented with the past; Arendt seeks to make Judgmg the
past a source of pleasure rather than displeasure. In both cases,
"a good will" toward time is to rede~~ .the past. .
Just as it may be said that Arendt Imtlally sought a solutlon ~o
the problem of "the moment" in the nature of acting and thus m
some sense in willing (since there can be no action without the
will) but that her ultimate solution reposes in reflective judgment
or judging reflection upon the deeds of the past, so it ~s likewise
possible to say that Nietzsche initially sought a solUtlon ~o the
problem of meaning (or nihilism, the deval~ing of th~ ~ghest
values) in the will but that his ultimate solutlon, the thmkmg of
the thought of the eternal return, leads away from the will. It is
in precisely these terms that Arendt interprets Nietzsche's
thought in chapter 14 of Willing. Eternal return "is not a theory,
not a doctrine, not even a hypothesis, but a mere thoughtexperiment.
As such, since it implies an experimental return to
the ancient cyclical time concept, it seems to be in flagrant contradiction
with any possible notion of the Will, whose projects
always assume rectilinear time and a future that is unknown and
therefore open to change."13S Thus Arendt argues that the
thought-experiment of the eternal return leads eventually to a
"repudiation of the Will":
the Will's impotence persuades men to prefer looking backward,
remembering and thinking, because, to the backward
glance, everything that is appears to be necessaT>:. :~'he repudiation
of willing liberates man from a responSIbIlity that
would be unbearable if nothing that was done could be undone.
In any case, it was probably the Will's clash with the past
that made Nietzsche experiment with Eternal Recurrence. 139
According to Arendt, Nietzsche
embarked on a construction of the given world that would
make sense, be a fitting abode for a creature whose "strength
of will [is great enough] to do without meaning in
things, ... [who] can endure to live in a ~eaningless worl?"
"Eternal Recurrence" is the term for this final redeemmg
thought inasmuch as it proclaims the "~nnocenc~ o~ all Becoming"
(die Unschuld des Werdens) and WIth that Its m~erent
aimlessness and purposelessness, its freedom from gwlt and
responsibility .140
Interpretive Essay 151
Eternal return is the means of coping with a meaningless world,
reconciling oneself to it, redeeming it, by doing away with all
concepts of responsibility, purposiveness, causality, will.
It is by the following argument that Nietzsche arrives at "the
thought that everything that passes returns, that is, a cyclical
time construct that makes Being swing within itself":
If the motion of the world aimed at a final state, that state
would have been reached. The sole fundamental fact, however,
is that it does not aim at a final state; and every philosophy
and scientific hypothesis (e.g., mechanistic theory) which
necessitates such a final state is refuted [Nietzsche'S italics] by
this fundamental fact.
I seek a conception of the world that takes this fact into
account. Becoming must be explained without recourse to
final intentions; becoming must appear justified at every moment
(or incapable of being evaluated; which amounts to the same
thing); the present must absolutely not be justified by reference to a
future, nor the past by reference to the present. 141
As must now be evident, this Nietzschean formulation is absolutely
decisive for a proper appreciation of Arendt's statement
of the problem of the "backward glance" of judgment. There
can no longer be any mistaking her reliance on Nietzsche's way
of posing the issue. In the same aphorism, Nietzsche writes:
"Becoming-is of equivalent value every moment."142 In other
words, no moment can serve to justify any other moment, no
moment can be affirmed by reference to other moments; the
moment must be self-redeeming. Arendt concludes from the
passage just quoted that this "clearly spells a repudiation of the
Will and the willing ego," because both presuppose the obsolete
concepts of causality, intention, goal, etc.143
Nietzsche seeks for a way to eternalize the moment (" ... joy
wants eternity. Joy wants the eternity of all things, wants deep,
wants deep eternity").144 Arendt seeks for a way to immortalize the
moment by an act of retrospective judgment. In both cases the
impulse is the same: to save the moment from the fleeting onrush
of time. Judging is able to perform this function by virtue
of its essential particularism, the fact that it addresses itself to
particulars without letting the particular be in any way reduced
to, be swallowed up in, universals or generalities. The particular
has a dignity of its own, one that no universal or generality can
take from it.
152 PART TWO
Hegel is entirely right· that philosophy, li~e the owl of
Minerva, spreads its wings only when the day IS over, ~t?usk.
The same is not true for the beautiful or for any deed m Itself.
The beautiful is, in Kantian terms, an end in itself because all
its possible meaning is contained within itself, without re~erence
to others--without linkage, as it were, to other beautI~ul
things. In Kant himself there is this c.ontradiction: In~mte
Progress is the law of the human specIes; at ~e same tIme,
man's dignity demands that he be seen (every smgl~ one of us)
in his particularity and, as such, be seen-but. wIthout ~ny
comparison and independent of time-as reflectIng mankmd
in general. 145
When looked at in the Nietzschean context, it becomes clear
that, for Arendt, judging is not simply a capacity of political
beings (although that was what originally prompted her to
reflect on the faculty of judgment). It actually comes to serve an
ontological function. (This is the insight lying behind the
"break" between what I have called Arendt's early and late
theories of judgment, the former "political,". the latter "c?ntemplative.")
That is, judgment ha~ the fu?ctIon of an~honng
man in a world that would otherwise be WIthOut meamng and
existential reality: a world unjudged would have no human import
for us.
The parallel with Nietzsche-specifically, the ~act that a ·c~nfrontation
with the problem of the will forced him to repudIate
the will in favor of an affirmative acceptance of the eternal return
a nonvolitional reconciliation with all that is, was, and will
be (~gain)-helps to shed light on the ~ast sentences. of Are~dt's
last work, Willing (which would otherwIse appear qUIte b~fflmg).
After speaking of Augustine's discovery of hu~an natalzty! "the
fact that human beings, new men, again and agam appear I? ~he
world by virtue of birth," Arendt observes that the Augustlman
version of the argument
seems to tell us no more than that we are doomed to be free by
virtue of being born, no matter whether we like freedom or
abhor its arbitrariness, are "pleased" with it or prefer to
escape its awesome resp~msibilit~ ~y electing some form of
fatalism. This impasse, If such It IS, cannot be opened or
solved except by an appeal to anothe~ m~ntal faculty, no less
mysterious than the faculty of begmmng, the faculty ~f
J udgment, an analysis of which at least may tell us what IS
m. volved m. our p Ie asures and d·I SP Ie asures. 146
Interpretive Essay 153
This passage confirms that her examination of judging was to be
not merely a theoretical account of an important human capacity
but, rather, the "solution" to an "impasse." The problem she was
seeking to solve is how to be "pleased" with human freedom,
how to bear "its awesome responsibility," how to avoid fatalism
(which was the way out chosen by Nietzsche). The whole passage
carries unmistakable echoes of (it reads like a kind of gloss on)
the story in which Nietzsche describes "the greatest stress." If
these speculations of mine have not been merely fanciful, this
convergence is not at all fortuitous, for the path of reflection that
led Arendt to consider the faculty of judging runs parallel to
that which led Nietzsche to posit the eternal return. Indeed, how
else could one explain Arendt's describing judgment as the way
out of an impasse-in particular, the impasse of the will--or as a
solution to the problem of affirming human freedom? Why
should this be the way of introducing an analysis of judging?
Why should this impasse be the one for which judging is looked
to as a possible way out? And why should one contemplate judgment
as a possible release from such an impasse? In the face of
these questions, it seems fair to ask: On what other reading
could one conceivably make sense of the final paragraph of
Arendt's final work? Judgment is what keeps one from being
crushed by the opposing forces of past and future while standing
in "this gateway, Moment."
When one bears in mind the temporal direction of each of the
three mental faculties, it is understandable why Arendt looked
to judging, which is directed to the past, as the only possible way
out of the impasse. The world we presently inhabit offers precious
little prospect for genuine action and, therefore, for freedom.
And the future, if anything, holds even less promise: "It is
quite conceivable that the modern age-which began with such
an unprecedented and promising outburst of human
activity-may end in the deadliest, most sterile passivity history
has ever known."147
Thus there is only the remotest possibility of deriving a sense
of meaning from 'action in the present. (In these
circumstances--in a world where the possibility of acting politically
is more or less foreclosed~udging almost becomes a kind
of vicarious action, a way of recouping our citizenship in default
of a genuine public realm.) Nor is there any more reason to
expect meaningfulness to be secured by willing projects or by
projecting our will into the future (hence the impasse with
154 PART TWO
respect to willing). That leaves the faculty of judgment, which can
at least locate past events that redeem human existence. (As ~or
thinking: according to Arendt it is the mental faculty by whic?
we withdraw from the world of appearances; consequently, It
cannot be a source of meaning for that world. Thinking, i~sofar
as it returns to the world of appearances to reflect on particulars
within it, becomes judging.) We can sustain oursel~es in the
present and retain hope for the future .only br refl~ctIng ~n the
miraculousness of human freedom as mstantIated m particular
moments of the past. Without the possibility of retrospective
judgment, we .might well be overcome by a sen~e of the
meaninglessness of the present and succumb t? ?espaxr over ~e
future. Judging alone makes satisfactory provIsion fo~ .meamng
and thereby allows us, potentially, to affirm our condition.
Study of the "stories" of the historical past teach us .that the~e
is always the possibility of a new beginning; thus hope IS la~en~ m
the very nature of human action. Every story has a begmmng
and an end-but never an absolute end; for the ending of one
story always marks the beginmng of another.148 If we were compelled
to pronounce an absolute verdict o~ ~story as a whol~, we
might be tempted to def~r to ~t's p.esslIDIs~ .. (It was precisely
Kant's pessimism, combmed WIth his conVlctl~n that h,;,man
history must form a single story, that forc~d him to pO~lt the
regulative idea of historical progres~, to gwde our reflection as
in teleological judgment, to make it ~ossi~le ~or us to refle~t on
history without despair.) But because Judgxng I~ always .rest?cted
to particular incidents and individuals, to stones that msplre us
and examples that become exemplary, historical refl~ctio~ will
always remain edifying for those who have not rehnqwshed
hope.
We have argued that judging provides for affirmation of our
worldly condition by allowing us to draw pleasure from reflecting
on the past. But the aim is not really to justify. th~ world b~t
something more like "confirming" our place m It; that IS,
establishing contact with the reality of our world or, perhaps,
justifying this reality by asserting our connection to it. T~s fo~mulation
is suggested by a phrase that recurs several tImes m
Arendt's unpublished lectures; it is Augustine's "Amo: Volo ut
sis": to love is, in effect, to say "I want you to be." Because of "the
sheer arbitrariness of being," because of the fact that "we have
not made ourselves," we "stand in need of confirmation.·We are
strangers, we stand in need of being welcome." It is by judging
Interpretive Essay 155
that "we confirm the world and ourselves"; with the faculties
given us, "we make ou,rselves at home in the world."149 The
self-chosen company of shared judgment secures an otherwise
tenuous historicity.
. In these concluding speculations, I have not tried to dictate
the necessary course of Arendt's reflections on judging; my intent
has been merely to delimit the zone within which they circulate.
This region of speculation is demarcated by Augustine's
meditations on temporality in Book 11 of The Crmfessions and by
Nietzsche's vision of the eternal return. Throughout her work
Arendt is guided not only by Kant but also by Augustine and
Nietzsche; again and again it is from them that she takes her
problems. In the present context, the question they raise for her
is this: Can the world be made a fitting abode for man, and in
what sense, given that he is an essentially temporal being who
enters from an unknown past and departs again into an unknown
future?150 Combining an Augustinian appreciation of
the frailty of worldly institutions and relationships with a
Nietzschean faith in the transfiguring potental of human action,
Arendt confronts the basic question of temporality: Under what
conditions can we say yes to time?151 As posed either by Augustine
or by Nietzsche, the problem-which haunts all of
Arendt's philosophical work-is how to subdue temporality, how
to consolidate and stabilize a mortal existence, rendering it less
fleeting, ontologically less insecure. If the being of politics is
indeed appearance (which is, after all, the fundamental premise
of Arendt's political philosophy),152 a public space of judgment
is needed to render the world of appearances more durable--to
confirm its being, as it were. Judging, or the saving power of
remembrance, helps us to preserve what would otherwise be lost
to time; it lets endure what is essentially perishable.15s In other
words, the ultimate function of judgment is to reconcile time
and worldliness.
The~e speculations of mine no doubt raise more questions
than they answer. The Kant Lectures certainly offer no more
than an intimation of the possibilities I have suggested, and
perhaps I have wandered farther than was called for. My only
purpose has been to indicate the scope of Arendt's theorizing.
Something of this scope is suggested by the themes and preoccupations
we find ·in the hermeneutics of Hannah Arendt's
rrie?~ Walter Benjamin, an~ it is by reading her alongside BenJamin
s "Theses on the Philosophy of History" that we may
156 PART TWO
finally hope to measure the dimensions of her intention. For
Benjamin too sought for a .redemptive relation to the past, and
Arendt's judging spectator is the counterpart of Benjamin's
jlaneur, who strolls through the past, gathering mpments in
happy or melancholy retrospection, collecting by "re-collecting":
amidst the ruin of the present, one searches out fragments by
which to salvage one's past.154 In Benjamin himself, this involves
assuming the role of the angel of history, who, as Scholem puts
it, is "basically a melancholy figure, wrecked by the immanence
of history."155 These themes converge in Benjamin's third thesis
on the philosophy of history:
. A chronicler who recites events withou~ distinguishing between
major and minor ones acts in accordance with the following
truth: nothing that has ever happened should be
regarded as lost for history. To be sure, only a redeemed
mankind receives the fullness of its past-which is to say, only
for a redeemed mankind has its past become citable in all its
moments. Each moment it has lived becomes a citation a t' ordre
du jour-and that day is Judgment Day.156
Such a comportment toward the past is expressed even more
tellingly in Benjamin's commentary on one of Kafka's parables:
... the true measure of life is memory. Looking back, it
traverses the whole of life like lightning. As fast as one can
turn back a few pages, it has travelled from the next village to
the place where the traveller took the decision to set out.
Those for whom life has become transformed into writing
... can only read the writing backwards. That is the only
way in which they confront themselves, and only thus-by
fleeing from the present-can they understand life.157
Notes
P ostscriptum to Thinking
1. Henri Bergson, Time and Free Will, trans. F. L. Pogson (New York:
Macmillan, 1910), pp. 158, 167,240 (italics added).
2. Critique of Pure Reason, BI72-BI73, trans. N. K. Smith (New York:
St. Martin's Press, 1963).
3. [See Arendt's essay "The Concept of History: Ancient and Modem"
in Between Past and Future (New York: Viking Press, 1968}.-Ed.]
Kant Lectures
1. Hans Saner, Kants Weg vom Krieg zum Frieden, vol. 1: Widerstreit und
Einheit: Wege- zu Kants politischem Denken (Munich: R. Piper Verlag,
1967); English translation by E. B. Ashton, Kant's Political Thought: Its
Origin and Development (Chicago: University of Chicago Press, 1973).
2. [I presume that this refers to La Philosophie Politique de Kant, volume
4 of the Annales de Philosophie Politique (Paris: Institut International
de Philosophie Politique, 1962}.-Ed.]
3. Immanuel Kant, On History, ed. Lewis White Beck, trans. L. W.
Beck, R. E. Anchor, and E. L. Fackenheim, Library of Liberal Arts
(Indianapolis: Bobbs-Merrill, 1963).
4. Kant's Political Writings, ed. Hans Reiss, trans. H. B. Nisbet (Cambridge,
Eng.: At the University Press, 1971).
5. Kurt Borries, Kant als Politiker: Zur Staats- und Gesellschaftslehre des
Kritizismus (Leipzig, 1928).
6. Kant, On History, ed. Beck, p. 75 ("The End of All Things"), and p.
54 ("Conjectural Beginning of Human History").
7. Ibid., p. 25 ("Idea for a Universal History," Ninth Thesis).
8. Ibid., p. 59 ("Conjectural Beginning of Human History").
9. Critique of Judgment, § 83. [As a rule, Arendt relies on the Norman
Kemp Smith translation for the Critique of Pure Reason (New York: St.
Martin's Press, 1963) and on the J. H. Bernard translation for the
Critique of Judgment (New York: Hafner, 1951). But in her use of these,
158 NOTES TO PAGES8-15
as well as other translations, she commonly makes small changes of her
own. In the case of other works, when translations are not specifically
attributed, it may be assumed that they are Arendt's own.-Ed.]
10. On History, ed. Beck, p. 60 ("Conjectural Beginning of Human
History").
11. Ibid., p. 54.
12. Ibid., pp. 78-79 ("The End of All Things").
13. Immanuel Kant, Observations on the Feeling of the Beautiful and Sublime,
trans. John T. Goldthwait (Berkeley: University of California
Press, 1960).
14. Letter to Christian Garve, September 21, 1798. See Kant, Philosophical
Correspondence 1759-99, ed. and trans. Arnulf Zweig (Chicago:
University of Chicago Press, 1967), p. 252.
15. Letters to Marcus Herz, November 24, i776, and August 20,
1777. See Philosophical Correspondence 1759-99, ed. Zweig, pp. 86, 89.
·16. See Lewis White Beck, A Commentary on Kanfs Critique of Practical
Reason (Chicago: University of Chicago Press, 1960), p. 6. .
17. Immanuel Kant, "Reflexionen zur Anthropologie," no. 763
(italics added). Iil Karns gesammelte Schriften, Prussian Academy edition,
24 vols. (Berlin: Reimer & de Gruyter, 1910-66), 15:333.
18. Observations on the Feeling oj the Beautiful and the Sublime, trans.
Goldthwait, pp. 48-49 (note).
19. A. Baeumler, Kants Kritik der Urteilskraft: 1hre Geschichte und Systematik,
vol. 1: Das Irrationalitiitsproblem in der Aesthetik und Logik des 18.
jahrhunderts his zur Kritik der Urteilskraft (Halle: Max Niemeyer Verlag,
1923), p. 15.
20. Immanuel Kant, Logic, trans. R. Hartman and W. Schwarz, Library
of Liberal Arts (Indianapolis: Bobbs-Merrill, 1974), p. 29.
[Arendt refers to Kant's Vorlesungen iiber die Metaphysik.]
21. Gottfried von Leibniz, "Principes de la Nature et de la Grace,
fondes en raison" (1714), par. 7.
22. CritiqUe of judgment, §67.
23. Martin Heidegger, Being and Time, trans. John Macquarrie and
Edward Robinson (New York and Evanston: Harper & Row, 1962),
e.g., §4.
24. See Gerhard Lehmann, Kants Nachlasswerk und die Kritik der Urteilskraft
(Berlin, 1939), pp. 73-74.
25. Critique of judgment, §67.
26. Ibid., § 76.
27·. Ibid., §77.
28. Ibid., § 78.
29. Ibid., Preface.
30. Kant, Introduction to The Metaphysics of Morals, section I: "Of the
Relation of the Faculties of the Human Mind to the Moral Laws". See
Kant!s Critique of Practical Reason and Other Works on the Theory of Ethics,
Notes to Pages 15-28 159
trans. Thomas Kingsmill Abbott (London: Longmans, Green, & Co.,
1898), p. 267.
31. Ibid.
32. On History, ed. Beck, p. 102 (Perpetual Peace).
33. Ibid., p. 106.
34. Ibid., pp. 151-52, note (The Strife of the Faculties, Part II: "An Old
Question Raised Again: Is the Human Race Constantly Progressing?").
35. Ibid., pp. 112-13 (perpetual Peace).
36. Ibid., p. 112.
37. Kant, Fundamental Principles of the Metaphysics of Morals, trans.
Thomas K. Abbott, Library of Liberal Arts (Indianapolis: BobbsMerrill,
1949), p. 19.
38. Ibid., pp. 20-21.
39. Observations on the Feeling of the Beautiful and Sublime, (end of Section
Two), trans. Goldthwait, p. 74.
40. Ibid.
41. On History, ed. Beck, p. 145, note ("An Old Question Raised
Again").
42. Aristotle, Politics 1267al0 ff.
43. Ibid., 1325b15 ff.
44. Blaise Pascal, Pensees, no. 331, trans. W. F. Trotter (New York: E.
P. Dutton, 1958).
45. Robert D. Cumming, Human Nature and History: A Study of the
Development of Liberal Political Thought (Chicago: University of Chicago
Press, 1969), vol. 2, p. 16. .
46. Phaedo 64.
47. Ibid. 67.
48. Apology 40.
49. On History, ed. Beck, p. 67 ("Conjectural Beginning of Human
History").
50. Critique of judgment, § 83 (note).
51. Kant, "Ober das Misslingen aller philosophischen Versuche in
der Theodicee" (1791), in Gesammelte Schriften, Prussian Academy edition,
8:253-71.
52. Anthropology from a Pragmatic Point of View, §29, trans. Mary J.
Gregor (The Hague: Nijhoff, 1974).
53. Gesammelte Schriften, Prussian Academyed., 18:11.
54. Critique of Pure Reason, B839.
55. Observations on the Feeling of the Beautiful and Sublime, trans.
Goldthwait, pp. 6&--67.
56. Critique of judgment, § 84 (italics added).
57. K~t, Allgemeine Naturgeschichte und Theone des Himmels (1755),
AppendIX to Part III, Gesammelte Schriften, Prussian Academy ed.,
1:357.
58. Critique of Pure Reason, B859.
160 NOTES TO PAGES 28-39
59. Ibid., B884 (italics added).
60. "Bemerkungen zu den Beobachtungen iiber das Gefiihl des Schonen
und Erhabenen," Gesammelte Schrijten, Prussian Academy ed., 20:44.
61. AristOtle's epistle to Alexander, "Concerning Kingship," in Ernest
Barker, The Polmcs of Aristotle (Oxford: Oxford University Press, 1958),
p.386.
62. Eric Weil, "Kant et Ie probleme de la politique/, in La Philosophie
PolitiquedeKant, vol. 40f Annales de Philosophie Politique (Paris, 1962), p.
32.
63. "Reflexionen zur Logik," no. 1820a, Gesammelte Schriften; Prussian
Academyed., 16:127.
64. Kant, "Versuch einiger Betrachtungen iiber den Optimismus"
(1759), in Gesammelte Schriften, Prussian Academy ed., 2:27-35.
65. On History, ed. Beck, pp. 73-74, note ("The' End of All Things").
66. "Reflexionen zur Anthropologie," no. 890, Gesammelte Schriften,
Prussian Academyed., 15:388.
67. Karljaspers,Kant, ed. H. Arendt (New York: Harcourt, Brace &
World, 1962), p. 95. Qaspers quotes Kant without furnishing a reference,
but see Critique of Pure Reason, B823.)
68. Critique of judgment, § 40 (note).
69. Critique of Pure R{!ason, Axi, note (Preface to the first edition).
70. Ibid., B27.
71. Ibid., B370.
72. Ibid., AxiL
73. Ibid., Axi.
74. Ibid., Bxxv.
75. Ibid., Bxxxii.
76. Ibid., Bxxxiii.
77. Ibid., Bxxxv.
78. G. W. F. Hegel, "Uber das Wesen der philosophischen Kritik"
(1802), inSiimtliche Werke, ed. Hermann Glockner (Stuttgart, 1958), vol.
1, p. 185 [Arendt's translation].
79. Hegel, "VerhaItniss des Skepticismus zur Philosophie" (1802),
ibid~, p. 243 [Arendt's translation].
80. See Kant's Preface to his essay "On the Common Saying: 'This
May be True in Theory, but it does not Apply in Practice,'" in Kanfs
Political Writings, ed. Reiss, p. 61.
81. Critique of Pure Reason, Bxxxi.
82. Ibid., Bxxxvi.
83. Theaetetus 148 ff.
84. Sophist 226-31.
85. Critique of judgment, §40 ..
86. See Gorgias 482c.
87. Critique of Pure Reason, B884.
88. [Arendt's italics. See Kant, Philosophical Correspondence 1759-99,
ed. Zweig, pp. 105-6.]
Notes to Pages 39-51 161
89. jaspers, Kant, p. 123. The quote is from Kant's letter to Christian
Garve, August 7, 1783.
90. On History, ed. Beck, pp. 4-5 ("What Is Enlightenment?").
91. Ibid., p. 5.
92. "Reflexionen zur Anthropologie," no. 897, Gesammelte Schriften,
Prussian Academy ed., 15:392.
93. Critique of judgment, §40.
94. "Was heisst: Sich im Denken orientieren?" (1786), in Gesammelte
Schrijten, Prussian Academy ed., 8:131-47.
95. Gesammelte Schrijten, Prussian Academy ed., 18:267 (no. 5636).
96. Letter to Marcus Herz,june 7, 1771. See Kant, Selected Pre-Critical
Writings, trans. G. B. Kerferd and D. E. Wolford (New York: Barnes &
Noble, 1968), p. 108.
97. Letter to Marcus Herz, February 21, 1772. See Kant, Philosophical
Correspondence 1759-99, ed. Zweig, p. 73.
98. Critique of judgment, §40.
99. Ibid.
100. Gesammelte Schriften, Prussian Academy ed., 12:59 (Correspondence).
101. On History, ed: Beck, pp. 143-48 ("An Old Question Raised
Again," secs. 6 and 7).
102. Kant's Political Writings, ed. Reiss, p. 51 ("Idea for a General
History from a Cosmopolitan Point of View," end of Eighth Thesis).
103. Ibid., p. 184, note (The Contest of the Faculties).
104. On History, ed. Beck, p. 120'(Perpetual Peace, Appendix I).
105. Kant's Political Writings, ed. Reiss, p. 147 (The Metaphysics of Morals,
General Remark A after § 49).
106. On History, ed. Beck, p. 130 (Perpetual Peace, Appendix II).
107. See Borries, Kant als Pol'itiker (Scientia Verlag Aalen, 1973; reprint
of 1928 Leipzig edition), p. 16.
108. See Kant, Religion within the Limits of Reason Alone, Book IV, Part
Two, §4, trans. T. M. Greene and H. H. Hudson (New York: Harper
Torchbooks, 1960), pp. 176-77 (note).
109. On History, ed. Beck, pp. 129-30 (Perpetual Peace, Appendix II).
110. Ibid., p. 130.
Ill. Ibid., p. 133.
112. Ibid., p. 134.
113. [Arendt's translation from Eine Vorlesung Kants ii.ber Ethik, ed.
Paul Menzer (Berlin: Pan Verlag Rolf Heise, 1924); see Kant, Lectures on
Ethics, trans. Louis Infield (London: Methuen, 1979), p. 43 (section on
"The Supreme Principle of Morality").]
114. Kanfs Political Writings, ed. Reiss, p. 88 ("Theory and Practice,"
Part III).
ll5. See ibid., p. 116 (!'erpetual Peace, Appendix I).
116. Ibid., p. 89 ("Theory and Practice," Part III).
117. Ibid., p. 91.
162 NOTES TO PAGES51-67
118. Ibid., p. 88.
119. On History, ed. Beck, p. 106 (Perpetual Peace, First Supplement).
120. Ibid., p. 100 (Second Definitive Article).
121. Critique oj judgment, §28. .
122. Kant's Political Writings, ed. Reiss, p. 190 [the quote IS actually
borrowed from Hume].
123. Critique oj judgment, §83.
124. Ibid.
125. Kanfs Political Writings, ed. Reiss, p. 174 (The Metaphysics oj Morals,
§ 62, Conclusion).
126. See On History, ed. Beck, p. III (the quote is from Seneca) ..
127. Diogenes Laertius, Lives oj the Philosophers 8. 8, trans. G. S. Kirk
and J. E. Raven, The Presocratic Philosophers (Cambridge, Eng.: At the
University Press, 1971), p. 228. . .
128. See Hegel, Reason inBistory, trans. Robert S. Hartman, Library
of Liberal Arts (Indianapolis: Bobbs-Merrill, 1953), pp. 35-36 (Hegel's
Introduction to The Philosophy oj History).
. 129. Alexandre Kojeve, "Hegel, Marx an~ Christianity," Interpretation
1 (1970): 37.
130. On History, ed. Beck, p. 51 (Third Review of Herder).
131. Ibid.
132. The Republic 514a ff.
133. Introduction to The Metaphysics of Morals, section I (see n. 30,
above).
134. Critique oj Pure Reason, B362 ff., B371 ff.
135. See ibid., B884.
. 136. Critique oj judgment, §48.
137. Ibid., §50.
138. Ibid.
139. Ibid.
140. Ibid., §49.
141. Ibid.
142. Cicero, On the Orator 3. 195.
143. Ibid. 3. 197.
144. Anthropology from a Pragmatic Point oj View, trans. Gregor, §53
(see n. 52, above).
145. Critique oj judgment,§40. .
146. Parmenides (Frag. 4) speaks of nous, which enables us to look
steadfastly at things that are present though they are absent: "Look how
strongly absent things are present to the mind [nous)" (see Kathleen
Freeman,Ancilla to the Pre-Socratic Philosophers [Oxford: Basil Blackwell,
1971], p. 42).
147. Critique oj judgment, §45.
148. Ibid., §41.
149. "Reflexionen zur Anthropologie," no. 767, in Gesammelte Schriften,
Prussian Academy ed., 15:334-35.
Notes to Pages 68-80 163
150. Critique oj judgment, §48.
151. Ibid., §54.
152. Anthropology from a Pragmatic Point oj View, trans. Gregor, § 53.
153. Critique oj judgment, §40.
154. Ibid. See also Kant'sLogic, trans. R. Hartman and W. Schwarz, p.
63 (see n .. 20, above).
155. Critique oj judgment, §40. [On the translation of Kant's term
"allgemein": it should be noted that Arendt consistently substitutes "general"
where the standard translations have "universal." One important
reason for this change is suggested in Arendt's essay "The Crisis in
Culture" (in Between Past and Future, enl. ed. [New York: Viking Press,
1968], p. 221), where she says that ''judgment is endowed with a certain
specific validity but is never universally valid. Its claims to validity can
never extend further than the others in whose place the judging person
has put himself for his considerations. Judgment, Kant says, is valid 'for
every single judging person,' but the emphasis in the sentence is on
'judging'; it is not valid for those who do not judge or for those who are
not members of the public realm where the objects of judgment appear"
(my italics). Thus Arendt's choice of terms here is of quite some
importance in relation to her reading of Kant.-Ed.]
156. Critique oj judgment, §40.
157. Ibid.
158. Ibid., Preface.
159. Ibid., §41.
160. On History, ed. Beck, p. 54 ("Conjectural Beginning of Human
History").
161. Cicero, Tusculan Disputations 1. 39-40 .
162. Critique oj judgment, §41.
163. Ibid.
164. On History, ed. Beck, p. 89 (Perpetual Peace).
165. Ibid., p. 102.
166. Ibid., pp. 103, 105.
167. Critique oj judgment, Introduction, section IV.
168. Ibid.
169. Critique oj Pure Reason, B173.
Imagination
1. Kant, Critique oj Pure Reason, B151 (italics added), trans. N. K.
Smith (New York: St. Martin's Press, 1963).
2. Kant, Anthropology from a Pragmatic Point oj View, § 28 (italics
added), trans. Mary J. Gregor (The Hague: Nijhoff, 1974).
3. Ibid., § 34.
4. See Kathleen Freeman, Ancilla to the Pre-Socratic Philosophers (Oxford:
Basil Blackwell, 1971), p. 42. .
164 NOTES TO PAGES 80--91
5. Hermann Diels and Walther Kranz, Die Fragmente der Vorsokratiker,
5th ed. (Berlin), B21a. See Freeman, Amilia to the Pre-Socratic Philosophers,
p. 86.
6. Critique of Pure Reason, B176 ff.
7. Ibid., BI03 (italics added).
8. Ibid., B180 (italics added).
9. Ibid., A124.
10. Ibid., B180.
11. Ibid., B29.
12. Ibid., B863.
13. Ibid., B180.
14. Ibid., A94.
15. Ibid., B180.
16. Ibid., BI8~1.
17. Ibid., B181.
18. Ibid., A120 (note).
19. Ibid., B181.
20. Ibid., BI04.
21. Ibid., AIl8.
22. Critique of Judgment, General Remark to § 22, trans. J. H. Bernard
(New York: Hafner, 1951).
23. Ibid., §59.
24. Critique of Pure Reason, B172.
25. Ibid., Bi73.
26. Critique of Judgment, § 22.
Interpretive Essay
1. Hannah Arendt, The Life of the Mind, ed. Mary McCarthy (New
York: Harcourt Brace Jovanovich, 1978), vol. 1: Thinking, p. 218
(Editor's Postface by Mary McCarthy).
2. J. Glenn Gray, "The Abyss of Freedom-and Hannah Arendt," in
Hannah Arendt: The Recovery of the Public Wotld, ed. Melvyn A. Hill (New
York: St. Martin's Press, 1979), p. 225.
3. Michael Denneny, "The Privilege of Ourselves: Hannah Arendt on
Judgment," in Hannah Arendt: The Recovery of the Public World, ed. Hill,
p.245.
4. The Life of the Mind, vol. 2: Willing, p. 217.
5. Arendt, Lectures on Kant's Political Philosophy (cited hereafter as
Kant lectures), pp. 19,30-31, above. (All page references to the Kant
Lectures and to the Postscriptum to Thinking refer, unless otherwise
stated, to the present volume.)
6.Thinkin~ pp.69-70, 76,92-98,111,129-30,140,192-93,207-9,
213-16.
7. Social Research 38 (1971): 417-46.
Notes to Pages 91-99 165
8. See Kant Lectures, p. 68, above.
9. ''Postscriptum to Thinking," p. 5, above; Kant Lectures, p. 56. Cf.
"The Concept of History," in Hannah Arendt, Between Past and Future:
Eight Exercises in Political Thought, enl. ed. (New York: Viking Press,
1968), pp. 41-90, esp. pp. 51-52; see also, ibid., pp. 262-63
("Truth and Politics"). All references will be to the enlarged edition of
Between Past and Future.
10. See section 8 of this essay, pp. 138-39, below.
11. PUblished, respectively, in Freedom and Serfdom, ed. A. Hunold
(Dordrecht: D. Reidel, 1961), pp. 191-217; Between Past and Future, pp.
197-226; and ibid., pp. 227-64.
12. Mary McCarthy, Editor's Postface to Thinking, p.219.
13. Arendt, "Understanding and Politics," Partisan Review 20 (1953):
377-92. Subsequent page references in the text are to this essay.
14. Preface to Between Past and Future, p. 14.
15. Arendt, "A Reporter at Large," New Yorker, February 16, 1963,
pp. 40-113; February 23,1963, pp. 40-111; March 2,1963, pp. 40-91;
March 9, 1963, pp. 48-131; March 16, 1963, pp. 58-134. See also
A~e.ndt, Eichmann inJ erusalem: A Report on the Banality of Evil (New York:
VIking Press, 1963; rev. and enl. ed., 1965) (all references below are to
the revised, enlarged edition). Although there are discussions of the
faculty of judging in Arendt's writings prior to the Eichmann trial, the
~rst ve~sion of the Kant Lectures was given in 1964, that is to say,
Immediately after the appearance of the Eichmann book.
16. See "Truth and Politics," Between Past and Future, p. 227 n.;
"Thinking and Moral Considerations," Social Research 38 (1971):
417-19; Thinking, pp. 3-6. The promise of a book on "Thinking"
emerges in 1964, in "Eichmann in Jerusalem" (Encounter, January, 1964,
p. 56); Arendt wrote: "this is not the place to go into these matters
seriously; I intend to elaborate them further in a different context.
Eichmann may very well remain the concrete model of what I have to
say."
17. The Listener, August 6, 1964, pp. 185-87, 205.
18. Ibid., p. 187.
19. Eichmann in Jerusalem, p. 294.
20. Ibid., pp. 294-95.
21. Ibid., p. 295.
22.Encounter, January, 1964, pp. 51-56. Reprinted in The Jew as
Pariah: Jewish Identity and Politics in the Modem Age, ed. Ron H. Feldman
(New York: Grove Press, 1978), pp. 240-51. This volume also contains a
small selection of material relating to the Eichmann affair.
23. Eichmann in Jerusalem, pp. 295-96; my italics.
24. Ibid., p. 296.
25. Ibid.
26. Ibid., p. 297.
27. Ibid.
166 NOTES TO PAGES 100-108
28. The Jew as Pariah, ed. Feldman, pp. 243, 248; my italics.
29. Maurice Merleau-Ponty, Humanism and Terror, trans. John O'Neill
(Boston: Beacon Press, 1969), pp. xxiv-xxv; my italics.
30. "Freedom and Politics," in Freedom and Seifdom: An Anthology of
Western Thought, ed. Hunold, p. 207. Cf. "The Crisis in Culture," Between
Past and Future, pp. 219-20 (published in the same year). .
31. Arendt, "The Crisis in Culture: Its Social and Its Political
Significance," in Between Past and Future, pp. 197-226. Subsequent references
in the text are to this work.
32. "By his manner of judging, the person discloses to an extent also
himself, what kind of person he is, and this disclosure, which is involuntary,
gains in validity to the degree that it has liberated itselffrom
merely individual idiosyncrasies" (ibid., p. 223). In other words, even
personal qualities are potentially nonsubjective, insofar as they establish
the possibility of an intersubjectively valid "company" of like-judging
persons.
33. Arendt here invokes Cicero's declaration that he would prefer to
go astray with Plato than to possess the truth with the Pythagoreans,
which she interprets as meaning that he would even accept being led
astray from the truth for the sake of "Plato's company and the company
of his thoughts" (ibid., pp. 224-25). In an unpublished lecture Arendt
adds to this a similar statement by Meister Eckhart, that he would much
rather be in Hell together with God than in Paradise without Him, and
she also quotes The Will to Power, no. 292, where Nietzsche says that it is
a denaturation of morality "to separate the act from the agent, to direct
hatred or contempt against 'sin' [the deed instead of the doer], to believe
that an action could be good or evil in itself. ... In every action, all
depends upon who does it, the same 'crime' may be in one case the
highest privilege, and in another the stigma [of evil]. Actually, it is the
self-relatedness of him who judges that interprets an action or rather its
actor with respect to ... resemblance or nonaffinity [between the agent
and this judge]" (see Nietzsche, The Will to Power, ed. Walter Kaufmann,
trans. W. Kaufmann and R.J. Hollingdale [New York: Random House,
1967], p. 165). This unpublished lecture was part of a lecture course
Arendt gave at the New School for Social Research: "Some Questions of
Moral Philosophy," Fourth Session, March 24, 1965 (Lecture notes,
Hannah Arendt Papers, Library of Congress, Container 40, pp.
024637,024651-024652); the interpolations in the Nietzsche quotation
are Arendt's. Cf. Kant Lectures, p.74, above. For further discussion of
the concept "choice of company," see section 6 of this essay, pp. 112-14,
below.
34. Arendt, "Truth and Politics," in Between Past and Future, pp.
227-64. Subsequent references in the text are to this work.
35. Lecture course at the New School: "Some Questions of Moral
Philosophy," Fourth Session, March 24, 1965; also given as the final
Notes to Pages 108-13 167
lecture of "Basic Moral Propositions" at the University of Chicago
(Hannah Arendt Papers, Library of Congress, Container 40, p.
024648).
36. Ibid.
37. Hannah Arendt, On Revolution (New York: Viking Press, 1965), p.
231.
38. Ibid., pp. 231-32.
39. Thinking, p. 192.
40. Ibid.
41. Arendt, "Thinking and Moral Considerations," Social Research 38
(1971):417-46.
42. Ibid., pp. 445-46. Cf. Thinking, pp. 192-93.
43. "The Concept of History," Between Past and Future, p. 52.
44. "The Crisis in Culture," Between Past and Future, p. 218.
45. Ibid., p. 210.
46. Ernst Vollrath, "Hannah Arendt and the Method of Political
Thinking," Social Research 44 (1977): 163-64.
47. Arendt, "Thinking and Moral Considerations," p. 418.
48. For an explicit statement of method in connection with her work
on totalitarianism, see Arendt's exchange with Eric Voegelin in "The
Origins of Totalitarianism," Review of Politics 25 (1953): 68-85.
49. See "The Concept of History," Between Past and Future, p. 64.
50. Course at the New School: "Some Questions of Moral Philosophy,"
First Session (Hannah Arendt Papers, Library of Congress, Container
40, pp. 024585, 024583). See also Arendt, "Personal Responsibility
under Dictatorship," The Listener, August 6, 1964, p. 205.
51. Course at Chicago: "Basic Moral Propositions," Seventeenth Session
(Hannah Arendt Papers, Library of Congress, Container 41, p.
024560).
52. "Some Questions of Moral Philosophy," Fourth Session (Hannah
Arendt Papers, Library of Congress, Container 40, p. 024651). See also
"Eichmann in Jerusalem: An Exchange of Letters," TheJew as Pariah, p.
251, where Arendt says that, whereas thought tries to reach some
depth, to go to the roots, "evil is never 'radical,' it is only extreme, and it
possesses neither depth nor demonic dimension. It can overgrow and
lay waste a world precisely because it spreads like a fungus on the
surface. [The moment thought concerns itself with evil, it is frustrated
because there is nothing.-R. B.] Only the good has depth and can be
radical."
53. For a convincing illustration of Arendt's banality-of-evil thesis,
see Henry T. Nash, "The Bureaucratization of Homicide," in Protest and
Survive, ed. E. P. Thompson and Dan Smith (Harmondsworth: Penguin,
1980), pp. 62-74.
54. See section 2 of this essay; see also Arendt, "Tradition and the
Modern Age," in Between Past and Future, pp. 17-40.
168 NOTES TO PAGES 114-24
55. Hannah Arendt: The Recuoery of the Public World, ed. Hill, pp.
311-15.
56. Arendt, "Thinking and Moral Considerations," p. 445; Thinking,
p.192.
57. j. Glenn Gray, "The Abyss of Freedom-and Hannah Arendt," in
Hannah Arendt: The Recuoery of the Public World, ed. Hill, p. 225.
58. Willing, p. 217. The quote from Augustine is from the City of God
12.20.
59. Postscriptum to Thinking, p. 4, above.
60. Immanuel Kant, Critique of Judgment, trans. jam{!s Creed
Meredith (Oxford: At the Clarendon Press, 1952), Introduction, sec.
IV. .
61. Ibid. Cf. Kant'sLogic, trans. R. Hartman and W. Schwarz, Library
of Liberal Arts (Indianapolis: Bobbs-Merrill, 1974), pp. 135-36, pars.
81-84.
62. Cf. the concepts of potential consensus and "ideal speech situation"
in the recent work of jiirgen Habermas. Habermas himself actually
acknowledges a considerable debt to Arendt's appropriation of
Kant's idea of judging. See his "On the German-Jewish Heritage," Telos
44 (1980): 127-31, where he describes Arendt's "rediscovery of Kant's
analysis of Urteilslrraft or judgment for a theory of rationality" as an
"achievement of fundamental importance" (p. 128). It is "a first approach
to a concept of communicative rationality which is built into
speech and action itselP' and, as such, points in the direction of "a
project of an ethics of communication which connects practical reason
to the idea of a universal discourse" (pp. 130--31).
63. Arendt, "The Concept of History," Between Past and Future, p.53.
64. Kant, Anthropology from a Pragmatic Point of View, trans. Mary
Gregor (The Hague: Nijhoff, 1974), p. 12.
65. Cf. Stanley Cavell's essay "Aesthetic Problems of Modern Philosophy"
in his book Must We Mean What We Say? (Cambridge, Eng.: At the
University Press, 1976), pp. 73-96.
66. Edmund Burke, "On Taste: Introductory Discourse," A Philosophical
Enquiry into the Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautifu~ in
The Writings and Speeches of Edmund Burke, Beaconsfield edition, 12 vols.
(London: Bickers & Son, n.d.), 1 :79.
67. Critique of Judgment, § 19.
68. Ibid., §§ 20--22.
69. Ibid., § 22.
70. Kant, On History, ed. Lewis White Beck, trans. L W. Beck, R. E.
Anchor, and E. L. F~ckenheim, Library of Liberal Arts (Indianapolis:
Bobbs-Merrill, 1963), pp. 143-44 ("An Old Question Raised Again").
71. Ibid., pp. 145-46.
72. The philosophical historian draws attention to those worldhistorical
phenomena that are "not to be forgotten" and thus are capable
Notes to Pages 124-27 169
of being "recalled on any favourable occasion by the nations which
would then be roused to a repetition of new efforts of this kind" (ibid.,
p. 147)-precisely what Arendt herself does with her own historical
study of revolutions!
73. Kant, Observations on the Feeling of the Beautiful and Sublime, trans.
john T. Goldthwait (Berkeley: University of California Press, 1960), pp.
74-75.
74. See Thinking, p. 76, where Arendt says that judgment, "be it
aesthetic or legal or moral, presupposes a definitely 'unnatural' and
deliberate withdrawal from involvement and the partiality of immediate
interests as they are given by my position in the world and the part I
play in it." See also Thinking, chap. 11, "Thinking and Doing," pp.
92-97; and Kant Lectures, pp. 55 ff. On the conflict in Kant "between
the principle according to which you should act and the principle according
to which you judge" (Kant Lectures, p. 48), see Kant Lectures,
p. 44, where Arendt says that the general standpoint of the spectator
"does not tell one how to act," and also p. 53, where she remarks
that the "insights of aesthetic and reflective judgment have no practical
consequences for action." The comparison of thinking and judging in
chapter 11 of Thinking makes clear Arendt's own position: although
judging spectators do not share the solitude or self-sufficiency of philosophers,
judgment, like thinking, presupposes withdrawal: "It does
not leave the world of appearances but retires from active involvement
in it to a privileged position in order to contemplate the whole" (Thinking,
p. 94). The spectators are "disengaged from the particularity
characteristic of the actor" (ibid.). This passage gives no indication that
Arendt had any intention of trying to overcome the "clash .between
joint, participating action ... and reflecting, observing judgment" (ibid:,
p. 95). She would, I think, have followed Kant in seeing action and
judgment as governed by two distinct principles, which cannot be
bridged.
75. Kant Lectures, pp. 61-62.
76. Thinking, pp. 95-96.
77. "On the Common Saying: 'This May be True in Theory, but it
does not Apply in Practice,''' in Kant's Political Writings, ed. Hans Reiss
(Cambridge, Eng.: At the University Press, 1970), p. 88.
78. Anthropology from a Pragmatic Point of View, trans. Gregor, p. 90.
79. Burke, "On Taste," A Philosophical Enquiry, in Writings and Speeches
of Edmund Burke, Beaconsfield ed., vol. I, p. 88 ..
80. Observations on the Feeling of the Beautiful and the Sublime, ed.
Goldthwait, pp. 66-67.
81. Kant Lectures, p. 25, above.
82. Ibid., p. 77.
83. See On Revolution, pp. 265-66. To this list of examples, perhaps
another may now be added: the Polish workers' revolt of 1980--81.
170 NOTES TO PAGES 127-36
84. Ari Willner, Jewish Combat Group, Warsaw Ghetto, December,
1942 (quoted in an article by Leopold Unger in the International Herald
Tribune).
85. Arendt, The Human Condition (Chicago: University of Chicago
Press, 1958), pp. 5, 324-25; Thinking, p.6.
86. For a persuasive critique of Arendt's interpretation of Ka~t on
the autonomy of judging, see Barry Clarke, "Beyond 'The Banality of
Evil,'" Britishjournal of Political Science 10 (1980): 417-39.
87. These three quotations are from Thinking, pp. 69, 70, and Postscriptum
to Thinking, p. 4, above.
88. Willing, p. 217.
89. Kant Lectures, p. 13, above. Cf. Hannah Arendt: The Recovery of the
Public World, ed. Hill, pp. 312-13.
90. Kant Lectures, p. 72; cf. p. 71. .
91. Arendt, "What is Freedom?" in Between Past and Future, p. 152.
92. See Thinking, pp. 169-71: "The autonomy of mental activities
... implies their being unconditioned .... Men, though they are
totally conditioned existentially, ... can mentally transcend all these
conditions, but only mentally, never in reality, or in cognition and knowledge,
by virtue of which they are able to explore the world's realness and
their own" (my italics).
93. See ibid., chap. 20, and Willing, Introduction and chap. 6.
94. Postscriptum to Thinking, p. 5,. above. On Weltgericht, see A. Kojeve,
"Hegel, Marx and Christianity," Interpretation 1(1970): 36. .
95. See Kant Lectures, pp. 76-77. Parenthetically, we may pOlDt out
the implicit corollary to this view: namely, that Aristotle, with his account
of practical judgment in the chapters on phronesis in Book VI of
the Nicomachean Ethics, is not a serious contender; only Hegel poses a
credible challenge to Kant.
96. Critique of judgment, §40.
97. Ibid., § 19.
98. Kan(s Political Writings, ed. Reiss, pp. 70-71, 73, 80,86, 105, 122.
99. Critique of judgment, Introduction, sec. I; Foundations of the
Metaphysics of Morals, trans. Lewis White Beck, Library of Liberal Arts
(Indianapolis: Bobbs-Merrill, 1959), pp. 33 ff.
100. See Critique of judgment,§53.
101. Ibid., §§ 13-14.
102. E.g., ibid., §§ 12, 40-41. Arendt never seriously considers what
force is to be given to this "a priori," nor does she really confront the
question of the nature of the judging community to which we are supposed
to appeal (a priori). Arendt insists on translating Kant's "allgemein"
as "general" rather than "universal" (see Notes to the Kant Lectures,
note 155, p. 163, above); however, this still does not mean that we relate
our judgment to any specifiable human community, with all the particularity
that would entail.
Notes to Pages 136-43 171
103. Critique of judgment, §40: we weigh our judgment, as it were,
"with the collective reason of humanity" (die gesammte Menschenvernunft).
104. In denying cognitive status to reflective judgment, Arendt is
quite clearly following Kant, Critique of Judgment, §§ I, 38 (Remark): "the
judgment of taste is not a cognitive judgment."
105. Jiirgen Habermas, "Hannah Arendt's Communications Concept
of Power," Social Research 44 (1977): 22-23.
106. Kant does discuss such issues in his Anthropology (e.g., §§42-44).
Perhaps an attempt to apply Kant's concept of taste to politics could
derive more profit from the insights of Kant's "pragmatic anthropology,"
for there we find an account of taste considerably different from
that elaborated in the third Critique. See Anthropology from a Pragmatic
Point of View, §§ 67-71.
107. "Some Questions of Moral Philosophy," Fourth Session (Hannah
Arendt Papers, Library of Congress, Container 40, pp. 024642,
024645). The phrase I have italicized is a penciled-in addition to the
typescript of the lecture.
108. In his essay "Hannah Arendt's Communications Concept of
Power" (p. 24), Jiirgen Habermas concludes that Arendt "retreats"
from "her own concept of a praxis, which is grounded in the rationality
of practical judgment."
109. Kant Lectures, p. 10, above.
11 O. Arendt, "The Crisis in Culture," Between Past and Future, p. 221.
111. Thinking, p. 40.
112. Lecture course at Chicago on "Kant's Political Philosophy," Fall,
1964 (Hannah Arendt Papers, Library of Congress, Container 41, p.
032272).
113. Ibid., p. 032259.
114. See Thinking, pp. 236--37, n. 83: "my chief reservations about
Kant's philosophy concern precisely his moral philosophy, that is, the
Critique of Practical Reason." Arendt does not explore points of contact
between the second and third Critiques, nor does she discuss the
possibility that deficiencies in his moral philosophy are reproduced in
his aesthetics and philosophy of politics.
115. "Freedom and Politics," in Freedom and Serfdom, ed. Hunold, p.
207. .
116. Kant Lectures, p. 7, above.
117. Ibid., pp. 31, 33.
118. Ibid., pp. 9, 19.
119. Martin Heidegger, Kant and the Problem of Metaphysics, trans. J. S.
Churchill (Bloomington: Indiana University Press, 1962), p. xxv.
120. The Human Condition, p. 235, n. 75.
121. "Truth and Politics," Between Past and Future, p. 262. Cf. Arendt,
"Isak Dinesen 1885-1963," Men in Dark Times (London: Cape, 1970), p.
107.
172 NOTES TO PAGES 143-53
122. On hope, see Kant Lectures, pp. 46, 50, 54, 56.
123. Diogenes Laertius, The Lives of Famous Philosophers 8. 8. This
passage, used as the epigraph to section 7 of this essay, is cited in
Thinking, p. 93, and in the Kant Lectures, p. 55, above. Arendt also
refers to it in the transcript of discussions "On Hannah Arendt" in
Hannah Arendt: The Recovery of the Public World, ed. Hill, p. 304.
124. See Thinking, pp. 211-12.
125. Kant Lectures, p. 77.
126. Friedrich Nietzsche, On the Genealogy of Morals, 3. 2S, in Basic
Writings of Nietzsche, trans. and ed. Walter Kaufmann (New York: Modern
Library, 1968), p. 59S.
127. Oedipus at COWnus, lines 1224 ff.; The Birth of Tragedy, sec. 3,Basic
Writings of Nietzsche, trans. and ed. Kaufmann, p. 42. See also Kant
~ctures, p. 23.
128. On Revolution, p. 285.
129. Friedrich Nietzsche, The Gay Science, no. 341, in The Portable
Nietzsche, trans. and ed. Walter Kaufmann (New York: Viking Press,
1968), pp. 101-2.
130. Critique of jud~ent, §S3, note. Cf. Kant Lectures, p. 24.
131. Thus Spoke Zarathustra, Third Part: "On the Vision and the Riddle,"
The Portable Nietzsche, trans. and ed. Kaufmann, p. 270.
132. Ibid., pp. 269-70.
1,33. Thinking, p. 204.
134. Ibid., p. 207.
135. Ibid., pp. 207, 209.
136. Thus Spoke Zarathustra, Second Part: "Oli Redemption," The Portable
Nietzsche, trans. and ed. Kaufman, pp. 251-52.
137. Ibid., p. 251; my italics.
138. Willing; p. 166.
139. Ibid., p. 168.
140. Ibid., p. 170.
141. The Will to Power, no. 70S, ed. Kaufmann (see n. 33, above), p.
377 (my italics). Again, Nietzsche seems to echo a thought already present
in Kant, who said, "It will always remain bewildering ... that the
earlier generations seem to carry on their burdensome business only for
the sake of the later ... and that only the last should have the good
fortune to dwell in the [completed] building" ("Idea for a Universal
History with a Cosmopolitan Purpose," Third Thesis; quoted by Arendt
in "The Concept of History," Between Past and Future, p. 83).
142. The Wilt to Power, no. 708, ed. Kaufmann, p. 37S.
143. Willing, p. 172.
144. Thus Spoke Zarathustra, Fourth Part: "The Drunken Song," sec.
11, The Portable Nietzsche, trans. and ed. Kaufmann, p. 436.
145. Kant Lectures, p. 77, above.
146. Willing, p.217.
147. The Human Condition, p. 322.
Notes to Pages 154-56 173
148. See "Understanding and Politics," Partisan Review 20 (1953):
388-89.
149. Arendt's lecture course at Chicago, "Kant's Political Philosophy,"
Fall, 1964 (Hannah Arendt Papers, Library of Congress, Container 41,
pp. 03228S, 032295). The same phrase is also cited by her in "Basic
Moral Propositions" (Container 41, p. 024560), where it is related to
dilectores mundi: "the love of the world constitutes the world for me, fits
me into it," in the sense that it determines "to whom and to what I
belong." Cf. Willing, pp. 104, 144. See also the discussion of love in
chapters 10-12 of Willing.
150. Cf. Augustine's Confessions 11. 14: Of the three'divisions of time,
"how can two, the past and the future, be, when the past no longer is and
the future is not yet? As for the present, if it were always present and
never moved on to become the past, it would not be time but eternity.
If, therefore, the present is time only by reason of the fact that it moves
on to become the past, how can we say that even the present is, when the
reason why it is is that it is not to be? In other words, we cannot rightly say
what time is, except by reason of its impending state of not being." See
also the meditation on mortality in Confessions 4. 4 ff.
15,1. "A certain emperor always bore in mind the transitoriness of all
things so as not to take them too seriously and to live at peace among them.
To me, on the contrary, everything seems far too valuable to be so
fleeting: I seek an eternity for everything: ought one to pour the most
precious salves and wines into the sea?-My consolation is that everything
that has been is eternal: the sea will cast it up again" (Nietzsche,
The Will to Power, no. lq65, ed. Kaufmann, pp. 547-48).
152. The Human Condition, p. 199.
153. See Arendt's essay, "The Crisis in Culture," in Between Past and
Future, p. 218. The concern with "imperishability" actually goes back to
Arendt's very first book, on Saint Augustine's concept oflove, published
in 1929. Her work on judging would thus have closed a circle of reflection
dating back to the very start of her philosophical career.
154. See Walter Benjamin, "Theses on the Philosophy of History," in
Illuminations, ed. H. Arendt, trans. Harry Zohn (New York: Harcourt,
Brace & World, 1968), pp. 255-66. The idea of our fragmented relation
to the past is expressed in Benjamin'S concept of jetztzeit, which he
discusses in several of his theses. For example, in the fourteenth thesis
Benjamin describes how Robespierre brought ancient Rome to life by
blasting it out of the homogeneous continuum of history. The French
Revolution "evoked ancient Rome the way fashion evokes costumes of
the past" (p. 263). For Arendt's commentary on this aspect of Benjamin's
thought, see her Introduction to Illuminations, pp. 38-39 and
50-51.
155. Gershom Scholem, On' jews and judaism in Crisis (New York:
Schocken, 1976), pp. 234-35. For Arendt's own commentary on Benjamin's
ninth thesis on the philosophy of history, see Illuminations, ed.
174 NOTES TO PAGE 156
Arendt, pp. 12-13. It would be impossible here to explore the many
points of affinity between Arendt and Benjamin. Let us note merely
that Arendt's appeal to Cato's image of the historian who sides with the
defeated cause is in close accord with the spirit of Benjamin's seventh
thesis. See Theodor Adorno, Minima Moralia, no. 98 (London: New
Left Books, 1974), p. 151.
156. Illuminations, ed. Arendt, p. 256.
157. Walter Benjamin, "Conversations with Brecht," in Ernst Bloch et
al., Aesthetics and Politics (London: New Left Books, 1977), p. 91. The
story by Kafka, for which Benjamin offers this exegesis, is "The Next
Village."




19 カント政治哲学講義
き存在であるわけですが。思いがけず偶然という形で生じてくるその憂鬱さをカントが決して忘れること
がなかった歴史の問題というのは、物語でも歴史的個人でも、また善/悪に関わる人々の行為でもありま
せん。彼にとっての歴史の問題とは、人類を進歩させ、世代を経て行く中で人類の一切の潜在的可能性が
展開していくように仕向ける、自然の密かな狡知です。個人としての人の寿命は、全ての人間的な特質及
び可能性を発展させるためにはあまりに短い。そのため、人類の歴史が、「自然が人類のなかに蒔いたす
べての萌芽が完全に展開し、人類の使命がこの地上で実現されうる状態に高まつてゆく」プロセスになる
のです。これが、幼年期・青年期・壮年期という個人の有機的な発展との類比で見た「世界史」なのです゜
カントは過去には関心を持っていません。彼の関心は人類の未来です。人間が楽園から追放された原因は、
罪でも、復讐する神でもなく、自然です。自然は自らの胎内から人間を解き放ち、そして次に楽園から、「幼
(8)
児保育の無害安全な状態」から追放したのです。これが歴史の始まりです。歴史のプロセスは進歩であり、
このプロセスの産物は時には文化、時には自由と呼ばれます(「自然の後見から自由の状態へ」)。そしてカン
トはたった一度だけ、ほとんど通りすがりの一言のように、挿入句の形で、問題なのは「人間の使命の最
(11)
大の目的である社交性(Geselligkeit) 」をもたらすことであると述べています(社交性の重要性については後
で見ることにしましょう)。一八世紀において支配的な概念であった進歩それ自体は、カントにとってはむ
しろ憂鬱な観念です。カントは、進歩の観念が個人の生にとって明らかに悲しい意味合いを含んでいるこ
とを繰り返し強調しています゜
もしわれわれが人間の道徳的11自然的状態をこの世の人生において最善の状況で、すなわち(人間に
目標として定められた)最高善への絶えざる前進と接近という状況で想定するとしても、それでもは:・…彼の状態が永遠にわたって変化することへの展望には けっして満足を結びつけることはでぃ。なぜなら、彼がいまある状態は、彼がそこに入ろうと用意しているさらに善なる状態に較常に悪であり続けるからであ る。だから究極目的への無限な前進という表象はじつは同時に諸悪限な系列を予想することでもあるのだ。そのため:
..
:満足が生じることはないのである。
私が、カントの政治哲学というテーマを選んだことに対して異議を唱えるもう―つのやり方として、少
しばかり粗野だけれど、全く不当とも言えないやり方があります。それは、このテーマの下に通常そして実際に私も選んだこれらの論考は、すべてカントの晩年 のものであること、そして事実として年において彼の精神的な能力が減退し、最後は老人性の知能低下の症状を呈するまでに至ったことを指するやり方です。こ の議論に対抗するために、私はみなさんに、カントの極めて初期の著作である『崇高の感情にかんする観痣』を読んでみるようお願いします。この問題について の私の見解は、今学期この講義の中で正当化していくつもりですが、それを予め述べておきましょう。カントの著作を知り、そ
の伝記的な事情を考慮に入れれば、先の議論とは逆に、社会的なもの(
the social)から区別される政治的
なもの(th
e politi cal)こそが世界の中での人間の条件の墓本であることにカントが気付いたのはむ士ろ晩
年になってから、すなわち、この特定の問題について自分自身の哲学を作り出す余力も時間もなくなった
時期であった、と言いたくなるはずです。このように言ったからといって私は別に、カントがその生涯短さゆえに「第四批判」を書き損なったなどと言いたわけ ではありません。私はむしろ、第三批判であ21 カント政治哲学講義第ー講義20
『判断力批判』の意義を強調しようと思いますーーー『判断力批判』は、『実践理性批判』のように批判的観
察、疑問、挑発などに応えるために書かれたものではなく、自発的に書かれたものです。この『判断力批
判』こそが実際のところ、カントの偉大な仕事の中の欠落しているように見える部分をカバーする一冊に
なるはずだったのではないか、と言いたいのです。
[4
]
カントが批判の仕事を終えた後、彼自身の視点から見て、二つの問題が残されていました。それらは生
涯にわたってカントを悩ませた問題なのですが、彼は自らが「理性のスキャンダル(蹟きの石)」と呼ぶ問
題の方を先に片付けようとして、それら二つについての作業を中断していたのです。「理性のスキャンダ
ル」とは「理性が自己自身と矛盾する」という事実、言い換えれば、思考(
think ing)が私たちが知る(
know)
ことができるものの限界を超越し、自己自身とのアンチノミー(二律背反)に陥ることです。カント自身
の証言から、彼の生涯の転換点が人間精神の認識能力とその限界の発見(-七七0年)にあったことが分
かります。この発見を彼は十年以上かけて練り上げ、『純粋理性批判』として出版しました。また、カン
トの書簡から、多くの年月を費やしたこの膨大な仕事が、彼の他の計画や構想にとって何を意味してい
たかが分かります。カントはこの「主要テーマ」について、それは彼が完成し出版しようとしていた他
の全ての問題を背後に押しやり、まるで「堤防」のように立ちはだかって、彼がそれらと取り組むのを
妨げた、と書いています。それはまるで、それを除去しない限り先に進めない「途上の石」である、と
も書いています。そしてカントが再び批判期以前の関心に立ち返った時、これらの関心は当然、その間に
カントが知ったことに対応していくぶん変化したものの、その片鱗を認められないほど変化したわけでは
ありませんし、それらがカントにとって緊急の課題ではなくなったと言うこともできません。
最も重大な変化は、一七七0年の出来事の前に、カントは『人倫の形而上学』を執筆し、近出版したのは三十年後のことになってしまった、とい
(16)
しようとしていたけれど、実際この書物を執筆し、
う点でしょう。ただ、この早い時期には、後の『人倫の形而上学』は「道徳的趣で予告されていまし芦。カントが三批判書の最後に「第三批判」に取りかかた。 このようにして二つの事態が生じてきました。一八世紀を通じてポ味の批判」と呼んでいまし
ーなトピックだった趣味の背後に、カントは全く新しい人間の能力、つまり判断力かし同時に彼は、道徳的な諸命題を、この新しい能力の権能の枠外に置い判断 力は今や、美/醜を決める趣味以上のものになったのです。正/不正の問ではなく、ただ理性によってのみ決定されるべきだというのです゜
23 カント政治哲学講義
第ー講義22
前回私は、カントの生涯の終わりに二つの問題が残された、と述べました。第一の問題は、人間の「社交性」
という言葉に要約されます、
れないという事実、
『判断力批判」
は明らかです゜
高theSublime 」
いまでも、
告しています゜
です。この実験は、

もしくは、そう表現することができます゜ それは、人は誰も一人では生きら
人々は単にニーズとケアにおいて相互依存しているだけでなく、最高の能力である人
間精神においても相互依存しているという事実です。人間の精神は、人間の社会の外では機能しません。「交
ヽヽヽ(17)
際は思索者にとって不可欠である」。この社交性という概念は、
あるいは「趣味の批判」が、
『美と崇高の感情にかんする観察』と同様に、『判断力批判』もまた「美theBeautifu l」と「崇
に区分されています゜
の初期の著作において既に、
―つの鍵になっています。
以下のようなものです゜
て彼の心を閉ざしてしまった。
『判断力批判』第一部の鍵になっています゜
批判期以前からの積み残しの問題に答えるために書かれたの
まるでフランスのモラリストによって書かれたかのような調子のこ
「社交性」あるいは交際の問題は、後の
そこでカントは、この「問題」の背後にある現実の経験について報
ただ現実の経験といっても、若きカントの現実の社会生活とは関係ない、
〔「カラツァンの夢」〕この吝薔な金特ちは彼の富が増えるに従って、
『判断力批判』と同程度とは言えな
一種の思考実験
あらゆる他人への同情と光に対し
しかし彼の心中の人間愛が冷めるのに応じて、彼の祈りと信心の行い
の熱心さは増えていった。こう告白した後、そこで彼は次のように言葉を続ける。かりの下で計算をして、商売の利益を見積もっていたとき、眠気がおそってき た。この天使が旋風のように私の上にやってくるのを見た。私が恐るべき一撃を容赦するは私を撃った。私の運命は永遠に定まつており、私がなしたあらゆる善 行にはなにきず、また私が示したあらゆる悪から少しも差し引きはできないのだと悟ったとき、私んだ。私は第三天に住む者の玉座の前に連れてゆかれた。私の 前で燃えさかる輝きがかけた。カラッァン、おまえの神への勤めは拒否された。おまえはおまえの心を人し、おまえの財宝を鉄のような手でつかんだのだ。おま えはただ自分のためだけに生ら、おまえは将来も永遠に一人だけで、全被造物とのあらゆる共同体から閉め出されて生なる。この瞬間私は目に見えない力によっ て引きさらわれ、創造の輝かしい建造物を通ていった。私はまもなく限りない数の世界を後にした。自然の一番果ての際に近づいたとい空虚の影が私の前に深く 沈み込んでいるのに私は気づいた。永遠の静けさ、孤独、王国。この眺めに対して言葉に出せない恐怖が私を襲った。次第に最後の星々も視界かとう暗闇の極み の中で最後のほのかな光の影も消えた。各瞬間ごとに生き物の住む最後距離が増すに従って、絶望の死ぬような不安が、各瞬間ごとに大きくなっていった安を抱 きっつ私は考えた。たとえ千の万倍の年の間、私を被造物のいる限界を超えてしても、助けも、いくらか後戻りする望みもなく、私はやはりなお測りがたい暗黒 の深見ているであろうと。1 この麻痺状態のなかで私は現実の物をつかもうと手を激しく伸ばしたので、
一講義
25 カント政治哲学講義
24
て今や私は人間を尊重すべきことを教えられた。それで私は目を覚ました。そし
戸口から追い払った人たちのうちの最も取るに足りない百田を合って、ネ''" "
にあっては、ゴルコンダのあらゆる財宝よりも、私には遥かに'に位置するものです。この第二部が第一部と第二の残された問題は、『判断力批判』第二部の 中、い
そのことが絶えず注釈の必要性を喚起して
に異なっているため、本全体としては統一性を欠いています゜
(19)
Greisenschrulle 」以上の意味があるのか
きました。例えば、ボイムラ

いは、このことに「老人の気まぐれ
「そもそもなぜ人間が現存しなけ
と問いかけています。その第二の問題は、『判断力批判』の第六七節で
カントにとっての積み残しの課題の一っ
ればならないのか?」、という形で提起されています。これも、
それらに答えることこそが哲学に固有の任務
です。ご承知のように、カントは三つの有名な問いを上げ、
「私はなにをなすべきか?」、「私はなにを望であると述べています。「私はなにを知りうるか?」ヽ
、、、、、、、、
に「人間とはなにか?」という第四
が許されるか?」の三つです。そして彼は、講義の中で、これら三つ
「私たちはこれら四つの問いのすべてを『人間学]の問いを付け加えていました。そして、
ことができるだろう。最初の三つの問いは最後の問いに関連ーによって問われたもう―つの問いと関連してい
の第四の問いが、ライプニッツやシェリングやハイデガ
しろ或るものが有るのか」という問いです。ライプニるのは明らかです。「何故無ではなくて、む
「というのも、無は或るものよりも単
これを「私たちが第一に問うべき問い」と呼んでいます。そして、
(21)
純で容易であるからだ」と付け加えています。こうした
しで表現してみても、
際バカらしいものでしかないでしょう。
うているのではないからです。
べての目的がそうであるように、
この場合、自然、
『判断力批判』
それに対する
のだったのではないでしょうか。
というのも、
「何故\」
この
という形の疑問文をどのような言い回
は、実際のところ、
「何故なら\」という形の答えの全てがバカらしく聞こえますし、実
原因(
cause )
を問
例えば、
自然、生命、
生命、宇宙はそれぞれ、
私たちが「自然の目的
「何故」
いかにして生命は発展したのか、
を超ぇて、字宙の目的は宇宙を超えて求められなければならない、
また、
の一撃(bang) と共に、あるいはそういうものなしに)存在するようになったか、というような問いが原因ヘ
ヽヽ
の問いです。ライプニッツたちの問いはむしろ、これら一切が起こった目的Surpose) を問うものです。「自
(22)
然そのものの現存の目的は、自然そのものを超えて求められなければならない」し、生命の目的は生命
ということです。こうした目的は、す
あるいは宇宙それ自体を超えたものでなければなりません。
目的をめぐる問いによって直ちに、
のための手段に格下げされることになります(ハイテガーは後期の哲学において、人間と存在を、
し、条件付け合う一種の対応関係の中に置くことを繰り返し試みています存在は人間に呼びかけ、人間は存在の保
護者あるいは牧人になる、存在はそれ自身の現われのために人間を必要とする、人間は実存するために存在を必要とす
るだけでなく他のいかなる存在者(Se1endes : bemg) 、他のいかなる生命体とも異なって、自己自身の存在と関わってい
(23)
る、等々。彼がそうしたのは、無をめぐるあらゆる思想が陥るパラドクスを回避するためというよりは、むしろこれら
の「何故ー」という形の問い一般に内在するこうした相互格下げを回避するためです)。
第二部から生じてくるこの困惑させる問題に対するカント自身の答えは、
(purpose) は何か?」
いかにして宇宙は(最初
それ自体よりも高次の何か
お互いに前提
次のようなも
のような問いを立てるのは、
27 カント政治哲学講義
第二講義26
もっぱら、私たち自身が絶えず目標(aims) と終点(ends) を描き出し、そうした志向的存在者(intentional
beings) として自然に属している、目的を有する存在者だからである、という答えです。
界または宇宙は始まりを持つのか?」
在し続けるのか?」といった、明らかに回答不可能な問いに私たちが悩むのは何故かという問題に対して
も、次の事実を指摘することによって答えられるのではないでしょうか。
(begmners)
がある、
でも、
ません
ね)。
であろうとする、
(24)
という事実です゜
『判断力批判』
そうだとしても、
ていますが、
に話を戻しましょう。
つまり、
n‘
とカ
したがつて、
他の「批判」
び付きがあります。第一に、
者としての人間について語っていないということがあります。真理という言菓は、
第三批判の二つの部分の結び付きは弱いです。しかし実際
カント自身の心の中でのみ結び付いているのだとしても、この二つの部分は、
の中のどの部分よりも、政治的なものと密接に結び付いていると言えます゜
れているのを除いて、
『判断力批判』
二つの部分のいずれにおいてもカントが、叡知的存在者あるいは認識的存在
ここには出てきません。
人々について複数形で語っており、第二部は人類について語っています(カントはこのことを、先ほど私が引
用した第六七節の問いに以下のように付け足す形で強調しています。「そもそもなぜ人間が現存しなければならないの
か、という問いは、たとえばオーストラリアの先住民やフエゴ島人を思い浮かべるならば、そう簡単には答えられない
(25)
かもしれない」、と)。『実践理性批判』と
うした特殊的なものから見て、
「世界(あるいは宇宙)は神自身のごとく永遠から永遠へと存
全生涯を通じて始まり(beginnmgs) を構成しようとする傾向
第三批判の第一部は、
『判断力批判』
社会の中で現実に存在し、
の間の最も決定的な違いは、前者において、道徳
法則がすべての叡知的存在者に妥当するものであるのに対して、後者における規則は地上に生きる人間に
、う点にあります。第二の結び付きは、判断力が、その妥当性が厳格に限定される、とし
ぃ紅」特殊的なものを扱っ‘
遍的なものから見てなにか偶然的なものを含んで
更に二つの種類があります゜ 『判断力批判』
、う一般的カテゴリーに包摂する
それは正確に言うと、美それ自体(the Beauty as such)
と>
ことができないけど、私たちが
。これに適用しうるいかなる規則もあり
「美しい」と呼ぶような対象です
(みなさんが「なんと美しいバラだろう!」と言う場合、
みなさんは最初に「すべてのバラは美しい、、この判断に至るわけではありませんね。またはバラである、それゆえこのバラは美しい」というような形で
いうような形で、この判断に至るわけでもありはバラである、この花はバラである、それゆえこれは美しい」と
それと同様に、「世
私たちの本性の内には、創始者
二つの重要な結
一度特殊な文脈で使わ
生活する
という事実にあります。そ
第一部は判断力の対象を扱っ
ある特殊的な自然の所産を一般的
のです。「どのような人間の理性も(また、程度原因から引き出すことの不可能性に関わるも
第二部で扱われているもう―つの特殊的なものは、
、るどのような有限な理性でも)、草の葉一枚、質からみてわれわれの理性と類似して>
、」(カントの用語とし
ど超え出ていようとも(27)
たんに機械的な諸原因からこの産出を理解しようと期待することす。その逆は「技巧的technical 」で、カントは、「人為的
ての「機械的
mec hanical 」は、自然の諸原因に関係していま
れたものという意味でこの言葉を使っています。られる物との違いです)。ここでのポインartifi cial」なもの、すなわち目的をもって作ら
ょ、この特定の草の葉があるこ
ら存在するようになる物と、特定の終点あるいは目的のために作
、うことです。そもそも草というものがあること、更にi
いう問題です。カントの解決法は、目的
解understand 」とし
して(単に説明するのではなく)理解しうるかと
、「自然の特殊な諸法則を探究するためのとを、私はいかに
論的原理、つまり「自然の諸産物の諸目的の原理」を第



28
29 カント政治哲学講義
理」として導入することです。ただしその原理は、
(28)
くは把握させることがない」というのです。
にしておきましょう。というのはここでは、厳密な意味で特殊的なものについての判断力が扱われておら
ず、自然が主題になっているからです。これから見ていくように、
しています。地上に生きる動物の一っの種としての人類の歴史ということで
す。ここでの彼の意図は、判断力の原理というよりも認識の原理を見出すことにあります。ただ、「そも
そもなぜ人間が現存しなければならないのか?」という問いを立てることができるとすれば、それに続け
て、「なぜ樹木が現存しなければならないのか?」ヽ「なぜ草の葉やその他のものが現存しなければならな
いのか?」.:·:といった一連の問いを立てることも可能であることには注意しておいて下さい。
別の言い方をすれば、
的な事柄、
人々の社交性、
つまり、
Geschaft) を終えた後、
いていたのです。
り組もうとしていた、
予定でした。

れは美しい、
断は、
その場合の歴史というのは、
事に取りかかった時、
れでも、
『判断力批判』
政治的なものにとって重要なのです゜
「自然の諸産物の発生の仕方をわれわれにいっそうよ
ここでは、カント哲学のこの部分にあまり深入りしないこと
の中の様々な主題自然の事実や歴史上の出来事といった特殊
その特殊的なものを扱う人間の精神の能力としての判断力、
つまり身体と自然的な欲求とを持っているという理由からだけでなく、
力のためにも人間が仲間に依存しているという洞察ーーはすべて、
これらの主題は、
年老いてからようやく実際に着手するようになるずっと以前から、彼の関心を引
(29)
そしてカントが「加わりゆく老齢から幾らからの利用しうる時間を何とか捻出して」取
自らの哲学の教説的な部分(doctrmal part) をまとめる仕事を延期したのも、
らの主題のためだったのです。その教説的な部分には、「自然の形而上学と人倫の形而上学」が含まれる
的な事柄になってしまった、
でその知らせを侍ち焦がれ、
そこに「判断力のための特別なセクション」が入る余ヽヽ
これは醜い、
した。「趣味について、実践哲学では、
(31)
[8
]
呼ばれていま
だけ語られることであろう」というのです゜
そして
カントは歴史も自然の一部として理解
この能力が機能する条件としての
まさに精神的諸能
すぐれて政治的な意義を有しています゜
カントがその批判の仕事(das krit1sche
といった特殊的なものについての判
『判断力批判』
そして、意志は指令を発しま
「単なる観想的快あるいは非能動的はもともと
です。判断力は実践理性ではありませんてみせ、
って来ないから


して「推論reason」
カントの道徳哲学の射程に
は、何をなすべきであり、何をなすべきでないかを私に対
のであり、意志と同一です゜
(practical reason)
くれます。実践理性は法則を措定するも
これに対して判断力は、
教えて
す。つまり意志は命令形で語るのです。
」から生じてきます。
(30)
untatiges W ohlgefallen
この「観想的快の感情は趣味と名づけ」られます。
A ヽと力これは正しい、これは不正である、
それ固有の概念としてではなく、
いかにももっともらしい言い方だと思いませ:体どのようにして実践と関係しうるのか? 勺央と非能動的満足」カ占U ふ"ー
このことは、
これ

何故なら、こ
「趣味の批判」と
せいぜい挿話的に
カントが教説的な仕
対する自分の関心は過去のものであり、
彼が特殊的で偶然的なものに
トの最終的な立場に注目しておく必要はあるでしフランス革命に対するカン
い<ぶん周辺
吉倫寸tていたことを確定的に示しているのではないと糸言イi
「観想
ただそ
彼が毎日新聞
になったこの出来事に対する
彼の老年期において中心的な役割を演じること
した単なる注視者11観客(spectator) 彼の最終的立場は、そう
の態度によって規定されていました回、るつもりで、競技の行方
」けれど、「希望的かつ情熱的に関与」して>
「競技そのものには参加していない
を見守る人々の態度ということです。無論、
この希望的かつ情熱的な関与というのは、少なくともカント
第二講義30
31 カント政治哲学講義
カン
にとって、そうした人々がまさに革命を起こそうとしている、ということを意味するわけではありません。
彼らの共感(sympathy) は、単なる「観想的快と非能動的満足」から生じたわけですから。
これらの主題に関するカントの晩年の著作の中に、前批判期の彼の関心に由来するとは思えない要素
が一っだけあります。初期のカントには、厳密な意味での国家体制的(consti tuti onal) 、制度的な問題に彼
が関心を持っていた証拠を見出すことはできません。しかしこの関心は、カントの厳密な意味での政治的
な諸論考のほぼ全てが執箪された、彼の生涯の最後の時期になって、群を抜いて最重要になったのです゜
それらの政治的論考が書かれたのは、『判断力批判』が公刊された一七九0年以降です。より重要なのは、
フランス革命の年であり、彼が六十五歳になった一七八九年以降ということです。これ以降の彼の関心
は、もはや特殊的なもの、歴史、人間の社交性などに限定されることはなくなりました。彼の関心の中心
に位置するようになったのはむしろ、今日私たちが憲法(const itutionallaw)と呼んでいる事柄です。つま
り、政治体が組織(organize) され構成(cons titute)されるべき仕方、「共和制的republi can」、言い換えれば、
立憲的な政体(constit utiona lgovernment) の概念や、国際関係の問題などに関わる問題です。こうした変
化の最初の兆しは恐らく、『判断力批判』第六五節の注に見出すことができるでしょう。この注は、
トが既に大きな関心を寄せていたアメリカ革命に関連しています。彼は次のように書いています。
ある偉大な民族(Vo lk 11 people)を―つの国家へと全面的に改編しようと先頃企てられた企図に際し
、‘‘‘‘
ては、有機的組織(Organisation) という言葉は、行政機構などに対して、また全国家体制の組織に対
してすら表わすのにしばしばきわめて適切に用いられてきた。というのも、各構成員は、こうした全
体のうちではもちろんたんに手段であるべきでなく、同時に目的でもあるべきであり、各構成員は全
体の可能性のために協力することによって、ふたたび全体の理念によって自分の地位と機能に関して
規定されるべきだからである。
晩年の彼の心を常に捉えていたのは、まさにこの問題、つまり、いかにして―つの人民(p:o~le) を一
つの国家へと組織するか、いかに国家を構成するか、いかに共和政体11国家(commonwea lth)を創設(found)
するかという問題、そしてこれらに関連する一連の法的問題です。自然の狡知や人間の単なる社交性につ
いての昔からの関心が全く消えてしまったわけではありません。ただしこれらの関心は一定の変化を被り
ます、あるいは、新しい予期せぬ定式のもとに再浮上してきたと言った方がいいかもしれません。そうして、
『永遠平和のために』の中に、訪問権(Besuc hsrecht)を定めた奇妙な条項が出てきます。訪問権とは、他
(32)
国を訪間する権利、歓待の権利、そして「一時的滞在の権利」を意味します。そして、この同じ論考の中
(33)
で、偉大な芸術家としてとしての自然が、最終的な「永遠平和の保証」として再び登場してきます。しか
し、こうした新たな問題意識がなかったとしたら、彼が『人倫の形而上学』を「法論」から始めているの
はどうしてなのかしつくりこないでしょう。また、彼が(『諸学部の争い』第二部においてこの著作は彼の
精神能力の低下を明らかに示しているわけですが)、「憲法11国家体制を考案することは非常に甘美であるEsist
so suss sich Staatsverfassungen auszudenken 」レJ旱取絃以LL幸叩っT いス3こレj-,,)
、L っ<h ノこ45/ヽが5るでしょ、つ。こ
の「甘美な夢」は、その実現が「考えられうるばかりでなく、……義務、しかも国家市民の義務ではなく
(34)
て、国家元首の義務である」というのですから。
33 カント政治哲学講義第二講義32
カントの晩年ー—↓ てれはアメリカ革命、
らヽ1

目覚めさせたように)
徳哲学、
えって、
そしてそれ以上にフランス革命が彼をいわば政治的まどろみ
(ヒュームが若きカントを独断論のまどろみから目覚めさせ、
目覚めさせた時期でしたl における問題は、
つまり実践理性の命令と和解させるか、
けました。
ルソーが壮年期のカントを道徳的なまどろみから
ということでした。
道徳哲学がここでは役に立たないだろうことを知っていたのです゜
いかにして国家組織の問題を自らの道
そして驚くべきことに、彼は自分の
そこで彼は全てを道徳化することを避
そして問題は、「たとえ道徳的によい人間ではないにしても、
して人間に強制するかということであり、
>カー`
「道徳性から善き国家体制11憲法が期待されるのではなく、か
(35)
善き国家体制11憲法によって初めて人民11民族の善き道徳的教養が期侍されるのである」という
ことを彼は理解していました。ここから、「善い人間は、
というアリストテレスの見解が思い起こされてきます゜
テレスをはるかに超えているとさえ言えます)。
国家樹立の問題は、
ら(悪魔が悟性をもってさえいれば)ヽ
第三講義
ただ善い国家においてのみ善き市民でありうる」ヽ
ただし、
レスの見解とは異なります(これは実に驚くべき結論であり、道徳性を善き市民性から区別している点でアリスト
どんなにそれが困難に聞こえようとも、
よい市民であることを」
カントの次のような結論は、アリストテ
悪魔たちからなる民族11人民にとってす
解決可能な問題であって、それは次のように言い表される。すな
ゎち、「理性的な存在者の多くは、全体では自分たちを保持するために普遍的法かしそれぞれ個別にはひそかにその普遍的法則から逃れようとする傾向がある。 そこで、そうした理
性的な存在者の集まりに、たとえ彼らが個人的な心情においては互いに対抗し合っていても、私情を
互いに抑制し、公の行動の場では、そうした悪い心情をもたなかったのと同じ結(36)
与え、体制11憲法を組織することが問題なのである」と。
この一節は決定的に重要です。カントが語っていることは、アリストテレスの悪い人間でも善い国家においては善い市民でありうる、ということです。カント義 は、彼の道徳哲学と一致しています。定言命法は、汝の行為の格率が常に普遍的法行為せよ、と命じます。これは、「自分の格率が普遍的法則となるべきこと を、自いう以外の仕方で、私は決して行為すべきでな這」ということです。ポント自身の言葉で言うと、私は自分だけのための特例として嘘をつきたいと思うこ つくことを普遍的法則にしたいとは思いも寄らないことだ。というのは、そのようそもそも約束というものが存在しなくなるからであ廷」。あるいは、私るが、 盗みをすることを普遍的法則にしたいとは思いも寄らない、という例でもそうした法則に従うとなると、いかなる所有も存在しなくなるからです自分自身のため に例外を設定する者のことであって、悪を意志する人間ではありまントに言わせれば、悪を意志するのは不可能だからです。したがつて、先の引用の35 カント政治哲学講義
34
のは、通常の意味での悪魔のことではなく、自分自身を「秘かに免除しようとする傾向がある」
ヽヽヽ
とです。肝心なのは、秘かにという点です。彼らはそれを公に行なうことはできないでしょう。
その場合、彼らは明らかに共通の利益に敵対することになり、人民の敵たとえこの人民が悪魔の種族
ヽヽ
であったとしてもになってしまうからです。道徳の場合と違って、政治においてはすべてが「公的行
為pu blic conduct 」
べています゜
に拠っているのです゜
こういう言い方をすると、
に聞こえるかもしれません。
この一節は
しかし、
『実践理性批判』
ヽヽ
の後にしか書かれえなかった、
そうではありません。
されるようになったというだけのことなのです゜
というのは、
懸案となっていた考え方だったからです。この段階に至って、
これもまた、
『美と崇高の感情にかんする観察』
という話のよう
批判期以前からの
その考えが、彼の道徳哲学の用語で定式化
では、
人々のこ
何故なら
次のように述
ヽヽヽ諸原則に従って行動する人々のうちでも、大変善き人は非常に少数である。これら諸原則で誤ること、、、、、、、、‘ が生じゃすいからである……善良な心の衝動から行為する人々は遥かに多数である:·:•これら有徳的
な本能は……規則正しく動物世界を動かしているその他の本能と同様に.:·:自然の大いなる意図を遂
ヽヽヽ
行するからである。:.
.
:最愛の自己に、じっと目を注ぎ、利已心を大いなる軸として、すべてをその
ヽヽヽ
周りに巡らせようとする人々が大多数であり、またこれ以上に有利なこともないのである。というの
は、これらの人々はきわめて勤勉で、きちんとし、用心深い人々であり、彼らは意図せずして公益的
(39)
になり、.:・・・全体に支えと堅固を与えるからである。
ここではまるで、「必要なものを調達し、より繊細な魂がその上にを提供す麟」ために、「悪魔の種族」が必要とされているかのよう理論のカント•ヴァージョ ンです。この理論には非常に重大な欠陥が限り、ここでのカントの立場の主要なポイントは以下の通りです。第る「自然の偉大な目的」を想定する場合にしかこ の図式が機能しないになってしまうからです(カントにおいては、悪は概して自己破ら、悪魔の種族が自らを破壊すること
す)。自然は種の保存を欲します。そして自然が自らの子供たち存的になり、知能を持つことです。第二に、政治における改善をもにおける革命も必要でなく、 求められることも期待されることもない三に、一方において国家体制11 憲法(
const itut ions)か、他方において公恥応Sublicity) が重視されている
ことです。「公共性」はカントの政治的思考の鍵になる概念の一っでの定義からして、秘かなものである、というカントの確信に対応し作の一っ『諸学部の争 い』には次のように書かれています。
何故支配者は、国民が私に反抗する権利など私はまった<承認しのだろうか。
....
:理由はこうである。もしそのように公に宣言するならば、たように、慈悲深く分別ある主人に導かれ、十分に餌をあたえられ、強37 カント政治哲学講義
第三講義36
ても、臣民は支配者にたいしてこぞって立ち上が
福に何かが欠けるといった不平がまったくないとし
(41)
るであろうからである。
つまりカントの書かれざる政治哲学を論じょうと私
文字通りの意味では存在しないカントのテーマ、
が決心したことについて、私はこれまでそれを正当化する理由をでの正当化にもかかわらず、決して全面的には克服することができそす。カントは、人々を哲学 へと動機付ける三つの中心的な問いを繰それらの問いのいずれも政治的動物(N
6on る彼自身の哲学における答えを与えようと試みたわけですが、
その三つの問いというのは、「私は何を知りうるpolitikon) としての人間に関わるものではありません。
か?」、「私は何をなすべきか?」、「私は何を望むことが許され「私は何をなすべきか」という第二の問いと、形而上学の伝統的テーマである神と不死に関わ るものです゜
かの形で私たちの探究の手がかりになるだろうと思うそれと相関関係にある自由の理念が、何ら
カントが問いを立てて自分でそれに答えているやり方は、カントいです(後で見るように、むしろその逆に、
いたとしたら彼の政治哲学がどのようなものとなったかの政治哲学を適切に表現するだけの時間と力が与えられて
自らの政治的洞察を自らの道徳哲学と調和させることを
しようとする私たちの試みの妨げとなりますー~もしカントが
つ)。第二の問いは、活動(
acti on) 試みていたとしたら、恐らくカント自身にとっても妨げになっていたことでしょ、
カントはいずれの著作においても活動という要素を考慮という側面とは全く関係していませんし、
れていません。カントは人間の基本的な「杜交性」について詳しカントは、
(communicate) しようとする人間の欲求としての伝達可能性(c ommunicability) と、単に思考するだけでな
ヽヽ
く公表(publish) するための公的自由としての公開11公共性(pub licity)「ペンの自由」を挙げて
ヽヽ
います。しかし彼は活動のための能力も、それへの欲求も知りません。そのためカントにあっては、「私
は何をなすべきか」という問いは、他者から独立した自己の行為に関わるものですこの自己は、人間
にとって知りうるものは何か、またたとえ知ることができないとしても思考することが可能なものは何か
を知ろうとする自己と同じ自己ですし、また不死性に関して何を合理的に望みうるかを知ろうとする自己
とも同じ自己です。これら三つの問いは、基本的なところで極めて単純かつほとんど原初的なレペルで相
互に連結しています。『純粋理性批判』で与えられている、第一の問いに対する回答は、「私は何を知りう
るか」について、そしてまた||I 最終的に、この問いよりも重要な意味を持ってくるー「私は何を知り
えないか」について教えてくれます。カントにおける形而上学的な問いは、まさに「私は何を知りえない
か」に関わるものです。だとしても私は、「私が何を知りえないか」について考えないわけにはいきません。
何故ならそれは、私が最も関心を持っている三つの問題に関わっているからです。それは、神の存在、そ
れなしには生が人間にとっての尊厳を失い、「獣のように」なってしまう自由、そして魂の不死の三つで
す。カントの用語法においては、これらは実践的な問いです。そしてこれらについてどう考えるべきか私
に教えてくれるのは実践理性です。宗教でさえ、理性的存在である人間にとっては、「単なる理性の限界内」
に存在するものです。私の主な関心、私が望みたいと思うものは、未来の生活における至福です。そして、
もし私がそれに値するつまり、もし私が正しい仕方で振舞うのであれば、私はそれを望むことが
許されるのです。―つの講義の、そしていくつかの「省察」の中で、これら三つの問いに第四
39 カント政治哲学講義第三講義38
の問いを付け加えています゜
いう問いです。
更に言えば、
ます。
してカントは、
視です゜
なかろう、
前(presence)
それによって三つの問いをまとめたわけです。
しかしこの最後の問いは、彼の三
「私はいかに判断するか」
まれている論点、
ということですが。
つまり、
から賛同していましたが、
『批判』
という問ぃーこれは、
それは、
書の中には出てきません。
第三「批判」
「人間とは何か」と
の問いですねー|はこれ
ら四つの問いに入ってないわけですから、彼が提起した基本的な哲学的問いのいずれも、
(plura lity)という条件について言及することさえしていないことになります。無論、
人間の複数性
第―一の問いに暗に含
他者がいなければ私がどう振る舞うかはあまり意味がないという論点を除いて、
しかし自己自身に対する義務についてのカントの主張、道徳的義務はあらゆる傾向性
から自由であるべきであり、道徳法則はこの地上の人間にとってだけでなく、宇宙のあらゆる叡知的存在
者にとって妥当すべきである、
だろうとも感じていました。
というカントの主張は、
三つの問いすべての根底にある考えは、
その一方で、
別の言葉それは、
いところで用いてきた言葉ですを使って言えば、
この複数性という条件を最小限にまで限定してい
自己関心であって、世界に対する関心ではありません。そ
「すべての人は幸福を欲する。mnes hommes beat1 esse volunt 」という古代ローマの格言に心
自分が幸福に値するという確信がなければ、
メンデルスゾーン宛の書簡(一七六六年四月八日付)
[10
]
を失うことが、私の身に起こりうる最大の災い」であって、
幸福に耐えられない
カントが何度も繰り返し、多くの場合本筋とは関係な
一人の人間にふりかかりうる最大の不運は、自己蔑
の中でカントは、「自己是認(Selbstbilligung)
他人からの尊敬を失うことが最大の害悪では
したがつて、
と書いています(「私は一人であるけれど、私にとっては、自分自身との調和を失うことよりは、多数の
[11
]
人々と不和になる方がまだましだ」、というソクラテスの発言を思い出して下さい)。この人生におけ
る個人の最高のコールは、この地上で得ることができない至、て追求する他の一切のゴールや目標1 それらのゴールや目標の
心事に比べれば、人々がこの人生にお>
、ずれにしても不確かな五種の進歩クも含まれ中には、自然が私たちの背後で進めているとされる、し
ーは、周辺的な事柄にすぎません。
しかしここで私たちは、政治と哲学との関係というひどく困くとも言及しておく必要があるでしょう。
政治の領域全体に対して哲学者が取りがちな態度について少な
ことをやったのは確かです。彼らは政治哲学を書きまし、、あるいは政
他の哲学者たちが、カントがやらなかった
かしだからといってこのことが、彼らが政治哲学に関してより高尚なったことを意味するわけではありません。そう
治的な関心が彼らの哲学にとってより中心的であったとい
す。ただ、プラトンが『国家』を書いたのが、哲した例は引用し切れないほどた<さんありま
。この考えは、哲学者が政治を楽
王になるべきだ、という考えを正当化するためだったことは明らかです
。考えられる第一の理由は、哲学者が、自分よしむであろう、という理由から出たものではありません
であろうからです。第二に、そのことによって、も劣った民衆によって支配されることは望まない
あの完全な平穏と絶対的平和が国家の内にもたらされ哲学者の生活の最良の条件である、
んでしたが、そのアリストテレスでさえも、政治的生(bios
す。アリストテレスはプラトンに従いませ
のためにあると考えていました。そして哲学者politik os)は最終的には、観想的生活(bios theoretikos)
てさえはっきりと、哲学のみが、人が他者の援身については、アリストテレスは『政治学』におい(42)
述べています。そ
なしに自分だけで独立に楽しむこと(di
,hauton chairein) を可能にすると
41 カント政治哲学講義
第三講義40
の文脈から、そうした独立あるいは自己充足が彼にとって、最大の善の一っであることも分かります(ア
リストテレスにとって、活動的生活のみが幸福を保証することができるというのは確かです。しかし「活動」が、自己
完結的で自分のためになされる「思考と一連の反省」として営まれるのであれば、それが「他の人々への関係を含んだ
(43) (12、
生活である必然性はない」というのです)。スピノザは、ある政治論文のタイトルそれ自体において、自分の
究極目標は政治的なものでなく、哲学する自由(li bertas phi losophandi) であると語っています。そしてホ
ッブズは確実に、他のどんな政治哲学の著者よりも政治的な事柄に密接に関わっていますが(マキアヴェ
ッリ、ボダン、モンテスキューは哲学に関わっていたとは言えません)、その~でさえ、『リヴァイアサン』を執
筆したのは、政治の危険を回避し、人間にとって可能な限りの平和と静穏とを確保するためだったのです゜
これらの哲学者全員ーーl例外になる可能性があるのはホッブズぐらいでしょうーが、人間的諸事象の内
のこの領域全般についてはあまり真剣に考える必要はない、というプラトンの見解に同意することでしょ
う。これらの問題についてのパスカルの言葉は、フランス・モラリストらしい口調になっており、そのた
め不謹慎で、言葉の二重の意味において〈fres h (新鮮11図々しい)〉であり、皮肉っぽく、問題をやや誇張
しているきらいはあるものの、的を外してはいません。
プラトンやアリストテレスといえば、学者らしいどうどうとした服装をしていた人としか、われわれ
は想像しない。ところが、かれらは普通人であって、ほかの人とおなじように、友人たちと談笑した
のだ。またかれらがその『法律篇』や『政治学」の著作に興じたときには、慰み半分でやっていたの
だ。それはかれらの生涯におけるもっとも哲学者らしくない、もっともふまじめな部分であった。も
、るときであった。かれらが政治学を書いたとしっとも哲学者らしい部分は、簡素に平静に生活して>
のであった。またかれらがいかにも重大たら、それは精神病院の規則をつくるために書いたようなも
事を語るような様子をしたとしたら、それはかれらの語りかける狂らである。かれらは狂人どもの狂愚から生じる害悪を、できる(44)
えているのを知っていたか
しようとして、かれらの行きかたにしたがったのである。
43 カント政治哲学講義
第三講義42
たのは、政治と哲学の鷹厨‘別の言い方を前回私がパスカルの『パンセ』の一文を読み上げ
ta ton anthropon pragmata) に対して取ってきた態度に、みな
とんどすべての哲学者が人間的事象の領域(
)卜:刀ミングは最近、「現代の政治哲学の主たるテ)マさんの注意を向けてもらうためです。ロバ
(45)
、哲学と政治の関係である」、と書いています。このは、ポリスあるいはポリスの政治ではなく
アテネにおいて誕生した草創期の政治哲学には。
実際全ての政治哲学に当てはまります。とりわけ、
クテイヴから|| 'つまり、彼の職業的な偏向
政治に対するカントの関係を、こうした一般的なパ)スペ
哲学者一般の特徴であるという前提に立って、と(deformation profess ionnelle) は彼だけの問題ではなく、
いくつかの一致点といくつかの極めて重要な相違点を見出ぃうことです—_考察すると、
ンが、自分の肉体だけが依然都市(ポリ
す。主な最も目立っ一致点は、生と死に対する態度です。プラト
イドン』では、哲学者の生活というのは死に向か
ス)に居住していると語っていること、そしてまた『パ
一般の民衆が正しく洞察していると述べていることを思い起こして
って生きているようなものであると
z46)
、30
ンにとっては歓迎すべきことだったのです。プラト下さし死、つまり肉体と魂の分離は、プラト
て、魂の探求を絶えず妨害するか
分死を愛してさえいました。何故かと言えば、肉体は様々な要求によっ
言い換えれば、真の哲学者は、人間の生命を制約している諸らで五。
単なるプラトンの気まぐれでも、肉体に対して彼が個人的に[
13
]
すべきものの意見」と感覚的経験の迷妄から逃れるためのパルメニデスの天空への旅に含意されています゜
ヘラクレイトスが同胞である市民たちを避けて隠遁したことにも、
天空を指さした人たちの態度にも含意されています゜
含意されていたのです。
とinter hommes esse」と同義であるi そして
は死んでいることと同義であると理解すれば、ピタゴラスの時代以来の哲学における宗派(sect) 的傾
向を理解するための最初の重要な手がかりが得られます゜
間で生きていくべきであるということが前提だとすれば、
ということになるでしょう。
も同じょうな態度を示しています。
えで、
寺を、廿
とのところに、
[14
]
王』1224 '26〕゜
そしてローマ人たちが考えていたように、
第四講義
非常に驚くべきことに、
『弁明』
つまり、
ギリシアの哲学者たちのこれらの証言を評価することには、
ければなりません。「生まれて来ないのが何よりもましだ。
なるべく早< /帰ったほうが、
また、真の故郷はどこかと尋ねられて
イオニアにおける哲学の始まりの内に既に
の中でソクラテスは、
`‘‘
/カ
ることなく、後世の伝統に可能な限り最大の影響を及ほしたのは、
生きていることは、「人々の間にあるこ
「人々の間にあるのを止めることsinere inter hommes esse」
ともかく生きていくべきである、
―つの宗派への引きこもりは、
そして人々の
次善の救済策だ
哲学を最終的に天から地へと引き降したソクラテス
死を夢―つ見ないような眠りに喩えたう
ペルシアの大王でさえ、夢によって煩わされることのなかった一夜よりもすばらしく、楽しかった
(48)
自分がこれまで過ごしてきた多くの昼夜の内から思い起こすのは困難であろう、と述べています。
―つの困難が伴います。これらの証言は、
ソフォクレスの有名な詩句の内に残存している、ギリシア人の一般的なペシミズムを背景として理解しな
この世に出て来てしまった以上は/も
それに次いで、ずつとましだ」[『コロノスのオイデイプス
生についてのこうした感惰は、ギリシア人たちと共に消えました。それに対して、消え
哲学とはそもそも何をめぐるものであ
45 カント政治哲学講義
44
るのかについての評価ですこの場合、
の特殊な経験から語ったかは関係ありません。プラトンの
恐らくないでしょう。哲学とは何よりもまずいかに死すべきかを人々に教えるものである、
人によって共有され、
せん
です゜
古代後期にまで継承されていく観念は、
(こういう発想は非ギリシア的です゜
リシアではその逆に、若者のためのものでした)。
ということが、
(三世紀に)、最善の生に到逹するために何をなすべきかデルフォイの神託に尋ねたところ、「死の色をまと
うがよい」
プラトン以降の哲学者たちの一般的なテーマになったことです。
という答えがありました。
のごとくに生きよ」という意味にも取れますし、
ように、「古人を研究せよ」という意味にも取れます(この逸話は、紀元後三世紀に生きたディオゲネス・ラエ
[15
]
ルティオスによって間接的に伝えられたものなので〔『哲学者列伝J
7•
21〕、デルフォイの神託の言棄もゼノンの解釈
の言葉もいずれも確実なものとは言えないわけですが)。
こうした率直な生への懐疑は、
ことができませんでした。
べき必要性が大いにある、
個々の著者がギリシア特有の経験から語ったか、
ローマでは、ギリシアから輸入された哲学は、老人の関心事でしたが、ギ
神託というのは常にそうですが、
キリスト紀元の時代に入ると、
そうなったのは、
『パイドン』ほど大きな影響を及ぼした書物は
その通俗化されたヴァージョンに他なりま
私たちにとってのここでのポイントは、
ストア派の始祖ゼノンが
この神託も両義的ですね。「死者
あるいは、ゼノン自身がそう解釈したと伝えられている
この問題に対する無関心のため生き残る
ここでの私たちの関心にとりあえずは関係のない理由のため
生に対する懐疑は、特徴的に変容した形で近代の弁神論の内に再び見出されることになります。弁
神論というのは神の正当化ということですが、その背後には当然、私たちが知っている生は正当化される
という懐疑が潜んでいます。こうした生に対する懐疑が、
哲学者として
というローマ
このように死を好む
人間的事象の全領域、
[16
]
「その憂鬱なまでのでたらめさme lancholy haphazardn ess」(カント)の格下げを含意しているのは明らかで
しょう。ここでのポイントは、地上での生が不死でないということではなく、ギリシア人ならそう言うで
あろうように、地上の生は神々のそれのように「容易」ではなく、厄介で、憂慮、心配、嘆き、悲しみに
満ちており、苦痛と不快が快と満足を常に凌駕している、ということです゜
この一般的なペシミズムが背景にありながら、哲学者たちが、生命が死へと定められていることや短
いことについて不平を言わなかったことには一定の意味があります。カントでさえ、「人生がさらに長く
(49)
続けば、ただひたすら労苦と戦い続ける戯れが長引くだけのことだろう」とはっきり語っています。また、
仮に「人間たちが八百歳あまりの寿命を見通すことができる」としても、それは人類にとっていかなる利
益にもならないというのです。何故かというと、「かくも長く生きる人類によって悪徳が高く積み上げれることになり、こうして人間たちは、一面の大地をおお いっくす洪水のなかで根絶される運命にのみ値
する、ということになるだろう」、と述べています。これはもちろん、人類の進歩に対する希望とは矛盾
します。人類の進歩は、古いメンバーの死と新しいメンバーの誕生によって常に中断されます。新しいメ
ンバーは非常に長い時間をかけて、古いメンバーが既に知っており、彼らがもっと長生きできたら更に発
展させたであろう事柄について学ばねばならないのです。
そういうわけで、生そのものの価値が問題なのです。そして、この側面から見た時、古典古代以降の哲
学者の中で、カントほどこの問題についてギリシアの哲学者たちと意見が一致した者はいないでしょうー
ー彼自身はそのことに気づいていなかったわけですが。
47 カント政治哲学講義第四講義46
、‘‘‘‘‘‘‘‘
人生の価値はたんにひとの享受するもの(すべての傾向性の総和という自然的がつて評価されるとすれば、人生がわれわれにとってどのような価値をもつかる。 人生の価値はゼロ以下に落ちる。というのも、同一の条件のもとで、あるたーただし、自然の経過には適合しているー新たな計画にしたがつてすら、もしたたん に享受をめざすとすれば、誰がこの人生を新たに始めようとするであろう峠あるいは、弁神論に関連して次のようにも述べています゜
〔もし神の善性の正当化が、〕人間の運命において、生の快適な享受よりもが誤っていること、何故ならどんな人間でも、どれほど苦しいことが起こるるほうを 望むからである、ということを示すことにあるとすれば……われわれは弁を、誰であれ健全な常識を有して十分に長く生きてきて人生の価値について見に、安ん じて委ねることができるだろう。われわれはただその人物に、まっ任意の別の状況で(ただし、妖精の世界ではなくこの地球上で)人生というを持っているかど うか、という問いを発すればよいのであ麟。
同じ論文の中で、カントは人生を、最良の人間でさえ「自らの生を喜ぶことができない(
semes Lebens
mcht froh wird) 試験期間」と呼んでいます。そして『人間学』では、「人生全般に付き(52)
われる心労」について語っています。これらの箇所では享受、快楽と苦痛、幸福に力点が置かれているので、
こうしたことは、哲学者としてまた人間としてのカントにとって些細なことだろう、と見なすことができ
るかもしれません。しかしカントは、今世紀になってようやく公刊されるに至った数多くの「省察」の中で、
快/不快(Lust und Unlust) のみが「絶対的なものを構成する。なぜならそれらは生活そのものであるか
(53)
ら」と書き記しています。そうかと思うと、『純粋理性批判』には、理性は「幸福に値することと幸福そ
れ自体」が密接に結びついた未来の生活を「想定せざるをえない。さもなければ、道徳的諸法則を空虚な
(54)
幻想(leere Hirngespinste) とみなさざるをえないと知っているからだ」と述べている一節もあります。「私
は何を望んでよいか?」という問いへの回答が、未来の生活であるとすれば、力点は不死性よりもむしろ、
より良い生(abetter kind of li fe)に置かれていることになりますね。
ここでまずカント自身の哲学を吟味して、彼がどのような思想によってこの根深い憂鬱気質を克服しよ
うとしたか見ていくことにしましょう。というのも、これがカント自身の問題であったことは明らかであ
り、彼自身がそのことをよく知っていたからです。「憂鬱質の人」についての次の記述は、たしかにカン
トの自画像になっています。この気質の人は、
他人の判断する事柄、他人が何を善や真と見なすかということを、ほとんど気にかけない〔自立的思
考Selbstdenken 〕……誠実は崇高であり、彼は嘘やごまかしを憎む。彼は人間本性の品位についての
高邁な感情を持っている。彼は自分を尊重し、人間を尊厳に値する者とみなす。彼はいかなるさもし
い従属にも耐えられず、気高い胸中に自由を呼吸している。ひとが宮廷でつけている黄金の鎖から、
49 カント政治哲学講義第四講義48
ガレー船の奴隷の重い鉄鎖に至るまで、
審判であり、
彼にはあらゆる鎖が厭わしい。彼は自分自身と他人の厳格な
自分にも世間にも厭わしく思われることもまれではない。:
..
: 彼は空想家や変わり者に
(55)
なる恐れがある。
でも私たちの探求においては、カントが、学説も、またこうした彼特有の憂鬱質も共有していない他の
哲学者たちと、人生についての一般的な評価を共有していた点を忘れないようにしましょう。
二つの特殊カント的な思想が思い浮かんできます。第一の思想は、啓蒙の時代が進歩と呼んだものの
中に含まれています。進歩については既に述べた通りです。進歩とは人類の進歩であり、したがつて各
個人にとってはほとんど役に立ちません。しかし、歴史全体における進歩、人類全体にとっての進歩と
いう思想は、特殊的なものを度外視し、人々の関心を、(「普遍〔一般〕史の理念Idea of a Universal
[G
enera
]l
History 」という論文のタイトル自体に見られるような)「普遍的なものuniversal 」や全体に向けさせます普
遍的なものあるいは全体のコンテクストの中で特殊的なものが意味を持つようになり、また翻って、普遍
的なものあるいは全体が存在するには特殊的なものが必要になる、という相関関係にあるわけですが。こ
うした、それ自体としては意味のない特殊的なものから、特殊的なものの意味の源泉である普遍的なもの
への、いわば逃避は、当然、カントに特有のことではありません。この点での偉大な思想家は、存在する
全てのものへの黙従、運命への愛(amor fati) を信条としたスピノザです。しかし、カントの内にも、「文
化」の産出のために、戦争、大災害、そして明白な害悪や苦痛がいかに必要であるかという発想を繰り返
し見出すことができます。そういうものがなかったら、人々は単なる動物的満足という粗野な状態に再び
埋没してしまうことになろう、というのです。
第二の思想は、個人としての人間の道徳的尊厳についてのカントの考え方です。この講義の中で、ぜ人間が存在するのか」というカントの問いに既に言及しまし た。カントによれば、この問いは、私ヽヽ
が人類を他の動物の種と同じ水準にあるかのごとV ーある意味、現実に同じ水準にあるわけですがI
、‘‘‘‘‘
みなす場合にのみ、意味をなします。「道徳的存在者としての人間(また、同様に世界におけるあらゆる理的存在者)については、人間はなんのために (quern in finem) 現存しているのか、と問うことはもはやでき
など。というのも人間は、目的それ自体だからです゜
そういうわけで私たちは、人間的な事象を考察するための一二つの極めて異なった概念、あるいはパース
ペクテイヴを獲得しました。人類とその進歩、道徳的存在者かつ目的自体としての人間、そして、複数形
のク人々
men" の三つです。この最後の複数形のク人々クは、実際私たちが進めている考察の中心に位置
ヽヽヽ
しており、その真の「目的end」は、既に言及したように、社交性(sociability) です。これら三つのパー
スペクティヴの区別は、カント理解にとって不可欠な前提条件です。カントが人間について語る場面では
常に、彼が人類のことを語っているのか、あるいは、道徳的存在者、すなわち字宙の他の部分にもるかもしれない理性的な被造物のことを語っているのか、それ とも、地球の現実の住人である/人々クに
ついて語っているのかを分かっておくことが必要です゜
要約すると次のようになるでしょう。
人という種(H
uman species) 11人類(Mankind)11自然の一部11 「歴史」、つまり自然の狡知に従属して
いる11「目的」の理念の、目的論的判断力の下で考察されるべきであるーー'『判断力批判』第二部。
51 カント政治哲学講義第四講義50
第五講義
人間(Man) II理性的存在者であり、自分自身に与える実践理性の諸法則に従属しており、自律的、の国(
Geisterre1ch) 、英知的存在者の国に属する目的それ自体であるー『実践理性批性批判』゜
C0 mmon sense) /共通感覚(seusus communis) 、共同体
人々(Men) 11諸々の共同体の中に生き、常識(
感覚(community
sense) を賦与されている地上の被造物。自律的ではなく、思考(「ペンさえ同伴し合うことを必要とする11『判断力批判』第一部こ美的判断力。
前回私は、哲学者としてのカントが人間的諸事象の領域に対して取る態度が、他の哲学者たち、特に
プラトンのそれと、どのように一致しているか、また異なっているか指摘したい、と述べました。そこで、
しばらくの間、この主要テーマに話題を限定することにしましょう。つまり、地球上の人間に与えられて
いる生そのものに対して哲学者たちがどういう態度を取ったかです。『パイドン』での議論を思い起こし
て下さい。この著作では、哲学者がある意味死を愛してしまうことについて、その動機が述べられていま
すね。ここから、プラトンは肉体の快楽を軽蔑していたものの、不快が快楽を上回ることについて不平を
述べているわけではないことが分かります゜問題はむしろ、快楽が不快と同様に精神を混乱させ、道を踏
み外させること、真理を求めようとする時に肉体が重荷になるということです。真理は、非物質的で感覚
的知覚を越えたものであるので、同じく非物質的で感覚的知覚を越えた魂の眼によってしか、知覚されえ
ません。別の言い方をすれば、真の認識は感覚によって惑わされない精神によってのみ可能になるのです。
無論、これはカントの立場ではありえません。というのも、彼の理論哲学は、全ての認識が感性と悟性
の相互作用と協働に依拠しているという立場を取っています。彼の『純粋理性批判』は、人間の感性の賛
美ではないとしても、正当化であると見なしてよいでしょう。伝統の強い影響の下にあった青年時代のカ
ントは、肉体に対する一種のプラトン的な敵意を表明し、肉体は思考の迅速性(Hurtigke it des Gedankens)
(57)
を妨げ、それによって精神を制限し妨害すると不満を述べていましたが、そうした青年時代においてさえ、
53 カント政治哲学講義第四講義52
肉体と感覚が誤謬と悪の主要な源泉である、
実際問題として、
ンの名は平等です゜
理性批判』
しかし、
求するのか。
とは王張していませんでした。
このことには二つの重要な帰結があります。第一に、
たち全てが有する経験を明らかにする者です。カントは、
も、パルメニデスの天空への旅に加わることができるとも主張しませんでしたし、
メンバーになるべきだとも考えていませんでした。カントにとっての哲学者は、哲学者仲間だけで生活す
ヽヽ
るのではなく、みなさんや私と同様に、普通の人間仲間と共に生活する普通の人間であり続けます。第ニ
に、カントは、一度でも生について反省したことがある良識(good sense) の人でさえあれば、あらゆる
普通の人が、快/不快という視点から生を評価する仕事プラトンや他の哲学者たちは、多数の人はあ
るがままの生活に全く満足しているので、
すが1 を担うことができると考えてよい、
翻って考えてみれば、
からの引用で、
関しては、最高の哲学といえども、
げることはできないということを、
これと一緒に、『純粋理性批判』
カントにとって哲学者とは、私
[17
]
哲学者はプラトンの洞窟を去ることができると
そうした評価は哲学者だけの仕事であると主張していたわけで
と主張しています。
これら二つの帰結が、同じのコインの両面にすぎないのは明らかです。
カントの著作の三つの有名なくだりに即して考えてみましょう。最初の二つは
ある異論に答えたものです゜
すべての人間に関わる認識は、常識〔普通の悟性〕
哲学者が―つの宗派の
を凌駕すべきであるということ、
諸君にとってはただ哲学者たちによってのみ発見されるべきであるということを、
このコイ
そして
諸君はそもそも要..
:・・人間に無差別に付与されているものにおいて、自然はその賜物をえこひいきして分
かち与えたという罪を帰せられることはありないということ、そして、人間本性の本質的な諸目的に
自然が最も普通の悟性に対しても与えた指導以上のことを成(58)
人は発見するのである。
の最後の一節を考察してみましょう。
もし読者が私と連帯してこの道を遍歴する好意と忍耐とをもたれている場合していただきたい、すなわち‘}ヽJかい笙がか置いがぃために自分自身を捧げる気 持ちが読合、何世紀にもわたって成就できなかったことが、まだ今世紀が過ぎ去らぬうちに達成されないのだ
ろうかどうかを、つまり、人間理性の知識欲をいつも没頭させたもの、しかしで没頭させたものにおいて人間理性を完全に満足させることが、今世紀が(59)
ないのだろうかどうかを、いま判断していただきたいのである。
三つ目に挙げるよく引用されるくだりは、自伝的な内容になっています。
私は傾向性からしても探究者である。私は認識への全き渇望と、認識において落ち着きのない好奇心と、またあらゆる認識の獲得に対して満足を感じている誉を なしうるのだと私が信じ、何も知らない俗衆を軽蔑していた時代があ戻してくれた。この優越の欺きは消え、私は人間を尊敬することを学ぶ、そして、もしこの 考案だけ
『純粋
55 カント政治哲学講義
第五講義54
が他のすべての考察に、
かったならば、
哲学すること、
人間性の権利を作り出すという価値を与えることができるのだと私が信じな
(60)
私は自分を俗な労働者よりもっと役立たずだと見なすことだろう
あるいは私たちが知りうるものの限界、人間の認識の境界線を超越する理性の思考は、
カントにとって、一般的な人間的「欲求need
」、言い換えれば、人間的な能力としての理性の欲求です゜
そうした哲学の営みにおいて、多数者と少数者が対置されることはありません(もしカントの中に少多数者を区別する線があるとすれば、それはむしろ道徳性の 問題でしょう。人類の「反則発生地点foul spot 」は嘘をつ
<ことであり、それは一種の自己欺隔と解釈することができます。「少数者」は、自分自身に正直な人し、この古くからの区別が消失すると、それに伴って奇妙 な事態が生じてきます。哲学者のも消失してしまうことになります。哲学者はもはや政治に対して特別な関心(interest) も抱かなくなりま
す。哲学者には私利(
self
,
interest)がないはずなので、多数者に対して哲学者を守ってくれる権力や憲法
の必要性(
need)もない、ということになります。カントはアリストテレスと共に、プラトンに反する形(61 )〔咆
哲学者が支配すべきではなく、支配者が進んで哲学者の言葉に耳を傾けるべきた、という見ています。しかしカントはまた、哲学的な生活様式が最高であり、政 治的な生活様式は結局、観想的生活
(
bios theoretikos) のために存在するというアリストテレスの見解には同意していません。全ての階層的造の廃棄を意味する、このヒェラルキーの廃棄によって、政治と哲学の間の 古<からの緊張関係も消失し
ます。その結果、政治、そして「精神病院」用の規則を制定するための政治哲学を書く必要[
19
]
の差し迫った務めではなくなります。エリック・ヴェイユの言葉を借りれば、それはもはや(62)
っての気がかりの源泉ではなくなる。それは、歴史と共に‘―つの純粋に哲学的な問題となる」のです゜
更にカントは、生そのものにのしかかっているように見える重荷について語る際、快楽の興味深い本性
を示唆しています。それは、プラトンも別の文脈で語っていることです。それは、あらゆる快は―つの不
快を排除するものであり、快しか含まない生は、実際には一切の快を欠いたものになってしまうとい
うのは快を感じることも楽しむこともできなくなるからですという事実です。つまり、それに先立っ
欠如の記憶に悩まされることなく、また、その後に確実に生じる損失の恐れに悩まされることもない全く
純粋な満足などありえない、ということです。魂と肉体の確固として安定した状態としての幸福は、地上
の人々にとっては考えられないことなのです。欠乏が大きければ大きいほど、また不快が大きければ大き
いほど、快もその分だけ強烈になります。この規則には一っだけ例外があります。それは私たちが美に直
面する時に感じる快です。カントは、この快を言い表すためにことさら異なった言葉を選んで、「没利害
的な満足uninteress iertesW ohlgefallen 」という言い方をしています。一度も書かれることのなかった彼の政
治哲学の中で、この概念がいかに重要な役割を演じているかは後で見ることにしましょう。カント自身は、
彼の死後出版された「省察」の一っで、「人間が全くの自然芙によって感動するという事実は、人間がこ
(63)
の世界のために創られ、この世界に適合していることを示している」と書いていますが、それはこの快の
ことを指しています゜
ここでしばらく、カントが弁神論、つまり理性の法廷の前で創造者を正当化する議論を書いたと想定
したうえで、話を進めていくことにしましょう。私たちは、実際には彼がそういうものを書きはしなかっ
たことを知っています。むしろカントは、「弁神論の哲学的試みの失敗」についての論文を書いています゜
57 カント政治哲学講義第五講義56
『純粋理性批判』

では、神の存在証明が全て不可能であることを証明しています(カントはヨフの
立場を取っていますこ神の道は不可解なり)。だとしても、カントが弁神論を書いたとすれば、そこでは世界
における諸物の美という事実が重要な役割を演じることになるでしょうーーl有名な「自己の内なる道徳法
則」、つまり人間の尊厳という事実と同じくらい重要になるはずです(弁神論というのは概して、以下のよう
な論法を取ります。全体を見るならば、自分が不平を言っている特殊なものはその全体の一部分であること、そしてまた、
全体の一部としてその存在が正当化されることが見て取れるはずだ、というような論法です。オプティミズムに関する
(64)
初期の論文(一七五九年)でカントは同じ様な立場を取っています。「全体は最善であってすべてのものは全体のため
に善である」。カントはこの中で、「私はすべての被造物に向かって呼びかけたい。
....
:我々の存在に祝福あれ!」と書
いていますが、後になっても、こういう風に書くことができたかどうか疑わしいところです。しかしこの贄美は「全体」
の賛美、つまり世界の賛美です。青年時代のカントは依然として、そもそも世界の中に存在している以上、そのことに
対する生活上の代償を喜んで支払おうとしていたのです)。これはまた、カントがあれだけの尋常でない激しさ
で、「思わせぶりの賢者たち」を攻撃した理由でもあります。彼らは二われわれ人間にとって住処である
地上世界を非常に軽蔑すべきものとして紹介するために」ヽ「部分的には吐き気をもよおすような比喩」を
駆使してきた、というのです。
ヽヽヽ
(-)旅人宿(隊商宿)として〔の地上世界〕:…•その旅人宿では、自分の生涯の旅において立ち寄る
ヽヽヽ
者は誰でも、まもなく後続の者によって追い出される覚悟をしておかねばならない。(二)刑務所と
ヽヽヽ
して〔の地上世界〕:
..
:転落して天から追放された霊魂を懲戒し浄化する場所である。(三)瓶罰病
、‘‘‘ 院として〔の地上世界〕……。最後に、(四)下水溝として〔の地上世界〕。そこには他の世界からの
(65)
ありとあらゆる汚物が投げ込まれてきた…・・・全宇宙の便所…·:0
そこでさしあたり、次のように想定したうえで話を進めて行きましょう。世界は美しい、従って人が生
きるに相応しい場所です。しかし個々の人間は決してもう一度生きることを選択しない。道徳的存在者と
しての人間は、目的それ自体である。しかし人類は進歩に従う無論、人間が進歩に従うという想定は、
道徳的で理性的な被造物としての、目的それ自体としての人間という見方とある意味対立しています゜
カントの内に政治哲学は存在するが、他の哲学者たちとは違って、カントはそれを書かなかった、とい
う私の主張が正しいとすれば、次のことははっきりしています。そもそもカントの政治哲学なるものがあ
るとすれば、私たちはそれを、通常「カント政治哲学」というタイトルの下に集められるごく少数の論文
だけでなく、彼の著作全体の内に見出せるはずだ、ということです。もしカントの主要著作に政治的な含
意が全くない一方で、政治的主題を扱う周辺的な諸論考には、彼の厳密な意味での哲学的著作とは関連の
ない単なる周辺的な思索しか含まれていないとすれば、私たちの探求は的はずれか、せいぜい骨董的関心
でしかないでしょう。だとすれば、そういうものに関わることは、カントの精神そのものに反することに
なるでしょう。何故なら、単なる物知りの情熱はカントとは異質なものだからです。「省察」の一っで彼
自身が書いているように、カントには「自分の頭を羊皮紙みたいにして、書庫の中の古くて半ば消えかけ
(66)
た文書をそこに筆写する」つもりなぞなかったのです。
今となってはもう誰も驚かないけれど、でも依然として考察に値する問題から話しを始めましょう。サ
そして
59 カント政治哲学講義第五講義58
E21
]
ルトルを除けば、
いません。
カントの前にも後にも、「批判」というタイトルの付いた有名な哲学の本を書いた人は
カントが、まるで全ての先行者を批判しようとするかのような、この驚くべき、そしてい<
ぶん見下すような書名を選んだ理由について、私たちにはほとんど分かっていませんが、見方を変えあまりにも分かりすぎていると言うこともできます。カント がこの言葉によって、単に先行者を批という以上のことを意図していたのは確かですが、否定的な意味合いが彼の内に全くなかったわけではりません。「純粋理 性の全哲学の最大かつ恐らく唯一の利益は、たしかに消極的(
negati ve)なものにすぎ
ない」ーっまり、理性を「純粋」にし、いかなる経験や感覚も理性の思考の中に入り込まないように保
証するということです。「批判」という語についてカントは、彼自身が指摘しているように、「批(
criticism )
の時代」、つまり、啓蒙の時代から示唆を受けたのでしょう。「本来の啓蒙を成り立たせるものは、もっぱ
(68)
らその消極的態度」である、とカントは述べています。この文脈での啓蒙とは、偏見からの自由、らの自由、浄化の業を意味します。
現代は、すべてのものがしたがわねばならない批判の本来的時代である。宗教……そして立法は、共
通に批判から免れようとする。しかしその際、両者は自らに対するしかるべき嫌疑を引き起こりのなき尊敬を要求することはできない。尊敬とは、理性がその自 由で公開の吟味に持ちこたえる(69)
とができたものにのみ是認するものである。
こうした批判の帰結が、自立的思考(Se lbstden ken )
ヽ つまり「自分自身の精神を使用すること」です゜
自分自身の精神を使用することによって、カントは「理性のスキャンダル」を発見しました。「理性のス
キャンダル」とは、私たちを迷わせるのは、伝統や権威ではなくて、理性の能力そのものであるというこ
とです。従って「批判」は、理性の「源泉と限界」を発見する試みを意味します。そういうわけでカン
ト自身は、自らの批判を「体系のための予備学」であると考えていました。そうした意味での「批判」は、
「教説doctrine J に対置されます。カントは、伝統的な形而上学の誤りは「教説」それ自体にあるわけで
はないと考えていたように思えます。批判とは、「建物を構成するすべての部分の完全性と安定性とを十
(70)
全に保証することによって……全計画を建築術的に構想すること」を意味します。そのようなものとして
の批判が、他の全ての哲学体系の評価を可能にするわけです。このこともまた、一八世紀の精神と結び付
ヽヽヽヽ
いています。つまり、美学、芸術及び芸術批評(art critic
包sm)への大いなる関心と結び付いているわけです。
芸術批評の目標は、趣味の規則の策定と芸術における基準の確立です゜
最後に、そして最も重要な点として、「批判」という語は、一方では独断論的形而上学、他方では懐疑
論に対立するという、二重の対立関係において用いられるということを指摘しておきましょう。両者に対
する回答が、「批判的思考Criticalthink ing」であったわけです。批判は両者のいずれにも屈しません。そ
ういう意味での「批判」は、思考の新しい道であって、新しい教説のための単なる準備作業には留まり
ません。つまり、一見消極的に見える批判の営みの後に、一見積極的に見える体系構築の営みが行われ
る、ということではないのです。現実には、カント後の哲学は体系構築の方向に向かって行ったわけです
が、カント的な見地からすれば、それはもう―つの独断論(dogma ti sm)にすぎません(この点についてのカ
ントの態度は、全くもってクリアであったとも、その逆に全くもって曖昧であったとも言うわけにはいきません。もし
61 カント政治哲学講義第五講義60
ヽヽ
カントが、自分自身の批判を契機として、
たれていく様を見届けることができたとすれば、彼の態度はもう少しクリアになっていたかもしれませんが)。
によれば、
たのです゜
批判的思考が独断論と懐疑論の間のどこかに位置すると考えるのは、
う。実際には、
判的思考とは、古い形而上学的な諸学派||'ヴォルフ及びライプニッツと、
せてくれたヒュームの新しい懐疑論の双方を克服するカント流のやり方です)。
的なところから出発します。哲学において独断論的であるか、
信じて一切の問題を解決しようとするかのいずれかである、
によって引き起こされます。懐疑論は、
恣意的に
批判と啓蒙の時代| |つまり人間が成人に達した時期ー| lにあって、
批判的思考とは、
めて見せるだけでよい、
フィヒテ、シェリング、ヘーゲルたちが全くもって思弁的な実践へと解き放
こうした二者択一を越えていく道なのです(列伝的な言い方をすれば、批
(arbitrarily) 選択してもよい、
あるいは、
という意味で独断論的です゜
の内なる独断論に対する、最初の反作用が懐疑論です。この反作用は、
ヽヽヽ
れ自体(
the trut h)を所有すると言い張る、多数の教義(
many dogmas)を不可避的に経験させられること
真理のようなものはなく、
プラグマティックなものであってもよいわけです)。あるいは、
ということになるかもしれません。
カント
哲学自体が批判的になっ
大きな勘違いだと言うべきでしょ
カントを独断のまどろみから目覚めさ
私たちは皆、何らかの形で独断論
なんらかの教会の教義や啓示を
こうした自ら

そのいずれもが自分こそが真理そ
したがつて私はある独断論的な教説を
という結論に通じる可能性があります(この場合の「恣意的に」と
いうのは、真理に関して任意に(arb itrari ly)、ということであり、私の選択が様々な利害から促されて、全くもって
そうした無益な仕事に対しては、単に肩をす<
本当の懐疑論者が「真理は存在しない」と明
言したとすれば、彼は独断論者によって直ちに次のような反論を受けるでしょう。「しかし君はそう明言
君は、することによって、君が主がぃ真理を信じていることを暗に語っている。真理はう君の明言の妥当性を主張しているのだから」。ここで、独断論者が勝っ たようには、議論の上での話でしかありません。懐疑論者は次のように答えることができ弁だ。たとえ私が明白な矛盾なしに言葉で表現できないとしても、君は 私が言わょ<分かっているではないか」。それに対して独断論者は言うでしょう。「分かっ逆らっているんだよ」。独断論者は通常かなり攻撃的な性格ですか ら、は矛盾を理解できるほどに知性的であるのだから、君は真理を破壊することに関心(interest) がある、と
私としては結論せざるをえない。君はニヒリストだ」。批判の立場は、この両者に反対します。批判は謙
遜さによって、自らの存在をアピールします。以下のように言うことでしょう。「たとえ人間が、自ら精神的プロセスをコントロールするために真理の概念ある いは観念を持っているしての人間には、恐らく、真理かか臣似を保有する力はないだろう(ソクラテスしかしその一方で、人間が、自分たちに与えられているあ るがままの諸能力を探求す可能であるー| 私たちはそれらの諸能力が、誰から、どのようにして与えられたか知らないそれらの能力と共に生きねばならない。だから、私たちが何を知りうるか、そして何 しようではないか」。これこそが、カントの著書が純粋理性の『批判』と題された理由です63 カント政治哲学講義
第五講義62
前回は、「批判」という用語について論じました。カント自身の理解によると、こ取った用語です。話を進めて行く内にカント自身の解釈を踏み越えてしまった かもにはカントの精神の内に留まったつもりです。カント自身が語っているように、後世の人者が自分を理解した以上に著者をよく理解すが」ということがあり ます。カントの内に批(
criticism)
という消極的精神が不在であったわけではないけれど、批判(criti
que)ということでカントが意図したのは、
「書物や体系の批評ではなく、理性能力そのも店」の批判であったといれから、カントが独断論と懐疑論の間の不毛な二者択一から抜け出す道を見出したと自と いう話もしました。懐疑論は通常、「まったくの無関心、つまり諸学における混します。懐疑論者と独断論者の間の対話という形で、あまりにも多くの真理(あ るいは、が真理
the truth を所有するとうぬほれる人々、そして彼らの間の激しい抗争)に直面して、「真理はと主張する懐疑論者のこと、そして、そうした懐疑論者が、全ての独断論者 を団結さの言葉を口にしてしまうだろうということについても話をしましたね。この闘いに批判11批評家が割って
入り、警盆飛び交う試合を中断させて、次のように語ります。「あなたたち双方が、疑論者も同じ真理概念を持っているように見えますよ。あなたたちの共有す る真理概はその定義によって他のすべての五(理クを排除してしまう性質を持っているようで概念は結果的に、全ての五真理クが相互に排除し合う状態を生み出 します。恐らく、あなたたちの真理概
念に何らかの誤りがあるのでしょう」。批判家は更に付け加えて言うでしょう。「恐らく有限な存在者であ
る人間は、真理についての一定の観念を持つことはあっても、真理そのものを所有することはできないで
しょう。だからまず、真理なるものが存在すると私たちに告げる、私たち自身のこの能力を分析してみよ
ヽヽヽ
うではありませんか」。「思弁的理性を制限する批判が、その限りにおいて消極的である」ということに疑
いの余地はないでしょう。しかし、そういう理由から11この理性に対して(for this reason) 、「批判のこう
ヽヽヽ
した任務の積極的な効用」を否定することは、「警察の主要な仕事が、各市民が自らの用務を落ち着き安心
して営むことができるように、市民が市民相互からのそれを警戒しなければならない暴力行為を阻止するこ
(74)
とにすぎないという理由で、警察は何ら積極的効用をなすのではない、と言うことにまさに等しい」と言え
ます。カントがその『批判』、つまり、私たちの認識能力の分析を終えた時、メンデルスゾーンは彼を「一
切の粉砕者All es'Zermalmer 」と呼びました。つまり、いわゆる形而上学的な事柄について「私」がそもそ
も何かを知ることができるという信念、形而上学のような「学」が他の諸学と同じ妥当性を有するものと
して存在しうるという信念の粉砕者である、というのです。
しかしカント自身は、自分の企ての破壊的な側面をはっきり見て取っていたわけではありません。彼は、
それまでしばしば攻撃を受けながら何世紀にもわたって持ち堪え、近代に至るまで持続したこの形而上学
、‘‘‘
の機構全体を、自分が実際に解体したのだ、ということを理解してはいなかったのです。カントは時代精
、、、、、、、‘‘‘
神に全く同調して、こう考えていました。「損失は、ただもろもろの学派の独占にのみ関わるのであって、
決してもろもろの人間の利益に関わるのではない」。「公衆(d
as Publik um ) のもとにまで到達し、彼らの
第六講義
65 カント政治哲学講義64
(75)
確信にほんのわずかの影響も与えることができない、細密ではあっても無力な概念区分」から人々は的に解き放たれることになるだろう、というのです(私が今 読みあげているのは、『純粋理性批判』の二つの序
言に含まれているくだりで、カントが別の箇所で「読者である公衆」と呼んでいる人々に向けられたものです)。そし
てここでも再び、「諸学派の傲慢な自負」に対立する論点が取り上げられます。彼らは唯一の「真理の所
有者」であると言い張っているけれど、この真理は「一般的な人間的関心事」であるにとどまらず、「ゎ
(16)
れわれにとって最も尊敬に値する大多数の人々が、たやす<到達することのできる」ものなのです。これは、
大学に関する話ですが、カントはこの問題に対して政府の取るべき態度について、次のように付け加えて
います。もし政府が干渉するのが適当だと考えるのであれば、「諸学派の嘲笑すべき専制を支持するよりも、
:•そうした批判の自由を助成する方が遥かに賢明だろう。これら諸学派は、彼らのもろもろの蜘蛛の巣〔諸
体系・諸思想〕が引き裂かれる場合には、公共の危険について大声を挙げるのであるが、けれども公衆は
彼らの蜘蛛の巣には一度たりとも注目しなかったのであり、したがつて、その損失を感知することも決し
(77)
てできない」。
私は最初に予定したより多くの箇所を読み上げました。そうしたのは、一っには、これらの著作が書か
れた雰囲気を少し感じてもらうためであり、もう一っには、こうした議論の帰結が、武装蜂起を引き起こ
すわけではないにせよ、最終的にカント自身が予想していたより少しばかり深刻なものとなったからです゜
雰囲気について言えば、啓蒙のメンタリティはその最高水準のままで長続きすることはありませんでした。
このことは、青年ヘーゲルに代表される、次の世代の態度と対比すれば、分かりやすくなるでしょう。
哲学はその本性からして、群衆のために営まれるものでもなければ、群衆のために準備されることも
できない、秘教的なものである。哲学が哲学であるのはもっぱら、それが悟性に、更に言えば、世代
ごとの地域的・一時的な制約としての常識に対立する限りにおいてである。この常識との関係では、
(78)
哲学の世界はそれ自体として‘―つの転倒された世界なのである。
哲学の始まりは、普通の意識によって与えられる真理を越えて、より高次の真理を予告することでな
(79)
ければならないからである。
進歩という視点で考えれば、このことは確かに、哲学がその始まり以来そうであったものへの「後戻り」
でしょう。そしてヘーゲルは、プラトンが、笑うトラキアの農夫の娘のことを大いに憤慨しながらタレス
について語った話を繰り返しているわけです。カントの批判哲学がかなり早い時期からもう―つの「体系」
として理解されるようになってしまったこと、そして、この哲学にインスピレーションを与えた啓蒙の精
神が失われた時、もう―つのヶ体系クとして次の世代から攻撃されるようになったことについて、カント
自身も責任を免れることはできないでしょう。
しかし、この「後戻り」がドイツ観念論の諸体系と共に進行し始めた時、カントの息子たちの世代、ま
た彼の孫や曽孫にあたる世代|ーlマルクスからニーチェまでーは、見かけ上ヘーゲルの影響の下で、哲
というのは、
67 カント政治哲学講義第六講義66
学を全面的に放棄することを決意するに至りました。概念史の視点から考えてみれば、次のように言うこ
とができるでしょう。「理性批判」の帰結は、批判的思考の樹立、あるいは、嘩理性と哲学的思考は無用の
ものであり、制限と浄化としての「批判」というカントの観念とは逆に、「批判」とは思想が把握してい
るあらゆるものを思想の中で破壊することを意味するクという「洞察」のいずれかである、と。
ヽヽ
そのタイトルに批判という用語を使っている著作がもう一冊あります。それに言及することを忘れてい
[23
]
ました。マルクスの『資本論』はもともと『政治経済学批判』と呼ばれており、その第二版へのマルクス
の序文は、弁証法的方法が同時に「批判的で革命的」であることに言及しています。マルクスは、自分が
何をしているか知っていました。マルクスは、彼の後の多くの者がそう呼び、かつてヘーゲルもそう呼ん
[24
]
でいたように、カントを「フランス革命の哲学者」と呼びました。ただし、カントにとってはそうではな
かったわけですが、マルクスにとっては、理性を実践へ結合するものが批判だったのです。つまり、批
判は両者を関係づけるもの、言ってみれば、両者を媒介するものであったのです゜旧体制(
ancien regime) ヽヽヽの理論的解体に、それを破壊する実践が続いた例として、批判と啓蒙の時代の後にフランス革命という出
蕊〕
来事が続いたことを挙げることができるでしょう。この例は、「理念が大衆を掴む」さまを物語っている
ように思えます。ここでのポイントは、これが真であるかどうかーー'革命がこのようにして起こったかど
うか| —ということではありません。ポイントはむしろ、マルクスがそうした視点で思考したのは、彼が
カントの巨大な企てを啓蒙の最大の業績と見なし、カントと共に、啓蒙と革命は同じ部類のものだと信じ
ていたからである、ということです(カントにとって、理論を実践に結合し、理論から実践へと移行させる「中間
項」は判断力です。彼は実践家11実務家(pract it1oner) を念頭に置いていました例えば、医師あるいは法律家は
最初に理論を学んで医学あるいは法律を実践しますし、その実践の本質は自分の学んできた諸規則を個別事例に適用す
(80)
ることにあるわけです)
批判的に思考すること、つまり、偏見を通り抜け、吟味されていない意見や信念を通り抜けて、思想の
道筋を切り拓< ことは、古より哲学の関心事でした。それが意識的に企てられるようになった時期は、ア
テネにおけるソクラテスの産婆術にまで遡ることができるでしょう。カントはこの繋がりに気づいていな
かったわけではありません。彼は、「ソクラテス的な仕方で」議論を進め、全ての反対者を「〔彼らの〕無
(81)
知の最も明白な証明」を通じて沈黙させてやりたいと明言しています。ソクラテスとは違って、カントは
(82)
「形而上学の将来の体系」の存在を信じていましたが、彼が最終的に後世に残したのは批判であって、体
系ではありません。ソクラテスの方法の本質は、相手からすべての根拠付けられていない信念と「無精卵」
(83)
彼らの心を満たしている単なる空想を除去することにあります。プラトンによれば、ソクラテス
厨〕
はこれをクリネイン(krin
em)の術、つまり区分けし、分離し、区別する術(識別の術techne dia kritike) に
よって行ないましだ。(ソクラテスではなく)プラトンによれば、その帰結は、「知識の道を妨げる思い込み
からの魂の浄化」です。ソクラテスによれば、自らを吟味しようとする知識はどこにもなく、彼の対話相
手の中で無精卵でない卵を産んだものはいませんでした。ソクラテスは何も教えませんでした。彼は自分
が立てた問いに対する答えを知らなかったのです。彼はまさに吟味のために吟味を行ったのであり、知識
のために吟味したのではなかったのです。もしソクラテスが勇気、正義、敬虔等々が何であるかを知って
いたら、彼はもはやそれらを吟味する、つまり、それらについて考えたいという衝動を持たなかったでし
ょう。ソクラテスのユニークさは、その掃結に関わりなく、このように思考それ自体に集中したことにあ
69 カント政治哲学講義第六講義68
ります。この企て全体の背後に隠れた動機、あるいは隠れた目的のようなものが吟味を経ていない生活は生きるに値しない。それが全てです。ソクラテスがプロ セスーっまり私の内で、私と私自身の間で、無言で進行していく対話1 を、言説において、公恥
ヽヽヽ
のものにすることでした。彼は、フルート奏者が晩餐会で演奏(
perform )するようなやり方で、市場で膏
技盲rform) しました。それは純粋なパフォーマンス、純粋な演技11 活動(
action)
です。そして、まさに
フルート奏者がうまく演奏するためには何らかの規則に従わねばならないよう支配する唯一の規則である一貫性(consistency) の規則|_『判断力批判]の中でカントはそう呼んでい(85)
ます_|を‘あるいは、後に無矛盾性の公理と呼ばれることになるものを発見しクラテスにとって「論理的」(「無意味なことを語ったり、考えたりする な」)、、、、、、‘
人であるけれど、私自身との調和を失う、つまり自己矛盾するよりは、多数の人々[
27
]
アリストテレスによって思考の第一原理となりました1 ただしそれは思考のみの原理ということですが。
しかしカントにあっては、その道徳的教理全体が事実上これに基づいており性が再び倫理学の一部になりました。何故かと言えば、カントの倫理学も盤にしてい るからです。つまり、「汝の行為の格率が、―つの一般的法則となるうに行為せよ」ということですね。この場合の一般的法則とは、自分自身が従うであろう法 則ということ
です。ここでもまた、思考と行為の双方を規定しているのは、同じ一般的規則です;自分自身と矛盾する
なかれ(この場合の自分自身(yourself) とは、自分の自己(your self) ということではなく、自分の思考する自我(
your
thinking ego) ということです)。
ソクラテスの流儀は、別の理由からカントにとって重要でした。ソクラテスはいかなる宗派の一員でも
ありませんでしたし、いかなる学派をも創設しませんでした。ソクラテスが「哲学者thephilosopher 」の
象徴となったのは、彼が市場にやって来る全ての人を相手にしたからです。彼は全ての質問者に対して、
彼の発言に説明とその実行を求める全ての要求に対して、全く無防備にオープンな態度を取っていました。
学派や宗派がカント的な語法で言えば啓蒙されていないのは、それらがその創始者の教説に依存
しているからです。プラトンのアカデメイア以来、それらは「公共の意見11世論public opini 0n」、社会全般、
「彼ら」と対立してきました。しかしこのことは、それらがいかなる権威にも依拠していないことを意味
するわけではありません。モデルは常にピタゴラス学派です。彼らの間の対立は、創設者の権威へ訴える
ことによって、すなわち「彼(11師)自身がそう語られたautosepha ; ipse dixit 」と訴えることによって解
決することが可能でした。別の言い方をすれば、多数者の思考停止的(unthinking) な独断論に対して、少
数者のえり抜きの、ただし同様に思考停止的な独断論が対抗していたのです゜
ここで今一度哲学の政治に対する関係を考えれば、批判的思考の技術には常に政治的な含意があること
が明らかになるでしょう。そしてこのことは、ソクラテスの場合、最も深刻な帰結をもたらしました。批
判的思考は独断論的な思考や思弁的思考とは異なります。独断論的思考が実際に新しい「危険な」信念を
広めるということがあるかもしれませんが、それはあくまで秘密の秘教的な教理(arcana) をありがたが
る学派の防護壁の内側で行なわれることです。思弁的思考はめったに人を悩ませることがありません。そ
れらとは違って、批判的思考は原則的に反権威主義的(antiauthoritarian) です。当局(authorities) にとって
最悪なことは、批判的思考を捕えることも掴むこともできないということです。ソクラテス裁判における
71 カント政治哲学講義第六講義70
告発、ソクラテスがポリスに新しい神々を導入したという告発は、でっちあげです。ソクラテスはえませんでした。新しい神々について教えたなどということは ありえません。しかし彼が青年を堕たというもう―つの嫌疑には、根拠がなかったわけではありません。批判的思考の人がもたらす困惑と「彼らが眼を向けると ころではどこでも、最もよく知られた真理の柱が揺さぶられる」(レノシうことです。カントの場合は確かにそれに当てはまります。カントは決して市場に笠場 したことはなかっ
たし、決して曖昧ではないにせよ最も難解な哲学書の一っである彼の『純粋理性批判』は、彼が愛した「読
者公衆」の間でさえポピュラーになりそうになかったけれど、それでもやはり、彼はあらゆる者でした。しかしポイントは、他のほとんどの哲学者と違って、カ ントはこのことを深く残念に思い(87) 分の思想を大衆化しうるという希望、つまり「〔少数者のための〕小径を〔万人にとっての〕大道にする」
希望を決して捨てなかったということです。『純粋理性批判』出版の二年後、カントは、一七八三年八月
十六日付のメンデルスゾーン宛の書簡で、珍しく言い訳めいた調子で、次のように書いています゜
私は少なくとも―二年間におよぶ思索の所産を、およそ四ヶ月から五ヶ月のあいだに言わば飛ぶに:· :読者のための分かりやすさの増進にはあまり念を入れずに、完成させました。……なぜならもしこう決意せず、通俗性を加味するためにさらに延期していたな らば、おそらくこの著作はまっく中断されたままであっただろうからです。それに、通俗性に関する欠如は、粗削りなままであれみ出されたものがともかくあり さえすれば、しだいに是正されるでしょ予。
カント、そしてソクラテスによれば、批判的思考は「自由かつ公開の吟味という試験」に自らを晒しま
す。このことは、その吟味に加わる人が多ければ多いだけ良いということを意味します。そういうわけで
カントは、一七八一年、『純粋理性批判』の出版直後にこれを「通俗化するための計画を考案」しました。
というのも、彼が一七八――一年に書いているように、「どんな哲学の書物も通俗性をもちうるものでなけれ
ばならず、さもなければその書物は、見せかけの鋭敏さの幻のもとに、おそらく無意味なものを覆い隠し
(89)
ていることになるから」です。通俗化への希望こういう希望を抱くということ自体、通常極めて強い
党派的傾向を示す哲学者連中にとっては、非常に奇異なことですl ということでカントが実際に希望し
ていたのは、彼の著作の吟味者たちの輪が徐々に広がつていくことです。啓蒙の時代とは「自分の理性を
公共的に使用」する時代です。つまりカントにとって最も重要な政治的自由は、言論及び出版の自由であ
って、スピノザの場合のように、哲学する自由(libertas
phil osophand i)ではなかったわけです。
これから見ていくように、「自由freedom 」という語はカントにおいて様々な意味を持っています。し
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
かし政治的自由は、彼の著作を通じて極めて明瞭かつ首尾一貫して、「万事において自分の理性を公共的
ヽヽヽヽヽヽヽ(90)
に使用すること」として定義されています。そして、「私は、自分自身の理性の公共的使用を、ある人が
読者世界の全公衆を前にして学者として理性を使用することと解している」とも述べられています。つま
り、理性の公的使用には、「学者として」という言菓で示される制約が付いているわけです。学者は市民
と同一ではありません。学者は全く異なった種類の共同体、つまり「世界公民社会」の一員です。そして、
この資格において学者は公衆に語りかけるのです(カントが出している例は至極明快です。軍務に就いている将
校は、命令に従うのを拒否する権利を持ちません。「しかし、彼が軍務における失策を学者として〔つまり世界公民と
73 カント政治哲学講義第六講義72
(91)
して〕批評し、この批評についての判定を自分の公衆に求めるのは、当然のことながら禁じられてはならない」)。
私たちの理解では、言論及び思想の自由は、他者を説得して自分の見解を共有してもらうことができる
ように、自分自身、そして自分の意見を表現する個人の権利です。この権利は、私が全面的に自分自身で
自分の心を決めることができること、そして、私が政府に対して有する請求権に基づいて、いかなること
であれ私が既に心の中で決めていることを宣伝することが許されることを前提にしています。この件に
ついてのカントの見解は、そうした私たちの常識とはかなり異なります。彼は、思考する能力それ自体が、
その公共的使用に依拠していると考えました。「自由かつ公開の吟味という試験」なしには、いかなる思
考も意見形成も不可能だというのです。理性は、「自らを孤立させるのではなく、他者との共同性を形成
するように」できているのです゜
この件に関するカントの立場が極めて注目に値するのは、それが政治的人間の立場ではなくて、哲学者
あるいは思想家の立場だからです。カントがプラトンに同意しているように、思考とは、自分自身との無
言の対話(das Reden mit sich selbst) です。そして思考がかつてヘーゲルがコメントしたように「孤
独な営み」であるというのは、全ての思想家の意見が一致する数少ないポイントの一っです。また、思
考に勤しむような場合には他者と付き合う必要がある、あるいは、付き合うことができるなどというのは、
当然のことながら、真ではありません。ただし、何ごとであれ、独りでいる時に発見した事柄を口頭ある
いは文書でとにかく伝達し、他者による試験を受けることができなかったら、孤独の中で発揮されるこの
(28
]
能力は消失することでしょう。ヤスパースの言葉に、真理とは私が伝達しうるもののことである、という
のがあります。諸科学における真理は、他者によって反復可能な実験に依拠します。真理は一般的妥当性
を必要とします。哲学的真理にはそうした普遍的妥当性はありません。哲学的真理にとカントが『判断力批判』の中で趣味判断に対して要求したことでもありま すが、「一般的伝達可能性」です゜
「というのも、とりわけ人間一般にかかわることがらにおいては、互いに伝達しあう(93)
与えた定めなのだから」。
75 カント政治哲学講義第六講義74
前回は、批判的思考が政治的に何を含意するかについて、
しているという考え方について論じました。
他者を傾聴しており、
(Man) ではなく、人々
的に他者に依存する、
かつ他者から傾聴される可能のある人々の共同体を前提にしています。「何故人
トは気づいていました。
(men)
が互いに語り合うためである」ヽ
と主張する点で、
、‘‘‘‘‘、‘‘‘
話したり書いたりする自由は、
第七講義
さて、
そしてまた批判的思考が伝達可能性を含意
伝達可能性は明らかに、
が存在しているのか?」
と答えたことでしょう。
という問いに対して、
人々にとって、
私たちが属するところの種にとって、「自分の考えを伝達し語ることは、
語りかけることのできる人々、
カントなら、「それは人々
ひいては人類にとって、つまり、
•...
:自然が人間に与えた使命で
ある」これは私が前回引用したコメントです。思考は孤独な営みではあるけれど、その可能性は全面
自分は他の多くの思想家と意見を異にしているということにカン
上部の権力によって奪われることがあっても、
ヽヽ
思考の自由はそれによ
ヽヽヽ
って奪われることは決してないかもしれない。しかしながらわれわれが、他人に自分の思想を伝達し
、‘‘‘
また他人が彼らの思想をわれわれに伝達するというようにして、いわば他人と共同して考えることが
ヽヽヽ
なければ、われわれはどれだけのことを、どれほどの正しさをもって考えるであろうかー•それゆえ
ヽヽヽヽ
人はたぶん次のように言うことができるであろう。自分の思想を公に伝達する自由を人間から奪い去
ヽヽ
るような外的権力は、思考の自由をも人間から奪ってしまうのだ、と。思考の自由は、あらゆる市民
的足枷にもかかわらず、なおもわれわれに残されている唯一の宝であり、この宝によってのみ、この
(94)
ような状態のすべての害悪に抗してなおも策を講じることができるのである。
批判的思考に必要なこの公共性という要素について、私たちは更に別の視点から考察することができま
す。ソクラテスが哲学を天空から地上に引き降ろし、人々の間で起こっていることについての様々の意見
を吟味し始めたという時、彼が実際にやったのは、あらゆる言明から、その隠された潜在的な含意を抽出
することでした。それが彼の産婆術が実際に意味していたことなのです。赤ん坊が明るみに出て検査され
るのを産婆が助けるように、ソクラテスはそれらの含意を明るみに出し、検査されるように仕向けたので
す(これは、カントが進歩について不満を述べた時にやったことでもあります。カントはこの概念が含意しているもの
を抽出したのです。私たちも前に、有機体の隠喩に抗議する文脈で、それをやったことがありますね)。批判的思考は、
かなりの部分、この種の「分析」から構成されます。このような吟味は更に、すべての人が自分の考えた
り述べたりすることの説明を自発的に行なおうとする、また行うことができるということを前提していま
す。プラトンは、ソクラテス的な産婆術の学校を経険した後、今日でもなお哲学と認められるような仕方
で哲学を書いた最初の人になりました。それはアリストテレスによって、論文という形へと練り上げられ
ました。プラトンは、自分と古の「賢者たち」、すなわちソクラテス以前の哲学者たちの違いを、彼らは
賢かったけれど、自分たちの思想を決して説明11答弁(account) しなかったという事実にあると見ていま
した。彼らは偉大な洞察を持っていました。しかし人々に質問されても、沈黙したままでした。「説明(答弁)
77 カント政治哲学講義76
することLogon didona i」つまり証明するのではなく、いかにして自分が一っの意見に到達したか、ま
たいかなる理由でその意見を形成したのか述べることができることこそ、プラトンを、彼のすべての
先行者から隔てているものなのです。この「説明11答弁11計算account」という用語自体が、その起源に
おいて政治的です。説明11答弁することは、アテネの市民たちが金銭問題のみならず政治問題においても
政治家たちに求めたことです。政治家とは、責任を取る11応答することのできる(respons ible)者だった
のです。そしてこれつまり、自分自身と他のすべての人を、自分の考え教えたことに対して責任を取
り、答えることのできる(answerab le)者であるとみなすことこそが、イオニアに端を発する、あの
知識や真理への探究を哲学へと転換したものなのです。この転換は、既にソフィストたちと共に現われて
いました。彼らは正当にも、ギリシアにおける啓蒙の代表者と呼ばれています。この転換は更に、ソクラ
テスの産婆術による問答法へと磨き上げられました。これが批判的思考の起源です。近代におけるその最
大の代表者、そして恐らく古典古代以降の全時代を通じての最大の代表者は、カントです。彼は、批判的
思考が含意するところを全面的に自覚していました。カントはその最も重要な省察の一っで、次のように
書いています゜
事実に関する問い(q uaest10 facti) とは、
る。権利に関する問い(quaestio juris)
(95)
いるかという問いである。
いかなる仕方で人が最初に概念を獲得したかという問いであ
とは、いかなる権利をもって人はこの概念を所有し使用して
批判的思考は、単に他者から受け取った教説や概念、そして継承されてきた偏見や伝統にしか適用され
ないというものではありません。人は、まさに批判的な諸規準を自分自身の思想に適用することを通して、
批判的思考を学ぶのです。
そして、こうした自分自身への適用は、公開性なしには、つまり他の人々の思考との接触から生ずる吟
味なしには、学ぶことができません。これがいかに作用するかを示すために、ここで、カントが一七七〇
年代にマルクス•ヘルツ宛てに書いた書簡から、個人的なコメントをしている二つの箇所を読み上げるこ
とにしましょう。
あなたはご存じでしょうが、私は、理にかなった反論に対して、どうすればそれを論駁できるかとい
う面から吟味するだけでなく、さらに、熟考してそうした反論をつねに自分の判断の中に織り込み、
そして、もとから持っていてそうした反論がないときには好んでいた考えすべてをご破算にする権利
をその反論に与えさえするのです。私は、そのことをとおして、自分の判断を他の人の観点から公平
に(impartially) ながめて、私がそれまで持っていたものよりもよい第三の何かを発見できればと、つ
ねに望んでいま戸゜
、‘‘‘‘‘
ここから、公平11非党派性(impartia lity)が、他者の視点を考慮に入れることによって獲得されるもの
であることが分かるでしょう。公平性は、混戦状態(melee) を完全に越えたところにあって論争に実際
に決着を付けてしまう、より高次の視点のようなものの帰結ではありません。第二の手紙で、カントはこ
79 カント政治哲学講義第七講義78
励ましや気晴らしによって、精神の諸能力を、しなやかかつ機敏に働けるよう保っておかなければな
りません。それによって、われわれは、対象をいっでも別の面からながめ、顕微鏡的な観察から全般
的な眺望へと視野を拡大することができるようになり、そのような眺望をもつことにより、考えられ
るかぎりのすべての立場をとり、一方の立場が他方の立場の目から見た判断を検証するということが
かわるがわるできるようになるのです゜
ここでは、「公平性」という言葉は出てきません。その代わり、自分自身の思考を「拡大するenlarge 」
ことによって、他者の考えを考慮に入れることができるようになる、という考えを見出すことができます゜
「精神の拡大enlargement of the mind」は、『判断力批判』において決定的に重要な役割を演じます。それ
は「ひとが自分の判断を他の人々の現実の判断というよりも、むしろたんに可能な諸判断と照らし合わせ
(98)
て、.:·:他のあらゆる人の立場に自分を置き換えること」によって達成されます。これを可能にする能力
は構想11想像力(imagination) と呼ばれます゜『判断力批判』のいくつかのくだりを読み、先ほど引用した
書簡と比較してみれば、これらのくだりが、まさに書簡の中の極めて個人的に見えるコメントを概念化し
たものしか含んでいないことが分かるでしょう。批判的思考は、すべての他者の立場が検査に対して開か
れている場合にのみ、可能になります。したがつて批判的思考は、孤独な営みでありながら、自己を「す
べての他者」から遮断したりしないのです。批判的思考が孤立した状態で進行するのは確かですが、想像
力の力で他者を現前(present) させ、それによって、潜在的に公共的で、あらゆる方向に開かれた空間の
中で運動するのです。別の言い方をすれば、批判的思考はカントの世界市民の立場を採用するのです。拡
大された心性(enlarged mentality) で思考することは、訪問の旅に出かけられるよう自らの想像力を訓練
することを意味します( 『永遠平和のために」の中の訪問権と比較してみて下さい)。
ここで、よくありがちの安易な誤解について注意しておかねばなりません。批判的思考の秘訣は、す
べての他者の心の中で起こっていることを実際に知りうるような、途方もなく拡大された感情移入にある
わけではありません。カントの啓蒙理解に従えば、思考することは、自分で考えること(Selbstdenken) を
意味します。自分で考えることは「決して受動的ではない理性の格率である。受動的な理性に向かう性癖、
(99)
したがつて理性の他律に向かう性癖は、偏見と呼ばれる」。そして啓蒙とは、何よりもまず偏見からの解
放です。私自身とは異なる「立場」||'それは実際には、人々の立ち位置や彼らが従っている条件のこと
であり、個人ごと、あるいは、相互に比較される階級や集団ごとに常に異なっていますーに立っ人々
の心の中で起こっていることを受け入れるというのは、彼らの考えを受動的に受け入れること、すなわち、
彼らの偏見を私自身の位置に固有な偏見と交換することにすぎません。「拡大された思考enlarged thought 」
は、まずもって「われわれ自身の判断に偶然付随する諸制限を端的に捨象すること」の帰結であり、また
「それによって非常に多くの人たちが制約を受けているところの:…·主観的な私的諸条件」を排除するこ
と、つまり私たちが通常私利(self , interest) と呼んでいるものを排除することの帰結です。カントによれ
ば、私利というのは、啓蒙されておらずまた啓蒙されえないものですが、現実に私たちの判断を制限する
ように作用します。啓蒙された個人が立場から立場へと動<ことができる領域が大きくなり、その範囲が
の点を更にはっきりさせています゜
81 カント政治哲学講義第七講義80
広がれば広がるほど、その個人の思考はより「一般的」になるでしょう。ただしこの一般性は、概念のI
ー例えばその下に様々な種類の個々の建物が包摂されるような「家」という概念のー一般性ではありま
せん。逆にそれは、特殊的なもの、つまり人が自分自身の「一般的立場」に到達するために通過しなけれ
ばならない、様々の立場の特殊な条件と密接に結び付いています。この一般的立場を、私たちは先に、公
平性として論じました。それは、そこを起点に眺め、注視し、判断を形成するための視点です。あるいは
、‘‘‘
カント自身が語っているように、人間的な事象について反省するための視点です。それはいかに行為する
(a
ct)かを教えてくれるものではありません。「一般的立場」を取ることによって見出される知恵を、いか
にして政治的生活の特殊な事柄に適用するかを教えてくれることさえありません(カントにはそうした活動
の経駿は全くありませんでしたし、フリードリヒニ世統治下のプロイセンでそうした経験をするということはありえな
かったでしょう)。カントが教えてくれるのは、いかにして他者を考慮に入れるのかということです。活動
するためにいかに他者と結合するかについては、カントは教えてくれません。
このことから、「一般的な立場というのは単に、注視者11観客の立場のことか?」という問いが生まれ
てきます(カントが自らの心性の拡大にどれだけ真剣であったかは、彼が大学で自然地理学という科目を設け、それ
を教えたという事実が示しています。カントはまた、あらゆる種類の旅行記の熱心な読者でしたし、ケーニヒスベルク
を離れたことはありませんでしたが、ロンドンとイタリアのいずれの地理にも通じていました。彼は、自分はあまりに
も多くの国々についてあまりにも多くを知ろうとしたせいで、旅行する時間がなかったのだ、と言っています)。カン
ト自身の心の内では、それは確かに世界市民の立場だったのです。しかしこの「世界の市民」という、理
想主義者11観念論者たち(idealists) の安易なフレーズに意味はあるのでしょうか?市民であるという
ことは、とりわけ責任、義務と権利を有するということであり、これらはいずれも領域的に限定されて
いる場合にのみ、意味を持ちます。カントの世界市民は、実際には世界観察者(Weltbetrachter 11 world
spectator) でした。カントは、世界政府が想像しうる限り最悪の専制体制になるだろうということをよく
分かっていました。
この難しい問題は、カントの晩年において、フランス革命それ自体に対するほとんど限りない賞賛と、
フランス市民たちによる革命的な企てに対するそれと同じくらい限りない|— l反対の間の外見上の矛
盾という形で前面に出てきます。これから私が読み上げるいくつかのくだりは、みなほぽ同時期に書かれ
たものです。しかし、かつてハイネがカントをフランス革命の哲学者と呼んでいたように、マルクスもま
たカントをそう呼んでいたことに、みなさんの注意を喚起しておきたいと思います。こうした評価は、そ
の確固とした根拠を、「革命」それ自体の自己理解の内に見出すことができるので、尚更重要であるよう
に思えます。シェィエスは、『第三身分とは何か』の著者として有名で、ジャコバン派の創始者の一人で
もあり、フランス憲法の起草を委任された制憲議会の最も重要なメンバーの一人でしたが、そのシェィエ
スが、カントのことを知っていたらしく、ある程度カント哲学から影響を受けていたようです。少なくと
も、シェィエスの友人テルマンはカントに接近して、シェィエスがカント哲学をフランスに紹介する意図
を持っていると伝えています。何故なら、ニフランス人がこの哲学を学ぶことは、革命を補完することに
(Io)
なるだろう」、と思われるからです。それに対するカントの返事は、失われています゜
カントのフランス革命に対する反応は、一見しただけでは、あるいはもう一度見直してみても、決して
明白ではありません。先取りして言えば、カントは、彼が「最近の事件」と呼んでいる出来事の壮大さを
83 カント政治哲学講義第七講義82
評価する姿勢に関しては一度もぶれていませんし、またそれを準備した全ての人を非難する姿勢に関して
もほとんどぶれていません。先ず、この点に関連するカントの発言の中で最も有名なものから話を始めま
しょう。この箇所はある意味、カントの態度に見られる外見上の矛盾を解く鍵を含んでいるとさえ言えます゜
このような出来事〔フランス革命〕は、人間がなした重大な所行あるいは悪行にあるのではない。
つまり、人間のあいだで、偉大だったものを卑小なものにしたり、卑小だったものを偉大なものにし
たりするような、そしてあたかも魔法によるかのように、古<からの耀かしい国家組織が消滅し、そ
のかわりに別の国家組織がまるで地の底から出現するかのような、そのような所行あるいは悪行にあ
るのではない。断じてそういったものではないのである。それはたんに観客(Nuschauer 11 spectator)
ヽヽ
の考え方、こうした大転換劇にさいして思わず知らず公にあらわれ、非常に一般的ではあるけれども
非利己的な共感を劇の一方の役者に寄せて他方の役者には反感をもつということを、そんなふうに贔
贋すると自分にとって大きな不利になりかねないという危険を冒してまでも公言する、観客の考え方
でしかないのである。この考え方はそのようにして、(一般的であるがゆえに)人類が全体として一っ
の性格をもつことを証明すると同時に、(非利己的であるがゆえに)―つの道徳的性格を少なくとも素
質においてもつことを証明するのである。この道徳的性格は、より善い方向へ進歩するという希望を
あたえるのみならず、その能力が目下のところ十分にあるとすれば、それ自身がすでに―つの進歩な
のである。
われわれが今日そのなりゆきを見守ってきた、才気あふれる国民による革命は、成功するかもしれ
ないし、失敗するかもしれない。この革命は悲惨と残虐行為に満ちており、それは思慮ある人間なら、
二度目に企てればうまくいくであろうと望めるとしても、この実験をそこまで犠牲を払って行おうと
は絶対に決心しないくらいかもしれない。それでも私は言う、この革命はすべての観客(自分た
ち自身は共演者としてこの劇に巻き込まれていない)の心の中に、熱狂と紙一重の、願望としての参加を、
ヽヽ
つまり共感を得るのであり、またこの共感を表明することそのものが危険をともなっていたのである
から、この共感の原因は人類のうちなる道徳的素質以外にありえないのである。
••••
: 革命側の敵対者が、たんなる法概念によって革命側に立つ者の内面に生み出された熱意および
魂の偉大さと張り合うことは、金銭的報酬をもってしてもできなかった。古き軍人貴族の名誉の概念
(熟狂の類比物)ですら、みずからが所属する国民の法を注視し、みずからをその法の守護者と任じて
いた人々の武器を前に、消え去った。そのとき、外から見物していた公衆が、協力しようという意図
は少しもないのに共感を寄せたのは、人々の心のこうした高揚状態なのである。:・・・・
さて、私は次のように主張する。現代という時代の示すいくつかの局面や前兆から見て、人類がこ
の目的を達成し、それと同時に、より善い方向へ進歩して今後はもはや全面的に後戻りしたりしない
ということを、予言の才能がなくても予言できる、と。というのも、そうした〔自然法的体制の進化
、、、、、、、、、、、、、、
という〕現象は人間の歴史においてもはや忘れ去られることがないからである。……
しかし、こうした出来事にさいして意図された目的が今でも達成されないとしても、ある国民の体
制の革命もしくは改革が終わり近くなって失敗するとしても、あるいは、革命もしくは改革がしばら
<続いても、そのあと一切がふたたび旧に復する(いま政治家たちが卜占しているように)としても、そ
85 カント政治哲学講義第七講義84
れでも先の哲学的予言は少しもその力を失わない。というのも、その出来事はあまりに大きく、
人間性の関心にあまりに深く絡みあい、その影響が世界のあらゆる地域にも広がつているので、何か
好都合な事情でも生まれると、それをきっかけに諸国民は必ずその出来事を思い起こし、この種の新
たな試みを繰り返すよう呼び覚まされるからである。… •••そのことは、ある―つの国民に起こりうる
ことに目を向けるだけでなく、次々と進歩に参加するであろう地上のすべての国民への広がりにも目
(lol)
を向けるなら、見通せないほど先の時代への展望を開く。
第八講義
前回読み上げた『諸学部の争い』のくだり(第二部第六節及び第七節)でカントははっきりと、様々な帝
国の興亡をもたらし、かつて偉大だったものを卑小にし、卑小であったものを偉大にするような人間の偉
業や悪行に対して、自分は関心がない、と言い切っています。彼にとって、起こった事(Begebenhei t)の
重要性は、もっぱらそれを注視する者(beho lder)の内に、それに対する自らの態度を公に表明する傍観
者(on lo
0 ker) たちの意見の内にあります。出来事に対する彼らの反応が人類の「道徳性」を証明します。
こうした共感的な関与(sympathetic participation) がなければ、起こったことの「意味」は全く違うものに
なるか、あるいは端的に無意味になってしまうでしょう。というのも、人間に次のような希望を掻き立て
るのは、まさにこうした共感だからです。それは、
、‘‘‘、、‘
自然が最高の意図としている世界市民的状態が、最終的に体制再編のいくつもの革命がなされた後に、
(02)
人類の根源的素質がすべて発展させられる母胎としていつの日か実現されるという希望
です。しかし、このことから、カントが未来の革命を担う人々の味方をしているなどと努々結論すべきで
はありません。『諸学部の争い』の例のくだりに対する脚注で、カントは非常にはっきりと述べています゜
いかなる支配者も、民衆(people) が自分に反抗するのではないかと恐れるあまり、敢えて公然とそれに
87 カント政治哲学講義第七講義86
対して異議を唱えようとはしない
困らず、強い保護を受け、「福祉の欠乏について不平を言う」ことなどない状態にあったとしても、もっ
ぱら自由のために反抗を起こす可能性がある、と。民衆が「共同立法者colegis lators 」となる権利を含む、
人々の権利は神聖なのです゜
たと考えてもいいでしょう。
のために』を見ると、
「民衆の諸権利」と言うべきものがある。
しかし、
う条件に制限されるのであって、
この脚注しか材料がないとしても、
というのは、『人倫の形而上学』
そうだとしても、
この権利はやはり常に―つの理念であるにすぎず、
国民がこの条件を踏み越えることは許されない。
(103)
常に不正である革命によって生じることは許されないのである。
カントがこの脚注を付け加えた時、
しかし同様の警告は、
が達成された場合があるとしよう。その場合、
そして民衆は、たとえ食うに
ヽヽ
その実行は、実行の手段が道徳性に合致するとい
こうしたことが、
革命に関して用心深くなってい
他の多くの箇所でも繰り返されています。
カントの立場が最もよく説明されているのが見て取れます゜
、、
かりに劣悪な体制のために生じた革命の暴動により、非合法的にではあるが、より法に適合した体制
暴力や悪巧みをもって革命に参加した者は、
でカントが同じ様な脈絡で書いているように、
『永遠平和
旧体制の
下では当然反乱者の刑に服するとしても、だからといって国民をふたたび旧体制に引き戻そうとする
(104)
ことは、もはや許されることではないのである。
革命が成功して新しい体制が設立されたとすれば、その革命の開始と遂行が適法ではなくとも函)
はこの新しい秩序に善良な市民として服従する拘束を免れることはできなし
からです。したがつて、現状がどうであれ、善であれ悪であれ、反乱は決して正統ではないのです。国民の権利が侵害されており、だから暴君を退位させても、 暴君には何らの不正が行われたのでぃ。このことは疑う余地がない。それにもかかわらず、臣民にとっては、このような仕方で自分の権利を要求することは、は なはだしく不正なのである。また彼らがこの争いに敗れ、やがて(106)
めに極刑を受けなければならなくなるにしても、それを不正だと訴えることはできないのである
ここではっきり見て取れるのは、行為の基準になる原理と、判断の基準になる原理の間の衝突です。と
いうのも、カントは自分自身がその帰結をほとんど熱狂といえるほど満足して肯定している、当の行為を
非難しているのです。この衝突は単なる理論上の問題ではありませんでした。一七九八年にカ―つの反乱と対峙しました。それは、アイルランドで起こってい た、イングランドの「正統」なする反乱の一っです。知人であるアベッグの日記に記録されているところでは、カントはその反(07)
であると考えており、イングランドで将来共和国が創設されることに対する希望を表明して89 カント政治哲学講義第八講義88
II
これもまた、単なる意見、注視者11観客としての判断の問題です。そしてカントは同じ脈絡で次のように
書いています゜
賢明な人々でもよく用いる表現で、正直にいって、どうも私にはなじめないのであるが、そ的自由を梢緻化する作業に従事している)ある人民がまだ自由の段階 にまで成熟していないとか、土地有者の農奴がまだ自由の段階にまで成熟していないとか、一般に人間はまだ信仰の自由の段階に成熟していない、といった表現 である。しかしこのような前提にしたがうなら自由が生じることはっしてあるまい。そもそもあらかじめ自由のうちに置かれていなければ、自由の段などという ことはありえないのである(自由において力を合目的的に利用しうるには、まず自由でヽヽヽ
ならないのである):·:•こと理性に関しては、自分で試みる以外にはけっして成熟しないのでみてもよいという点では、自由でなければならないのであ る)。:・・・・〔隷従している民衆についてはそもそも自由は適していないし、彼らをいつもでも自由から遠ざけておいてもよいのだということ、
これを原則とすることは神性は人間を自由のために創造したもうたのに、その大権を侵害するこ(108)
のである。
それが成功すれば拍手喝釆するであろう事柄に対して、携わるべきでないとカントが主張してい由は、一切の政治的活動を支配する「公共性(II公開性)とい う超越論的原理」にあります。カントはこ
の原理を『永遠平和のために』(付録II)で前面に出しています。ここで彼は、現実に政治に関わる行為者
II演技者(actor) と判断を下す注視者11観客(spectator) の対立を、「政治と道徳の争い」と呼んでいます゜
政治活動を支配するこの最優先の原理とは、次のようなものです。
こう
この
「すべての他人の権利に関係する行為で、その行為の格率(maxim) が公開11公共性(publicity) と一
致しないものは、不正である」。:・・・・なぜならそれを公表することによって同時に私自身の意図を無
ヽヽ
に帰せしめることのないように、私があえて公表をはばかるような格率、あるいは成功するためにあ
ヽヽ
くまでも秘密にされなければならないような格率、また公にすることによって私の計画に対するすベ
、、、、、、
ての人の抵抗が必然的に引き起こされることがないように、公に告白することができない格率、
した格率が:··:アプリオリに知ることができる私に対するすべての人の反対を呼び起こすのは、
(109)
格率が誰をも脅かすところの不正というものに由来するからである。
「自分に反抗する民衆のいかなる権利も認めないと敢えて公言する支配者はこれまで一人もいなかった」
ということから、専制主義の不当性は明らかなわけですが、それと同様に、反乱の不当性は、「その反乱
、‘‘‘‘‘、
の格率が公に告白されると、そのとたんにその意図そのものが不可能になってしまうということによって、
(110)
明らになる。したがつて、格率は、必然的に秘密にしなければならないであろう」というわけです。例え
ば、「政治的方便」という格率は、「公に告白されると、そのとたんにその意図そのものが不可能になって
しまう」でしょう。一方、新政府樹立の企てに関与している人たちも、「反乱の意図を公表(publish) す
る」ことはできないでしょう。何故なら、国家を樹立することこそが「その人々の意図である」わけです
91 カント政治哲学講義第八講義90
ヽヽヽヽヽ(112)
その目的を逸しないために)公開性を必要とするすべての格率は、法と政治の両方に合致する。
が、反乱が起こるという前提の下では、
こうした推論に対して、
という原理は
認する格率は、
い方をすれば、
合には、
から一
「いかなる国家の存立も不可能」
カント自身は主として二つの反論を対置します。第一に、
「否定的.消極的な性格のものにすぎない。
それだからといって、
を離れた意見でなく、
取る超越論的な原理」を呈示します。
「政治と道徳の争い」
人は単一の個人として、
になってしまうからです゜
この公開11公共性
つまり、公開性を容
すなわちこの原理は、それを使うことによって、
(Ill)
他人に対して何が正しくないかを認識する手段として、役立つだけのものである」。
また正当であるというふうに、逆の推論はできないのです゜
(公開された)意見が不当である可能性もあるわけです。
別の言
それが、注視者11観客による利害
利害関係を有する市民による党派的11不公平(partial)
とりわけそうです。第二に、支配者と被支配者の間のアナロジーは誤っています。「決定的な権
力を所有している者は、彼の格率を隠す必要はない」
に対するこの解決は、
からです゜
カントの道徳哲学に由来するものです。
もっぱら自分自身の理性にのみ相談して自己矛盾的ではない格率を見出し、
つの命法を導き出すことができるとされています。
そこでカントは今―つの
そこでは既に、
で無批判的な意見である場
「肯定形の形を
彼の道徳哲学では、
そこ
公開11公共性が正しさの判定基
自分の格率についてはこれを隠さねばなら
準になっているわけです。そういうわけで、例えば次のように述べられています。「人は誰しも、道徳法
ヽヽヽ
則についてはこれを公的に表明することができると考えるが、
ぬと考え刻」。私的格率(
pnvate max ims )は、私がそれらを公的に表明できるかどうかを測るための吟味
にかけられねばなりません。ここでいう道徳性とは、私的なものと公的なものが一致しているというこです。格率の私秘性(
privacy)に固執することは、悪であるということになります。したがつて悪は、公
ヽヽヽヽ
的領域からの撤退として特徴付けられます。道徳性は見られるにふさわしいことを意味します。これは、人間によって見られるということだけでなく、最終的に 11最終審級として(in the last
instance)‘
人の心を熟知する者(d
er Herzenskun dige) である神によって見られるにふさわしいということをも意味し
ます。
人間は、そもそも何ごとかを為そうとする際には、法を措定します。人間は立法者なのです。し人がそうした立法者になれるのは、その人自身が自由である場合 に限られます。同じ格率が、自でなく、農奴にも妥当するかについては疑問の余地があります。先ほど述べたようなカント式受け入れるとしても、その場合に は、明らかに「ペンの自由」という前提条件が必要になります。「ペン
の自由」とは、活動のための公共の場とは言わないまでも、少なくとも意見を闘わせることのの場が存在するということです。カントにとって、反乱の起こる瞬 間は、言論の自由が廃止す。その時点において反逆しないということは、かつてマキアヴェッリが道徳性に対して突に答えることができなくなることを意味しま す。汝が悪に抵抗しないならば、悪を為す者たに振舞うだろう。悪に抵抗すれば自分自身も悪に巻き込まれることになるかもしれないというすが、政治において は、世界に対する配慮が、自分自身この場合の自分自身というのが自分あれ魂であれに対する配慮に優先します(「私は自分の魂以上に自分の生まれ育った都市 を愛する」と93 カント政治哲学講義第八講義92
人間は前進する。
と悪徳、
為すべし」
しかし、
全体としてみるならば、
人類は固定した限界のあいだをたえず上下に揺れ続けているのであって、
どの時点においても道徳性は同じ段階にとどまつており、宗教と非宗教、徳
幸福(?)と不幸はほぼ同じ度合いにとどまつていな。
これに対してカントは、進歩という前提がなければすべてが無意味になってしまう、
ることはあっても断絶することはない、
かけています゜ それは『実践理性批判』
と命じます。「『為すべし』
と言い張るのは、
いう義務です゜
と答えています。ここでカントは
で用いているのと同じ論拠です゜
という義務概念に権威を認めた後で、
明らかに筋が通らない
(115)
posse nemo obhgat ur)」(
(なんびとも義務を負うのは自分ができることについてのみであるultra
ここで訴えかけられている義務というのは、
ちに働きかける」そのためには、子孫たちが進歩する可能が想定されていなければなりません— ーと
カントは更に主張します。こうした想定、
内の一っに気づいていました。カントの引用によると、
すなわち
進歩は中断され
「生まれながらの義務」に訴え
生まれながらの義務の声は「汝
、‘‘、‘‘‘‘‘
それを為すことができない
「子孫たちが進歩するように子孫た
「より良き時代が訪れるという希望」
がなかったら、あらゆる活動が全面的に不可能になる、というのです。というのも、こうし(16)
全な思考の持ち主たち」に「皆の幸福に役立っことをしたい」という欲求を生み出すものだからです。た
、‘‘‘、‘、
だ、今日私たちは、進歩の観念が登場した年代を特定することができるということを知っうした観念が現われる遥か以前から人間が常に活動してきたことも知っ ていますね゜
カントの第二の、更に重要な想定は、悪の本性に関わるものです。人々が自分自身で悪事をなすなる危険を犯してまで悪に抵抗することがない限り、悪が広く蔓 延することになる、といェッリの仮定です。カントの考えはこの逆で、いくぶん伝統と一致しています。カントは悪をの本性からして自己破壊的であると考えま した。次のように述べています゜
まさにそ
ヽヽ
摂理は…・・・人類全体としてのい胃缶の目的に対して、それだけ切り離して向から対立するような結果を用意するだろう。それというのも、悪の源である傾向 性が互ることによって、理性の自由な活動が可能となり、その結果、理性は傾向性を全部まとめて制圧けっきょくは自滅する悪の代わりに、いったん現存すれば その後おのずから維持される善を支配(117)
して優越性を立てることになるからである。
ここでも、傍観者(
onlooker) のパースペクティヴが決定的に重要になります。歴史を全体として見渡
してみましょう。進歩の仮定がなければ、どんな光景になるでしょうか?カントにとっての二者択絶望を生み出す後退か、死ぬほどに退阻な永遠に同じであるこ とのいずれかです。もう一度傍観メンデルスゾーンは次のように語っています゜
実際のところ、
身、レッシングの言う「人類全体の進歩」を否定するモーゼス・メンデルスゾーンと論争した際に、その
カントの内には、紛争から身を引<ことを容易にする二つの仮定があります゜
エーションにすぎません)。
キアヴェッリの態度は、「私は自分の命あるいは自分自身以上に世界とその未来を愛する」という態度の
カント自
つのヴァリ
95 カント政治哲学講義
第八講義94
有徳の人が厄介なことや悪への誘惑と戦いながらも、それらに庖することなくもちこたえている光景
は、神性にふさわしい光景であるとしよう。だとすると、人類がときおり徳へ向かって歩みを進める
が、すぐに逆戻りして、やはりふたたび悪徳と不幸へと深く落ち込んでいく光景はどうだろう。:・・・・
これは、ごく平凡だが健全な考えの人にさえ、このうえなくふさわしくない光景なのだ。しばらくの
あいだこの悲劇を見物するならば、ひょっとすると心が動かされるかもしれないし、教えられること
が多いかもしれない。しかし、それでも最後には幕が下ろされるのでなければならない。というのも、
長く続いていると、道化芝居となってしまい、役者(ac tor)たちならば自分が道化師であるから飽き
ないとしても、どれか一幕で十分な観客(specta tor)は、けっして終幕にいたらない芝居は永遠に同
じことのくりかえし(Einerle i)だというとふうに先が見えてしまうと、そんな芝居には飽きてしまう
(118)
からである。
第九講義
少なくとも注視者11観客の目から見て、全てがうまく行っていることの究極の保証は、『永遠平和のた
めに』から分かるように、自然それ自体です。自然は、摂理あるいは運命とも呼ばれます。自然の「合目
(llg)
的性は、人間の不和を通じて、人間の意志に反してもなお、融和そのものを生み出すことにある」。実際
不和は、自然の計画の極めて重要な要因であって、これなしにはいかなる進歩も考えられませんし、進歩
なしには最終的な調和を産み出すことも不可能になるでしょう。
注視者11観客は、自らは関与していないおかげで、行為者11演技者(a
ctor)にとっては隠されている摂
理あるいは自然の計画を見てとることができます。つまり、一方の側に光景(spectacle) 及び注視者11観
客が、他方に行為者11演技者及びあらゆる個々の事件、そしてそれに付随する偶然的な出来事が位置する
形になります。フランス革命の文脈では、注視者の見方こそがたとえその見方が行為のためのいかな
る格率も産み出さなかったにせよこの事件の究極の意味を与えるものである、とカントには思われた
のです。ただ、カントには、むしろその逆ではないかと思えるような議論もあるので、そうした側面につ
いて検討しておきましょう。それは、単一の事件が、そしてそれに関わる行為者たちが、「崇高」とも言
うべき光景を呈する状況、更に言えば、その崇高さが自然の隠されたデザインと一致しているのではない
かと思えるような場面です|| ,私たちの行為の格率を産み出す理性は、私たちがそうした「崇高な」行為
に加わることを定言的(categor icall y)に禁じるはずです。戦争の問題に対するカントの立場に即して考え
性を強調するために、次のくだりを引用しておきましょう。
97 カント政治哲学講義第八講義96
カン
てみましょう。革命の問題ではカントは明らかに革命の側にシンパシ] を示していましたが、戦争の問題
では、明らかに、かつ絶対的に平和の側にシンパシーを示していました。
『永遠平和のために』では、以下のように述べられています。「理性は、道徳的に立法する最高権力の座
から、訴訟手続としての戦争を断固として弾劾し、これに対して平和状態を直接の義務とするのである。
しかしこの平和状態は諸民族相互の間の契約がなければ、樹立されることも保証されることも不可能であ
(120)
る」。この問題での私たちの行為の格率がどのようなものになるべきかについては、議論の余地はないで
しょう。しかしこれは決して、純粋な傍観者(on lo
0 ker) ー|右i為することがなく、自分が見ているもの
に全面的に依拠する者ということです|ーが五結論することではないでしょうし、この時事論文の風刺的な
タイトルは、そこでの議論から生じてくる可能性のある矛盾以上のものを暗示しているように思えます。
『永遠平和のために11永遠の安らぎに向かってZurn ewigen Frieden 』というのはもともと、あるオランダ
〔29〕ヽヽ
人の居酒屋の亭主が思いついた風刺的な看板の文句であり、当然、墓地を意味します。そこは、永遠の安
らぎ11平和の場所であり、居酒屋の亭主が、この現世において長く切望されてきた平和な状態へとあな
たを誘ってくれる飲み物を提供しますよ、というわけです。そもそも平和とは何でしょうか?平和とは、
ヽヽ
死と呼ぶことさえできる停滞なのでしょうか?カントは、歴史と人類の歩みについての省察( r且ections)
ヽヽ
の帰結として形成されてきた、戦争についての自らの意見(0
pin ion)を一度ならず語っていますが、それ
を最も強く述べているのは、『判断力批判』においてでしょう。『判断力批判』の崇高に関する節で、
トは、このテーマを十分特徴的に論じています゜
未開人にとってすら、最大の讃嘆の対象であるものはなんであろうか。それは、ものに動じず恐怖す
ることなく、それゆえ危険を避けない:: ・・人間である。もっとも文明化した〔社会〕状態においても、
軍人に対するこうした特別な尊敬は残っている。……なぜなら、危険に挫けない軍人の心の不囲さが
認識されるからである。したがつて、政治家と将軍とが比較される時にも、美的判断は将軍を勝ちと
する判決を下す。戦争ですら……それ自体ある崇高なものをもっている。:· : •これに反して、長期に
わたる平和は、たんなる支配根性を支配的にし、しかしそれとともに卑しい利己欲、臆病、柔弱を支
(121)
配的にし、国民の心構えを低劣にさせるのがつねである。
これは、注視者11観客の判断、つまり美的11感性的判断(aes thet1cal judgment) です。戦争の崇高な側面
ーー人間の勇気ーーを見つめる傍観者(onlo 0 ker) は、カントが別の文脈で冗談風に言及していることを
考慮に入れていません。それは、「交戦中の諸国家を見ると、陶磁器店のなかで二人の酔っぱらいが棒で
(122)
殴りあっているようなものだ」という箇所です。つまり、世界(陶磁器店)が考慮に入れられていないの
です。彼が「戦争は『進歩」や文明にとって何の役に立つのか?」、という問いを提起する時には、この
問題がある意味考慮に入れられています。ただ、この場合もカントの答えは、決してはっきりしたもので
ヽヽヽヽヽ
はありません。確かに、自然の「究極意図」は、「世界市民的全体、言い換えれば、互いに他を損なうよ
うに働く危険のあるすべての国家の―つの体系」を構築することにあります。しかし戦争、すなわち「人
間の奔放な激情によって引き起こされる……意図されていなかった企て」は、まさにその無意味さのゆえ
に、来るべき世界市民的な平和の準備として実際に役立っこともありうるつまり、理性によっても善
99 カント政治哲学講義第九講義98
意によっても完全には成就しえない平和が、戦闘による全面的消耗の帰結として現実化するかもしれない
ことというだけにとどまりません。戦争はまた、
最も恐るべき苦難を人類にもたらし、平和時の戦争に対する不断の準備は、おそらくいっそう大きな
苦難をもたらすにもかかわらず、…•••それでも文化に役立っあらゆる才能を最高度に発展させる、も
(123)
ぅ―つの動機なのである。
(24)
簡単に言えば、戦争は「墓のような普遍的な専制君主制ほどには癒しがたい悪ではない」ということで
す。国民(nation) が複数存在することが、それゆえに引き起こされる一連の紛争と相まつて、進歩の原
動力になっているのです。
ただし、美的.反省的判断力についてのこうした洞察から、活動に関する実践的な帰結が導き出されて
くるわけではありません。活動については、疑いの余地なく以下のように言うことができるからです゜
ヽヽヽヽヽヽヽ
われわれのなかにある道徳的実践理性は、その抗しがたい拒否権Vetoを行使して、戦争はあるべき
、‘‘、
ではない、と宣言する。:·:•したがつて、永遠の平和はありうるのか、それともありえないのか、あ
りうると想定すれば、われわれは理論的判断において自己欺腑をおかしているのではないかというこ
とはもはや問題にはならない。それどころか、……平和を実現しようとする意固の実現がつねにむな
しい願望であり続けようとも、永遠の平和の現実がありうるかのようにわれわれは行為しなければな
(125)
らない。
....
:というのも、そうすることが私たちの義務だからである。
しかし、こうした活動の格率が、美的.反省的判断力を無効にしてしまうわけでありません。別の言い
方をすれば、カントが常に平和のために活動11演技(act) しているとしても、彼は同時に、自らの(美的·
反省的)判断を知り、心に留めていたのです。もしカントが注視者11観客として得た認識をもとに活動し
ていたとすれば、彼は自分の心の中で罪を犯していると感じたことでしょう。ただし、彼がこの「道徳的
義務」のために注視者11観客としての自分の洞察を忘れてしまうようなことがあったら、彼は公的事柄に
関わり、献身している多くの善良な人々がなりがちな、理想主義のバカになっていたことでしょう。
要約しましょう。私がここまで読みあげたくだりでは、二つの極めて異なった要因がほぽ全面にわたっ
て、同時に現れています。この二つの要因は、カント自身の内で密接に絡み合っており、そうならざるを
えなかったのです。第一に、傍観者(onlooker) としての立場があります。傍観者の見たものが大きな意
味を持つということです。傍観者は諸々の出来事が辿るコースの内に、一っの意味、行為者11演技者(actor)
が見逃してしまうような意味を発見することができるものとして想定されるわけです。そして傍観者の洞
察の実存的根拠は、その没利害性(dis interestedness) 、非関与(nonpartic ipation) 、出来事に巻き込まれてい
ないこと(noninvolvement) にあります。つまり傍観者の没利害的な関心(disinterested concern) が、フラ
ンス革命を偉大な出来事として特徴付けたのです。第二に、進歩の観念、将来に対する希望があります。
進歩という前提の下で、出来事が、それが来るべき世代のために何を約束しているかによって判定される
わけです。カントのフランス革命評価においては、この二つのパースペクテイヴが一致していました。こ
101 カント政治哲学講義第九講義100
のことは、活動の諸原理に関しては、
おいても、この二つのパースペクテイヴはともかく一致していました。戦争は進歩をもたらします1 技
術の歴史が戦争の歴史といかに密に結びついているか知っている人であれば、決してこのことを否定しな
いでしょう。
なので、
そしてまた戦争は、
その恐ろしさが増せば増すほど人間たちが理性的になり、最終的に平和へと通じる国際的合意を
目指して働くようになるだろう、と考えられるからです(「運命は欲する者を導き、欲しない者を引きずつてい
(126
)
[30
]
v-Fata duncunt volentem, trahunt nolentem
.
」。
は進歩であり、
平和に向けての進歩さえもたらします。戦争はあまりにも恐ろしいもの
人間の背後にある計画、
注視者11観客のみがどういう事態であるのか知っており、行為者11演技者は決して知らない、
考え方は、極めて古<からあります。
した洞察の、最も単純で、
いかなる意味も持たないわけですが。
しかしカントにとって、
自然の狡知、あるいは、
それは実際、最も古<からある、最も重要な哲学的観念の一っです゜
観想的な生活様式(contemplat ive way of life)
活動すること(act ing)を慎む者にだけ明らかにされる、
カントの戦争に対する評価に
それは運命ではありません。
後に歴史の狡知と呼ばれるものです゜
の優位という観念それ自体が、意味(あるいは真理)
というこの古<からの洞察に由来します。
はとんど洗練されていない形の例を示しておきましょう。
ものとされる寓話として伝えられています゜
それ
という
は行為II
そう
それはピタゴラスの
人生は: ・…祭典のようなものだ。つまり、その祭典(の競技会)には、ある人たちは競技のために来るし、
ある人たちは商売のために来るが、しかし最もすぐれた人たちは観客(
spectators 11 thea tai)としてや
って来るのである。それと同様に、人生においても、奴隷根性の人たちは名誉(doxa) や利益を追い
かけている者であるが、これに対して、知恵を愛し求める人(哲学者)たちは真理を追求している者
(127)
なのだ。
こうした評価を支えている根拠として、まず第一に、注視者11観客だけが全体を見わたすことが可能な
位置を占めているということを挙げることができるでしょう。行為者11演技者(actor) は演劇の一部分(part)
であるので、自分の役(part) を演じ(enac t)なければなりませんーー'つまり行為者11演技者は、その定
義からして党派的11部分的(partia l)なのです。これに対して注視者11観客は、その定義からして非党派
II非部分的(impartia l) です—注視者にはいかなる役も割り当てられていません。そういうわけで、直
接的な関わり合いから身を引いて、ゲーム外の立場へと撤退することが、全ての判断の必要条件なのです゜
第二に、行為者11演技者が名誉(doxa) を気にかけるということがあります。名誉とは、他者の意見(opinion)
のことですl 〈doxa 〉という語には「名誉」と「意見」の二つの意味があります。名誉は他者の意見を
通して生じます。したがつて、行為者11演技者にとって決定的に重要な問題は、自分が他者にどう見えて
いるか(doke ihois all ois) ということです。行為者11演技者は、注視者11観客の意見に依存しており、(力
ントの言語で言えば)自律していないのです。行為者11演技者は生来の理性の声に従って演技11行為(act)
するのではなく、注視者11観客が自分に期待するであろうことに従って行為するのです。基準は、注視者
II観客です。そして、この基準こそが自律的なのです゜
このことを哲学者の使う用語に翻訳すると、注視者的11観想的な生活様式l 〈bios theoret ikos〉こニの
「観想的theoretikos 」という形容詞は、「見ることtolook at」を意味する動詞〈theorein 〉から派生したも
103 カント政治哲学講義第九講義102
のですの優位ということになるでしょう。この生活様式においては、人は世評(
opmions) の洞窟から
全面的に脱け出し、真理を求めての狩りに出かけることになります。この場合の真理とは、もはや祝祭の
ゲームの上での真理ではなく、永続する事物の真理、つまりあるがままの事物と異なっている—|'人な事象はすべて、その現実のあり方とは異なったものにな る可能性がありますということがありえず、
したがつて必然的に真理であるような真理です。こうした撤退を通して、人は、アリストテレスが「不滅
にすることathanati zein」と呼んでいる営みこれも活動11現実態(
activity) の一種と解されま和1 を
実行するのです。自分の魂の神聖な部分(part) によって、それを実行するのです。カントの見方は違い
ます。カントの場合も、人は、「理論的11観想的theoretica l」な立場、傍観する立場、注視者11観客の立
場に撤退するわけですが、この立場は裁判官11判断者(the Judge) の立場です。カント哲学の術語全体が、
法のメタフアー(隠喩)で貰かれています。理性の法廷の前に、世界の様々な出来事が現われてくるわけ
です。いずれの場合も、眼の前の光景に心を奪われていても、私はその光景の外側におり、自らの事実在(factual existence) を様々の周辺的、偶然的な条件を含めて決定する立場を放棄しているわけです。カ
ントなら、「私は一般的立場に達している。裁判官が判決を下す時に行使すべき公平11非党派性に達して
いる」と言うことでしょうし、ギリシア人なら、「私たちは、dokei moi (= 私には\と見える)と、『他者
に\と見られたい』という願望を放棄している。私たちは、意見であり名誉であるドクサを放棄している
のだ」と言うでしょう。
こうした古<からの観念に加えて、カントには全く新しい観念、つまり進歩の観念があります。実際、
進歩は、私たちに判断の基準を与えてくれます。ギリシアの注視者11観客は、人生の祝祭に際しても、永
続する事物を見る際にも、個々の出来事の秩序をそれ自体として考察し判断しますそして、その真理
を見出します。その出来事が、一定の役割(part) を演じることもあれば演じないこともある、より大き
なプロセスに関係付けるということはしません。ギリシアの注視者11観客が実際に関心を寄せていたの
は、個々の出来事、特殊な行為だったのです(例えば、ギリシアの円柱や、階段の不在のことなどを考えてみた
らいいでしょう)。個々の出来事や行為の意味は、その原因にも結果にも依拠していなかったのです。物語
(story) は、終局に達した時点で、全ての意味を包含することになるのです。これは、ギリシアの歴史叙
[32
]
述(historiography) についても言えることで、それは何故ホメロス、ヘロドトスやツキジデスが敗北した
敵を正当に扱うことができたのかの説明になります。物語も、将来の世代にまで妥当する諸規則(rules)
を含んでいることがありますが、それでも、単一の物語(asingle story) に留まります。この精神で書か
ヽヽ
れた最後の書物は、マキアヴェッリの『フイレンツェ物語Flor entine Stories 』であるように思えます
みなさんは、これを『フイレンツェ史TheHistory of Florence 』というミスリーディングなタイトルで知っ
ているかもしれませんが。ポイントは、マキアヴェッリにとって歴史(Hi
story )とはもっぱら、人間のあ
らゆる物語(stories) を含んだ巨大な書物であった、ということです゜
歴史を判断する基準としての進歩は、ある意味、「物語の意味は終局においてのみ顕わになる」(II「何
人であれ、死の前に祝福された者とは呼ばれえないNemoante mortem beatus esse dici potest 」)、という古<から
の原理を覆します。カントにあっては、物語あるいは出来事の重要性は、厳密にはその終局にあるのでは
なく、それが未来のために新しい地平を開くということにあります。フランス革命をあれほど重要な出来
ヽヽ
事にしたのは、あの革命に含まれていた未来の世代にとっての希望です。そうした感情が広く行き渡って
105 カント政治哲学講義第九講義104
いたのです。ヘーゲルにとってもフランス革命は最も重要な転換点だったわけですが、彼は常にこの出来
事を「輝かしき日の出」、「夜明け」などのメタファーで描写しました。フランス革命は、未来の種子を芋
んでいるがゆえに、「世界史的な」出来事なのです。ここでの問いは、「では、その物語の主体は誰か?」
ということです。革命の人たちではありません。彼らが世界史を念頭に置いていたわけでないのは明らか
です。世界史は、次のような場合にのみ意味を持ちうるのです゜
世界史の中では人間の行為の結呆として生ずるものは、それが目指し、求めたもの、それが直接に意
識し、また意欲したのとは全くちがったものだということである。人間はそれぞれ自分の関心事を追
求するが、しかしそこから出て来るものはその関心以上のものである。もっとも、この結果も元来そ
の関心の中に内在していたものではあるが、ただ人間の意識と意図の中に現われてはいなかったので
ある。われわれはこれと類似する一例を、恐らく正当な復讐心から、すなわち不当な侵害をうけたこ
とから来る復讐心から、他人の家に放火する者にとってみる。……この直接的な行為そのものは、僅
かに梁の一小部分に一寸した火をつけてみたというだけのことであった。.:·:〔だがその帰結として、
もともと意図していなかった〕大火に発展した。……このことは、こんなことを仕出かした人間の一
般的行為の中にも、またその意図にもなかったことである。……以上の例によっても、直接的な行為
の中には行為者の意志と意識の中に含まれているよりも以上のものがあり得るということだけは、は
(128)
っきりわかると思う。
これはヘーゲルの言葉ですが、カントが書いたとしてもおかしくなさそうです゜でも、両者にはやはり
違いがあります。違いには二つの側面があり、そのいずれも非常に重要です。ヘーゲルにおいては、プロ
セスの中で自己を現わすのは絶対精神であり、この顕現の終局において哲学者が理解することができるの
は、絶対精神です。カントにあっては、世界史の主体となるのは、人類そのものです。更に言えば、ヘー
ゲルにおいては、絶対精神の顕現は‘―つの終局に到達するはずです(ヘーゲルにあっては、歴史(history)
には一っの終局11目的(
end)があります。プロセスは無限ではなく、したがつて物語(story) には―つの終局11目
的があります。もっぱらこの終局11目的のために、多くの世代と世紀が生ずる必要があるのです)。最終的に顕わに
されるのは、人間ではなく絶対精神であり、人間の偉大さは、もっぱら彼が絶対精神を最終的に理解で
きる限りにおいて認識11現実化(realize) されるのです。しかしカントの場合、進歩は永続するものであ
り、終局はありません。したがつて歴史に終局はないのです(ヘーゲルにおいては、マルクスの場合と同様に、
歴史に―つの終局があるという考え方が重要です゜というのは、この歴史の終局という考え方は、「その終局の後にかが起こるとすれば、それは一体何なの か?」、という問いを不可避的に含んでいるからですー~こうした終末論的な
終局が、自分たちが生きている間に訪れると思い込みがちな、どの世代にもよく見られる傾向のことは、ここでは脇に
置くことにしましょう。コジェーヴが正しく言い表しているように、マルクスにも影響を与えているヘーゲルの考え方
のこうした側面を、その論理の最も極端まで突き詰めていくと、「歴史の終局の後に人間が成しうるのはもっぱら(129)
結された歴史の過程を永遠に再考し続けることである」、ということになるでしょう。他方、マルクス自身においては、
豊かさに根ざした無階級社会あるいは自由の王国は、みんなが某かの趣味に耽ることができる状態を生み出すことにな
ります)。
107 カント政治哲学講義第九講義106
カントに話を戻すと、
人類(mank ind)の全ての潜在能力を開発することにあります。
理解されるわけですが、
全く異なります゜
人類という言葉が、
ない。
世界史に対応する主体は、種としての人間(human species)
この場合、
他の動物種とは決定的な違いがあります゜
人類は自然の動物種の一っと
動物の種は通常、
函)
てが互いに一致しなくてはならない徴表以上のものはなにも意味しなし」わけですが、
ヽヽ
無限(II 限定されないもの)を目指して進んでいく世代の系列の全体を意味し、こ
の系列は使命というその脇を走っている直線に絶えず近づ<ものと前提されるならば、
のあらゆる部分においてこの直線に漸近的ではあっても全体としては一致する、
言い方を換えれば、人類のあらゆる世代のいかなる成員でもなく、
です゜ 自然の計画は、
「まさに個体のすベ
人類については、
この系列はそ
と言っても矛盾では
ただ類だけがこの使命を成
、‘‘、‘‘、、
就する、と言っても矛盾ではない。:
..
:哲学者ならば、全体としての人類の使命は永続的に進歩する
ヽヽ
ことである、と言うであろう
以上のことから二、三の結論を引き出してみましょう。歴史とは、人(man) という種の内に組み込まれ
ているク何かクである、と言ってもいいでしょう。人間の本質を規定することはできません。そして、「そ
もそもなぜ人間は現存(exist) するのか?」というカント自身の問いに対しても、「この問いに回答する
ことはできません」、と答えるしかありません。というのも、「(人間の)存在(existence) の価値」は、い
かなる個々の人間にも世代にも顕れることはなく、「全体においてのみ」顕れるからです。プロセスそれ
自体が永続的であるからです゜
このように、カントの道徳哲学の中心には個人が位置するのに対し、彼の歴史哲学ーあるいは、自
然哲学と言っておいた方がいいかもしれませんーの中心には、人類(human race, or mankind) の永続
的進歩が位置します1 そこから、「一般的視点からの歴史」の構想が生まれてくるわけです。一般的
視点ないし立場を占めるのは、「世界市民」である注視者11観客、あるいは「世界観察者11観客world
spectator」です。全体という観念を持ったうえで、個別の特殊な出来事において進歩が成されて否か判定するのは、そうした注視者11観客なので す。
109 カント政治哲学講義
第九講義108
前回は、観者11観客と行為者11演技者の衝突について話をしました。観者11観客の眼前にまるで、
彼の判断11判定のために演じられるかのようにー繰り広げられる光景は‘―つの全体としての歴史であ
り、この光景の真の主役は、ある種の「無限」を目指して「進んでいく世代系列」としての人類です。こ
のプロセスには終局11目的(end) がありません。「人類の使命は永続的進歩です」。こうしたプロセスの
中で人類の潜在能力は現実化され、「最高度」にまで発展していきますーーが哀←し、絶対的な意味での至
高の者は、実在(exist) しません。終末論の意味での究極の使命(destination) なるものは実在しませんが、
行為者たちの背後でこの進歩を導いている二つの主たる目標があります。何人も他の人間を支配しない、ヽヽという単純かつ基本的な意味での自由 (freedom) と、人類の統一のための条件である国民間の平和geace)
の二つです。自由と平和へ向けての永続的な進歩です。後者、つまり平和によって、地球上の全国民の間
の自由な交渉が保障されるわけです。これらは理性の理念(idea) であり、これらがなかったら、歴史と
いう単なる物語(t he mere story of history) は無意味になるでしょう。理性を備えた人間が個々の出来事を
見て判断するに際して、それらの出来事に意味を与えるのは全体です。人間は、自然の被造物であり、そ
の一部であるにもかかわらず、「自然の目的は何であるか」と問う理性のおかげで、自然を超えるのです゜
こうした問いを発する能力を有する―つの種を産出することによって、自然は自分自身の主人を産出した
のです。人という種が他の全ての動物種から区別されるのは、単に言葉と理性を所有しているからではな
第十講義
カント自身もし
く、その能力が、規定することができない発展の可能性を秘めているからです゜
これまで私たちは、注視者11観客(spectator) を単数のものとして論じてきました。
ばしばそうしていますし、十分な理由のあることです。第一に、眼前で繰り広げられる光景(spectacle)
を、自らもその一部となりながら提供してくれている多くの行為者11演技者たちを、ただ一人の傍観者
(
onlooker)が視野に入れることができる、という単純な事実があります。第二に、観想的な生活様式は多
数者からの撤退を前提にしているものと見なす伝統の大きな重みがあります。観想的生活が人を、いわば
単独化(
singularize)するのは、観想(contemplat ion)が孤独な営みである、あるいは少なくとも、孤独の
(32)
中で営むことが可能であるからです。みなさんは覚えていると思いますが、洞窟の寓話の中で、プラトは次のように述べています。洞窟の住人、すなわち自分た ちの眼前のスクリーンに映っている影絵を見て
いる多くの者は、「手足も首も鎖で繋がれており、動<ことができない。鎖で頭を回らせることができな
いようになっているため、眼前にあるものしか見ることができない」。したがつて、彼らはまた、自分た
ちの見ているものについて互いに伝達(
comm unicate) することもできないのです。全面的に孤立した姿で
描かれているのは、イデアの天空の光から帰還してきた哲学者だけではありません。洞窟内の注視者11観
客たちもまた、相互に孤立しているのです。それに対して、活動は孤独な、あるいは孤立した状態では不
可能です。一人だけの孤独な人であったとしても、少なくとも、何かを企てて実行しようとするのであれ
ば、他人の助けを必要とします。政治的(活動的)生活と哲学的(観想的)生活という二つの生活様式の違
いは例えばプラトンの政治哲学においてそうであるように相互に排除し合う性質のものだと解す
、‘‘‘‘
るのであれば、何を為すのが最善かを知っている者と、その者の指導あるいは命令に従ってそれを実行し
111 カント政治哲学講義110
ようとする者の間には絶対的な違いがあるということになるでしょう。これが、プラトンの『政治家』の
要旨です。理想的な統治者(archo n)は全く活動(act) しないのです。彼は、活動の意図された目的11終
局を、始めから知っている賢者であり、だからこそ統治者なのです。そういうわけで統治者にとって、自
らの意図を知らしめることは全くもって余計なことであり、有害ですらあるでしょう。カントの場合に
はその逆に、公共性(pub li cness) が全ての活動を支配する「超越論的原理」であることを私たちは知って
います。どのような行為(ac t) であれ、それ自身の目的を挫折させないために「公開11公共性(
publicit y)
を必要とする」行為は、みなさん記憶しておられると思いますが、政治と正義(right) を結合する行為です。
行為することと、単なる判断、観想、あるいは知ることの間の関係について、カントがプラトンと同じ考
え方をしているということはありえないのです。
意図された行為に対して、その行為に着手する手がかりとなる公開11公共性を与えるとされるこの公衆
(public) なるものはどこにいるのか、また誰であるのかよく考えてみれば、カントの場合、それが、行為
者あるいは統治に参加する者としての公衆ではありえないことは極めて明白でしょう。カントが考える公
衆とはもちろん読者としての公衆です。カントが訴えかけているのは、公衆の意見の重みであって、彼ら
の票の重みではありません。一八世紀後半のプロイセン1 それは、専制君主が支配し、それをかなり啓
蒙化された文民の官僚機構(彼らもまた、君主同様に「臣民the subjects
」から完全に分離していました)が補佐
する国家であったわけですi においては、こうした読み手かつ書き手としての公衆(readi
ng and writing
public) 以外に真の公共領域はありえなかったのです。統治と行政の領域は、まさにその定義からして、
秘密に包まれた、近付くことのできない領域でした。そして、私がこの講義で引用している論文を読めば
分かるように、カントが活動(act10n) と考えることができたのは、もっぱらそれが何であれ時
の権力者の行為、すなわち統治行為だったのです゜ 臣民の側からのあらゆる現実の働きかけ(act i0 n)は、
陰謀的な活動(activity) 、秘密結社の行為ないし策略としか考えられなかったのです。別の言い方をすれば、
カントにとって、確立された政府に代わるものは革命ではなく、クーデターであったのです゜革命と違っ
てクーデターは実際に秘密裡に準備されねばなりません。それに対して、革命集団ないし革命党派は、自
分たちのゴールを公け(pub li c)にし、人口の主要な部分を自分たちの掲げる大義の下に結集させようと
常に奮闘してきました。こうした戦略が実際に革命をもたらしたかどうかは、別の問題です。しかし、革
命的活動に対するカントの非難が、革命をクーデターと見なしたがゆえの誤解に基づいていることを理解
しておくのは重要です。
私たちは、観想(contemplat ion)と活動(act i0 n)の違いを、理論と実践の関係という面から考えること
に慣れています。カントはこの問題について、『理論では正しいかもしれないが実践の役には立たない、
という通説について』という論文を書いていますが、彼がこの問題を私たちと同じ様に理解していないの
は確かであり、そのことはこの論文自体が最もよく示しています。実践についてのカントの考えは、実践
理性によって規定されています。『実践理性批判』は、判断や活動は扱っていませんが、実践理性につい
ては全てを教えてくれます。「観想的快contemplative pleasure」と「非能動的満足inacti ve delight 」から生
(33)
じてくる判断は、『実践理性批判』の中に位置を占めていません。実践的な事柄では、判断力ではなく意
志が決定的であり、その意志はもっぱら理性の格率にだけ従います。『純粋理性批判』においてさえ、カ
ヽヽヽ
ントは「理性の純粋使用」についての議論を、その実践的な含意から始めています。ただ彼はその際に、「理
113 カント政治哲学講義第十講義112
性をもっばらその思弁的使用の面から考察するために、実践的〔つまり、道徳的〕理念を暫定的に度外視
(134
)
<35
)
して」います。この思弁(spec ulation) は、個人の究極の目的地(巨目atedestinati 0
n)、「最も崇高な諸問題」の
内でも究極的に崇高なものに関わります。カントにおいては、実践的とは道徳的であることを意味し、個
、‘‘‘
人としての個人に関わります。この語の真の対立項は、理論ではなく思弁、つまり理性の思弁的使用です。
ヽヽ
政治的事柄に関するカントの現実的な理論は、永続的な進歩と、人類という理念(idea) に政治的リアリ
ティを与えるための諸国民の連邦的統一についての理論でした。この方向を目指して働く人は誰であれ歓
迎しました。しかし、カントが人間に関わる事柄一般について省察する際に援用するこれらの理念は、フ
ランス革命の注視者11観客たちを捕えた「熱狂と紙一重の、願望としての関与」とも、また「協力しよう
という意図は全くないのに」ただ共感をもって眺めるだけの「外から見物している公衆の高揚」とも、全
く異なるものです。カントの見解では、革命を「忘れさられることがない現象」にしたーー,別の言い方を
すれば、世界史的な意義をもつ公共的な事件にしたー|'のは、まさにこの共感(sympath
y) であったので
[34
) す







































11演





はなく、喝采を送る注視者11観客たちだったのです。
カントは政治哲学を書いていないわけですから、この問題について彼が考えていたことを知る最良の
やり方は、彼の「美的判断力の批判」に当たることでしょう。ここでカントは、芸術作品の制作廿産出
(production) を、作品について判定する趣味との関係で論じていますが、ここでも同じような問題に直面
しています。私たちには、ある光景について判断するためにまず自分がその光景に立ち会わねばならない
と考える傾向がありますーー'それには理由がありますが、その理由について立ち入って論じる必要はない
でしょう。
向がある、
つまり、注視者11観客は、行為者11演技者に対して二次的な位置しか占めていないと考える傾
ということです。正気の人間であれば、観客に注目されているという確信がないのに、見せ場
(spectacle) を演じたりしない、ということを私たちは忘れがちです。カントは、人間のいない世界は砂漠
であると確信していました。そして、カントにとって、人間のいない世界とは、注視者11観客のいない世
界を意味します。美的判断力を論ずるに当たって、カントは天才と趣味を区別します。芸術作品の制作に
は天才が必要ですが、それらの作品を判定するには、つまりそれらが美的対象か否かを決定するには、趣
味以上の「何ものも」これはカント自身ではなく、私たちなりの言い方ですが必要ではあり
、、、、、、ません。「美しい対象を美しい対象として判定するためには、趣味が必要である:·:•こうした対象を産出
ヽヽ(136)
するためには天才が必要である」。カントによれば、天才は、生産的構想力(produc tiveimaginat ion)と独
創性に関わる事柄であるのに対し、趣味は判断にのみ関わる事柄です。カントはこの二つの内のいずれが
「より高貴な」能力であるか、つまり、「技術(art) を芸術(beautifu lart) として判定(judge) する際に注
(芍
目しなければならない」不可欠の条件はどちら力という問いを立てていますもちろんカントは、美の
判定者のはとんどは天才と呼ばれる生産的構想力を欠いているけれど、天才を与えられている少数の者た
ちが趣味の能力を欠くことはない、と想定しているわけですが。この問いに対して、カントは次のように
答えています゜
美のためには、諸理念が豊かで独創的であることは必ずしも必要ではなく、むしろ構想力が自由であ
りながら悟性の合法則性に適合することこそ、必ず必要なことである。というのも、構想力はどれほ
115 カント政治哲学講義第十講義114
ど豊富であっても、構想力が無法則的な自由であれば、その豊富さは無意味なものだけを産み出すが、
これに反して判断力は、構想力を悟性に適合させる能力だからである。
趣味は、判断カ一般と同様に、天才の訓練(ないし訓育)であり、天才からその翼を切り縮めて
……指針を与え.:·:、〔天オの思想に〕明晰さと秩序をもたらすことによって、諸理念を確固とした
ものにするのであり、永続的で同時に一般的賛同を得られるものにし、また他のひとびとによる継承
と絶えず進む文化とに耐えうるものにする。それゆえ、ある産物についてこれら二種の特性が衝突し
て、あるものが犠牲にされるべきだとすれば、犠牲はむしろ天才の側で起こらなければならないであ
(138)
ろう。
天才がなければ判断力が判断する対象が何もなくなってしまうにもかかわらず、カントは、このような
形で、天才の趣味への従属を認めます。カントは、「美的芸術には:・…構想力、悟性、精神、趣味が必要
ヽヽ
である」と語った後、脚注ではっきりと、「最初の三つの能力は第四の能力〔趣味〕によってはじめて合一
(139)
される」と付け加えています。更に言えば、精神(spirit) は、理性、悟性、構想力とは別の特殊な能力で
あり、この能力のおかげで天才は、:める主観的な心の調和を生みだし、それを::••他の人々に対して伝
達可能」にする諸理念のための表現を見出すことができるのです。言い換えれば、精神とは、天才に、し
かも天才のみに霊感を与えるもの、「いかなる学も教えることができず、いかなる勤勉も学ぶことができ
ない」ものであり、その本質は、一定の表象(representation) によって私たち全ての内に呼び起こされる
けれど、私たちにはそれを表現する言葉がなく、天才の助けなしにはそれをお互いに伝達できないような
キケロの
こうした洞察は少なくとも(ギリシア古代とは区別される)ラテン古代
『弁論家について』の中に、その最初の表現を見出すことがで
「心の状態(Gemutszustand) における名付けがたきもの」を表現することにあります。天才に固有の仕事
(141)
は、そうした心の状態を「一般的に伝達可能に」することです。この伝逹可能性を導<能力が趣味ですが、
、‘‘、
趣味あるいは判断力は天才の特権ではありません。美的対象が実在するための不可欠の条件は、伝達可能
性です。つまり注視者11観客(spectator) の判断力が、それなしではいかなる美的対象も現われることが
できない空間を創造するのです。公的領域は演技者11行為者(ac tor)あるいは制作者(maker) ではなく、
批評家(critic) と鑑賞者11観客(spectator) によって構成されるのです。そして、この批評家と鑑賞者と
ぃうのは、あらゆる演技者11行為者と製造者(fabricator) に内在しています。こうした批評的・判定的能
カがなければ、演技者あるいは制作者は、観客から孤立し、認知されることさえないでしょう。あるいは
別の言い方をすれば、やはりカントの言い方ですが、芸術家の本当の独創性(あるいは演技者の本当の斬新さ)
は、自分のことを、芸術家(あるいは演技者)でない人たちに理解してもらえるかどうかにかかっています。
そして、天才についてはその独創性ゆえに単数形で語ることができますが、ピタゴラスにおいてそうであ
[35
]
ったように、観客(号e spectator) のことを単数形で語ることはできません。観客はもっぱら複数で存在し
ます。観客は演技11行為(act) に巻きこまれる(invo lvedin)ことはありませんが、常に仲間の観客たちと
関わり合って(involved with) います。観客は、天オの能力である独創性を制作者と共有するわけではなく、
また斬新さをもたらす能力を演技者と共有するわけでもありません。観客たちが共通に持っている能力は、
判断の能力です゜
制作(makinig) について言えば、
と同じぐらい古<からあります゜
117 カント政治哲学講義第十講義116
制作に関しては、
(43)
がない。
専門家と素人の間に雲泥の差があるのに、
技術や理論をいっさい知らなくても、
で何が正しいものであり、
佳しも、, ,
"= -
カントも『人間学』
きます。
の中で、
誰でも、本能的な直感によって、
何が問違ったものであるか、
彫像やその他の作品の善し悪しを判別するのであるが、
て示す直感ははるかに的確なものである。
全く同じ調子で、
善し悪しの判定においてはそれほどの差
さまざまな分野の学芸や学問
判別(d11 udicare)
この名称が含意しているのは、
できるのである。
そういったものを理解する天与の賜物にそれほど恵まれてはいないにもかかわらず、
言葉のリズムや声の調子に対する判断におい
なぜなら、言葉のリズムや声の調子といったものは共通感
覚に根ざした(infixa) ものであり、自然の意志によって、この世にはその共通感覚を経駿する(expert us)
(142)
ことのない者はいないからである。
これに続けて彼は、以下のことは真に驚嘆すべきであり、注目に値する、と述べています。
狂気の本質は、注視者としての判断を可能にする共通感
覚の喪失にある、と述べています。共通感覚の反対が私的感覚(sensus pnvatus)
(144)
情logicalEigensinn 」とも呼ばれますが、
です。これは
論理的能力、
こうして、
絵画や
「論理的強
つまり前提から結
論を引き出すことを可能にする能力は、実際コミュニケーションなしでも機能しうるであろう、というこ
とです。ただしその場合、つまり狂気によって共通感覚の喪失が引き起こされている場合には、この能力
は狂気の帰結に至ることでしょう。それはまさに、共通感覚を失った論理的能力は、他者が現前する場合
にのみ妥当する、または妥当性を与えられる経験から分離された状態にあるからです゜
ここで最も驚くべきは、正(
right) /不正(wrong) の判断能力ないし判別能力である共通感覚が、趣
味(t
aste) の感覚に基づいていることになる、という点です。私たちの五感の内、三感は明らかに、外界
の対象を私たちに与えるものであり、従ってこれらは容易に伝達可能です。視覚・聴覚・触覚は直接的に、
そしていわば客観的(
objecti vely) に対象(objec ts)を扱います。これらの感覚によって、対象は同定可能
になり、他者と共有することが可能になります||' つまり言葉で表現し、語り合うことなどができるよう
[36
]
になります。嗅覚(
sme ll) と味覚(t
aste)は、全く私的で伝達不可能な内的感覚を与えます。私が今味わ
っていることや匂いを嗅いでいることを、言葉で表現するのは全く不可能です。これらは元来私的感覚で
あるように思えます。更に言えば、対象に関わる先の三つの感覚には、再現(represent) することができる、
不在(
absent)のものを現前(present) させることができる、という共通の性質があります。例えば私は、
ある建物、あるメロディー、ビロードの触感を想い起こすことができます。この能カーカントはこれを
構想力(Imagination) と呼んでいますー_ は味覚や嗅覚にはありません。他方、この二つの感覚は、明ら
かに排他11判別的(discriminatory) な感覚です。人は、自分の眼で見たものによって判断するのを差し控
えることができますし、またそれよりも困難なことですが、聞いたり触れたりしたものによって判断する
のを差し控えることもできます。しかし、味や匂いに関しては、「私が快または不快を感じること」は直
119 カント政治哲学講義第十講義118
休暇の前に話題にしていたことを想い出すために、少し復習しておきましょう。カントにあっては、政
治的事柄における理論と実践の一般的な区別もしくは対立は、注視者11観客と行為者11演技者の区別だと
いうことを確認しましたね。そして驚くべきことに、注視者の方が優位にあることも分かりました。フラ
ンス革命において重要だったこと、この革命を世界史的出来事、忘れることができない現象にしたのは、
行為者11演技者たちの功績や悪行ではなく、注視者11観客たち、つまり自らは巻き込まれなかった人たち
の意見と熱狂的な賛同でした。巻きこまれることなく(uninvo lved) 、参加もしていないこうした注視者11
観客たち注視者11観客たちは、出来事を人類史上において、つまりは将来の一切の行為にとって、お
ヽヽヽ
馴染みのものにすると言うことができるでしょうが互いに関与し合っている(were involved with one
anot her) ということも確認しました(これは互いに伝達し合うことができないオリンピック(祝祭)のピタゴラス
的な観客やプラトンの桐窟の注視者たちとは正反対です)。以上は、大部分、カントの政治的著作から確認した
ことですが、私たちはこうした彼の立場を理解するために、『判断力批判』も参照しました。そしてここ
でもカントが、同様な、あるいは類似した状況に直面していることを知りました。芸術家・制作者あるい
は天才と、その鑑賞者の間の関係をめぐる問題です。ここでも、誰がより高貴なのか、制作の仕方を知っ
ているのとその判定の仕方を知っているのといずれがより高貴か、という問いがカントに生じてきました。
私たちは、これが古<からの問いで、既にキケロが提起していた問いであることを確認しました。つまり、
第十一講義
接的であり、抵抗できません。そして、こうした快/不快は全く独特な感覚です。では一体何故、趣味が
持ちあげられ、判断力という精神的な能力の器とされてきたこれは何もカントに始まるわけではなく、
窃〕
グラシアン以来のことですのでしょうか?また翻って、判断カーこの場合の判断力とは、単なる
認識的な判断力、つまり、同じ感覚器官を備えた全ての生物と私たちが共有している、対象を私たちに与
ヽヽ
える感覚に内在する判断力ではなくて、正/不正の判断力のことですー|'が、そうした私的感覚に基づい
ていることになるのは何故でしょうか?趣味が問題となる場合、私たちはほとんど伝達することができ
ず、議論することさえできない、というのが実情ではないでしょうか?「趣味については議論しえずDe
[38
]
gustibus nーn disputandum est」。
この謎に解答を与えるのが構想力です。不在のものを現前させる能力である構想力は、客観的感貨
(objective senses) の対象(object) を、まるで内的感覚の対象であるかのように、「感受されたsensed」対
象に変容させます。この変容は、対象自体ではなく、対象の表象11再現前化(
represen tation) についての
反省11反映(reflecting) を通して起こります。その際に、表象11再現前化された対象は、対象の直接的な
(145)
知覚ではなく、その人の快/不快を喚起するのです。カントはこれを「反省の作用」と呼んでいます゜
121 カント政治哲学講義第十講義120
誰しもが芸術に関してその善し(righ t)/悪し(w rong) を判別11判断できるように思われるのに、芸術を
制作できる者はほとんどいない、という問題です。そしてキケロは、こうした判定は「沈黙の感覚sil ent
sense」ーこの表現は恐らく、他に表現しようのない感覚という意味ですー|によってなされると語っ
ていました。
この種の判断力は、グラシアン以来、趣味(Taste) と呼ばれてきました。カントをして現に『判断力批判」
を産み出すに至らしめたのも、この趣味の現象であったことも私たちは確認しました。実際一七八七年の
時点でも、カントは依然として、この仕事のことを「趣味の批判」と呼んでいました。このことから次に
私たちは、判断という心的現象が、より客観的な感覚、とりわけ最も客観的な感覚である視覚に由来する
のではなく、趣味の感覚に由来するのは何故なのか考えました。私たちは、味覚(t
aste)と嗅覚(
sme ll )
が感覚の内で最も私的な感凸見であること、つまり、これらが感受するのは対象ではなく感覚(
sensati
0
n)
であり、しかもこの感覚は対象に拘束されず、想起も不可能であることに言及しました(バラの香りや特殊
な料理の味は、もう一度感受すればそれだと認識することができますが、そうしたバラや食べ物が不在の場合は、させることはできません。かつて見たことのあ る光景や聴いたことのあるメロディーであれば、たとえそれらが不も、現前させることはできますが、同じ様にはいかないのです。言い換えれば、香りや味は再 現前化できない感覚なの
です)。同時に私たちは、何故趣味が他のどの感覚にもまして、判断力の器となるのかについても検討し
ました。その理由は、味覚と嗅覚のみがまさにその本性からして排他11判別的(discr iminatory) であるこ
と、そしてこの二つの感覚のみが、特殊としての特殊へ関係するのに対して、客観的感覚に与えられる対
象は全て、他の対象とその属性を共有すること、つまりユニークなものではないということにありました。
更に言えば、「私が快または不快を感じること」は、味覚及び嗅覚において、圧倒的な仕方で現前します゜
それは直接的(immediate) で、いかなる思考や反省にも媒介されていない(unmediated) のです。これら
の感覚は、見たり聴いたり触れたりした物のような客観性が無である、あるいは少なくとも不在である、
ヽヽヽ
という意味で主観的です。私たちが味わう食べ物は私たち自身の内部にあり、またバラの香りもある意味
ヽヽ
でそうであるがゆえに、これらは内的感覚です。「私が快または不快を感じること」は、「私の同意するこ
とまたは同意しないこと」とほぼ同じです。この問題のポイントは、私が直接的に触発される、というこ
とです。まさにこの理由から、ここでは正/ 不正についての議論は起こりないのです。「趣味については
議論しえずDe唇stibus non disputandum est」。私が牡蠣を好まないとすれば、いかなる議論をもってしても、
牡蠣を好むように私を説得することはできません。別の言い方をすれば、趣味に関する事柄で私たちが困
惑させられるのは、それらが伝達不可能であるからです゜
、‘‘‘、‘‘
これらの謎に対する解決は、構想力及び共通感覚という他の二つの能力を名指すことによって示すこと
ができます゜
(146)
構想力は不在のものを現前させる能力ですが、この構想力は対象を、私が直接対面する必要がないけれ
ど、ある意味内面化しているものへと変容させます。そのため、私はその対象によって、まるでそれが非
客観的な感覚によって私に与えられたかのように、触発されうる状態に置かれます。カントは、「美しい
(147)
のは、たんなる判定のうちで快を与えるものである」と言っています。つまり、それが知覚において快を
与えるかどうかは重要ではないのです。単に知覚において快を与えるだけのものは、楽しみを与えるか
もしれませんが、美しくはないのです。美しいものは、表象11再現前化において快を与えます。構想力が
123 カント政治哲学講義第十一講義122
美しいものを用意すると、私がそれについて反省できるようになるからです。それが「反省人がもはや直接的な現前によって触発されえない時つまりフランス革 命の実際の行為に関与た注視者11観客たちのように、人が関与していない時||'には、表象の中でその人の(心に)触れ、触発
するものだけが、是(正)か非(不正)か、重要か無関係か、美か醜か、あるいは、それらのといった判断の対象になりうるのです。そうなると、問題になるの はもはや趣味ではなく故なら、それがなお趣味の場合のように人を触発することがあったとしても、その人は今ることで、それとの間に適当な距離を確立してい るからです。その場合の距離とは、是認や否認つまり、あるものをその固有の価値において評価するための必要条件である、隔たり、非関与性 (uninterestedness) です。対象を除去することによって、公平11非党派性のための諸条件が確立される
のです゜
共通感覚について言えば、カントは非常に早くから、最も私的(
private) で主観的な感覚のように見え
るものの内にも、非主観的なものがあるということに気づいていました。この認識は、次のようにれています。趣味に関して、以下の事実があります。「美しい ものが経験的に関心を引く(
in terest )
のは、
ただ社会のうちだけである。.:·:荒涼とした島にひとり取り残された人間は、自分だ屋も自分自身も飾ることをしないであろう。:·:•ひとはある対象に ついての満足を他のることができなければ、その対象に満足することはなし」。あるいは、「私たちは自分の趣それと一致しない時には、恥かしく思う」—| ゲームをしている時、私たちはズルをすると内心蔑みますが、恥かしく思うのは、それがばれた場合だけです。あるいは、「趣味について(149 遵は他者のために」、つまり、他者に気に入られるために、「自分の好みを断念しなければならなし」とも言
っています。最終的には、最も徹底した言い方として、「趣味においてエゴイズムが克服される」とさえ
言っています、つまり、私たちが、言葉の本来の意味において「思慮深くconsiderate 」なるということです゜
私たちは他者のために、自分の特殊な主観的条件を克服しなければなりません。別の言い方をすれば、非
客観的な感覚の内の非主観的要素とは、間主観性です(思索するには一人にならねばなりませんが、食事を楽し
むには仲間が必要です)。
判断、特に趣味判断は、常に他者及び他者の趣味について反省し、他者が下す可能性のある判断を考慮
に入れます。こうしたことが必要なのは、私が人間であり、人間の仲間の外で生きられないからです。私
が判断を下すのは、この共同体の一員としてであって、超感覚的世界(asupersensible wor ld)の一員とし
てではありません。超感覚的世界というのは、恐らく、理性は備えているものの、同じ感覚器官を具えて
はいない存在者たちの住む世界でしょう。そこでは、そうした存在者としての私は、他者がどう考えるか
に関わりなく、自分に与えられる法(則)に従うことでしょう。この法(則)は自明であり、その本質か
らして有無を言わせないものです。判断力と趣味の基本的な他者指向性は、この感覚自体(味覚)の元々
の本性、その絶対的に特異な本性と、真っ向から対立しているように見えます。そう思うと、判断の能力
がこの感覚から派生するという推論は誤りではないか、と結論したいという誘惑に駆られます。カントは、
この推論が意味するところを十分承知したうえで、これが正しい推論だと確信し続けていました。また彼
自身が気に入っていた、最も説得力のある洞察に、美しいもの(the Beautifu l) の真の対立項は醜いもの
ヽヽヽヽヽヽ(150)
ではなく、「嫌悪感11吐き気(disgust) をもよおさせるもの」であるというのがありますが、Ugly)
(the
これは
125 カント政治哲学講義第十一講義124
判断力の内には二つの心的作用(men taloperat ion)があります。―つは構想力の作用です。そこでは、
もはや現前していない対象、つまり直接的な感性的知覚から引き離され、したがつてもはや私たちを直
接触発することのない対象が判定11判断(
judge) されます。ただしこの場合、対象は外的感覚からは引
き離されているものの、今度は内的感覚の対象となるわけです。不在のものを思い浮かべる11表象する
(represent) 時、私たちは、私たちに対象(ob ject) を客観的に(in objectiv ity)与える感覚を、いわば、閉
じているのです。趣味11味覚(taste) の感覚は、いわば、私たちが自分自身を感じる感覚です。それは内
的な感覚なのです。したがつて、『判断力批判』は「趣味批判」から発展してきた、と言うことができます゜
こうした構想力の作用が、「反省の作用」の対象を準備するのです。そしてこの第二の作用ーー'反省の作
用i こそが、あるものを判定11判断する現実の活動なのです゜
この二重の作用は、全ての判断のための最も重要な条件である公平11非党派性、あるいは「没利害的満
足disinterested deli ght 」を確立します。私たちは目を閉じることによって、可視的な事物の公平な注視者、
当該の事物によって直接触発されない注視者になります。盲目の詩人になるのです。また、外的感覚によ
って知覚したものを内的感覚の対象とすることによって、私たちは感覚的に与えられたものの多様性を集
約し凝縮します。そうやって私たちは精神の眼によって「見る」、つまり、特殊的ものに意味を与える全
体を見ることができるようになるのです。各行為者11演技者が自分の役割(part) しか知らない、あるいは、
第十一講義
全くもって的確です。そして、カントがもともと『道徳的趣味批判』を書うにしましょう。つまり、美しいものの現象というのは、言ってみれば、こうした彼が 初期に行なった考察の遺物なのです。
127 カント政治哲学講義第十一講義126
『判断力批判』第三九節
演出の流れ
るいは否認」
(actmg)
をもつ人間が、
「どうしてある強烈な苦痛は、
に対する未亡人の悲しみ)。
るかもしれません。しかし、
感官の感覚(sensati 0 n of the senses 11 Smnenempfindung) は、「あまねく等しい仕方で伝達可能である。何
故なら、あらゆる人がわれわれの感官と同じ感官をもつと想定できるからである。しかしこのことは、個
別の感官について端的に前提することはできない」というのです。これらの感覚は私秘的(private) です゜
また、いかなる判断もそこに含まれていません。私たちはただ受動的に反応するだけであって、何かを意
「感覚の伝達可能性について」
の見通しに従って判断すべき時でさえ、
て知らないのに対して、注視者11観客の利点は、
ここで次の問いが生じてきます゜
に私たちの内的感覚に現前させます゜
に従属しているのです。
また、
事する学問についての楽しみのように)。
全体の内の自分の役割に関わる部分につい
劇(play) を―つの全体として見ていることにあります゜
行為者11演技者は元来、役割的11部分的11党派的11不公平(partial) なのです゜
反省の作用の基準は何か?
どうしてある楽しみは、
構想力の作用は、不在のものを直接的
つまり、
この内的感覚は排他11判別的で、「快感だit, pleases 」あるいは「不
、‘‘、
快だit -displeases 」というような語り方をします。それは、味覚(taste) のように選択するがゆえに、趣
、‘‘‘
味(taste) と呼ばれます。しかしこの選択自体が、更に別の選択に従属しています。私たちは、快感であ
る合leasing) という事実そのものを、是認あるいは否認することができます゜ 快もまた「是認あ
カントは次のような例を挙げています。「とほしくても善良な考え
彼を愛してはいるがけちであった父親の遺産に対してもつ喜び」
苦痛を受けるひとにそれでも満足を与えうるのか
の例。あるいはその逆に、
(多大な功績のあった夫の死
そのうえさらに快を与えうるのか(われわれが従
そのさらに、どうしてある苦痛(たとえば、憎悪、嫉妬、復讐心)は、
函)
うえさらにわれわれに不快を与えるの力」。こうした是認や否認は全て、後から付け加えた思案です。学
問的探究を行っている時に、自分がそれに従事していることに喜びを感じていると漠然と気づ<ことがあ
つまりそれまでやっ後でそのプロセスについて反省する時になって初めて、
、‘‘‘
ていたことに忙殺されなくなって初めて、それを是認するという付加的な「快」を得ることができるので
す。こうした付加的な快においては、快を与えるのはもはや対象ではなく、私たちが「それは快を与える
ヽヽ
ものである」と判断することが、快を与えるのです。このことを自然あるいは世界の全体に関係付けるな
らば、世界あるいは自然が私たちに快を与えることに、私たちが快を感じる、と言うことができるでしょ
う。是認する行為それ自体が快を与え、否認する行為それ自体が不快を与えるのです。そこで問題になる
のは、私たちがどのようにして是認と否認の選択をしているのか、ということです。先の例に即して考え
れば、容易に―つの尺度(criterion) が思い浮かんできます。伝達可能性(communicability) あるいは公共
II公開性(publicness) という尺度です。父親の死に際して過度に喜びを表そうとする者はいないでしょう
し、あるいは、憎悪や妬みの感情を表わす者もいないでしょう。他方で、学問的探究に喜びを感じている
ことを公表するのに良心の呵責を覚える者はいないでしょうし、また、多大な功績のあった夫の死に際し
て悲しみを隠そうとする未亡人もいないでしょう。
その場合の尺度となるのが伝達可能性であり、それを決定する基準(standard) が共通感覚(common
sense) です゜
129 カント政治哲学講義第十二講義128
『判断力批判」第四0 節
のままに想像したり、それについて反省したりする時のように、自発的になることはありません。
その対極に、道徳的諸判断があります。カントによれば、道徳的諸判断は必然的です。つまり実践理性
によって命じられているのです。道徳的諸判断は伝達されることがありますが、この場合の伝達は二次的
なものです。道徳的諸判断はたとえ伝達されえないとしても、依然として妥当するでしょう。
そして第三に、美しいものについての判断、あるいは美しいものにおける快があります。「この快は
‘、、‘
•••

: 構想力によるある対象の普通の把捉(apprehension) 〔知覚(perception) ではなく〈Auffas sun g (把
握)〉です〕に伴う。この把捉は、きわめて普通の経験のためにも行使しなければならないような判断力
の手続きを介して……行われるのである」。私たちが世界について為すいかなる経験の内にも、某かそ
うした判断があるのです。この判断は「万人に前提されてよい普通の健全な悟性(geme iner und gesunder
Verstand) 」に基づいています。では、私たちが共通に持っているにもかかわらず、感官の一致は保証し
ないこの「共通感覚common sense」は、一体どのようにして他の感覚から区別されるのでしょうか?
「一種の共通感覚(Sensus Communis) としての趣味について」
用語法が変化しています。ここでは、「共通感覚common sense」という語が、私たちの他の諸感覚のよ
うな―つの感覚(sense) を意味するものになっていますーそれは、極めて私秘的でありながら、万人が
同じく持っている感覚です。カントはラテン語を使うことによって、別のことを示唆しようとしていま
す。それは、私たちを共同体(community) に適合させる、ある特別な心的能力(ドイツ語で言えば、人間悟
性(Menschenverstand)) と同様に、私たちを共同体(C0 mmurnty) に適合させる、特別な感覚です。「普通
II共通の人間悟性(common understanding of men)は: ・・・・人間という名称を要求するものだけに期侍され
うるもののうちで最小限度のものとみなされている」。この能力によって、人間は動物や神々から区別さ
れます。この意味11感覚(sense) において明らかになるのが、まさに人間の人間性なのです。
共通感覚(sensus commun is)は、伝達(comm unication) 、つまり言葉(speech) が依拠するものであるがゆえに、
ヽヽヽヽ
特殊人間的な感覚です。私たちの欲求を知らせる、あるいは恐れや喜びなどを表現するのに、私たちは必
ずしも言葉を必要としません。身振りで十分でしょうし、また長い距離を繋ぐ必要がある場合でも、音が
十分に身振りの代用品となるでしょう。伝達は表現とは違います。そういうわけで、「精神異常に見られ
る唯一っの一般的徴表は、常識(sensus commun is 共通感覚(共通論理))の欠如と、それと入れ代わりに〔精
(152)
神異常者の人格の内に〕現われる論理的強情(s ensus privatus 私的感覚(私的論理))である」というのです。
狂気の人間も、自分の欲求を明らかにし、他人に知らせるための表現力を失っていないのです。
ヽヽヽ
共通感覚(sens us c 0 mmums)は、ある共通の感覚(geme inschaft li cherSinn) の理念、すなわち、次のよ
うな判定能力の理念と理解されなければならない。この判定能力は、自らの反省において他のあらゆ
ヽヽヽ
るひとの表象の仕方を思想のうちで(アプリオリに)顧慮する。それは、いわば総体的な人間理性と
自分の判断を照らし合わせるためである、·: ·:こうしたことは、ひとが自分の判断を他のひとびとの
現実的判断というよりも、むしろたんに可能な諸判断と照らし合わせて、われわれ自身の判定に偶然
付随する諸制限をたんに捨象して、他のあらゆるひとの立場に自分を置き換えることによって起こる
131 カント政治哲学講義第十二講義130
のである。……ところで、反省のこうした作用は、おそらくあまりにも技巧的すぎるので、われわれ
ヽヽ
が共通感覚(gemeiner Sinn) と呼ぶ能力にそれを帰することはできないようにみえる。しかしながら、
この作用は、抽象的な諸方式として表現される場合にだけ、そのようにみえるのである。普遍的規則
として役立っべき判断を求める場合には、魅力と感動を捨象することほどそれ自体として自然なこと
(153)
はないのである。
この後に、この共通感覚の諸格率が続きます。「自分で考えること」(啓蒙の格率)。「他のあらゆるひと
の立場に立って考えること」(拡大された心性(enlarged mentality) の格率)。そして、一貰性の格率、つまり
(154)
「自分自身と一致して考えることmitsich selbst einstimmig denken 」。
これらは、認識の問題ではありません。真理は強制的であり、いかなる「格率」をも必要とされません。
格率が適用され、必要となるのは、もっぱら意見や判定の問題です。また、道徳問題において、行為の格
率が、行為する人の意志の質を証明するように、判断力の格率は、共同体感覚(community sense) によっ
て支配される世俗的問題(wor ldlymatters) に対するその人の「考え方Denkungsart 」を証明します。
その人間の天賦のオが達する範囲と程度とがどれだけ小さくても、それにもかかわらず、他の多くの
ひとがその中にいわば括弧づけられている判断の主観的な私的諸条件を乗り越えることができ、(他
、‘‘‘、
のひとびとの立場へと自分を置き換えることによってのみ規定し得る) 一般的立場(ageneral standpoint) から、
、‘‘、‘‘‘
自分自身の判断を反省するならば、このことは、そのひとが、拡大された思考(enlarged thought) の
ここから、通常、常識(
com mon sense) と呼ばれているものと、共通感覚(sensus communis)
確な区別が看て取れます。趣味とは後者の意味系列に属する「共同体感覚gemeinschaftlicher Sinn

この場合の感覚とは、「精神に対する反省の影響」を意味します。この反省は、あたかも一っの感るかのように、私を触発します。これはまさに趣味の感覚、排 他11判別的で選択的な感覚です。「さらに
ある与えられた〔知覚ではなく〕表象についてのわれわれの〔感官に似た〕感情を、概念を(156)
趣味は、
、‘‘‘、‘‘‘
ず一般的に伝達可能にするものの判定能力であると定義することができるであろう」。
の間の明
であり、
、‘‘‘‘、
それゆえ趣味は、与えられた表象と(概念を介さず)結合している諸感情の伝達可能性をア判定する能力である。
....
:自分の感情のたんなる一般的伝達可能性は、それ自体ですでにわれわれに
対するある関心をともなわなければならないと想定されてよいとすれば、
....
:どのようなわけで趣味
(157)
判断におけるこの感情はいわば義務としてあらゆるひとに要求されるのかが説明されうるであ(155)
持ち主であることを示している。
133 カント政治哲学講義第十二講義132
これから、特殊カント的な意味での共通感覚についてこれまで行なってきた私たちの議論に決着を付け
ることにしましょう。カント的な意味での共通感覚(common sense) とは、私的感覚(sens us privatus) か
ら区別されるものとしての共同体感覚(sens us c 0 mmunis)
で判断力が訴えかけるものであり、
つの感情として全く私的で伝達不可能に見える「私が快または不快を感じること」は、現にこの共同体感
覚に根ざしており、他の全ての人々とその感情を考慮に入れた反省によっていったん変容されると、伝達
に対して開かれたものになります。これらの判断の妥当性には、
ありません。
といった、
この可能な訴えこそが、
認識命題や科学的命題は、
自分の判断について、
『判断力批判』
第十三講義
正確に言えば、
制されて、有るがままのものについて語っているのです)。
のことです゜ この共通感覚は、
判断にその特殊な妥当性を与えるのです゜
認識命題や科学的命題のような妥当性は
判断ではありません
あらゆる人の内
(「空は青い」とか「――プラスニ
は四である」と言う時、人は「判断している」わけではありません。人は、自分の感覚ないし自分の精神の明証性に強
同じ様に、「これは美しい」とか「これは間違っている」
他の誰かに同意するよう強制することはできません(カントは道徳的判断
を反省と構想力の産物とは考えていません。したがつて、厳密に言えば、後者は判断とは言えません)。つまり、人
は他のみんなの同意を「せがむwoo 」か「乞い求めるcourt」ことしかできません。そしてこの説得的活
動において、人は実際「共同体感覚」に訴えます。言い換えれば、人は判断を下す時、共同体の一員とし
て判断を下すのです。「判断力の正しい使用はきわめて必要であり、
したがつて、健全な悟性(sound understanding 11 gesunder V erstand)
sense (共通感覚)〉を指します〕という名前で呼ばれているのは、
また一般的にも要求されているので、
〔この言葉は通常の意味では、〈common
(58) u0 まさにこの能力にほかならなし」
四_節ーー「美しいものに対する経験的関心について」
ここで短く、『判断力批判』第四一節を見ておきましょう。私たちはこれまでしい判断のか応応条件である、ということを見てきました。共同体感覚によっにな るのです。消極的な言い方をすれば、このことは、判断力に関する限り、そのような、私的な諸条件や状況を捨象することができることを意味します。私的ヽヽ
付けますが、私たちは構想力と反省によって、そうした条件から解放(liberate) され、判断力に特有の美
点である相対的な公平さ11非党派性に到達することができます。その人の趣味の特異性が低けど、それは一層よく伝達されるようになります。ここでもまた、 伝達可能性が試II 非党派性は、カントにおいては「没利害性disinterestedness 」と呼ばれます。つまり、美しいものにお
ける利害を離れた快です。この没利害性は、是11正(r ight)/非11不正(wrong) という言葉には含意され
ていませんが、美/醜という言葉には含意されています。したがつて、第四一節関心
Interest in the Beautif ul」について語っているとすれば、それは実際のところ、没利害性II 利害関係
interes t」を持つことについて語っているのです。ここでの〈interes t(利害11関心)〉は、有用
性と関係があります。自然を見渡せば、みなさんが直接的な関心(interest) を抱く多くの自然な対象があ
135 カント政治哲学講義
134
りますが、みなさんが関心を寄せるのは、それらが生のプロセスにとって有用であるからで見るところでは、問題は自然の過剰にあります。つまり、例えば水晶 のように、そ外には、文字通り何の有用性もないように見える多くの事物があるということですを美しいと呼ぶことができるがゆえに、「がいか変応がが、)ぃ 恥」を抱て「全ての関心が成立する」のです(ノートに書き留めた省察の一っでカントは、きで(ohne
Eigennutz) 愛すること」を教える、と記しています)。この関心の独特な性質は、それがうちでだけ関心を引き起こす」ことにあります。
杜会への衝動が人間にとって自然であると認容され、だが社会に対する有能性ヽヽヽ
性が、社会〔形成〕のために規定された被造物としての人間の要件として、それゆ(
Humanitii. t)
ヽヽ
に属する特性として認容されるとすれば、趣味もまた、ひとが自分の感情すらも他のあら伝達できるようなすべてのものの判定能力として、したがつて各人の自 然的傾向性促進する手段としてみなされることは、間違いないであろ吠。
『人間の歴史の臆測的始元』でカントは、「人間の使命の最大の目的は社交性であ紅」と述べており、こ
れからすると、社交性(sociability) こそが文明のプロセスを通して追求されるべきゴールであるかのよう
に聞こえます。しかし、ここではその逆に、社交性は、人間の人間性のゴールではなく、が分かります。つまり、人間がこの世界にだけ属する限り、社交性こそ がまさに人間、‘‘‘
ことです。この考え方は、人間の相互依存は必要と欠乏(needs and wants) のために仲間に依存すること
ヽヽヽヽ
であることを強調する他の全ての理論とは、根本的に一線を画しています。カントは、私たちの心的諸能
力(mental faculties) の少なくとも一っ、つまり判断の能力が、他者の現前を前提にしていることを強調し
ます。そして、この心的能力は、私たちが判断力という用語で呼んでいるものには限定されません。カン
トの場合、そこには、「感情(feeling) や情動(emotions 11 Empfindungen) はそれらが一般に伝達可能であ
る場合にのみ価値があるとみなされる」、という観念が結び付いています。つまり、判断力には、言って
みれば、私たちの魂の機構全体が結び付いているのです。伝達可能性は明らかに、拡大された心性に依拠
しています。私たちは他の人物の立場から思考することができる場合にのみ、自分の考えを伝達すること
ができるのです。そうでなかったら、他者に出会うこともなく、他者が理解できるような仕方で話すこと
もないでしょう。自分の感情、自分の快、利害を離れた喜びなどを伝達することによって、私たちは自分
ヽヽ
の選択を語り、自分の仲間を選んでいるのです。「私はピタゴラス派とともに正しい意見をもつぐらいなら、
むしろプラトンとともに間違っている方がいいで中」。結局、私たちが伝達することができる人たちの範
囲が広ければ広いほど、伝達される対象の価値も大きくなるのです。
各人がこうした対象について覚える快が
ぬものであり、
〔その人がその快を他者と共有していない限り〕
それだけでは著しい関心をひかないとしても、
あるという理念は、
取るに足ら
それでもこの快が一般的に伝達可能で
(162)
この快の価値をほとんど無限に増大させるのである。
137 カント政治哲学講義第十三講義136
この点で
ズに結び付きます゜
各人が、
『判断力批判』は、永遠平和の内に生きる、統一された人類についてのカントの熟考とスムー
カントが戦争の廃絶に関心を抱き、
めではありません。戦争の残酷さ、流血、
ぶながら結論付けているように、戦争の廃絶は、
要条件なのですーー加窯“しぶしぶなのは、
生命の犠牲の内に崇高なものがある、
残虐行為の除去のためですらありません。
拡大された心性を可能な限り最大限拡大するための必
戦争が廃絶されると人が羊のようになってしまう可能性がある、
といった理由からです゜
〔快あるいは没利害的満足感についての〕
待しかつ要求するのであれば、
するかのようである
奇妙な平和主義者になったのは、
カントが時折しぶし
一般的伝達を顧慮することを、
争いの除去のた
あらゆるひとに期
あたかも人間性そのものによって厳しく命じられた根源的契約が存在
(163)
〔と見なすことのできる地点に私たちが到達したことになる〕。
カントによれば、こうした契約は単なる理念であって、こうした事柄についての私たちの反省を統制す
ることはないけれど、実際、私たちの活動を鼓舞するだろう、というのです゜人々(men) が人間的(human)
であるのは、あらゆる単独の人の内に現前するこうした人類(mankind) の理念によってであり、人々は、
この理念がその判断力のみならず活動の原理になっている度合いに応じて、文明化されている、あるいは
人間的であると呼ばれうるのです。まさにこの点において、行為者と注視者が一体となるのです。つま
り、行為者の格率と、注視者が世界の光景を判定する際に従う格率、「基準standard 」が一っになるので
す。活動のための定言命法というべきものがあるとすれば、それは次のようなものになるでしょう。「常に、
この根源的契約がそれを通して一般的法則へと現実化されることが可能になるような格率に基づいて行為
せよ」。カントが『永遠平和のために」という論文を書き、その第一章の予備条項及び第二章の「を詳述したのは、まさにこうした視点からであって、単に平和 への愛からではありません。第一章項の中では、第六条項が最も重要かつ最も独創的です゜
いかなる国家も他国との戦争において、将来の平和に際し、相互の信頼関係を不可能にしてしまうよ
(64)
うな敵対行為をすべきではなし
第二章の諸条項の中で、社交性と伝達可能性から直接的に導き出されるのは、第三条項です゜
ヽヽ(165 )
世界市民法は、普遍的な歓待(h
ospitality)をうながす諸条件に制限されるべきである。
もしそうした人類の根源的契約が存在するならば、「一時に滞在する権利、友好を結ぶ権利」は譲ることのできない人権の一っになるでしょう。人間が、
そうした権利を有するということは、地球表面の共同所有権に基づいている。つまり地球の面で、人間は無限に分散して拡がることはできず、結局は並存するこ とを互いに忍び合わね、‘‘‘‘‘‘ い:・…〔こうしたことすべては〕地球上の一っの場所で生じた法の侵害が、あらゆる場所139 カント政治哲学講義第十三講義138
るほどにまで発展を遂げた
は次のように結論します〕
〔という事実によって消極的に証明することができます。ここからカント
羞巴界市民法の理念は、もはや空想的で、とっびな考え方ではな区。
既に話題にしたことを確認しておきましょう。人は常に、自分の共同体感覚、自分の共通感覚に導か
れながら、共同体の一員として判断します。しかし最終的な分析として、人は、人間であるな事実によって、世界共同体の一員である、と言うことができます。 これが人の「世界市民的なあり方
cosmopolitan existence 」です。人が政治的な事柄に関して判断を下し、行為する時、人は自分が世界市であり、したがつて世界観察者(Welt betr achter)
、世界注視者でもあるという現実ではな<_| '理念
に基づいて、自分の位置を見極めねばなりません。
最後に、残された困難のいくつかをクリアすることを試みることにしましょう。判断力における主要な
困難は、判断力が「特殊的なものについて思考する能が」であることにあります。瞑象とを意味します。したがつて、判断力は特殊的なものと一般的なものを神 秘的な仕方で結合するる、ということになります。一般的なものが1 規則•原理·法則としてー与えられていて、判断力が、
その一般的なものに特殊的なものを包摂するだけでよい場合には、そうした結合は比較的容易でし、「特殊的なものだけが与えられており、判断力が特殊的なも ののために普遍的なものを見出さ(168)
らない場合には」、困難は大きくなります。というのも、そのための基準を経験から借りること、外部か
ら導き出すことができないからです。特殊的なものを他の特殊的なものによって判断することはん。特殊的なものの価値を決定するには、第三の何か (atertium quid)、あるいは比較のための第一二項(a
tertium comparat10rns) 、つまり‘- ―つの特殊的なものに関係付けられているものの、そのいずれからも区
別される何かが必要になるのです。カントの内には、実際のところ、この困難に対する二つの全く異なる
解決を見ることができます゜
判断に達するための反省が基づくべき、本当の「比較のための第三項」として、カントには二つの考え
方があるように思われます。第一の考え方は、政治的著作の中に、また時折『判断力批判』の中に現われる、
人類全体の根源的契約という理念です。この理念から人間性(human ity)の概念が導き出されます。人間
性とは、この世界、何世代にもわたって共同で居住し、共有してきた―つの天体であるこの地球上で生を
受け死んでいく人間たちの人間らしさ(humanness) を現実に構成しているものです。『判断力批判』の中
には、合目的性(purpos iveness) という理念も見出せます。自らを現実化するための根拠を必要とし、か
つ、それを自らの内に含む特殊者としてのあらゆる対象には‘―つの目的がある、とカントは述べていま
す。無目的であるように見える対象はもっぱら、美的対象、そして人間だけです。この両者については、「い
かなる目的のためにquernad finem? Jと問うことはできません。というのも両者とも、何かにとって有用
(good) であるということがないからです。しかし私たちは、無目的な芸術的対象にも、一見無目的に見
える自然の多様性と同様に、人間に快を与え、世界の内でくつろいだ気分(at home) にさせる、という「目
的」がある、ということを確認しました。このことは決して証明されません。しかし合目的性は、反省的
判断において私たちの反省を統制する理念なのです。
(169)
カントの第二の解決は、範例的妥当性(exemp laryvali dity )にあります(「範例は判断力の歩行器である」)。私は、
この第二の解決の方がはるかに重要だと見ています。では、これがどういうことか見ていきましょう。あ
141 カント政治哲学講義第十三講義140
らゆる個々の対象例えば一個の机ーには、
対応する概念があります。これは、
ようなものとして理解することができます。
の仕方でそれに適合しなければならないような、
の型を持っています゜
から全ての二次的性質を取り去っていくならば、
、‘‘、
わば抽象的机(abstract table) が残ります゜
判断に関わってきます゜
私たちは前に、
学は、
あるいはその逆に、
例えば、
そういう机を考え出して、それを、
等々。
ミネルヴァの臭のように、
ったのは全くもって正当です゜
私たちがそれによって机を机と認めるような、
「プラトン的な」
見なすということがあるかもしれません
つまり、
イデア
人は、
(理念)ヽあるいはカントの図式(schema) の
自分の精神の眼の前に、あらゆる机が何らか
ヽヽヽヽヽ
―つの固式的な、あるいは単に形相的な机(f0 rmal table)
人がこれまでの人生で見てきた多くの机から出発し、
机が実際どうあるべきかの範例、
それに
それら
全ての机に共通するミニマルな属性を含んだ机一般、し>
更にもう―つの可能性が残されています。これは認識ではなく、
可能な限り最高の机だと判断できるような―つの机に出会う、もしくは
、‘‘‘
いわば範例的机(exemplary table) と
(「(範)例example 」という言葉は、「ある特殊的なものを選び出す」と
いう意味のラテン語の動詞〈eximere 〉に由来します)。こうした範例は、
方では定義しえないような一般性を顕わにする特殊的なものであり、
ヽヽヽ
アキレスのようである、
技者の不公平11党派11部分性のことを話題にしました。これは、
カントの用語で言えば、美しいものは目的それ自体です。
まさにその特殊性において、他の仕
かつ特殊的であり続けます。勇気は
事件に巻き込まれているがゆえに、決して全体の意味を見通すことのない、
全ての物語について言えることです。哲
日の暮れた黄昏時になってようやく、その翼を広げる、
ただしそれは、美しいものや、行為(deed)
行為者11演
とヘーゲルが語
それ自体には当てはまりません。
何故なら美しいものの全ての可能な意味は、美
しいもの自体の内に含まれており、他のものを参照しないーー言ってみれを持たないー—からです。カント自身の内に次のような矛盾があります法則です。しか し同時に、人間の尊厳は、人間(私たちの一人一人)がそうした特殊者としてーただし比較なしに、かつ時間とは独立にー人類一般を反映(reflect) するもの
と見られることを要求します。言い換えれば、まさに進歩という観念それ自体ーもしそれが環境の変化
や世界の改善以上のものだとすればーが、カントの人間の尊厳という概念に矛盾するのです。進ずることは、人間の尊厳に反します。更に言えば、進歩とは物語 に終わそのものの終わり11 目的(
end)は、無限の内にあります。私たちが静かに仲み、歴史家の後差しで歴史を振り返ることのできる地点は存在しないのです。
143 カント政治哲学講義
第十三講義142
(原注)
『カント全集一四巻』-O-――頁(三I
, 115))

(1)H目s Saner, Kanis rセ,g vom Kneg zum Frieden, vol. 1 : Widerstreit und Einheil : r10ge zu Kanis politischem Denken Muruch :
R•
Piper•
Verlag, 1967 ; English translation by E. B. Ashton, Kanl s Political Thoughl : !Is Origin and Developmenl (Chicago : University of
Chicago Press,
1973•
(2)〔これは、LaPhilosophie Polilique de Kanl, vol 目1e4 0 f the Annales de Philosophie Politique Paris : lnstitut International
de Philosophie Politique, 1962のことと思われるー編者注〕
(3)I目nanuel Kant, On Hislory, ed. Lewis White Beck,
trans

L. W. Beck, R. E. Anchor, and E. L. Fackenheim, Library of Liberal
Arts Indianapolis : B 0 bbs , Merrill,
1963•
(4) Kanis Polilical Wrilings, ed. Hans Reiss,
trans•H·B
.
Nisbet Cambridge, Eng. : At the University Press, I 971.
(5) Kurt
Borries•
Kanl als Poliliker: N ur Slaals , und Gesellschaftslehre des Krilizismus Leip N ig,
1928•
(6) Kant, On Hislory, ed. Beck,
p•
75 (カント「万物の終わり」I ヵント全集一四巻j岩波書店、二oo0 年、二三五頁〔旨I,
332)) , and p.54 (カント「人間の歴史の憶測的始元」二同、九六頁).
(7) Ibid.,
p•
25 (カント「世界市民的見地における普遍史の理念」こ同‘―-O頁).
(8) Ibid., p.59 (「人間の歴史の憶測的始元」〔同‘-O三頁).
(9) Crilique of Judgmenl, ァ83 (カント「判断力批判」i 『カント全集九巻j、二000 年、一〇七I- ―四頁)〔アー
レントは碁本的に『純粋理性批判」についてはノーマン・ケンプ11スミス(Norman Kemp Smith) による英訳(New
York: St. Martin's Press, 1963) を、『判断力批判』についてはJ.H· バーナード(J• H. Bernard) による英訳(New
York: Hafner, 1951) を参照している。しかし、他の翻訳を用いる場合と同様に、これらについても実際に用いるに
際しての独自の小さな変化を加えている。他の著作については、どの訳か特定されていない場合、アーレント自身
のものと推定してよいだろ、つ—編者注〕
(lo) On Hislory, ed. Beck
,p
・60 (「人間の歴史の憶測的始元」[
(11)
Ibid
p.,•
54 (同、九六頁)
(12)
Ibid
p.p, •
78 , 79 「万物の終わり」、同、二三九頁[―部改訳した)
(13) Immanuel Kant,
0 bservations on the Feeling of the Beautiful and Sublime, trans. John
T•
Goldthwait Berkley: Umvers1ty of
Califi
0
rnia Press, 1960 (カント「美と崇高の感情にかんする観察」i 「カント全集二巻』、二000 年、三一九ー―二八三頁)
(14)ごtter to Christian Garve, September 21,
1798

Kant, Philosophical Con錢pondence 1759 , 99, ed. Amulf Zweig Chicago: University
ofChicag 0 Press, 1967,
p•
252 (『カント全集二二巻j、二00 五年、クリスチアン・ガルヴェ宛書簡〔一七九八年九月ニ―
H 付〕、三八一頁)を参照。
(15) Letters to Marcus Herz, November 24, 1776, and August 20, 1777. Philosophical Correspondence 1759 , 99, ed. Zweig,
pp•006"
89 (『カント全集ニ―巻j、二oo 三年、マルクス•ヘルツ宛書簡〔一七七六年―一月二四日付及び七七年八月二0
日付〕‘-O八頁及び―一三頁)
(16) Lewis White Beck, A Commentary on Kant苔ritique of Practical Reason Chicago: University Press, 1966,
p•
6(L.w .ベッ
ク/藤田昇吾訳『実践理性批判の注解j新地書房、一九八五年、三一二八頁).
(17) Immanuel Kant,
"Reflexionen zur Anthropologie,"
no•
763 (イタリック〔傍点〕編者) , In Kants Gesammelte Schrifien,
Prussian Academy editi 0n" 29 vols. Berlin: Reimer & de Gruyter, 1909 ,00 3,
15:333•
(18) Immanuel Kant, Observations on the Feeling of the Beautiful and Sublime, trans. John
T•
Goldthwait (「美と崇高の感情に
かんする観察」ぃ『カント全集二巻』、三二五ー三二六頁).
(19) Alfred Baumler, Kanis Kritik der Urteilskraft: lhre Geschichte und Systematik, vol.
I•
Das Irrationalitiitsproblem in der Asthetik
und Logik des 18. Jahrhunderts bis zur R ` ritik der Urteilskraft Halle: Max Niemeyer Verlag, 1923, p.15.
(20) Immanuel Kant, Logic, trans.
R•
Hartman and W. Schwarz, Library of Liberal Arts Indianapolis: Bobbs , Merrill, 1974, p

29
(カント「論理学」]"カント全集一七巻」、二oo 一年、三五頁[―部改訳した)〔ここでアーレントは、カントの『形
而上学講義」(『カント全集一九巻」、二oo 二年、二四五頁(蓉戸5,6))のことも念頭に置いているー編者注〕
(21) Gottfried Leibniz, "Principes de la Nature et de la Grace, fondes en raison" (1714) ,
par

7 (ライプニッツ/米山優訳「理
性に基づく自然と恩寵の光」i 『ライプニッツ著作集九巻—後期哲学」エ作舎、一九八九年、二五一頁)
(22) Critique of Judgment, ァ67 (「判断力批判」i 『カント全集九巻』、六七節三六頁)
145 注
144
(2)
Martin Heidegger, Bezng and Time, trans. John Macquarne and Edward Robmson (New York and Evanston: Harper & Row, 3
1962) , e.g., ァ4 (ハイデソガー/辻村公一+ハルトムート・ブノフナー訳「有と時」[[ハイテガJ創文社、
一九九七年、―-O_――五頁).
(24) Gerhard Lehmann, Kants Nachlaj]werk und die Kritik der Urteilskraji (Berlin, 1939) ,
pp

73
'
74.
(25) Critique of Judgmentァ67 (「判断力批判」i『カント全集九巻』、六七節――工ハ頁)
(26) Ibid., ァ76 (同、七六節七―――頁] 一部改訳した)
(27) Ibid., ァ77 (同、七七節八0ー八一頁).
(28) Ibid., ァ78 (同、七八節八二頁)
(29) Ibid., Preface (同、序文、一三頁[―部改訳した).
(30) Kant, Introducti 0 n to The Metaphysics of Morals, secti 0 n I : "Of the Relati 0
n of the Faculties of the Human Mind to the Moral
Law": Kant's Critique of Practical Reason and Other Works on the Theory of督p
trans•
Thomas Kingsmill Abbot (London:
Longmans, Green. & Co.,19 00 9)
p, •
267 (カント「人倫の形而上学」[『カント全集-ご巴岩波書店ヽニo ゜ -石十[
「人倫の形而上学への序論」、「I 人間の心の諸能力と人倫の法則との関係について」、二四頁)
(31) Ibid. (同[-部改訳した)).
)
On History, ed. Beck, p. l 02 (Perpetual Peace) `(「永遠平和のために」[『ヵント全集-四巻I 二o゜O年、二七四頁)
2 (3
(33) Ibid., p. l 06 (同‘―一七八頁)
(34)
Ibid., pp.151'52 : The Strife of Faculties, Part II : "An Old Question Raised Again: Is the Human Race Constantly Progress ing
●3(力
ント「諸学部の争い」[『カント全集[八巻jヽ
ニo ゜-石ャ[「あらためて立てられる問い—人類はより善い方
向へ絶えず進歩しているか」‘―――六頁).
(35) Ibid., pp.112 , 113 (カント「永遠平和のために」[『カント全集―四巻」ヽニ八六頁●二部改訳した)
(36) Ibid., pp. I 12 (―一八六頁[―部改訳した) .
(37)
Kant, Fundamental Principles of the Metaphysics of Morals,
trans•
Thomas K. Abbott, Library of Liberal Arts (Indianapolis:
Bobbs
, Merrill, 1949) ,p.19 (カント「人倫の形而上学の基礎づけ」・『カント全集七巻j、二oo0 年、二五頁[―
部改訳した).
(38) Ibid.,
pp•
20 , 21 (同、―-七頁)
(39) Qbservations on the Feeling of the Beautiful and Sublzme, (end of Section Two) , trans. John
T•
Goldthwait (カント「美
と崇高の感情にかんする観察」[ [カント全集二巻l、二章の末尾、三四七頁[ ―部改訳した).
(40) Ibid. (同)

(41) On History, ed. Beck, p.145, note (「諸学部の争い」i『カント全集一八巻』i「あらためて立てられる問い」ヽ
――八I - ―九頁i一部改訳した) .
(42) Aristotle, Politics, 1267a!Off・(アリストテレス/山本光雄訳「政治学」i『アリストテレス全集一五巻」岩波書店、
一九六九年、六―一頁)

(43) Ibid., 1325b I 5ff (同、―-八― ―-| -「八四頁)
(44) Blaise Pascal, Pensees, no・331
,
trans•V[
F. Trotter (New York: E. P.Dutton, 1958) (パスカル/由木康訳『パンセ』白水社、
一九九0 年、一三八頁).
(45) Robert D. C 0 nuning, Human Nature and History: A Study of the Development of Liberal Political Thought (Chicag 0 : Chicag 0
University Press, 1969) ,
vol
•2’p
1.6•
(46) Phaedo, 64 (プラトン/松永雄一一訳「パイドン」[ [プラトン全集一巻』岩波書店、一九七五年、一七六ー一七七頁).
(47)
Ibid•
67 (同‘-八六頁)
(48) Apology, 40 (プラトン/田中美知太郎訳「ソクラテスの弁明」ぃ『プラトン全集一巻」岩波書店、一九七五年、
―-O|-――頁).
(49) On History, ed. Beck,
p•
67 ("Conjectural Beginning of Human History
" 「人間の歴史の憶測的始元」i『カント全集
一四巻j

― 一三I ――四頁[ ―部改訳した).
(50) Critique of Judgment, ァ83 (note) (『カント全集九巻」‘―一三頁[ ―部改訳した).
(51) Kant,
"Uber das Misslingen aller philosophischen Versuche in der Theodicee" (1791) , in Gesammelte Schrifien, Prussian
Academy edition, 8:253'71 (カント「弁神論の哲学的試みの失敗」]『カント全集一三巻』
、二oo 二年、一八〇頁[
147 注146
一部改訳した).
(52) Anthropology ji-om a Pragmatic Point of View,
trans

Gregor, ァ29, trans. Mary
J•
Greg 0 r (カント「実用的見地における人
間学」[ 7 ント全集一五巻j、二oo 三年、二九節、八六頁[―部改訳した)
(53) Gesammelte Schrifien, Prussian Academy ed., 18: 11.
(54) Critique of Pure Reason, B839・(カント「純粋理性批判」i 『カント全集六巻」、二〇〇六年、九四頁[ ―部改訳した).
(55) Observati 0 ns on the Feeling of the Beaut 苓land Sublime, trans. John
T

Goldthwait (カント「美と崇高の感情にかんす
る観察」[ 『カント全集二巻j
ヽ三四OI 三四二貝[ 二即改訳した)
(56) Critique of Judgment, ァ84 (「判断力批判」『カント全集九巻」‘―一六頁:イタリック〔傍点〕編者) .
(57) Kant, Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels (1755) , Appendix to Part Ill, Gesammelte Schrifien, Prussian
Academy ed., 1:357 (カント「天界の一般自然史と理論」[『カント全集二巻」ヽご立九頁)
(58) Critique of Pure Reason, B859・(カント「純粋理性批判」i 『カント全集六巻j

― -O頁[-部改訳した) .
(59) Ibid., B884 (同、一三〇頁ぃ傍点付加)

(60)c’Bemerkungen
zu den Beobachtungen iiber das Gefiihl des Schinen und Erhabenen;'Gesammelte Schrifien, Prussian Academy
ed., 20:44 (カント「「美と崇高にかんする観察jへの覚え書き」i 「カント全集一八巻j‘一八六頁) .
(61)とistotle
'
s epistle to Alexander,
"Concerning Kingship," in Ernest Barker, The Politics of Aristotle (Oxfi 0 rd: Oxford University
Press, 1958) , p
・386•
(62) Eric Weil,'^ Kant et le probleme de la politique", in La Philosophie Politique de Kant, vol. 4 of Annale de Philosophie Politique
(Paris, 1962) , p.32.
(63) "Reflexi 0 nen zur Logik,
"no. I 820a, Gesammelte Schrifien, Prussian Academy ed., 16:
127

(64) Kant,
"Versuch einiger Betrachtungen iiber den Optimismus" (1759), in Gesammelte Schrifien, Prussian Academy ed., 2:27'35.
(カント「オプティミズム試論」[ 『カント全集二巻I 二八四頁i 一部改訳した)●
(65) On Hist 09 ed. Beck, p.73'74, note (「万物の終わり」[ 『カント全集―四巻jヽ三『畜〖]一部改訳した)
(66) "Reflexionen zur Anthropologie," no. 00 90, Gesammelte Schrifien, Prussian Academy ed.,15:388 (カント「人間学遺稿」[
『プラトン全集二巻j 岩波書店、一九七四年、
[カント全集一五巻」、三八四頁)
ヤスパース/重田英世訳
(67) Karl Jaspers, Kant, ed. H. Arendt (New York: Harcourt Brace & World, 1962) , p.95 (カール・
「力t 」[ 『ヤスパース選集第八巻」、三二四頁」ヤスパースは引用先を示さずにカントから引用しているが、以
下の箇所を参照。
Critiqueof Pure Reason, B823 〔カント「純粋理性批判」ぃFカント全集六巻」、八一頁〕)
(68) Critique of Judgment, ァ40 (note) (『カント全集八巻j‘一九九九年、一八二頁[―部改訳した)
(69)
Critique of Pure Reason, Axi, note (カント「純粋理性批判」[ 『カント全集四巻r 二o ゜ニヰ、〔第ご巴序言へ
の注、一八頁i 一部改訳した)
(70) Ibid., B27
・(同、八九頁i 一部改訳した)
(71)
Ibid., B.370. (カント「純粋理性批判」・『カント全集五巻j、二oo -―一年、二八頁[ ―部改訳した).
(72) Ibid., Axii・(カント「純粋理性批判」] 『カント全集四巻』、一八頁[-部改訳した)
(73) lbid
.,
Axi・(同、一七頁[ ―部改訳した)
(74) Ibid., Bxxv. (同、四〇頁[-部改訳した) .
(75) Ibid., Bxxxii ・(同、四五頁[-部改訳した).
(76) Ibid., Bxxxiii ・(同、四五ー四六頁i 一部改訳した)
(77) Ibid., Bxxxv. (同、四七頁[ -部改訳した).
誓k"(1802) , in Siimtliche We食ed
.
Herm昔Glockner (Stuttgart (78) G.W. F. Hegel,
"Uber das Wesen der philosophischen
1958) , vol. 1, p.185 〔アーレントによる英訳ー編者注〕.
〔アーレントによる英訳—編者注〕.
9) Hegel,
"Verhaltnis des Skepticismus zur Philosophie" (1802) , ibid.,
P•
243
." 3 「
(7
'This May be True in Theory, but it does not Apply t 0 Prac!lce, m (80) Kant's Preface to his essay,
" 0 n the Common Saying:
Kant's Political Writings, ed. Reiss,
p

61 (カント「理論と実践」i 『カント全集一四患、一六三頁以下)を参照。
(81)
Critique of Pure Reason, Bxxxi (カント「純粋理性批判」[ 『カント全集四巻Jヽ四四頁i 一部改訳した)
(82) Ibid., Bxxxvi. (同、四八頁)
(83) Theaetetus, l 48ff• (プラトン/田中美知太郎訳「テアイテトス」
149 注
148
一九四頁以下)
(84) Sophist, 226'3 I. (プラトン/藤沢令夫訳「ソピステス」・『プラトン全集三巻」ヽ
) Critique of Judgment, ァ40 (rカント全集八巻」、一八一ー一八―一頁)
5 (8
(86) Gorgias, 482c・(プラトン/加来彰俊訳「ゴルギアス」・『プラトン全集九巻』

一九七四年、一――頁)
7••
(8)
Crztzque of Pure Reason, B884. (カント「純粋理性批判」i『カント全集六巻』、一――-O頁[―部改訳した)
ントによる。Kant, Philosophical Correspondence 1759 ,99" ed, Zweig, pp.105 , 6 (『カント全集ニ―巻」ヽ
(88)〔傍点はアーレ
メンデルスゾーン宛書簡(一七八三年八月一六日付)‘-八九ー一九〇頁i 一部改訳した)〕.
(89)
Jaspers, Kant, p.123 (ヤスバース/重田英世訳「カント尺『ヤスパース選集八巻K埋想社、一九六二年、三二二頁)こ
の引用は、Letter to Christian Garve, August 7, 17 00 3 (rカント全集ニ―巻]‘クリスチアン・ガルヴェ宛書簡〔一七八三
年八月七日付〕‘-八二頁)から。
)0 n Hist01y, ed. Beck, pp.4'5 ("What is Enlightenment"? : カント「啓蒙とは何か」[『ヵント全集_四巻Jヽニ七頁i
゜ (9
一部改訳した).
(91) Ibid., p.5 (同、―-八頁[ ―部改訳した).
(92)' 誓exionen zur Anthr 0 pologie,"
no•
897, Gesammelte Sch喜n"Prussian Academy ed., 15:392.
(93)
Kant's Political Writings, ed. Reiss,
pp•
85-86 ("Theory and Practice" : カント「理論と実践」]カント全集一四巻』、
――-Oーニ― ―頁[―部改訳した)
99 4 (9)
"Was heisst: Sich im Denken 0 nentJeren? (1780), in Gesammelte Schriflen, Prussian Academy ed., 8:137
,
47 (カント「思
考の方向を定めるとは」i『カント全集一三巻』、八四頁).
(95) Gesammelte Schriflen, Prussian Academy ed., 18:267 (no.5636)

(96)
Letters to Marcus Herz, June 7,
1771•
Kant, Selected Pre-Critical Writings,
t·Jans
• G.
B•
Kerferd and D. E. Wolford (New York:
Barnes & Noble, 196
00) , p.108 (
『カント全集ニ―巻』、マルクス•ヘルツ宛書簡(-七七一年六月七日付)、六三頁).
7 (9)
Letters to Marcus Herz, February 21,
1772•
Kant, Philosophical Correspondence/759
,
99, ed. Zweig, p・73 (『カント全集
三巻』、マルクス•ヘルツ宛書簡〔一七七二年二月ニ―日付〕、七〇頁[-部改訳した)
(98) Critique of Judgment, ァ40 (fカント全集八巻」ヽ
(99) Ibid. (同、一八一頁)
面) Gesammelte Schriften, Prussian Academy ed., 12:59 (Correspondence)
(101) On History, ed. Beck, pp.143 , 48 (「諸学部の争い」[『カント全集-八巻jヽ「ぁらためご止てられる問い」第六節
及び第七節、一―六I ―ニ― 頁i一部改訳した).
(102)kant こPolitical Writings, ed. Reiss, p.51 ("Idea fi 0 r a General History fr 0 ma Cosmopolitan Point of View," end of Eighth
Thesis : 「世界市民的見地における普遍史の理念」[『カント全集二臼巻』第八命題の末尾ヽ-九頁).
(103) Ibid., p.184,note (「諸学部の争い」i『カント全集一八巻』、原注‘――九頁).
(104) On Histo1y, ed. Beck, pp.12 0(Perpetual Peace, Appendix I : 1、永遠平和のために」付録ー、二九五頁)
(105) Kant's Political Writings, ed. Reiss, p.147 (The Metaphysics of Morals, General Remark A afterァ49 : 「人倫の形而上学」[
『カント全集― 一巻』、第四九節の後の一般的注釈A‘一六七頁).
(106) On History, ed. Beck, pp.130 (Perpetual Peace, Appendix II : 「、水宰心平_lD のために」付録II、三0 八頁[―部改訳した).
(107)B0 rries, Kant als Politiker (Sc1entia Verlag Aalen, 1973; reprint of 1928 Leipzig editi 0 n) , p.16'IN~\ 昭唸
(108) Kant, Religion within the Limits of Reason Alone, Book IV, Part Two, ァ4,
trans
• T.M•
Greene and H.
H•
Hudson (New York "
Harper Torchbooks, 196
0)’pp
1.76
'77
(note) (「たんなる理性の限界内の宗教」ぃ『カント全集一〇巻j
、二000 年、
二五四ーニ五五頁[ ―部改訳した)を参照。
(109) On History, ed. Beck, pp.129 , 130 (Perpetual Peace, Appendix II : 「、永宰心平l和のために」[『カント全集_四巻j 付
録II、三0 七ー三〇八頁i 一部改訳した).
(110) Ibid., p.130 (同、三0 九頁[―部改訳した).
(lll) Ibid., p.130 (同、三0 八頁[―部改訳した).
(112) Ibid.,p.134 (同、三一四頁).
(113) 〔Eine 苓rlesung Kants fiber Ethik, ed. Paul Menzer, Berlin: Pan Verlag Rolf Heise, 1924 (Kant, Lectures on Ethics, trans・
Louis Infield, London: Methuen, 1979 p. 43, secti 0 n on "The Supreme Principle of M 0 rality"キ パウル・メンツアー絹/小
一八〇頁)
一九七六年、三ニー四九頁)
151 注150
『カント全集一四巻j、二八五頁
西國夫+永野ミッ子訳『カントの倫理学講義] -―一修社、
者注〕.
(114) Kant's} 客tical Writings, ed. Reiss, p.88 ("Theory and Practice," Pa言[「理論と実践」· 『カント全集一四巻j、第一_ 一部、
三四ーニ―五頁).
(115) Ibid., p.116 (Perpetual Peace, Appendix I : 「永遠平和のために」[『カント全集―四巻」付録ー、二九-頁[一
部改訳した).
(116)kant こPolitical Writings, ed. Reiss, p

89 ("Theory and Pract ice,' 誓戸「理論と実践」[ 『¢卜全集一四巻』、第三部、
二―六ー― ――七頁).
(117) Ibid., p.91 (同、三――頁)
(118)
Ibid·
P,•
88 (同‘-―-五頁).
(119)0 n History, ed. Beck, p.106 (Perpetual Peace, First Supplement : 「永遠平和のために」[7 パント全集一四巻j、第
一補説、二七八頁i 一部改訳した).
(120)
Ibid•
, p.100 (Second Definitive Article : 同、第二確定条項、二七一頁)

(121) Critique of Judgment, ァ28 (カント「判断力批判」[ 『カント全集八巻I 第二八節ヽロニ七| 二二八頁i 二郡改訳
した).
(122)kant ごPolitical Writings, ed. Reiss, p.l 9 0 (カント「諸学部の争い」] 『カント全集一八巻」、ご一八頁)〔引用は実際、
ヒュームからの借用ー編者注〕[〔ヒユ|ム『市民の国について(下) j岩波文庫ヽニユニ貝参照_訳者巴
(123) Critique of Judgment, §003 〔「判断力批判」[ 『カント全集九巻」‘第八三節ヽ-二畜〖[こ都改訳した〕●
(124) Religion within the Limits of Reason Alone,
p•
29 (note) (「たんなる理性の限界内の宗教」[『カント全集一O 巻」ヽ
四五ー四六頁i 一部改訳した).
(125)kant こPolitical Writings, ed. Reiss, p.147 (The Metaphysics of Morals, ァ62, Conclusion : 「人倫の形而上学」
ト全集―一巻」、第六二節、結語、二〇七頁i 一部改訳した).
(126) 以下を参照。OnHistory, ed. Beck, pp.111 (「永遠平和のために」
二0 四頁]一部改訳した) .
カから)
(127) Diogenes Laertius, Lives of Philosophers, 8•8 五目S
•G. S•K己: 111d J. E. Raven, The Presocratic Philosophers (Cambridge, Eng.
"
At the University Press, 1977) , p

228(ディオゲネス・ラェルティオス/加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝(下)」岩
波文庫、一九九四年、第八巻第一章、一九頁i 一部改訳した).
(128) Hegel, Reason in History, trans. Robert S•Hり旦Library of Liberal Arts (国息polis " Bobbs , Merrill, 1953)
,pp・35, 36 (Hegel's
百oducti
0
n to The Philosophy of History : ヘーゲル/武市健人訳『歴史哲学(上巻)11ヘーゲル全集第一〇巻』岩波書店、
一九五四年、五五ー五六頁).
(129) Alexandre Kojeve,
"Hegel, Marx, and Christianity," Interpretation 1 (1970)
"
37 ,
(130) On History, ed. Beck, p.51 (「J•G• ヘルダー著『人類史の哲学考」についての論評」[『カント全集二幽巻I ヘルダー
への第三論評、六四頁).
(131) Ibid. (同]一部改訳した)
(132) The Republic 514a ff. (プラトン/藤沢令夫訳「国家」[ Iプラトン全集―一巻」、四九―一頁以下[ ―部改訳した).
(133) Introduction to The Metaphysics of Morals, section I (「人倫の形而上学への序論」[『ヵント全集―-巻』ヽニ四頁前掲注(30) 参照).
(134) Critique of Pure Reason, B825ff. (カント「純粋理性批判」] 『カント全集六巻』、八三頁一部改訳した).
(135)
Ibid·
,
B•00
83•(同‘-―-九頁).
(136) Critique of Judgment, ァ48 (カント「判断力批判」[『カント全集八巻』‘第四八節ヽ
(137) Ibid., ァ50 (同、第五0 節、ニ―五頁[―部改訳した).
(138) Ibid. (同、ニ―五頁以下i 一部改訳した) .
(139) Ibid. (同、ニ―六頁).
(140) Ibid., ァ49 (同、第四九節、ニ―二頁[ ―部改訳した)
(141) Ibid ・(同i 一部改訳した) .
(142) Cicer 0
, On the 0 rator 3. 195 (キケロ/大西英文訳「弁論家について」. 『キケロー選集7 』岩波書店、一九九九年、
引用はセネ
『カン
一九六八年、五五頁)からのアーレント自身の英訳ー編
153 注
152
レントが一貫して〈general (一般的)〉という語を当てていることに留意が必要である。この変化の重要な理レントの論文「文化の危機」で示唆されている(mBetween Past and Future, en!. ed. New York " Viking Press, 196
00
,p•
221
II『過去と未来の間j みすず書房、一九九四年、二九九頁)。ここで彼女は以下のように述べている。「判断特有の妥当性を具えているとはいえ、決して曹愚聡(universa 苓)に妥当するわけではない。その妥当性の要求は、
判断する者が自らの考慮にあたってその人の立場に身を置き入れた他者を超えては拡張できない。カントによれば、
判断力は『単独に判断する各人j に妥当するが、この旬で強調されるのは『判断するj であって、判断しない人びと、
いいかえれば判断の対象がそこに現われる公的領域の一員ではない人びとには妥当しないのである」〔傍点〕編者) 。このようにここでのアーレントの訳語の選択は、彼女のカント読解との関係で一定の重要な持つー編者〕
(156) Critique of Judgment, ァ40 (カント「判断力批判」・
『カント全集八巻j、第四0 節、一八三頁[―部改訳した) .
(157) Ibid. (同、一八三頁以下i 一部改訳した〕.
(158) Ibid., Preface (同、「序文」‘― ―頁i 一部改訳した).
(159) Ibid., ァ41 (同、第四一節、一八四頁以下[ -部改訳した)
(160) On History, ed. Beck, p.54 (「人類の歴史の憶測的始元」・
『カント全集一四巻」、九六頁]一部改訳した)
(161) Cicero, Tusculan Disputations 1. 39 , 40 (キケロ/木村健治+岩谷智訳「トゥスクルム荘対談集」[『キヶロ1 選集
12』岩波書店、二oo 二年、三六頁ぃ一部改訳した)
(162) Critique of Judgment, ァ41 (カント「判断力批判」[『ヵント全集八巻』‘第四二即二八五頁以下9 二部改訳した)’
(163) Ibid. (同、一八五頁i 一部改訳した)
(164) On History, ed. Beck,
p•
89 (「永遠平和のために」[『カント全集-四巻r
(165) Ibid., p. l 02 (同、―-七四頁i 一部改訳した)
(166) Ibidキ,pp.103, 105 (同、—-七四、二七七頁).
(167) Critique of Judgment, Introduction, secti 0 n!V (カント「判断力批判」i
(168) Ibid. (同、一部改訳した)
『カント全集八巻」、序論W‘―一六頁)
四三九頁一部改訳した)
(143) Ibid., 3.197 (同、四四〇頁]一部改訳した)
(144)An~hr0polo 怨from a Pragmatic Point of View,
trans•
Gregor, ァ53 (カント「実用的見地における人間学」
全集一五巻j‘五三節、一五八頁)(前掲注(52) 参照)
(145) Critique of Judgment, ァ40 (カント「判断力批判」i 『カント全集八巻j、第四0 節、一八一頁)
(146) パルメニデス〔断片4 〕は、不在であるけれど現前している事物を私たちがしっかり見つめることを可能にする
理性(nous) について語っている[「されど汝は思いもて見よヽ/現わにはあらず遠みに/去りゆきし世にはあれ
ども/ 思いには確と近みに/現われてあるものどもを」(Kathleen Freeman, Ancilla to the Pre , Socratic Philosophers)
[Oxford
:
Basil Blackwell, I 971) , p.42 : =i:r 上中心訳「パルメニデス全文」[『パルメニデスj 青土社ヽ_九九六年ヽ
二四頁)。
(147) Critique of Judgment, ァ45 (カント「判断力批判」[ Iカント全集八巻」、第四五節、一九八頁]一部改訳した).
(148) Ibid., ァ41. (同、第四一節、一八四頁以下[―部改訳した).
盆坪.)
c,Reflexionen zur Anthropologie,"
no•
767, Gesammelte Schriflen, Prussian Academy ed., 15:334'35 (カンk_ _9kハ問唸字清心
稿」[ 『カント全集二与巷jヽ-デ七九頁i 一部改訳し芯)
(150) Critique of Judgment, §48 ・(カント「判断力批判」i 『カント全集八巻』、第四八節‘― -O互頁)
(151) Ibid., ァ54. (同、第五四節、ニ――-O頁以下i 一部改訳した).
(152) Anthropology from a Pragmatic Point of Vi塁trans• Gregor, ァ5 3 (カント「実用的見地における人間学」[ 『カント
全集一五巻」、五三節、二九八頁[―部改訳した)
) Critique of Judgment, ァ40 (カント「判断力批判」i 『カント全集八巻」、第四0 節、一八〇頁以下[―部改訳した). 3 (15
) Ibid. (同、一八一頁)" Kant, Logik, trans.
R•
Hartman and W Schwarz, p.63 (カント「論理学」『カント全集一七巻』、4 (15
八〇頁)も参照〔前掲注(20) 参照〕。
(155) Critique of Judgment, ァ40 (「判断力批判」[『カント全集八巻I 第四O 節、「岱面〖] 二都改訳した)●〔カント
の〈allgemein 〉という用語の訳について]この語の標準的な訳は〈universal(普遍的)〉であるにもかかわらず、アー
二五七頁)
『カント
155 注
154
169
(訳庄)
Critzque of Pure Reason, B 173 (カント「純粋理性批判」
一般の人間たちが、「ィ
「カント全集四巻」、二三八頁.一部改訳した).
〔1 〕ここで言及されているのは、ヤスパースの哲学史研究の集大成とも言うべきDzegroj3en Philosophen, Erster Band,
I 957, R. Piper に収められているカントに関する部分を指す。カントに関するこの部分は、アーレントの編集に
よって一冊の本として英訳されている。Cf.Karl Jaspers, Kant, ed. by Hannah Arendt, transキby Ralph Manheim, 1962,
Harcourt, Brace & World.
〔2 〕ライス編集の政治論文集に収められている、『人倫の形而上学』(一七九七)の前半に当る「法(権利)論」を指す゜
〔3 〕このコメントは『意志と表象としての世界j に付録として収められているカント論に見られる。ショウペンハウ
ェル/磯部忠正訳「意志と表象としての世界(皿)j理想社、一九七―一年、ニ―九頁参照。
〔4 〕「純粋理性批判」『実践理性批判」「判断力批判」の三批判書に関連した仕事を指していると考えられる。
〔5 〕カントは一七六五年に『道徳的趣味批判Kritik des moralischen Geschmacks J の刊行を告知したが、実現しなかった。
この関心を継承したと思われる『人倫の形而上学DieMetaphysik der Sitten 」が刊行されたのは、一七九七年のこと
なので、三十二年経っている。「人倫の形而上学」の英訳タイトルは、〈Metaphysics of Morals (道徳形而上学)〉な
ので、英語の方が、「道徳」つながりが分かりやすい。
〔6 〕当事発行されていた「プレ1 メン雑誌」の第四巻(一七六一)に、ある東洋人の夢として掲載されていた記事か
らの引用。引用の末尾に出てくるゴルコンダはインド南部の古代都市で、ダイヤモンドの産地として有名。
[7] Alfred Baumler (
1887 ,
1968) ド





































ナチスに入党し、ナチスの政権掌握以降、ナチスの教育・大学政策の立案に指導的な役割を果たすようになる。
〔8 〕原文で引用されている英訳では、この部分は、「観想的快について、実践哲学は1 」となっているが、『人倫の形
而上学」の原文(ドイツ語)では、「観想的快」ではなくて、「趣味」になっていると取れる。ただし、この文脈で
は両者はほぽ同一視されているので、いずれであっても大差はない。
〔9〕第七講の末尾で引用されている、『諸学部の争いj のある箇所に基づく記述。
〔10〕『カント全集ニ―巻」、メンデルスゾーン宛書簡( -七六六年四月八日付)、三七頁。
〔11 〕『ゴルギアス」の中のカリクレスとの対話でのソクラテスの発言(482C)を要約したもの。正確な発言は、「ぽ
くのリュラ琴の調子が合わないで不協和な音を出すとか、ぽくが費用を負担することになる合唱であるとか、また、世の大多数の人たちがぽくに同意しないで反 対するとしても、そのほうが、のに、ぽくがぽく自身と不調和であったり、自分に矛盾したことを言うよりも、まだましなの/ 加来彰俊訳『プラトン全集第九巻」岩波書店、一九七四年、一――頁)。
〔12〕スピノザの『神学·政治論j には副題として以下の文章が付されている。「哲学する自由が敬虔の念と国家和を損なうことがなく、むしろ哲学する自由を奪うことが同時に国家の平和と敬虔 の念を危うとを示すいくつのかの論文が、ここに収められている」。
〔13〕パルメニデスの作品として残されている叙事詩の序章は、若き日のパルメニデスが馬車にに、忘我状態になって、日常的なことを忘れて、天の門にまで 至り、その門の向こう側にある「真理」を教えられる、というストーリーになっている。
〔14〕ソポクレース/引地正俊訳「コローノスのオイデイプース王」[ 『ギリシァ悲劇全集j 岩波書店ヽ「九九O 年‘
一八七ー一八八頁゜
〔15〕ディオゲネス・ラエルティオス/加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝(中)」岩波文庫、一九八九年、第七巻第一章、
二〇六頁゜
祠〕『世界市民的見地における普遍史の理念j の第一命題に出てくる〈絶望的な偶然trostloses Ungefahr 〉(『カント全
集九巻j ―四巻、五頁)という表現の英訳である。アーレントは、『過去と未来の間j (―九六一)でも、〈trostloses
Ungefah r〉の訳語として〈me lancholy haphazardness 〉を当てている。以下を参照[ Hannah Arendt, Between Past
and Future, 1993, Penguin Books, p.85,
p•
243 (アーレント/引田隆也+斎藤純一訳『過去と未来の間j みすず書房、
一九九四年、一〇九頁、三二九頁).
〔17〕プラトンの『国家」に出てくる「洞窟の比喩」の「洞窟」を指す。この洞窟の中では、
157 注
156
デアの光11真理」を見ることができないよう方向を固定して縛り付けられている。この洞窟から外に出て、自ら目て「イテアの光」を見て、依然として洞窟に 繋がれている同胞たちに真理を伝える使命を担っているのが学者」である。
〔18〕注(61) では、「支配者が進んで哲学者の言葉に耳を傾けるべきだ」というァリストテレスの発言の典拠としァレクサンドロス大王のために書いたとされる「王位につい て」という文章が参照されているが、この文章自体は
現存しておらず、後代の人物によって断片的にその中身が伝えられているだけである。宮内璃+松本「アリストテレス全集一七巻』岩波書店、一九七―一年、六 0 八頁参照。「すなわち彼は、『王たる者にとって、哲学
することは、不必要であるばかりでなく、むしろ妨げとさえなり得るものである。彼にとって為すべきこと当に哲学している人々と交わり、彼らの言に耳を傾 け、よく彼らの勧めに従うことである。そうすることによっ彼はその統治を、言葉を以てではなく、善き行いを以て充たしたことになるからである』と主張して いる[
19
]
Eric Weil (1904 , 77)ドイツ生まれのフランスの哲学者。ヒトラーの政権掌握後、フランスに亡命し、レイモン・
ァロン、アレクサンドル・コイレ、コジェーヴ等と交流しながら、新しいヘーゲル読解の発展に貢献する。
元〕旧約聖書のヨブ記の主人公。サタンによって様々な試練を受け、家族や財産を失い、自らも重い皮膚病にかかる
が、最後まで神に対する信仰を貫き、義人として認められる。
〔21〕サルトルの『弁証法的理性批判』(-九六0)を指す゜
〔22〕『テアイテトス』の中てプラトンがタレスについて語らせているエピソード。タレスが天の星のことを考えて上
を見ながら歩いていたところ、穴に落ちてしまい、トラキア地方の農夫の娘に笑われた。娘はタレスに対しなたは天上のことばかり考えて、自分の且の前のこと や足元のことは分かっていらっしゃらないと冷やかしたとう。哲学者が観念的.抽象的なことばかり考えて、地上のことに関心を持とうとしないことの是非をめ ぐるしばしば参照される。プラトン/田中美知太郎訳「テアイテトス」i 『プラトン全集2」岩波書店、一九七四年、
―一七八頁以下参照。
〔23〕マルクスは一八万八年に『資本論」の原型となる『政治経済学批判要綱jを執筆し、翌五九年から『政治経済学
批判』の刊行を開始したが中断し、大幅な改稿を進める。六七年になって、『資本論j というタイトルに変更して、
その第一巻を刊行している。
〔24〕具体的には、マルクスの『歴史法学派の哲学的宣言J (一八四二)での以下の発言を指している。「カントの哲学
をフランス革命のドイツ的理論とみることが正当であるとすれば、そのようにフーゴーの自然法はフランスの旧制
度のドイツ的理論とみられる」(マルクス/出隆訳「歴史法学派の哲学的宣言」[ 『マルクス●エンゲルス全集ー』
大月書店、一九五九年、九三頁)。
〔25〕マルクスが「ヘーゲル法哲学批判j で述べた「理論もそれが大衆をつかむやいなや物質的な力となる」というフ
レーズを指していると思われる。マルクス/ 花田圭介訳「ヘーゲル法哲学批判序説」[ 『マルクス●ェンゲルス全
集1]大月書店、四―――一頁。
〔26〕「区分けすること」あるいは「決定すること」を意味するギリシア語の〈百inein〉は、「批判」を意味する英語の
〈crillque 〉やドイツ語の〈Kritik 〉の語源である。
〔27〕アリストテレスの論理学において、矛盾律が同一律、排中律と共に第一原理になったことを指すと思われる。
〔28〕具体的には『哲学入門j (一九五0) の以下の箇所を指していると思われる。「このことはすでに最初からして、
あらゆる哲学は伝達への衝動をもち、自己を語り、傾聴されることを欲するということ、すなわち哲学の本質は伝
達可能性そのものであり、またこの伝達可能性は真理存在から離すことのできないものであるということにおいて
明らかになっているのであります」(ヤスパース/草薙正夫訳『哲学入門j新潮文庫、一九五四年、三七頁)。
〔29〕このエピソードは、「永遠平和のために』の冒頭で紹介されている。この論文の〈Zurnewigen Frieden 〉というド
イツ語のタイトルは、「永遠平和のために」という通常の日本語訳の意味の他に、「永遠の安らぎ11平和に向かって」
という「死」を連想させるような意味にも取れる。
〔30〕セネカの『道徳書簡j第一八巻四からの引用。
〔31〕アリストテレス哲学における〈energeia (現実態)/dynamis (可能態)〉の二分法の〈energeia 〉は、英語では〈activity
(活動)〉と訳される。アーレントが参照していると思われるのは、『ニコマコス倫理学jの十巻七章で、ここでは、「不
死のもの」に近づこうとする「活動」の重要性が述べられている。アリストテレス/ 加藤信朗訳「ニコマコス倫理
学」・『アリストテレス全集一_二巻』岩波書店、一九七――一年、三四三ー三四四頁参照。
159 注158
構想力
一九七0年秋、ニュー•スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで
行なわれた、カントの可鉗i力批判」についてのセミナー
〔32〕ギリシア語の〈histona 〉には、「物語」と「歴史」の双方の意味が含まれており、両者にはもともと明確な境界
線はない。英語以外の近代の西欧語でも、例えば、フランス語の〈histoire 〉やドイツ語の〈Gesc hichte 〉のように、
両者は基本的に同じ単語で表される。
扇〕原題は、〈Leistorie fiorentine 〉゜筑摩書房から刊行されている『マキアヴェッリ全集j第三巻の日本語訳のタイ卜
ルも『フイレンツェ史jとなっている。マキアヴェッリは一互二0 年にフイレンツェ共和国の学術部の依頼を受け
て執筆を開始し、七年かけて八巻の大著として完成させる。フイレンツェ市の誕生から、共和国最盛期のメディチ
家の当主ロレンツォ・デ・メディチ( -四四九ー九二)の死に至るまでの、様々な人物や政治勢力の興亡盛衰を年
代記的に描いている。
〔34〕第七講の末尾で引用されている、「諸学部の争い』のある箇所に基づく記述。
〔35〕原注(127) 参照。
〔36〕アーレントは、英語、ドイツ語、フランス語などの西欧語で、「趣味」と「味覚」がいずれも、〈taste=
Geschmack 11 gout 〉という言葉で表されることを利用して、「趣味」と「味覚」を絡めて論じている。
[37
]
Baltasar Gracian (160 I'58) バロック時代のスペインの散文作家、ィエズス会の修道士。処世訓的な作品を多く残
している。彼の哲学的寓意小説『妄批家Critic6n j (―六五一、五――-、五七)は、ヨーロソパ諸国、特にドイツ語圏
に大きな影響を与えている。シヨーペンハウアーはこの作品の熱心な読者であることが知られている。
〔38〕かなり広範に流布しているラテン語の諺。
函〕この部分の原文はc^Wir miissen uns gleichsam anderen zu gefallen entsagen
"で、そのまま訳せば、「私たちはいわば
他者に気に入られることを断念しなければならない」で、むしろアーレントの話の流れと逆であるが、このカント
の発言が「他者」のことを意識した議論であるのは確かであるし、ドイツ語の原文に合わせると本文の流れが分か
りにくくなるので、あえて本文中の英訳の方に合わせておいた。
160
〔このセミナー・ノートの中でハンナ・アーレントは、『純粋理性批判』第一版での図式性(Schematism)
の説明に際してカントが行なった超越論的構想力についての分析を参照しながら、「カント講義録」〔本
訳書〕の(-四―|―四二頁)で導入した「範例的妥当性exemplary validity 」の概念を詳細に論じている。
、、、、、、
範例的妥当性が決定的な重要性を持つのは、それが普遍的なもの(歴史的プロセスの概念や歴史の一般法則)
、、、、、‘
ではなく、特殊的なもの(物語や歴史的実例)を中心とする政治学の構想のための基礎を提供するものだか
らである。アーレントは、認識のために図式が担っている役割を、判断力については範例が担っているこ
とを示唆する、カントの一文を引用している(『判断力批判』第五九節)。『第一批判』に由来する、図式性
についてのこうした重要な背景を視野に入れなければ、表象、そしてそれに伴って判断における構想力の
ヽヽ
役割に関して、私たちは十分な評価をすることができないだろう。構想力についての以下の論考を、別の
原理に関するもの、判断力にほんの通りすがり的に関わっているにすぎないものと考えるのは誤りだろう。
むしろ、このセミナー資科は、範例的妥当性の説明を拡張し、それを図式性における構想力の機能に関係
付けており、私たちがアーレントの判断理論の十分な輪郭を再構成したいと望むのであれば、これはその
パズルを解くための不可欠の一片を提供するものとなるだろうIR ・ベイナー〕
カントは、
5 ercept1 0n)
(I) 構想力(1magina ti 0 n)とは、不在(absent) のものを現前(present) させる能力、すな
ゎち表象11再・現前化作用(re'presentation) の能力であると述べている。「構想力とは、対象をその対象
ヽヽ
が現前(present) していない場合にも直観において表象(represent) する能力である」。「構想力(facultas
ヽヽ(2 )
imaginandi) とは、対象が現前していない場合の知覚の能力である」。不在のものを現前させ
るこの能力に「構想力」の名を与えるのは極めて当然である。もし私が不在のものを表象(represent) す
ヽヽ
るのであれば、私は精神(
m ind)の内に‘―つの形象(image) 1 私がかつて見たことがあり、今また何
らかの仕方で再生(reproduce) しているあるものについての形象ー| 'を持っていることになる(『判断力批判』
の中でカントは時として、この能力を「再生的reproductive 」ーー|私がかつて見たことのあるものを表象することー~
と呼び、「産出的productive 」能力未だかつて見られたことのないものを産出する芸術的能力から区別している。
しかし、産出的構想力〔天才〕も、決して全面的に産出的であるわけではない。例えば、それはケンタウルスを、人という所与のものから産出する)。このよう に言うと、私たちが記憶について論じているかのように聞こるかもしれない。しかしカントにとっては、構想力は記憶のための条件であって、記憶よりはるかに 包括、‘‘‘ 的な能力である。『人間学』の中でカントは、「過去を現前させる能力」である記憶を、未来を現前させ「予見能力」と併せて論じている。両者とも「連想 association 」の能力、すなわち「もはやないもの」及
び「未だないもの」を現在(
present)と結び付ける能力である。「両者ともそれ自身は知覚ではないのだが、
時間における知覚の結合に奉仕する」。構想力は時間的連想によって導かれる必要はない。構想力は、であれ自らが選ぶものを意のままに現前させることができ るのである。
カントが構想力と呼ぶもの、つまり感官知覚からみれば不在のものを精神に対して現前させる能力は記憶に関係するというより、むしろもう―つの能力、哲学の 始まり以来知られてきたある能力に関係しいる。パルメニデス(『断片]四)はそれをヌース(nous) (不在であるけれど現前している事物をしつかり見つめ
る能力)と呼ん[°このことでパルメニデスが言おうとしたのは、存在は決して現ヽヽ
に対して自らを現わさない、ということである。物の知覚の内で現前していないものとは、「有ると163 構想力162
ヽヽ
ことthe1t-is」である。感覚に対して不在である、この「有るということ」は、にもかかわらず精神に対
しては現前している。あるいは、アナクサゴラスの言によれば、「見えざるものが一瞬垣間見えるのが諸
(5)
現象であるOps is ton adelon ta phainomena 」。別の言い方をすれば、諸現象(カントの場合には直観に与えられる)
を見ることによって、人は現象することのない何かに気づく、あるいはそれを垣間見る。この何かが、存
在それ自体(Being as such) である。したがつて形而上学それは、自然的実在を超えていながら、な
おある神秘的な仕方で、諸現象中の非現象として精神に与えられるものを扱うディシプリンであるーは
存在論、存在の学となる。
(II) 私たちの認識諸能力にとっての構想力の役割は、恐らくカントの『純粋理性批判』の中の最大の発
(6)
見であろう。私たちの目的からすれば、そこでの「純粋悟性概念の図式論」に立ち返るのが最善だろう。予
め言っておくと、認識に図式を与えるのと同じ能力である構想力が、判断力に範例を与えるのである。
カントには経験と認識の二つの幹があることが想い起こして頂きたい。直観(感性)と概念(悟性)であ、‘‘‘‘‘‘ る。直観は常に、特殊的な何かを私たちに与える。概念はこの特殊的なものが私たちに知られるようにする。
私が「この机」と言う場合、あたかも直観が「この」と言い、悟性が「机」と付け加えるかのようである。「こ
の」はもっばら、この特殊な品目(アイテム)に関係する。「机」はそれを同定し、対象を伝達可能にする。
ここで二つの問いが生じてくる。第一に、いかにしてこれら二つの能力は一緒になるのか?確かに、
悟性概念は精神が感覚の多様性を秩序付けることを可能にする。しかしこの総合(synt hesis) 、両者の共同
作業は、どこから生じて来るのか?•第二に、この「机」という概念は、そもそも概念なのか?もしか
して、それもまた一種の形象ではないのか?つまり知性の内にも、ある種の構想力が現前しているので
はないか?答えは以下の通りである。「多様の総合が:·: •初めて認識を産出するのである。:・・・・〔それは〕
諸要素を認識のために集め、ある種の内容として結合するものである」。この総合は、「構想力の単なる作ヽヽ
である。この構想力とは、魂の不可欠とはいえ盲目的な機能であるが、この機能なしには、われわれはそヽヽヽヽヽヽヽ
そもいかなる認識ももたないであろう。けれども、われわれがこの機能を意識しているということさえも極
めてまれである」。そして、構想力(
imagination
11
Einbildungskraft)は、「概念にその形象を付与する」こと
によって総合を産出する。そうした形象(image 11 Bild)が「固式schema 」と呼ばれる。
両極端、すなわち感性と悟性は構想力:
..
:を介して必然的に連関しなければならない。なぜなら、そ
うでなければ感性はたしかに諸現象を与えるであろうが、しかし経験的認識のいかなる対象も、した
がつていかなる経験も与えないだろうからである。
ここでカントは、二つの能力の間に結合を与える役割を構想力に求めている。また同じ『純粋理性批判』
第一版において、カントはこの構想力を「総合一般の能力」と呼んでいる。私たちの悟性に含まれる「図
(10)
式性」に直接言及している他の箇所では、それを「人間の魂の深みに隠された技術」と呼んでいる(つま
ヽヽヽ
り、私たちは決して現前しない何かについて一種の「直観」を持っている、というのである)。これによってカは、構想力が実際に他の様々な認識能力に共通す る根となっていること、すなわち感性と悟性に「共通す
る、しかしわれわれには知られない梱」となっていることを示唆している。カントは『純粋理性批判』の
165 構想力164
序論で、その共通の根について語っており、そして最終章でも、名指してはいいて再度語ってい

年。
(皿)図式。ポイントは、図式なしには人は何も認識できない、というこ言う時、机の一般的な「形象」がその精神に現前しており、人はそこにある「なわち、 それ自体としては一個の特殊的な物でありながら、他の多くのそうした物と性質を共有かであることを認識しているのである。私が一軒の家を認識している場 合、この一般に
家というものがどのように見えるかをも含んでいるのである。これはプラトンが11-
般的形式)と呼んだものであり、決して自然な感覚に与えられることがなく、たれるものである。厳密に言えば、それは「精神の眼」にさえ与えられるわ けヽヽヽ
のようなもの、より適切には、「図式」である。人が一軒の家を描くか建てる時<か建てるのであって、家それ自体を描く、あるいは建てるのではない。だとし 形相を精神の眼の前に持つことなしには、そうすることはできないだろう。あ「三角形一般の概念には一_一角形のおよそいかなる形象も決して合致し概念は、 直角三角形とか不等辺三角形とかに関わりなく、すべての一_一角をもつが、〔_二角形の〕形象は〔三角形の〕概念の普遍性には到達しないであろうし、む域 の一部にのみ制限されているであろうからである。三角形の図式は決して思(13)
ることはできなし」。しかし、思考の内にのみ存在するにもかかわらず、図式は一種図式は思考の産物でもなければ、感性に与えられるものでもない。まして や、感性的に与えられた与件か
らの抽象の産物などではない。それは思考と感性とを超えたもの、あるいはそれらの中間にある何かであ
ヽヽヽ
る。それは、外に対して不可視である限りでは思考に属しており、形象のようなものである限りでは感性
に属している。そういうわけでカントは、構想力を時に「すべての経験の根源的源泉の一っ」と呼び、そ
して構想力自体は「他のいかなる心性の能力からも導出し」えないと語っている。
もう一っ例を挙げれば、「〈犬〉の概念はある規則を意味している。すなわち、この規則に従って、私の
構想力は、経験が私に提供する何らかの唯一な特殊な形態や、私が具体的に表示しうるおのおのの可能
な形象にも制限されることなしに、四本足の動物の形態を一般的に描くことができるのである〔とはいえ、
[l
](
15)
紙の上に描かれるや否や、再び特殊な動物になってしまう!〕」。それは「人間の魂の深みに隠された技術である。
この技術のこつをわれわれが自然からいっか察知し、これを目前に露わに呈示することは難しいであろ
う」。カントに言わせれば、形象例えはショーシ・ワシントン橋は「産出的構想力の経験的な能
力の産物であるが、.
...
:図式〔橋〕はアプリオリな純粋構想力の産物である。
...
.
:形象自身もこの純粋
(17)
構想力によって初めて可能となる」。言い換えれば、もし私が「図式化」の能力を持っていなかったとし
たら、私は形象を持つこともできなかったであろう。
(W) 私たちにとって、
も不可能である。
次の諸論点が決定的に重要である。
①この特殊な机の知覚の内に、「机」
カントは、
それ自体が含まれている。従って、構想力なしにはいかなる知覚
「構想力が知覚そのものの必然的成分であることを、いかなる心理学者もた
167 構想力166
(18)
ぶんまだ考えつかなかったのである」とコメントしている。
②「机」という図式は全ての特殊な机に妥当する。こうした図式がなけれと「これ」……とでも言うしかない諸対象の多様性に取り囲まれることになるだろう。 認識がになるだけでなく、伝達(コミニュケーション)ー「私のところに(どれで—も不可能になるだろう。
③そういうわけで、「机」と言う能力がなかったとしたら、私たちは決してとができないだろう。私たちがジョージ・ワシントン橋を記述することがを知ってい るからである。「橋」を知らない者が一緒にいて、しかも、これすることのできる橋もない、という状況を想定してみよう。その場合、私は恐象—|無論それは 既に‘ ―つの特殊な橋である1 を描いて、その人物が知っている何らかの図式、例え
ば「川の一方の岸から他の岸への移行」のようなものを想起させようとするだろう。
ヽヽヽヽ
言い換えれば、特殊的なものを伝達可能にしているのは、(a)特殊的なものを知覚するに際して、私
たちが心(mind) の奥で(あるいは「魂の奥底」で)、それと同じ様な多数の特殊的なヽヽヽ
shape 」を備えた「図式」を私たちが持っていること、そして(b)この図式的形状が多くの異なった人々
の心の奥にもあること|—である。たとえ「図式が決して形象化されえな(
V」としても、これらの図式的
形状は構想力の産物である。個々のあらゆる同意.不同意は、私たちが同じ物に1
ーつまり、多数者である私たちが、私たち全員にとって一にして同一であるようし、一致していること—|を前提している。
④『判断力批判』は、反省的判断力を規定的判断力から区別されたものとして扱っている。規定的判断
カが特殊的なものを一般的規則の下に包摂するのに対し、反省的判断力は逆に、特殊的なものから規則を
「導出する」。図式において、人は実際、特殊的なものの内に何らかの「普遍的なもの」を「知覚する」。人は、
言ってみれば、机を机と認識することで、「机」という図式を見ているのである。カントは、『純粋理性批判』
の中で、「―つの概念の下に包摂すること」と「―つの概念にすること」を区別することによって、規定
的判断力と反省的判断力の区別を暗示している。
⑤最後に、私たちの感性は、認識の助けとしてだけでなく、多様性の内に同性(sameness) を認識する
ためにも構想力を必要としているように思われる。そうしたものとしての構想力は、全ての認識の条件で
ある。つまり、「統覚に先立つ構想力の純粋(産出的)総合の必然的統一の原理は、すべての認識の、特に
(21)
経験の可能性の根拠である」。そのようなものとしての構想力は、「感性をアプリオリに規定する」、つまり、
全ての感官知覚に内在している。構想力がなければ、世界の客観性ー|'世界が知られうること1 もない
だろうし、またいかなる伝達の可能性—|'私たちが世界について語りうること1 もないだろう。
(V) 私たちの目的にとって、
遭遇するということにある。
おいては知性11悟性が
『判断力批判』こよ、
I~"
「図式」
図式の重要性は、
『純粋理性批判』
(22)
「構想力に仕える」
構想力を通しての図式の産出において、
においては構想力が知性11悟性に仕える。
のである。
ヽヽ(23)[4 〕
に類似するものとして範例(科甘pie) が出てくる。
れる直観が経験と認識に対して果たしているのと同様な役割を、
感性と悟性が
『判断力批判』に
カントは、図式と呼ば
判断力においては、範例に与えている。
169 構想力168
反省的判断力と規定的判断力の双方において、つまり私たちが特殊的なものに関わる時には常に、範例が
ある役割を果たす。『純粋理性批判』そこでは、「判断力は決して教えられていることではなく、ただ
訓練されていることだけを欲する特殊な才能」であり、「このオ知が欠けると学校では埋め合わせはでき
(24)[ i (25)
ない」と述べられているでは、範例は「判断力の歩行器(Gange lband) 」と呼ばれている。『判断力批判』
では、つまり、特殊的なものが概念に包摂されることのない反省的判断力についての論述では、人が机を
机と認識するのを図式が助けるのと同じ様な仕方で、範例が判断の助けになっている。範例は私たちを導
(26)
き案内する。それによって判断力が「範例的妥当性」を獲得するのである。
範例は、それ自体の内に概念または一般的規則を含む、あるいは含むものと想定されている特殊的なも
のである。例えば、人はいかにして、ある行為を、勇気あるものと判断し、評価することができるのであ
ろうか?判定に際して人は、一般的規則からの推論によらず、自発的に、「この男には勇気がある」と言う。
ギリシア人であれば、「心の奥底で」アキレスを範例にするかもしれない。ここでも構想力が必要になる。
アキレスは明らかに不在であるのに、アキレスを現前させねばならないからである。私たちがある人を善
[6, -
良だと言う時にも、私たちは心の奥で、聖フランシスやナザレのイエスを範例としているのである。判断
カは、範例が正しく選ばれる限りにおいて、範例的妥当性を有する。あるいは、別の例を挙げれば、フラ
ンス史の文脈で、私は特殊な一人の人間としてのナポレオン・ボナパルトについて語ることができる。し
かし、ボナパルティズムについて語る瞬間には、私はナポレオンを一っの範例にしているのである。この
範例の妥当性は、ナポレオンの同時代人として、あるいは、この特殊な歴史的伝統の継承者として、ナポ
レオンについての特殊な体験を所有する人たちに限定されるであろう。歴史学や政治学における概念のほ
とんどは、こうした限定された性質を有している。それらは、ある特殊な歴史的出来事にその起源を有す
るわけであるが、私たちは後になってそれを「範例的」なものとし、その特殊的なものの内に、複数の事
例に妥当するものを見るようになるのである。
171 構想力170
〔l 〕〔〕内の部分は、『純粋理性批判』の原文にはなく、アーレントによる挿入。
〔2〕「ジョージ・ワシントン橋」は当然、『純粋理性批判』の原文にはなく、アーレントによる挿二ューヨーク市のワシントンハイツ(マンハッタン島の北 端)とニュージャージー州のフォートリで、一九二七年に着工され、一九三一年に完成された。
〔3ご産出的
pro
dukti v J ではなく、「再生的reprod uktiv」としている版もあり、アーレントの使っている英訳でも

repro ducti ve〉となっているが、ここではアカデミー版や岩波のカント全集に従って、「産出的」と直〔4 〕原文では、「象徴Symbol」という言葉が使われている。
〔5〕原文では、〈B ei
sp
iel〉になっている。アーレントの文章では、〈Symbol〉にも〈Beispiel訳語が当てられているので、英語の表現としては辻棲が合っている が、原文に即した解釈としてはではアーレントの文章に合わせて、いずれも「範例」と訳した。
〔6 〕フランシスコ会の創設者であるアッシジのフランチェスコ(一
(訳注)
原注)
一八一/八ニー―二二六)のこと。裕福な家庭に
『カント全梨八巻』、二ニ節、
二四一頁以下)
(l) Critzque of Pure Reason, B 151. trans.
N•
K. Smith (New York : St.Martin's Press, 1963) (カント「純粋理性批判」『カ
ント全集四巻j‘-――-O頁[―部改訳した).
(2) Kant, Anthropology from a Pragmatic Point of View, ァ28 (傍点付加), trans. Mary J. Greg 0 r (The Ha磨e→Nijhof, 1974) (力
ント「実用的見地における人間学」[ Iカント全集一五巻』、二八節、八三頁[-部改訳した) .
(3) Ibid., ァ34 (同、三四節‘-O四頁).
(4) Kathleen Freeman 又foci/la to the Pre , Socratic Philosophers (Ox」0 rd: Basil Blackwell, 1971) , p.42を参照。
(5) Hermann Diels and Walther Kranz, Die Fragmente der Vorsokratiker, 5th ed・(Berlin) , B.2la. Freeman, Ancilla to the Pre ,
Socratic Philosophers (Oxford: Basil Blackwell, 1971) ,
p•
86を参品源。
(6) Critique of Pure Reason, B 17 6ff・(カント「純粋理性批判」i『カント全集四巻j‘
(7) Ibid., Bl03 (同、一五四頁[イタリツク〔傍点〕編者)●
(8) Ibid., B 180 (同、二四三頁:イタリック〔傍点〕編者).
(9) Ibid., Al24 (同、一九八頁).
(10) Ibid., Bl8 0(同、―-四四頁).
(11) Ibid., B29 (同、九0 頁] 一部改訳した).
(12) Ibid., B863 (『カント全集六巻l‘――四頁).
(13) Ibid., Bl80 (『カント全集四巻」、二四四頁[―部改訳した).
(14) lbid.,A94 (同、一七三頁[―部改訳した) .
(15) Ibid., BISO (同、一_四四頁i 一部改訳した).
(16) Ibid., Bl80'ool(同、二四四頁) .
(17) lbid.,Bl81 (同、二四四頁[-部改訳した)
(18) Ibid., A 120 Anrn. (同、一九五頁)
一〇五頁)
(19) Ibid., Bl81 (同、二四四頁).
(20) Ibid., BI04 (同、一五四頁i一部改訳した)
(21) Ibid.,All8 (同‘-九三頁).
(22) Critique of Judgment, General Remark t 0名22
, trans. J. H. Bernard (New York: Hafuer, 1951) (カント「判断力批判」]
ント全集八巻」、分析論第一章に対する一般的注解‘-O九頁).
(23) Ibid., ァ59 (同、五九節、二五八頁以下)
(24) Critique of Pure Reason, B 172 (カント「純粋理性批判」[
(25) Ibid. Bl73 (同、一一三八頁) .
(26) Critique of Judgment, ァ22 (カント「判断力批判」
[カント全集四巻l、二三七頁)
Iカ
173 注
172
ハンナ・アーレントの判断論
生まれたが、家を出て、清貧の修道生活を送ったことで知られている。
ロナルド・ベイナー
174

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