はじめによんでください

植民地グアテマラと宗主国スペインのトランスアトランティックな音楽交流:ビリャンシーコに焦点を当てて

El intercambio musical transatlántico entre la colonia de Guatemala y la metrópoli española: centrado en Villancico

Nanako Sarah Taki y Mitzub'ixi Qu'q Ch'ij

☆ これまで、本学会では、グアテマラ共和国の現代を生きるマヤの人びとの音楽について発表させていただいておりましたが、今回は、その音楽が一体どこから やってきたのか、という歴史的な観点から検討をしたく思います。

1 これまで、本学会では、グアテマラ共和国の現代を生きるマヤの人び との音楽について発表させていただいておりましたが、今回は、その音楽が一体どこからやってきたのか、という歴史的な観点から検討をしたく思います。

グアテマラのマヤの人びとの音楽の潮流を調べていたところ、「ビリャンシーコ」というジャンルの音楽がかれらの音楽に影響を与えていることがわかりまし た。
ビリャンシーコとは、宗主国であるスペインで16世紀から18世紀ごろに生起した世俗的な音楽です。

本発表では、植民地グアテマラと宗主国スペインのトランスアトランティックな音楽交流や音楽的融合について、考えてゆきたいと思います。


今回はその全貌を明らかにしたわけではございませんが、グアテマラ・マヤの人びとの音楽がビリャンシーコに由来すること明らかにしつつ、宗主国スペインと の音楽交流や音楽的融合について、考えてゆきたいと思います。

2 こちらはわたしが調査地としておりますグアテマラ高地のミサにおいて聖歌が歌われる様子です。昨年まではこのような音楽に焦点を当て、エスノグラフィーの 手法を用いて研究を中心としてきました。

こちらはわたしが調査地としておりますグアテマラ高地のミサにおいて聖歌が歌われる様子です。昨年まではこのような音楽に焦点を当て、エスノグラフィーの 手法を用いて研究を中心としてきました。
3 発表の概要
本日の本発表の概要は以上のとおりです。

6から9のグアテマラ音楽部分は、西洋音楽と対応するため、概観をするにとどまります。
1. 昨年度の発表
2. ビリャンシーコとの向き合い方
3 .  ビリャンシーコの説明
4.   グアテマラ音楽の潮流を知る事に惹かれた理由
5. グアテマラの音楽はどこから来たのか?
6. グアテマラの音楽:(1)ルネサンス期
7. グアテマラの音楽:(2)バロック期
8. グアテマラの音楽:(3)古典期
9. グアテマラの音楽:(4)ロマン派
10.  植民地グアテマラと宗主国スペインのトランスアトランティックな音楽交流
11. グアテマラ音楽におけるビリャンシーコ
12. ビリャンシーコの展開(仮説)
13. まとめ
4 昨年度の発表

さて、昨年度の発表では、グアテマラのマヤの人びとの音楽を、1)伝統音楽、2)民俗音楽、3)民衆音楽と分類し、このような音楽がどのような社会的分脈 に置かれるのかを定義しました。
1)伝統音楽は、先住民音楽と16世紀に植民者が持ち込んだものですが、先住民の音楽的要素が強調されるものであり、聖的、つまり宗教的・儀礼的文脈があ るもの、と位置付けました。
2)民俗音楽は、聖的な要素は薄く、近代初期に確立したもので、世俗音楽、マリンバ音楽や、軍隊音楽を含む、と説明しました。
3)民衆音楽とは、ラテンアメリカ諸国や、北米、あるいはワールドミュージックなどの影響を受けた歌謡曲やロック、レゲエ、レゲトン、サルサを含むポップ ミュージックとカテゴライズしました。
以上のような分類を行うことにより、グアテマラ・マヤの人びとの音楽を概観し整理をすることができ、マヤ音楽に広がりがあることを明らかにいたしました。
本年の発表においては、では、「マヤ」の人びとの音楽は一体どこから来たのか、どのように形成されたのか、を2024年から2025年にかけて2ヶ月ほど 現地にて聴き取り調査や楽譜を含む歴史的な資料収集、そして第一資料の分析、文献の情報から探り、グアテマラ、とくにマヤの人びとの音楽の成り立ちについ て、つまりグアテマラの音楽の潮流を考察をすることにしました。


5 グアテマラ歴史音楽への想い

6 グアテマラの音楽はどこから来たのか?

グアテマラの音楽は一体どこから来たのかを考えていきたいと思います。
グアテマラの「音楽(Música de Guatemala)は、先住民文化に根ざした、マヤ文化の音楽、あるいは舞踊音楽、ガリフナによる太鼓を中心としたリズム音楽や舞踊などの先住民音楽、 植民地期に宣教師たちが持ち込んだ典礼音楽・娯楽音楽が礎になっていると考えられます。

さらには、典礼音楽やヨーロッパ起源の楽器の受容を通して、伝統音楽、植民地スペインのルネサンス・バロック・古典派・ロマン派のクラシック音楽や、8音 列による音楽を経て、平均律用いた「マリンバ音楽」が国民音楽としが普及しました。

つまり、オカリナや、アヨトゥルと呼ばれる亀の甲羅を叩く楽器、また、カラコルと呼ばれるほら貝といった、入植以前の音楽や舞踊が、入植後にもたらされた 音楽と融合して、グアテマラ音楽に厚みを持たせたと考えられます。

スライドしたの左側の楽器がオカリナ、右側に法螺貝が見られます。

20世紀以降のグアテマラ音楽は、ラテンアメリカ、欧米世界との交流を通した、クラッシック音楽やポピュラー音楽の導入などと独自な展開をし、さらには、 欧米音楽界への進出による世界音楽化など、いつかのジャンル化が可能だと考えられます。
それらの音楽は、単線化して移り変わってきたのではなく、それぞれのジャンルの演奏家やパフォーマーが、相互に交流して、重層的に発展し、現在のグアテマ ラ音楽の多様性を形作っている、と考えられます。(池田 Online)
以上のようなグアテマラのマヤ音楽の成立に欠かせない音楽が、副題に示した、ビリャンシーコだと考えられます。

7 ビリャンシーコの背景〜モサラベ聖歌


ビリャンシーコが成立するまでの歴史を知るには、6世紀から11世紀に東方教会から影響を受けたモサラベ(Mozárabe)聖歌や、トレドを中心とする スペインのカトリック教会で歌われた典礼聖歌を調べる必要があります。特に、8世紀〜15世紀には、イスラム支配下におけるスペインのキリスト教徒の音楽 がモサベラ聖歌と呼ばれたものだそうです。モサベラ、とはスペイン語で、「イスラム教徒・アラブ支配下にあったキリスト教徒」を意味しますので、ビリャン シーコにもアラブ的な響きを持つものがあり、長い年月を経て、現代ではフラメンコやロマの音楽に通ずるものがあります。
左の手稿譜はモサラベ聖歌、中央は、モサベラ聖歌の交唱集 「antifona」の手稿譜の表紙で、東ローマの教会で歌われていたビザンツ聖歌の楽譜です。
見づらくて申し訳ないのですが、右から2番目の地図に11世紀ごろのキリスト教勢力を緑色で、イスラム勢力を青色で示しております。
このように、8世紀〜15世のあいだは、イスラム教音楽の影響も十分に受けておりましたので、ビリャンシーコにもアラブ的な響きを持つものがあり、長い年 月を経て、現代ではフラメンコやロマの音楽に通ずるものがあります。
発表者の研究は、この時代まで遡れておりませんが、これらモサベラ聖歌やスペインの典礼聖歌を追求することは、ビリャンシーコの成立の理解にとり不可避だ と考えております。
♪モサラベ聖歌をお聴きください

8 ビリャンシーコとは?
さてビリャンシーコの説明をさせていただきます。

ビリャンシーコは、主にクリスマス・キャロルのために作曲されましたが、娯楽のためにも用いられていましたと、ホセ・スビラ氏は示しております。
宗主国スペインでは、地域により異なる音楽スタイルが生まれました。
それぞれの地域が独自の音楽文化を育んでおり、ビリャンシーコは、アンダルシア地方にその起源を持つのではないか、と言われています。
語源が「villano 村人」と、あるように、民衆的で庶民的な側面をもち、踊りを伴い、アンダルシアの作曲家たちがビリャンシーコの音がと「トノ」と 称され、16世紀の「トノ」は歌謡・俗謡の意味をもち、現在のフラメンコでは、リズムとギターの伴奏用語にも用いられる、とスビラ氏のは記しています。 (スビラ1991『スペイン音楽』)

ベルンハルト・モールバッハは、「ルネサンス期のスペインの作曲家によるリートの創作はいくつかの『カンシオネロ』(リート集)が今日まで伝えられてお り、今日演奏されるルネサンス・アンサンブル音楽の源泉となる」、と説明し、このリート音楽をその頃の宮廷王子が午後のシエスタの祈りとして歌っていたと 報告しております。。
一方で、17世紀〜18世紀(ある特定の地域の)スペインで、演奏され、聴かれた、抒情詩的・物語的なリート形式がビリャンシーコという新しいジャンルを 生んだとモールバッハは明らかにしています。

ビリャンシーコの音楽的形式は、エストリビージョEstribillo(リフレイン)と呼ばれる曲の冒頭と各節の合間に繰り返されるもので始まり、これは 歌全体のテーマや雰囲気表彰します。そして、Copla(連詩/詩節)と呼ばれる複数のスタンザ(stanza)で構成され、それぞれがエストリビージョ と対になるように展開される、とモールバッハは説明しています。
•  構成例はスライドのとおりです。
 Estribillo – Copla 1 – Estribillo – Copla 2 – Estribillo – …
 

A-B-A形式で、エストリビジョと呼ばれるリフレインで始まり、終わり、全体として数々のコプラ(詩節)をもち、エストリビジョは、ビリャンシーコのな かでは、コプラとコプラのあいだに何回でも挿入でき、「特に、上声部のメロディは、イベリア半島の太古からの民族音楽を取り入れ、独特の魅力を持つ」、と 先のモールバッハは説明しております。

モールバッハは、それぞれの楽曲にさまざまな形象化が含まれており、頻出するものが、処女の女性・もしくは既婚の軽薄な尻軽女、欲の深い老いたる女性であ り、自分の娘が信頼するべき母親像の根源を表象している、と分析しています。
歌詞のなかでよく出てくるタームに、心、目、賞賛、懇願。訴え、不眠、別れ、孤独、置き去りにされることいった悲観的なもの、また、山で迷うこと、盗人、 借金、などがあり、その一方で歓迎の挨拶、修道女、女としての愛を受けることの憧れ、女の本能として生きる喜び、などの楽観的な言葉もよく使われる、とい うことから、ビリャンシーコはグレゴリオ聖歌などの聖歌とは、類を非にしていることがわかります。

さらには、16世紀から18世紀にかけて、ビリャンシーコ・ネグロという「黒人のビリャンシーコ」が存在していたことが、メロディー・ミシェルにより明ら かにされています。(Melodie Michel 2020 The Iberian Villancico de Negro: Between Parody, Cooptation, and Agency)
その名のとおり、主に奴隷のアフリカ系黒人の登場人物がイエスの誕生を祝う様子を描写したもので、当時のスペイン人が想像した「黒人の話すスペイン語(い わゆるピジン・スペイン語風)」が使われていたそうです。多くのビリャンシーコ・ネグロには、黒人を「陽気で素朴な存在」として描くなど、ステレオタイプ や差別的表現も見られるため、今日では批判的な視点からの分析が重要だと考えられます。
「Negro que non sabe leer」(読み書きできない黒人)など、タイトルにも「negro」が付けられ、差別的なニュアンスを含んでいる作品も存在するとの報告が、ミシェルよ りなされています。

(ベルンハルト・モールバッハ 井本晌二訳 『ルネッサンスの音楽世界ーテキスト、音、図象による新たな体験』)

♪では、例えば、アンダルシアを代表するカディス大聖堂におけるjácara(ジャカラと呼ばれる陽気な世俗調の掛け合い)」の演奏をお聴きください。

このような掛け合いには、典礼の枠に収まりきらない、地域ごとの口語表現や遊び心が感じられます。

(ビャンシーコ以外の歌曲(俗謡)には、ロマンセ、エンサラーダ、カンシオン(カンツォーネ)、マドリガル、ビリャネリャ(Villanella)、など があります)
このような陽気な音楽は、16世紀後半に宗主国スペインと植民地ラテンアメリカより、世俗的なポリフォニック音楽として発展しました。また、カトリック暦 の祝祭日のマチン=早課(Matins)の間に歌われたヴィリャンシーコは、17世紀に非常に人気が高まり、18世紀から19世紀にかけてこのジャンルが 衰退するまでその人気は続きました。



9 現代のマヤ語で歌われているクリスマスのためのヴィリャンシーコを お聴きください。

マヤ語によるクリスマスのためのヴィリャンシーコレッスン模様
♪現在のマヤ語におけるビリャンシーコのレッスンの様子をおご覧いただきたいと思います。
ビリャンシーコはクリスマスのための音楽として作曲されることが多いのですが、子どもたちがクリスマスへ向けて練習を行っております。
ギター、もしくはマンドリンの伴奏,のリズムもビリャンシーコの音楽を想起させられます。このように、ビリャンシーコは現代マヤの人びとへ存続されている ことがわかります。


10 グアテマラ音楽の歴史への想いを駆り立てたもの・1
グアテマラ・シティの大聖堂のアーカイブ
Archivo Histórico Arquidiocesano de Guatemala

発表者のマヤ音楽・歴史研究を後押ししてくれた研究所が二つ存在しますので、そちらをご紹介したいと思います。
前述のとおり、これまではマヤの人びとの音楽を民族学誌的に考察してきましたが、一方で、かれらの音楽の成り立ちについて、長い間興味があるものの、その 扉を開けることができず、今回の調査では一歩足を踏み入れることができたと思います。


まず、こちらのスライドはグアテマラ・シティの大聖堂のアーカイバルセンターです。左上の写真が大聖堂、その裏にアーカイバルセンターがあります。中央の 写真はスペインから持ち込まれたグレゴリオ聖歌の原譜、大量に所蔵されているビリャンシーコの楽譜を右側に見ることができます。

センター長のAlejandoro Conde氏との会話から、ビリャンシーコとグアテマラ・マヤ音楽の関係について教示を得ることができました。歴史家であるConde氏は、音楽にも造詣 が深く、わたしの興味対象に関して詳しく説明をしてくれたとともに、大聖堂のアーカイバルセンターArchivo Histórico Arquidiocesano de Guatemalaの使用を快諾して下さいました。
グアテマラでは、1960年から1996年にかけて、惨憺たる内戦が奮起し、他の教会では史料が焼かれてしまい、破棄されたものも多いのですが、こちらの 大聖堂では当時の枢機卿をはじめ、聖職者たちが積極的に資料を保管をしていたため、音楽的な資料のみならず、他分野の資料が保存状態良く残されていること に驚きを感じました。その量は大量で、全ての資料を並べると12キロメートルにも及ぶそうです。

Conde氏によると、これら貴重な資料に興味を持つ現地の方や国外の方が少なく、アーカイバルセンターの維持は危惧されている、とのことです。

大聖堂の隣のアーカイブセンターということもあり、静寂の中、多くの資料を収集することができました。
実は、このアーカイブセンターで調査を行うためには、多くの手続きが必要でしたが、Conde氏は、センターの使用を快諾してくださいました。しかし、ス ペインとグアテマラ双方で作曲されたビリャンシーコだけでも800曲以上を所蔵しているため、今後の作業は難航すると考えられます。

Conde氏によると、これら貴重な資料に興味を持つ現地の方や国外の方が少なく、アーカイバルセンターの維持は危惧されている、とのことです。

11 グアテマラ音楽の歴史への想いを駆り立てたもの・2
アンティグアのCIRMA (メソ・アメリカ地域研究所)のアーカイブ
Archivo Histórico Musical de Guatemala

こちらの研究所は、首都グアテマラ・シティからバスで1時間ほどの第2の都市にある、メソ・アメリカ地域研究所であり、その名のとおり、グアテマらのみな らず、ホンジュラス・ニカラグア・ベリーズ・コスタリカなどの中央アメリカの他分野におよぶ資料を収集しております。
左側が研究所の写真です。

写真中央の『Album Musical de Oscar-Peraltas』といった楽譜を見せていただきましたが、16世紀から始まったビリャンシーコの導入が、楽譜を持たないマヤ音楽へ、記譜と いう意味で大きく影響を与えたと考えられます。

以上のような研究所・大学機関の研究者たちの後押しもあり、発表者はビリャンシーコの研究を開始しようと考え始めました。

12 グアテマラの音楽:1.ルネサンス期 (ヌエバ・エスパーニャ期)

グアテマラは、1524年から新大陸で最初にヨーロッパ音楽が導入された地域のひとつであり、宣教師や聖職者たちは、カトリックの年中行事のための典礼聖 歌の幅広いレパートリーを持ち込みました。特に1534年に建立された最初のカテドラルにおいて、グレゴリオ聖歌とポリフォニー聖歌が育成されました。
ポリフォニーは教会の音楽監督(maestro de capilla)のもとに演奏され、音楽監督は、適宜合唱曲を提供する役割を担っておりました。音楽監督は、16世紀にサンティアゴ・デ・グアテマラの大 聖堂で活躍した次の3人のイベリア人作曲家が特によく知られています:エルナンド・ フランコ(Hernando Franco)、ペドロ・ベルムデス(Pedro Bermúdez)、ガスパール・フェルナンデス(Gaspar Fernández)。彼らはいずれも、さまざまな教会写本に収められ、主に日が暮れる時の聖歌(晩課)とミサの典礼のために書かれた作品が残されていま す。


13 こちらは、ルネサンス期のグアテマラ人Hernando Franco作曲の聖歌を現代譜にしたものです。
フランコの音楽は、彼の死後も高く評価され、メキシコ、プエブラ、グアテマラの大聖堂や、カルメン、エンカルナシオン(メキシコ)、ハカルテナンゴ(グア テマラ)の修道院など、様々な場所で使用された。
出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Stevenson_(musicologist)


14 グアテマラの音楽:2.バロック期

17世紀になると、スペイン人侵略者が改宗のためにもたらしたビリャンシーコがジャンルが根付くようになりました。明らかにビリャンシーコの輸入により、 グアテマラのそれまでの西洋音楽や土着の音楽に変化がみられたようです。
宣教師が先住民に教理を伝える手段として土着の曲にビリャンシーコを取り入れ、この時期から、音楽的融合が始まったと考えられます。ビリャンシーコは、主 にカスティーリャ語、つまりスペイン語で書かれましたが、ガリシア語、イタリア語、フランス語の方言、時にはグアテマラ土着の言語であるナワトル語やキ チェ語で書かれることもありました。
この頃にビリャンシーコの作曲家が多く輩出されましたが、グアテマラで活躍した著名な作曲家には、ラファエル・アントニオ・カステジャーノス (Rafael Antonio Castellanos)以下の作曲家がこぞってビリャンシーコの作曲を始めました。
また、同時代人には徒弟制度も発達し、弟子に、マヌエル・シルベストレ・ペレゲロス、ペドロ・アントニオ・ロハス、ペドロ・ノラスコ・エストラーダなどの 多くの作曲家が生まれました。


15 グアテマラの音楽:3.古典派

グアテマラでも18世紀中頃から19世紀初頭にかけて、ヨーロッパ同様にソナタ形式、交響曲、室内楽、協奏曲などの様式が確立されるようになりました。
特にホセ・エウラリオ・サマヨア(José Eulalio Samayoa)は、様式志向を象徴する作曲家で、ハイドンやモーツァルトの様式を模範とし、ウィーン古典派の影響を強く受け、交響曲や器楽曲を作曲し た。彼の作品には明確な形式感、明快な和声、バランスの取れたフレージングが見られています。
現在では、交響曲第7番、市民交響曲、歴史交響曲の3曲が残っています。
一方で多くの宗教曲(ミサ曲、モテット(無伴奏の多声楽曲)、テ・デウム「神よあなたを讃えます」など)を作曲しており、それらはグアテマラ・カテドラル で演奏された、との記録が残っています。
これらの宗教音楽には、教会の儀式にふさわしい荘厳さと柔らかなリズムが存在する、との指摘がLenhoff氏の文献に残されています。

16 グアテマラの音楽:4.ロマン派

グアテマラにおけるロマン派音楽については、ヨーロッパのように広く知られた作曲家は存在しませんでした。
しかしながら、多少なりとも19世紀から20世紀初頭にかけて、グアテマラにもロマン派的な音楽が生起しました。グアテマラ独自の文脈の中で活動した作曲 家たちは、西洋音楽の技法を学びながら、自国の伝統音楽や社会情勢を背景に作品を残していきました。

ヨーロッパの影響により、ロマン派のイタリアやドイツの影響を受けた作曲様式が広まりました。

また、先住民族との融合により、マヤの音楽的要素も取り入られ、ロマン派以降の作曲家は西洋手法とマヤ音楽の要素を融合させることが多々ありました。


その他、ロマン派音楽時期には、ピアノ音楽、オペラ、軍楽隊、半音階マリンバの発明が挙げられます。
多くのピアノ音楽が作られましたが、なかでもよエルクラノ・アルバラード(Herculano Alvarado)(1879-1921)の人気が高かったと、Lenhoff氏は述べています。
ヴィルトゥオーゾ、ルイス・フェリペ・アリアス、フリアン・ゴンサレス、ミゲル・エスピノサらがヨーロッパから帰国したことで、大きな盛り上がりを見せま した。彼らの作品は、エルクラノ・アルバラード(1879-1921)などのピアノ専門の作曲家により、20世紀まで受け継がれることになりました。
Lenhoff氏によりますと、アルバラドは、ピアニスト兼作曲家、さらにグアテマラ国立音楽院の監督でありました。
♪では、エルクラノ・アルバラード(Herculano Alvarado)作曲のワルツを少しお聴きください。(45秒くらい?)
もちろん、Villamcicoもロマン派時代に沿った作曲がなされるようになっていきました。

17 植民地グアテマラと宗主国スペインのトランスアトランティックな 音楽交流

こちらの図は、「植民地グアテマラと宗主国スペインのトランスアトランティックな音楽交流」を表したものです。
これまでの説明のとおり、グアテマラおける植民地時代の音楽は,「(1)ルネンサンス期」と「(2)バロック期」に分類されます。そして、この時代以降、 つまり植民地から独立すると、の音楽ジャンルは「(3)古典派と(4)ロマン派」にわけられることを視覚化いています。
スペイン人による征服前のマヤ時代の音楽や独立後の伝統的もしくは国民的音楽は「グアテマラの伝統音楽あるいは民衆音楽」とカテゴライズできる一方で、グ アテマラのスペインによる征服(1524年〜1697年)以降における音楽は「グアテマラおける植民地時代の音楽」と呼ぶことができます。
宗主国と植民地には政治経済のみならず、絵画などの文化や他の学芸などの交流があり、植民地グアテマラと宗主国スペインの間のトランスアトランティックな 関係として描くことができます。
(ちなみに、わがアジアでもフィリピンはスペインに支配されていた時代(1565年〜1898年)があり、本年度4月に初めてフィリピンを訪れ、聖歌の予 備調査を行ったが、多様な福音教会やフィリピン独自の信仰形態が存在し、グアテマラとは異なることが明らかになりましたが、こちらはトランスパシフィック な音楽として今後の課題としたいと思います。)

18 グアテマラ音楽におけるビリャンシーコ

これまで、お話しをしてきました、ビリャンシーコは、布教の道具として、マヤの音楽と融合しましたが、タンボールと呼ばれる大太鼓やマリンバとともに演奏 されたり、マヤの言語とスペイン語が混合して使用されたり、コール&レスポンス形式 (エストレビージョとコプラス)から成立している点も、グア テマラにおけるビリャンシーコはスペインのビリャンシーコを形を変えながら継承していると考えられます。
わたしの調査するグアテマラ高地では、マヤの儀礼・キリスト教の儀礼にかかわらず、ハープアンサンブル(=ハープ、ヴァイオリン、ギター、ハープの共鳴箱 を叩く打楽器トゥムトゥムの演奏家からなる四人で編成のがアンサンブル)、マリンバ、竹製の縦笛が用いられております。
ハープ・アンサンブルは、スペインがルネッサンス黄金期を迎えた15世紀末から16世紀にかけて発生した世俗音楽であるビリャンシーコにその起源をもこと を,前述のとおり、グアテマラの音楽史研究者や作曲家からの聞き取り調査や、文献調査により確認がされました。
(グアテマラでも、スペイン同様に16世紀では教会旋法(ドリア・リディア・ミクソリディア)など教会旋法的な先方をしばし使われていましたが、この時代 は純粋な教会旋法より、後期バロック寄りに調性化しています。
18世紀後半には、ほぼ現代の長調・短調へ移行しました。ただし、カデンツにはモ教会旋法的な響きを持つものもありました。
加えて、フラメンコでよく導入される、フリジア風旋法が一部に現れ、さらに先住民との融合もあり、旋法には独自性が見られるようになりました。)
(マイナースケールの第2音を半音下げれば何でもフリジア旋法にななる。DフリジアンはDmに対してミが♭になった形。F#フリジアンだったらF#mに対 してソがナチュラルになった形、AフリジアンだったらAmに対してシが♭になった形。第2音が半音上下することによって短音階とフリジア旋法の差が決定づ けられるので、この第2音のことを特性音(特徴音)と呼ぶ。フリジア旋法は主音と第2音の間の音程が半音になっていることにより「ファ→ミ」という下行で 主音に解決する進行が可能となる。このファ音を「下行導音」と言いう。)

これまで分析を行った、グアテマラのハープ・アンサンブル36曲では、A-B-A形式、もしくはA-B形式で、独特のコーダがつけられております。また、 ほぼ三拍子編成で、メロディーラインの分析からフリジア風旋法が多用されることから、ビリャンシーコの影響を受けていることが認められています。

(グアテマラでは、ビリャンシーコは、民間信仰におけるマリア讃歌やクリスマス讃歌、恋歌、舞踊曲などを含み、最上部におかれた旋律を中心に軽やかなリズ ムに乗って歌われています。主なグアテマラの作曲家としてホアン・デル・エンシーナ(1468-1529)やホアン・バスケス(ca.1500- 1560)が挙げられます)

19 イベリア半島とラテンアメリカにおけるヴィリャンシーコの展開 (仮説)

この図では、イベリア半島とラテンアメリカのトランスアパティックな音楽交流を表しています。
図の上では、クリスマス・キャロルとさせていただきましたが、実際にはビリャンシーコのことを指し示しており、かつてのイベリア半島、つまりスペインで世 俗音楽的な社会現象となっていたビリャンシーコが、スペイン人侵略者がラテンアメリカにやってくることにより波及しました。
本来ならば改宗目的のグレゴリオ聖歌を取り入れたと仮定しますが、そのころのグアテマラ人びとには陽気な音楽であるビリャンシーコが気に入られ、皮肉にも 布教に一役買ってしまった、というわけです。その後、ビリャンシーコは現地の音楽と融合し、独自の、ハープ・アンサンブルやマリンバの音楽を作り上げて いった様子をこの図にて示しました。

20 Archivo Histórico Arquidiocesano de Guatemalaが所蔵の
「Balon (ボール)」と題されたビリャンシーコの手稿譜です。

グアテマラ・シティに所在するカテドラルに付属するアーカイブセンターには、このようなビリャンシーコの古い楽譜が、多数所蔵されております。センター長 によると、分類法に難があり、なかなか分類が進まないとこのことです。
今お見せしているビリャンシーコの手稿譜「Balon ボール」呼ばれ、17世紀ごろにグアテマラの作曲家Manuel Jose Quieósにより作曲されたのです。本来ならば4声のはずですが、コプラと通奏低音の部分のみが残されています。
わたしにはこの楽譜を解読することが難解でしたので、関西で「アンサンブル・プリンチピ・ヴェネツィアーニ」を主宰され、リュート奏者でもいらっしゃる笠 原雅仁先生に読譜と現代譜への書き直しをお願いいたしました。
また、冒頭の表記に「35. Resp. A4」とあるので、おそらく4声部用応答歌形式のビリャンシーコだと思われます。出だしは2拍子、その後、拍子が代わり、3拍子となり、音部記号はソプラ ノ譜表が使われています。Fにシャープがあるので、Gドリア旋法ではないか?ということが読み取れる、とのご指摘もいただきました。

21 「Balon」を現代譜にしたもの

浄書したものがこちらですが、楽曲全てをお見せすると大変長くなりますので、出だし部分を浄書し、音源化いたしました。途中、ソプラノパートに長い間休符 が見られますが、本来4声部の楽曲ですので、アルト以下の声部が補っていたものと思われます。

♪では、少しだけ音源をお聴きください。

22 「Balon」の歌詞

Balonはボールの意味で、表題音楽となっておりますが、楽譜にはビリャンシーコ形式であることが示されております。歌詞中にありますように、年若い修 道士、修道士ではなくとも、若い人びとがこの音楽にのって踊り、歌い、クリスマスギフトを手にして、喜ぶ様子を示しているものだと思います。

23 まとめ

昨年度はグアテマラで演奏されている音楽の分類と実態について発表しましたが、本発表はそれをうけて「グアテマラの音楽はどこから来たのか?」について考 察しました。
そして、冒頭では、現代グアテマラのアルタベラパス県サンファン・チャメルコ市の教会聖歌を紹介し、この音楽のルーツについて考えることを示しました。
グアテマラの西洋音楽は、スペインのルネサンス期からロマン派と、西欧の時代区分に対応しますが、それはスペインによる新大陸征服と植民の時期に重なって いるためです。

今後はグアテマラの音楽は土着的な音楽とスペインからの西洋音楽の輸入・共存・融合・定着の過程として調べなければならないことを切に感じています。
本発表では、イベリア半島発のビリャンシーコという音楽と詩の形式に着目して、大西洋を挟んだトランスアトランティックな音楽交流について考えきました。
政治経済における植民とは異なり、音楽文化を通した植民過程は音と詩句の抵抗・受容・融合という過程からなりたつために、トランスアトランティックな文化 の、エドワード・サイードの言葉を借りれば、音楽文化の対位法的関係(E. Said)を明らかにする必要性を感じています。
また、ビリャンシーコ音楽を把握を急ぎ、深化させることは今後の大きな課題だと考えております。

・・・グアテマラ音楽の歴史研究は長い間温めてきたものであり、10年ほど前に行いました、ラファエル・ランディバール大学のDieter Lehnhoff氏への聴き取り調査では、グアテマラの音楽はビリャンシーコの影響を強く受けている、とのご教示をいただきましたが、フィールドワーク中 心の研究を続けましたが、Lenhoff先生や国立サン・カルロス大学の研究者、またこのスライドのメソ・アメリカ地域研究所たちの方々の後押しもあり、 歴史研究を開始することができました。
(また、日本では初版1991年に日本語に訳されたホセ・スビラ氏の「スペイン音楽」を精読することで、本発表のコアとなるビリャンシーコの理解を深める ことができました)

24 以上、参考文献と協力機関です
25 ご清聴いただきありがとうございました!

26

ビリャンシーコの時代と年代別特徴
1)ルネサンス期(16世紀)
・教会旋法、対位法中心、ポリフォニー重視
・初期スペイン系聖職者(トマス・パスカル)
・モテット様式の影響、旋律線がなめらか、テキストは宗教的
2)バロック期(17世紀〜18世紀前半)
・宗教と世俗の融合。ビリャンシーコ・ネグロの登場
・ラファエル・アントニオ・カステジャーノス
・通奏低音、ダイナミックなリズム、民族的要素(アフロ・ラテンを含む)
3)古典派(18世紀中葉〜後半)
・構造が整い、調性が明確。オペラ風の影響あり
・マヌエル・ホセ・キンテーロス
・明瞭な和声進行、ホモフォニー。形式の簡素化
4)ロマン派(19世紀)
・ナショナリズム、感情表現の拡大、地域文化の強調
・ホセ・エウラリオ・サマヨア、オスカル・ペラルタ
・ロマン的旋律、感情的ダイナミズム、先住民・地方音楽の要素

★補足説明


リ ンク

文 献

そ の他の情報


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