沙門空海請来倭國真言密教
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774 佐伯真魚。宝亀5年讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県) で生まれた(伝)父は郡司・佐伯田公、母は安斗智徳の娘で名は不詳[注釈 2]。幼名は真魚。真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日と云われている。
788 延暦7年(788年)、平城京に上る。上京後は、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在
789 延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の叔父である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章な どを学んぶ
792 延暦8年(789年)、18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ
793 延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず19歳を過ぎた頃から山林での修行に入った
798 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著し、俗世の教えが真実でないことを示した。
この時期より入唐までの空海の足取りは不詳。『大日経』を初めとする密教経典に出会い、中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした。この時
期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かっている。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修めたことが記され、とく
に室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開き、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあ
り、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗った。求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、
現在では大安寺の戒明ではないかとの異説も立てられている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者である。空海の
得度に関しては、延暦12年に、20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺で出家したという説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたが、延暦
23年、遣唐使が遭難し来年も遣唐使が派遣されることを知ったとされる。
804 入唐直前31歳の延暦23年(804年)に東大寺戒壇院で得度受戒したという説(伝)。
太政官譜では延暦23年(804年)4月7日出家したと記載する[9][注釈 6]。空海という名は太政官譜が初出である[11]。鎌倉時代成立の『御遺告』には私度僧として無空とも名乗ったともある。
803(ママ) 延暦23年(803年)、中国語の能力の高さや医薬の知識面での推薦も活かし、遣唐使の長期留学僧として唐に渡る。
第18次遣唐使一行には、この時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されて、当時の仏教界に確固たる地位を築いていた最澄もい たが、空海はまったく無名の一沙門だった。同年5月12日、難波津を出航、博多を経由し7月6日、肥前国松浦郡田浦、五島市三井楽町[14] から入唐の途についた。空海や彼と同様に乗船していた貴族の橘逸勢は遣唐大使の第1船で、最澄は第2船に乗船していた。第3船と第4船は遭難し、唐にたど り着いたのは第1船と第2船のみであった
804 空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。
海賊の嫌疑をかけられ、疑い が晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している。また、空海個人での長安入京留学の嘆願書 「啓」を提出し、「20年留学予定」であると記述している[15]。その理路整然とした文章と優れた筆跡により遣唐使と認められ、同年11月3日に長安入 りを許され、12月23日に長安に入った。
805 永貞元年(805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三 蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけた。空海は般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられる。
5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をす でに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し[16]、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受け る。 8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名 は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の 接待をし、感謝の気持ちを表している。 8月中旬以降には、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われ、恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿 闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法へ の感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。 同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。
806 元和元年(806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草
3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集した。折しも遭難した第 4船に乗船していて生還し、その後急に任命されて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成を通じ上奏して、「20年の留学予定を短縮し2年で留学の滞在費 がなくなったこと」を理由に唐朝の許可を得て[17] その帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途についた。途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開いた ため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになった。福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆 を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたという[18]。
大同元年(806年)10月、空海は無事、博多津に帰着。大宰府に滞在し、呉服町には東長寺を開基し、宗像大社神宮寺であった鎮国寺を創建し た。10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰った多数の経典類、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物などが『請来目録』 に記されている。空海は20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、空海に対して朝廷は大同4年(809年)まで入京を許可せず、大同元年10月の帰 国後は入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた[注釈 8]。大同2年(807年)より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。この時期空海は個人の法要を引き受け、その法要のため密教図像の制作などをし ていた[17]。
809
空海はまず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺に入った。この空海の入京には、最澄の尽力や支 援があった。その後、2人は10年程交流関係を持った。密教の分野に限っては最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていた。しかし、法華一乗を掲げる最 澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃に訣別する。2人の訣別に関しては、後述の最澄からの理趣釈経の借 覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題もある。
810 大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、嵯峨天皇につき鎮護国家のための大祈祷を行った。
811 弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて、乙訓寺(京都府長岡京市)の別当を務めた。
812 弘仁3年11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、 光定、泰範のほか190名にのぼった。
813 弘仁4年(813年)11月23日、最澄が空海に「理趣釈経」の借覧を申し入れたが、密教の真髄は口伝による実践修行にあり、文章修行 は二の次という理由で空海は拒否した[21]。
815 弘仁6年(815年)春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼 した。時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなった。この頃『弁顕密二教論』を著している。
816-819
弘仁7年(816年)6月19日、修禅の道場として高野山の下賜を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨勅許を賜る。翌弘仁 8年(817年)、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、弘仁9年(818年)11月には、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞 在した。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷 万象名義』などを立て続けに執筆した。
819 弘仁10年7月、嵯峨天皇の勅命によって宮中の中務省に居住した。勅命の理由は不詳であるが、官人の文章作成能力の向上という天皇の依 頼に応えるためだったとみられている[22]。
821 弘仁12年(821年)、満濃池(まんのういけ)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。
822 弘仁13年(822年)、太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。この年平城上皇に灌頂を授けた。
823 弘仁14年(823年)正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。
824
天長元年(824年)2月、勅により神泉苑で祈雨法を修した。3月には少僧都に任命され、僧綱入り。6月に造東寺別当。9月には高雄山寺が定額 寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となった。天長5年(828年)には『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三 守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院」を開設。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかった が、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた学校であった。綜芸種智院の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教 育機関でもある。『綜藝種智院式并序』において「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定んで道にあり」と、学校の存続が運営に携わる人の命運に左右される 不安定なものであることを認めたうえで、「一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇、大臣 諸侯や仏教諸宗の支持・協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針を示している。ただし、実現はしなかったらしく、綜芸種智院は空海入滅後10年 ほどで廃絶した。はるか後年になって、種智院大学および高野山大学がその流れを受け継いでいる。
829 天長6年(829年)、白雉元年(650年)に役行者が創建した京都の志明院を再興した。
830 天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』三巻を著した。
831 天長8年(831年)5月末病を得て、6月大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留された。
天長8年に病を得て以降の空海は、文字通り生命がけで真言密教の基盤の強化とその存続のために尽力した。とくに承和元年12月から入滅までの3
か月間は、後七日御修法が申請から10日間で許可されその10日後には修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行った。
すべてをやり終えた後に入定した。
832 天長9年(832年)8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修された。空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我 が願いも盡きなん」と想いを表している。秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々に入る。
834 承和元年(834年)2月、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。12月19日、毎年正月宮中において真言の修法を行 いたい旨を奏上。同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三綱を置くことが許されている。
835 承和2年(835年)
1月8日より宮中で後七日御修法を修す。1月22日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。2月 30日、金剛峯寺が定額寺となった。3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日午前4時[23] に入定した。享年62歳。伝真済撰[注釈 9]『空海僧都伝』によると死因は病死で、『続日本後紀』によると遺体は荼毘に付されたとある。しかし後代には、入定したとする文献が現れる。
877 元慶2年11月11日に空海の弟子真雅が朝廷に言上した「本朝真言宗伝法阿闍梨師資付法次第の事」
それ[27] によれば、空海の付法弟子は、真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延の10人とされ、釈迦の十大弟子になぞらえ、弘法大師十大弟子とも称するようになった。十大弟子の語の初出は慶長年間の成立とみられる頼慶『弘法大師十大弟子伝』。
921 延喜21年(921年)10月27日、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。
921年以降
高野山壇上伽藍・根本大塔の塔内に昭和天皇宸筆の扁額「弘法」が掲げられている。
最初は「本覚大師」の諡号が贈られることになっていたが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号が贈られた[24]。
中世に入ると、空海の評伝は絵画化された。「弘法大師伝絵」と呼ばれ、絵巻の作品が中心である。「高野大師行状図画」、「弘法大師行状絵巻」など空海のさ
まざまな伝説が、全国に知られる一因ともなった。
真言宗では、宗祖空海を「大師」と崇敬し、その入定を死ではなく禅定に入っているものとする。高野山奥之院御廟で空海は今も生き続けていると信じ、「南無
大師遍照金剛」[25]
の称呼によって宗祖への崇敬を確認することが修行の一環となっている。なお、真言宗醍醐派では、空海に大師号が贈られる以前から帰依し信仰していたことを
強調するため「南無遍照金剛」[26] と大師をつけずに呼ぶ場合がある。
故郷である四国において彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集め
ている。
1684 貞享元年成立の智灯『弘法大師弟子伝』では計20人の記述があり、弟子全てを網羅することを目指した。『弘法大師弟子伝』…堅恵、真泰、道昌、真紹、真然、如意尼、常暁、真際、真境、真体など。
1843 天保13年刊の道猷『弘法大師弟子譜』では、計70人を載せている。『弘法大師弟子譜』…円行、最澄、光定、円澄など
空海の書がこれです。風信帖(ふうしんじょう)は、空海が最澄に宛てた尺牘(せきとく)3通の総称である。
■冒頭の額の解説
聾瞽指帰(ろ うこ・しいき):「空海が24歳の著作であり、出家を反対する親族に対する出家宣言の書とされている。......流麗な四六駢儷体で書かれている。蛭牙 公子、兎角公、亀毛先生、虚亡隠士、仮名乞児の5人による対話討論形式で叙述され、戯曲のような構成となっている。亀毛先生は儒教を支持しているが、虚亡 隠士の支持する道教によって批判される。最後に、その道教の教えも、仮名乞児が支持する仏教によって論破され、仏教の教えが儒教・道教・仏教の三教の中で 最善であることが示されている。弁証法的な手法によって、仏教が論理的に称揚されている。日本における最初の比較思想論であり、思想の主体的実存的な選択 を展開した著作」ウィキ「三教指帰(Sangō Shiiki)」 より
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