キャップをかぶればあなたは「ナース」
――象徴としての衣装あるいは、聞き耳ずきんを超えて――
池田光穂
ナースキャップはナースキャップです。それ以外になにも本質的な意味はありません。
しかし、ナースキャップにあこがれ、戴帽式つまりキャッピングに特別な意味を込めるのは、キャップに象徴される ナースの候補生としてなれたという経験がその人にとって重要な意味を持つからです。たんに帽子をかぶるという経験が、どうしてこんなに重要なことに思われ るのでしょうか。それは、たんなる帽子に、人びとがさまざまな意味を込めているからにほかなりません。そして、そのような多重の意味を込めているという秘 密の正体について自覚していないからです。神秘が神秘になるのは、そこに何か意味があるのではなく、それ自体が神秘的だからと思いこんでいるだけです。そ の秘密の種あかしを試みましょう。
まず、キャップや白衣などナースが身につけているものは、働きやすい服装として機能するほかに、その仕事を表現し たり、職業人としての意識を高めるという作用があります。高校時代、人前で制服のままタバコを吸うことはたいへんな勇気がいりましたが、私服に着替えたと たん気にせず吸うことができた、という経験を持つ人多いのではないでしょうか。少なくとも私にはそのような経験があります。これは、制服を着用することに よってそれを着る人の社会的な役割を自ら身にまとうということがあるからです。医師、スチュワーデス、科学者、学生、ファーストフード従業員など、制服を まとうことで自分の意志とは関係なしに、その役割を演じることが容易になります。みなさんが、授業や実習でロール・プレイングをやって演技するときに、学 生服のままでやるよりも、白衣やパジャマ、聴診器や血圧計などの衣装や小道具を使うほうが、より演技に身が入ることはありませんか。
このような職業人としての自覚のために、儀式としておごそかにキャッピングすることは、職業人としての意識を高め ることに大いに役立つことでしょう。しかし、衣装を着ることが職務を遂行することにはつながりません。だけど、制服の威力は絶大なものがあります。街で私 服で見ればただのおじさんですが、クリニックのなかで白衣を着てデンと座るだけで、大変な名医にみえる人を私は知っています。制服を着ることが脅威になる ことさえあります。最近、警察官の制服がよりソフトなものに一新されましたが、警察がもつ威圧的な印象を薄め、市民により近い存在として意味づけようとす る意識の表れです。
もっと面白いことがあります。ナースのキャップや白衣は、若い清楚な女性が身につけるという一般的なイメージがあ ります。これは現実には対応していません。なぜなら、現在、病院では様々な年齢の女性がナースと働いていますし、手術室に赴くナースは言うまでもなくそん な恰好はしません。しかし、大衆のイメージの中では、ナースキャップや白衣が「清楚な女性」であるという意味づけがなされているために、AV女優たちが演 技をするときに、そのようなコスチュームを身にまとうことがあります。ほかにスチュワーデスなどもありますが、当事者からみれば、これは怒り心頭を通り越 してあきれて一種のおかしささえ憶えるかも知れません。あまりにも現実離れしているからです。このようなことは衣服や装身具に倒錯的な興味を覚える病的な 状態と言えなくはありませんが、むしろ制服がもっているイメージの力が変な方向で働き、まったく別な意味をもつという一例だと考えられます。
どうでしょうか、みなさん。キャップや白衣の意味を身につけたときに職業的自覚を強めるものだ、ということが理解 できれば、キャップも寿司屋のおやじの鉢巻きも同じものだということがよくわかりますね。しかし、そこまで一般化することにも確かに問題はあります。寿司 屋では板前さんのように袋型の帽子もあるし、鉢巻きしないこともあります。しかし、病院という制度の中では、准看と正看の違いだけでなく職域のランキング や専門科別に分けられていることもあり、より整理整頓されていますし、自分が付けたくないといっても、そのようなわがままが通るわけではありません。こち らのほうは、高度な医療体制のなかで、熟練度にもとづく専門領域を外からみたときに、きちっと区別する必要があるからです。軍隊と同じように、機能分化さ れた組織ではある程度避けられない面もあります。
最後にキャッピングにまつわる私の思いで深い経験をひとつ。かつて看護学校で教鞭をとっていたときに、学生たちは 私をキャッピングに招待してくださいました。その学校はキャンドルサービスを照明を落として演出するほどの凝ったキャッピングは行いませんでしたが、なか なか味わい深い儀式として構成されていました。しかし、その最中によく知っている学生が校長先生から戴帽したのですが、なぜかポロッと落ちてしまいまし た。落ち方があまりにも見事だったので何人かの人につられて笑ってしまいましたが、ちょっと不謹慎かなと後で妙に反省してしまいました。しかし、その反省 が杞憂であることが分かったのは、みんなを校庭で祝福したときです。先生からプレッシャーをかけられながらも基礎単位を習得したという喜びを、学生たちは キャッピングに託していたのであって、キャッピングだけを特別扱いしていなかったことです。なんと健全なことではありませんか。
喜びを全身であらわす学生のはつらつさと、本人も学生も楽しいエピソードで笑ってすごすたくましさに触れたこと が、強く印象づけられました。ナースキャップはナースキャップにすぎません。しかし、それにまつわる個人の経験の豊かさがナースキャップにつねに多様な意 味を込め、それ自体を味わい深いものにしているのです。
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