はじめによんでね!

尾高ファミリーの研究

On Study of the Odakas during the Japanese Wartime, 1931-1945

池田光穂

【尾高次郎】
 尾高 次郎(おだか じろう[1]、1866年4月2日(慶応2年2月17日)[2] - 1920年(大正9年)2月4日)は、日本の実業家、銀行家[3][4]。武州銀行(現埼玉りそな銀行)の初代頭取[1]。岳父は渋沢栄一[5]。族籍は 埼玉県平民[2][6]。武蔵国榛沢郡下手計村(のちの八基村、現埼玉県深谷市下手計)出身。尾高惇忠の次男[1][7][8]。数え3歳の頃、親族の尾 高幸五郎の養子になる[7][9][10][2][6]。1882年、幸五郎から家督を相続する[2][6]。 1891年、高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、第一銀行(現みずほフィナンシャルグループ)入行。名古屋支店長、四日市支店長、釜山支店長、仁川支店長、監査役を歴任し、釜山・仁川で日本人商業会議所会頭、居留民会議長も 務めた[4][3]。 1904年、韓国興業(→朝鮮興業[1913 -1945])専務取締役。1909年から東 洋生命[1905-1936]社長として再建にあたった。第一次世界大戦が始まった1914年には南洋殖産[→第一次大戦後1920年に倒産。南洋興発に引き継がれ る]を設立し、同社長として南洋諸島の開拓にあたった。1918年、武州銀行(現埼玉りそな銀行)を設立し、頭取に就任する[3][4]。1920 年、鎌倉で療養中死去。享年55。寛永寺で葬儀が執り行われ、遺骸は汽車にて郷里に移送された後に埋葬された[5]。 https://bit.ly/3u0hkut

◎韓国興業
「日露戦争直後の1904年(明37)9月、朝鮮半島の農業改良事業を目的に渋沢栄一ら実業家の提唱により韓国興業が設立。1909年(明42)韓国倉庫 を合併し倉庫業に進出、1910年(明43)には同様の拓殖事業を行っていた韓国拓殖を合併し事業を拡張する。同年の韓国併合により韓国興業は1913年 (大2)朝鮮興業と改称。各地に農場を配置し安定した農業経営にあたる。25年史は沿革と農業・倉庫・畜産事業等を記述した13章からなり、特に農業を詳 述。多数の事業写真と統計表を含む。[1945年(昭20)北緯38度線以南の耕作地は新韓公社が接収、それ以外の消息は不明]」朝鮮興業(株)『朝鮮興 業株式会社二十五年誌』(1929.10).[渋沢社史デー タベース

◎南洋殖産から南洋興発へ
「第一次世界大戦のドイツ帝国敗戦により、南洋の旧ドイツ領を国際連盟・委任統治領として日本が統治することになった。これを契機として日本内地の資本が 次々と進出するが、大戦後の恐慌の影響を受けて初期の進出会社は経営に行き詰まった。1920年に南洋殖産、1921年には西村拓殖が倒産した。そして、 後には従業員である約1,000人の移民が取り残された[3][4][5]。残された労働者は飢餓に苦しみ、土着の住民の主要な食糧であるヤシがカイガラ ムシによる虫害を受け、彼らも食糧難に襲われていた[1]。これらの2社の倒産の同時期に、日本内地と台湾で製糖業に携わっていた松江春次は、移民の救済 と南洋での製糖業の将来性を主張していた[3]。これらの失業者の救済と南洋開発のため、松江春次を中心に設立されたのが南洋興発である。南洋興発株式会社(なんようこうはつ、英語: Nanyo Kohatsu Kabushiki Kaisha)は、第一次世界大戦後に大日本帝国の委任統治領となった南洋群島サイパン島において、1920年代に東洋拓殖株式会社と実 業家の松江春次が中心になって設立した企業。第二次世界大戦終結時のポツダム宣言の受諾に伴い、1945年9月30日に閉鎖機関に指定されて解散した。南 洋興発は、満州を拠点とした南満州鉄道に対して南洋諸島を舞台に発展したため、「海の満鉄」[1]と呼ばれるほか、「北の満鉄、南の南興」[2]と並称されることもある。南洋庁(1922-1945)や日本海軍と密接な関係を持ち、南洋庁長官は南洋群島の統治に強い影響力を持つ南洋興発を「群島と興発会社は共存共死、一蓮托 生の関係」と評した[2]。」

◎東洋拓殖
「東洋拓殖は、1908年(明治41年)12月18日制定の東洋拓殖株式会社法(東拓法)を根拠法とし、日本統治時代の朝鮮における日本農民の植民事業を 推進することを目的として設立された[2]。 設立時の資本金は20万株で1000万円であった。韓国政府現物出資(土地)分6万株および役員持株千株を除く13万9000株が同年11月公募され、対 象とされた日朝両民族による応募額は、35倍を超える466万5000株に達した[3]。 東洋拓殖の歴史は殖民団体たる「東洋協会」の作成案(東拓設立要綱)にまでさかのぼることが出来る[2]。桂太郎が中心人物となったこの東洋協会の案が政 府内部で審議され始め、1908年2月に「東拓創立調査会」が発足。委員長の岡野敬次郎(内閣法制局長)、勝田主計(大蔵省理財局長)、児玉秀雄(総督府 書記官)の主導の下に骨格が作られた。この動きに対して韓国統監(当時)の伊藤博文が、東拓の役員・出資者に韓国人を入れることを旨とする大韓帝国政府と の共同出資案を創立調査会に告げ、また韓国王室との日韓民間の半官半民資本の共同出資により設立され、初代総裁には宇佐川一正(陸軍中将)が赴任した。 設立委員会には豊川良平(三菱合資会社銀行部総裁)、中野武営(関西銀行総裁)、韓相龍(漢城銀行総務長)ら財界や韓国側からも参加して、国家資本輸出と 密着して植民地投資が展開されていく尖兵となった[4]。こうして政府が創立から8年間に毎年30万円の補助金交付、社債の保証を始めとした保護を含めた 国策会社となった。」

尾高 豊作(おだか ほうさく、1894年7月9日 - 1944年1月4日)は、日本の実業家、教育者。刀江書院創業者で、同社長、埼玉銀行頭取、日本技術教育協会会長、日本児童社会学会会長などを務めた。 秋田県で尾高次郎の長男として生まれる。母は渋沢栄一の娘[1]。埼玉県出身[2]。妻豊子は、最後の岸和田藩主で司法大臣などを務めた子爵岡部長職の三女。娘の泰子は、最後の鳥羽藩主稲垣長敬の孫で子爵稲垣長賢の弟・ 稲垣重兼の妻。 東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。武州銀行副頭取、埼玉銀行頭取などを歴任し、 多数の会社の役員も務めたが、1925年出版業を通じて日本の文化向上を図るため刀 江書院を創業、社長を務める[3][2]。 郷土教育連盟や日本児童社会学会を設立して[4]前者の代表[5]、後者の会長を務め、また日本技術教育協会会長なども務め、戦間期の日本の民族教育において、文部省などに対し指導的役割を果たした[6][7] [1]。 1927年には弟の尾高朝雄とともに、東京社会科学研究所の設立を支援し、一橋の大塚金之助を所長とし、常務 理事に田辺寿利を、所員には大塚門下の高島善哉や、福田徳三門下の杉本栄一を招いた[3]。https://bit.ly/3KNHBlG

尾高 朝雄(おだか ともお、1899年1月28日 - 1956年5月15日)は、日本の法学者(法哲学)。日本学士院会員。第3期日本学術会議副会長。漢学者で銀行家である尾高次郎の三男として生まれる。父 方の祖父の尾高新五郎惇忠は殖産家であり、民営富岡製糸場所長を務めた。母方の祖父は実業家で子爵の渋沢栄一。法学者・穂積陳重は義理の伯父に当たる。伯 母の尾高ゆうは富岡製糸場伝習工女第一号として著名。兄には郷土教育家の尾高豊作、大川平三郎の養子となった製紙実業家の大川鉄雄、弟には早世した美術研 究者の尾高鮮之助、社会学者の尾高邦雄と指揮者の尾高尚忠がいる。妻・咲子は国文学者芳賀矢一の四女で[1]、娘は久留都茂子(元・東京女学館短期大学学 長)。 1916年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業した後、第一高等学校 (旧制) 、東京帝国大学法学部卒業。初め外交官を志すも、親の反対により諦め、京都帝国大学 文学部に進学し、文学部卒業後は大学院で哲学を研究する。京都帝国大学 では西田幾多郎、米内庄太郎に師事した。 1927年、兄・豊作と共に、東京社会科学研究所を設立し、所長に大塚金之助を、常務理事に田辺寿利を、所員に杉本栄一や高島善哉を招くなどした[2]。 その後、法哲学研究者として京城帝国大学法文学部教授や東京大学法学部教授を歴任す る京城帝国大学助教授であった1928年11月13日からの約3年 半 の間、政府の奨学金で欧米に留学、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカと在留した。特にウィーンではハンス・ケルゼンの下で国家学を、フライブルクでは エトムント・フッサールの下で現象学を学んでいる。また、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが開いていたセミナー(研究会)にも参加した。アルフレッド・ シュッツなどとの交流を持つ。当時、穂積重遠、牧野英一、田中耕太郎など法哲学(法理学)に精通した研究者はいたが、いずれも実定法研究者であり、法学部 出身者で法哲学を専攻した者は極めて少なかった。そのため、尾高は日本の最初の本格的な法哲学専攻者と称される[3]。 多くの日本人が師事したハンス・ケルゼンとの親交は特に厚く、ケルゼンは尾高を最も高く評価していた[4]。尾高はケルゼンがナチスによりドイツを追われた際には、同僚かつ同じくケルゼンにも師事した憲 法学者の清宮四郎と共に、京城帝国大学に招聘しようと運動を試みたが、功を奏しなかった[5]。 1947年に『国民主権と天皇制』に 掲載された論文「国民主権と天皇制」において、ノモス主権論を提唱し、宮沢俊義と論 争した(尾高・宮沢論争)が、ノモス主権論は憲法解釈の領域においては支持を得なかった。 1952年には、パリで開催された第7回ユネスコ総会に日本政府代表として出席している。 1956年に、歯の治療中にペニシリン注射でショック症状を起こし、都立駒込病院に入院後に死亡した。尾高の死がきっかけとなり、ペニシリンによる薬害は ペニシリンショックとして社会問題化し、薬のショック死が認識されることになる。日本の薬害問題の最初期のものとしても有名である。https: //bit.ly/346w3sR

尾高 邦雄(おだか くにお、1908年10月17日 - 1993年9月11日)は、日本の社会学者。東京大学文学部名誉教授。実業家・尾高次郎の五男として東京市根岸に生まれる。長兄は郷土教育家の尾高豊作、 次兄は大川平三郎の養子となった製紙実業家の大川鉄雄、三兄は法哲学者の尾高朝雄、四兄は早世した美術研究者の尾高鮮之助、弟(六男)は指揮者の尾高尚 忠。子爵・渋沢栄一の孫。1926年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業する。附属中の同級生には、勝田守一、宗像 誠也(共に「東大教育の3M」)などがいる。第二高等学校を経て、1932年に東京帝国大学文学部社会学科卒業、同副手となる。以来、助手、講師、 1945年助教授、1953年東大文学部教授。1969年、定年退官、名誉教授となり、上智大学教授、1979年、同退職。1993年、叙正四位、叙勲二 等授瑞宝章。妻の京子は和辻哲郎の長女。労働経済学者で一橋大学名誉教授、法政大学名誉教授の尾高煌之助は息子[1]。弟子に石川晃弘、日高六郎[2]ほ か。 https://bit.ly/3IG4ghR

尾高 尚忠(おたか ひさただ、1911年9月26日 - 1951年2月16日)は、日本の作曲家、指揮者。東京府生まれ。幼少の頃から音楽に親しみ、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)を経 て旧制成城高等学校文科(現・成城大学)を半年で中退し、1931年にウィーンに留学、ピアノをベルタ・ヤンベール、音楽理論をリヒャルト・シュテールに 学んだ。翌年一時帰国して武蔵野音楽学校で作曲科の教鞭を取り、その間作曲をクラウス・プリングスハイム、ピアノをレオ・シロタに学んだ。1934年に再 びウィーンに渡り、作曲をヨーゼフ・マルクス、指揮をフェリックス・ワインガルトナーに学び、個人的にフランツ・モーザーに作曲、管弦楽法、指揮の教授を 受けた。在欧中の1938年からはウィーン交響楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立つなど指揮者として活躍し、併せて自作の披露も行っ た。ウィーンではヴァイオリニストのヴォルフガング・シュナイダーハンと親交があった。 1940年に帰国後、1941年1月に新交響楽団(NHK交響楽団の前身)を指揮し、日本デビューを飾る。新交響楽団が日本交響楽団に改組する直前に山田 和男とともに新響の専任指揮者となり、時期的に演奏活動が難しくなっていったジョセフ・ローゼンストックを支え、また定期演奏会の指揮台に立った。戦後も 引き続いて日響のタクトを振って活躍したが、戦中から戦後に蓄積した極度の疲労から1951年1月12日の名古屋での地方公演を最後に病に倒れ、39歳で 死去した。死因は出血性上部灰白質脳炎。3月5日に山田和男指揮による追悼演奏会が行われた。 尾高は死の直前、日響機関誌「フィルハーモニー」に『強行軍的演奏旅行』と形容した当時の日響の超多忙ぶりを示した寄稿をしている。燕尾服の上からヒロポ ンを注射して指揮台に立つような有様だったという[1]。また尾高の死後には音楽評論家の野村光一が「尾高を殺したのはNHKである。NHKがすべて面倒 を見ていれば、楽員は多忙から解放されたはずだ」云々という一文を『毎日新聞』に寄稿したことがきっかけとなり、日響は尾高の死の約半年後にNHKの全面 支援を受け「NHK交響楽団」に改称された。また、NHK交響楽団は日本の優れた管弦楽曲に贈られる賞に「尾高賞」の名を冠した。 尾高の残した映像や録音の資料は極めて少ない。録音では、東京交響楽団(東京フィルハーモニー交響楽団の前身であり、現在の同名オーケストラとは異なる) を指揮し、安川加壽子と共演したサン=サーンスのピアノ協奏曲第5番『エジプト風』のスタジオ録音(1943年、ビクター)と、自作の交響曲第1番を振っ た断片的なライヴ録音の2点、映像では1948年の放送芸能祭でベートーヴェンのオペラ『フィデリオ』の第2幕を指揮しているものが1点、残されているだ けである。https://bit.ly/3IKywrN

渡 正監(わたり まさみ、1897年(明治30年)9月5日[1] - 1953年(昭和28年)2月7日[2])は、日本の内務官僚。上海共同租界警視総監。貴族院議員・錦鶏間祗候渡正元の九男として生まれ、兄渡干城の養子 となった[3]。1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し[1]、文官高等試験行政科・外交科に合格した[3]。東京府属、社会局 属、大阪府警視・保安課長、警察講習所教授、和歌山県書記官・警察部長、静岡県書記官・学務部長、福島県書記官・警察部長、青森県書記官・総務部長、東京 府書記官・経済部長、千葉県書記官・総務部長を歴任した[1][3][4]。1941年(昭和16年)に在中華民国大使館参事官に転じ、翌年から上海共同 租界警視総監も兼ねた[4]。戦後、公職追放となった[5]。『警察行政の理論と実際』(警察新報社、1929 年),『警務大系』上・下(警務研究会、 1932年) - 清水重夫との共著 https://bit.ly/3fYHsO4

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体:澁澤 榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の明治・大正期の実業家、財界の指導者[2]。井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みず ほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。そのうち企業は約500社 [4] にもおよび、「日本資本主義の父」[5] と称される。東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会等の医療事業、商法講習所(現:一橋大学)、大倉商業学校(現:東京経済大学)、高千穂高等商業学校 (現:高千穂大学)等の実業教育、東京女学館などの女子教育、台湾協会学校(現:拓殖大学)の設立、二松學舍(現:二松学舎大学)第3代舎長就任等による 私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。また『論語と算盤』の言葉に代表されるその道徳経済合一の 思想でも広く知られている[6]。https://bit.ly/3G526Xv

大川 平三郎(おおかわ へいざぶろう、万延元年10月25日〈1860年12月7日〉 - 1936年〈昭和11年〉12月30日[1])は、明治から昭和初期の実業家。「日本の製紙王」と呼ばれ、「大川財閥」を築いた。1879年(明治12年)、大川は会社不振の原因を分析し た建白書を提出、それが会社に認められ、20歳で社命でアメリカに渡り、シャワンガム社・モンテギュー社などで製紙技術を修得した。大川は逐一、栄一に状 況を手紙で報告した。1年半の留学を終え帰国した大川は、パルプの原料を藁に替えるコストダウンを実行、21歳にして会社の副支配人に就いた。1884年 (明治17年)、化学パルプの技術革新が起こった欧州に調査に赴いた。帰国後の1890年(明治23年)、試行錯誤の末、日本で最初の亜硫酸法による木材 パルプの製造に成功、さらに木材チップを煮る釜を改良して「大川式ダイゼスター」を考案した。1893年(明治26年)に技術部門を担当する専務取締役に 就任。しかし、1898年(明治31年)三井財閥が経営に参画したことから渋沢栄一は会長を退任、大川も王子を去った。大川は、彼と行動を共にした技術 者・職工らと四日市製紙(三重県)に移籍。1901年(明治34年)に上海の製紙会社に招かれ、1903年(明治36年)に帰国した後は九州製紙(熊本 県)の社長に就任。次いで1906年(明治39年)中央製紙(岐阜県)を、1908年(明治41年)木曽興業(長野県)を設立し、1908年四日市製紙の 役員に復帰(1918年社長に就任)、1909年(明治42年)には中之島製紙(大阪府)の会長にも就任した。1914年(大正3年)樺太工業を設立、1919年(大正8年)には大手製紙会 社富士製紙の社長に就任。この結果大川が経営する製紙会社は合計で国内市場の45%を握り[2]、大川は「日本の製紙王」と呼ばれた。1933年(昭和8 年)に王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が合併(「大王子製紙」発足)した際は、同社の相談役に就任した。さらに浅野セメント(後の日本セメント、現・ 太平洋セメント)、札幌ビール、東洋汽船、日本鋼管、鶴見臨港鉄道[3](JR鶴見線)など80余の企業経営に携わり「大川財閥」を作り上げた。

◎樺太工業株式会社の成長と衰退
樺太工業は1913年、大川平三郎(1860年 - 1936年)と、大川が経営ないし関与いしていた5つの製紙会社の出資によって設立された。1911年、大川は九州製紙・中央製紙・四日市製紙の3社共同 で樺太の国有林の伐採権を取得し、1913年から3社の工場へ木材をパルプ原木として供給を開始した。一方、三井物産も1911年に樺太国有林の伐採権を 得、三井合名会社と共同し王子製紙の技術協力の下、1913年6月に樺太南部海岸の大泊町において亜硫酸パルプ(SP,Sulfite Pulp)工場の建設に着手した[2](1914年11月操業開始。後の王子製紙大泊工場で樺太初のSP工場[3])。これを受けて大川は、大川系企業5 社と関係者とともに同年12月、急遽樺太工業を立ち上げ、三井・王子の樺太進出に対抗した[2]。なお、樺太工業は1913年1月に設立された樺太林産を 改称したものである[3]。1911年、大川は九州製紙・中央製紙・四日市製紙の3社共同で樺太の国有林の伐採権を取得し、1913年から3社の工場へ木 材をパルプ原木として供給を開始した。一方、三井物産も1911年に樺太国有林の伐採権を得、三井合名会社と共同し王子製紙の技術協力の下、1913年6 月に樺太南部海岸の大泊町において亜硫酸パルプ(SP,Sulfite Pulp)工場の建設に着手した[2](1914年11月操業開始。後の王子製紙大泊工場で樺太初のSP工場[3])。これを受けて大川は、大川系企業5 社と関係者とともに同年12月、急遽樺太工業を立ち上げ、三井・王子の樺太進出に対抗した[2]。なお、樺太工業は1913年1月に設立された樺太林産を 改称したものである[3]。こうした状況を打開するため大川は樺太工業と王子製紙・富士製紙3社の合同を構想するようになる。王子製紙社長の藤原銀次郎に も打診するが、王子の大株主である三井財閥が樺太工業が抱える膨大な負債を危惧したため藤原は賛同を控えた。1931年、後ろ盾であった渋沢栄一が死去、 融資を仲介してきた井上準之助も翌1932年に死去し、大川は財界の協力者を失う。その影響で銀行団からの樺太工業の支援が縮小されていった

芳賀 矢一(はが やいち、慶応3年5月14日(1867年6月16日) - 昭和2年(1927年)2月6日)は、日本の国文学者[1]。東京帝国大学名誉教授、國學院大學学長、帝国学士院会員。上田萬年に続く東京帝国大学国語国 文学教授で、国学とドイツ文献学をあわせた日本国文学の基礎を作り、近代国文学の父と称された。また国語教育に携わり国定教科書を編纂した。「尋常小学読本」編集・校閲との関連 で、文部省著作の「尋常小学唱歌」を湯原元一らと編纂、歌詞校閲には深く関わっており、一部の韻文歌詞を作詞した可能性も高い。一部では山口県立下関南高 等学校校歌などの作詞もしている。数多くの古典文学を校訂したが、『源氏物語』を論じて、このような乱倫の書物が日本の大古典であることは情けないと述べ ている。夏目漱石と同年で、漱石が講師だった時に教授をしていた。 https://bit.ly/3AA3W1n

和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年(明治22年)3月1日 - 1960年(昭和35年)12月26日)は、日本の哲学者、倫理学者、文化史家、日本思想史家。『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られ、その倫理学の体 系は和辻倫理学と呼ばれる。日本倫理学会会員。兵庫県出身。西田幾多郎などと同じく日本独自の哲学体系を目指した京都学派の一人として扱われることがある 一方で、東京帝国大学文学部倫理学教室教授でもあり、相良亨、金子武蔵、湯浅泰雄らを始め後進を多く育てた。和辻の全蔵書は、1961年に和辻の親友で法 政大学教授であった谷川徹三の仲介で法政大学に寄贈された。長らく整理されないでいたが、1985年に法政大学図書館長となった浜田義文が中心となって整 理が開始され、1994年に「法政大学和辻哲郎文庫目録」がまとめられた。浜田は「和辻文庫の生命は、和辻の読んだ書物への書き込みにあるといって過言で ない」と述べている。https://bit.ly/3g1jWQI

阪谷 芳郎(さかたに よしろう[1]、文久3年1月16日(1863年3月5日) - 昭和16年(1941年)11月14日)は、日本の大蔵官僚、政治家。子爵、法学博士。備中国川上郡九名村(現井原市)出身。大蔵大臣、東京市長、貴族院 議員などを歴任した。父親は阪谷朗廬。曾孫の橋本久美子は首相を務めた橋本龍太郎の妻である。明治17年(1884年)に東京大学文学部政治学科(現:法 学部第3類)を卒業後、大蔵省に入省する。専修学校や海軍主計学校で教鞭をとる。明治21年(1888年)に渋沢栄一の娘と結婚し、会計法など財務に関す る法律の整備に力を注いだ[2]。明治27年(1894年)の日清戦争では大本営付で戦時財政の運用にあたり、戦後の財政計画も担当した[2]。明治30 年(1897年)には大蔵省主計局長となり、明治32年(1899年)には法学博士の称号を与えられ、明治34年(1901年)大蔵省総務長官にまでの ぼった[2]。明治36年(1903年)には大蔵次官となり、日露戦争では臨時煙草 局製造準備局長と臨時国債整理局長も兼任し、軍事費の調達および戦後の財政処理を行う[2]。明治39年(1906年)には大蔵大臣(第1 次西園寺内閣)を務めた。明治40年(1907年)9月、日露戦争の功績により男爵が授けられる。明治41年(1908年)に大蔵大臣を辞任して大蔵省を 去り、半年間外遊する[2]。https://bit.ly/3IN6zjr

穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1855年8月23日(安政2年7月11日) - 1926年(大正15年)4月7日)は、明治から大正期の日本の法学者。日本初の法学博士の一人[1]。東京帝国大学法学部長[2]。英吉利法律学校(中 央大学の前身)の創立者の一人。13歳で婿養子として入江家と養子縁組(婚約)をし、大学南校入学時は入江邑次郎、開成学校では入江陳重と名乗っている [3]。入江家の援助により1876年から英独に留学し、1881年(明治14年)に帰国して東大法学部講師に就任した。翌年、穂積姓に復帰して渋沢栄一 長女歌子と結婚した。イギリス留学時代に法理学及びイギリス法を研究するかたわら、法学の枠を超え、当時イギリスで激しい議論の的になっていたチャール ズ・ダーウィンの進化論、ハーバート・スペンサーの社会進化論などについて、幅広い研究をした。その後、ドイツへ転学し、ハインリヒ・デルンブルヒの講義 を聴講してドイツ法を研究し、サヴィニーに触発され、日本民法へのパンデクテン法体系の導入のきっかけを作った。穂積の学説は、歴史学派・進化主義の立場 に立つもので、民法典論争では、富井と共に延期派にくみし、断行派にくみする梅と対立した[7]。刑法では、ロンブローゾの生来犯罪人説を研究し、新派刑 法理論を日本に紹介した。進化論的立場から、天賦人権論を厳しく批判するとともに、日本古来の習俗も研究し、法律もまた生物や社会と同様に進化するものと 考え、後掲『法律進化論』を完成させ出版することを企図していたが、未完のままに終わっている[8]。https://bit.ly/37GQj38

渋 沢 篤二(澁澤 篤二[1]、しぶさわ とくじ、1872年11月16日〈明治5年10月16日〉[1] - 1932年〈昭和7年〉10月6日[2])は、日本の実業家[1]。渋澤倉庫取締役会長[2][3][4]。学習院を経て、熊本第五高等中学校に学ぶが、 1892年に病のため退学する[1]。家長である父の栄一より、栄一の郷里の血洗島で蟄居謹慎という処分を命じられる[7]。1893年、帰京後は家庭に 良師を招聘して、英漢および法律経済の学を修める[1]。1895年、公家華族の橋本伯爵家の敦子と結婚する。1896年、長男の敬三が誕生する。 1897年、栄一が邸宅内の土蔵群を用い、澁澤倉庫部を創業すると、倉庫部長となる[8]。1898年、二男の信雄が誕生する。1899年、義兄の穂積陳 重に随行し欧米諸国を歴遊して、その制度文物を視察する[1]。帰朝後に第一銀行検査役に就く[9]。1901年、三男の智雄が誕生する。1906年、東 京毛織物株式会社の創立に際し、取締役に挙げられる[1]。1909年、渋沢家直営事業の澁澤倉庫部が、渋沢家と第一銀行の出資により澁澤倉庫株式会社に 改組されると、初代取締役会長となる。 1911年、篤二と芸者玉蝶のスキャンダルが表面化する[7]。1912年1月、篤二の廃嫡方針が渋沢同族会で決定される[10]。1913年1月、篤二 の廃嫡が正式に届出され[10]、澁澤倉庫取締役会長も退任する。『東京朝日新聞』は「澁澤男(爵)の廢嫡訴訟 篤二氏身體繊弱の故を以て」という見出しで「篤二氏は明治40年3月頃より脳神経を病み、暫く治療服薬する内腎臓炎を併発し、それよりやや異状を呈し時折 暴言を吐くなどの事があった」などと伝えている[7]。栄一は、1915年、渋沢同族会を渋沢同族株式会社に改組し、嫡孫とした敬三を社長とし、翌 1916年には第一銀行頭取も退任引退する。 1922年、長男の敬三が木内登喜子と結婚する。同年、篤二は澁澤倉庫に専務取締役として復帰、監査役を経て、1927年再度、取締役会長に就任し終生、 経営の重責に当たる[2]。その間の1925年、長男の敬三に篤二の初孫となる渋沢雅英が生まれる。 父の栄一逝去の翌年となる1932年の夏に健康をそこない、以来引きこもりもっぱら療養に努めるが、10月6日に重態になり、同日午後3時終に永眠する [2]。https://bit.ly/35gY959

渋 沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896年〈明治29年〉8月25日 - 1963年〈昭和38年〉10月25日)は、日本の実業家、財界人、民俗学者、政治家。第16代日本銀行総裁、大蔵大臣(幣原内閣)。卒業後、横浜正金銀 行に入行。1922年、ロンドン支店に着任(支店長大久保利賢、のち矢野勘治)。その間に木内重四郎、磯路夫妻の次女登喜子と結婚(媒酌人は和田豊治)。 重四郎は京都府知事等を務めた官僚で、母磯路は三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の次女。1926年(大正15年)に横浜正金銀行を退職、第一銀行取締役、澁澤 倉庫取締役に就任。第一銀行副頭取などを経て1942年(昭和17年)に日本銀行副総裁[1]、1944年(昭和19年)には第16代総裁に就いた。若き 日の柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、港区三田の自邸[3]の車庫の屋根裏に、二高時代の同級生とともに動植物の標本、化石、郷土玩具などを収集し た私設博物館「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」[4]を開設(第二次大戦中に日本常民文化研究所と改称[注 2])。アチック・ミューゼアムに収集された資料は、東京保谷にあった日本民族学会附属の民族学博物館を経て、現在は大阪吹田・万博公園内の国立民族学博 物館収蔵資料の母体となり、常民文化研究所は神奈川大学に移管された[注 3]。なお三田の旧渋沢邸[注 4]は、戦後国所有になり大蔵相公邸などに使われその後取り壊しの案も出たが1991年に渋沢家で執事をしていた関係者が地元の青森県三沢市の古牧温泉渋 沢公園に移設し展示されていた。現在は所有権を清水建設が買い取り(清水建設の創業二代目がこの渋沢邸を設計した)2023年に江東区へ移築し一般公開す る予定。東京・北区の飛鳥山公園内にある渋沢史料館[6] でも敬三の事績が紹介されている。自らも民俗学にいそしみ、漁業史の分野で功績を残した。祖父・栄一の没後の1932年(昭和7年)には、療養のため訪れ た静岡県内浦(現在の沼津市)で大川四郎左衛門家文書を発見。 一つの村の400年にわたる歴史と海に暮らす人々の生活が記録されていたこの文書を持ち帰って、これを筆写した。 そしてアチックの同人らとともに纏めた『豆州内浦漁民史料』[7]を刊行し、1940年(昭和15年)日本農学賞を受賞した[8]。他に『日本釣魚技術史 小考』、『日本魚名集覧』、『塩俗問答集』などを著した。多くの民俗学者も育て、岡正雄、宮本常一、今西錦司、江上波夫、中根千枝、梅棹忠夫、網野善彦、 伊谷純一郎らが海外調査に際し、敬三の援助を受けている。他にも多くの研究者に給与や調査費用、出版費用など莫大な資金を注ぎ込んで援助し、自らも民俗学 にいそしんだのは、幼い頃から動物学者になりたかったものの諦めざるを得なかった心を癒したものとみえる。敬三と、柳田をはじめ多くの研究者との交友の様 子は、友人でもあった岡茂雄(岡書院店主)の回想『本屋風情』[9]に詳しい。https://bit.ly/34fV2tX

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099

Mitzub'ixi Quq Chi'j