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ハンス・カムラーと ヴァルター・ドルンベルガー:091

Between Hans Friedrich Karl Franz Kammler and Walter Dornberger

池田光穂

ハンス・カムラー(1901-1945)

ヴァルター・ロベルト・ドルンベルガー(1895-1980)
ドイツ帝国領だったシュテッティン(現ポーランド)に軍人であるフランツ・カムラーとマリアの子として生まれる。
1900以前
三代続いた薬局の一家にギーセンに生まれる。兄が二人いる。
第一次世界大戦敗戦後の1919年にロスバッハで義勇軍(フライコール)に参加した
1910s
第一次世界大戦が勃発すると軍に志願して従軍した。1918年10月から1920年3月までフランス軍の捕虜となっていた。戦後ヴァイマル共和国軍に採用
ミュンヘンやダンツィヒの工科大学で構造工学を学んだ。卒業後はプロイセン州の技術系公務員に採用されて、様々な建設プロジェクトに関わった。
1920s
1920年代末にシャルロッテンブルク工科大学(現:ベルリン工科大学)で機械工学を学び、学位を取得。
1930年にはJutta Carla Anna Hornと結婚し、息子2人と娘4人を設けている。1932年3月1日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党。ナチス政権発足後は行政機関の技 術職員となり、最終的にドイツ航空省の建設部門に配属された。1933年5月20日に親衛隊(SS)に入隊した(隊員番号113,619)。1936年4 月に親衛隊少尉に任官された後、技術責任者として様々な経済部門に配属されながら、1938年には親衛隊少佐、翌年には親衛隊中佐、
1930s
1932年、陸軍兵器局より固形燃料ロ ケットの開発を任される。ヴェルサイユ条約によりドイツは長距離砲の開発・所有を禁止されていたため、抜け道として条文にないロケットが注目されたのだっ た。1932年の春、ドルンベルガーとカール・ベッカーが宇宙旅行協会のロケット打ち上げ(失敗した)を見学した。見学後、ドルンベルガーは秘密厳守と軍 事転用を条件にロケット打ち上げを支援する契約を申し出た。当時、若い学生で、チームの一員でもあったヴェルナー・フォン・ブラウンはこの契約に積極的 だった。しかし、結局協会側はこの提案を断った。その後1932年11月、フォン・ブラウンは一人、ドイツ陸軍兵器局に入り、大型ロケット開発を始めた。 ドルンベルガーは、少佐当時の1935年7月、陸軍兵器局で部長に就任。1935年にベルリン工科大学よりジャイロスコープ開発への寄与により名誉博士号 を贈られた。1936年には陸軍兵器局ロケット部長としてロケット開発の監督に任ぜられ、のちのV2ロケット(正式名称はAggregats 4)開発へと繋がった。
「1936年までには、チームはA2ロケットの開発計画を終了し、新たにA3 と A4 の開発に着手した。後者は射程距離 175 km、最大高度 80 km、搭載量 約 1 t として設計された。フォン・ブラウンの設計するロケットは兵器としての現実性を増しつつあり、ドルンベルガーは実験規模を拡大し、かつ研究活動を秘匿する ため、開発チームをベルリン近郊のクマースドルフ陸軍兵器実験場(Heeresversuchsanstalt Kummersdorf)からドイツ北部バルト海沿岸のウーゼドム島ペーネミュンデに新設したペーネミュンデ陸軍兵器実験場(HVP)に移した。」
1940年には親衛隊大佐、1941年に は親衛隊上級大佐、1942年には親衛隊少将、1944年には親衛隊中将と順調に昇進を重ねていく。第二次世界大戦中は経済行政本部(SS-WVHA)に 配属され、長官であるオズヴァルト・ポール親衛隊大将の副官となった。強制収容所を運営するD局局長リヒャルト・グリュックスを監督し、またカムラー自身 も強制収容所の建設を任務とするC局局長としてガス室を含む絶滅収容所の建設に携わっている。
1940
ヒトラーは1939年にクマースドルフ陸 軍兵器実験場で2回の試射を視察するまでは兵器としての潜在性を認識していなかったが、視察後、関心を抱いた[4]。V2量産は軍需大臣De: Gerhard Degenkolbに承認された。彼らは権限を持っており、些細なことでも承認を得るのにエネルギーを費やしたと後にフォン・ブラウンは語っている [4]。干渉にもかかわらず、2年間で100機のV2が製造された。

1941
A4 の約 1/2 スケールモデルの A3 は4回の打上げに全て失敗したため、A5 の設計が始められた。このバージョンは完璧な信頼性を備え、1941年までに約70機が試射された

1942
最初の A4 は1942年3月に飛行、およそ1.6km飛んで海中落下した。2回目の打上げでは高度 11.2 km に到達して爆発した。1942年10月3日の3回目の打上げで成功。ロケットは完全な軌跡を描き、宇宙空間に到達した初の人工物体となって 192 km 先に落下した。
1943年のワルシャワ・ゲットー蜂起の後、親衛隊全国指導者ハインリ ヒ・ヒムラーはカムラーを報復のゲットー破壊作戦の監督に任じた。また軍需大臣アルベルト・シュペーアからも副官に任じられ、カムラーはナチスの兵器製造 にも携わることとなった。軍需工場の建設はもちろん、メッサーシュミット Me262やV2ロケットといった秘密兵器製造にも関与した。1943年にはイギリス軍にV2ロケット建設基地の場所がばれ、大規模な空爆があり、新たな 製造基地が必要となった。その製造基地の建設に親衛隊監督下のブーヘンヴァルト強制収容所の囚人が駆り出され、生産基地がドーラ強制収容所となったのを機 にV2ロケットの生産の監督は実質的に国防軍から親衛隊へと移っていった。 1943
第二次世界大戦中の1943年、少将に昇進しペーネミュンデ陸軍実験場 司令官に任命された。同年より1945年まで、V2ロケット部隊の訓練と補給を担当した。1943年9月より、ミッテルヴェルク有限会社の参与となり、 コーンシュタインの地下坑道でミッテルバウ=ドーラ強制収容所の囚人を強制労働させてロケットを生産した。西部戦線でのV2ロケット投入を賞された。その 多くはフランスとソ連の戦争捕虜で、劣悪な環境の中、約10,000人が過労死したり警備員に殺された。皮肉にもこの数は V2 の攻撃による死者数を上回る。
1944年8月8日にはカムラーが軍のヴァルター・ドルンベルガーに代わってV2ロケットの監督となった。また、同年に二級鉄十字章と一級鉄十字章を授与された後、ドイツ十字章金章が授与された。
1944
1944年10月に戦功十字章剣付騎士章を授与された。
1945年1月には全ミサイルの生産の監督を任され、騎士戦功十字章を受章された。3月には親衛隊大将に昇進し、大戦末期の1945年4月には全航空機生産の全権も任せられたが、 ドイツ本土への連合軍の進撃と空襲、資源枯渇で既に生産できる状況ではなくなっていた。そうした中、連合軍の進撃に備え、4月17日に新型航空機開発研究 施設(チェコスロバキアのプルゼニの地下にあった秘密工場)の撤収作業に携わっていたカムラーはヒムラーから直々に「関連資料をまとめ、即刻親衛隊本部に 出頭せよ」との電報を受けると「親衛隊本部へは行けない」と返電し、開発計画の関係者(科学者や技術者など64名)を銃殺して関連資料を根こそぎ強奪して逃亡し、ドイツ軍からも追われる身となった。
1945
1945年5月、チロル地方ロイッテでフォン・ブラウンらと共にアメリ カ軍の捕虜となった。ドルンベルガーは戦争犯罪人として扱われ、ロケット技術確保を望むアメリカ軍は釈放に尽力したが、結局1947年7月までウェールズ で収監されていた。獄中ではドルンベルガーは屋外労働にも出ず、他の捕虜たちとも交流せず、独房に何度も入れられたうえ、同じドイツ軍捕虜(ゲルト・フォ ン・ルントシュテット元帥など)からも嫌われ無視されていた。
「1945年8月半ばにアメリカ軍はペーパークリップ作戦の下で貨車300両分の V2 と部品を鹵獲、オルガー・N・トフトイ大佐は、ジョージ・パットン大将率いる第3軍に投降したフォン・ブラウンやドルンベルガー将軍をはじめとする126 人の主要な設計技術者をアメリカに連れ帰った」

1946


1947
結局1947年7月までウェールズで収監されていた。獄中ではドルンベ ルガーは屋外労働にも出ず、他の捕虜たちとも交流せず、独房に何度も入れられたうえ、同じドイツ軍捕虜(ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥など)から も嫌われ無視されていた。1947年にアメリカ合衆国への出国が認められ、

1948


1949
オハイオ州ライト・パターソン空軍基地でアメリカ空軍の顧問を務めた。そこではおよそ120人のドイツ人ロケット技術者が開発に従事し、家族を呼び寄せアメリカ市民権を取得した。

1950以後
その後ベル・エアクラフトに転職し、1959年から定年まで経営に参画 した。そこではロケットで宇宙空間に出てマッハ5の超音速で帰還するというX-20の開発計画相談役を務めたが、これはのちのスペースシャトル計画の先駆 けとなるものだった。1980年に西ドイツのザスバッハで死去した。

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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