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アルフレッド・シュッツのパースペクティヴィズム

Perspektivismus, Perspectivism

君は、アンナ・カレーニナを轢いた機関車の運転手の気持 ちになったことがあるのか?『パースペクティヴィズムの実習問題集』より

池田光穂

■アルフレート・シュッツ

視界(ルビ:パースペクティヴ)の相互性 アルフ レート・シュッツ(森川真規雄・浜日出夫訳)——段落を変えたり、記号表記を変えている。

「私は日常生活の常識的思考という自然的態度においては、知性をもつ他 者の存在を自明なこととみなしており、そうした他者も原理的にはこの世界の対象を 知っているか、あるいは知ることができると考えている。私はこのことを知っており、疑いの余地のない自明なことと考えている。だが、私は、厳密に言えば、 「同じ」対象でも私と他者とでは違った意味をもっということも同時に知っており、かつ自明なことと考えている。その理由は、

(壱)第一には、「ここ」にいる私と「そこ」にいる他者の間に はある距離があり、私と彼とでは、ある対象の違った側面を類型的なものとして経験するから である。同じことは、ある対象が私の手の届く範囲(見える領域、聞こえる領域、操作できる領域等)にはないのに、彼の手の届く範囲にあった り、またその逆 であったりする場合にもいえる。

(弐)第二に、私の生活史的に規定された状況と他者の生活史的 に規定された状況、したがって私の手/もちの目的と彼の手もちの目的、およびそうした目的 に由来するそれぞれの有意性体系は、少なくともある程度は違っているはずだからである。

 これらの要因による個人個人の視界の相違を、常識的思考は二つの基礎的理念化によって克服する。

(イ)観点の互換性の理念化。

他者の「ここ」が私の「ここ」になるように場所を交替すれば、 私は他者が今対象との間にもっている距離と同じ距離をその対象との間にもち、他者が今見て いるのと同じ類型性においてその対象を見ることができ、今他者の手の届く範囲にあるのと同じ対象を私の手の届く範囲にもってくることができると いうことを 私は自明と考えている——そして他者もそうだと仮定している(同じことは他者の側からもいえる)

(ロ)有意性体系の一致の理念化。

私と他者の独自な生活史的状況に由来する視界(パースペクティ ヴ)の相違は、双方の手もちの目的にとって有意なものではないということ、また、私と他 者、つまり「われわれ」は、双方が同じ仕方で、または少なくとも「経験的には同じ」仕方で——つまり実際的な問題に関しては十分な仕方で——実際にまたは 潜在的に共通な対象およびそれらの特徴を選び出し、解釈している と仮定しているということ、この二点を私は反証が 現われないかぎり自明なことと考えてい る——また他者もそうだと仮定している。

明らかに、こうした観点の互換性および有意性の一致という二つの理念化——これらは相携えて視界の相互性の一般定立を構成する——は、思考対象の類型的 構成物であり、私や他者の私的経験における思考対象を越えるものである。私は、こうした常識的思考の〔類型的〕構成物の働きによって、私が 自/明とみなし ている世界の部分は、個性的な他者である汝にとっても自明なものであり、さらには、「われわれ」——私と汝だけがこれに含まれるのではなく、「われわれに 属する人すべて」、つまり私や汝と実質上有意性体系を共有する人すべてがこれに含まれる——にとっても自明なものである、と仮定しているのである。視界の 相互性の一般定立は、このようにして私が実際に知っており、汝も潜在的に知っている対象およびその諸側面を、だれもが知っているものに変える。そして、こ うした〔だれもが知っている〕知識は、客観的で匿名的なもの、つまり、他者による状況の定義や、私や他者の独自な生活史的状況や、そこに含まれる実際のま たは潜在的な目的から切り離され独立したものと考えられている。「対象」および「対象の側面」という用語は、そのもっとも広い意味で、すなわち、自明な知 識の対象として解釈しなければならない」。

(1953c, CP I, pp.11-12, 3?.)『現象学的社会学』森川真規雄・浜日出夫訳、紀伊國屋書店、1980年。/は頁の移行を示す。

●再掲
「私は日常生活の常識的思考という自然的態度においては、知性をもつ他者の存在を自明なこととみなしており、そうした他者も原理的にはこの世界の対象を 知っているか、あるいは知ることができると考えている。私はこのことを知っており、疑いの余地のない自明なことと考えている。だが、私は、厳密に言えば、 「同じ」対象でも私と他者とでは違った意味をもっということも同時に知っており、かつ自明なことと考えている。その理由は、

 (壱)第一には、「ここ」にいる私と「そこ」にいる他者の間に はある距離があり、私と彼とでは、ある対象の違った側面を類型的なものとして経験するから である。同じことは、ある対象が私の手の届く範囲(見える領域、聞こえる領域、操作できる領域等)にはないのに、彼の手の届く範囲にあった り、またその逆 であったりする場合にもいえる。

 (弐)第二に、私の生活史的に規定された状況と他者の生活史的 に規定された状況、したがって私の手/もちの目的と彼の手もちの目的、およびそうした目的 に由来するそれぞれの有意性体系は、少なくともある程度は違っているはずだからである

 これらの要因による個人個人の視界の相違を、常識 的思考は二つの基礎的理念化によって克服する。

 (イ)観点の互換性の理念化。

 他者の「ここ」が私の「ここ」になるように場所を交替すれば、 私は他者が今対象との間にもっている距離と同じ距離をその対象との間にもち、他者が今見て いるのと同じ類型性においてその対象を見ることができ、今他者の手の届く範囲にあるのと同じ対象を私の手の届く範囲にもってくることができると いうことを 私は自明と考えている——そして他者もそうだと仮定している(同じことは他者の側からもいえる)。

 (ロ)有意性体系の一致の理念化。

 私と他者の独自な生活史的状況に由来する視界(パースペクティ ヴ)の相違は、双方の手もちの目的にとって有意なものではないということ、また、私と他 者、つまり「われわれ」は、双方が同じ仕方で、または少なくとも「経験的には同じ」仕方で——つまり実際的な問題に関しては十分な仕方で——実際にまたは 潜在的に共通な対象およびそれらの特徴を選び出し、解釈している と仮定しているということ、この二点を私は反証が 現われないかぎり自明なことと考えてい るーーまた他者もそうだと仮定している

 明らかに、こうした観点の互換性および有意性の一 致という二つの理念化——これらは相携えて視界の相互性の一般定立を構成する——は、思考対象の類型的 構成物であり、私や他者の私的経験における思考対象を越えるものである。私は、こうした常識的思考の〔類型的〕構成物の働きによって、私が 自/明とみなし ている世界の部分は、個性的な他者である汝にとっても自明なものであり、さらには、「われわれ」——私と汝だけがこれに含まれるのではなく、「われわれに 属する人すべて」、つまり私や汝と実質上有意性体系を共有する人すべてがこれに含まれる——にとっても自明なものである、と仮定しているのである。視界の 相互性の一般定立は、このようにして私が実際に知っており、汝も潜在的に知っている対象およびその諸側面を、だれもが知っているものに変える。そして、こ うした〔だれもが知っている〕知識は、客観的で匿名的なもの、つまり、他者による状況の定義や、私や他者の独自な生活史的状況や、そこに含まれる実際のま たは潜在的な目的から切り離され独立したものと考えられている。「対象」および「対象の側面」という用語は、そのもっとも広い意味で、すなわち、自明な知 識の対象として解釈しなければならない」。

(1953c, CP I, pp.11-12, 3?.)『現象学的社会学』森川真規雄・浜日出夫訳、紀伊國屋書店、1980年。/は頁の移行を示す。




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The last photo ever taken of Hachiko, the dog who waited for 9 years after the death of his master outside the train station every morning until he himself passed away in November 10, 1935.