ポストモダン的主体のゆくえ
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where is posmo-subject
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ネーション問題に関するスピノザ的解放は、ジジェク によると、スピノザ的な可能性に託すが、それは完全にポスト産業社会に回収されてしまうと警鐘を鳴らす。
「われわれはここで、現代のスピノザ主義者たち(た
とえばドゥルーズ)の刺激的な議論
に惑わされるべきではない。コミュニケーションとは自己意識を有したモナド的な個人
の
あいだの交通である、とするデカルト的問題設定とは完全に手を切ったコミュニケーショ
ンの理論を、スピノザのうちに見出すこと、それが彼らの努力である。つまり、彼らによ
れば、諸個人が共同体を構成するのは、自我とその〈他者〉のあいだの相互認識〔承認〕
によってではなく、情動的な同一化のメカニズム、すなわち、あるひとつの「パッショ
ン」が他の「パッション」と反響しあい、相互の強度を高めあうそのような部分的情動の
相互浸透——スピノザが情動的模倣阻止(affectum imitatio)と呼ぶ過程——を通じてなのであ
る。ここでは、主体とはこの過程の白律的担い手であるのではなく、むしろひとつの場所、
水平的な、諸々の部分の結合が織りなすネットワークの受動的な土台であるということに
なる。コミュニケーションは主体のあいだにではなく、直接に情動のあいだにおいて生じ
る、というわけなのだ。とすれば、「私」が自らを自律的で自己充足した〈主体〉と認識
するのは、実のところは自身を規定し、自身の自己同一性の境界を横切っている部分対象
の次元での同一化模倣を、私が見過ごす——誤認する——かぎりである、ということに
なる。このような立論は、「自律的主体」についての古典的イデオロギーの観点からすれ
ば、総じて、きわめて「転覆的」なものとして現われよう。だがどうであろう。「ポス
ト
産業的消費社会」と呼ばれるもののうちに作動しているものこそ、まさにこうしたスピノ
ザ的メカニズムではないのか?つまり、いわゆる「ポストモダン的主体」とは、彼もし
くは彼女の「パッション」を規制するイメージ群に対して、反応はするものの、そのメカ
ニズムに対するコントロールはなしえない、部分的な情動の結合に横断された受動的土台
のことなのではないか?/
フランシス・ファガーソンはその「核の崇高」という論文で、ますます蔓延しつつある
密室恐怖症について論じている。それについては、喫煙が当人のみならず彼の周囲の非喫
煙者の人々にまで危害を与えるということの認知からはじまり、幼児虐待の強迫的なまで
の問題視、そして精神分析(批判)における誘惑理論のリバイバル(マッソンの『真理への攻撃』)に至るまで、われわれの日常生活において浮上している一連
の特徴が示してい
る。これらの特徴の背景に浮かび上がってくるのは、主体以前のレヴェルで、われわれは
とあるネットワークに組み込まれており、知覚されないままに、そのネットワークを通じ
て他者が主体の内部に侵入してくるのだ、というスピノザの主張である。究極的には、他
者の存在そのものが暴力として感受されることになるのである。他者がわれわれを脅かし
ている、われわれは他者に対して完全に「さらけだされ」ているということへの、こうし
た過敏な意識が現われるためには、条件が必要である。つまり、いわば独我論的ともいう
べき転回が生じている必要があった。「ポストモダン」的主体はこの転回非日って規定さ
れている。というのも、この「ポストモダン」的主体は、〈他者〉に対して原(プロト)精神病的距
離を維持することで、〈他者〉からいうなれば撤退しているのだから。この主体は、自分
自身を、他者と共有する共通の土台を欠如した、無-〈法〉者(out-Lawa)として感じ取って
いるのである。まさに、このために、他者とのすべての接触が、暴力的な侵入として知覚され、経験されるのである」(ジジェク 2006:416-418)
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