はじめに よんでください

政治理解のプラグマティック・オークショット主義

Pragmatic Oakeshottian for understanding Politics

池田光穂

マイケル・オークショット(Michael Joseph Oakeshott, 1901-1990)は、保守思想あるいは政治におけるテクノクラシーや計画経済を批判した「政治における合理主義(Rationalism in Politics, 1947)」が有名である。

"During this period, Oakeshott published what became his best known work during his lifetime, the collection entitled Rationalism in Politics and Other Essays (1962). Some of the polemics against the direction that Britain was taking, in particular the acceptance of socialism, gained Oakeshott a reputation as a conservative seeking to uphold the importance of tradition, and sceptical about rationalism and fixed ideologies. Bernard Crick described him as a "lonely nihilist".[18] Oakeshott's opposition to what he considered utopian political projects is summed by his use of the analogy (possibly borrowed from the Marquess of Halifax, a 17th-century English author whom he admired) of a ship of state that has "neither starting-place nor appointed destination...[and where] the enterprise is to keep afloat on an even keel".[19] He was a critic of the Cambridge historian E. H. Carr, historian of Soviet Russia, claiming that Carr had an uncritical attitude to the Bolshevik regime and took some of its propaganda at face value.[20]" - Wiki, Michael Oakeshott , "Post-war essays"

オークショットが政治と政治的状況というものをどの ように定義し ているのかというのは「政治的言説」(1991)というのが役に立つのでそれを引用してみよう。

政治は、まずもって、一定の種類の状況、すなわち政治的状況に対応することに関わる実践的活動 として同定されうる。/政治的状況は、第一に、自然的な必然性からではなく、人間の選択や行動から生じたと認められる物事の状態であり、そ れに対しては複数の対応が可能なものとして同定されうる。よって、政 治は、すでに諸選択の所産であると認識されている物事の状態に対応する活動であると いうことができる。/第二に、政治的状況は、「私的」状況ではなく「公的」状況であるということができる。このことは、我々にとって、それほど有用ではな い。なぜなら、「公的」や「私的」は、それらがそうであると信じられているものだからである。つまり、何がこれらの領域の各々に当てはまるかは、ローカル な意見の問題である。しかし、政治的活動が存在するには、「公的」と「私的」の間に 何らかの種類の区別がなされなくてはならない。そして、「公的」領域に属するものが、通常は、支配者や政府が考慮に入れるべきと信じられているものである と考えられるので、政治的状況は、(私的個人そのものではなく)支配者や政府が対応を期待されるような偶然的な状況として同定されうる」 (増補版 2013:471)。

このように定義される政治的状況について、その重要 性をオークショットは次のように説く。

「各々は、偶然的な出来事や出来事の複合であり、人間の感情・選択・行動の所産である。そして、各々は解釈を必要 とする。また、政治に求められているのは、それへの対応なので、この解釈は診断的・予測的なものであって、説明 的なものではない。よって、取り組まれる状況自体が、それを認識し、同定し、解釈し、それに理解可能な性質ある いは少なくとも名前を与えるような、熟議の所産なのである。そして、このことは、政治的活動の第三の構成要素を もたらす。すなわち、熟議と反省という構成要素である。/ 熟議は、同定可能な政治的状況が、そもそも出現可能となる前に必要になるものである。しかし、それはまた、そ の状況への対応の選択においても要求される。というのも、政治的状況とは、必然的な対応が存在しないような状況 だからである」(増補版 2013:472)。

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