花田清輝の悔恨について
On regret of Seiki Hanada
「おもうに、『楕円幻想』をかきおわったあたりで死 んでいたなら、わたしもまた、いまほど不幸ではなかったであろう。そのころまで、わたしは、わたしのエッセイが、正当に受けとられようと、不当に受けとら れようと、てんで問題にはしていなかったのである。しかし、昭和22年(1947)5月[1946年の誤りか?—引用者]、それらのエッセイが、『復興期の精神』と題して我観社から単行本 として出版され、毀誉褒貶にさらされると同時にわたしは失望した。それは、戦争中、わたしの期待していたような戦後ではなかった。わたしには、『レオナル ド・ダ・ヴインチの方法序説』の発表後、四半世紀たってから、それに関する「注釈および雑説」をかく気になったポール・ヴアレリーが、ひどく幸福な男だっ たような感じがしてならないのだ。
要するに、これは、第二次世界大戦中のシジフォスの
労働の形見である。——いや、シジフォスなどというと、またしても誤解をまねくおそれがある。いまだに芸術は、芸術運動のなかからうまれると信じきってい
る馬鹿が、馬鹿の生涯で、いちばん、馬鹿にてっしていたさいの記念である」(1966年8月)。
——出典:花田清輝「『復興期の精神』新版のあとが き」『花田清輝全集』岡本太郎 [ほか] 編, 第2巻、講談社版、Pp.424-425. 1977年
※01「我観社」は、三宅雪嶺(みやけ・せつれい:1860-1945)とその娘婿中野正剛とで設立した出版社。『我観』を刊行する(流通経済大学・三宅雪嶺記念館)。
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