Stolen Ainu remain from the cemetery of Shizunai, Hokkaido by
University teacher and his students in the mid-1960s
アイヌの伝統的墓地のデザイン(イメージ画像)
まずは須貝(1976:177-178)の著作からの引用である。
「昭和四十年頃のことである。日高国静内川上流で学者と学生二十人程が研究に名をかりて墓掘りをやったため、土地の青年と対立したことがあっ た。当時、朝日新聞北海道支社報道部員であった菅原幸助氏はこのときの事情を『現代のアイヌ』(現文社刊)の中で次のように伝えている。
「青年たちは学者たちにこう抗議した。[注記:この文章は菅原のものではない]
〈あなたたちは誰に断わってこの墓地を掘ったのですか〉
でっぷり太った教授が金ぶちの眼鏡をはずしながら平然として答えた。
〈ワシたちは学術研究のためにやっているのだ。キミたちも協力して下さい。この調査は町役場に断わってある。役場でも人夫を出してくれるはず だ〉
翌日からアイヌ人骨採取作業はさらに大掛かりになった。いくら学術研究でも、墓地を掘り返すのはひどいと、カンカンに怒った若者たちは草刈りガ マをふりあげて、学生発掘班に襲いかかった。しかし、人骨発掘作業は中止されなかった。その翌日には町役場の職員やお巡りさんが立ち会って作業が進められ た。フチ(父)の骨、バッコ(おばさん)の頭骨、メノコ(娘)の骨がザクザクと掘りだされた。その骨はリンゴ箱に詰め込まれて大学の研究室に持ち去られた そうだ。
〈大学の研究室やアイヌ研究学者の部屋にゴロゴロと並んでいるアイヌ人骨はみんなそうして掘って持ち去ったものです〉
コタンの青年たちは暗い面持ちで当時の模様を説明し、非人道的な学者の行為を非難していた」[菅原のオリジナル文章のベージ箇所は、p.100.引用文〈 〉は原文では「 」で表記] (須貝 1976:177-178)
◎須貝の引用の直前にある文章(オリジナルソース)
「シビチャリ川(静内川)の上流にあるコタンでも、近年、学者とコタンの 青年たちが、アイヌ研究をめぐって争たことがある。青年たちによると、そのいきさつは、/コタンで夏草刈り取りがはじまったころ、大学教授と学生たち20 人がコタンにやってきた。人類学上からアイヌの骨を調査するのだという、学生たちは教授の指示を受けながら、あちこちの丘や谷間を掘り返した。そのうち、 そこらに人骨が発見されないらめか、コタンの墓地や畑を掘りはじめた。たまりかねたコタンの学生たちが怒って言った」(菅原 1966:99)。
で、ここからが先の須貝の引用になるが、菅原の叙述をそのまま再掲してみよう。というのは須貝の書き写しが、完全に正確ではないからだ。ただし、改行は/とした
「「あなたたちは誰に断わって、この墓地を掘ったのですか」/でっぷりと
肥った教授が、金ぶちの眼鏡をはずしながら、平然として答えた。/「ワシたちは学術研究のためにやっているのだ。キミたちも協力して下さい。この調査は町
役場に断わってある。役場でも人夫を出してくれるはずだ」/翌日からアイヌ人骨採取作業はさらに大掛かりになった。いくら学術研究でも、墓地を掘り返すの
はひどいと、カンカンに怒った若者たちは、草刈りガマをふりあげて、学生発掘班に襲いかかった。しかし、人骨発掘作業は中止されなかった。その翌日には町
役場の職員やお巡りさんが立ち会って作業が進められた。/フチ(父)の骨、バッコ(おばさん)の頭骨、メノコ(娘)の骨がザクザクと掘りだされた。その骨
はリンゴ箱に詰め込まれて大学の研究室に持ち去られたそうだ。/「大学の研究室やアイヌ研究学者の部屋にゴロゴロと並んでいるアイヌ人骨は、みんなそうし
て掘って持ち去ったものです」/コタンの青年たち、暗い面持ちで当時の模様を説明し、非人道的な学者の行為を非難していた」(菅原 1966:100)」
●菅原幸助(1925-2013)
「菅原 幸助(すがわら こうすけ、1925年(大正14年) -
2013年(平成25年)4月4日)は、日本の中国残留孤児支援家。(社)神奈川中国帰国者福祉援護協会理事長であった。山形県鶴岡市出身。大山尋常高等小学校卒業。
従軍を経て鶴岡市の荘内日報社の記者となる。
1953年(昭和28年) - 朝日新聞社に移り、社会部記者として長年中国残留孤児問題の取材を続ける。
2002年(平成14年) - 中国残留孤児国家賠償兵庫訴訟においては原告を務める。
2009年(平成21年)4月 - 裁判の記録をまとめた『「中国残留孤児」裁判―問題だらけの政治解決』を出版した。
2013年(平成25年)4月4日 - 肺炎のため死去[1]。
自身も14歳時には満州へと渡っており、終戦間際に憲兵へと任官し邦人避難列車の護衛を担当しながら満州国を脱出するに至った[2]。
受賞歴
横浜弁護士会第8回人権賞
2010年(平成22年) - 第44回吉川英治文化賞
著作物
1966年(昭和41年) - 『現代のアイヌ : 民族移動のロマン』 現文社
1968年(昭和43年) - 『二重遭難 : 谷川岳の記録』 現文社
1979年(昭和54年) - 『日本の華僑』 朝日新聞社 ISBN 4-02-260674-6
1982年(昭和57年) - 『泣くんじゃあない : 不用哭了』 人間の科学社
1986年(昭和61年) - 『旧満州幻の国の子どもたち』 有斐閣 ISBN 4-641-18031-8
1987年(昭和62年) - 『China town : 変貌する横浜中華街』 洋泉社
1987年(昭和62年) - 『味の横浜中華街 : こんな店がうまい店』 有斐閣 ISBN 4-641-07513-1
1989年(平成元年) - 『「日本人になれない」中国孤児 : 官僚と帰国者たち』 洋泉社 ISBN 4-89691-052-4
1997年(平成9年) - 『初年兵と従軍慰安婦』三一書房 ISBN 4-380-97226-7
1998年(平成10年) - 『日本の国籍を下さい』 神奈川中国帰国者福祉援護協会(編) 三一書房 ISBN 4-380-98225-4
2001年(平成13年) - 『新興住宅地の連帯論 : 鎌倉・城廻自治会長体験記』 武田出版 ISBN 4-434-01445-5
2009年(平成21年) - 『「中国残留孤児」裁判 : 問題だらけの政治解決』 平原社 ISBN 978-4-938391-45-4」
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その他の情報
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