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野生動物とのつきあい方

——生物多様性保全におけるツキノワグマとジュゴンの位相——

How to deal with wild animals: Epistemological Topology of black bears and dugongs in biodiversity conservation

池田光穂

このページでは、生物多様性保全をめぐる議論に登場 するツキノワグマとジュゴンという2種類の動物と現代日本人の間の「つきあい方」に関して考察する。これまでの生態人類学と象徴人類学が扱ってきた人間と 動物の関係を紹介しつつ、人間がもつ動物に対する菅原和孝の「思い籠め」という認知過程を手がかりにして、ツキノワグマの「抗議活動」とジュゴンの法的 「当事者適格」について検討した。そこで明らかになったのは、ツキノワグマとジュゴンに関わる様々なメタファーの交錯があり、それを人間の側のシャドーボ クシングの実践と表現できること。そして、メタファーの操作が重要となる想像的関係に与る社会的事象と、個体数の把握や現実の邂逅そして保護管理という存 在論的な媒介関係を表象するものとして、この実践を捉えることができると私は主張した。

章立て

1.はじめに


 本章は、生物多様性保全をめぐる議論に登場する、ツキノワグマとジュゴンという2種類の動物と現代日本人の間の「つきあい方」に関する考察である。ここ で紹介される人間と動物の邂逅とは物理的遭遇という点では極めて希薄である。しかしながら、本章で明らかにされるように自然保護をめぐる政治空間のなかで の象徴的交換という点では彼らは「お互いに」極めて濃厚な接触とやり取りをもつ。そして人間にとって「自然の象徴としての動物」に対する「思い籠め」が熱 烈であればあるほど、人間の自然現象への関わり合いがより深くかつより具体的になる政治的行動として表出することが明らかにされる。

 現実には滅多に出会うことのないツキノワグマは、 里に降りてきて目撃証言がマスメディアで流通すればするほど、一方の側の人々には捕殺や殺処分に手をこまねいている行政への不満が高まり、別の側の人々に は殺処分を動物のみならず野生環境に対する人間の殺傷行為だと解釈されて、ますます殺処分への抗議への不満と保護行動への傾斜が高まる[池田 Online-01]。在日米軍普天間基地の移転先になっている辺野古移設に関する環境省の環境影響評価書が2012年年頭に発表されたが、沖縄県議会議 長は即座に「ジュゴンの生態調査の内容に疑問」が残ると記者会見の中で表明した(『琉球新報』2011年1月9日)。沖縄近海の絶滅危惧種であるジュゴン は今や県民の総意と共に、県内基地移設反対運動の強力な「同盟者」なのである[池田 Online-02; Inoue 2004:95]。

 この不思議な人間と動物の「つきあい方」の曖昧さ や矛盾、すなわち「つきあい方」の両義性は、この研究テーマの特徴のみならず、それを分析する研究分野にも通底していることを本章では解説したい。この 「つきあい方」とは、生態学的な意味での現実の邂逅のみならず、人間が思い入れる動物との相互作用における象徴的次元にも広く拡張して使われていることに 留意してほしい。人間のこれらの動物への「思い籠め」を私は本章の最後で「シャドーボクシング」と呼んでいるが、実際には具体的な害獣駆除や自然保護政策 の履行という存在論的な媒介現象(ontological mediation)を通して、時間的遅延を伴いながら、この虚空への拳は最後には双方の「体験上の震撼(body blow)」となる可能性を示唆する。

 人間と動物の「つきあい方」を分析する ための言わば武器として、これらの幅広い社会現象を取り扱う人類学的思考のユニークさや面白さを検証してみたい。このことを理解するためには、人間と動物 のつき合い方についてこれまでの人類学がどのような研究をしてきたかについて整理しておくことが導きの里程標となるだろう。人間と動物は有史以前からつき あってきたし、現在もまたつきあっているし、そしてこれからもつきあっていくからである。人類学は、人間と動物の「つきあい方」に古くから興味をもち、ま たその分析の方法を洗練化させてきた。その考察を、ここから始めよう。

2.2つのアプローチ:生態人類学と象徴人類学


 人類学研究において人間と動物の関係を研究するアプローチには、大きくわけて生態人類学(あるいは文化生態学)からの説明と、象徴人類学からの説明とい う対照的な2つのものがあった。前者の生態人類学は、ある種の物理量の測定(時間や質量)を基礎に、動物と相互作用する人間を、文化的適応とりわけ進化学 的スキームから理解しようとする。後者の象徴人類学では、動物は自然の一部でありながら、人間と競争・捕食・飼育など相互作用をもたらすダイナミックな存 在であると考える。それゆえ、動物の存在は人々の行動規制や道徳観などに影響し、また「重要な他者」の表象となる。それゆえ、人々の世界観における動物の 位置づけは、その宇宙観の反映となり、それらを比較考量することで、当該社会の動物の存在様式は、また当該社会の文化について「考えるに適した存在」にな ると考える[レヴィ=ストロース 1976]。

 観察にもとづく計測という生態学的な客観主義を方 法論として前面に押し出す生態人類学では、動物は人間の生存に欠かせないタンパク源(=食糧)であり、動物に対する人間の知識や観念は、彼ら(=動物)に 対する深い知識と観察にもとづいていると考える。単純化すると、我ら(=人間)の儀礼や禁忌もまた、我らが自覚しようがしまいが、きわめて生態学的には理 に叶った合理的行動だと理解する。たとえばニューギニア高地の民ツェンバガ・マリングの人たちは、部族間戦争の末期に「カイコ」と呼ばれる儀礼的祝祭の中 で大量の飼育豚を屠殺する[Rappaport 1968:166-218]。マリングの人たちは、この大量消費(=蕩尽)を超自然的霊に対する負債の返還だと解釈する。しかしラパポートによれば、豚の 屠畜は人間の人口比との関係で決定される純粋に生態学的なものだという。豚の飼育密度が低い時には豚の養育はそのケアの担い手である女性の労働力に依存す る。しかし土地の生産性が人間と豚にとって十分に養育できない限界——これを環境収容力(carrying capacity)という——に達した時に、生態学的要因による破綻を回避するために、戦争行為とそれに引き続く屠畜により環境負荷の要因が取り除かれ る。これが引き金になり儀礼的サイクルが引き起こされる[Rappaport 1984:339]。生態学的環境の中では、豚も人間も資源をめぐる「見えないライバル関係」なのであるが、それは同時に相互依存関係でもあり、戦死を含 む戦争とそれに引き続く豚の大量屠畜は、自然による環境回復のチャンスになるのだ。社会学的な儀礼と生態学的調整メカニズムは彼によればまったく無縁どこ ろか相互に関係する事柄なのである。なお、ラパポートの民族誌[Rappaport 1968:211-212]には、豊饒に関する儀礼の際に「コイパ」豚と呼ばれる雌豚の供犠獣が選ばれ、これが「ウナギをもたらす男(コイパ・マンジャ ン)」と呼ばれる精霊に取り次いでもらうために、この豚の遺骸をウナギで鞭打つというエピソードがある。しかしながら、それ以外にはツェンバガの人たちが 豚を飼育したり儀礼で大量に屠畜したりする態度の中に、飼育されている豚に特段の思い入れがある様子はみられず、また個性なども認めることはない。

 さて他方、象徴人類学的アプローチでは、一見文化 の影響を受けているとは思えない我々の感覚や「自然認識」さえも文化的な修飾を受けているという観点から、注意深く身の回りの文化現象を取り扱おうとす る。メアリー・ダグラスは、西アフリカのベルギー領コンゴ(現・コンゴ民主共和国(DRC))のレレの人たちが、奇妙な動物であるセンザンコウ (Pangolin, 学名Manis gigantea)——「鱗の生えたアリクイ」——をタブー視し、ある局面では不潔な動物であると言う。それにも関わらず、レレの儀礼とりわけ生殖力や豊 饒を祈る際の動物として他の局面では非常に高い地位を与える。不潔や不浄とみなされるのは爬虫類のような鱗をもつのに、育児はお乳を与える動物のごとくだ し、また魚のような鱗をもつのに、木登りが上手なのだ。通常動物は人間から逃げ回る存在だが、センザンコウはわざわざ「殺される=供儀になる」ために村に やってくる、とレレはいう。日常ではセンザンコウの肉を食べるのは禁忌(タブー)なのだが、逆に豊饒を祈願する儀礼の時にはそれをわざわざ食べるのであ る。センザンコウは死ぬ事によってレレに豊饒をもたらすと言われる。禁じられている食物はなにか栄養学や生態学的に不都合があるかもしれないと生態人類学 的に解釈すると、このセンザンコウの意味付けや食される/食されない関係が恣意的に決まることへの辻褄が合わない。その矛盾に対するダグラスの代替案とし ての解釈はこうである。豊饒や生殖力は人間にとって好ましいものであるが、別の観方をすれば、それは普通ではないという異常性によっても意味付けすること ができる。センザンコウは通常の動物のカテゴリーで理解しようとすると、先に述べたようにたちまち矛盾と混乱に陥ってしまう異常な意味を負荷された動物で ある。この点において異常な生殖力と動物の象徴的意味付けのカテゴリーにおける異常な形態のセンザンコウの位置づけは重なってしまう。センザンコウも生殖 も、我々の象徴的思考の位置づけのなかでは曖昧——人類学では2つの相矛盾する性格を同時に併せ持つのでそれを〈両義性〉という——という点で共通してい るのだとダグラスは主張する[ダグラス 2009:371-385]。

 マリングの豚の大量屠畜を説明するラパポートも、 レレの奇妙なセンザンコウの象徴的意味付けのダグラスの説明も、共に人類学を学び始めようとする人たちには大変興味深くかつ魅力的である。なぜなら現地の 人たちの説明をよりよく理解するために、それとは別の次元——それぞれ生態学的な合理性と象徴空間の中の意味付けの位相——から説明できるかどうか民族誌 知識とフィールドワークのデータを照合させようと真摯に格闘しているからである。共に異文化の奇妙な現象に直面しながらも、自分たちの偏見をなるべく持ち 込まないよう(=文化相対主義的)努力しているからである。彼らの実践には観察とインタビューを用いて得られたデータ(=民族誌資料)の解釈を提示する点 で、現場感覚を大切にする〈相対主義の科学〉としての人類学の徳目が余すところなく発揮されている。だが、不満もまた残る。その2つの説明ともが、果たし て現地の人たちが、この解釈を妥当なものとしているか否かの「合意に関する事項」が付されていないからである(その後の人類学研究にはこの難問を克服する ための様々な試みがある)。

 人間と動物の関係について論じる本章や他の章は、 その議論の粗密はあるだろうが、もし読者にとって興味深く感じられるのであれば、たぶんそれはこれらの論文が、それぞれが提示する民族誌資料を媒介して、 著者のみならず読者も解釈行為に参入することができ、その主張の妥当性をめぐる討論に開かれているからだろう。これは我々に解釈を妥当なものとするための 「合意に関する事項」の第一歩であろう。来るべき人類学への存在証明とは、この合意に関する事項を、現地の人たちにも拡張するための対話実践が不可欠だと 考える。これこそが文化人類学を学ぶ上での良質の喜びと、人類学をおこなう社会的責務の両方を全うできる可能性を切り開く契機になるだろうと、私は信じて いる。

3.動物に対する「思い籠め」


 冒頭で私は、現代日本人とツキノワグマならびにジュゴンの邂逅とは、物理的遭遇という意味では極めて希薄であるにも関わらず、自然保護をめぐる政治空間 のなかでの象徴的交換という意味では極めて濃厚な接触をしていると述べた。従って私が行う次なることは、今日の地球温暖化や絶滅危惧種などの報道において 頻出する「生物多様性」の語用論(pragmatics)に関する文化分析の研究として位置づけられる、動物と人間のそれぞれの存在様式とその関係を明ら かにすることである[Descola & Palsson 1996; Descola 2006]。ここで言う語用論とは、特定の語の意味の使われ方の法則性を明らかにする学問であるが、このような発想を通して、語(=コトバ)はそれだけに 内容が包含されているだけでなく、語の使われ方や前後の文章の関連性(=文脈)からも語の意味が創出されるとみる(これは本章第6節の後半で詳しく説明す る)。

 人間と動物の存在様式の関係性を、よりわかりやす い言葉で言い換えると、それは人間と動物の間の相互作用を観察し分析することから理解される事柄のことである。これまで人間は、自然の領域に住まう動物と 同じ状況から高度な社会生活をつくりあげ、かつ文化を創造することで「自然状態」から脱却したと言われる。〈文化という状況=文脈〉に住まう人間は、自然 状態にいる動物を狩るという行為を通して、これまで通りの動物間の食う/食われる(捕食—被食)関係とは、異なった位相のもとに移行することになった。人 間と動物の関係を相互作用の観点からながめることは、人間と動物がどれだけ共通した過去の「自然状態」のもとにあり、また人間がどれだけ〈文化という状 況〉を創造することで、どこまで自然からの脱却を果たしているかについて知る手がかりになるからである。

 相互作用を可能にするのは、2つのプレイヤーの間 に対等の思考—行動のプログラムを具有している。あるいは双方がそのように相手に思い込む(これは後に「思い籠め」と表現される)場合においてである。ち なみにマット・リドレー[2010:104-106]は人類史において〈文化という状況〉のもとで、最初に登場したのは狩猟道具の発明とその改良であると いう。狩猟道具の発明とその改良は、その後の人間と動物の間の相互関係を根本的に変革した。これらの事態と関連するのが、人間の〈他者への情動の投射〉と 〈交換〉というコミュニケーション様式にあるという。他者を思いやる気持ちの起源は、現在の我々が信じている共感や同情というセンチメンタルなものではな く、狩猟仲間との協働で重要になる他者が何を考え次にどのように行動するのかを推論する能力である。この能力は、ニコラス・ハンフリー[2004 [1976] ]によると、もはや人間の独占物ではなく霊長類と我々は分かち持つものなのである。〈他者への情動の投射〉とは、相手を思いやる気持ち、より正確にはコ ミュニケーションを通して自分の頭の中で〈相手の経験や推論〉を再現(=追体験)することができることであり、〈交換〉とは、自分にあり相手にないものと 相手にあり自分にないものを取り換えることであるが、それらは相互に密接に関連する[リドレー 2010:106-110]。狩猟動物と人間の関係は、文化人類学の研究がこれまで明らかにしてきたように生態学的な有用性の次元を超えたより強い心理的 (あるいは霊的)結びつきが強調されている。しかしながら、実際にはこの関係性は、我々の想像を超えて、狩猟民が植民地情況に置かれようとも複雑に反応 し、そのエートスを変形させながらもしぶとく温存するという強い存在論的関係のもとにある[黒田 2001]。

 狩猟の時における狩猟動物と人間との相互作用は、 グイと呼ばれるボツワナに住むセントラル・ブッシュマンについて研究した菅原和孝[2007]が、動物を狩る経験譚の分析を通した「思い籠め」という心的 モードに関する議論が参考になろう。菅原は、そのような語りの中に、動物と人間の関係性が溶け込む瞬間があることを見つけ出し、メルロ=ポンティの「感覚 (意味)」=フランス語のサンス(sens)の概念 を手がかりとして、人間がもつ「他者の姿かたちやふるまいの顕著さ」への「思い籠め」 があるとする。そこには自然のイメージや生態学のデータで表象される〈動植物〉を「人間を凌駕する力を具えた他者」 として理解する「自分にとって了解可能な意味を見出そうとする」過程があると言うのだ[菅原 2007:93, 117]。

 「ライオンが人間を凌駕する力を具えた他者であるからこそ、そのライオンと対峠し、わたりあい、ときにはそれを打ち負かすという経験のなか に、ギリギリの愉悦が漲っていたのではなかろうか。ライオンとの駆け引きにおいて、グイは、やはりある種の「言語ゲーム」をこの恐るべき他者に投げかげて いるのである。人間の想像力は、いつも、物言わぬ他者のふるまいのなかに、自分にとって了解可能な意味を見出そうとする。このことこそ、「思い籠め」とい う認知過程の眼目である」[菅原 2007:117]

 このような感覚に関する説明は、人間の環世界(Umbelt)でおこる事柄であり、ライオンの環世界で果たして人間と同じ事がおこっている十分な科学的 証明というものはない。環世界とはヤコブ・フォン・ユクスキュル[2005]の用語で、生物はその感覚器官の性質に依存した固有の知覚世界=環世界に住ま うことを言う。つまり主体としての生物種にはその種固有の客体世界と関係をとりむすんでいる。しかしながら人間と動物の相互作用を描く非西洋世界の民族誌 には、このような人間と動物の相互作用どころか、感覚の相互浸透——例えば獲物と狩人の激しい攻防に伴う敵意・友情・憐憫などの感情が匂いや音などと共に 体験される——という出来事に関する説明は多数見つかる(本書のナダスディ・奥野・山口論文を参照)。菅原の「思い籠め」は、その意味で人間がもつ先験的 な感覚のひとつであり、狩猟民でなくても、それを調査する研究者(ナダスディの経験はその例)のみならず、本章で扱う自然保護主義者においても、会得ある いは「甦らせる」ことができるはずだ。

4.ツキノワグマは「抗議活動」をするか?


 私は、2010年10月名古屋市で開催された生物多様性条約締結国関連会議(CBD-COP10/MOP5, Nagoya 2010)とそれに関連した市民行事、とりわけ先住民とCOP10関連の市民活動家による関連行事、日本の生態学者が参加する学会や学術会議への参加や、 個別生態学者との接触を通して、生物多様性概念の具体的なイメージがどのように社会に流布し——これを社会化と呼ぶ——(狭義の学問的定義からは外れる) 「自然保護」の意味を附与されつつあるこの概念の変遷について、現在まで調査を続けてきた。

 ここで社会化(socialization)とい う用語について説明しておきたい。社会学領域で使う社会化とは、子供が社会的文化的環境の中で成育する過程においてみられる社会の価値と規範の内面化 (internalization)を指す言葉である。また文化人類学ではもっぱらそれは文化化(enculturation)と関連づけて論じられる。 あるいは人間によるメンテナンスにより社会的に手がかかることを「社会化」と呼び、それが中断されたり放棄されたりすることを「脱社会化(de- socialization)」と呼ぶこともある[Knight 1996]。しかしながら、本章で言う「社会化される対象」はヒトではなく概念そのものであり、科学者集団など限られたミクロ社会でしか流通しなかった用 語が、社会的に重要視される過程で、さまざまな意味が付与されて人気がある——つまり使用頻度の高い——常套句になる現象を「社会化」と言う。人々による 「思い籠め」の度合いが高ければ高いほど、シンボルのトークン——人々の間で代用硬貨の様に一定の範囲で同じ意味をもちかつ流通する——として、日常生活 の中での野生動物の名前の使用頻度は高まり、またある種の感情すなわち情動経験を引き起こすものになる。私たちは生物多様性という言葉が、(1)人々、と りわけ地球温暖化と環境汚染に憂慮する環境保全派や環境行政や環境保全関連産業に携わる人々に強い感情を引き起こし、また、(2)その人たちによるさまざ まな領域における社会活動に影響を与えていると考えている。このことを生物多様性条約締結国関連会議期間中にあった本州固有種のツキノワグマと沖縄のジュ ゴンという2種の動物をめぐる議論の中で考えてみたい。つまり「生物多様性の社会化」を表象する語彙としてツキノワグマ(あるいは単にクマ)とジュゴンが 浮上し、その動物表象に、現代日本人が「思い籠め」するという過程が存在するのである。

 まず生態系の荒廃に「抗議する主体」としてのツキ ノワグマを取り上げよう。2010年10月本州全土でクマの目撃情報や人里への出没さらには人間への危害に関する報道が相次いだ。時事通信のインターネッ トでは「12府県の4〜9月のクマの目撃件数は計6,006件で、昨年同期の約2.7倍に急増。残る2県でも目撃件数や捕獲件数が昨年を大きく上回った」 と報じている。石川県では2010年度10月中旬時点で、クマ出没情報は約200件で、前年の同時期の約4倍に相当したという(『中日新聞』2010年 10月17日)。

 生物多様性国際会議の期間の前後に代表的なソー シャル・ネットワーキング・サービス(SNS)である日本語でのツイッター(twitter)には、当時「生物多様性ボット」 という検索エンジンと投稿機能をもったユーザープログラムが設置されて、このイベントに関連する呟きを再配信するサービスがあった。2011年7月現在、 このユーザーは登録を抹消しており、私の記憶によると2010年11月中下旬には自動転送投稿を止めていたように思われる。ちなみに公式あるいは準公式 ユーザーと思われる「「生物多様性」情報」の最後の投稿日付は2010年12月6日になっている。

 この「生物多様性ボット」によると、その時に生物 多様性をめぐる国際会議とは——実際に会議の最終段階になって市民に明らかになったように——そこから得られる財や資源さらには人間への福利(=生態系 サービス)の国家間における権利調整のものであり、それは「人間側の事情」によるもので生物に配慮したものではないという。ツイッターは発信者の情報をコ メンタリーをつけて再送(リツイート、RT)されるので、当時そのことで話題が沸騰した。その時に一種の変奏として流れたのが「クマの里への侵出」をめぐ るユニークな解釈であった。それによると、クマの出現の理由は、餌となるブナ(ドングリ)の凶作という生態系荒廃の警鐘であり、生物多様性の利権を国際会 議において人間どうしが取引することに対する自然からの「抗議」なのであるというものであった。それ以外にも次のような人間側の「不道徳」についての呟き があった:「各地でクマが出没し射殺されているが、クマ殺しは生物多様性の否定じゃないの?と呟いてみる」「COP10とか開催してるわりには熊をばんば ん殺してるそんな国にっぽん」「COP10でクマ保全やられている方に聞きましたけど、やはり里地里山の崩壊により、さらにシカのルートをクマが使って、 人里に下りて来ているとのこと。報道は、そこまで流さない」等。
 クマはツイッターをして窮状を訴えることができないので、ユーザーがそれに対して代弁している——例えば「そうだニャー/そうだワン(猫/犬)」という 擬動物化(theriomorphism)あるいは逆擬人法(田河水泡『のらくろ』のように人間世界を動物化)する語法がある——とも言える[矢野 2002; 池田 Online-03]。一見他愛のない表現だが、このようなユーモアを交えた抗議の語り口は非専門家によくみられるものであり、諧謔に似て妙に説得力があ る。ツキノワグマの抗議もこのようなかたちでツイッターに流通した。もちろん保護団体の動きに関する呟きも、例えば「ドングリ:クマさんどうぞ 群馬の団 体呼び掛け、全国から3.5トン300箱」(毎日JP)というものがあった。これはクマが里に出てくる地域での冬眠前のドングリの凶作という事態を憂慮し た保護団体が、地元のドングリを採集して、被害地の後背地にある奥山に散布することで、クマが里に出てこないようにという「配慮」から生まれた運動であ る。これらの動きは2011年の秋になっても再燃し、岡山県美作市は中部日本以西の300の自治体と自然保護団体に呼びかけし同年12月16日に同市で 「全国クマサミット」で開催された。約400名の参加があったこのイベントでは、地元の国会議員、県会議員、市議などが来賓として多数参加し、猟友会と関 連自治体が主張する危害獣の「殺処分」の権限が知事にあり市町村レベルでの権限がない窮状が訴えられると拍手が上がった。会場で「少数派」となってしまっ た保護派の人たちの意見表明は、コメントシートでフロア発言を制限され、イベント終了間際にはその抗議の声を上げた参加者が壇上の司会に制止される場面も 見られた。

 自然保護の活動家や専門家がとる立場は人間主体の 発話が中心にある。生物多様性問題を積極的に先住民の知恵(e.g. 伝統的生態学的知識, TEK)と関連付けてあくまでも人間側の事情だという。たとえば、先住民族の10年市民連絡会が編集・発行する『先住民族の10年News』における細川 弘明である[細川 2010a, 2010b]。自然保護活動家とは異なり、地元民にとっては、人里に降りるクマは人間の生命を脅かす存在である。クマの出没に悩む地元では、捕獲したクマ の「放獣」あるいは「学習放獣」——ツキノワグマは保護対象獣であり捕殺は厳しく制限されている。前述の石川県保護管理計画では、県下の推定生息数は約 700頭で捕殺は10%に押さえるという目標を定めているために「駆除」できるのは約70頭という計算になる[石川県 2011]。また兵庫県では1996年からクマの狩猟は禁止され、現在は捕殺のみになっている[横山 2009:151-153]。この捕獲後放獣か捕殺をめぐり危険に晒されると考える地元住民は「人間とクマとどっちが大切なのか」と自治体につよく抗議し ている。

5.ジュゴンの当事者適格と平和運動


 生物多様性概念の社会化における、次の「思い籠め」の対象はジュゴンである。この動物の「当事者適格」——訴訟における判決の名宛人となる=原告になる 資格——についてが、考察の対象になる。人間主体の反戦平和運動が、動物を巻き込んだ環境保全運動と節合する社会化現象として考えられるからである。

 沖縄県宜野湾市での「普天間基地代替施設移設問 題」は1995年少女暴行事件を契機に名護市辺野古への移転構想が97年から始まり2002年にはその計画案がまとまっていた。2004年の沖縄国際大学 への米軍のヘリコプターの墜落事件により移設計画が加速化したが、2009年に見直しを約束して政権政党になった民主党の鳩山内閣は公約を反故にして 2010年には移設の決定がなされ、連立与党の一角が解消するにまで至った(2010年5月30日)。辺野古沖への飛行場新設により(県内あるいは国内) 移設反対派と、同移設予定地に生息すると言われるジュゴンの保護活動家たちが結びつくことになる。WWFジャパンや日本自然保護協会を中心とする保護活動 家たちは2008年10月国際自然保護連合(IUCN)総会で採択された「移動性野生動物種の保全に関する条約」(ボン条約)を履行するようにと2009 年5月に3万人分の請願署名を(国会議員を通して)衆参両議院に提出した。彼らは2010年7月には辺野古沖で生態調査をおこなっており、10月の COP10/MOP5国際会議のサイドイベントにおいてもその内容が報告されて支援者が多数集まった。ジュゴン保護を媒介にして環境保全と反戦平和を繋げ る戦術はきわめて多元的多角的であり、さまざまな社会的資源を動員している。

 沖縄の辺野古沖への基地移設を食い止めるために、 生物多様性を法廷に持ち込むというユニークな方法がある。その例を名古屋に本部がある「環境法律家連盟」(Japan Environmental Lawyers Federation, JELF)に見てみよう[関根 2007, 2008]。まず、彼らは米国の国家歴史保存法(NHPA) を根拠に、アメリカの国防総省に対して、代替施設の建設は、国家歴史保存法に違反し、同施設がジュゴンに及ぼす影響に「配慮」しなかったとし、(1)同法 違反の違法確認、(2)同法を遵守するまで建設関与禁止の差止め、(3)裁判所が適当と認める法的救済を提訴した。国家歴史保存法はThe National Historic Preservation Act (NHPA; Public Law 89-665; 16 U.S.C. 470 et seq.)といい、おもに国家モニュメントになる歴史的建造物や遺跡などの保護を目的として、1966年に大統領が署名した法律である。結果から言うと、 ジュゴンは訴訟主体になれなかったが、それと並んで提訴した人間——沖縄住民3名ならびに日米の環境平和4団体——は訴訟主体として国家歴史保存法第 402条の地域外適用——国外(=沖縄)の米軍基地においても同法が使えること——が認められた。これに先立ち同裁判所の2005年中間命令では、ジュゴ ンが同法の保護対象の「遺産」として認定されている。2008年1月24日、カリフォルニア北部地区連邦地方裁判所は、(I)ジュゴンの原告適格は否定 し、また(II)差し止め請求も却下した。命令の主文は、被告である国防総省がアセスメント評価について今後どのような手続きをおこなうかについて裁判所 に提出するまでは訴訟手続きを停止するというものであった。それに引き続き、2009年12月3日には米国の環境NGOと共同し、オバマ大統領らを宛先と する書簡が提出されている。書簡のタイトルは“Re-proposed U.S. Military Air Base Expansion near Henoko, Okinawa”となっており、ジュゴンの他に、3種のウミガメ(タイマイ=Hawksbill、アカウミガメ=Hawksbill、アオウミガメ= Green)とその生態系の保全が、種の保全法(ESA)と関連づけられて要請されている。

 また2010年明けからは、国家歴史保存法に対す る違法性訴訟に加えて、より法的拘束力の強いとされる種の保存法(ESA) ——生物多様性から人間が得られる法的権利と正当性を保護する法令——訴訟を準備していることを環境法律家連盟(JELF)は構想していることを発表し た。種の保存法は、Endangered Species Act of 1973 (7 U.S.C. § 136, 16 U.S.C. § 1531 et seq.,  ESA)、1966年の法律(Endangered Species Preservation Act of 1966, P.L. 89-669 )および1969年の修正条項を改正して、1973年に署名された、自然保護に関する包括的な法律である。

 これらは基地移設が(人間の行動の意思決定をもた らす)下部構造で、それにまつわる自然保護思想は下部構造から影響を受ける観念(=上部構造)であるという主(=原因)—従(=結果)関係ではない。むし ろ自然保護に関する法的手続きは、現代日本における政策決定における最優先課題となった。2011年9月に就任した野田首相は、辺野古への移転問題を「協 議」するために同年10月末に訪沖したが、その際に県知事に実際に伝えたことは「環境影響評価書」いわゆる環境アセスメント報告書を沖縄県に提出するとい う計画のことであった。アセスメント書の提出が、基地の移転を承認してほしいというメッセージになっているのだ。地元住民やそれを代表する県知事の意向の 確認の前にクリアなければならないのは、それが反対派の主張するような「デタラメ」であろうがなかろうが、環境保全に関する「証明書」の提出なのである。 それゆえ基地移設反対派にとってもジュゴンへの熱を込めた「思い籠め」が最重要課題になるのである。環境問題は、政治問題の代理(=表象)になっているの ではなく、代補(=それ自体では部分にすぎないが、それなくしては全体が完結しない不可欠な要素, supplement)になっているのである。

6.メタファーに埋め尽くされる生物多様性概念


 1960 年代末から70 年代前半のエコロジー運動の隆盛があるものの、僅か四半世紀前までは、生態学研究(ecological studies)はきわめてマイナーな分野であった。だが1975 年以降、社会生物学を経由した進化生物学理論の影響を受けつつ、生態学はその革命的変貌を遂げつつあった。他方、長期的な気候変動の観測事実が明らかにな るにつれて、環境汚染問題は地域レベルを超えて大陸や地球レベルで論じられるようになる。生態学者もまたこれらの問題に対して学問的解明のみならず、実践 的な役割を期待されるようになっていく。1970年代にシステム生態学を基幹とする保全生物学(conservation biology)の精緻化がすでに進行していたが、1980年代以降とりわけ90年代では生物多様性(biodiversity)という生態学理論の基本 分析概念が、地球と地域レベルの環境保全を語るための重要な用語として、専門家間の流通を超えて、自然保護主義者、エコツーリスト、先住民支援者、多国籍 製薬企業、生物資源大臣、そして市民を巻き込むものになった[マッキントッシュ 1989; タカーチ 2006]。

 現在では「生物多様性」は環境保全とほぼ同義の使 われ方がされ、環境的健全さの指標のみならず途上国の資源管理、生物盗賊(biopiracy)や伝統的生態学的知識(TEK)、さらにはEUを中心とす る先進国での動物の権利(animal rights)の浮上など多義的な表象を、市民に対して単一用語で容易に想起させる意味で、この語が指し示すものは現代の「基幹的隠喩=ルート・メタファ (root metaphor)」[Turner 1974]になった 。「生物多様性とは人間中心主義的な概念ではないのか」という先のツイッターの呟きのとおり、現代社会では自然概念の文化化(enculturation of concept on “Nature”)が進行している証左であると言える。そして日本では生物多様性はビジネスの業界でも良く使われるようなった。とりわけ、企業の社会的責 任(CSR)において生物多様性について配慮した企業活動をおこなっているかについて今日の消費者は「口うるさく介入する」。そのため消費者からのこの保 全に対する問い合わせにいかに「誠実に応答する」のかが企業イメージの生命線になり、広報あるいはCSRの担当部門の社員が、生物多様性のマニュアルと 首っ引きで「勉強している」ことも稀ではなくなった。狭義の専門家としての生態学者ではないが、学者や評論家と称する人たちも、気候変動・地球温暖化対策 と関連付けて2010年の環境啓蒙ビジネスに参入している。その好例が福岡伸一監修になる盛山正仁の著書『生物多様性100問』[2010]である。

 ここで人間と動物の連続/非連続について考えてみ る必要性が生じる。なぜなら生物多様性概念の社会化、一方では自然保護の観点から人間と動物をおなじ地球環境の一員として連続的に同胞として捉える一方、 人間による庇護が不可欠な保護動物として人間とは非連続的にも捉えられるものとしても扱うからだ。人間は元来狩猟や家畜化を通して種別概念として動物を非 連続的(例:屠畜)に取り扱い、同時にかつ生存のために動物を必要とするために生活上の連続性を維持ということを矛盾することなく行ってきた。生活上の連 続性がしばしばよく扱われる例は、伝統的生態学的知識(TEK)である。採集狩猟民がもつ伝統的知識は、近代生態学にもとづく自然保護管理の従来の欠陥を 補うために「もうひとつの知恵」というかたちで評価されつつあるものだが、実践面においても先住民という当事者を内包する点でよりサステイナブルで政治的 にも正しい(politically correctness)と言われている[Menzies 2006]。

 このように連続/非連続という観点からも人間と動 物の間はきわめて両義的に満ちた曖昧な部分を多く有する。また「生物多様性概念の社会化」により、これまで非連続な対象として管理されてきたはずの動物 は、今や〈より強力な他者〉として越境し人間の文化領域に参入しつつある。人間と動物のこれまでの〈境界〉を越境して、象徴的な形ではあるが、人間の領域 に侵入しつつある。その意味で、ツキノワグマもジュゴンもまた、彼らは越境してこちら(=人間側)に来る存在となった。人間と動物をめぐって、現在このよ うな混交、越境、エージェンシー化(=人間と動物の心身の入替)、境界固定など、さまざまな現象が起こっている。一例を挙げると、特定外来種の駆除や(す でに絶滅した)希少野生種保全のためにわざわざ輸入されるという〈動物種のナショナル化/人種化〉、ペットを家族として同様な地位を与える意見(=両者の 連続性)と各地の「動物愛護関連施設」での大量殺処分(=両者の圧倒的な非連続性)の同時進行など、がある。ジュゴンの例では十分に法廷に参加させること に失敗したが、米国では、動物は法廷において人間と同等の当事者適格をもちうる法理が実現する可能性[ストーン 1990]があり、自然環境の窮状や人間の自然破壊の傲慢さに抗議する社会的行為者になることもそう遠い将来ではない。

 生物多様性の社会化という文脈における言語表現 は、文化人類学における宇宙論(コスモロジー)と言語学の語用論でいう直示的(deictic)という用語法とその概念から分析される必要がある [Viveiros de Castro 2004:472-474]。それにより、ある文化状況に置かれた行為者が、どのように自分の住む世界を把握し、他者として動物がその世界のどの位相の中 に位置づけられるか、より明確になるかもしれない。直示(deixis)は、語用論においてその意味が文脈によってはじめて決まる語や言語表現のことで、 代名詞、指示語、あるいは肯定や否定表現などの返事(代形式)などが含まれる。例えば「そこのものを取って」という命令文は、行為者(=命令者とそれを受 ける者)がその文脈の中におかれないといったい何を指し示すのかわからない。直示とはその指示語がもつ表現や機能のことをさす。その意味において、直示と してある〈動物名=ツキノワグマ〉を指し示すことは、単にその動物の属性(野生、保護対象、ドングリを冬眠前に食べる、凶暴、親子の愛情など)の意味の内 包だけでなく、その文脈、つまり〈クマ〉の存在の空間的位置であるドングリの実がなる森林などの具体的な生態系をその言葉を聞いた人に想起させるだけでな く、山奥の方位や自然の領域のイメージ、すなわち宇宙論(コスモロジー)における位置などが社会的文脈に応じて、あるいは行為の種類に応じて規定されるこ とになる。したがって宇宙論的直示(cosmological deixis)とは、多様な人間の宇宙論(コスモロジー)という文脈によって「それ(=動物)」が指し示す本質の定義が社会や文化、場合によっては同一文 化の中における行為者によっても異なり、さまざまな可能性のある行為者のリアリティの多様性をうむことを暗示する。

7.結論:「人間の鏡」としての動物


 本章におけるツキノワグマとジュゴンという〈動物〉と〈人間〉の相互作用は、もし〈身体性〉という観点に力点を置くのであれば、実質的に不在の現前とも いえるほど希薄で本当のところは邂逅することのない相互交渉であった 。ツキノワグマは(不幸にも重症を負って最近接する市民の稀な犠牲者を除いて)捕殺された死体として遭遇するか,生きたままだと麻酔銃を使って捕獲され て、容態をチェックされ、辛子スプレーなどで人間嫌いを学習させた後に山に還される。自然保護の専門家においてもクマに出会うことはめったにないのだ。横 山[2009]の次の文章は、その出会いが如何に蠱惑的なものであるのかを見事に我々に伝えるものである。「偶然、山の中でツキノワグマに出会う。真っ黒 な毛並みに光が集まり、黒光りした大きな塊が激しく波打ちながら、一目散に山中に消えていく。一瞬の出来事だ。自然の中に力強い生命力があることを思い知 らされる。ツキノワグマは、豊かな自然の恵みを受け生き抜いている生き物たちの息吹を、衝撃的に伝えてくれる動物である」[横山 2009:129]。ジュゴンは辺野古沖の海中を住み処とする住民というよりもその海域の通過民——歴史民俗学の用語では「漂泊民」が適切だろう——であ り、目撃情報も極めて少ないものである。しかし1998年1月13日辺野古沖をジュゴンが遊泳することがヘリコプターから確認され、その映像が放映され地 元紙に写真入りで報道された時、反対派の長老ミヤギ翁は「ニライカナイ(=海の彼方の異界)から使いが来てくれた」と叫んだという[Inoue 2004:95]。一方で魂を打ち震わせるか、魂が凍るかの遭遇があり、他方で認識論的な理性が制御する数多くの仮想的な出会いがある。

 しかしながら、ツキノワグマとジュゴンの存在論的 意義に人々は強く関心を持ち、またそのことをめぐり論争があり、実際のところ市民活動家たちは口角泡を飛ばすほどの情熱を傾けている。2010年10月 23日名古屋においてCBD-COP10/MOP5のサイドイベントとして沖縄・生物多様性市民ネットワークらが開催したフォーラム「沖縄ジュゴン保護と 国際責任」に参加した私の直接観察と共同研究者との二人で共通して得た所感である。これは身体性の交渉あるいは「交通」という観点からみれば、ほとんど人 間オンリーのシャドーボクシングに近いものであった。「『交通』が何らかの相互性を前提とする概念であるのに対して、『思い籠め』とは本来的に非対称的な プロセスである」[菅原 2007:94]。

ただ影(シャドー)であり「非対称的なプロセス」に すぎないにせよ、この動物が人間社会に与える〈他者性〉への介入の度合いは、グイ同様、この論考に登場する現代日本人もまた極めて高いと言える。この「思 い籠め」を可能にするのが、人間もまた環世界の住民であると同時に、他の動物とは異なり——限られた認知科学上の実験例を除いて動物の環世界の出来事は知 り得ない——人間は他の動物が環世界をもつことを、自己と他者の関係性のなかで、うすうす感じている存在である。メルロ=ポンティによると、意味を見いだ す人間の意識作用において主観と客観の区別は便宜的なものであり、その意識作用は合理的なものである[メルロ=ポンティ 1974:335-336]。

 本章は、人間と動物の相互作用についてその具体的 かつ個別的な関係を離れ、人間の側のグローバルな状況の事象の抽象性を論じる点で、他の論者たちとは趣を異にするものであったかも知れない。そして地元民 や自然保護活動家など一部のアクターに偏った分析でもある。ジョン・ナイトが報告する和歌山県本宮町での獣害では、被害に悩む農業や林業に従事する者、獲 物の持続性を切望するハンター、そして自然保護家など、人間の側においても様々なアクターが野生動物に対するさまざまな利害に立って多様な「思い籠め」を おこなっていると表現できるのである[Knight 2000]。

 もちろん「思い籠め」どころか、現実にクマは里に 出てきて、留守宅から帰ると居間に上がっており恐怖で後ずさりしてその場を立ち去り、次に猟友会の人と共に舞い戻ってきた時にはもぬけの殻だったことはし ばしばである。もちろん最悪の場合は、不幸なことに、その偶然の邂逅が獣に襲われるという「身体暴力」があることも事実だ。ただ、こちらの現実の暴力的に 関する直接的語りはさまざまな尾鰭が附くこともなく、また人々の間に伝染する社会運動にはなかなかなりにくい。

 「見ること」と「経験すること」とそれらを「語る こと」の関係は、我々が想像する以上に複雑なようだ。現実に直近で遭遇しているのにも関わらず日常生活の中でほとんど興味が持たれることがないものが、民 話の中では物凄く切迫感をもって身体的に交錯することがある。グアテマラのマヤ系先住民のマムの人たちは、怠けの者の農夫と普段は住民がまったく興味を持 たないハゲタカの間で、衣装つまり人生の役割を交換するという民話が広くみられ現地では定番になっている[池田 印刷中]。これまでの私の議論から、人間はある特定の動物種群をどうも均質に見ているのではなく、文化的関心を注ぐ動物の種類には偏りがあり民族差はや文 化差があることも分かるだろう。どんな文化にも「人間嫌い」の人がいるが、それに類する(あるいは対偶命題的な)「人間よりも動物のほうがより好ましい」 という心理的傾向がみられる。それはセリオフィリー(theriophily, 動物優越論)と呼ばれている[Boas 1933]。そこでこのように主張することができないだろうか。人間と動物を二分して区分することは多くの社会で観察されていて、それに関しては異論の余 地がない。しかし、人間と動物が相互交渉を行う時に、人間と動物が織り成す象徴空間でその当の人間が動物に対して働かせる想像力——逆から見れば動物が人 間に訴えかける想像力——は、決して均質なものではなく、その文化の動物観や関わりあいの変化の中でその直示的関係によりダイナミックに変動する、と。人 間と動物の関係にまつわる現象について考察する時に、人間と動物の二元論という議論構成は、単純にかつてのそのモデルに回帰することは戒めなければならな いが、その議論の出発点をずらし、この二分法的発想を鍛え直すことに、もう可能性は残ってはいないだろうか。

 人間と動物の二元論や、そのことを前提とした相互 作用論の有効性について考えるためにも、西洋近代科学が当然の前提にする主客の分離にもとづく客観主義、すなわち自然主義(Naturalism) [Descola 2006; ボアズ 1990]という同一化の様相(モード)という観点からの検討も必要であるように思われる。生物多様性概念は、それ自体が社会的に重要な話題になること ——すなわち社会化する——においては、人間と他の生物の関係が具体的に問われることであるために、個別な関係としての〈他者としての動物〉の存在意義に ついての議論が今後増大する可能性が高い。しかしながら、具体的にどのような展開をとるかどうかは先行き不透明である。クマが里に出てこなかったり、ジュ ゴンの訴訟が不成立に終わったりすれば、容易に人々の関心から遠のいてゆく可能性もある。またその遭遇をどのように解釈するかは、常に人間の側に委ねられ ている。

 西洋文化のみならず、本章において紹介した動物も また人間に反逆する自然としての能動的な主体性を認めざるを得ないツキノワグマと、人間の環境破壊という能動性に翻弄される当事者資格を[代補により]求 めている受動的なジュゴン——「草食性」で「温和」という生物学的な性質からみても自然保護と平和運動という2つのシンボルには最適な存在である——とい う二項対立を認めることは可能である。生物多様性の尊重という自覚化を通して、我々は動植物を保護している/しなければならない/する権能をもつように思 われるが、それは我々が造り出した個々の動物の影に対してである。ツキノワグマの登場に地元の人々は驚愕し、自然保護主義者はジュゴンの顕現を超自然的存 在のように跪拝する。それらが驚きや感動するのは両者ともが領域を越境する存在であり、人間に対してそれまでの動物との棲み分けの保守的なイメージを破壊 するからである。我々の社会の人間と動物の象徴交換とでも言える空間においては、これらの関係の動態はまるで「自然の鏡」の前でシャドーボクシングをして いるかのようである。文化というものが見せる恐るべき付き合い易さや如才の無さ(sociableness, tactfulness)に対する行為者がもつ対応のレパートリーの一端を、このシャドーボクシングという用語は図らずも示しているからである。アイコン としてのツキノワグマやジュゴンは、人間中心主義に凝り固まりつつある生物多様性保全の社会化に警鐘を与える、「人間の鏡(mirror for man)」なのかもしれない。だが、鏡を前にするシャドーボクシングは虚しい実践ではない。来るべき未来に対して、現在形の「自然」を投資する行為なので ある。

この研究は、「人間と動物の関係をめぐる比較民族誌研究:感覚とコスモロジーからの接近」日本学術振興会・科学研究費補助金・基盤研究(B)・H20- 23・代表者:奥野克巳)および「生物多様性概念の社会化の研究:現代生態学者の科学人類学」(同・萌芽研究・H22-23・代表者:池田光穂)の研究成 果報告の一部をなしている。1997年から現在まで辺野古で社会運動のフィールドワークを続けておられるケッタッキー大学の井上雅道博士と、沖縄県立博物 館奉仕係の方々には、ジュゴンの保護運動の歴史的展開について豊富な資料と研究上の重要な示唆を受けた。すべての関係者各位に謝意を表する。

文献


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オンライン文献


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(http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/120101zope.html)

-石川県,2011「第2期石川県ツキノワグマ保護 管理計画(変更)」

(http://www.pref.ishikawa.lg.jp/sizen/hogokanri/... /kumakeikakuh2303.pdf)最終確認日(2012年3月27日)

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執筆者紹介データ

池田光穂(いけだ・みつほ)

1956年申(サル)年生まれ

大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授 (現在:大阪大学名誉教授)

著書・論文

『実践の医療人類学:中央アメリカ・ヘルスケアシス テムにおける医療の地政学的展開』2001年、世界思想社

『看護人類学入門』2010年、文化書房博文社

『認知症ケアの創造:その人らしさの看護へ』 2010年、雲母書房

リンク

文献

その他の情報

他山の石(=ターザンの新石器)

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