邪視(じゃし)
evil eye
TextEngine Preject (TEP) 解説:池田光穂
多くの社会において、ある人たちの眼差しが人や事物に注がれると、それらに災難がふりかかるというという信条がある。この災いをもたらす 眼差しを「邪視(じゃし)」といい、このような信条が社会に広く共有されていることを「邪視信仰」と呼んでいる。ちなみに英語では evil eye 、ドイツ語では Böser Blick と呼ばれる「邪視」という言葉は、中国語訳の仏典に基づいた南方熊楠になる訳語である。
人類学の研究において、邪視はふつう、病気や不幸が起こったときの事後的な説明のための論理として人びとが用いるものとされている。例え ば、昨日まで元気であった子供が、人びとにとって「理由もなく」急病に陥ったとき、その以前に、子供に対して向けられた眼差しが「病気を引き起こした」原 因であるとするような見方である。
邪視という現象は世界の広い範囲にわたってみられるが、その姿は極めて多様である。
まず邪視を放つことは、中東のイスラム社会では、どのような人でも起こし得る。しかし、エジプトのアムハラ族では、それは特定のカースト に属する人のみが邪視を起こすことができる。また聖職者のみが邪視を放つと考えられる古代イスラエルのような社会もある。邪視がある特定の集団の能力と結 びついていると考えられる他に、一時的な人間の能力と考える社会もある。例えば中央アメリカのメスティーソの人びとは、山歩きをした後の男性や妊娠してい る女性に「強い視線」を放つ能力があると見なしている。南アジアでは、人間以外の、例えば蛇などの動物すら邪視を放つこともあるという。
また邪視に狙われる被害者のほうも、人間、特に乳幼児などの弱い存在や、金持ちや容姿のよい人という妬みの対象になる存在がおおい。また 邪視の害を受けるのは、人間だけでなく、家畜、農作物、家などの建物、自動車やタイプライターなどの人の財産にいたるまで多岐にわたる。
邪視信仰がみられる社会の多くは、邪視を向けた当事者に対してその責任を追求したり、告発するということはおこなわない。むしろ、邪視を 防ぎきれなかった親や所有者に責任があるとされる。そのため邪視信仰があるほとんどの社会において、邪視よけの護符(お守り)が普及している。そして、そ のタイプもさまざまである。中東やイタリアでは、「ファーティマの手」と呼ばれる、掌を外に向けて開いた形のもの、さらに掌の中央に目が描かれたものが有 名である。動物の角や、貝殻、ナイフ、あるいは目の形にした護符などもある。また、握った手の拇指と小指を立てて動物の角のように見せかけて邪視を防ぐと いうジェスチャーをすることもある。塩やにんにくも効果があるといわれる。またリボンや腕輪を身につけることも広く行われる。とくにその色彩のうち、青色 は中東や、地中海地域、すなわちギリシャ、イタリアなどに分布し、赤色は地中海地方のほかに、南アジアや北米、ラテンアメリカなどに広がっている。
このような邪視信仰が頻繁にみられるのは、西アジアの中東、ヨーロッパ全土、地中海地方、南アジア、およびラテンアメリカに広がってい る。これに比べて、東南アジア、日本を含む東アジア、極北、南太平洋地方では、この信仰はあまりみられない。アフリカでは、北アフリカの全域のほかには、 東アフリカの一部にみられるという。
邪視信仰が、その土地に固有のものであるのか、あるいは文化の伝播によるものかは、しばしば論争の焦点になってきた。
伝播説では中東や地中海地域の信仰が最も著名で、頻繁に観察されることから、邪視はこの地域が起源となり、文化的な接触によって全世界に 伝わったと唱える。 また米国のイタリア系やスロバキア系の民族集団やラテンアメリカにおいてみられるように、旧大陸の信仰が新大陸に受け継がれたとする意見もある。しかし 後者の意見には、原住民にも邪視信仰がみられたことから、伝播説には否定的な見解もある。
邪視という現象は、病気や不幸といった諸々の<災い>を説明する際のロジック、すなわち「災因論」(長島信弘)として、とらえることがで きる。その際、災いの原因と結果をむすぶ説明は、それぞれの社会の人びとが妥当と考える様式に従うものとされ、その様式は実に千差万別である。このように 災因論は原因と結果を秩序づけて説明する論理、すなわち<因果性>の考え方を、社会や文化において多様であると考える立場をとる。従って*生物医療(バイ オメディスン)における*特定病因論も、災因論のひとつのバリエーションにすぎない。この災因論としての邪視信仰は、たんに病気の説明だけではなく、世の 中の不幸一般の原因を説明している点で、*民族医学(エスノメディスン)研究にはなくてはならない視座を提供している。
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