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リチャード・セネット『無秩序の活用』の序文の分析

On Richard Sennett's "The Use of Disorder," 1970

池田光穂

リチャード・セネット『無秩序の活用』の序文の分析 である。

序文は全体で16パラグラフある。

1
この十年のあいだに、さまざまな社会的 背景、政治的意見を持った人々が、都市生活を再建す る必要があることに気づいてきた。黒人暴動は人々に、彼らの貧困に注意を向けさせた。しかし 青年たちは、すなわちそれ以前の沈黙の世代に代って出現した1960年代の青年たちは、都市 にたいして、もっと広範囲な関心を発展させてきた。それは彼らが、調密な都市生活のなかに、 現在「コミュニティ」という漠然とした言葉で理解されているある同胞愛の可能性、ある種の新 しい暖かみを感じ取ってきたからである。

2
青年たちによるこの種のコミュニティや関 係、共有感の探究のうち、ゲットーの外部で試みら れたものは大部分、みずから挫折をこうむった。ある者たちはこの関係を黒人ゲットーそれ自身 のなかに見出そうと試みた。しかし黒人たちの連帯は多大な苦痛を犠牲にして獲得されたもので あり、彼らの外部で同じように消費できるようなものではなかった。黒人は豊かな白人たちに、 みずからの手で暖かさを見出すように告げたのである。またある者たちは労働者階級を過激化す ることによってコミュニティを見出そうと試みたが、労働者階級は最近の学生運動を受け容れて/ いないため、ちょっと彼らに反応を示すだけで子供たちの頭を叩きのめした。

3
したがって青年たちによるコミュニティの 探究は、彼らの両親が身辺に築き上げた環境のなか での、彼らが白人であり、豊かであり、しかも不幸であるという状態に応じて行われる、ある生 活原理の探究と化した。そして、このような探究を誠実な自己分析への後戻りさせた排除の過程 はまた、社会的ならびに個人的な革新を求める運動に行詰りをももたらした。白人で、教育があ り、豊かな人々にとって、他の人々とコミュニティの感覚を共有するということはいったい何を 意味しているのであろうか。郊外においては人々は、一体感、アイデンティティの所有感覚、コ ュニティとしての「われわれ」という感情を持っている。だがその種の社会的な凝集性は、郊 外で育った人々の大部分が逃れようと望んでいるものにほかならない。新しいコミュニティとい う漠然とした理想に含まれているものは、ある穫の自由なのである。しかし物的な欠乏から解放 された後に、いったいどのようなコミュニティの自由があるのだろうか。

4
ここまでくるともはや問題は小さなもので はないし、歴史のちょっとしたゆがみといったもの でもないことは明らかである。この世代は、豊かさの達成を生活における不易の力とし、さらに それをどのように扱うべきかという問題を同時に背負って生きる最初の世代である。だが過去十 年間に解放された変化の力は袋小路へ追い込まれている。それはこの世代が、かつて避難場所 をひとつ残らず捨てさってしまったにもかかわらず、自己を黒人や下層白人の声と同一化するよ うな主張をすることができないためにほかならない。この世代には、彼ら自身のもっている社会 的素材によって社会生活を作り出すこと、すなわち稀少性と欠乏に対する闘いからの自由およ び豊かさを素材にして社会生活を作り出すという現実の問題が、未解決のまま後に残されている。 しかもそれは、豊かさを実現してきた世代にいかなる手本をも見出すことができない。なぜなら、 郊外に見られる意図的な潔白は、〔本文で検討するように〕社会生活を支えていくうえで満足のい く方法であるとは思われないからであり、事実それは、平穏な安楽に対する自発的な隷属にすぎ ないように思われる。

5
もし合衆国がベトナムへの危険な介入を中 止し、人々がそこから教訓を引き出してはてしない 軍事支出の泥沼状態に終止符を打つことができるならば、国内の改革に費すことができ、またお そらく経済的にそうされるに相違ない莫大な資金が生ずるであろう。そのときには、「世代の断 絶」が改めて問題になるだろう。スラムにおける住宅、教育、健康の悲惨な状態を止めるために、 われわれは何をなすべきであろうか。以前と同じような方法をとるならば、黒人や下層の白人に 対して、現在の豊かな白人の子弟が感じているのと同じ不快さを与えることになるであろう。貧 しい人々は、ますますそのような古い方法に対して異議を唱えつつある。彼らは、新しい住宅供 給プロジェクトによる目を見張るような住宅よりも、結局、ゲy トlのレンガ造りの方が良いと 主張している。現状のような豊かな都市形式に入り込めば、何か本質的なもの、「コミュニティ」 と呼ばれるものが、台無しにされるのである。

6
現代コミュニティ生活について最も知られ ていない側面のひとつは、この問題が革命の方向と 交差してきたことである。ロシアや、より豊かな衛星国の革命後の秩序は、現在、複雑な危険に さらされているように見える。それらは、革命の激動の過程ですでに鎮められたと考えられてい たものである。これらの諸国の青年たちは、両親たちが自分たちの不安をつくりだすような方法 で豊かさを利用しているのを見ている。官僚の家族にみられる一種の意図的な単純さと、日常生 活パターンの定型化によって、モスクワの都市はニューヨークと同様、青年たちに魅力を失いつ つある。さらに、欠乏からの解放が実現されたときコミュニティ生活をどう扱えばよいのか、と いう問題がある。革命は富を再分配したが、革命という事実そのものは、それがもたらした豊か さをどのように生活のなかに取り入れるのかを決定はしなかった。充ちたりた食生活のための闘 いが必要でなくなったとき、何に自己を専念させるかの決定はしなかった。

7
多くの革命的な著作家たちが、以前に存在 した不当な扱いが解決されたあと、社会がそのさき 何を支持していかねばならないかについての関心を表現している。彼らの考えは、青年たちと同 様、相対的に充足した経済状態のもとでは、どのようなコミュニティが普及すべきかに集中して いる。ハーバート・マルクーゼやフランツ・ファノン等の場合、その解答は特殊なものである。 すなわち、革命の進路は、社会から圧制者を取り除くことよりは情緒的な経験であるべきであり、 人々が自分の生活のなかにある程度のアナーキーや無秩序を受け入れるように習慣を教育で あるべきだというものである。社会が背負う無秩序の量を変えもしないで社会の指導者を変える だけでは、最終的には何ら革命がなされていないのと同じである。マルクスは1844年の草稿 のなかでこのことを理解していた。彼は、革命後の世界における自由とは、秩序の要求を超越す ることである、と記している。だがマルクスの初期の著作には、経済的な豊かさそれ自体が、社 会がもっている秩序への構造的な要求を取り除いてしまうであろうという夢があった。抑圧的な 秩序が産み出されるのは寓の不平等な分配によると同時に、人々に十分行き渡るだけの富がない という事実にもよっているのだと当時の彼は信じていたのだ。この点はサルトルのような批評家 がマルクスのなかに豊穣の哲学者、すなわち経済的な稀少性にもとづく秩序を超越する社会の哲 学者を見る所以である。

8
自由の夢は富の再分配という散文的な事実 から得られるものではないと見なした革命的著作家 たちのうち、アルジェリアの精神医学者フランツ・ファノンは、革命後の社会が型にはまらない 生活を実現していくためにはどのようなコミュニティの構造が必要かについて最も明確な説明を 与えた人物である。ファノンによると、革命に内在する自由は、革命家が都市生活の境界の外に 留まる限りにおいてのみ保障される。革命家は都市を、彼らのコミットメントの力に敵対する施 設、コミュニティとみなさなければならないのである。都市における官僚制の必要性とそこでの 人間接触の匿名的な性格は、最終的に人々の親密な感情、すべての者にとってより良い、より公 平な生活を分ち合おうとする感情を破壊せずにはおかないとファノンは信じた。同じ理由から、 人々は都市という調密な場所に脅威を感じ、自分たちが圧倒されないですむような安全な定型的 生活を追求するようになるであろう。こうして彼らは私的な安全性の社会へ押し込まれ、結果的 には革命家としての性格を失ってしまうのである。

9
革命後のロシアで生じたこのような現象に 動揺を感じた革命指導家たちは、反都市的な傾向を 根深くもつに至った。それは、毛沢東やフィデル・カストロによる農民賛美に見ることができる。 また、都市は革命的理想を燃え立たせようにも「望みのない」場所だとみなして、次第にそこを 諸めつつあるゲリラ戦の理論家たちにも見て取ることができる。

10
しかしファノンのような人々によって示さ れた都市に対する怖れは、人間的自由を恐るべき限 界へ導いてしまうものだ。なるほど都市生活を避けることによって連帯の情熱を保っていくこと はできるかもしれない。しかしそれは、部族や小さな村落に含まれる恐るべき単純性を革命家た ちに強いるという犠牲を払つてのことである。このようにして革命精神を生き生きしたものに保 っておくための代償は、それ自身を束縛することであり、調密な都市という施設のなかで生活し 合っている多数のさまざまな人々の社会的多様性を抑制することである。定型的生活を避けよう とする衝動は、皮肉にも、生活の社会的境界を閉所恐怖症的なものに変えることによって充足さ せられる。

11
さらに、彼らは大規模組織の問題に直面す るどころか、それを無視してしまう。非人格的で官 僚的なものよりも部族的で親密な組織の方が良いというのは一つの常套句であるが、それを唱え ることは、彼らが官僚的な構造を処理し変化させる能力を持たないことを承認するものである。 こうして反都市的な革命家の理論は、現在西欧諸国のニュl・レフトが直面しているのと同じ問 題にぶつかることになる。つまり、都市を基礎にした大規模な官僚制はどのようにしたらより良 い共同の生活が可能なものに変えられるか、という問題がこれである。それは、活気を産み出す 豊かさのシステムをどのように利用すれば人々を息苦しくさせないですむのか、を学ぶ問題でも ある。

12
私は、マルクーゼやファノンのような人々が、無秩序や多様性のもつ新しい背景を学ぶべきで あると述べている点は正しいと思う。経済的貧困のもとで生き残っていくために必要であった規 制や定型のパターンは現在もはや不適当である。私は、調密で無秩序で人を圧倒する都 市のなか に生活することが、どうしたらこの新しい自由を人に教える道具となりうるのかを探究してみる 気になった。

13
まず、戦後の歴史がこの世代を教育した前 提から出発する必要があった。それは、豊かさに充 ちたコミュニティが、人々のなかに自由をもたらすと同時に、みずから求めて虐待への新しい可 能性を開く点である。稀少性から解放された人々のコミュニティ生活を理解するためには、隠さ れた人々の願望、つまり彼らが社会関係のなかにもちこむ安全で危険のない隷属への願望につい ての探究が必要である。もっともたいていの人々はこの種の感情をなかなか認めようとはしない。 しかしそれを探ることによってはじめて、自由を願う本質とそれを現代の豊かさの条件のもとで 実現する手段とが明らかになってくるのだ。

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エーリッヒ・フロムやハンナ・アレントの ように、隷属への願望を幅広い心理学的なパレット の上で扱う著作家とは異なり、経済的に豊かなコミュニティ生活と関連するこの願望は、きわめ て特殊な形式を持っていると私は信ずるようになった。すなわち、恵まれたコミュニティに見ら れる隷属と自由のあいだの分割線は、人々が青年期から成人期へ移行しうるときの性格に依存し ていることである。それゆえこの書物のテ1 マは、以下のことを説明することにある。つまり、 青年期に一組の力と願望が現れ、それが青年に、自発的に隷属を求めるように働きかけること。 今日の都市コミュニティの構造は、人々が青年期の段階に自己を隷属させるように助長すること。 との枠組を突破してはじめて、その自由が無秩序と苦痛な混乱の受容のうちにある成人期を勝ち とることが可能であること。青年期からこの新しい、可能性にみちた成人期への移行は、調密で コントロール不可能な施設||いいかえれば都市!ーにおいてのみ起りうる現象に依存すること。 以上である。この書物の狙いは、現在多くの人々にとって不愉快に感ぜられる事柄を読者に納得 していただくことにある。それは、錯綜した都市の巨大きと孤独が積極的な人間的価値を持って いることである。実際、ある種の無秩序がさらに都市生活のなかに付け加えられるべきだと私は 考えている。そうすれば、人々は完全な成人期に至ることができるだろう。また彼らが今日もっ ている暴力への蒙昧な権好をなくすことができるであろう。そして、それを私は示したいと思っ ている。

15
保守的な読者は、最初この考えを好もしく 感じられるかもしれない。一見したところ、青年た ちの考えや不満が、成長とともに消滅し去るべき有害な幻想であるとして片付けられているよう に見えるからである。しかし彼らの感情が十分に表現されず、したがって十分に成長をとげない のは、現在の豊かなコミュニティ生活の構造が、あたかも人生の初期の段階は成人した段階に比 べて意義がないかのように、青年期の新しい力や情熱の解放を見下しているからにほかならない。 このようにして自発的な隷属への衝動がいまなお存在しつづけ、未解決のままになっているのだ。 豊かなコミュニティの成人は、青年期に生ずる願望、すなわち成人期の豊かな自由の可能性を怖 れることのなかに凍結されているのである。しかし巨大な都市の溝造のなかにおいて、人々はこ の泥沼から脱け出す可能性を与えられる。多様な都市を合目的に築き上げることによって、社会 は、白発的な隷属を打ち破って自由を追求する、成人としての経験を人々に提供しうるのだ。

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無秩序を受け入れ、無秩序のなかで生活するような自由こそが、この世代が「コミュニティ」 を追求するなかで漠然としかも未発達な状態でめざしてきた目標を表わしていると私は信じて疑 わない。ただ、コミュニティの探究という問題を洗練し深めるためにした私の試みは、まだそれ 自体あまりにも漠然としており未完成のもので、その「証明」あるいは十分な理論となっていな いのではないかと怖れている。私は自分の良心を疑う必要を感じている。そして、読者諸兄が同 じ問題に取り組まれるようになることを望んで止まない。


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