チュチカハウの肖像 (in process)
Un Retrato de Chuchiqajaaw :
※この文章はのちに、池田光穂『暴力の政治民族誌』大阪大学出版会、2020年の第2章 伝統祭祀と社会に、改稿の上収載されました。書籍テキストを読みたい方は、直接ご注文ください。
1. はじめに
グアテマラ西部高地モモステナンゴ(Momostenango)ではマヤ系先住民諸語の主要なひとつであるキチェ語が話される。そこはグ アテマラ西部高地のなかでも比較的集中的な民族誌学的調査がおこなわれてきた地域である(Carmack 1995)。その中でもマヤの口頭伝承や説話(Tedlock 1996)や祭司(priest)であるチュチカハウ(chuchqajaaw1))がとりおこなう儀礼や彼/彼女らの宇宙観に関する民族誌については豊 富な資料がすでに報告されている(Tedlock 1992[1982])。しかしながら、1980年代初頭に激化する内戦によって祭司がおこなう諸儀礼は、軍部ならびに自警団組織によって、少なくとも公 式的には破壊的活動と見なされ、その活動は一時的に社会の表面から姿を消した。その数年後に再び公衆の前に姿を現した時には、一様に儀礼の規模は拡大し参 加者は増大したといわれ(Tedlock 1992:xiv-xv)、儀礼をめぐる社会の理解と位置づけにも変化が生じたことが示唆される。
儀礼は社会の要請にもとづいて挙行されるものであり儀礼を取り巻く社会的環境が変化すれば儀礼 は、その内容を柔軟に変化させる可能性と融通性を具備しているものであるが(eg. ブロック 1994; 田辺 1997)、他方で儀礼研究は集合表象の反映として儀礼内容を保守的で普遍的な表現行為としてとらえるというデュルケーム的伝統もまた存在する。そのため にエージェンシーとして儀礼の実践者をとらえるという観点が閑却され、静態的な儀礼の宇宙観の管理者として見なす傾向は現在も強い。後者の立場からみた儀 礼と儀礼の執行者のビジョンは、現在においても影響力をもつパラダイムとして君臨し、その繁栄自体が人類学全体のパラダイム革新の芽を摘む要因となってい るのである。
都市化環境における実践共同体に関する民族誌的調査研究は、儀礼をはじめとするさまざまな実践の場 における行為主体をエージェンシーとしてとらえることで、<社会から>の実践の拘束性と同時に<社会にたいして>の実践の創造性というふたつの局面を社会 科学的に再定位することを試みる。本報告は、そのような研究の方向性を念頭においた民族誌学的記録として位置づけられるものである。
なお調査のためのグアテマラ共和国等への海外渡航期間は、平成10年12月19日から平成11年1月18日および平 成11年12月20日から平成12年1月20日であった。調査の際に使用した言語はスペイン語であった。文中イタリックはキチェ語、その他はスペイン語と英語である。
以下ドン・ディエゴとドン・ベニート(次号予定)という仮名で語られる2名の祭司に関する民族誌的素描をおこなう。これらの情報は、おの おの2人の男性とのインタビューを通して私が構成した儀礼の主宰者の考察のために収集された。内容は2人の男性が述べたことに従っており、歴史的事実との 符合関係の確認はおこなっていないことに注意されたい。
ドン・ディエゴ(仮名)は1930年に生まれて、1999年現在69歳であ る。1936年、つまり彼が6歳の時にパクロ ムに父親に連れていってもらったことがあるが、その時、多くのマヤ司祭が四方に向かって祈っているのを見ている。彼の父親もまたマヤ司祭だった。
1963年つまり彼が34歳 になるまでは、15年間にわたり飲酒の際には 酒乱となり、時には通りに寝ることもしばしばであった。また、周りのものに借金があり、その総額は15,000ケッツアルにもなっていた。
マヤ司祭(Sacerdote Maya)は、すべての神(Dios de Todo)に祈る。特に土地の神であるが、神さまの中のでもっとも最高なものはイエス・キリス トである。キリストの次に、さまざまな天使たち、土地の神、トウモロコシやフリホーレスの神に祈るのである。マヤ司祭が、毎日パクロムなどの祭壇のあると ころに赴いて、ロウソクやコパルなどを捧げるのは、それらの神々に対して祈って、人々の生活の平穏を祈るためである。
マヤの暦では、20日をひと月とする13カ月の暦を使っている。6月2日は、年が変わる[私がカトリック教会の前のスタンドで購入した、マヤのカレンダーの1999年版では、6月4日金曜日がWajxaqib' B'atz'となっていた]。この日には一切の負債が返されなければならない。6トッホ(6 toj)は一年の終わりである。
彼が最初についたマヤ司祭は、ドン・G・J・Bで、彼はとても移り気な人だった。
マヤ司祭のことを、キチェ語ではchuchqajaawと称する。この言葉にはコストゥンブレ(儀礼・慣習)を行なう者という意味があるとドン・ディエゴは言う。マヤ司祭の目的は、 世界に対して存在を示すことだ(da presente al mundo)。ところが、現在は、その世界が失われている。そのために強 盗、窃盗、襲撃、蛇などの危険な動物への遭遇がおこっている。
モモステナンゴにおける儀礼に従事している者のうち7、8割は、ロウソクやコパルを焚く(quema)人たちである。これをコストゥンブリスタ(costumbrista)という。コストゥンブリスタは、商売がうま くできるように、などの世俗的な祈願を、ロウソクなどを焚くことで祈ることができる人たちである。
それに対して、マヤ司祭(Saserdote Maya)と呼べる人は2、3割に過ぎない。マヤ司祭とは、バラと呼ばれる道具を用いた託宣ができ て、毎日祭壇に出向いて人々の平穏を祈ることができる人たちだ。マヤ司祭とは、カトリック教徒と同義である。狂信的なカトリック(catico fan_tico)——アクション・カトリカのことを示唆するものと思われる——は教会内での信仰し か容認しないが、マヤ司祭は教会の代わりに祭壇に出向くからである。
商売人は、マヤ司祭に依頼して、祈願をしてもらうことができる。エバンヘリコの商人であるドン・B を含めてドン・ディエゴは、祈願行為を総称して「焚く quema 」という表現をしている。これは、ロウソクとコパルを文字通り祭壇において火にくべる という行為を差しているからなのだろう。
コストゥンブリスタが努力すればマヤ司祭になることができるかと私(池田)が質問すると、ドン・ ディエゴは可能だという。ただし、それは人々のために奉仕するという決心が必要であり、修業を積んで(sacrificio=自己犠牲を重ねて)、行動に責任をもち、それな りに努力しないといけない。もちろん、本人にその素質があって、「神はその人を導くのだ」。
1998年に儀礼の聖地であるパクロムにおいてコンクリートの柵が作られたのは、マヤ司祭のグループの委員会(Comite de grupo de saserdote maya)が、市会(municipalidad)に対して援助を要請したからだろうと、ド ン・ディエゴは言う。しかし、その委員会のメンバーの誰一人として彼は知らなかった。シンディコのドン・Aは知っているだろうという。
マヤ司祭にもとづく信仰が、十分な御利益をもたらしたことは、1944年の革命のときに4名のシンディコが首都に出たが、誰も殺され ることもなく帰ってきたことだという。
コストゥンブレは、暴力から我々の身を守ってくれたという。たとえば、1901年ごろ、ウビコ大統領の時代に国内で暴力沙汰があったが、モモ ステナンゴに災難がふりかかることはなかった。1945年の暴力の時期に暗殺者や売国奴(traidores)が国内横行したが、ここはそのような不幸に見舞われなかった。
1980年代初頭にキチェやウェウェテナンゴなどの各地でおこった内戦にもモモステナンゴは巻き込まれなかったが、それもマヤ司祭が共 同体のために祈っていたからなのである。
マヤ司祭の数をふくめたその盛衰は、時代の変化に対応している。彼が6歳の時の1936年には相当の数のマヤ司祭がいたらしい。
ところが1945年以降、カトリック教会の外国人主任司祭(cura de extranjero)に先導されたカテキスタたちが、マヤ司祭がおこなう儀礼を厳しく非難し たために、マヤ司祭の活動が大きく停滞したという。
ところが現在では、カテキスタたち自らがが祈願行為をする、すなわち「焚く queman」という実践をおこなっている。また、毎週日曜日には、教会でミサがおこなわれている が、神父がその説教の中で、今日はマヤ暦の「何日」であるかを説明する。またカヒプ・ノホというマヤ語の名称をもつ私立の小・中学校がでてきたし、その学 校の授業の中でマヤの儀礼習慣を生徒に教えているという。
モモステナンゴのそれぞれの家族には、よく相談するマヤ司祭をもっている。マヤ司祭は、それぞれの 家族が持ち込む相談を受けるのである。ドン・ディエゴもまた、25家族ほどの相談を受け入れる家族——これは文字通り彼のクライアントを意味するものと思 われる——をもっている。マヤ司祭が祈る際に4つの方向すべてに祈るのは、なにも単なる人々のためだけではない、グアテマラ全体のために祈るのだ。
言うまでもないが、エヴァンヘリコ(=福音主義派プロテスタント)たちは、マヤ司祭の活動を厳しく 批判している。マヤ司祭は、悪魔(diablo) であるというのが、その主旨である。
ドン・ディエゴは、夜中のほうが人が少なく集中できるという理由で、彼について学びたいとする弟子 をつれて、1998年12月30日はパサバルで午前2時から3時に儀礼をおこなった。
また、儀礼を学ぶにはキチェ語を学ばねばならないか?、という私の質問には「多くを必要としない(no mucho)」と答えた。つまり、スペイン語でも学ぶことができるということだった。
chuchqajaawというのが、キチェ語で司祭(saserdote)あるいは、プリンシパルのことである。「焚く人」のことをletupatanという。ドン・ディエゴによると、aj q'ij というのは、必ずしも「焚く」儀礼に従事するだけではなく、aj q'ij の文字通りの意味「太陽の人、暦=時間を数える人」にゆらいする「時を数える」 いくつかの作業全体を差す言葉だというのである。
ドン・ディエゴの父親はマヤ司祭であった。他方、彼の小父は、町長(alcarde principal)あるいはchuchukajawであり、バタヨン(軍隊)のリーダーだった。
同業者のドン・E・Iは、いつも本をもって(tiene cargo de libro=書物/司書の役割という意味もある)聖地で歌を歌っているが、彼はク ライアントに対して露骨にお金をせびるので、「本物の」マヤ司祭ではない。ドン・E・Iは声を出して歌うので、その声に対して反感をもつ者(=敵)がい る。また、彼は教会の前で行商をしており、儲けた金で酒を飲むので、よい司祭とは言えないとも言う。
それに対して、いつも彼と一緒に行動している、ドン・Cは、よくいろいろなことを知っているので、 マヤ司祭(Sacerdote Maya)だとドン・ディエゴは太鼓判を押す。
どんな儀礼の時にも、声を出さずに静かにすることは、マヤ司祭の必要な資質である。だからドン・ E・Iの評価は低い。例えば、ドン・ディエゴのところに、エヴァンヘリコの信者が時々相談にくるらしい。その信者は、他の人に見られないようにこっそりと やってくるのだから、ドン・ディエゴ自身も秘密をまもることを信条としているらしい(その秘匿すべきことがらを実際には私に告げはしたが)。
商人として小銭を稼ぐのもよくないようである。というのは、職業柄金をせびる癖が身についてしまう からよくないのだという。
酒を飲むのも、マヤ司祭たる者にはよくない。というのは、マヤ司祭は、儀礼の時には性交を慎まなけ ればならないが、酒に酔ってしまうと、その欲望にまけて性交をしてしまう可能性があるからだ。
ドン・ディエゴの言う、マヤ司祭の条件とは、よく自己管理ができるということのようである。
北米の民族史家であり人類学者であるロバート・カーマックが当地モモステナンゴで調査をしたのは、1958年から60年代であり、彼やドン・Cは、彼のインフォーマントになった(cf. Carmack 1995)。
私が教師Mから聞いた1985年のマヤ暦新年のwajxaqib' b'atzに、たくさんのマヤ司祭が集合したという話を彼は否定した。その当時はまだ「アク ション・カトリカ」の勢力が強く、それほどこのマヤの新年の集まりはそれほど盛況ではなかったというのだ。
「しかし、今ではアクション・カトリカの連中も焚く」のだという。1930年から1940年代は、今日のように多数の人たちが来ていた。当時は、キチェのサンタ・ルシアからも来ていた。
その後、主任司祭(p_rroco)がやってきて、「焚く」ことを禁じた。
−−その主任司祭とは、アクション・カトリカのことか?[池田の質問、以下同じ]
そうだ。そのために、マヤ司祭の活動は半減した。その後、現在は、当時の8割りぐらい盛り返したの だ。現在では、もう先に述べたように、神父までマヤの日付を話すようになったからだ。
−−どうして、勢力を盛り返してきたのか?
それは主任司祭が外国人だったからだ。外国人にとってマヤの儀礼は「自分のものではない」。だから 彼らはそれを禁じたのである。ところが現在は、グアテマラ人が司祭をやっているために、自分のものたちであることを理解しているから、それを認めるように なったのだ。
−−ところでグアテマラ人の司祭が教会に赴任したのはいつごろなのか?
1980年だろう。
−−ということは1970年代は、まだマヤの儀礼は禁じられていたのか?
そうだ。1996年には完全に変わってしまった。
現在ではカテキスタ自身が、chuchqajaawで、自ら「焚く」ものもいる。
コストゥンブリスタが悪く、マヤ司祭が善いというわけではない。両方とも善い存在なのだ。ところ が、コストゥンブリスタは、人々にお金をせびる(piden dinero)のだ。またマヤ司祭が人々がよき生活をおくれるように祈るが、コストゥンブリスタは、 クライアントの依頼だけを受けて(金のために)占いをやる人のことである。
人々が苦しんでいるときに助けるのがマヤ司祭である。他方、コストゥンブリスタはただ依頼を受けて 占いをするだけで、彼らを助けない人たちだ。
マヤ司祭は(絶対に)金をせびらない。マヤ司祭は、ただひたすら「時を知る」ことに専念しなければ ならない。クライアントは、自発性にもとづいて喜捨するのだから、お金を要求してはならないのだ。
−−マヤ司祭はこれからも増えると思うか?
私(ディエゴ)には、コスタ(マサテナンゴ)とグアテマラ市に一人づつ、そして、当地に2人、これ から自分のバラを授ける人(como es alumuno)がいる。だから、これからも増えるだろう。
さまざまなところに散らばった彼の弟子たちは、それぞれの地域でクライアントの要請に応じて占いや 助けに応じている。ところが、彼らは特にめだった営業をするのではない。ドン・ディエゴのように、自宅に相談を受けるような場所をもつ程度にとどまってい る。
マヤ司祭にクライアントがつくかつなかいかは運命次第である。彼の話によると、ちょうど私が彼のと ころに来たのも、神が私に商人Bに会わせて、さらに商人Bは従兄弟のディエゴを紹介し、私を引き合わせたように、すべて神の導きによるものだという。つま り一種の「鎖」のようにつながっているのだ。
彼は40数歳のときに、彼の息子(mi patojo)を失い、52歳の時に妻をうしなってやもめになった。その後、現在の妻と再婚し、現在(2000年)12歳、11歳、6歳 の息子と3歳の娘がいる
彼は、マヤ司祭になるために、多くの人について学んだが、みな彼にお金をせびってきた。
マヤ司祭になるのは、運命=約束(compromiso)なのだ。
−−今は内戦もなく人々が平和に暮らしているが、それはなぜなのか?[池田]
それはカルピオ前大統領が「焚いた」からだ。サン・フランシスコ・エル・アルトとモモステナンゴの 間の頂(Joyam)でおこなったからだ。
ドン・ディエゴは、人の運命は分からないという。70歳だった彼の従兄弟は、さっきまで話していたのにあっという間に死 んでしまった。
2000年1月にドン・ディエゴの家を再訪する。
ドン・ディエゴの家を訪問するといつもラジオが五月蠅く鳴っている。どうしてラジオをでかい音でか けるのか?という私の質問に対して、クライエント(los pobres=貧者)が来たときに、その話を通行人に聞かれないために音を大きくしているという。確 かに彼の家のクライエントの話を聞く部屋——今回は真新しい机と椅子がおかれてあった——は、窓を閉じてはいるが、その向こうは人が通ることができる路地 になっている。
チュチカハウの仕事とは、人々を守ることである。現実の社会に弁護士がいるように、チュチカハウと は人々を災厄から守る使命をもっている。人々はさまざまな理由で人生を全うすることができない。「ドン」(=主人/支配者)の力をもって人を守るのであ る。ちょうど現実の社会に政府があるように、チュチカハウとは人生における政府のような役割を果たすのである。
——チュチカハウになるには[教師Mが言うような]マヤのカレンダーによる生まれた日付によって決 まるのでしょうか?[池田]
そのようなことはない。誰でもチュチカハウになる運(fe)をもっている。
人々がコストゥンブレをおこなうのは、泥酔して通りに寝たり、行商中に強盗にやられないように、日 々の生活を災厄から守ってくれるようにお祈りするのである。
——どうしてモモステナンゴにはチュチカハウが多いのでしょうか?[池田]
この町はもっとも神聖な町だからだ、聖地パクロムはサンティアゴの守り神=主、あるいはサンティア ゴが守り主としているからだ(Paklom es patron Santiago)。
かつて、1965年頃はチュチカハウであることを証する証明書を携帯していた。しかし、民主主義の世の中になって誰でも自由に儀礼をおこなうこ とができるようになってコストゥンブリスタが自由に儀礼をおこなうことができるようになったのだとディエゴは説明する。
——その証明書あるいは免許書(carnet)は誰が発行していたのですか?[池田]
行政統治省(Ministerio de Gobernaci_n)で、毎年その証明書を更新しなければならなかった。あの当時(ca.1965)は誰も儀礼をやることを恐れていて、そのような証明書 がないとおおっぴらには儀礼を行うことができなかった。
ドンは世界の支配者あるいは儀礼の主宰者たる資格をもった人間のことでもある。ドンというのは、 ちょうど家庭におけるドン(家長)のような次の4つのことを言う。
(1)walbalja ; presente de familia. ワルバルハ;家族の存在
(2)wilmal ; presente de agricultura, o sea ma_z. ウィルマル;農業つまり トウモロコシの存在
(3)mebil ; trato de negocio, o suerte. メビル;商売あるいは運命の処遇
(4)jiq' ; cosas rara ヒク;希少な事象
1980から85年当時の チュチカハウは、実質的に非合法あるいは破壊活動(clandestina)とみなされた。誰もその活動を大ぴらにしなかった。しかし、モモステナンゴは、聖地でありチュチカハウの活動があったから、 そのゲリラの活動の時代にたった一人しか死人を出さなかった。その死人はゲリラ活動に参加して死んだのだから、実質的に死人を出さなかったも同然である。 ドン・ディエゴは夜中に儀礼をやっている時にゲリラの一群と出会ったことがあるという。しかし彼らはディエゴに挨拶をして通り過ぎただけだ。そのことを他 の人に語ったとき「よく殺されなかったことだ」と言われたが、それはドン(=支配者)の力によるものだ。
チュチカハウに対する需要があるのは当然である。磁石に鉄が引きつけられるように、人々はチュチカ ハウを探して彼らのところにやってくる。彼ら、すなわちクライエントの動機は経済的なものだ。
——モモステナンゴには商人と行商人がとても大いようだが、コストゥンブリスタと商人や商業の関係 はどうなっているのでしょうか?[池田]
商業に従事するのは、生活における必要性のためだ。モモスの人間は、メキシコやベリース、コバンや ペテンまで行商をしている。商人あるいは行商人に会えば、それは皆モモステコ(モモステナンゴの人びと)なのだ。
モモスの人たちがなぜ商人になったのかを説明する有力な説明というのはどこにもないように思える。 彼らが指摘できるのはモモステコは生粋の商人であるという事実の追認だけである。
モモステナンゴの人たちは、グアテマラのどこでもモモステコの商人と出会うことを知っている。また 行商に出た場合でも、行商人どうしで、情報交換をしたり、同郷どうしで庇いあうこともある。商人独特のビジネススマイルや話し上手ということも子供の時代 から学ぶようだ。これらのハビトゥスが、彼らの商売をする状況に対して貢献していることは明らかである。もっとも行商人は、グアテマラ市の庶民が集まる通 りや村落部の隅々に行商するために、利益率はそれほどよくないように思える。にもかかわらず行商に従事するのは、以前からの伝わっているノウハウと、行商 の行く先々で出会うネットワークが面々と続いているからだろう。
ドン・ディエゴの経歴を確認する。彼は今まで、警察の長、ムニシパリダの役職、セントロ・デ・サ ルーの審議委員(consejero)、ムニ シパリダの文書司書などを40年間、汚職に手 を染めることなく(papel limpio)勤めてきた。彼によると20年間は国家に、残りの20年間はムニシパリダに奉職してきており、今から4年前の66歳の時に退職し恩給を得る身になったという。
——人はどうして不幸になるのでしょうか?[池田]
第一に人は怠け者で、自ら働こうとしない。次に、コストゥンブレ(儀礼)を行わない。さらには、男 も女も悪い考えをもって別の男女と関係を持とうとする。だから、皆不幸や貧乏になるのだ。
——ではそのような不幸から救われる方法とはなんでしょうか?
蝋燭を点して祈ることだ(=儀礼をおこなうことだ)。
——Wajxaqib' B'aatz'について説明してください。
今年は2月19日と11月5日の 2回ある。この日にはすべての負債を返済しなければならない。また、この日に弟子のチュチカハウは9カ月の修業を終えて師匠からバラを授かるのである。私 (ディエゴ)は、師匠のドン・G・J・Bからバラ(赤色のインゲンマメを中心とする託宣のための道具)を授かって3日後に、最初のクライエントがトトニカ パン(地名)から私を頼って相談にやってきた。
——どのようにして、ドン・ディエゴのことをそんなに早く知ってやってきたのでしょうか?
神がその道筋を照らしたからだろう。
ディエゴは今まで12人の弟子にバラを授けた。そのうち4名が故人で8名が存命している。もっとも最近授けた弟子は、30代の男で昨年の11月のWajxaqib' B'aatz'の時にバラを受けた。バラを受けた人の中には、1998年に私がその名前を聞いていたサン・フランシスコのAというグ リンガ(白人女性)の人類学者も含まれている。彼女は、アンティグアからモモステナンゴに通ってきてディエゴについて学び、最終的にバラを授かったとい う。
——チュチカハウになるための勉強はすべて暗記しなければならないのですか?
そんなことはない。メモを取りたければ筆記すればよいのだ。
——チュチカハウになるためにはキチェ語を知っていなければならないのですか?
スペイン語だけでもマスターすることができる。
彼は最後に優秀なチュチカハウとしてドン・C・Aの名前を挙げた。ドン・C・Aは朝やお昼に儀礼を おこなっているが、ディエゴは極度の遠視で日中は目がまぶしくて疲れるので、夜や夜明け前に儀礼を行っている。
ディエゴの子どもたちに、将来何になりたいか?と聞いてみたら、一人は教師かリセンシアード(大学 卒業の学士)、もう一人は飛行機のパイロットだった。
彼の師匠たるチュチカハウであるドン・G・J・Bは、20年以上前に亡くなった時に80歳以上の高齢者だったという。しかし、彼が34歳の1963年の時に、ドン・G・J・Bは40歳から50歳ぐら いだったというので、このあたりの彼の記憶は曖昧である。
ドン・G・J・Bは長い間商売人として旅に出ていたが、やがてムニシパリダで第二シンディコ(sindico:管財人)を勤め、その後はマヤ司祭=チュチカハウを もっぱらの生業としていたという。
ドン・G・J・Bは生前、さまざまな弟子の中でも自分(ドン・ディエゴ)が一番優秀であると言って いたとディエゴは誇らしげに語る。
ドン・ベニート(仮名)は2000年1月におこなっ たインタビューの録音記録をとる直前に、ラディノがマヤ人を差別し、未だにマヤの文化について敬意と保護の意識を払わない現状にかなり怒りをもって話しは じめた。征服者のスペイン人と同じようにラディノはマヤの文化を蹂躙し、武力によってマヤ人を根こぎにしようとしているとも言った。
彼は言う。マヤ人はグアテマラの国民には含まれていないのだ。その証拠に、マヤ語にはLとTの発音 がないから、アマティトラン、アティトランなどのLとTが含まれた地名はトルテカのナワトル語起源で征服者が勝手に地名を付けたものだ。マヤの地名がない ということは、グアテマラがマヤの土地であるという認識がない証拠であるというのである。そして、マヤの文化を理解しようとしている私に対して、向こう (日本)に戻ったなら新聞や雑誌などのメディアに、この抑圧されたマヤの現状を伝えてほしいとの希望を述べた。最初のこのコメントに、私は彼の中にきわめ て明確なマヤ文化アクティビストの姿をみた。
彼は以前グアテマラで様々な宗教者が集まった会議に参加したことがあり、その時にユダヤ教(juda_smo)の宗教者に「マヤ司祭」として厚遇された経験をもっ ている。その時から、彼の宗教者としての自覚が増し、将来さまざまな宗教者と交流を持ちたいとの希望がうまれた述べた。特にアフリカとアジアはまだ訪問し たことがないので、是非訪れてみたいと言っている。
ドン・ベニートは1951年1月6日に生まれ、2000年現在49歳にな る。彼のナウァルはトラ(tigre)だとい う。彼の父親は毛織り職人で、同時に息子たちにポンチョを販売するように全国に行商させた。彼の学歴は小学校6年で、算数などは大嫌いでほとんどできな かったが、行商するあいだに計算できるようになった。
彼の父親——母親についてのコメントは聞かれなかった——はキリスト教を信じていた。彼の祖父はマ ヤ司祭であり、彼は子供の頃から祖父が儀礼をおこなうパクロムについて行った思い出があるという。13歳(ca.1964) の時にはマヤ司祭になろうという気持ちがすでにあったという。18歳から21歳頃(ca.1969-1972)には、すでに自分で儀礼を行えるようになっ ていた。その当時、彼は行商の合間に、モモステナンゴ以外のさまざまマヤ司祭——具体的にはチチカステナンゴ、サン・アンドレス・シェクル等)と一緒に儀 礼をおこなって——コスタを含めて様々な場所で、そのやり方を学んだ。ドン・ベニートによると、マヤの儀礼の方法は、かなり個人差があるので、それらをい ろいろな人について学んでみたかったからだという。儀礼を他の司祭について学ぶというのは、実際に儀礼についてみないと分からない。だから、それはすべて の人から何らかのことを学ぶという態度よりも、より自分の感性にあった司祭の儀礼に出会いたいという気持ちが強かったようだ——彼は、それをスタンプに例 えて何度もスタンプを押してとうとう自分の気に入る印影を得るのだと説明する。
1970年代末、ちょうど彼が27、8歳の頃は、マ ヌエルたちとWajshakib' Batz'——現在のALMG(グアテマラ・マヤ言語学アカデミー)による正書法ではWajxaqib' Baatz'を表記されよう——という青年組織に参加していた。その直後からグアテマラ国内 の政情は急激に悪化し、マヤ司祭の活動も80年代の前半はほとんど停滞期に入る。
ドン・ベニートによると1984年、33歳の時に 行商をするのをほとんどやめてマヤ司祭の仕事に専念するようになったという。もっとも彼の仕事部屋には、いつもたくさんのポンチョ(モモステナンゴの特産 品の毛布)が積んであり、一族が作っているポンチョの卸のような仕事は現在でも続いている可能性はある。ドン・ベニートに言わせると、モモステコは「小さ なアラブ人、小さな中国人 peques _rabes, peque_os chinos」だから、商売によってメキシコか らパナマまでさまざまな所を旅をするのだという。
ドン・ベニートはマヤ司祭に専らいそしむようになってから数年後の1990年1月31日に Misio'n Maya Wajshakib Batz' (ミシオン・マヤ・ワハシャキブ・バ アァツ)を設立し、その代表を名乗るようになる。といっても代表者一人で会員というものは不在の幽霊法人のようなものである。当然のことながらNGOの法 人登録はおこなっていない。もっとも1996年 暮れの和平合意後にはこのような「マヤ宗教」の主宰者は雨後の筍のように出現しており、彼の法人はその一つである。この法人の設立目的はダンスや音楽を通 して「マヤの失われたアイデンティティをとりもどすために、マヤ人に援助の手を貸す」というものである。
現在、米国人で英語教師でありモモステナンゴに住み着いたKと2人で協力してケブ・ノホ(Keb' No'j)というマヤ教育のプロジェクトを開始したが、これはまだ軌道に乗っていない。ちな みに教師Mの妻Lのように「失敗した」と公言するものもいる。
ベニートは言う。都市に住んでいるマヤ人は苦しんでいる。自分たちの方向性(orientaci_n)が見つからない。トラウマに陥っている。欲求 不満がたまっている。スペイン語(castellano)ばかりを話さねばならない。汚染された環境にいる。経済=金のことで頭が一杯である。だから都市のマヤ人は苦しみ、自分たち の郷里に戻り(儀礼をおこなって)自分たちを取り戻さなければならない。
マヤの文化とは、音楽やダンスやさまざまな儀礼からなりたち、人々の道徳的苦しみを治療し、マヤ人 たちをより良い方向に導いてゆくものでなければならない。キチェ語を話すことを通して、マヤ人としての意識を回復してゆくのだという。だから、彼が名付け ている「ミシオン・マヤ」(マヤの使命=使節)という名称の小さなプロジェクトも、マヤの言語の使用に重きをおいているのである。
彼によると、エヴァンヘリコの連中がやってきて、彼に相談しキリスト教の聖書の用語や概念をキチェ 語に翻訳しようとした。しかし、それは政治と宗教が不可分に密着した「マヤの文化」においては不可能である。そのような誤った行為がマヤの文化を荒廃させ るとベニートは言う。
マヤの文化の徳性は、自己を過度に弁護しないことであり、また他者を過度に批判しないことである。 「我々マヤ人」に必要なのは、文化の精神であり、人間性を向上させることである。
しかし、現在のマヤ人は、銃をもち、多くの同胞に対して暴力的に振る舞っている。泥棒を殺し、残虐 性を発揮することは、社会にとっては死をもたらす。
そのような状態から抜け出るためには、自己を反省の中におき、自分たちのアイデンティティを維持す ることである。我々の身の回りにあるメディアは、すべて文化である。お互いにそれぞれの文化を尊敬し、友愛の精神で接することだ。
このあたりの会話は、ほとんど布教者と話しているようで、それなりに私(池田)は理解し納得できる が、聞いていてあまり興味のわくものではなかった。唯一の着目すべきことは、彼の使う「文化」の定義がE・B・タイラー流の人間の諸活動の全体というもの を指していたことである。このような知識は、彼がグアテマラ各地の先住民運動関係の行事に参加することを通して仕入れたものかもしれない。
マヤ司祭の呼称について、ドン・ベニートに聞くとマヤ司祭の呼称にはキチェ語とスペイン語で以下の ようなものがあると説明した。それらをすでに収集された資料も加味して整理すると次のようになる。
【キチェ語】 | |
aj q'iij |
直訳は「太陽の人」だが、スペイン語に一 番ちかい翻訳は「時間を数える人 contador del tiempo」である。キチェ語ではもっとも適切な表現。 |
chuchikajaw |
ドン・ベニートによるとaj q'iij を指し示す言葉だが、回りから尊敬されている年配の司祭のことを示す。だか ら、すべてのaj q'iij をこのように呼ぶことはできないという。[Chuchqajaaw:スペイン語訳はConsuegro("Diccionario K'iche'",1996:57)] |
aj pataan |
pataan にはコストゥンブレの意味がある("Diccionario K'iche'",1996:243/同辞書にはマヤ司祭をajq'iij pataan と表現している)。信心深い人、賛助会員、というニュアンスがある。 |
k'amal b'eh |
共同体の儀礼をつかさどる者(同辞書p.153 には「結婚式の儀式やコフラディアの行列の際に儀礼を司 る男性」とある)。 |
【スペイン語】 | |
cotumbrista |
コストゥンブレを行うものという意味だ が、敬意を表す意味合いがすくない。 |
gu_a espiritual |
もっともふさわしい用語だという。 |
gu_a tradici_n Maya |
gu_a espiritual と同じで、呼称としては好ましい。 |
sacerdote Maya |
一般的にマスメディアで流通している用語 である。これは、もともと何も知らないラディノたちがマヤ司祭をbrujo, shaman, xaman(shamanの口語的書記)と俗称していたのを、新聞記者たちがより偏見の少ないものにしようと造語したものだ。必要に応じて使うことはあ るが用語としては、それほど適切なものではない。 |
contador del tiempo |
aj q'iij(あるいはajq'iij)のスペイン語の翻訳である。 |
私がパクロムにコンクリート製の柵ができたことの経緯について聞いた時、ドン・ベニートは機嫌を損 ねながら「あの話はマヤの文化が踏みにじられた最も典型的なもののひとつだ」と言って、その社会背景について話しだした。最初は、和平締結の後、ムニシパ リダに国から予算がついたことにはじまる。それを先住民の文化の尊重のために利用すべしという条件で国から交付されたものだという。ドン・ベニートに言わ せると「それを行政担当者たち(autoridades)が町の人々、とくにマヤ司祭に一切相談することなしに、勝手に、それもマヤの伝統的な様式をまったく無視して建設したもの」 であると不満を言う。
彼は、それを6つの問題点として次のように指摘した。
まず最初に、和平合意に盛り込まれた先住民アイデンティティを尊重するという精神が行政担当者には 欠けていた。だから、誰にも相談せずに勝手に建設した。事情を知らされていなかったマヤ司祭は、工事が進められるのを黙って見ているほかはなかった。
第二に工事を受注した業者は、実際にかかる工費以上の見積もりを行い、工事が完成した暁には不当な 利益を得た。そこには、それを認めた行政担当者との間に癒着があった。
第三にマヤの聖地を政治的道具に使った。
第四に政府が推し進めていたさまざまな機関の民営化に連動して、マヤ司祭の活動を共同体の共通の行 事とするのではなく、個人的な活動として位置づけることに、あの柵や二重十字架は社会的に機能している。
第五に、柵や入口、二重十字架など、コンクリートで造られたそれらのものは、ことごとくマヤの伝統 的な意匠を無視してつくられた。
第六に、このような建造物が造られることによって、次のマヤの世代にも悪影響を与える。
——ドン・ベニートは、これらの苦情を口頭でありながら、あたかも文書に記した個条書きのようにす らすらと申し立てた。
以下もまた教師Mに聞いた話であるが、マヤ司祭としてのドン・ベニートの特異性あるいはユニークさ を知る手がかりとなるので記そう。
ドン・ベニートは、マヤ司祭の儀礼においてさまざまな革新的方法をもたらしたことで著名になった が、それは同時にモモステナンゴの伝統的なマヤ司祭の間ではスキャンダルとなった。
まず、彼は(彼が考えるシンクレティスモ以前の)マヤの宗教とカトリック信仰を峻別し、後者を儀礼 の中から排除しようとする。これは明らかに伝統の側からみれば「創造」的行為である。たとえば、彼はそれぞれの長さが異なるキリスト教の十字架を使わず、 同じ長さからなるマヤの十字架を使う。また、儀礼は、地面に砂糖で円を描いてから十字描き、それぞれの四隅に黒、赤、白、黄色の蝋燭をはじめとして香(pon)などの様々なものを配置し、それを祭壇として儀礼をお こない、それ以外の空間を特別に意味付けることはしない。しかし、ドン・ベニートの場合は、4つの色で識別される空間を広くとり、それぞれの4隅に蝋燭や 呪物を配して、その四方を「きれいにするhacerse limpio」という。
このような方法は、古典的な儀礼をおこなってきたマヤ司祭の逼塞を買い、彼の儀礼のやり方に対する 非難の原因になった。
彼の儀礼のやり方が、モモステナンゴの人たちの間でもっとも話題になったのは、何かの集会の時に彼 が首都で儀礼をおこなった時である。彼は頭に羽根飾りをつけてほとんど裸に近い格好で儀礼をした——というのはマヤの考古学的に発掘された石彫には、神官 は装身具以外は褌のみの姿で描かれているからである。これは、グアテマラの新聞に大きく写真で掲載され、人びとの噂——そのほとんどが非難——になった。 最も主要な非難は、モモステナンゴのマヤ司祭はそのような格好で儀礼をしないというものであった。別のかたちの非難は、ドン・ベニートはマヤの司祭の仕事 をショー化して、グアテマラの都市住民にアピールしたのではないという嫌疑つまり、マヤの儀礼を商品化しているのではないかというものである。
しかし、教師Mによるとドン・ベニートにも擁護されるべき点があるという。それは、まず第一にグア テマラ市はモモステナンゴよりも気温が高く、別に裸でおこなっても構わないのではないかということ。また裸でおこなったのは、マヤの「キリスト教が混じら ない本物の」儀礼をおこなおうとした気持ちからであり、マヤの儀礼を商品化したものではないということである。さらに教師Mによると、ドン・ベニート自身 も自分のおこなった/おこなっていることが長老のマヤ司祭たちの機嫌を損ねていることを自覚しているから「髪の毛だけを長く伸ばして後ろに束ねているの だ」と説明する。だから教師Mによると、ドン・ベニートは(マヤ司祭の公的なリーダーたる)aj iitzにはなれないだろうと言うことになる。
インタビューの際にも私自身が感じたことであるが、マヤのことをより多くの人に知ってもらおうとい う彼の努力が、往々にして地元民には誤解され、「外国人とつるんでいる」「金儲けのためにだけに儀礼をおこなっている」という非難を浴びるているという、 なんとも外来の観察者から見れば皮肉なことが起こっているのだ。
4. おわりに
共同体に存在していたマヤの伝統的なシャーマン−司祭の儀礼が、現代マヤ人のコスモロジーあるいは 文化として解釈されてゆく社会的文脈の検討をおこなう意味について考えてみよう。それは実践行為が異なった社会的行為として認知され受容されることが、人 々が想像する社会そのものを変容させてゆく可能性を検討することに他ならない。
モーリス・ブロック(1994)は、儀礼の意味付けと実践の長期的変化が社会的に決定されることを中央マダガスカルのメリナ社会における割礼儀礼の歴史的か つ民族誌学的検討をとおして示した。田辺(1997)は、近代化における儀礼の権力表象と実践内容の変容について、HIV感染症が蔓延する北タイのコンムアン社会の事象を検証し ている。ピーエル・ブルデュ(1993)が分 析した独立直前のアルジェリアを事例にあげるまでもなく、資本主義を受容し、そこに生存の基盤を求めてゆくためには、日常生活の細部にわたる観念と行動が 表裏一体になる実践行為(ハビトゥス)の改変が必要となる。これらの一連の考察によれば、行為主体は新しいハビトゥスを自ら受容しつつ再生産しなければな らないという被拘束的存在であると同時に、新たな行為実践を産み出し、それらの諸行為を通して社会ならびに歴史を自分たちの外部に構築してゆく存在でもあ ることを我々の前に提示している。
視点をグアテマラの先住民に移せば、80年代までの内戦がグアテマラ先住民社会に与えた影響に関する人類学的調査研究から、現在は、近代化の中で国家に従属する先住民 像のそのメカニズムの分析に端を発して、マヤ・アクティビスト運動あるいは氾マヤ運動とよばれる先住民社会運動の分析と関与のあり方に関する研究と実践に ついての民族誌が多く世に問われるようになってきた(Warren 1978, 1998; Fischer and Brown 1996; Smith 1990)。
モモステナンゴの伝統的なシャーマン司祭の儀礼と宇宙観については、バーバラ・テッドロック(1992)が1970年代の中期から末期にかけて収集した民族誌があり、私の今回の2ヶ月にわたる調査においても、それを確認することができた。し かしながらテッドロックが得た詳細な資料は、彼女じしんがシャーマン司祭の弟子として体験したことから得たものであり——彼女はもともと民族音楽学の教育 を受けたことがあり、フィールドで理論を外挿するような研究手法よりも技能をパフォーマンスを通して実修することの意義を強調している——、そのことが逆 にシャーマン司祭の実践を秩序だった静態的にとらえる傾向を否定できない。そこにはエージェンシーとしてのシャーマン−司祭という視点が欠落している。
他方、近代化論とマヤ運動を改めて関連づけて考察してみる必要もまたある。儀礼が政治的社会変動の 中できわめて動態的に変容してゆくことは千年王国運動などの歴史的事例などにおいてよく知られている。そのような変動は、一般には被抑圧者の政治運動にお ける文化の表象行為としてとらえられてきた(ワースレイ 1981; ランテルナーリ1976; 池端 1987)。 しかし、そのような政治の文化的表象以外にも、社会変動の微細な変化はさまざな側面で観察できる。例えば、儀礼の内容が衰 退を遂げずに個人の苦悩を解放するために特殊化をとげたり、グローバリゼーションの中で儀礼の権力表象が変化する(cf. 田辺 1997)ようなマイルドな変化は行為実践の微小観察においてのみ把握可能な事態も数多くみられるの である。この種のマイルドな変化 を、より広い社会の文脈のなかで捉える分析枠組みとして、近代化(modernizaci_n)の枠組の中での社会運動論などの分野ではすでに試みが始まっている(Garcia Canclini 1990)。
今後の課題として、実践行為から社会想像の可能性という議論に民族誌的事象をどのように関連づけて ゆくかについての理論的検討が不可欠である。社会運動の微細な観察から社会変動全体へと、実践を媒介概念としてどのように民族誌を描くのか。新たな概念を 創出するという方法以外にも、社会的行為の体系についての従来の社会科学的考察を、媒介としての実践をという観点からどのように再読、再解釈あるいは対抗 的読解をおこなってゆくのかを見極めることも必要となるだろう。そこでは大胆な思考実験が要求されるであろう。例えばヘレニズム的概念であった<可能態> の議論を実践行為が生み出すものとして期待した田辺(1994)の議論と、節合を軸にしたネオマルクス主義的実践を説いたラクラウとムフの議論(1992)を連結することを通して、マヤ運動のシャーマン司祭の実践と その社会的受容性が、それらの二項の対立の中でどのような位置に占めるかという思考実験である。人類学におけるパラダイム枯渇を潤すオアシスがそこにはあ る。
文献
Bloch, Maurice(モーリ ス・ブロック)1994
『祝福から暴力へ : 儀礼における歴史とイデオロギー』田辺繁治・秋津元輝訳,東京 : 法政大学出版局.
Bourdieu, Pierre(ピ エール・ブルデュ)1993
『資本主義のハビトゥス : アルジェリアの矛盾』原山哲訳,東京:藤原書店
Carmack, Robert M. 1995
Rebels of Highland Guatemala: The Quiche-Mayas of Momostenango. Norman: University of Oklahoma Press.
Fischer, Edward F. and R. Mckenna Brown. eds. 1996
Maya cultural activism in Guatemala. Austin : University of Texas Press.
池端雪浦(Ikehata, Setsuho) 1987
『フィリピン革命とカトリシズム』東京 : 勁草書房.
Garc_a Canclini, N_stor. 1990
Culturas H_bridas : Estrategias para entrar y salir de la modernidad. M_xico, D.F. : Grijalbo.
Laclau,Ernesto. and Chantal Mouffe. (エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフ) 1992
『ポスト・マルクス主義と政治 : 根源的民主主義のために』山崎カヲル・石沢武訳,東京 : 大村書店.
Lanternari, Vittorio(V.ランテルナーリ)1976
『虐げられた者の宗教 : 近代メシア運動の研究』堀一郎・中牧弘允訳,東京 : 新泉社.
Smith, Carol A. ed. 1990
Guatemalan Indians and the state, 1540 to 1988. Austin: University of Texas Press.
田辺繁治(Tanabe, Shigeharu)1997
苦しみと人間の可能態ミ北タイにおける霊媒カルトとHIV感染者グループミ,『新たな人間の発 見』岩波講座文化人類学第1巻,pp.181-212,東京:岩波書店
Tedlock, Barbara. 1992[1982]
Time and the highland Maya. Albuquerque : University of New Mexico Press.
Tedlock, Dennis(trans.) 1996
Popol vuh : the Mayan book of the dawn of life. New York : Simon & Schuster.
Warren, Kay B.1978
The symbolism of subordination : Indian identity in a Guatemalan town . Austin : University of Texas Press.
Warren, Kay B.1998
Indigenous movements and their critics : Pan-Maya activism in Guatemala. Princeton, NJ : Princeton University Press.
Warsley, Peter.(P. ワースレイ) 1981
『千年王国と未開社会 : メラネシアのカーゴ・カルト運動』吉田正紀訳,東京 : 紀伊國屋書店.
池田「儀礼を新しい文脈に移し替える」2000年2月21日国立民族学博物館で発表(pdf)
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099