はじめに よんでください

池田光穂『暴力の政治民族誌』を《読む》方法

Political Ethnography on Brutal Violence against Indigenous People under Guatemalan militaristic rulers, from 1960s to 2010s

移り変わる政権のなかで先住民であり、国民でもある人 々。暴力なるもの、権力なるもの、深刻な社会問題とそこからの回復を綴る民族誌

池田光穂

『ラテンアメリカ時報』 2020年秋号(No.1432)桜井 敏浩より

「グアテマラでは1960年から36年間にわたって内戦が続いたが、その中で高地のマヤ系先住民は軍とゲリラの武力衝突の狭間にあって凄まじい政治暴力の 応酬に巻き込まれて殺害され、先祖伝来の住み慣れた土地を追い出された。1996年に政府とゲリラ組織の包括和平協定が成立したが、2010年代前半まで マヤ系先住民への政治的暴力が続いた。本書は文化人類学、中米民族誌学を専門とする著者が収集したエスノグラフィー(民族誌)調査により、マヤ系先住民の うちグアテマラ西部高地の主にキチェとマムの人たちが経験した政治的暴力と政治経済 意識の変化に関する研究の成果である。/著者は、先住民社会の多くの人 々との対話を通じて、伝統祭祀と社会、先住民共同体と経済、暴力の歴史と政治的暴力の諸相、マヤ言語などの先住民表象と国家の関係、暴力を逃れる難民と北 米への移民、北米からの資金流入による経済開発の目論見、先住民と地方分権、地方政治との関わりを彼らの語りで再現している。「政治民族誌」という政治暴 力の研究手法の道を拓いた意欲的な研究書。」https://latin-america.jp/archives/45348 より
『ラテンアメリカ・レポート』37(2): 89. 2021年より

著者の関心は、暴力による伝統社会の解体と再編の態様に向けられてきた… /本書はその30 年余にわたる研究成果をとりまとめた大作であり、総論にあたる第l 章と第11 章のほか、それぞれ独立した論考としても読むことができる9 つの章からなる。まず、第2 章で は、マヤ文化復興運動の支柱といわれる現代のシャーマンの儀礼実践と、その社会的受容に焦点 を当てる。続く3 つの章、すなわち、暴力による古い経済慣行の一掃と経済観念の変化を辿る第 3 章と、調査協力者6 人の語りと証言を紹介する第4 章、そして、理不尽な暴力に晒された人々 ーのその後の政治的態度について考察する第5 章は、本書の中核をなす部分といえるだろう。さら に、第6 章で政府の国民統合政策と先住民表象のマトリクス図を提示し、第7 章ではアメリカ合 衆国への移民と難民にづいて、汎マヤ運動のトランスナショナル化と絡めて論じる。第8 章で は、労働移民と国際援助を通じた外部経済との関係が描出される。最後に、第9 章で水源地の土 地所有権をめぐる紛争の構造を明らかにし、第10 章ではこの紛争と地方首長選挙との交錯の仕 方について述べる。/ 現代マヤ先住民は、他者表象にありがちな「近代化に取り残された人々」でも「暴力の一方的 な被害者」でもない文化人類学者=エスノグラファーとしての著者の 信条告白が随所にちりば められた本書は、門外漢にとって読みやすいとはいえない部分もあるが、歴史的事件と関連づけ られ、その都度再定義される「国民」かつ「先住民」との対話を追体験させてくれる
図書新聞』 2021年1月30 日号吉田栄人先生より shigetoyoshida2021.pdf
著者池田のコメンタリー
1)「著者はマ ヤ系先住民との対話を通じ て、彼らが話してくれた彼ら の体験についての語りのこと を寓話と称しているのだが、 「フィールドワークにおける 調査者と被調査者のある種の 関係性を暴く〈俺に仕事を斡 旋してくれないか〉というメ ッセージの中にその寓意は出 現する」(p.226)と述べ るとき、実はマヤ先住民の語 りを引用する自らの研究(語 り)そのものが、〈自分自身 を解釈する表現作用〉という 古典的意義であるところの寓 話であることを暴露してい る。そのことは著者自身それを分か っているのかもしれない。

※まず、真摯な書評をお寄せくださった吉 田さんに感謝です。
1)寓意や寓話=アレゴリー(allegoria)、とは別の言葉で語ることである。現実の世界のAという物語を、動物の世界での出来事に仮託して語る と、それはAという物語の動物が織りなす物語つまりアレゴリーになる。その中では人間の誠実な人間を白鳩で表現されたり、いたずら者のトリックスターはう さぎで、森の賢者は、象やフクロウに仮託されて物語が展開する。したがって、僕がアレゴリーと言っているのは、グアテマラの先住民の物語は、移民や難民は さまざま世界をバガブンドする他の世界の労働者の寓意であり、内戦後の混乱のなかで銭ゲバよろしく商売に専念するのは、焼け跡闇市の戦後の日本人のアレゴ リーである。つまり、マヤの先住民に仮託して、この物語は、僕自身のことを語っているものでもある。吉田さんの要約するとおりである。
2)「し かし、著者にはどうしてもそ れを寓話と呼ぶわけにはいか ない理由がある。それがおそ らく、本書のメイン・タイト ルが『暴力の政治民族誌』で ある所以だろう。暴力、政治、 民族誌。これらは本書を貫く キーワードだが、そこには暴 力を語る上での著者自身のス タンスと方法論が表明されて いる。著者が行ってきたフィ ールドワークそのものが自ら が回顧するだけならば、寓話 と呼んでも構わないはずだ。 それをどのように読むかは読 者次第だ。だが、こと暴力を めぐる語りは政治性を帯び る 2)他方、本書は寓話ではないと吉田さんは指摘なさる。それは書名に露 骨にあらわれている。その通りだ、書物のタイトルは、中米マヤ先住民に降りかかった 政治的暴力や軍事的暴力を経験が本当にあり、それを伝えることを意味する。暴力をめぐる語りは政治的であり、本質的な痛みの内実を召喚する。その通りであ る。
3)著者は学術世界で繰り広 げられる政治に巻き込まれて しまったのだ。学者である以 上、売られた喧嘩は買わねば ならない」。
(中略)
3)売られた喧嘩を買うほど勇気はないです。僕はどちらかというとヘタ レ。だから自己諧謔的な表現やためらいが多い。
4)「著者と(デイヴィッド)ストールが受けた 批判はまさにそうしたポリテ イカル・コレクトネスをめぐ る議論の中での口封じだっ た。二人ともに断言している が、彼らは決して暴力を告発 している人々を貶めることを 意図していたわけではない。 告発する人々の語りだけに 耳を傾け、抑圧への抵抗(たと えば、貧民ゲリラ軍とマヤ先 住民の結びつき)を本質化し てしまうと、告発していない人々の 語りを聞き漏らすだけでなく、 もしかしたら歴史を見誤るかもしれない。 問題はどのような言葉を拾い、それをどのように 評価するかであるはずだが、ポリティカル・コレクトネスはいつのまにか 反対(多様な)意見を排除するための暴力装置に転化してしまったようだ」 4)この部分は、その通りですが、とりわけ、僕はどちらかというとポリ ティカル・コレクトネス派なので、こやつを敵にまわすつもりは、あまりありません。ただし、そのような振る舞いは、ちょっと窮屈すぎないかと……
5)「筆者はフィールドワークを続ける中で『暴力』と和解し、それと共 生して生きる数多くのマヤ先住民と出会う」「その中で著者は暴力の語 りにおける著者自身の葛藤に対する和解の方法を見出していく 5)「暴力の語りにおける著者自身の葛藤に対する和解の方法」ってのが 褒めすぎかな。「「暴力の語りにおける著者自身の葛藤に対する」僕の心の「飼い慣らし(taming)」程度です。
6)「著者は先住民マヤの人々の様々な語りに耳を傾け、そこから彼らが どのようなアイデンティティを形成しようとしているのかをきちんと見極め、さらにはそれを、研究者を含めた我々全員の歴史の中に位置づけることの必要性を 訴える 6)適切に要約してくれて感謝です!!!「研究者を含めた我々全員の歴史の中に位置づけることの必要性」について、再度目 を開かしていただきました。それは僕の当初からの目論見でしたので。
7)「そこには文化人類学者としてのプライドと正義を貫こうとする著者 の強い意志が働いている」 7)たしかに、この書物は、倫理的な書物として書きました。
8)「正義に関しては理論武装による論争を避け、著者に舞い降りたマーク・トゥエイン的理性に委ねる。……その正義への信念を支えているのが、人類学者としての 実践である」 8)承前にありますが、おなじく僕はこの本を「倫理的な書物として」書 きました。
9)「ローカルな場に戦術的に参入する人類学者自身のディアスポラ性に 焦点をあてる」だけで文化の本質化は避けられる。(だがこれは崎山政毅のような人権派の活動家には理解されないだろうと吉田さんは予言する) 9)そのような本質化を回避しようとする努力は本書の各所でおこなって いるつもりです。
10)「本書は最終的には『抵抗』の再構築の物語へと本質化されている ように見える(その理由は)評者が隠し持つルサンチマンの匂いを嗅ぎ分けようとして いるからだろうか。もしかしたら、所詮我々はみな自分にとっての寓意を語っているのだと言ったほうが、もっと『戦術的』であったのではない だろうかと思っ てしまう」。 10)「抵抗」の物語、ありますね。ただし、メタ的な意味です。私(それとも評者の吉 田さんなのだろうか)がル サンチマン的なものがある、そのような匂いがするというご指摘です。僕の理解は、XXXをしたいのにできない(制限されている)、それがXXXXに対する ルサンチマンの定義です。ということは、抵抗の物語を紡ごうをする欲望があるが、それを(自分自身で)禁じている/抑制しているために、関 節外しよろしく 脱力的になっているが、それが葛藤としてのルサンチマンになっているのではないかというのが、吉田さんの見解です。なかなか鋭いと思います。あたっている かもしれない。
だけど、それがどーなの?と反論したい気持ちもあります。僕にルサンチマンがあるとしても、半ば抑圧された葛藤であり、僕の読者はそのように兆候的に読み たければそう読んでもよろしいし、またそうでなくてもいい。僕の(吉田さんを含む全ての人への)メッセージは(いけ好かなくても、つまらないとお思いに なっても/難しすぎると感じても)「お好きなように読んでくださいませ」 というものです。
・寓意と言えば、アウエルバッハのミメーシスとアレゴリーの相互作用について、私の紡ぐ物 語が、自分自身でいちづけられれば、それはそれで楽しいと思います。
・ありがとございました!!!

ま だ十分に解明されていない課題

『暴力の政治民族誌』を舞台裏から読む」「ラテンアメリカという概念」「ポストモダン的主体」「ハ ント『グローバリゼーション時代に歴史を書く』ノート」「クロノトポスとしてのラテンアメリカ」「批判理論」「語 りは出来事の報告ではなく出来事そのものである」「語りをのこす行為

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池田蛙

さまざまな科研の補助をいただいています