はじめによんでください

移民・難民・人類学者:グローバリゼーションとグアテマラ

Globalizacion y los pueblo indigenas guatemaltec@s: Sobre imigrantes, refugiad@s, y antropologos...


池田光穂

1.グアテマラとその人類学


トランスナショナリティに関する社会現象を人類学の研究対象にしようとする機運にある現在の状況に対して、私はC・ギアーツに倣ってこう言明してみたい。 我々はトランスナショナリティの場を研究するのではなく、トランスナショナリティの場に身をおいて研究するのだと。言うまでもなく、これは人類学の古典的 方法への回帰ではなく、80年代に始まる人類学の研究活動に関する一連の自己反省的考察を経由すること求めた上での、一種の仮説的命言 (hypothetical imperative)とも言うべきものかもしれない。これを理解するには、そこにいたる〈道のり〉を説明しなければならないだろう。

中央アメリカに位置するグアテマラは、マヤ系先住民が織りなす地域文化の豊かさとそれらの多様性おいて顕著である。現在のマヤ文化の表象のされかたは、考 古学時代のマヤ文明に対する欧米の関心とは不可分でもある。従ってマヤ研究はアメリカを中心とした欧米の歴史と文化の研究者にとって重要な学問的分野 (academic field)でありかつ調査研究のフィールド(study field)であり続けてきた。

社会文化的に関係の深い欧米社会が、グアテマラに向ける近代的な知のまなざしは、多大なる研究蓄積をもたらしたが、それは外国人によるものだけではない。 支配的な混血のメスティーソが話し、かつ国家語であるスペイン語による研究の蓄積も、大学教育の整備が進展するグアテマラ革命(1944-54)以降、軍 事政権が繰り返し登場し、かつ内戦(1962-96)という困難な時代を通しても、ずっと継続されてきた。とりわけ、1996年の反政府勢力と政府との和 平合意にもとづく内戦の終結は、それ以前から始まっていた非軍人の大統領の選出と相まって、社会調査研究——民主化運動につながる政治的意図が明確な社会 調査を含めて——を発展させそれらの成果刊行を促進させることとなった。

グアテマラに対する欧米の地政学的な関心、現地の知識人産出の歴史的過程、和平状況に進展する社会調査の増加など、グアテマラと文化人類学(者)の関係 は、他の第三世界地域と共通するものも多くみられる。しかしながら、人類学的知識の産出には、これらの社会のもつ特殊な歴史社会的状況と無関係ではないも のも多い。アムネスティ・インターナショナル[Amnesty International, online]によると、ラテンアメリカの国々では、現地調査をおこなう社会学者(socio'logo/-ga)や政治的虐殺の犠牲者を発掘する司法人 類学者(anthropo'logo/-ga forense)たちは、生命の危険に晒される機会が多い。なぜなら彼らは反体制ないしは左翼的社会活動家とみなされ、治安警察、軍隊ないしは準軍事組織 からは、〈好ましからざる人物〉として写るからである。事実、彼らに対する脅迫や暗殺が少なからずあり、しばしば国外難民化することがある。グアテマラで 人類学(antropologi'a)と言えば、文化人類学や民族学のことを指すよりも、なによりも抑圧民を研究する社会科学であり、また死体を発掘し鑑 定する学問のことを指す。

人文社会科学としての文化人類学は、時代や社会により、さまざまなトピックが変遷し採用される理論の盛衰はあるが、研究者の帰属意識はグローバル化された 公共圏の中に(も)いる。しかしながら、人類学者が対象社会と関係を取り結ぶ場においては、先に挙げたようにその関係は実に多様である。グアテマラ社会で は、その様相は我々が〈政治的な権力関係〉と呼ぶものに大きく影響されている。また人類学(=文化人類学)のもつ方法論の特殊性がこれをさらに複雑にす る。なぜなら、この学問はフィールドワークという研究者自身を社会の中に内在化させるという方法論をとり、また理論上の議論においては、質的情報にもとづ く〈内在的解釈〉という技法を広く用いるからである。そこにはマニュアル通りの関与的中立性というものは実現不可能であり、むしろ絶えざる相互交渉の結果 生まれる暫定的な政治関与性をそのつど表明する機会に晒される(例:「君はここで何を調べ、何を為し、何を(ここにいる)我々に貢献してくれるのか」とい う現地側からの問いかけと答え。「君はそこで何を調べ、何を為し、何を(ここにいる)我々に貢献してくれるのか」という研究における問いかけと答え)。人 類学のみならず人間を対象とする人文社会科学研究は、おしなべてこのような複雑な過程の中で動いていると思われる。しかしながら、他方で、人類学者が属す るホームとも言える自国の社会の中での関係も、やはり政治経済的力学に影響を受けている。我々の社会では、研究費の調達に国家ないしは財団の補助が不可欠 であり、他方で〈役に立つ学問〉〈社会の要請に応える学問〉であることが声高に叫ばれる昨今の社会状況(=「ナショナルな人類学」構築への社会的要請) は、人類学者が経験する現地(=仮のホーム)とホームの政治力学的関係の複雑な過程を読み解いてゆくような内省的アプローチに背を向ける傾向を助長してい るように思える。果たしてこのような危惧は、グアテマラで人類学をおこなうことの特殊性に起因するヒポコンデリー(心気症)なのであろうか。

2.〈外部〉と交渉する社会:アメリカン・ドリームと観光が蔓延する先住民社会


グアテマラ共和国の西部高地の中でも、北西に位置するクチュマタン高原とその稜線に点在するマヤ系先住民の諸集落は、この国の中でも低開発地域に属する。 経済的な貧困さとは裏腹に、先住民文化が豊かであり、これまでさまざまな人類学者によって民族誌が蓄積されてきたところでもある。私がマウド・オークスの 民族誌で有名なトドス・サントスという先住民共同体にやってきたのは1987年の暮れから88年初頭のことである。この町では政府軍にゲリラ掃討の鎮圧作 成が展開され、1981年から82年にかけて多くの犠牲者が出たところである。しかし、事後数年が経過していたが、暴力の時代について語ることは憚られ、 観光客もまばらであった。8年後の1996年に再びここで観光と村落の経済発展について調査した時点では、外国人向けに先住民族の家族と共に1〜2週間を 過ごす短期のスペイン語学校が開設されて、先住民族の文化を求めて多くの観光客が押し寄せていた[池田 1997][図表参照]。

私のもっぱらの関心は、数年間に様変わりした町の風景であり、とくにコンクリートブロックでできた大きな2階建ての新築の家の数々にあった。人びとは口々 に、その新しいマンションの主の息子がアメリカ合州国で働き、それらの送金によってできた御殿であることを、羨望をもって語っていた。その時には、人々は 集団の自称であるトドサンテーロ(Todosantero/-ra)ではなく、「我々グアテマラ人(Somos guatemaltecos)」とか「我々先住民族(Somos Indi'genas)」という自称を用いることが多かった。また「自分たちは(メキシコ人に比べて)働きものなのだ」という言葉がよく聞かれ、不法移民 のアメリカでの経済的成功が、彼ら自身の努力の賜であると説明することが私にとって印象的であった。

コヨーテという不法移民の旅行ブローカー——冗談まじりに「旅行代理店(agenci'a)」と呼ばれていたが——を使ったアメリカへの移民は、その成功 の噂話の村落内における流通と、実際の送金によるドルマネーの流入により次第にエスカレートしていった。また、移民の話やエピソードの内容は、年ごとに 行った私のトドス・サントス訪問の機会のたびに、より具体的で現実的なものに変化していった。たとえば、郵便ではなくマイアミに本拠をおく民間の宅配便業 者による通信送金手段の確立。カセット・テープの音声メッセージ(=手紙)とマネーオーダー(“モネイ・オルデル”)と呼ばれる簡易小切手を入れた封筒を 村落に残した家族に手渡す共同集配所への人びとの定例的集まりが生まれたこと。他の集落からやってきたよそ者のコヨーテの利用から地元の「少し値は張るが 安心できる」コヨーテの営業開始のニュースがあった。このような好ましい話がある一方で、他方では、帰国者の村落内での大盤振る舞いやどんちゃん騒ぎに人 々が眉を顰めたり、若者の伝統的な社会慣習の放棄による保守的な人々の非難、アメリカでのアルコール中毒や現地での重婚やさらには音信不通など失敗の ニュースや噂話など、好ましくない話も多く聞かれた。さらに、村落ではノルテ(スペイン語で「北」の意味)行きのために事前に準備する人たちが、メキシコ を通過する際に、いかにメキシコ移民局の邪悪な係官の検査から逃れ、自分たちがメキシコ農民であるかを偽装するために、発音上のアクセントの修正やメキシ コの先住民大統領の名前や国家の暗唱などを学ぶ場面に直面したことがある。

流入ドルマネーと、宅地や耕作地の拡大という伝統的エトスが結びつき、土地価格の高騰を生じた(これは投機のための購入ではないので、日本のようなバブル 経済現象は生まなかった)。また、大邸宅を構えるという誇示的消費(conspicuous consuption)から外国人観光客相手の民宿、バー、土産物店の開店に投資する者も現れた。もちろん、思いつき的な投資と、マーケティング感覚を もった投資では成否の行く末は明かであった。資本主義的な未来予測の能力のみならず、グアテマラ国内での景気や外国人観光客の推移を把握し、不測の不景気 に耐えるだけの資金的体力が、経済的成功の鍵であった。

そのような一時的な資金の流入が、村落内でのアルコールの消費量を高め、少年の非行を増加させたのだという風評が定着していった。少年非行の原因について 人びとは、学校の教師が子供たちをきちんと教育しないからであると糾弾し、その時たまたま少年非行グループのリーダーがアメリカ合州国帰りの青年であり、 小学校の先住民の教師——彼は海外旅行の経験もあり物知りであることから「人類学者」のニックネームを人びとから頂戴している——の息子であったために、 小学校教師を諸悪の根元とする暴徒がリンチ未遂事件をおこしたこともある。この暴動を止めに入ろうとして失敗し逆に襲撃の危機を経験したのは、村落の元町 長であり、彼は足機織を所有し、現在は行商のマネージをおこなっているプチブルジョアであった。彼は1970年代初頭のグアテマラ革命後の反動政権時期に 少年期を迎え、北アメリカに本拠をおくメリノール修道会が支援した初期の奨学生であり、村落の近代化の洗礼を受けた1人であった。

3.自画像をめぐる社会的闘争:〈暴力の被害者〉から〈国民戦線支持者〉まで


35年間続いたグアテマラの内戦は大きく2つの時期に分かれる。反体制的反乱軍人を中心としたメスティソ中心の軍事的前衛主義が中心だった東部山岳地帯と 都市部でのゲリラ活動で特徴づけられる前期。マヤ系先住民の大衆動員を目論んだ西部高地での農村ゲリラ戦争の後期である。クチュマタン高原の先住民社会に 大きな影響を与えたのがこの後期の時期であり、政府軍による組織的な弾圧——公的な報告書では先住民への計画的かつ選択的な大量虐殺(genocide) 攻撃であったと総括されている——により、クチュマタン高地の共同体の社会活動は実質的に機能停止した[池田 2002]。

マイアミ州のインディアンタウン(行政都市名)に移住するようになるグアテマラ先住民難民の研究をおこなったアラン・バーンズ[Burns 1993]によるとクチュマタン高地のマヤ系先住民(カンホバル)は、メキシコからアメリカに不法入国した後、政治難民の認定を受け定着化の第一歩を記し た人たちが、その嚆矢であると指摘している。

トドス・サントスからのメキシコ領内の難民になった人たちには2つの移動のパターンがある。ひとつはこの村落から直接メキシコ領内に避難地をもとめていっ た人たちと、暴力の時代に先立ってゲリラの大衆動員がもっとも盛んにおこなわれたイシュカン低地への入植を始めた人たちである。後者の人たちは入植地への 定住耕作を通して土地の所有を夢見て入植を試みた人たちであり、高地からの入植のプロモーションにはイエズス会をはじめとしてカトリック神父たちが積極的 に関与していた。

この時期の政府軍によるイシュカン地区への執拗なゲリラ掃討作戦の犠牲者は、イエズス会士のリカルド・ファージャ神父らの綿密な調査[Falla 1994]により後に明らかにされたが、ゲリラとの戦闘はほとんど見られず、実質的には計画的に入植者そのものを殲滅する作戦にほかならなかった。

西部方面に展開されたゲリラ掃討作戦は、難民のみならず、ゲリラ自身もメキシコ領内に撤退することになった。またゲリラ兵士は、キャンプにおける難民の自 治活動に積極的に関与した。そのため政府軍はメキシコ領内に逃げ込んだグアテマラ難民は、左翼ゲリラないしは左翼のシンパサイザーである旨のキャンペーン を張った[Kobrak 2003]。それゆえに、キャンプにいる難民は、グアテマラ国内で自分たちが帰還後にも左翼ゲリラのスティグマを貼られること、およびグアテマラが軍政か ら民政に移管されても、政治弾圧の復活を恐れて、国連が帰還事業を促進しても、それに呼応する人たちは当初は極めて少数であった。

他方、積極的にゲリラ運動に関与していた人たちは、より深く活動に関わった人ほど、グアテマラ国内への帰還が遅れ、またゲリラならびに軍隊の両方から迫害 を受けた人びとからみれば、元ゲリラ兵士の帰還は村落内に亀裂をもたらすトラブルの原因になると考えられた。元ゲリラ兵士は故郷に戻れないどころか、長い 間のゲリラ兵士としての生活により自分たちのエスニック・アイデンティティを失ったと表明する者もいる。あるいは新しい入植地において全く新しい人生を切 り開くものもいる[飯島 2001]。

和平合意後に、歴史事象としての〈内戦〉の評価は極めて多様である。それらは、同時に複数の意見が対立する論争的なものである。国民和解委員会や歴史記憶 の回復のプロジェクトが、内戦の犠牲者の多くがマヤ先住民への選択的虐殺であったことを示唆しているにも関わらず、そのような事実すら認めない極右や軍事 指示の政治家たちも多くいる。これまでにも退役軍人が年金の給付を求めて抗議活動をおこない、2002年から03年にかけて内戦防止のための元民兵組織 (PAC)の人たちが政府からの経済的補償(=民兵従事期の賃金の支払いの代価)として各地で抗議行動をおこしたことは、統治する側にとっても内戦は解決 済みの歴史的出来事ではないのだ。

キチェ先住民の人権活動家リゴベルタ・メンチュウの伝記的聞き書きを巡って、ディビッド・ストールがしかけた真偽論争[メンチュウ1987; Stoll 1999]も、事実に即した議論よりも、グアテマラ国内の政治的文脈のもとでは、メンチュウらの人権団体への価値下落のためのスキャンダルとして、国内の 保守的論客に利用されるという事態に展開した[cf. 小泉 2002;太田 2001]。グアテマラのマスメディアは繰り返し、現政権FRG(グアテマラ共和戦線)でこの国の実質的な指導者ともいえるリオ ス・モント国会議長——1982年のクーデタ指導者で2003年大統領選では約18%の得票率(第3位)で上位2位による決選投票には残れなかった——が 西部高地の先住民族に支持し続けられていることを報じている。2003年の大統領選挙でも西部高地のウエウエテナンゴ県およびキチェ県では3割から4割の 得票率をとってFRGでは第1党を占めた。

先住民に最も過酷な暴虐を加えられた地域で最も高い支持という奇妙な現象を説明することは、メンチュウ=ストール論争へのコメントと同様、ある種の政治的 な立場の表明へと結びつく。右派は文字通りFRGやその候補者のこれまでの政策や未来への公約の正しさの根拠とし、左派あるいは人権擁護派はそれとは反対 に内戦時の大衆動員の戦術が、現在にも続く残存的影響(トラウマ)や人権弾圧のさまざま陰謀の存在を指摘する。ポスト内戦の時代にも人権意識の向上が見ら れず治安機能が十分なものでないために、西部高地での犯罪者のリンチ事件が後を絶たないが、これを内戦時からの暴力の連鎖で説明する者もいる。もちろんグ アテマラ国内で調査をする社会学者の関心は、従来のような暴力の記憶や歴史を記録する作業から、暴力の連鎖などの事象検討をはじめとしたポスト内戦におけ る社会問題——都市化しグローバル化する先住民族のエスニック・アイデンティティの変化、近年増加する若者の非行化、持続可能な開発、女性のエンパワーメ ントの具体的課題の探求まで——にシフトしつつある。

好むと好まざるとに関わらずマヤ系先住民は、国内外から貼り付けられる表象との不断の交渉をおこない、つねに自分たちは何者であるのかという議論に巻き込 まれている。今日では常にスタティックなエスニック・アイデンティティを人びとが持ち続けると信じる研究者は少ないだろう。しかしながら、現実の先住民運 動の中では、伝統的な表象つまり、ローカルな共同体を超えた「我々先住民族、我々マヤ民族(Somos indi'genas, somos Mayas)」という意識表明の根拠として、マヤのカレンダーや宗教的世界観など、歴史的にスタティックな民族表象が動員されている。

4.グアテマラ国民化現象:グアテマラ国民でありマヤ先住民であること


マヤ先住民によるアイデンティティの覚醒運動は、古くは1940年代のアドリアン・チャベス(1904-1987)によるポポル・ヴフ神話の翻訳とそのキ チェ語の表記法の開発に始まると言われている。ただし、今日言われているマヤ先住民の汎マヤ運動(Pan-Maya movement, Maya activism)は1970年以降から西部高地でマヤ系の市長が当選するようになった頃からをさして考えてもよいだろう。1985年制定憲法では、独自 の慣習や言語をもつことを個人の権利として規定しており、先住民族の権利も承認された。その翌年に就任した民政の大統領のビニシオ・セレソ大統領は離任直 前の1990年になってようやくマヤ言語アカデミーの設立に関してサインをした。92年のリゴベルタ・メンチュのノーベル平和賞受賞という社会的衝撃を含 んだ90年代前半の政治的混乱を経て、90年代以降、汎マヤ運動は非常に活発になる[e.g. Fisher 2001]。

何を汎マヤ運動であるのかを差し指すのかということは難しい。もっとも緩やかに、その内容を説明すると、マヤ民族の内部的な多様性を超えた統一したマヤ先 住民性を意識したさまざまな社会活動ということになる。その範囲は、国家によるマヤ言語学アカデミーや文部省官僚から、さまざま国内外の支援を受けた NGO団体、さらにはマヤ系の印刷出版社を含む企業家などが、一時的ないしは永続的に行っている公的あるいは私的な活動ないしはそれらの連合による活動に およぶ。そして、その運動の目的は、グアテマラのポスト内戦時代の国是であるにも関わらず未だ実現途上にある多民族・多文化・多言語社会の実現を国家に対 して要求することにあり、活動の中身は、マヤ言語や文化——それには保健も含まれる[池田 2001:321-2]——の尊重・保存・進展を主軸に展開し ている。

マヤ運動の第一の特徴は、排外主義的な政治運動の要素が少ないことにある。国家から強い抑圧や弾圧を経験した民族集団はしばしば、オルターナティヴなネー ションを強権的な手段に訴える〈エスノ=ナショナリズム運動〉を取るのに対して、なぜグアテマラにおける汎マヤ運動はなぜ穏健で国家と融和的な性格をもつ のであろうか。それは、汎マヤ運動の歴史性と関係しているかも知れない。1976年にケツァルテナンゴ県サンファン・オストゥンカルコでマヤの市長が選ば れ、1997年にグアテマラ第二の都市ケツァルテナンゴにマヤ先住民市長(Rigoberto Queme')が選ばれたのは、その支持母体はともに70年代に生まれたマヤ文化運動の団体で政党よりも緩やかな政治連合体であった。汎マヤ運動は、歴史 的過程のなかで、既存の社会制度の中で自らの存在を主張する際に、既存の権力構造と非競争的に交渉し、権利を獲得してゆく戦術を身につけていったのではな いかと考えられる。

先住民族——マヤはグアテマラでは人口上は少数民族ではなくむしろ多数派である——が国家と対決するのではなく、抑圧された権利を回復してゆく運動戦術を 成熟させてゆくことができたのだろうか。その成功の陰には、先住民の人権保護に関する国際環境の整備という追い風があったと言える。1980年代にグアテ マラ国外で始まった周辺諸国の後押しによる内戦終結のための和平交渉や、1990年初頭の国際社会は和平の条件としての先住民の言語、文化、慣習の尊重を 盛り込むように働きかけている。

類似のタイプの市民運動も多い。1993年発足のカトリック教会の「歴史的記録の回復プロジェクト」や翌年発足の「歴史の真相究明委員会」が推進した、被 害者と被害者の家族や加害者——後者は圧倒的に少ないが——に対しておこなわれた虐殺の記録の収集作業は、事前に念入りな啓発活動が行われ、インター ビューにも先住民言語が使えるような環境を整備した。このような活動は、対話を通して平和を構築するという運動のビジョンを多くの人々にアピールした。和 平合意後には観光客と共にさまざまな国際援助団体もまた多くグアテマラに降り立った。穏健なマヤ文化の自己提示は、その新しい国際社会への参入にもおいて もプラスに機能したのである。

もちろんこれらの運動に対する様々な政治経済的バックラッシュもある。メスティソ住民の先住民族や少数民族に対する根深い民族差別——グアテマラではラシ スモ(racismo)つまり人種主義の用語が使われる——が今なお続いていること。すでに述べたように人権活動家への脅迫や暗殺は、汎マヤ運動の活動家 たちにも及んでいることがあげられよう。経済状況の悪化は、人権問題に関する対策を後回しにする点で、汎マヤ運動にとって強い向かい風になる。対外援助や 海外送金という非永続的な外貨流入による景気の維持という経済的脆弱性が露呈しつつあること。韓国企業を中心とした関税特恵のマキラドーラ企業がグアテマ ラ国内の人件費の高騰によりホンジュラスやニカラグアあるいは中国やベトナムに逃避すること。悪化する少年非行と都市犯罪、麻薬取引、賄賂の横行や、治安 の悪化など。とくにFRGが政権を執った2000年以降の4年間は、治安の悪化に対抗する一種の強いグアテマラ国家像が打ち出され、汎マヤ運動には大いな る逆風の時期であった。

もうひとつのバックラッシュは汎マヤ運動を見守る知識に対する理論的な反撃である。汎マヤ運動は一種のナショナリズム的原理主義であり、国民統合への妨害 要因だと主張する元左翼の論客もいる[e.g. Morales 1998]。先に触れたようにメンチュの自伝に対するストールの批判も、これに拍車をかける。あるいは、汎マヤ運動が多元主義を指向しながら、最終的には グアテマラの国民としての統合を目指すゆえに国民国家の枠組みを超えることができない点で狭量だという批判も見受けられる。しかし、これらは多様で緩やか な運動全体を、個別事象の過度の一般化をおこなっている点で誤認している。汎マヤ運動の特徴は、ひとつの国家のなかに多元的な価値を認める多元主義への途 上のプロセスを指向し、これらは未だ完成途上にあるからだ。汎マヤ運動は、グアテマラの同時代を生きた人びとが他方で難民や移民を選択せざるを得なかった 社会状況の中から生まれてきたことを考慮する必要がある。

移民や難民あるいは人類学者を含む観光客は、恒久的なホームを一時放棄して、未知のフロンティアにおいてサヴァイバルを試みる人たちである。それに比べて 汎マヤ運動では、ホームに留まり、敵愾心のある隣人や暴力と対峙しながら、それらと粘り強く交渉を通してサヴァイバルする戦術が展開される。それはホーム の周囲にある異質な権力に巻き込まれながらも不断にそれらの困難と交渉することに他ならない。そこでのやり方はある方法が失敗すれば、全く反対のやり方を 選択しなければならないという、一種の折衷主義(eclectism)を採用する。しかし、そのようなやり方を我々はイデオロギー的に日和見主義者 (opportunist)であるなどと言うことはできないだろう。私は汎マヤ運動の戦術は、(まったく異質な対比ではあるが)一時的なホームを構築して そこでフィールドワークを展開する人類学者のそれと極めて類似するという心証を抱く。両者も異質なものと折衝し、対話しながら、自己の存在を主張するから だ。

5.周縁から周縁をみる眼:人類学の可能性


人類学者は人びとが生きるコミュニティの場において研究する。冒頭で触れたギアツが実際に指摘したのは、次のような言葉であった。「研究の場所は研究の対 象ではない。人類学者は村落(部族、町、近隣集団……)を研究するのではなく、村落において研究するのである」[ギアーツ 1987:38 ; Geertz 1973:22]。この指摘は、人類学者はローカルな場を研究するものであり、実際にまたそうであったという古典的人類学が主張してきたローカル化戦略の イメージに異論を唱えた初期のものの一つである。ギアツの主張は、トランスナショナリティ研究をおこなうことの意義(意味)へとどのように結びつくのだろ うか。

言うまでもなく〈村落において研究する〉ということは、人類学者の活動と現地の人たちとの相互交渉への観察や洞察を導くものである。ギアツもまた人類学の 理論構成は「諸事例を通して(across)一般化するのではなく、諸事例の内部において(within)一般化する」[ギアーツ 1987:44 ; Geertz 1973:26]と表現している。しかしながら、ジェームズ・クリフォード[2002:32]によれば、このような姿勢は依然として、マリノフスキーが切 り開いたフィールドワーカーの現地社会への〈居住〉の概念の延長上にあるとのだと批判する。クリフォードは、ここから出発して「旅する文化」というタイト ルの論文において、ローカルなものを研究する人類学者の姿勢とその研究の対象化の方向性を問題視する。「旅する文化」つまり、人類学者がつきあうイン フォーマントや研究対象たる文化的事象そのものが、実際は移動したりディアスポラ状況にあるものであり、決してローカルな場に固定されていないと彼は主張 する。そしてローカルなものとディアスポラなものはより複雑で弁証法的な過程にあることに注意を促すのである。

しかし私はこれとは、異なった提案をおこないたい。それは単純な事であるが、ローカルな場に戦術的に参入する人類学者自身のディアスポラ性に焦点をあてる ことだ。あるいは、人類学者の活動のトランスナショナリティ性について思い起こすことだと言ってもよい。ここで言うディアスポラ性とは、異文化の経験を通 して、自己の文化の理解に到達するという、あの懐かしい古典的な人類学のテーゼを成就するための、実践的条件である。

汎マヤ先住民運動が、ローカルな意識を超えた“マヤ世界”の連帯を指向するのは、ある意味で「伝統の創造」という性格をもっている。マヤの伝統に関する知 見は、これまでグローバルなマヤ研究の成果や運動支援のネットワーク抜きには成立し得ない。したがって、汎マヤ運動がもつ指向性は脱ローカル化する、リー ジョナルな運動であり、さらには(マヤの先住民の移民や難民を通して)トランスナショナルな広がりをもつようになった。マイアミのインディアンタウンで は、不法移民の生活の生活を強いられている北米のマヤ先住民の人たちは、自分たちのローカルコミュニティの中に、独自のマヤ世界を作り上げる[Burns 1993]。自分たちの置かれているディアスポラ状況において自分たちがデラシネであることに自己の再規定への要求を促し、移民の土地というローカルな場 において自己の文化をふたたび想起し、それを構築する。

この報告の冒頭で「我々はトランスナショナリティの場を研究するのではなく、トランスナショナリティの場に身をおいて研究するのだ」と私は述べた。人類学 者が他の学問分野の研究者に、このように宣言することができるようになる社会的条件とは何であろうか。それは、人類学というディアスポラ的実践において が、彼/彼女が繋留されなければならないローカル(=真であろうが仮であろうがホームを構築する)な場を、現地の人たちと相互に結びつける、より手の込ん だ手順に他ならない。もちろん現地の人たちもまた、このトランスナショナルな時代においてディアスポラ性を我々と共有している。従って(あたかも新しい研 究対象領域が現れたかのように)トランスナショナルな場を学問的に凍結し、その一部をもって高度な一般理論化をおこなう必要はない。むしろ、トランスナ ショナルな場において研究に活動する機会をより高度に組織化することだ。このことは、空間的意味において古典的人類学の研究の場=フィールドに戻ることを 単純に意味するように思えるが、トランスナショナルな旅について自覚した人類学者の身体は、(これらの反省的な認識の回路を迂回して)それとは異なったハ ビトゥスを実践してくれるはずだ。楽観的に見えるが、私はこの試みに賭けたい。

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【問題集】
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Fair Labor Standard Act (FLSA) 最低賃金と就業時間と残業にかかわる基準。
Equal Pay Act 性別による賃金差の禁止。
Federal Unemployment Tax Act 失業保険に関する法律。
Occupational Safety & Health Act (OSHA) 安全で健康的な職場を提供するための基準を設定、並びに危険な状態の排除をするための法律。
Immigration Reform & Control Act (IRCA) 雇用者は採用する従業員が合法的に米国で働けることを確認しないといけない。違法外国人を採用してはいけない。 I-9 Form の記入保管付け義務。
Veteran's Reemployment Rights Act 退役軍人の職場復帰に関すること。
Employee Polygraph Protection Act (EPPA) 採用時または在職時におけるうそ発見器の使用禁止。
National labor Relations Act (NLRA) 従業員が労働組合の結成や団体交渉をする権利を保護。
Employee Protection (Whistle Blower) Provisions of Various Environmental Acts 従業員が職場の安全や健康的問題や企業の違法行為に対し不満を訴えたことを理由に解雇や報復することの禁止。
Immigration Reform & Control Act (IRCA) 出身国や国籍による差別の禁止。
Title Vll of Civil Rights Act 人種、皮膚の色、宗教、性別や国籍による差別を禁止。
Civil Rights Act of 1991 性別、宗教や身体的障害を元に意図的な差別があると認められた場合は、陪審裁判や刑罰並びに金銭的損害賠償が科せられる。
Americans with Disabilities Act (ADA) 雇用者が個人の身体的障害を理由に有資格障害者を差別することを禁止する。
Age Discrimination in Employment Act (ADEA) 年齢による雇用上の差別を禁止。
Family and Medical Leave Act (FMLA) 従業員の出産、養子縁組関係、養育のために時間が必要な時、従業員の配偶者、子供、または両親が重病でその世話のため時間が必要な場合、または従業員自身 が重病にかかった場合、従業員の請求に応じ、12週間までの無給の休暇を認め、そのポジションを確保しておかなければいけない。
Worker Adjustment & Retraining Notification (WARN) 50人以上の従業員を企業の閉鎖やレイオフにより解雇する前には60日前の告知が必要。
Employee Retirement Income Security Act (ERISA) 年金プラン、健康保険などの福利厚生の管理に関する基準を設置。
Older Workers' Benefit Protection Act (OWBPA) 年齢の高い従業員に対しての福利厚生の差別禁止。
Consolidated Omnibus Budget Reconciliation Act (COBRA) 従業員が退職して(解雇されて)健康保険を失ったときに、従業員もしくはその配偶者、並びに扶養家族へのヘルスケアの提供

■社会構造とアイロニー

中央アメリカの不法移民者の目指すアメリカ合州国では、すでに1938年に、アメリカの犯罪的逸脱の比率の高さが、経済的成功の神話と現実 の矛盾に根ざしていることがロバート・マートンによって指摘されている。
「種々の研究によれば、金銭的成功の文化的強調が全面的に行われているのに、慣例的合法的な成功の手段を得る機会がほとんどない状況では、特殊な領域にみ られる非行や犯罪は、この状況への「正常な」反応であることが明らかになった。……逸脱に向かって強い圧力を加えるのは、文化的強調と社会的構造との結び つきである。「金儲け」のために合法的な道をとることが制限されているのは、階級構造がどの平面でも有能な人々に十分な機会を与えていないためである」 (邦訳、pp.135-6)(Merton, Robert K., Social Structure and Anomie. American Sociological Review 3:672-682, 1938. のちに『社会理論と社会構造』(1961[1949])に所収)。

■トランスナショナリティに関する研究上の貢献


1.人類学者はローカルな場を研究するものであり、実際そうであった、というこれまでの人類学者の実践(→ローカル化の戦略)イメージに異議をとなえる (cf.クリフォード 2002)。
2.人類学者のローカル化戦略について理論的疑問を提示した一人としてC・ギアーツがいる。彼は〈人類学者は村落を研究するのではなく、村落の中で研究す るのだ〉と人類学者の実践を叙述したが、それは実際には「人類学を研究しているのであれば、それは村落を研究しているのではなく、村落の中で研究しなけれ ばならない」という一種の仮言的命令(hypothetical imperative)を発しているようにも思える。もちろん〈村落の中で研究する〉ということは、人類学者の活動と現地の人たちとの相互交渉への観察や 洞察を導くものであるが、クリフォード(2002:32)によれば、それは依然として、マリノフスキーが切り開いたフィールドワーカーの現地社会への〈居 住〉の概念の延長上にあると指摘する。

■異端的旅行者(hetrodox tourist)


 ◎移民:自発性に基づいて、経済的な要因で、労働するために一時的に移動する人(=恒久的なホームを一時放棄して、仮設のホームにいる人:本来の場所に いるべきではない人)。最終的な目的はお金を稼いで恒久的なホームに戻ることである。
 ◎難民:非自発的な意志により、政治(暴力)的な要因で、避難場所を求めて避難する人びと(=恒久的なホームを一時放棄して、仮設のホームにいる人:本 来の場所にいるべきではない人)。最終的な目的は、ホームが政治暴力的な混乱が収まって(=治安が「回復」して)いることを確認し、ホームに帰還し、日常 生活に復帰することである。
 ◎人類学者:自発性に基づいて、学術的=経済的な要因により、労働するために一時的に移動する人びと(=恒久的なホームを一時放棄して、仮設のホームに いる人:本来の場所にいるべきではない人)。最終的な目的は、十分な民族誌的データを持って、ホームに帰還し、日常労働(=論文や民族誌を書いたり、授業 したりすること)に復帰することである。

■「地下鉄に乗りフィールド調査にでる彼/彼女は人類学者ではない」(ローカル化戦略からの逸脱)


事物を本質的に配置するという認識論的前提から〈移動〉の問題は論じられる(=出発点)

■トランスナショナリティ研究の「フィールド」


 J・クリフォードに倣って、フィールドはこれまで言われてきたように、文化人類学が研究対象とする「方法論的な理想」であると同時に、経験的な事実とし ての空間(space)としての「職業活動の具体的な“場”」であると捉えることは重要である(クリフォード 2002:32-33)。
「人類学者のフィールドは、転地した居住と生産的な研究の場、つまり参与観察という実践の場として定義される。そしてフィールドは一九二〇年以来、一種の 小さな移住だと考えられてきた。フィールドワーカーは「受け入れられ」、その文化と言語を「習得」する。フィールドは、ホームから離れた、あるひとつの ホームであり、労働(研究)と成長、すなわち個人的ならびに「文化的」能力の発展をともなう居住の経験なのである」(クリフォード 2002:32-33、訳文は改変、要原文チェック)。
 このように見ると、トランスナショナリティ研究対象であるフィールドは、もちろん、グローバル化したトランスナショナルな文化現象に他ならないのである が、同時に、この分野に参入する文化人類学者が活躍する職業的な場であると考えることが、この分野がトランスナショナリティを単に研究対象として外在化す るだけではなく、研究実践の上でこの分野がもつ特異な特徴として強調することができるだろう。言うまでもなく、文化人類学は海外植民地のみならず国内にお いても、人類学者が居住するネーション(=この用語は北米先住民の居留地の取り決めは北米の外交文書として取り扱われたり、ポストコロニアルの時代に黒人 は Black Nation という用語を標榜したことを想起させる)を超えたトランスナショナルな状況でおこなわれた、フィールドという「方法論的な理想」である同時に、人類学者自 身がホームと一時的な居住地を労働=研究の場とするトランスナショナルな存在に他ならないことを思い起こさせる。

■〈移民・難民・人類学者〉という表現が、それから漏れる奇妙な現象を周縁化する


 移民の人類学、難民の人類学、そして(かなり特殊なテーマだが)人類学者の人類学というテーマを掲げ、それらのローカルな議論を構成する民族誌的資料を 提供することは可能である。しかし、このような一種のフィールドの設定は、そのような枠組みからこぼれ落ちる社会的事実を周縁化したり、時には消去したり する可能性がある。「一般的にいうと、隠蔽されているのは、民族的な遭遇がつねに、すでに編み込まれている間文化的な輸入—輸出という、より広いグローバ ルな世界です」(クリフォード 2002:34)。
 アパデュライ(1988a,1988b)による「メトミニー的凍結化」:「非西洋の人びとを「ネイティヴ」としてローカルに閉じこめるために人類学が用 いてきたさまざまな戦略」であり「表象による本質化のプロセスを通じた非西洋の人びとに対する「制限」、あるいは「封じ込め」」である。「それは、さまざ まな部族・民族の生活の一部もしくは一側面がそれらの人びとをひとつの全体として縮約し、そして人類学的分類学におけるその理論的な地位を構築するプロセ スである」(クリフォード 2002:35)。
 メトミニー的凍結化の例:高地マヤ=威信経済、時間の司祭者
 「どのような文化であっても、その中心やその村、また集中して住み込むフィールドの場にも目をやる一方で、その文化のもっとも遠い旅の範囲に注目しては どうか」(クリフォード 2002:36)。

■コスモポリタンになるには複数の経路がある


・ディアスポラ的意識は、コスモポリタンをつくるひとつの要因になる。J・クリフォードは、ディアスポラ意識が「悪い状況のなかでも何とか最善の手をう つ」(クリフォード 2002:291)可能性をもつと指摘して次のように、それをまとめている。
「喪失や周縁化、亡命の経験(階級により痛みは異なる)は、しばしば組織的な搾取や地位の上昇が阻害されることで強化される。しかし、この構成的な苦難は 生存の技術と共存する。すなわち、順応的な差別のなかでのしたたかさ、相異なるコスモポリタニズム、再生への確固たるウィジョンと共存するのである。ディ アスポラの意識は、明確な緊張関係として喪失と希望を生きる」(クリフォード 2002:291)。

■脱領域化とローカル化
 de-relionalizing vs. localizing.


 ある主体において、それがどのようなものと関係するかにおいて、脱領域化されたり、ローカル化されたりする。トランスナショナルな状況の中で貿易に携わ る中国人は、特定の国家との関係においては脱領域されるが、ディアスポラ状況にある特定の家族との関係においては、それは極度にローカル化されるのである (Ong 1993:771-2, cited クリフォード 2002:291)。

■経済と倫理


 まず基本的合意事項として次のような〈常識〉を認めておく必要がある。
・労働力を送出している共同体内において、コヨーテなどの非公認旅行手段を利用して、北米に労働移民をおこなうことに対する違法性の認識はほとんどない。
・グアテマラのマスメディアに関しても、労働移民が送金する経済的効果や北米における自国民の法的権利ならびに国民アイデンティティの主張には関心をもっ て報道するが、それが当該国(アメリカ合衆国やメキシコ合衆国)の移民法に抵触し、違法なことであるという明確な報道がなされる機会は少ない。
・北米に移民することの動機は、経済的なものがほとんどであるが、コヨーテと呼ばれる非公認的旅行手段(ブローカー)への支払い額が、旅行者の収入水準か らみて高額になるので、北米への旅行は一種の〈経済的投資〉であると同時に身体的危険を賭けた賭博すなわち〈ディープな遊戯行為〉でもある。

■経済的エートスの相違


(1)不法移民という選択肢——コヨーテへの投資と生存をかけること:移動
(2)共同体内に資源をもつ——教師・商店主:非移動
 もし、このような対立図式が成り立つならば、北紀行の成功者と共同体定住者との経済生産に対する〈価値観〉の対立は発見できるだろうか?

■難民キャンプへの研究者のコミット


(アクターネットワーク仮説による説明)
・心理学者は、難民の心理状態を暴力のトラウマ経験としてとらえる。他方、人類学者は、難民キャンプの中に社会が創出されると同時に、難民としての新たな 主体の構築を、より多元的に見る傾向があり、どちらかと言えば一般的には積極的に評価する傾向がある。
・写真家は、難民の表象を報道・人道・生活という観点から表象化しようとし、ボランティアは業務をひたすらこなし、つかの間の解放された時間に博愛や友愛 を通して人間的経験を持とうとする。
・大渕の写真集、グアテマラの難民の記録集を参照のこと。

■社会構造とアイロニー


 アメリカ合州国では、すでに1938年に、アメリカの犯罪的逸脱の比率の高さが、経済的成功の神話と現実の矛盾に根ざしていることがロバート・マートン によって指摘されている。

「種々の研究によれば、金銭的成功の文化的強調が全面的に行われているのに、慣例的合法的な成功の手段を得る機会がほとんどない状況では、 特殊な領域にみられる非行や犯罪は、この状況への「正常な」反応であることが明らかになった。……逸脱に向かって強い圧力を加えるのは、文化的強調と社会 的構造との結びつきである。「金儲け」のために合法的な道をとることが制限されているのは、階級構造がどの平面でも有能な人々に十分な機会を与えていない ためである」(邦訳、pp.135-6)(Merton, Robert K., Social Structure and Anomie. American Sociological Review 3:672-682, 1938. のちに『社会理論と社会構造』(1961[1949])に所収)。

つまり、マートンの説によれば、アメリカ社会において合法的な方法において経済的成功から排除された者たちは、経済的利益を得るために〈逸 脱行為〉をも辞さないという目的合理的な傾向が生じることを示唆しているのである。

■外部とのネットワークの出発点としての〈アメリカ留学〉


・外部とのネットワークを切り開く、文化ブローカーという主体を構築する。
・スクアント効果(クリフォード 2002:29):スクアントは1620年ピルグリム・ファーザーズを迎え入れた先住民族。彼らのうちの一人パチュケトはちょうどヨーロッパから帰還した ばかりで流暢な英語を話し、巡礼たちを歓待した。クリフォードは、スクアントの中に、現代の文化人類学のインフォーマントにおけるさまざまな属性を見いだ し文化の媒介者〈兼〉移動者として先住民=インフォーマントを再考することを促すために、この用語(=スクアント効果)を提唱している(クリフォード 2002:29)。

■投機行為としての労働移民/経済的従属を意味する国内工場への就職


 北米行きは、ある種の投機性の高い行為。マキラドーラの労働者になることは、韓国人の現場監督に叱られながら労働奴隷になることを意味するが、仕事を得 るには厳しい競争がある。

■コヨーテとミグラの間で:移民にとっての心理的脅威


・コヨーテは、労働移民のための非合法の旅行エージェントであり、労働移民の送出先の村落に赴いて、比較的高額でアメリカ国内あるいはアメリカとメキシコ の国境までの搬送つまり旅行に添乗する。コヨーテの語源は不詳だが、野生のイヌ科の肉食獣で、アメリカ西部の先住民文化においてはトリックスターの役割を 果たすこともあるが、評判のよい動物ではない。
・グアテマラにおけるコヨーテの多くは、労働送出先の地元民か、ソロマなどの移民を多く送出させている住民である。前者は、高額な契約金を支払うために地 元民が有利で信頼がおけるという理由からよく利用され、後者は、移民の送出には危険が伴うために、業務に対する信頼という観点から指摘されるようだ。
・コヨーテには、かつてのプランテーションへの労働周旋人(contractor)のような、賃金の前貸しや労働契約に関する業務は行わないので、機能上 の類似点は全くない。しかし、村落の外部と内部の労働経済的関係を周旋するという点で、象徴的には(善悪という観点からは)アンヴィバレントな存在とし て、よく似た扱いを受けている。
・ミグラ(メキシコあるいはアメリカの移民局[Immigration and Naturalization Service]のエージェント)であり、村落においてこのことについて知るものは、移民経験をもった者しかいない。ミグラは、労働移民にとっての経済的 成功という野望を挫くという意味で「敵」ないしは「やっかいな存在」として認識されている。村落でミグラのことを聞くのは、コヨーテが移動の段取りを話す 中である。また、通過するだけのメキシコのミグラは不法移民にとって評判の悪い存在であり、その悪行についてのさまざまなフォークロアが存在する。メキシ コと比較されて、アメリカのミグラが「よりまし」な存在として語られることがあるが、移民の不法性を暴くエージェントして移民にとって敵であることにかわ りはない。

■政治難民を演じること:カモフラージュのエピソード

■モネイ・オルデル(money order)とカセット・テープ


・送金を待つ人たち
・懐かしい親族の声を聞く
・経済的成功を煽る「幸福の声」
・コミュニケーションの方法

■陸路のフォーマルな国境空間での物資の交通


 国境付近の公的な輸出入、あるいは賄賂、国境付近の非公式や交易ルート
 国境における人々の交渉

■ドラッグの輸出入

■(研究の叙述法):コラージュ的文化構成(すでに先行研究にこの用語はあるか?:パスティーシュ、)


・古典的民族誌、ローカルな視点を用いた研究
・社会変化の民族誌、ローカルな視点を用いた研究
・移民化を推し進める社会的条件・グアテマラ現代史・地域政治経済史
・移動のプロセスを追う研究(ルポルタージュ)
・移民先での文化研究
・移民の定着過程研究
・移民のアイデンティティ形成過程(Cristo Negro de Esquipuras, Di'a de la Independencia, Discuciones sobre la participacio'n electral)
・国際政治学:経済的インパクトや外交政策
・政治暴力のグローバリゼーション:改革移民法が2001.9.11より、移民排斥の論理に「転用」される。

■移動と定着という図式的理解に終わらないこと


・移民研究のステレオタイプ:移動タイプと非移動タイプ(定着)という本質主義的二分法
・グローバリゼーション状況において、人々のライフスタイルのモバイル化が進展(例:米国内での交通事故に対して、出身地の人たちのネットワーク網:新し い状況と古い状況が同時に進行する。ないしは、両者が節合をする)。

■実質的経済インパクト

■アメリカの生活に関する強い関心


(賭博に取り憑かれた人)

■民族的アイデンティティ


・アメリカでは、政治経済的難民化がマヤという共同性を構築した。しかし、それらは容易にグアテマラ人(Guatemalteco/-a)に節合する。そ れを推し進めるのは、民族集団の凝集性が、コミュニティ出身の集団を形成するにはサイズが小さく、また小さな分節部分を統合するには、より大きく、歴史的 に凝集度の高い集合的カテゴリーである「国家」が動員される。
・グアテマラ政府ならびにグアテマラのメディアは、アメリカ合衆国内におけるグアテマラ人の保護を求める。その理由は、国民国家の構成メンバーであり、有 力な外貨の稼ぎ手であり、潜在的な未来の選挙民だからである。(→※私の持っている本(Burns, Allan F. 1993. Maya in Exile)のp.174の書き込みのメモ。)

■ツーリズムと反ツーリズム


tourism anti-tourism
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real ← virtual
human ← object (non-human)
voluntary ← involuntary
pleasure ← torture, compulsion
(todo son incorporados)
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■2つのフィールド・ワーカー:マヤの農業移民労働者/伝統的人類学者


[表の順序](a) Mayan agricultural labor / (b) anthropologist
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Objectives; Making money / Being Professional
Activeities in home; Saving money / Collecting information
Objectives for Activeities ; Investing for "coyote" / Investing for academic activity
Moving; Crossing national boader / Crossing cultural boader
Fieldwork; (a) Picking oranges / (b) participant observation
Activeities in the field; Making money / Fulfilling field notes
Objectives for Activeities ; Reforming their own life / Reforming their own life
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※私の持っている本(Burns, Allan F. 1993. Maya in Exile)のp.102の書き込みのメモをもとに記す。
※このような二元論に対する批判も考えられる。「ここで「ホーム」の定義が根本的に問題となる。転地がますます規範となりつつあるように見えるローカル/ グローバルな状況では、集団生活がどのように維持され、再創造されているのだろうか? ホームと海外、滞在と移動といった二項対立は、徹底的に疑問に付さ れる必要がある。これらの対立はジェンダー、階級、人種/文化のいたるところで自然化されてきた」(クリフォード『ルーツ』翻訳、p.106、一部改 変)。

■旅する死体


 New Straits Times (Kuala Lumpur, Malaysia), Nov. 12, 2003. に、アメリカ合州国において交通事故で死んだマレーシアの2人の女性の留学生についての記事がある。
 この記事は、私にとってTSにおいて見聞きした、グアテマラの先住民の交通事故死の死体の帰還のことについて思い出す。
 旅行するのは、生きている身体や商品(=物質の世界流通)のみならず、“死体”をも含まれることも、忘れてはならない。死体の旅行は、きちんと遺族に よって“旅費”が支払われる。

■移動しない人びと


「移動のエコノミーのなかの非移動という周縁に捉えられた人びと」(ホミバーバ:クリフォード 2002:59)

■移動する人類学者の登場


「ヘンリカ・ククリック(Kuklich 1997)は、人類学を含む学問分野において、専門的なフィールド調査への移行が特定の歴史的契機、つまり一九世紀後半におこなわれたことを指摘してい る。現場主義的で、経験主義的で、相互行為的なものである専門的な仕事を良しとする想定は、急速に自然化していった(クリフォード 2002:71)。
 池田光穂の想定だと19世紀の中頃から後半ということになる(→ダーウィン論文)

■人類学的フィールドワークの二重の特権性


・マヤの一般化された像を反証するフィールドデータの解釈は、次の二重の意味でその現場ないしは近隣のフィールドワーカーに帰属することになる。(1)時 代的変遷:「昔はそうだったが、今は違う」、(2)地域的変異:「この地域ではそのようなことは言えない」

■文化的再構成(cultural re-stracturing)


 いったんデラシネになった移民たちが、マヤ先住民ないしはグアテマラ国民として自己アイデンティティを再構成(=改造)して、それに見合った文化構造を 構成する試みを、文化的再構成(cultural re-stracturing)と呼ぼう。そこでは人々が、伝統的な柵(しがらみ)から自由——もちろん完全な自由ではない——になり、自分たちの文化要 素の取捨選択や再解釈が可能になり、文化が参与者の合意をもとに構成されることになる。
 文化的再構成は、文化の再創造の過程の一つである。ただし、ボブスボームらの言う再創造に含まれているような正統的文化の継承者による正統的過去の捏造 過程という詳細な正当化のプロセスよりも、ここでは当事者たち(=文化の再構成者)が抱いているユートピア的状況の構成プロセスがあり、そのプロセスにお いては当事者の間の意見は交渉可能で、未来予測がしにくい、開発途上のものである。

■経済的圧力と文化的圧力


・北アメリカ化(Americanization)(→アメリカ的野放図な自由主義化、経済自由放任主義)に対抗する/恐怖心をもつゆえの、リージョナル 化戦術(韓国における日本化、スリランカにおけるインド化、カンボジアにおけるベトナム化、イリアンジャヤにおけるインドネシア化)[Appadurai 2002:50]。これらのリージョナル化は、地域を国家単位でまとめるナショナル化とは異なった経路をたどり、政治的にもグローバル〈対〉ローカル/ナ ショナルとは多少異なる形態をもつ。
・IRCAが生まれた当時の社会的文脈と法的要請:経済のグローバリゼーションがもたらすローカルな経済活動への節合とアメリカの底辺労働者の雇用の状況 を法的に整合させる必要性があった。
・9.11以降のIRCA:アメリカの不法滞在者と不法入国民の排除とアメリカ国内の治安維持のために、法的装置として、移民の管理と制御のための法的シ ステムが機能する。
・国家制度はグローバリゼーションの中で崩壊ないしは希薄化してゆくというポストナショナル的な近未来を描く議論(eg. Patterson 1987)においては、移民の流入を防ぐにはコストがかかり、貿易や国際分業における国家管理には脅威になるが、国家管理システムの崩壊ないしはボーダレ ス化には歯止めがかからないという指摘があった。しかし9・11以降の国際的なテロリズムと抗テロリズム体制の中では、国家管理システムの強化やボー ダー・メイキングは、昔から継続されてきたかのように当然視されるようにいたっている。
→Patterson, Orland. 1987. "The emerging west Atlantic system: Migreation, Culture, and Underdevelpoment in the Circum-Carribian region," In Population in an interacting World, ed. W. Alonzo. Cambridge, Mass.:Harvard University Press. Pp.227-260.

■メタファー問題


・しばしば引用される、基本文献は Lakoff and Johnson 1980。
Lakoff, G., and M. Johnson 1980. Metaphors We Live By. Chicago: University of Chicago Press.

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Burns, Allan F. 1993
Maya in Exile: Guatemalans in Florida. Philadelphia: Temple University Press.

0. Introduction by Jero'nimo Camposeco.
1. Maya Refugee and Applied Anthropology
2. Escape and Arrival
3. Life Crisis and Ritual
4. The Maya in Community and Ethnic Context
5. Work and Changes in Social Structure
6. Conflict and the Evolution of a New Maya Identity
7. Visual Anthropology and the Maya
8. Always Maya

・1986年「移民改革統制法 Immigration Reform and Control Act of 1986」による、それまでの不法滞在状態から、在留の権利をもつ移民者への変更が、アメリカにおけるマヤ民族の存在に大きな意味をもつ。
・1987年ビニシオ・セレソ(Vinicio Cerezo)政権期におけるマヤ言語の正書法の国家制定。
・【課題】グアテマラ先住民庁の解体からグアテマラ・マヤ言語アカデミー(Academia de Lenguas Mayas de Guatemala[綴り確認のこと], ALMG)までの、先住民言語保護の観点からみたグアテマラ先住民政策を、簡潔にまとめること。


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0. Introduction by Jero'nimo Camposeco.(pp.xviii-)
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・スペイン語と英語のバイリンガルで書かれている。
・コミュニティ:San Miguel de Acata'n y San Rafael La Independencia.(Akateco, Kanjobalと分類されていたが、後に独立言語として認められる)、近くにハカルテク(Jacalteco)、カンホバルの言語集団があり、相互に類 似性をもつ。
・カンポセコのライフヒストリー、北米にいたるまでのグアテマラ内戦状況、北米での生活など。
・生年は、戸籍上は1938年10月1日だが、実際は1937年10月2日である(その事由はp.xxiiにある)。
・父母はホセとアントニアで行商(特にシェーラのサルカハでできる女性のスカートを商う)に従事する。
・幼少の時代からのマヤ儀礼への参与。
・共同体は、土地の産品の交易を通してクチュマタン高原西側でゆるやかな交流圏をつくっていた。
"Otros arti'culos de mucha demanda eran los productos de fibre de maguey (ishte) tales como cuerdas, "lazos,""jaquimas" para atar bestias, "morrales" (bolsas), redes, adornos de pared, etce'tera. Asimismo fabrican arti'culos de lana de oveja negra como los sacos cerrados o "capishayes" para protegerse del fri'o o la lluvia, los manteones para los aparejos o monturas de caballos. Las mujeres especializaron en tejer una cinta de palma al que llamamos "trenza" para la fa'brica de sombreros en Jacaltenango y sobre todo para los sombreros especiales que usan los mames de Todos Santos."(Camposeco 1993:xxviii).
・カンポセコは師範学校の教育を受けることを、サン・ミゲルのメリノール司祭から進められ、シェーラのla Casa de la Culura、の書籍店に職を得る(p.xxx)。
・当時の先住民教育は、カスティーリャ語化(=スペイン語はカスティジャノ、つまりイベリア半島語という意味があるのを、スペイン語を使うメスティーソの 文化的価値観の体系に統合しようという教育政策)が進められ、スペイン語の話せない先住民の子供たちのスペイン語識字運動が国家の教育政策として進められ ていった。
・1977年(彼が40歳)にウェウェテナンゴ県のイシュタウァカンの鉱山労働者の全国行進がはじまる。そのリーダーの一人は、ウィウィ(Wiwi)の呼 び名をもつMario Mujia Co'rdoba で、カンポセコの友人のサンミゲルの看護婦クリテバル・コルドバの息子であった(P.xxxvii)。
・その後、軍の掃討作戦の結果、多くのミゲレーニョがアメリカに逃亡することになった。カンポセコを受け入れたのはペンシルヴァニアのモホーク先住民族 だった。先住民の土地で知り合ったのはKayuta Clouds(雲のカユタ)だった。
・1983年2月にモホークの首長と地元紙 Akmesasne Notesは、彼に対してフロリダの村落司法サービス局とアメリカン・フレンズ・サービスの弁護士に会い、マイアミのアメリカ移民局の収容所に収容されて いるカンホバルに面会するように依頼されている。
・モホークの協力もあり、人類学リソースセンターのシェルトン・デービスにも会い、グアテマラの先住民族の窮状を訴え、これがきっかけになりCORN- Maya(Comite' de Refugiados Maya, ref. pp.62-5)が結成された。
・1993年時のカンポセコの所感:"La situacio'n en San Miguel ya no es igual. Es difi'cil que la tranquilidad vuelva. El pueblo traditional y paci'fico que existi'a antes es so'lo un suen‾o ahora. Los miguelenos, jacaltecos, solomeros, mames, quiches, aguacatecos, kanjobales y otros mayas refugiados en Florida y en otros estados, como pueblo, como nacio'n, o como grupo no volvera'n a Guatemala. Quiza's algunos individuos lo hara'n temporalmente o definitivamente."(Camposeco 1993:xlvi).[翻訳]「サン・ミゲルの状況はもう過去のようなものではありません。静けさが戻ることなど困難です。かつて存在した伝統的で平和 な村は、現在では夢想にしか過ぎません。サン・ミゲルの人、ハカルテコの人、ソロマの人、マムの人、キチェの人、アグアカタンの人、カンホバルの人、ある いは、フロリダやアメリカの他の州にいるその他のマヤの難民、つまりこれらは、あたかも共同体であり、国家であり、グループでもあるわけですが、これらの 人々はグアテマラには帰還しません。たぶん何人かの人たちは、一時的あるいは永続的に帰還する人もいるかも知れませんが。」

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1. Maya Refugee and Applied Anthropology (pp.1-)
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・この書物が書かれたいたときのフロリダのマヤ先住民4千人
・グアテマラ内戦:「隠れた戦争 hidden war」(Beatriz Manz, 1988)
・グアテマラの難民化は早くに始まったが、難民キャンプの設営(1980年代初頭にメキシコ・チアパス州)が遅れて(国内外にも認知が遅れた)グアテマラ 国軍による国境を越境した難民への迫害が続いた。グアテマラ国軍の国境越境による攻撃活動は、メキシコ領内に難民キャンプが設営された後にもおこった (p.24)。そのため、グアテマラ難民のキャンプは、当初設営されたチアパス州からカンペチェ州まで移動したこともあった(p.25)。
・(グアテマラ人類学研究小史のような記述が続く。p.10)
・(その後、応用人類学史)the Cornell-Peru Project, は"Vicos project" として有名だが、後にさまざまな開発批判にさらされた。

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2. Escape and Arrival (pp.23-)
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・1981年以後:グアテマラ国内外に60万人ほどが難民化し、アメリカ国内には20万人ほどが滞在するといわれている(Zolberg et al. 1989:212)。アメリカ合衆国への最初のウェーブは83年から86年の10万人程度であったが、難民申請のうち1461件の申請は却下され、認めら れたのはたった14件であった(p.23)。アメリカ合衆国の当局者たちは、グアテマラ難民が政治的理由ではなく、経済的な理由によりアメリカにやってき ているという認識が当初よりあった(p.27)。(【コメント】:このような認識は冷戦構造の中央アメリカ観に由来する側面がある。なぜなら、サンディニ スタ期(1979-90年)のニカラグアと異なり、グアテマラでは当時、共産主義勢力と軍事政権が交戦状態にあり、難民化しているのはゲリラないしはその シンパサイザーか、その紛争のとばっちりを受けた農民であり、もし仮に政治的な理由で難民になったとしても、自由主義陣営であるアメリカは、その当事者た ちを保護するつもりはほとんどなかったのである)
[Zolberg, Aristide, Astri Suhrke, and Sergio Aguayo. 1989. Escape from violence: Conflict and the refugee crisis in the developing world. New York: Oxford University Press.]
・マイアミのインディアンタウンに労働力が必要になる季節には、約5千人が住む。
・アメリカのへの難民の移動は、グアテマラと地理的に間にあるメキシコ経由してくる。難民のすべてがアメリカに移民するということはなく、メキシコ領内に おいて労働移民として定着した者がいた。
・メキシコ国内における難民の移送のエピソードはp.25を参照のこと。
・グアテマラの政治状況の悪化(p.30)
・コヨーテとミグラのエピソード(ロドリーゴとフリアンの対話、pp.31-2)
・コノーヴァ(Coonover)『コヨーテ』(1987):越境移民の物語の“代表格”としての——(p.32)。
・インディアンタウンへの到着第一日目のエピソード(p.33)。
・グアテマラにおける汎先住民運動の第一のウェーブは1970年代で、ニューヨークとペンシルバニアのネィティヴ・アメリカンがグアテマラのマヤとの接 触・文化交流をおこなったのを嚆矢とする(pp.36-)。
・グアテマラにおける北米先住民の犠牲者(Kayuta Clouds)(p.37)。
・ナラティヴ・タイプの形成:ナラティヴは事実の反映ではなく、アイデンティティを構成する要素。
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3. Life Crisis and Ritual(pp.41-)
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・インディアンタウンの地理(p.42)
・洗礼(p.45)
・ハシンタとドミンゴの話(p.46)。
・カンホバル人の政治的組織は、(マヤ系先住民の)Civil-Religious hierarchyに類似するという指摘(p.51-)。
・現地での政治参加(p.52-)
・フェスティバルにおけるカンホバル人によるスピーチ(p.59)
・IRCA(Immigration Reform and Control Act of 1986),p.61
 移民改革法/改革移民法(定訳の存在?):米国内で就労できる労働者を合法的滞在者のみとする規定する法律。これにより、それ以前の不法滞在者を法的手 続きにより合法的な労働者にする措置をとると同時に、これ以降は、雇用者は不法滞在者を就労させることができなくなる。(画期的な法律であると言われてい る)。
・CORN-Maya (Comite' de Refugiados Maya),p.62
・先住民マヤ・アイデンティティにまつわる議論(p.64)
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4. The Maya in Community and Ethnic Context(pp.67-)
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・7つの仮説(p.69):
(1)ある移民のこれまでの職業は、米国内での雇用にどのような影響を与えるのか?
(2)移民の地位は、仕事の様子、職業の稼働性、職業上の成功にどのような影響を与えるのか?
(3)米国の労働市場は、男性と女性の役割と期待にどのような影響を与えるのか?
(4)職場の内外でのコミュニティにおける異なった民族諸集団の諸関係とはいかなるものか?
(5)インフォーマルセクターの仕事は、どのようにして、これらの異なった[民族]諸集団におけるフォーマルセクターの仕事に補充・追加されてきたのだろ うか?
(6)移民たちはどのようにして仕事を見つけ、また、労働支援や就職斡旋(job referral)に関する公的ならびに私的プログラムの役割は、どのようなものであろうか?
(7)インディアンタウンのコミュニティのこれらの人々に対して、1986年の移民改革法のインパクトはどのようなものであったのだろうか?
・セミノール先住民族など先住民族との関係:インディアンタウンの歴史(p.69)
・インディアンタウンの3つの居住地区:インディアンタウンそのもの、ブッカーパーク、インディアンウッド退職者用造成地(the Indianwood retirement development)
・不法入国者の貧しさに驚く黒人(p.86)
・改革移民法適用直前のインディアンタウンの状況(around, p.90)
・ミゲル・カルロスの唐辛子を植えること(p.95)、トルティージャを作る時間がない!(p.97)
・異なった民族集団で同じ人口構造(p.98)
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5. Work and Changes in Social Structure(pp.103-)
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・仕事を通しての移民のアイデンティティの発見(p.103)
・SAW(季節農業労働者、Seasonal agricultural worker)
・農家(agriculturalist)と農園労働者(farm worker)の違い(p.105)
・労働選好性:単一の仕事につきたがる傾向(p.106)
・身体の大きいメキシコ人に対して、グアテマラ人は熱心に働くにもかかわらず体力的ハンディがある(p.108)。
・ゴルフコース・ワーカー(p.110)
・マヤの言語使用:第一言語はマヤ、第二言語は英語(p.112)
・労働組合(p.116)
・労働の季節的変動:5月〜10,11月はオレンジとレモンの収穫がない時期(p.117)
・女性の役割(p.118):Juana Estrella のエピソード(pp.118-9)
・移民の子供たち(p.119)
・婚姻パターン(p.120)
・変貌する町(p.124)
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6. Conflict and the Evolution of a New Maya Identity(pp.125-)
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・マヤのイメージの変化(p.126)
・墓場の問題(p.130)
・民族的アイデンティティ:デュボスとロマヌッチ−ロス(De Vos and Romanucci-Ross 1982:368)による、「シールド(楯)」と「エンブレム(紋章)」の機能。(De Vos, George, and Lola Romanucci-Ross. 1982 Ethnic Identity: Cultural continuity and change. Chicago: University of Chicago Press.)を、マヤ・アイデンティティにおいて検証する(pp.130-)。
・エスパーニャ征服時のセツルメント・パターンが、フロリダに再現される(p.132)=文化的再生産の事例
・空間利用(p.133)
・壁の装飾(pp.133-)
・南米における織物協同組合の設置とカトリック修道女(p.136)
・インディアンタウンにおける助産婦(pp.137-)
・マリンバ演奏と共同の精神(p.139)
・仮面舞踊(p.140)
・文化のブローカーとしての Gaspar Domingo(p.141)
・1960-70年代におけるプロテスタントへのグアテマラ国内における大量改宗(p.143)
・インディアンタウンにおける、初期のマヤ先住民イメージ(p.147)
・1920年代のラ・ファージが報告した、カンホバルの大量飲酒(p.148)
・マヤ高校生の語り(p.149)
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7. Visual Anthropology and the Maya (pp.152-)
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・1960年から1970年代初頭:ナヴァホ・フィルム・プロジェクト(p.154)
・Hubert Smith によるユカテク・マヤの映像記録:The Linving Maya (1985) シリーズ
・インディアンタウンにおける映像記録の練り上げとそれにまつわる問題:1.映像記録がそのまま内戦に関する弾圧に流用される(1990年代初頭は依然と して、1996年末の和平合意頃まで。しかし、1999年末のFRG右派政権成立以降、再び人権活動家や政治家に対する脅迫や暗殺事件の増加)。2.資金 面での問題。3.日雇い労働者の出演時間の確保が困難。
・28分の『難民状況のあるマヤ(Maya in Exail)』が完成(around, p.168)。
・ビデオを州政府が買い上げるのは「あまりにも政治的(too political)」と二の足を踏む(p.170)
・映像に使う言語(カンホバル語)の問題(p.171)
・二番目のフィルム『マヤの祭り(Maya Fiesta)』の完成(p.172)
・メキシコの難民キャンプにおける上映(p.173)。
・自己表象することを「成功」すること(p.173)
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8. Always Maya (pp.174-)
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・"Siempre Maya"
・さまざまなマヤ表象とその流通:古代マヤ表象(p.174)、民族マヤ表象(p.174)、言語と開発(p.175)、抵抗するマヤ(p.175)、織 物のマヤ(p.175)、犠牲者としてのマヤ(p.175)
・アメリカからの国外追放(deportacio'n)に対する強い恐れ(p.176)
・移民の宗教へのコミットメントの無さが逆に、インディアンタウンにおける(民俗カトリック的な)祭礼への非宗教的関与を高める。たとえば、元の共同体で はプロテスタントはマークされており、祭礼には参加できない(p.177)。
・「グアテメックス(Guatemex)」ラテン系移民のハイブリッド的表象の創出(p.178)
・メキシコのタマーレスとグアテマラのタマーレス(p.179)
・民族構成の変遷(p.179)
【重要!】−−−−−−−−−−−−−
・15歳の未婚の母マグダレナ(Magdalena Aguirre)の事例(p.181):養育を拒絶する彼女と、グアテマラの女性の成長に関する筆者の人類学的解説(pp.182-)
・忍従と恐怖と恥に対する感情に関するJune Nash の説明(pp.183-)
・生業と社会構造が、子供の役割と責任道徳を構成する。したがって、マヤ女性(マグダレナ)のトラウマを理解するための、社会文化的背景を理解することが できる。
・ラテンアメリカで多く採用されているナポレオン法典の特徴(→ニッポニカ2003「所有権の絶対性、契約自由の原則、過失責任主義などの立場は、近代市 民法の基本的原理として、その後に制定された各国の民法典の模範となった。(C)小学館」)。
・愛情表現の北米大陸とグアテマラの差異(p.187):このような一連の解説はマグダレナの行動を文化的に解釈するのみならず、彼女の立場を擁護するこ とにも採用されている。
・1992年当時でも、米国からグアテマラへの帰還は効果的な戦略ではなかった。
・1990年代初頭の世界の難民は、1700万人と推定(p.191)
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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099