『暴力の政治民族誌』を舞台裏から読む
Political
Ethnography on Brutal Violence against Indigenous People under
Guatemalan militaristic rulers, from 1960s to 2010s
移り変わる政権のなかで先住民であり、国民である人
々。暴力なるもの、権力なるもの、深刻な社会問題とそこからの回復を綴る民族誌
民族誌を読む時に、その調査がなされていた背景について知りたいのは人の常である。私の書物の 冒頭と最終の2つの章にはその裏の事情が書かれてある。従来の自著紹介とはかなり破格ではあるが、拙著について、その制作の舞台裏からご紹介してみよう (以下は初期の草稿です[mikedai3.pdf]with password)。
私 が書いた民族誌調査にもとづく著作は『実践の医療人類学:中央アメリカ・ヘルスケアシステムにおける医療の地政学的展開』(2001年)につづき本書が2 作目である。前著は、プラネタリーヘルスという今日では些か欺瞞的言葉で主張される世界保健のスキームが、国民国家の医療体制を通して、巡り巡ってホン ジュラス共和国の西部コパン県でのメスティソ農民の生活世界にまで届くさまを描いたものである。つまり伝統医療的な態度がどのようにして西洋近代の公衆衛 生政策——M・フーコー流の身体の統治術のひとつ——に取り込まれていったり、局所的な抵抗や飼い慣らしを試みたりするのかという微細な記述(ミクロロ ジー)にこだわったものだ。
ホ ンジュラス滞在中にある財団の若手研究支援のための助成金を戴きグアテマラ共和国に戻り、さらにその西部のクチュマタン高地の先住民小都市に向かい、前著 のスタイルを踏襲する医療人類学調査を始めた。しかし、開放的なメスティソ村落とは事情が異なり、軍隊の駐屯と虐殺事件5年後のマム先住民は口を固く閉ざ し、当たり障りのない会話に終始するだけで、その調査成果はさっぱりであった。一番気になったのは、ホンジュラスでは住民主体の地域保健活動の中心で普通 に見られたヘルスボランティア(保健普及員)が皆無だったことだ。理由はすぐに判った。内戦期に保健普及員が革命兵士だったという嫌疑を軍隊やコミュニ ティから受け、住民主体の地域保健プログラムが危険視され誰も参加しなかったというのだ。前著の文献研究で指摘したニカラグアやキューバの状況——健康に なることと社会正義が結びつく——とは真逆の状況がそこにあったのだ。
内 戦時のコミュニティ崩壊が難民化やひいては北米での労働移民のプッシュ要因になったのは明白であった。他方で、内戦後の経済復興や先住民女性のエンパワメ ントの政府系あるいは非政府系の援助団体も治安の安定化に伴いコミュニティに戻ってきた。海外送金と国際援助の2つの資金が少しづつ還流してきた。
他
方、内戦の記憶と向き合うトレンドもはじまりつつあった。REMHI=歴史的記憶の回復プロジェクトが1995年からはじまる。その3年後の98年4月は
REMHIを指導していたヘラルディ司教が殺害される。殺害に先立つ10年前の1988年にはエスノヒストリアンあるいは民族考古学者のロバート・カー
マック教授が『暴力の収穫:マヤ先住民とグアテマラの危機』という編著を出版した。その論集に寄稿した北米の人類学者を含むメソアメリカニストたち13名
は、1980年代前半の暴力の時代(ビオレンシア)を暴力の時期以前からのフィールド資料を基に、フィールドを離れて入手した調査地の惨状の報告を実に多
様な形で表現していた。フィールドにおける暴力の様態が多様であり、現地に関わる研究のスタイルも多様であり、そして研究者の政治的ポジションも多様だか
らである。当然のことながら私も大きなショックを受けた。
私の調査地で半世紀近く前の1951年(調査は1945年の大戦終了直後)に出版された著名なマウド・オークスによって描かれた、時間と占い とコフラディーア(信徒集団)が時間を超えて秘技的な宇宙論を護持するロマンティックな世界など、私が滞在したその小都市には面影すらなかった。その町の 街路や路地ではほとんど割り箸で作ったかのような粗末な十字架——先住民の犠牲者の死体が夜になるまで放置されたところ——がそこかしこにあった。隠喩表 現だが、その街には犠牲者の血液の匂いが今尚、人々の記憶の中に漂っていた。じつに見事で優雅なその町の民族誌を書いた彼女(オークス)は『暴力の収穫』 公刊の2年後にアルツハイマーによりカリフォルニアの風光明媚な町「海のカルメル」にて87歳の生涯を閉じた。
専
門の医療人類学での調査は諦め内戦期の記憶の調査に切り替えことは誰しも思いつくはずだが、幸か不幸か科研費の調査で戻った名目は観光研究に関連づけたコ
ミュニティの復興と経済である。グアテマラ内戦の公式終焉は1996月12月であり、その調査に私の調査のテーマを切り替えた時期は未だ内戦中であったわ
けである。そのような外部からやってくる調査者は世界的なトレンドに合わせて調査をするが、その調査対象になる人々は社会的苦悩の真っ最中だという状況で
あった。これは研究倫理における議論よりも一般的な道徳や普通の人の感情に触れる道義的問題を提起する。そんな逡巡もあって、元原稿である第3章先住民共
同体と経済(初出名は「暴力の内旋」)が出版された1998年からかぞえて本が完成するまで実に22年の歳月がかかってしまった。テーマも、暴力の記憶か
ら回復へ、移民労働をめぐる新たな民族アイデンティティの形成、先住民文化復興と関連づけられるナショナルアイデンティティへの接続をめぐる国民的論争、
そして、デモクラシー思想の流入に伴うコミュニティ概念の再生と再編と、長期的なトレンドを自分なりに俯瞰できたものになったと思う。従来は、政治関係者
へのスノーボール式インタビューや公式政治文書や政治経済統計などでこのような政治的態度のトレンドを明らかにするフォーマリスト的なアプローチがとられ
る。他方、私の方法は、その場に居合わせた相手が話してくれるまで待っていろいろなおしゃべりをして、それをホテルや下宿に戻って大急ぎで書き留める方法
を取らざるをえなかった(第11章参照)。当然、私の主観や、その直前に聞いた別の人の、異なるヴァージョンの記憶が知らない間に加わることがあるだろ
う。おしゃべりを元にするので、また再会したときに、聞き返した時にニュアンスが微妙に変わることがある。このようなナラティブ構成だが、対話した事実に
つねに回帰し解釈学的理解の根拠におく言わばサブスタンティビスト的なアプローチになった。その意味では若い時に親しんだオスカー・ルイス的なヒューマニ
ズムに私は未だに心酔しているのだと再確認した次第だ。
幸いなことに本書には、出版後一年にも満たないが幾つかの書籍紹介や書評も出た。ある紹介文に「門外漢にとって読みやすいとはいえない部分もあ る」とあるが、私の筆力不足である。だが、それよりも痛ましい記憶とそこからの回復を、読者の皆さんに伝えるまでに、執筆者の道義的問題を私自身の中で整 理するのに思わぬ時間がかかったのだ。
この本を手に取った人は表紙の不思議な雰囲気に魅了されるかもしれない。この印象的な挿画は版画家の山福朱実さんによるものだ。じつは依頼の縁 起もラテンアメリカ関連づくしだった。こういうことである。日本の「追われゆく坑夫たち」(1960)を中南米にまで追いかけてルポルタージュした出色の 上野英信『出ニッポン記』(1977)やコレヒオ・デ・メヒコで教鞭をとった経験を元に書かれた鶴見俊輔『グアダルーペの聖母』の装丁を手がけた編集者の 田村義也に頼みたいが彼は2003年に物故していると私が何気にSNSに呟いたところ、畏友の小林致広さんが、朱実さんの版画がそのイメージにピッタリだ よと返事してくれた。装丁作品を調べると石牟礼道子『水はみどろの宮』の装画を手がけるほか絵本『ヤマネコ毛布』などの作品も出されている。そこで編集部 を経由してお願いすると引き受けてくださるとの返事。マヤ先住民のイメージがわからないということで、本書に使われた写真と初稿ゲラを送ると同時に、朱実 さんのほうでもインターネットで情報収集をしてくださり、満を持してやってきたのが本書の装画である。後でわかったのだが、朱実さんの亡父康政さんは北九 州で裏山書房という小さな書肆を経営されていて、康政さん存命中に手作りの版画を装画した上野英信の晩年の著作『ひとくわぼり』を刊行していたのだ!! 本書の表紙に戻ろう。トウモロコシ畑に佇む先住民の背景にはフクロウと農民らしい人影が…、空には太陽と月がある。落掌した瞬間に「これだね!!」と大阪 大学出版会編集者の栗原さんとお互いに相槌を打ったものだった。本当に、恐る恐るお願いした甲斐があった。この書物は、内容においても、装画においても、 すでに物故した人を含め、長く複雑なコミュニケーションの連鎖の産物になったことに、不思議な奇遇と、ある種の宿命のようなものを感じた。
※山福朱実さんが田村義也と作画のテイストが似ているだけではない。その原作の上野英信や石牟礼道子さんは、朱実さんのお父様である山福康政(1928- 1998)や彼が起こした北九州のヤマフク印刷(出版社「裏山書房」を後に併設)と交流があった。康政さんは、「本業の傍ら、 同人雑誌や自主劇団で活動。杉田久女研究で知られる俳人、増田連が地 元で始めた古本屋「若松書房」に出入りして、客だった「天籟(てんらい) 句会」代表の穴井太と出会い、やがて俳誌『天籟通信』同人に。穴井は 上野や石牟礼らを講師に招いて勉強会「天籟塾」を開催。山福[康政]は穴井の 句集や『天籟通信』の発行、小倉の俳誌『自鳴鐘(じめいしょう)』の同 人会カレンダーなどを手がけ、モダンで遊び心にあふれた意匠が評判を 呼んだ」という(http://nekoyanagioffice.blog.jp/archives/65904795.html)。 その後、病いを得て、リハビリを兼ねて独学でペン画をはじめた。上野は、山福[康政]の支援も兼ねて「裏山書房から布装丁の 『ひとくわぼり』を刊行。 1枚ずつ手刷り、彩色した版画 数十点を貼り込む凝った本で 山福家は家族総出で彩色した という。上野の死後、晴子さ んが夫との30年の日々を書き ためたエッセー集『キジバト の記』も同書房が発行」(ibid.)している。ヤマフク印刷は2016年夏に廃業する。
グ
アテマラ内戦についての人々にその痛ましい記憶を地球の裏側の日本の同胞の皆さんに散種するまでに意想外の時間がかかってしまったが、今振り返った時に、
時間をかけた分の「重たい記憶の時の重み」を伝えるためにまったく無駄な徒労があったとは私には思えない。このテーマに関心をもつ人以外にもより多くの人
に読んでいただきたいのが、偽らざる私の気持ちである。
この 本の(1)各章が書かれた時期、(2)取得していた研究費(外部資金)、(3)フィールドワークをした場所、そして(4)私自身の研究関心である。
(1)各章が書かれた時期
一番最初は第3章に書かれたものである。医療人類学のテーマを「卒業」して、はじめて政治経済的な変動に関心をもった。フィールドはトド
ス・サントスが中心である。暴力の語りと暴力構造を分析した第5章がそれにつづく。第4章の「語りと証言」は、実際に印刷物として発表されたものではなく
ウェブページで、第5章の派生的副産物として書かれていたものである。その後、大阪に赴任する前後に書かれた7、8、6章が続く。第2章は、科研費の「都
市環境における実践コミュニティの人類学研究」でマムではなく、キチェ先住民の間での調査によって書かれたものである。そして、第9章と、第10章では、
地方自治やデモクラシーに興味が移り変わっていった。これらの調査地域は、コミタンシージョが中心になる。1章と11章は実質的に書き下ろしであり、メモ
アール的な意味をもつ。
(2)取得していた研究費(外部資金)
この図をみて、池田は研究費がリッチであるなぁと誤解しないでいただきたい。水色が私が代表者としていただいたものであり、濃い肌色のもの
は、私が分担研究者として配分したものである。中央アメリカへの旅費経費はコミュニティに到着すれば非常に安くすむが、そこに到るまでの航空運賃は高く、
また長いバス旅を要求される。さらに時差ボケ(ジェット・ラグ)があるために、みなさんが予測する以上に困難を極める。そのために喜びも悲しみのなかなか
半端なものではない。滞在中に大きな地震にも遭遇したことがある。フィールド調査の苦労を考えると、歳をとるにつれておっくうになる。里帰りのように行け
ば(=戻れば)それなりに旧交を温めて楽しいが、いくまでの資金の調達や、準備はあまり楽しいことではない。病気にも遭遇する。
(3)フィールドワークをした場所、そして
第3章、4章、5章、7章、6章、8章のフィールドはトドス・サントスが中心である。第9章と、第10章では、地方自治やデモクラシーに興 味が移り変わっていった。これらの調査地域は、コミタンシージョが中心になる。1章と11章のなかに、チアパスの思い出があるが、これは1990年のもっ とも初期の思い出にも含まれる。正直に吐露すると僕はフィールドワークはそれほど上手ではない。情報を提供する人たちの辛抱強さと、僕につきあってくれる 人柄の良さに感謝している。
(4)私自身の研究関心である。
上の推移で、本書に反映されていないのは、水色で示した「医療人類学」と「観光と経済」だけである。言い方をかえると、グアテマラの先住民
の人たちこそが、へっぽこ文化人類学の私を鍛えてくれて、道徳的に高潔であれという倫理観を陶冶してくれたのである。
++
++
章立て(関連するリンクです。オリジナルの章と比較してくだされば、2度美味しい)
リンク(本書のテーマに関するもの)
リンク(販売店・書肆など)
文献
その他
William
de Baskervilles and Jorge Borge, el gran sabio ciego
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099
Amazon.co.jp
256_Violence