V 政治的暴力についての様々な諸相
政治的暴力と人類学を考える(グアテマラの現在):
池田光穂
Ikeda, Mitsuho Copyright 2001-2005
これまでの議論を通して、政治的暴力がもたらす社会文化現象に対する視座と、それを人類学的に理解する立場について表明した。六つの下位区分たる テーマから構成される本節では、グアテマラの内戦終期(一九八七年頃以降)から現在にいたるまでの政治的暴力の諸相について紹介をおこなう。
1 恐怖
グアテマラでは一九八三年を分水嶺として左翼ゲリラ勢力の軍事的敗北が決定的になっていたことが現在では明らかになっている[飯島ほか 二〇〇 〇:二二]。また実際に、キチェ県で活動していたORPA(武装人民革命組織)の元活動家は一九八一年九月末にイエズス会士ペジェセル神父が政府に「寝 返った」時点で、ORPAならびにEGP(貧民ゲリラ軍)は敗北していたと一九九九年に私に語った。なぜなら、その時点を前後して予定されていたゲリラの 作戦は、いつも事前に「敵の知るところとなっていた」からである。しかしながら、一九八七—八年当時のグアテマラでは、一般の人びとやマスコミはそのこと について知る由もない。実際にゲリラ勢力は、軍隊に対して散発的に待ち伏せや襲撃をおこなっていたし、軍隊もまた先住民を中心とした市民に対して多様な人 権弾圧を依然として続けていた。
この時期(八〇年代末)に、とくに軍隊の暴力について公に語ることは実質的にタブーとなっていた。このこと自体がグアテマラにおいて人びとが曝さ れている危険性を示唆するものであったことは疑い得ない。アメリカ合州国政府外交筋はグアテマラへの一般観光客の渡航を警告していた。当時の観光客は現在 の水準に比べれば格段に少なかった。これは一九八八—九一年にチマルテナンゴ県で調査に従事した人類学者の報告によっても、それほど事情は変わらなかった [GREEN 1995]。
誘拐は首都圏や大都市のみならず軍の基地がある地方都市でもしばしば行われた。一九八〇年代初頭にあった時のことを目撃した男性は、カーキー色の トラックが住宅に横付けされて、突然大勢の兵隊がふつうの市民を拉致していったことを、昨日の事のように述べた。彼らの記憶はいつも鮮明で生々しく語られ る。拉致された人の家族は、すぐに軍基地に出かけて、掛け合うのだが、軍関係者は一様に「知らない」「調べてみよう」と答える。家族らは心配になって、地 元のコミッショナードス(退役軍人で地元の徴兵を担当する民間人)や、軍と深い関係をもつ党派、例えばMLN(国民解放運動)の地元の顔役にすぐに相談す る。なぜなら拷問や処刑にあって事態が「手遅れにならないように」である。家族は諦めることはなく、何度も足繁く、軍の情報部の窓口に押し掛ける。地方都 市で拉致にあった場合は、首都まで出かけ、何日も何日も出かける。そのようなわけで、軍の基地の窓口は、いつも失踪家族を捜す人びとでごった返していた。
恐怖は身体化をともなう。カイビルと称する対反乱作戦のために訓練された特殊部隊の兵隊——彼らは迷彩服を着て、顔にカモフラージュ用のメイクを する——に対する恐怖は、それを体験したものにしか分からない。カイビルは、ある先住民男性に言わせれば「何日も水や食糧なしにジャングルで生活し、犬や 鼠を食べながら生きる訓練をする。また殺した敵の血を飲んだり、トカゲを食べたりして、残忍な性格をもつように教育される。人を平気で殺すようになった動 物のような兵隊」だという。
迷彩服、ジープ、ヘリコプターなどは、人びとにとって恐怖を喚起する条件刺激となる。一九八七年当時のクチュマタン高原の町で行われた守護聖人の 祭りの最中に、赤いベレー帽をかぶりレイバンのサングラスをかけた迷彩服づくめの巨漢の男性がジープに乗り、まわりに数名の兵隊を従えて「見物」——ある いは視察——にやってきた。知らずに群衆の後から近づいてきた彼らを認めた時、周囲の人たちは飛び退くように兵隊たちに対して場所を空けた。兵隊と人びと の間には数メートルほどの空白地帯ができる。彼らが去ったあと、男性は酔った勢いだろうか勇敢にも「彼らがいると祭りが白ける」と小声で毒づいていたが、 他の人たちはただただ押し黙っている。だが人々は見過ごしているようでも、兵隊たちにじっと神経を尖らせていたのだった。
2 市民パトロール
リオス・モント政権によって一九八二年六月以降、クチュマタン高原のこれらの村落では、「市民防衛パトロール(Patorulla Civil Autodifensa, PAC)」(7)——クチュマタン高原のその町では通称「市民パトロール」と呼ばれた——が組織されるようになる。そこでは旧式のM—1ライフル銃で武装 した民兵組織が形成された。彼らの仕事は当番制で、数人のグループが詰所を基点にして、町内の警邏や道路での検問をおこなうものであった。
(7)通常の略語様式によればPCA(ペーセーエー)なのであろうが、最初の二語から取られてPAC (パック)と通称として呼ばれている。軍事政権担当者が、ニックネームとして語呂のよいPACを採用したのであろう。ちなみに人々がこの制度や民兵につい て言及する時、肯定的否定的を問わずこの用語を政治的に表現する場合にはパックないしは正式名称で呼ばれることが多く、より一般的には警邏を意味するパト ルージャないしはパトルージャ・シビルと略されて呼ばれていた。
市民パトロールは、軍人たちが厳しい教練を人々に課してから、直接彼ら自身で管理するようにしむけた制度だ。歴史の記憶回復プロジェクトや真相究 明委員会の報告書では、軍隊に協力するだけでなく、自発的に村落内の住民の虐殺に関与した事例も多くあると伝えている[REMHI 1988; CEH 1999]。ある村落では、PACは直接殺害の手を下したことはないものの、当番の時間に遅れた者を裸にして、深く掘り水を張った縦穴のなかに放り込んで 一晩放っておくという制裁などを科した。村落は標高二四〇〇メートルの土地にあり、夜間は特に冷え込み、時には最高三六〇〇メートルの峰々から冷たい風が 吹きすさぶ[OAKES 1951:3]。
導入当時、市民パトロールの制度は、村落内にある種の混乱と衝撃をもたらした。というのは、この制度が導入される以前には町長(alcalde) が治安判事(Juez de Paz)を兼任し共同体成員からなるボランティアの警吏(alguacil)を使って警察権を行使していた。しかし原則として六〇歳以下の成人男性の全員 が参加し、町の治安維持機能に重点が置かれる市民パトロールの存在は、それ自体が自律した警察権を行使するため、治安判事としての町長の機能は、罰金や処 罰の処理のみへと縮減されていった。市民パトロールの司令官や副司令官は、町の有力リネージの家族が支配し、彼らに対する「畏敬と信頼」——もちろん合議 によって決められてはいるが決定後は当然のことながら強制力として機能する——が芽生えた。つまり村落内に新たな権威構造が生まれた。
一九八七年暮れから八八年にかけての時点では、しかしながらクチュマタン高原では左翼勢力の目立った軍事攻勢はすでになく、市民パトロールの詰所 の雰囲気も、設置当初のような厳しさはなくなっていた。小春日和のある日、当番にあたっていた知人をたずねて詰所を訪れたことがある。自動車が通っても地 元の知り合いの者だけが通る道ではもはや検問もおこなわれることはない。当番兵は誰も眼につかない詰所の裏の芝生の上で寝転がって、私に対して日本での生 活に矢継ぎばやに質問を投げかけていた。話が一段落終わってから「じゃみんなで(普通の)記念写真をとろうじゃないか」と私が提案したら、突然、彼らは詰 所の奥にしまってある銃を取り出してきて隊列を組んだ。彼らは銃を掲げてさまざまなポーズをとり、どのスタイルがいいのか議論を始めた。もう住民によって 十分に骨抜きにされた(飼い慣らされた)と思っていた市民パトロール制度は彼らのハビトゥスとして十分に刻印されていることを私は感じた。
市民パトロールは強制的に設置された制度であり、その暴力の濫用の実態についても、つとに知られている。しかし、この町では治安維持の制度として 定着したことも確かだ。当時は町で起きるいざこざや暴力事件、酒乱などは、市民パトロールに通報されて、彼らは連中を町の牢屋に放り込み、翌朝には役場に よる書類手続きを経て行政的に処分がなされる。そのような権力装置の一部として機能していた。また男性らしさを鍛える残酷な徴兵よりも、市民パトロールへ の参加は地元に居られる点で良い制度なのだという評価もあった。一九九三年二月に民法が改正されて町役場には治安裁判事務所(Juzgado de Paz)がおかれるまで、市民パトロールは権威を維持してきたのである。
そのために一九九六年暮れの政府と左翼ゲリラ連合の和平合意後の翌年に開催された市民パトロールの武装解除の儀式の際には、多くの現役あるいは OBの民兵たちが教会前の広場にあつまり式典に参加した。国連の監視団が乗り付けた白塗りの大きな四輪駆動車数台が町から去った後、元市民パトロールの兵 隊は、通りの酒場や、元司令官の家——彼の小さな店は酒も商っていた——の前に集まって、酒に酔いながら市民パトロールの解散を悲しんだ。実際、その夜 は、遅くまで男たちの群が通りで酔っぱらい、道端に寝入るまで飲んでいる者たちが数多くいた。
それから数ヶ月後、町で起きる暴力事件や酒乱などが、町役場だけの手では十分に取り締まれていないという不満を町の多くの人から聞いた。もちろん 市民パトロールを復活せよという主張はないものの、市民パトロールによる治安維持の時期を懐かしむ声はあった。それからさらに国軍の治安警察機構は解体さ れ、市民警察(Policia Nacional Civil, PNC)の警官が、一九九七年よりこの町にも配置されることになった。しかし、導入当初は濃紺の制服と制帽を着用した地元先住民ではない警官には、不審と 違和感を覚える者が多かった。
3 打ち明ける
一九九〇年代後半とは異なり、一九八七年末当時は、グアテマラの公共の場でさまざまな政治的暴力、特に虐殺のことについて話すことはタブーであっ た。しかしながら、それを抑圧することは誰にもできない。今は廃止された国立インディヘニスタ研究所(IIN)の職員が、一九八七年当時、私にこっそりと 軍の秘密部隊に注意を促し「こんなこと誰にも言ったらだめだよ……誰もが知っているけど。あなたもくれぐれも気を付けるんだよ」と耳打ちしたことを思い起 こす。人々は、いつもどこかでグアテマラで起こっていた「恐ろしいこと」の何かを伝えようとしていた。しかし、それを伝えようとすることと同時に、それに 耳を傾けるという機会がいつも訪れるわけではない。それはほとんど意図しない時に訪れる。
あることを説明するために意図的に打ち明ける、あるいはたまたま「その話」が出て打ち明けてしまった。しかし、打ち明け話は、いつも対話者が二人 きりでいる時だけである。意図的に打ち明ける者は「君はもう知っていると思うけど……」「もう他の連中から聞いたかな」という糸口を聞き手に投げかける。 何かの話の文脈で、結果的に打ち明けた人は、周りの状況をきちんと把握してから、声を潜めたり、トーンを変えたりして、明らかに聞き手に注意を喚起するよ うにして話す。打ち明け話は、話法における儀礼的な手続きを踏んで開示されるのである。
暴力について語る者と、それを聞こうとする者の間にはさまざまな障壁があった。それはいわゆる「信頼関係」の深度というパラメータだけでは測れな い。私には隠匿された政治的暴力の話を聞きたいという欲望があった。それが何に由来するのか、私自身の無意識から政治的正しさの主張まで、その事由はいく らでも挙げられよう。もちろん私の欲望のままにそれは成就されない。さらに、全く矛盾することだが、欲望をもつことを抑制しようする気持ちが同時にあっ た。受苦に対して敬意を払うこと。だが何のための敬意なのだろうか。想起させることで二重の苦しみを味あわせること。しかし果たしてそれらは同じ種類の苦 しみなのか。「慎み」という快い響きの言葉がその感情をカモフラージュする。それゆえに、クロード・ランズマン監督の『ショアー』[一九八五年制作]が一 九九〇年代の中頃に日本で紹介された頃、このドキュメンタリー作品の中でホロコーストの生存者が感極まって涙ぐみ話せなくなった時に、姿の見えない監督が 彼に発話を強く促し「語らせようとする意志」に私は驚愕と当惑を覚えた(8)。また同時に強い共感も私は覚えた。私の共感は、語ってもらわなければ、決し て事実は明らかにはならないという「説得する動機」の具有に由来する。だが、このような動機をもち意志を行使する権利はいったい誰に対して、そして、どの ような時に持ち得るのか。
(8)活字になった脚本における該当個所は[ランズマン 一九九五:二六一—二]にある。
仮にこの「語らせようとする意志」を行使する権利が私には無いものとしても、なぜ相手は私に打ち明けたのだろうか。相手の「語る意志」は満たされ るだろうか。問題は、打ち明け話や内緒話という、一種の信頼を担保とする話法には限界があることだ。しかし不思議なことに打ち明け話は、一度なりとも対話 者の間に共有されると、発話する者だけの言説に留まることをやめて、解釈の共同体における通貨のように、理解の尺度になり、流通してゆく(9)。この作業 を通して、打ち明け話は、はたして対話者の共通事項から人間共通の資産に形を変えてゆくのだろうか。そして政府の真実究明委員会がとる公式的インタビュー の方法とは異なり、歴史的記憶の回復プロジェクトの人たちが、現地の人たちからなる「和解のアニマドーレス(animadores de reconciliacio'n)」を組織して、現地語による暴力についての歴史を発掘する作業の意義ついて我々は気づくのである[飯島ら 二〇〇〇:一 一—一五]。
(9)発話の流通の例としては、冒頭エピグラフのナチス兵士と同様、ユダヤ人絶滅収容所からの生存者 に関するものが数多くある。『ショアー』の中では、アウシュビッツ収容所の「特別労務班」で働き五度にわたる抹殺の危険性の中でを生き残ったフィリップ・ ミュラーというチェコ系ユダヤ人が内省的かつ自発的に語る次の発話が異色である。「また、生きているかぎり、人間には、つねに希望が残っている、と確信し ていました。生きている間は、決して希望を捨ててはならないのです。このようにして、私たちは、あの苛酷な生活の中で、毎日毎日、毎週毎週、月を追い、年 を追って、闘っていたのです。おそらくは、いつの日か、この地獄から逃げ出せるかもしれない。そういう希望を、心にはぐくみながら」(原テキストでは改行 が施してある)[ランズマン 一九九五:三一九]。特別労務班とは、同胞の抹殺遂行のために焼却炉等において労働に従事させられていた人たちで、数ヶ月後 にはおなじく証拠隠滅のために抹殺される運命にあった儚い生存の中を生きていた両義的な——加害者と犠牲者の間に位置する——存在であった[レーヴィ 二 〇〇〇:五〇—五一]。
4 十字架
なぜ自分たちの身の回りに政治的暴力が吹き荒れるのか。なぜ我々はこれほどの苦しみを受けなければならないのか、という構成的当事者たちによる質 問。なぜ彼/彼女らの身の回りに政治的暴力が吹き荒れたのか。なぜ、彼/彼女らはこれほどの苦しみを受けなければならないのか、という共感する我々にとっ ての質問。
これらの答えは無数にある。そして、すべての答えが某かの因果論ないしは言説というものを含んでいる。その現場に居合わせた者には、ほとんど理解 不能なもの(=暴力)が、その経験を想起し伝えていくという作業の中で、様々な理由を付け加えていく。因果論は、単に身の回りにおこった事象を説明し、納 得させる社会的機能だけをもつのではない。行為者である語り手は、それにもとづいて、未来にむかってなんらかの投企をおこなう。苦悩を想起し因果を語るこ とは生きるための実践そのものである。
私が調査しているその町については、マウド・オークスが一九四五—七年に調査したマヤ系先住民の世界観について記載された古典的民族誌がある [OAKES 1951; PERRERA 1993:135-153]。彼女の著作の書名『トドス・サントスの二つの十字架』にみられる二つの十字架とは、ひとつはキリスト教の、そしてもうひとつ はマヤの世界観を表象するものであると説明されている。現在(一九八七—九九年当時)でも、この町ではプリンストン大学出版局から出たペーパーバックのリ プリント版(一九六九年刊行)を所有する人たちがおり、時にそれを取り出して、本にある写真を指さしながら解説してくれることもある。だが写真にある教会 の正面の高い木製(マヤ)のものと低い白いセメント製(キリスト教)の二つの十字架は、一九六〇年代初頭には、メリノール修道会神父たちによってすでに撤 去されていた。伝統的マヤの儀礼執行者(chman)は教会から追い出され、教会内にあった聖像は撤去され、そして教会の外における聖地のひとつの遺跡に おいて儀礼をおこなうことも禁止された(10)。このようなマヤ宗教に対する弾圧によって、マヤ儀礼は公共儀礼として性格を急速に失い、わずかに守護聖人 の祭りや信徒講社(cofradi'a)のための儀礼としてあるいは個人や家族単位の相談に応えるものへと変貌していった。
(10)現在ではグアテマラ全土でこのような儀礼執行者をスペイン語訳のマヤ司祭 (Sacerdote Maya)と呼ぶことが多いが、マム語圏におけるチマン(chman)は、マヤ司祭の代表例としてよく指摘されるようなトトニカパンやチチカステナンゴで みられるアハ・キーフ(aj q'ij)とは、その社会的性格が異なる。もちろんマム語圏でもアハ・キーフやアハ・カーバ(aj kab'a)という呼称もありチマンと一口に言っても、カルゴシステムが機能している/していた共同体におけるチマンと、一九六〇年代以降、ムニシピオの 公共的職分から後退したようなこの町のチマンとは、その社会的意味はかなり異なり、多種多様なチマン像が描けることは想像に難くない。
この伝統宗教の軽視傾向は、グアテマラ全土ではじまったカトリック教会の刷新運動——アクション・カトリカ——や、アメリカ合州国由来のエバンヘ リコと呼ばれる福音主義のプロテスタント布教活動の台頭で、さらにその加速度が増していった。この町で一九七〇年初頭にはじまるカトリック教会の刷新運動 では、神父たちは在俗の教理教育者(catequista)を養成したり、土地不足に悩む農民たちにイシュカン地区への移民を薦めたり、保健普及員を養成 しかつ簡易診療所を設置した。また教会敷地内にバスケットボールコートをつくって若者の親睦とカトリック青年組織の養成に力を注いだ。
さて一九八一年初頭にはじまる紛争も八二年三月二三日頃を境として、この町にもたらされた激しい暴力は次第に変化——住民にとっては沈静化——し ていった[池田 一九九八:七二]。実際には国内難民化によってこの時期の町の人口は極度に少なく、再び暴力が横溢するといった不安が未だ解消されない暗 い時期において、儀礼執行者たちのグループが一九八二年四月一五日付で等身大の木製十字架を、教会の前と儀礼の聖地であるマヤ文化遺跡に一つずつ設置し た。このお互いに離れた二つの十字架を設置した彼らの動機は次のように語られた。この町に空前絶後の暴力が降り注いだのは、かつてあった二つの十字架が当 時から数えて二〇年前に撤去され、昔から続いてきた「父なる祖先」と「四つの山の峰の神々」が、この町の人たちに天罰を下したからに他ならない。したがっ て「二度とこのような暴力がおこらないように」と二つの十字架をそれぞれ教会の前と遺跡の聖地に再び敷設したという。しかしながら、マヤの儀礼は以前のよ うな公共性をもつ影響力を取り戻すことはなかった。すでに一九八二年、エバンヘリコの別の宗派が、以前よりもカトリックや伝統宗教に対するより攻撃的な布 教をはじめていた。その翌年の守護聖人の祭りの時期に、カトリック教徒の人たちが宗教行列をしていた時に、それを非難したエバンヘリコの在俗説教師 (predicador)と諍いになり、彼をリンチにかけ重傷を負わすという事件もおこっていた。複雑なことに、この被害者はカトリック神父たちが一九七 〇年代初頭に起こしたイシュカン地区への開拓移民に参加し、七六年にエバンヘリコへと改宗し、八二年に虐殺を逃れてメキシコ領内を三ヶ月間ジャングルの中 ——「難民キャンプはまだなかったのだ」(本人の弁)——を彷徨ったあげく、同年に夢見による啓示を受け説教師となり、この町に福音主義を布教する使命を もって帰還したばかりだった。
紛争によって撤退したメリノール派の神父が去った後、一九八〇年代を通して教勢を保っていたカトリックも九〇年代に入ると急速に影響力が衰退し、 エバンヘリコが共同体内で一定の地歩を築くようになる。この時点でマヤの伝統的儀礼とは、実質的に個人的呪術としか見なされなくなった。しかし、全国レベ ルでのマヤ運動の展開、とくに西部高地中央でのマヤ司祭による儀礼復興運動が進むにつれて、儀礼執行者の共同体における公共的性格を復活させようとする動 きが出てきた。一九九七年当時、八二年製の十字架設置者の一人で高齢かつ著名だった儀礼執行者にかわって、最強の呪術をもつと人々に信じられていた中年の 儀礼執行者が畏敬を集めつつあった。彼は、九八年初頭に町の人々に対して教会の前に新たな十字架をつくろうと提案し、それまでばらばらに活動をしていた儀 礼執行者を組織して、町の人々から寄付金を募る運動を開始した。同年七月には、八二年製の古い十字架を取り去り、新しい二つの十字架——それらは以前とは 違ってひとつは巨大で他のひとつは腰の丈ほどのもので互いにぴったりと密着している——が建てられた。しかし、十字架がある教会前の広場は、すでに土曜ご との定期市の際のトラックやバスの駐車場と化し、家畜を繋いだり、時には小便をかけるものもいた。とうとう十字架には小さな注意書き「この十字架を汚すも のには罰金が科せられる」が貼られる始末である。中年の儀礼執行者もまた、もはやこの世にいない。人々の説明では、彼の呪術力ゆえ人々が儀礼の執行をあま りにもたくさん依頼するので、そのための飲酒による中毒——儀礼では供犠のために蒸留酒を大量に消費する——で死んだという。
5 非難
三六年間におよぶ内戦が終わり四年が過ぎてもグアテマラに暴力はなくならなかった。これは紋切り表現だが真実だ。一九九八年四月のファン・ヘラル ディ司教の暗殺をはじめ、労働運動や人権擁護運動の関係者への度重なる脅迫や殺害。九九年五月の国民投票における先住民族権利を憲法改正に盛り込む案の否 決、そして二〇〇〇年一月右派のFRG(グアテマラ共和戦線)のアルフォンソ・ポルティジョ大統領とエフライン・リオス・モント元将軍の国会議長就任。グ アテマラの政治について国内外の人権擁護派を自認する者には「憂慮すべき事態」は変わらぬどころか悪化していると映るのである。人権派にとっての精神的ス トレスの原因は、このような異常事態が続く社会的理由が「分からない」ということである。他方、西部高地での先住民を中心とする人々と話せば、その「憂慮 すべき事態」の指示内容は変わる。貧富の差の増大、物価の高騰、犯罪とくに強盗、誘拐、殺人の増加がそれであり、人々の不満はこれらの原因である「悪者た ち」を取り締まり厳罰をくだせない政府の「無責任さ」にぶつけられた。
一九九九年の大統領選挙キャンペーンでは、グアテマラの主要なメディアは右派政党FRGと、それまでの中道右派で政権政党だったPAN(国民行動 党)とはほとんど互角だと報道していた。また実際に、その年の暮れにあった最初の投票では双方の候補者は過半数に足らず、決戦再投票の際には投票率の低さ もあったがFRG候補のポルティジョが圧勝し、FRGは初めての政権与党になった。
私はグアテマラの三つの先住民地域でさまざまな人に選挙のことを聞いたが、FRG支持者以外の人を含めて、すべての人がFRGの勝利を予告してい た。その理由は、異口同音に「FRGはリオス・モントの党」であり「グアテマラは強い政府を求めている」というものであった。そこにはPANが進めてきた 地方分権や公共機関の民営化への非難が込められていた。もちろん、それに反射的におこなう私の次の質問も紋切り型のものだ。「どうしてたくさんのインディ ヘナを殺した将軍をインディヘナ自身が支持するのか?」ところが、今度は人々の返答は多様である。ある者は沈黙する、別の者は「わからない」と言う。ある 者は「我々のところではそうでは(=将軍の軍隊が虐殺し)なかった」と言い、別の者は「軍部が先住民を洗脳しているから」「彼はグアテマラのために実際に よく働いている」「他に誰がいる」等々、と返答した。
この町には地元のNPOの語学学校(PLEM)がある[池田 一九九七]。受講者はマム語(マヤ諸語のひとつ)とスペイン語のバイリンガルの先住 民家族の家に下宿し学校ではスペイン語を学ぶ。先住民族の生活にも親しめるという普通では味わえない民族観光もできる利点があり、そのために人気を博して きた学校だ。一九九七年には、この学校で働いていた講師が独立して別のNPOの学校(EENA)を創設し、同様の教育をおこなっている。この町の住民もま た虐殺の経験をもつために、スペイン語の課外授業として「この町の歴史と文化を学ぶ」カンファレンスが夜間に行われる。老若男女の外国人受講生のうち、中 高年でかつ北米から来た人たちは、グアテマラにおける先住民への虐殺の歴史的事実についてある程度知っており、このカンファレンスの討議に積極的に参加す る。このカンファレンスのボランティア・コーディネーターをしていた私も含めてこれらの人たちは人権擁護派であることを自他共に許す。一九九九年当時もっ とも沸騰した話題は、「人民の味方であるはずのゲリラがなぜこの町で暗殺行為に加わることが多かったのか?」という歴史的な事情[池田 一九九八]と、 「どうして人々はFRGを支持するのか?」という臍を噛むような難問についてである。
私は自分が知悉するかぎりの情報を動員してこの難問について説明するが——勿論私自身にも全体像は皆目分からない——いくら説明をしても、結局、 彼らには合点がいかなかい。それは、結局のところ、その事態についてある種の説明を与えても、人権派にとって快く思わない状態(=不満)は解消されないと いうことだった。このような解消されない不満は、不幸なことに、一般住民へのルサンチマンとなる。例えば、同じタイトルの暴力の講義に以前参加したことの ある受講生からは、「講師はちょっと右傾化したのではないか」という非難や、ゲリラによる処刑のことを軍部による完全な謀略としたり、単に「ゲリラが悪い ことをするとは信じられない」という反応を示す人もいた。内戦中において軍隊が反ゲリラキャンペーンとして盛んに「彼らは破壊者 (subversivos)の野獣である」というプロパガンダを繰り返していたが、私には人権派のルサンチマンは、軍隊の反ゲリラキャンペーンの「歪んだ 鏡像」として映る。
このルサンチマンは同時に私自身のものでもあった。これを解消すべく、私は当時のFRGの選挙運動キャンペーン当事者や、「恐ろしさに抗して」 ——私は一九八〇年代初頭の当時の将軍の軍隊の残虐性と九八年当時の党派イデオロギーを同一視するという錯認をしていた——FRGの国会議員候補に面談し たり集会に参加した。その際に、ラディノ(あるいはクリオージョ)の候補者が先住民に対して親切に発話する行為を見れば、それは人種主義のカモフラージュ として見え、「ひとつの国民になる」という主張を聞けば、それは「国民統合を妨げる」先住民運動への非難として聞こえ、「強い国」というフレーズは全体主 義的な軍事国家と、それこそ偏執的に私は聞いてしまった。
町でのFRGの大統領選挙キャンペーンの幹事を務める先住民の友人に、二人きりになった時、「私は信頼する君がFRGを支持する理由が依然として わからないのだが」と勇気を出して聞いてみた。彼の口から出たのは意外な、そしてアイロニーに満ちた次のような趣旨の内容の言葉だった。彼は毒づくほどで はないにせよ、私にたいして、どうしてそんなことがわからないのかといったニュアンスの口ぶりだった。
彼の言を要約すればこうである。リオス・モントが先住民に対しておこなったことは彼自身も理解している。しかしながらFRGは現在、大統領選挙に 勝利しようとしている。この町で同じ党派の町長が当選すれば、ネポティズム(縁故贔屓)ゆえに中央政府からの援助を期待することができる。彼の次のような 言葉は私の胸に突き刺さった。「長い間『インディオ』と呼ばれ蔑まれてきた我らの町に、実際に中央政府からの利益を誘導するためFRGを支持することが、 なぜそれほど悪いのか。君も知っているように、リゴベルタ・メンチュは先住民の苦境を訴えるために、支配者の言語たるスペイン語を学んだ。我々も同じよう にしているのさ」。翌年、彼の予言通りFRG派の町長が誕生した。
6 人類学者から人類学者へ
人類学者のミルナ(仮名)がマサテナンゴ市サマヤックにいるエスピリトゥイスタ(espirituista)つまり交霊術者のところに出かけたの は、一九八〇年代の中ごろだという。というのは、当時は「とても暴力的(muy violento)」な社会状況であり、同じ職場の同僚で、当時二六歳の秘書が「誘拐」されたから、その消息を著名な交霊術師に訊ねに行こうということに なった。どうして「行方不明」ではなくて「誘拐」と言えるのでしょうか、と私が質問したら、ちょうど彼女が失踪した時に目撃者がいて、数人の男が彼女を自 動車に押し込め連行したからである。
家族の必死の捜索にもかかわらず、誘拐された彼女はいっこうに戻ってこなかった。ミルナは、この失踪した秘書について手がかりを得るために、サマ ヤックにいる著名な女性の交霊術者のところに職場の同僚とともに訪れた。ミルナは、探している秘書が「誘拐」されたということを隠して、この女性交霊術者 に相談したが、交霊術者はすぐに失踪女性が軍隊に誘拐されていることを指摘した。ミルナは、交霊術者に相談している間に交霊術師自身が憑依し始めているこ とに気づいた。交霊術者の声色が変わり、やがて「彼女」が呻きながら「お、お……私は痛い」と言い始めたのだった。そして「皆さん、私を探すのはもう止め てください……私は、もう遠いところにいます……私はもう休みにつきました……」と途切れ途切れに話をするようになったという。その時にはミルナ自身の表 現によると「(彼女は)研究者でも人類学者でもなくミルナ自身その人」に戻って、涙を流しながら聞いていたという。
犠牲者の父親は、彼女の失踪後、軍隊の事務所にある調査申請記録簿に娘の名前を記載し、娘の写真を拡大してポスターにして、さまざまなところで彼 女の消息を訊ねていたが、とうとう娘の消息を知ることなく、死んでいったという。ミルナによると、彼は失踪した娘を探すことで、命を縮めて死んでいったの である。ミルナは、犠牲者の父親が死ぬまで、このエスピリトゥイスタへの相談とそこで起こったエピソードを結局彼に話をすることはなかった。「話すことな どできるものですか!」
これが、サマヤックにおけるミルナと交霊術者との出会いであり、彼女は、グアテマラの各地で起こったこの種の話をたくさん知悉しているが、私と話 した現在(一九九九年初頭)でもなお、この事実をグアテマラ人として公表することには、恐れ(miedo)を覚えるという。だから、外国人である私が、彼 女の経験も含めた、この種の話をどしどし発掘して、より多くの海外の人に伝えてほしいと言った。このような悲劇が、二度と起こらないように。
文献目録
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(いけだ・みつほ 熊本大学文学部:発表当時——現職(2005.Apr.1〜)、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター アート&フィールドデザイン部門教授)