グアテマラ西部先住民共同体における開発と文化
Development and Culture in Indigenous
Communities of Western Guatemala: Ethnic tourism, migrant labor, and
identity
この発表は、グアテマラ共和国ウエウエテナンゴ県のクチュマタン高地のマヤ系先住民共同体における、社会と経済の発展にかんする人々の考え方 と彼らのアイデンティティとの関わりについての報告です。
この共同体を訪れるエスニック観光客の近年の急速な増加とそれがもたらした社会的効果については昨年の民族学会第31回研究大会で紹介しまし た。そこで今回は、人々の経済活動に関するさまざまな言説に焦点をあて、人々が社会と経済発展についてどのように語っているのかについて、この町の3人の インディヘナを紹介しながら考察してみたいと思います。
なお本発表の資料になった現地調査は、平成8年度文部省科学研究費補助金(国際学術)の交付を受けました「グアテマラ観光地における文化創造 と階級・人種・性差意識の民族誌」(研究代表者:太田好信)の成果発表の一部であります。
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グアテマラ共和国ウエウエテナンゴ県のクチュマタン高地西側の谷間にある標高1,000メートルから3,500メートルに位置している人口約 2万人の自治体(municipio)は、ここに住むマヤ系インディヘナの生活を見にくる外国人観光客にとってはよく知られています。 面積およそ300平方メートル、高度差が2,500メートルもあるこの地域にやってくる観光客は、正確には人口約3,000人の役場がある町だけにやっ てきます。現在この町には4つの宿屋(旅館)と観光客相手の語学学校がありますが、年間四千人以上の宿泊観光客が滞在しすると推定されています。
この町がなぜ、そしてどのように民族観光の目的地として発達してきたか、という疑問に答えるには、この町の政治経済的背景を押さえておく必要 があります。
この町は、1945年の時点ではすでに太平洋岸のプランテーションへの出稼ぎ労働が行われており、外部経済との深い繋がりが形成されていまし た。
出稼ぎ労働は、プランテーションの所有者または代理人と密接な関係をもつ土地出身の労働周旋人──"caporales" (habilitadores)──によって仲介されます。プランテーションへの移動は1950年代に主要幹線道路からの支線の開通以来格段に便利にな り、その規模も大幅に増加しました。出稼ぎ労働には1960年代の中頃からは隣県のコーヒー農園へと出かけることも加わりました。さらに1970年代に入 ると、同じ町内の低地でもコーヒー栽培が始まるようになり、賃労働のオプションは拡がり、太平洋岸低地のプランテーションだけに特化する傾向は減少しまし た。
1981年の初頭「貧民ゲリラ軍」(EGP, Ejercito Guerrillero de los Pobres)がやってきて、同じ年の夏まで町を占拠しました。その後、ゲリラ掃討のためにグアテマラ国軍がやってきて、1982年3月23日のリオス・ モント将軍のクーデタの直後まで駐留しました。ゲリラもグアテマラ国軍の兵士たちも、査問、拷問、人民裁判や公開処刑、虐殺などの一連のテロリズムを日常 的な統治手段としたため、多数(推計では約200名)が殺害され、多くの人々が周辺の山林に潜んだりプランテーションへと移住したり、難民化しました。そ のため町は一時ゴーストタウンと化して、あらゆる社会経済活動が停止しました。
この町の終末論的な危機から徐々に人々が社会的活動を再開する過程のなかで、1980年代中頃以降の観光客の増大、モハード(mojado, 英語wet back)と呼ばれるアメリカ合衆国への移民労働の増大などで経済状況は今日では活況を示するようになってきました。
私の発表は、この経済的活況を3人のインディヘナたちが、どのように語っているのかということに焦点があてられます。
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さて、ここで紹介する3人のインディヘナというのは、小学校教師のミゲル、宿屋の女将のドミンガ、そして土産物店店員のベンハミン──すべて 仮名──です。
【教師ミゲル】
小学校教師のミゲルは30歳になりますが、この町のNGOプロジェクトである観光客向けの語学学校の創設メンバーで、町の経済的成長に並々な らぬ関心をもつ野心家です。彼によると、無学で文盲の父の時代から次第に初等教育の整備を通して町が開明的になってきたといいます。彼は教育の恩恵に預か ることが、町の発展にあると信じてやみませんが、いまだ教育の実権は混血のラディーノにあり、バイリンガル教育の不徹底にみられるように、インディヘナの ためのインディヘナによる教育という理念の達成には道のりが遠いと指摘します。非営利の語学学校の収益は、町の社会活動に還元されていると主張するミゲル は、住民の米国への労働移民には批判的です。それは人々を金銭への欲望に駆り立て、家庭のモラルを崩壊させる原因となると考えているからです。
ミゲルの弟は、大学での政治活動中に軍からの脅迫を恐れてこの町の女性とともに米国へ渡航し、そのまま定住しましたが、兄は政治的理由という 渡航に対してもアンビバレントな態度を隠し切れません。彼は、この町に住み続け、インディヘナとしての自覚をもつことが重要であるといいます。ミゲルの意 見は、私と知り合った10年前にくらべて、より強固になったように思われます。そして、そのようなインディヘナの自覚は、観光客から無自覚に文化的侵略を 受けることではなく、観光客と仲良くつきあうことで達成されると考えます。ミゲルとその妻は、比較的裕福で、最近小さな宿屋を開業しました。しかし、この 町の最も人気のある宿屋の女将であるドミンガが商売を妨害していると、私に不満を漏らしました。
【旅館の女将ドミンガ】
さて、ドミンガはこの町でもっとも著名で、町の人々から力のあると目されている言わばファーストレディです。彼女は2年前の調査当時39歳で した。ドミンガは髪結いの亭主とともに、この町で観光客にもっとも有名になった宿屋(旅館)を5年間にわたって経営しています。彼女は文盲ですが、町の人 々にも外国人観光客にも雄弁で、また最近では宿屋で儲けたお金をさまざまな町の公的活動に寄付するようになりました。知名度の向上は、その結果です。
彼女はなかなかのアイディア・ウーマンで、それまで薄暗い部屋を間貸しするだけであったこの町の旅館の形態を、見晴らしのよい場所に立地さ せ、外国人向けに窓を大きくしたりバルコニーをつくったり、それまで観光客は道から覗き込むことしかできなかった、インディヘナの主婦の伝統的な機織りを 旅館の中庭で実演し販売をするという工夫をおこないました。彼女によると、この町の女性の地位向上や困窮のために米国に渡米する若者を引き留めておくため には、自分のように観光客を上手にもてなすことが大切だと考えています。彼女の一連の活躍は、この町の人たちの観光客の取り扱い方に革命的変化をもたらし つつあります。そのため、町の外で起こったリゴベルタ・メンチュのノーベル平和賞の受賞という出来事、NGOが積極的にすすめるインディヘナの女性の地位 向上運動などの、一連の女性の社会的進出のイメージの渦中にドミンガを位置づける向きもあります。突然の経済的成功を成し遂げたのがインディヘナの女性で あったということは、とかく町の噂になりました。それゆえ、この町の新興の女性企業家となったドミンガは、付近の同業者からさまざまな中傷を浴びることに なりました。もっともその中には、強引な客引き、協同組合による運営と詐称する土産品販売、観光客に対して語られるこの町の女性の歴史の正統化 (canonization)などという、かつてこの町の人々がおこなったことのない特異な活動であるという事実にもとづいての非難も含まれています。
【土産物店員・ベンハミン】
町おこしに深くかかわったミゲルとドミンガに対して、土産物店の店員であるベンハミンは、この事態をより冷静に分析しているように思えます。 33歳の男性ベンハミンは、現在の仕事に満足しているということもあるでしょうが、多大の資金とリスクを犯して合衆国に渡航し一発当てることに興味をもち ません。また、お金を儲けたいのは誰もが抱く自然な欲望だとし米国への渡航者を非難することもありません。ただ、仮に一時的にも留守にすることで、家族が 崩壊することを彼は危惧します。彼は副業として別の業者から委託された織物の土産物の仲買をしています。ベンハミンは、仲買のプロセスの中で極めて細かく かつ思慮深い利潤の計算をおこない、同胞の売り手の織物の買い取り価格を厳しく値踏みします。他方、彼は、自分の仕事は労働以外に売るものがない「貧しい 人々」のために十分貢献していると主張します。ベンハミンが旅館の女将であるドミンガに対して怒るとき、それは彼女が金を儲けていることにあるのではな く、「貧しい女性や未亡人のため」と称して自己の利益をむさぼることにあります。彼の話を総合すると、金儲けに上手い話はない、投企話に安易に乗ることで はなく、薄利でも着実に儲かる仕事をやることが大切だということになります。それは彼の日常の経済的実践と全く矛盾することがありません。
経済開発とは、単に観光客のこの町への訪問のみならず、国内外の援助団体を共同体に受け入れたり、民芸品の流通を通して町の人たちの産業生産 が向上することや、外国で働いた金銭をこの町に還流させることであります。以上3人の人物を紹介したのは、そのような経済開発の具体的な事象を通して、他 者に対してコメンタリーを行いながら、人々は自己のアイデンティティのあり方を再構築あるいは模索していると、私が理解したいからです。
この町の経済開発をめぐる状況を整理して、この発表をしめくくりたいと思います。
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過去10年余りの町の経済的変貌の大きな要因は、ドルマネー流入にあるように思われます。
米国にいるこの町出身の移民労働者達が送金する額は、彼らの合衆国における生活水準によってまちまちですが、一回におよそ数百ドルが送金され ているようです。この額は、グアテマラ一人あたりの年間所得がおよそ三千米ドルであることを想像すれば、その経済影響力の大きさがわかります。1990年 以降、移民労働者数は急増しているので彼らが出身家族に送金するドルマネーの総額はかなりなものになります。人々はブロック造りの2階建ての家を指して 「あの家の息子は今アメリカで働いている」と異口同音に説明しました。2階建てのブロック造りの家は、リスクを犯してでもアメリカへ渡航することが、富を もたらすのだという証明のあかしであり、人々を経済的羨望に駆りたてる広告塔でもあります。
資金の流通により社会が活性化し、より有望な経済活動に投資することが、富を増殖させるというイデオロギーは、この町を1980年代初頭の暴 力による破壊から立ち直らせるために、グアテマラ国内外からやってきた援助機関によって、急速に普及していきました。私の解釈は、このような援助機関が、 共同体の外部との経済的節合に関しての寛容性(tolerancy)を引き起こし、米国へのパスポートなしでの渡航を周旋するコヨーテを介して、合衆国で 働くことを急速に受容するための地均しをしたということです。流入したドルマネーは家を新築することだけではなく、商売を始める、トラックを買うなどのさ まざまな投資行為を引き起こし、これが経済の活況に拍車をかけたということです。ここでは紹介を省略させていただきますが、このような外部世界との節合に よって社会が発展してゆく現象は、定期市にみられる商品の変化や、織物を中心とする民芸品に関する人々の解釈の中にもみられます。
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この町の人々が、彼らと世界との関係について私との対話の中で言及したのは、外部世界との「節合」(articulation)が、どんどん 緊密になり、誰もその自動運動からは逃れることができないという現実についてでした。58歳の男性は、コーヒーを例にとって、次のように言いました。
「今のコーヒーの収穫はこの町から、県庁のある町へ、そしてグアテマラの首都へ、さらには世界に広がってゆく。我々の収穫は世界へと鎖 (cadena)のように繋がっているのだ」。
援助団体が提供する計画への参加や海外労働移民といった一連の出来事を(1)家族の家計維持のために、彼らが主体的に選び取った新たな戦略と 読むのか、(2)世界システムに節合する際の共同体の崩壊やダイアスポラのプロセスとしてみるのか、という一連の学問的回答は、彼らへの我々の関わりにつ いての意識によって、変わりうるでしょう。そして、彼ら自身の口から、我々に答えを要求する声はますます強まりつつあると言っても過言でもありません。
先の男性は、実際私との別れ際に次のように言いました。
「自分は60歳前だが、労働者としてまだまだ体力があり、もう一花咲かせたい。君が日本に帰ったときに、グアテマラ人でも働ける就職口を探し てくれないだろうか」と。
(ご静聴ありがとうございました)
クレジット:池田光穂、第32回民族学会*研究大会分科会、福岡市、1998年5月24日の発表原稿,* 現在の名称は、日本文化人類学会です
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「ウェウェテナンゴ高地」産(実在せず、クチュマタン高 地を 指す)
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