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グアテマラにおける政治的暴力と人類学:資料編
Copyright Mitsuho Ikeda, 2001, 2002
本ページは学術雑誌(→池田光穂:政治的暴力と人類学を考 える――グアテマラの現在――,『社会人類学年報』,第28巻,Pp.27-54,2002年8月[業 績リスト])の論文に収載できなかった、私がグアテマラの人たちから直接お聞きした政治的暴力に関する諸事例集です。
――神話的暴力は、法的暴力あるいは国家暴力であり、それらは人間世界を腐敗させる(今村 1998:326)。
――また、生きているかぎり、人間には、つねに希望が残っている、と確信していました。生きている間は、決して希望を捨ててはならないのです。このように
して、私たちは、あの苛酷な生活の中で、毎日毎日、毎週毎週、月を追い、年を追って、闘っていたのです。おそらくは、いつの日か、この地獄から逃げ出せる
かもしれない。そういう希望を、心にはぐくみながら。フィリップ・ミュラー(1)
諸事例の紹介
【事例1】誘拐事件(トトニカパン県)
【事例2】コスタでの検問(1970年生まれ、男性、サ ン・マルコス県)
【事例3】強制徴兵(1965年生まれ、男性:トトニカパ ン県)
【事例4】犠牲者の父親(ウェウェテナンゴ県)
【事例5】ミルナと交霊術者(グアテマラ市)
番外編
Copyright Mitsuho Ikeda, 2001
Copyright Mitsuho Ikeda, 2001
ルカス・ガルシア将軍の時代(1978-82年)の頃、Sの家の近隣に住む親族の男Aが午前11時ごろ 軍隊に誘拐された。Aはゲリラ活動には参加したことがなかった。Sの一族は彼を救出をすべく車をシェーラに走らせた。行った先は軍隊の党派MLN(国民解 放運動)のナンバー2であるM・Sの関係者の家である。そこでAの誘拐について彼らがまったく身に覚えのないことであることを訴えた。この軍関係者は、そ の話を聞き、早速首都の軍本部に電話してAの誘拐について問い合わせた。Aの身柄は首都の軍関係施設に拘束されており命に別状はなかったが、首都に出向い て事情を説明しなければならなかった。Sら一行はさらに車を飛ばして首都の軍施設にいって、Aの身柄を引き受けた。その際にわかったことは、Aの町で誘拐 された者たちのリスト(8)にはMLN支持者であるA一族が含まれていたことである。彼らが得た真相は、Aの誘拐に関する情報を提供したのは同じ町内の別 の右派政治党派PID(民主制度党)の支持者によるものだった。この町内ではPID支持者の一族とMLN支持者であるAの一族は敵対関係にあり、PIDの 支持者はAがゲリラのシンパサイザーであるという情報を軍の諜報機関に垂れ込んでAの誘拐をさせたということだった。
【事例2】コスタでの検問(1970年生まれ、男性、サン・マルコ ス県)
私の父親は、C町からシェーラで商品、服や靴、そうプラスチック[ビニールのこと―池田]製の靴などを 仕入れて、コスタで売り歩いていた。私が15歳の頃(1984年)、父親が一緒に商売について来るかとたずねるので、私は彼についてゆくことにした。朝4 時に起きて、シェーラに出て商品を仕入れコスタ(太平洋海岸部―プランテーション地帯)、主にエスクイントラ県とかそのあたりに出て、通りや家々をたずね て売り歩くのだ。その頃でも、軍隊(pint)の検問はとても厳しかった。みんな全員、バスから降ろされて、身体検査をして、荷物も全部開けられて検査さ れるのだ。検査が全部終わっても、兵隊は上官に命令されてもう一度検査することもあった。乗客に髭を伸ばしている者がいたり、荷物から緑色のシャツ――ど うしてだか分かるだろう? ゲリラが着ているだろう緑色のシャツ(txa'x kamishj)は――が出てきたら、もうそいつはおしまいさ。目の前で、タタタタタタ……。そうだ、そのとうり本当に殺されたんだ。乗客は、それをみて びっくり。みんな下をうつむいて臆病にされるがままになっていたんだ。検問は軍隊だけではなかった。ゲリラがバスを止めて検問したこともある。ゲリラたち は、バスを止めてから、同じようにして乗客を全員降ろした。バスが止まったところには死体がたくさん横たわっていた。乗客が全員降りてから、リーダーと思 われる男が口火を切って次のようなことを言った。“私たちがこのバスをとめた理由を今から説明する。みなさんは軍隊の検問に出会っただろう? 軍隊は生き ている人びとの顔にナイフを突きつけて頬をさす。指や腕を切り落とす。人を生きたまま火にかける。彼らは残虐なことをして人びとを苦しめているのだ”と 言って、横たわっている死体を皆に見せた。死体はどれも、血だらけで、顔だけでなく、身体のいろいろなところに傷があり血がしたたり落ちていた。それは見 るも無惨なものだった。リーダーは「このような理由から我々は闘っているのだ。だから皆さんも我々と一緒に闘ってほしい」と言った。
【事例3】強制徴兵(1965年生まれ、男性:トトニカパン県)
この時期[1985年―池田]は強制徴兵制がひかれていた時期であり、タパチューラから帰る道すがら2 回もバスの中に兵隊が乗り込んできて、無理矢理に徴兵するという場面があった。最初は、椅子のしたに隠れ、匿ってもらったおばさんに「若いのはいないよ」 と叫んでもらった。もう一回はクアトロ・カミノで徴兵があったことを事前に教えてもらった。それを知ったバスの乗客の若者たちは、クアトロ・カミノに着く 前に降りて、山陰に隠れながらトトニカパン行きのバスが通る道まで迂回して、難を逃れた。トトニカパンに戻った時も、ちょうど現在のここの建物[インタ ビューが行われたところ―池田]に最初に舞い戻って、走りながら実家に駆け戻った具合だった。
(この年輩の男性は私と昔の町の様子について話し合っているとき、突然以下のような話をはじめた)
彼らは山からやってきた。彼らは付近を焼きつくすことから始めた。R村は焼かれた。たくさんの、たくさんのトウモロコシが焼かれた。畑を耕す桑が焼かれ
た。あらゆるものが焼かれた。
彼らは町にやってきて、人びとに「家の中に入っておけ」と命じた。私は当時、カトリック教会の説教師だったので家の中で蝋燭をともして、何事も起こらな
いように、人びとが死なないようにと祈り続けた。
1982年、私の息子は小学校教師をしていたが、彼らに殺されてしまった。息子を含めて5名の男がA町まで連れて行かれて殺された。息子の亡骸には、銃
弾が額から入って後頭部に抜けていた。左胸がマチェーテのようなものでえぐり取られて、その中が焼かれていた。右足のふくらはぎの皮が左の胸に張り付いて
いた。歯はなくなっていた。たぶん殴られたからだろう。兵士達は、自分の息子がゲリラだったと言った。なぜなら、息子は教師で給料が少ないことに文句を
言っていたからだと説明した。
二台のバスが焼かれた。M村ではD社のバスが、このT町ではV社のバスが。今でも墓場の前に、バスの残骸が残っているだろう、あれがV社のバスだ。
[軍隊の]兵士はやってきて、人を殺す。そして山からやってくる連中(tjaq'
k'ul[=ゲリラ])が来て人を殺す。山の連中はラディノの役人Dを殺した。彼は役場で死んでいた。兵士も山の連中も同じだ。人を殺す。兵士たちは、人
を教会の中にたくさん押し込めた。牢屋に入れて18人もの男を殺した。そして、やがて静かになった。
人類学者のミルナ(仮名)がマサテナンゴ市サマヤックにいるエスピリトゥイスタつまり交霊術者のところ
に出かけたのは、1980年代の中ごろだという。というのは、当時は「とても暴力的(muy
violento)」な社会状況の中で、同じ職場の同僚で、当時26歳の秘書が「誘拐」されたという。どうして「行方不明」ではなくて、「誘拐」と言える
のでしょうか、と私が質問したら、ちょうど彼女が失踪した時に目撃者がいて、数人の男が彼女を自動車に押し込め連行したというからである。
秘書が誘拐されて彼女の家族は手をつくして探したが彼女はいっこうに戻ってこなかった。ミルナは、この失踪した秘書について手がかりを得るために、サマ
ヤックにいる著名な女性の交霊術者のところを、他の職場の同僚とともに訪れたという。ミルナは、探している秘書が「誘拐」されたということを隠して、この
女性交霊術者に相談したが、交霊術者はすぐに彼女が誘拐されていることを指摘した。ミルナは、彼女に相談している間にエスピリトゥイスタが、憑依している
ことに気づいた。交霊術者の声色が変わり、やがて<彼女>が呻きながら「お、お・・・私は痛い」と言い始めた。そして「皆さん、私を探すのはもう止めてく
ださい・・・・私は、もう遠いところにいます・・私はもう休みにつきました・・・」と途切れ途切れに発話するようになった。ミルナの表現によると、彼女
は、その時には「研究者でも人類学者でもなくミルナ自身その人」になって、涙を流しながら聞いていたという。
犠牲者の父親は、彼女の失踪後、軍隊の事務所にある調査申請記録簿に娘の名前を記載し、娘の写真を拡大してポスターにして、さまざまなところで彼女の消
息をいろいろなところに訊ねていたが、とうとう娘の消息を知ることなく、死んでいったという。ミルナによると、彼は失踪した娘を探すことで、命を縮めて死
んでいった。ミルナは、犠牲者の父親には、このエスピリトゥイスタへの相談の内容を一切話はしなかった。「話すことなどできるものですか!」。
これが、サマヤックにおけるミルナと交霊術者との出会いであり、彼女は、この種の話をたくさん知悉しているが、現在(1999年初頭)でもなお、グアテ
マラ人として公表することには、「恐怖」を覚えるという。だから、外国人である私が、この種の話を発掘して、より多くの海外の人に伝えて、このような恐怖
が、二度と起こらないように、知らしめてほしいと話終えた。
【事例6】暴力の歴史──ラディノ教師Pによる講義:ヴァージョン 1
(1996年9月24日の講義)
私が今から話すことは政治状況についてです。聴講生の皆さんの中には、自分はそのようなことは聞きたくないという人もいるかも知れませんが、現実にあっ
たものであり、そのように聞いてほしい。また私だけのモノローグに終わることなく、皆さんとのダイアローグにしたい。
私はH市の近くの出身で、過去15年間小学校の教諭として働いてきました。これから皆さんにお話するのは、自分の経験であり、この土地の歴史です。
1981年8月私はR村の小学校に務め始めたばかりでした。当時20歳で自分は生活のために生きてきました。1981年当時全国で25,000人の教師
が職がない状態にありましたので、私はR村への赴任を喜んで受け入れることにしました。
その日、ゲリラがやってきて小学校の壁にペイントで次のようなスローガンを書きました。「ニカラグア解放万歳!(!
VIVA NICARAGUA LIBRE !
)」。しかし、村の人々はそのようなものを見ても何のことかほとんど理解できなかったのです。1979年ニカラグアが革命によって右翼の独裁政権を倒した
のです。
ゲリラたちは午前8時にやってきて小学校の教師たちを集めて、我々は3時間にわたって話し合いました。ゲリラたちは、自分たちは住民たちに強制するよう
なことはしない。自分たちの道を歩むのだと言いました。私は10月には学期が終わってH市に帰りました。
1982年1月2日R村に戻ったときには、大きな問題がありました。多くの人たちが村を去っていて、夜になると軍隊はスポットライトを照らして、人々が
どこに行くのか監視していました。
授業を終えて学校を出ると、バスが焼かれていて、ブーン、ブーンと大きな音が10発ほど聞こえました。爆弾ではなくバスのタイヤが破裂する音でした。1
人の教師がこう言いました。「T町はもう終わりだ(
T. ya se
termino')」。交通手段がなかったので、教師たちはC部落というところまで18キロを歩いていきました。ゲリラの仕業か、途中には道が通れないよ
うに妨害物が置かれていました。
2月14日兵隊たちはヘリコプターで乗り付けて多くの兵隊たちがやってきました。ゲリラたちが、小学校の校庭にヘリコプターが降りれないように、いろい
ろな障害物を置いていましたが、彼らはトウモロコシ畑に降り立ったのです。これを見たとき、もうこれは戦争だと思いました。
兵隊たちはたくさんの人々を殺し、私たちの同僚Yも殺されました。彼はA町まで連れていかれながら、拷問を受けながら殺されたのです。
3月22日兵隊たちでいっぱいだったプエブロから多くの村々に兵隊が派遣されて、村々の男たちを教会に集めてくるようにと通達が発せられた。しかし、遠
くにあるZ村は、村人たちへの連絡が遅れたために、男たちが教会に到着する時間が遅れ、その報復措置として、その村では虐殺が行われました。
兵隊たちは100人(ママ)ほどの男たちを教会の中に閉じこめて火をつけると宣言しました。
3月23日クーデターがあり兵隊には召集がかかり、幸いにも教会の中に閉じこめられた人々は解放されました。
政権が変わっても軍隊は同じように暴力を行使しました。R村においても25軒の家が焼かれた。クーデ
ターをおこしたリオス・モントは「F.F.」つまり銃とフリホール(fusiles
y
frijoles)という戦略をおこないました。これは市民パトロールという制度を実施し、住民たちに自警団を作らせ、銃を供与し、それと同時に食料や家
屋の再建に必要なトタン板を配給するものです。
市民パトロールという制度は極めて厳しいもので、召集に10分遅れただけで、家を急襲し、破壊し、応じなかった男を一晩中、木に縛り付けておくというこ
とをおこないました。召集に遅れた者は「敵」と接触していたという嫌疑をかけられました。
軍隊たちは住民への殺戮を続けた。例えば、兵隊たちは住民を殺害した後に、EGP(貧民ゲリラ軍)のプ
ロパガンダのビラを死体のポケットにつっここみ、虐殺を正当化する理由にしました。また軍隊はさまざまな略奪をおこないました。例えば、P旅館に教師たち
は寄宿していましたが、そこに木材やテレビのアンテナなどが置かれてありました。そこにある日、空の軍用トラックがやってきて、彼らが帰る時には、木材や
テレビのアンテナがトラックの荷台に積んでありました。略奪は、家庭内にある細々としたもの、テレビやラジオにも及び、その行動はとても組織的でした。
1982年8月には、もはや誰も通りを歩く者はいなくなり、何か動いたと思えば、それは緑色(兵隊の迷彩服)をしたものだった。兵隊たちは住民たちにさ
まざまな協力を要請したが、それは全く強制といっていいものだった。例えば、兵隊たちは教師たちにサッカーの試合を申し込みましたが、それを我々は最初断
りましたが──食べ物もなく体力もなくそれどころではなかったのです──兵隊たちは参加しなければならないと命じて、無理矢理サッカーの試合をさせまし
た。軍隊にとっては、教師たちが兵隊とサッカーすることは、教師と兵隊が協力関係にあることをアピールする必要があったからなのです。
兵隊たちはまた通りを歩いている教師を無理矢理に捕まえて酒場に連れていったこともありました。酔えば何か隠している事を話すかも知れないからです。も
ちろん、酔っぱらった兵隊たちが住民をいたぶることもありました。
【事例7】暴力の歴史──ラディノ教師Pによる講義:ヴァージョン 2
(1998年7月30日の講義)
私は、この町で教師として18年間生活してきました。その間、この町は大きく変貌してきました。生活の様式も人々の考え方も何もかもです。また、近年で
はアメリカ合衆国に働きにでる人たちが多く、彼らが送金するお金で、町の経済は大きく発展しました。それは同時に物価の高騰を呼びました。たとえば、ここ
にいるMitzu(筆者のこと)が11年前にここに来たときに八百ケッツアルだった土地が今では八千ケッツアルほどになるなどです。
1982年には、この町は言わば戦争状態にありました。多くの人が、この土地を去らなければなりませんでした。そして、その内の人たちが合衆国にまで逃
れることになりました。難民の人たちには「許可(
permiso)」が与えられて、合衆国で暮らすことができたのです。T町は、昔はとても貧しかった。そのため人々はお金をすぐに使わずに貯める習慣があ
りました。現在合衆国で暮らすこの町の人々は、昔からの稼ぎを貯める習慣があるので、向こうで稼いだ金のほとんどを送金します。今1ドルが6ケッツアルな
ので、総金額の6倍(の額面)がグアテマラにやってくるので、物凄い額になることは、皆さんもお分かりになるでしょう(笑い)。
そのため、現在の経済状況はとても高く、それはよい事と悪い事を同時にもたらしました。農業は、現在では僅かの儲けしかもたらしません。ところが商業
は、たくさんの利益をもたらします。
――いったい暴力の時代にどれくらいの人たちがこの町を出たのでしょうか?(受講生の質問)
たくさんの人々がコスタ[太平洋岸のプランテーション]や合衆国に出かけましたが、その実数を知ることはと
ても難しいのです。
1982年の8月に我々教師たちは、T町に戻ってきました。多くの家が焼かれていて、前の町の姿が想像できないほどです。そして、町に駐留している軍隊
は、いつも教師たちを監視していました。私は、一度兵隊たちに呼び止められ、酒場に入るように命じられました。兵隊は酒に酔っていて、私に酒を飲むように
命じました。私が自分は酒を飲まないと言って断ると、腰に差したピストルを頭に突き付けて飲めと言いました。それほど傍若無人に振る舞ったのです。
82年11月、T町の守護聖人の祭りの時です。この時は、人々がほとんどいなかったので教師たちは、祭りの委員会を組織して、マリンバなどを出して景気
づけるようにしましたが、人々はほとんど来ませんでした。
当時25,000人の教師の職がありませんでした。T町の当時の状況は現在と比べて大きく異なっていました。例えば、人々は学校に子供をやって教育を受
けさせようとする考えがほどんどありませんでした。昔は、町長が人々に、子供たちを学校にやるように命じたのです。1981年当時、ここの学校には6人の
教師、7人の教育普及員、そして250名の生徒がいました。しかし、98年の今、状況は2倍以上になっています。教師は15名、生徒は1,000から
1,200名になっています。町全体では2,000名を超える生徒がいます。
教育によって人々の考え方は大きく変わってきました。昔は、人々はこの町を去るときには、人々は伝統的な衣装を脱いで、インディヘナであることを隠して
いましたが、この町ではいつも伝統的な衣装でした。しかし、現在では、翌日に体育の授業をやると生徒に告げると男も女の子も、体操服にテニスシューズとい
ういでたちで学校に来ます。また、昔は音楽と言えばマリンバでしたが、今の若い子供たちはロックを聞きます。町もここにいるMitzuが初めてやってきた
10年前には、舗装がされておらず、バスもぼろぼろ、確か2つの会社しかなかったし、バスがこの町に着くと人々は通りに出て、何事かと眺めているような状
態でした。屋根は茅葺きのものからブロックの家になりました。人々は「閉じた」状態から「開いた」状態になりました。現在では、たくさんの自由がありま
す。
さて、1981年にゲリラがこの町にやってきました。そして、多くの(イデオロギーの違いによる)衝突を引き起こしました。このことを知るには、グアテ
マラの歴史に思いを馳せる必要があります。
1930年(ママ)から44年まで、ホルヘ・ウビコによるとても酷い抑圧の時代がありました。ウビコは、すべての人から搾取しようとしました。自分の利
害のためなら人頭税も科して人々から搾取しようとしました。貧しい人はより貧しく、富める者はより富むようになったのです。ウビコの執政の時代の末期に革
命的運動と呼べるものがありました。1944年6月25日多くの教師や生徒たちが、デモ行進しました。ところがウビコがこれを嫌い、彼らを軍隊に命じて虐
殺しました。これがきっかけになって、クーデタがおこりウビコは失脚しました。
彼らの後にでてきたのは、3名の主要なメンバーからなる評議会です。やがて、彼らは大統領選挙をおこない、最終的に選ばれたのはファン・ホセ・アレバロ
大統領です。彼は哲学博士で、この国正義の実現に多くの貢献をしました。彼は特に女性の権利に関する法律を整備し、離婚した女性に対して、男性の配偶者が
一定の慰謝料を払い続けるようにしました。また社会保険庁とその病院を創設しました。それまで軍人の暴君が支配していた国に、いきなり哲学博士の大統領が
就任したほどですから、どれほどこの国が良くなったか皆さんもわかるでしょう(笑い)。
1950年から55年まではハコボ・アルベンス大統領の時代です。彼はエルサルバドルにいる時代に、かの地の大富豪の娘マリア・クリスチナに恋をして、
結婚しました。しかし、マリア・クリスチナは、父親の意思とは反対に貧しい人たちに共感し、社会主義や共産主義の考え方に共鳴していました。そのためアル
ベンスも彼女の影響を受けて社会主義的な政策をとるようになりました。彼は農地改革をおこない、法令900号によって貧しい農民に長期の低利ローンで土地
をわけ与えました。しかし、これに怒った「ユナイティド・フルーツ・カンパニー」の経営者某は、当時ホンジュラス軍の援助のもとにカスティージョ・アルマ
スの軍隊を組織してクーデターを企て成功しました。1954年アルベンスは命からがらメキシコに逃げ、その後、酒浸りになり3年後に死亡しました。グアテ
マラの政治を記したアメリカの本のタイトルに「10年の春、永遠の抑圧」というものがあるが、まさにその通りです。
さて1959年キューバで革命があった。それに影響をうけて、4名の軍人がエルサルバドルに出国しました。彼らは後にそれぞれ、つまり1960年11月
13日(ママ)に革命組織FAR(反乱武装軍)を組織した。72年にはEGP(貧民ゲリラ軍)が、79年にはORPA(武装人民革命組織)が結成された。
1982年には、それらがまとまってURNG(グアテマラ国民革命連合)となり、85年からは世界のさまざまな場所で、国とURNGの間での平和交渉がは
じまったのです。紆余曲折を経て、1996年12月27日(ママ)に平和交渉がまとまり、URNGは合法政党化することになった。現在の第一政党は右派の
PAN(国民行動党)です。PANは次の選挙(1999年)つまり西暦2000年からの政権の維持を目指して運動を開始した。この党は、基本的にメキシコ
のPRIを真似ようとして、メキシコ政府から相談役を招いて政策運営をしている、ネオリベラルの政党です。
しかし、私の感想では、URNGは力を持ち得ないし、PANの政策はうまくいかないだろうと思う。つまり、いつの頃になるか分からないが、新たな革命の
動きが出てくるのではないだろうかと思うのです。
現在では政治的暴力というものはありません。しかし、かって軍隊に所属していた多くの軍人は職を失い、失業状態にあります。他方で、グアテマラには、多
くの犯罪、誘拐、強盗、窃盗が多く発生しています。そのような暴力は、軍人たちがおこした暴力に由来すると思います。じつはつい先ごろまで、ファン・ヘラ
ルディ司教は、グアテマラの各地で、暴力に関する人々の証言をまとめていました。彼の情報収集は、具体的にいつ、誰が、どこで、どのように、また誰によっ
て、暴力の被害にあったのかをまとめるものでした。しかし、彼は殺されてしまいました[1998年4月26日――池田]。殺した当事者(ママ)は、酒を飲
んで殺された司教が誰であったか分からないと供述していますが、その背景には高い位の退役軍人で、現在は商売を手広くやっている男性が司教を活動を詳しく
しらべていたといいます(9)。
ここには、表面的にはイデオロギーというものがありません。しかし、水面下の深いところではイデオロギーは存在するのです。
――どうして、伝統を守り続けた保守的なこの町の人たちが、どうして革命思想を受容することができたのだろう か?(米国からきた年配の受講女性の質問)
ひとつは強制的に、そして他の一つは野心からだろう。というのは、ゲリラたちは、この町にやってきて、住民
たちを無理矢理――もちろん軍隊とは異なる意味で――革命運動に巻き込んだという側面があります。ゲリラたちは、また農民たちと同様の貧しい服装をして武
器をもち、貧民の救済を訴えました。そのような訴えに共鳴し、革命の野心をもった人たちもいたでしょう。野心をもっていた人たちがいたから、後になって軍
隊がゲリラにカモフラージュして、村にやってきて人々を鼓舞して革命運動に参加しようと述べ、意欲的な参加者を連れて村の外れまできて、彼ら全員を惨殺す
ることができたのです。
軍隊が占拠していた時期は、連中は酒を自由に飲めたし、また軍隊は人々を酔わして、ゲリラ活動に従事したり共鳴した連中に関する情報を聞き出そうとしま
した。他方、それ以前のゲリラの占拠の時期は、酒の販売を禁止して、売った連中を厳しく罰した。人々が酔っ払って統制がとれなくなることを畏れたのでしょ
う。
事例の番外編
あなたはあの話を知っているか? あれはあなたが調査を予定している場所(=西部高地クチュマタン高 原)だけの話ではないのだよ。グアテマラのどこでも、つまり、このシティでも起こっている。ある日、黒い大きな車がやってきて屈強な男に拉致され、そして いなくなる。もちろん生きて二度と帰ってこない。この研究所でも何人かの人が失踪した。恐ろしいことをされるのだ。身体に傷をつけられて・・・まったく酷 いことをするもんだ。
――彼らは共産主義者の嫌疑をかけられたのか?(池田)
いいえ、まったく関係ない。そんなことはありえない。ふつうの人たちだ。彼ら[=軍隊]らは闇雲に、突 然人びとを連れ去ってゆく。彼らが疑ったらそれで終わりなんだよ・・・。こんなこと誰にも言ったらだめだよ・・・誰もが知っているけど。あなたもくれぐれ も気を付けるんだよ。
1990年代後期、この町の食堂の軒先で私が通りを背にして座り、初老のラディナ女性と談笑していた。すると
突然、彼女の顔色から血の気が引け、一瞬私を陰にして軽く身を隠すような仕草をした。私は不審に思って、すぐに振り返ったが、通りには何も見えなかった。
それからしばらくして、彼女は足早に通りに出て、視線を向けた方向に食堂の軒先から身を乗り出した。さらに、通りに出た。私も彼女の後に続いて通りに出た
が何も見えなかった。私は「何があったの?」と彼女にたずねた。彼女は一言「ソルダードス(兵隊たち)!」。それから、私は食堂を出て、他の人たちから情
報を得て、数名の兵隊たちが、しばらく町のサロン(公会堂)の裏に駐屯することを彼女に告げにもどった。彼女は「えっ!恐ろしい!」と言い放ちながら困惑
の情を表した。「そんなに兵隊が怖いのか?」「もちろんじゃない!」。
1991年ごろ私が清涼飲料会社の調査員として、キチェ県で住民にアンケートをとっていた頃だ。いろい ろなところを回ったが、どこの町でも、町はずれに木製の十字架が立っている。その数は数えられないほどだ。ある日、その村の出身の若者と歩いている時、彼 は十字架の立っている墓場の横で立ち止まり、やがてうずくまって泣き始めた。私は、彼がなぜ泣いているのか最初はわからなかった。私は当惑して「どうし て、君は泣き始めたんだい」とたずねた。「俺がどうして悲しんでいるのか、お前("vos")は知りたいか?」と言って次のようなことを語りはじめんたん だ。“ここから見える、あの場所(町の中心地)に、軍隊がやってきた時、俺はここにいた。軍隊は町にいた人たちに銃をタタタタタ……と撃った。人びとはみ んなうずくまっていたが、結局全部殺された。その中に、俺の両親やおじさん、兄弟姉妹も皆いたんだ。皆殺されてしまった。それでとうとう俺は独りぼっちに なったんだ”と。私はそれを聞きながら涙ぐまざるをえなかった、そうだろう? 本当に貰い泣きせずに聞けることなんてできだろうか。
君は現在の状況をよく理解しなければならない。私はリオス・モントがこの国で何をしてきたのか、よく 知っているつもりだ。しかしFRGは現在全国を支配しようとしてきている(=大統領選挙に勝利しようとしている)。この町でFRGが勝利すれば(=同じ党 派の町長が当選すれば)、同盟関係ゆえに中央政府からの援助を期待することができる。長い間「インディオ(蔑称)」と呼ばれ抑圧されてきた我らの町に、実 際に利益を誘導するため、戦略的にFRGを支持することが、なぜそれほど悪いのか? 君も知っているように、リゴベルタ・メンチュは先住民の苦境を訴える ために、支配者の言語たるスペイン語を学んだ。我々も同じようにしているのさ。
7. 註
(8)正確には「被疑者のリスト」と言うべきだが、史実として、あるいは当事者の観点から見れば文字通り「被誘拐者
のリスト」である。
(9)実際には事件の2カ月後の1998年6月22日、オット・アルドン検事は同じ教会のマリオ・オランテス司祭を
被疑者として逮捕することを命じた。同司祭は健康上の理由から99年2月に監獄から病院へ収容され、一時米国に滞在していたが、2000年2月に帰国し、
現在も係争中である。
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Copyright Mitsuho Ikeda, 2001