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グアテマラ内戦

Cronológica sobre la Guerra civil de Guatemala, 1961-1996

作 成:池田光穂

Mapa de Todos los Territorio de Chapinlandia, Tierra de Maiz, o Guatemala; El Movimiento Rebelde 13 de Noviembre (MR13) y el surgimiento de la lucha armada en Guatemala, ca.1962

グアテマラ内戦は、1960年から 1996年にかけてグアテマラ政府と様々な左派反乱軍との間で戦われたグアテマラの内戦である。政府軍は内戦中、グアテマラのマヤ系住民に対してジェノサ イドを行い、市民に対する広範な人権侵害を行ったとして非難されている[15]。この闘争の背景には、長年にわたる不公平な土地分配の問題があった。主に ヨーロッパ系の裕福なグアテマラ人と、アメリカのユナイテッド・フルーツ・カンパニーなどの外国企業が、土地の大部分を支配しており、その見返りとしてほ とんど税金を払っていなかった。 1944年と1951年に行われたグアテマラ革命の民主的選挙で、労働条件の改善と土地分配の実施を目指した民衆左派政権が誕生した。1954年、アメリ カの支援を受けたクーデターにより、改革を阻止するためカルロス・カスティージョ・アルマスの軍事政権が樹立された。 内戦は1960年11月13日、左翼の下級将校グループがイディゴラス・フエンテス将軍の政府に対して反乱を起こし、失敗したことから始まった。生き残っ た将校たちは、MR-13として知られる反政府運動を起こした。1970年、カルロス・マヌエル・アラナ・オソリオ大佐が、制度的民主党(PID)を代表 する一連の軍事独裁者の第一号となった。PIDは、カルロス・アラナ大佐の2人の子分(1974年のキェル・エウジェニオ・ラウゲルド・ガルシア将軍と 1978年のロメオ・ルーカス・ガルシア将軍)を支持する不正選挙によって、12年間グアテマラの政治を支配した。PIDは、1982年3月23日の軍事 クーデターでエフライン・リオス・モント将軍が下級陸軍将校のグループとともに権力を掌握すると、グアテマラ政治への支配力を失った。1970年代には、 先住民や農民の大規模な集団の間で社会的不満が続いた。多くの人々が反政府グループを組織し、政府軍に抵抗し始めた。 1980年代、グアテマラ軍は5年間にわたりほぼ絶対的な政府権力を保証し、政治、社会、知識階級を含む国家のあらゆる社会政治制度に潜入し、敵を排除す ることに成功した。内戦の最終段階において、軍はグアテマラの国民生活において、並行して、半可視的で、目立たないが効果の高い支配を展開した。 紛争中、14万人から20万人が殺害され、あるいは強制的に「失踪」させられたと推定されており、その中には4万人から5万人の失踪者も含まれている。戦 闘は政府軍と反政府グループとの間で行われたが、暴力の大部分は、1960年代半ば以降、グアテマラ国家による民間人に対する一方的な暴力の大規模な調整 キャンペーンであった。軍の諜報機関は、国家に反対する者の殺害と「失踪」を調整した。 反政府勢力が拠点を維持していた農村部では、政府の弾圧によって、村全体を含む農民の大規模な虐殺が行われた。こうした虐殺は、まずイザバル県とサカパ県 で(1966〜68年)、1978年以降はマヤ族が多い西部高地で起こった。1980年代初頭、マヤの人々の広範な殺害はジェノサイドとみなされた。その 他の弾圧の犠牲者は、活動家、政府反対派の容疑者、帰還難民、批判的な学者、学生、左派政治家、労働組合員、宗教活動家、ジャーナリスト、ストリートチル ドレンなどであった。"Comisión para el Esclarecimiento Histórico "は、紛争における人権侵害の93%を政府軍が、3%をゲリラが行ったと推定している。 2009年、グアテマラの裁判所は、強制失踪を命じた罪で初めて有罪判決を受けた元軍事総監フェリペ・クサネロに判決を下した。2013年、政府は 1982年から83年の統治時代に1,700人以上の先住民イクシルマヤを殺害・失踪させたジェノサイドの罪で、エフライン・リオス・モント元大統領の裁 判を行った。ジェノサイドの容疑は、国連が任命した歴史解明委員会が作成した「沈黙の記憶(Memoria del Silencio)」報告書に基づいている。同委員会は、政府が1981年から1983年の間にキチェ州でジェノサイドを行った可能性があると結論づけ た。モントは、自国の司法制度によってジェノサイドの罪で裁かれた最初の元首であり、有罪が確定し、懲役80年の判決を言い渡された。彼らは、司法の異常 が疑われるとして、裁判のやり直しを求めた。裁判は2015年7月23日に再び始まったが、2018年4月1日にモントが拘留中に死亡するまで、陪審は評 決に至らなかった。

月日 事  項
1931-   ホルヘ・ウビコ独裁政権はじまる
1944 7 ウビコ大統領辞任、後任にポンセが就任
  10 10月反乱
  12 自由選挙でアレバロ(Juan Jose Arevalo Bermejo)が大統領に当選
1945 3 アレバロ政権に就く、1945年憲法の発布
1948   グアテマラ労働者党(PGT)結成(合法 化は1951年)
1949   フランシスコ・アラーナ軍最高司令官、大 統領候補に立候補声明直後に暗殺
1951   アルベンス(Jacobo Arbenz Guzman:アレバロ政権期の国防大臣)大統領

アルベンスの写真を見る人は【こちら

1952   農地改革法
1953   ユナイティド・フルーツ社所有のプラン テーションおよび中央アメリカ鉄道の没収、国有化
1954 6 ホンジュラス領内よりカスティーリョ・ア ルマス大佐による反革命軍のグアテマラ侵攻、首都制圧によりアルベンス辞任。国有化された土地等の返還。
1954   1945年憲法停止
7月2日フリーダ・カーロとディエゴ・リベラはグアテマラ侵攻へのCIAの関与に抗議してメキシコ市でのデモに参加(7月13日カーロ死亡
1955 1.20 アルベンス派による反乱計画発覚.417 名が逮捕,首謀者フランシスコ・コセンザ大佐はエルサルバドル大使館に保護を求め,フランシスコ・ベリオス大尉は国内に潜伏.
1955   国会議員選挙.アルマスの創設した反共連 盟(PUA)のみが立候補を許される。
1955   カスティージョ・アルマス大統領就任
1956   1956年憲法公布
1957   カスティージョ・アルマス大統領暗殺
1958   ミゲル・イディゴラス・フエンテス大統領 選出
1959   [キューバ革命]CIAによるグアテマラ領内での反カストロ軍事訓練開始。グア テマラ軍 内部は、その支持・反対をめぐり分裂。
1961   イディゴラ ス・フエンテス大統領に対する 軍の反乱鎮圧(1960年11月)、武装反乱軍は山間部でゲリラ活動を開始(1962年年頭にゲリラ戦による抗戦を布告する)→これにより内戦期の開始を 1960/61年にするかで所説がある)※下記のウィキペディアの記事は、1960年開始を当たり前のように表現している。
1962 2 武装反乱軍グ ループは「MR13」(Movimiento Revolucionario, 13 de noviembre, Alejandro de Leo'n)結成(活動拠点をラス・ミナス山中にもとめ る)

El Movimiento Rebelde 13 de Noviembre (MR13) y el surgimiento de la lucha armada en Guatemala, ca.1962


 
12 MR13、MR12、PGTによってFAR (Fuerza Armada Rebelde)を結成する。都市部ではPGTの指導する大衆組織統 一抵抗戦線(FUR)が結成される。
1963   軍によりイ ディゴラス・フエンテス大統領 解任、ペラルタ・アスルディア大佐を大統領(暫定)に指名
1965   1965年憲 法公布
1966   フリオ・セサ ル・メンデス・モンテネグロ 大統領選出。米グリーン・ベレーゲリラ鎮圧作戦「オペレーション・グアテマラ」を実施、カルロス・アラーナ・オソリオ大佐参加。米軍の爆撃等で八千人の犠 牲者を殺害。テロ・グループ「ラ・マノ・ブランカ」等、暗躍。
1968   駐グアテマ ラ・米大使ジョン・メイン暗殺
1969   [エルサルバ ドル・ホンジュラス戦争 (サッカー戦争)]
1970   カルロス・ア ラーナ・オソリオ大統領選 出、駐グアテマラ西大使カール・フォン・スプレッティ暗殺、[チリ、アジェンデ大統領]
1971   武装人民組織 (ORPA)結成、ベリーズの領有をめぐりイギリスと交渉決裂。
1972   貧民ゲリラ軍 (EGP)結成。陸軍銀行設立
1974   ヘル・ラウヘ ルウ将軍、大統領に選出、 [チリ、ピノチェト軍事政権]
1976   チマルテナン ゴ大地震、犠牲者二万二千、 被災者百万人、[アルゼンチン軍事クーデター、ビデラ軍事政権]
1977   ウエウエテナ ンゴから首都へ鉱山労働者の 更新
1978   立法議会、ロ メオ・ルーカス・ガルシーア 将軍を大統領に指名。農民統一委員会(CUC)発足。ケクチ・マヤ先住民パンソスで虐殺(100名)。米、グアテマラに武器輸出停止。
1980   スペイン大使 館占拠後、軍により炎上。ス ペインはグアテマラと国交断絶。OPRA、EGP、FARはPGT(グアテマラ労働党)と同盟関係
1981   CUC、公然 活動を停止。チマルテナン ゴ、ゲリラ鎮圧戦で1500名犠牲。

1982 sierra lacandón en la foto el compañero bacho la Capitan Maria (la madre de Jorge Soto) el comandante Pablo Monsanto (el padre de Jorge Soto) la teniente Lorena el capitán Rony y abajo el comandante Ruiz estupenda Foto de recuerdo AVOM
1982 2 グアテマラ国 民革命連合(URNG)結成
  3 大統領選挙 で、ルカス・ガルシアの後継 者、アニバル・ゲバラ国防大臣が勝利宣言
  3.23 ルカス・ガル シアの離任直後、アニバル・ ゲバラ就任直前に、若手将校による三人委員会結成、エフライン・リオス・モント将軍が政権担当委員会(FUNTA)を掌握

  4 三人委員会 「安全保障と開発計画」 (PNSD)発令
  6 リオス・モン ト大統領就任(Efraín Ríos Montt, 1926- )。ゲリラ壊滅作 戦にもとづく一連の政策(フリホレスと銃、民間自衛パトロール(PAC)制定し、2年間で90万人徴用)
1983 1 [コンタドー ラ・グループ第一回会議]中 央アメリカ和平のための合意形成交渉の開始[1983アルゼンチン軍事政権終焉]
  8 国防大臣オス カル・ウンベルト・メヒア・ ビクトレス将軍(Óscar Humberto Mejía Víctores)クーデタ、リオス・モント大統領解任
1984   世界先住民会 議、国軍による先住民虐殺反 対をアピール
1984

1985

7.1 国会議会選 挙、憲法制定議会招集

1985年憲法制定。

1986   キリスト教民 主党ビニシオ・セレソ大統領 就任.

中央アメリカ五カ国エスキプラス宣言採択。アンドレス・ヒロン神父と農民(1万数千人)の土地要 求デモ。

1987 8 エスキプラス II合意署名
  9 国民和解委員 会(CNR)発足
  11 政府とグアテ マラ国民革命連合(URNG)マドリードで会見
1988   グアテマラ寡 婦の会(CONAVIGUA)発足
  5 軍事クーデタ 失敗
  8 軍事クーデタ 失敗
1989 2 グアテマラ労 働党(PGT)、URNGと結合
  5 軍事クーデタ 失敗
1990 3 国民和解委員 会が仲介しオスロでURNGと政府は、和平の枠組について合意
  6 スペイン・エ スコリアルで各政党関係者、URNGと話し合う
1991 1 ホルヘ・セ ラーノ大統領就任(Jorge Serrano Elías, 1945-
  4 政府と URNGの和平交渉
  12 セラーノ大統 領、軍改革
1992 11 リゴベルタ・ メンチュ、ノーベル平和賞
1993 5 セラーノ大統 領の憲法停止と議会解散(自 作クーデタ)を発動、失敗、失脚(前年4月に フジモリ・ペルー大統領が成功)
Serranazo
  6 議会はラミ ロ・デ・レオン・カルピオ (前・人権擁護監視委員)を大統領に指名
1994 1 国連の仲介 で、政府・軍・URNGがメキシコ市で「和平交渉再開の枠組合意」に 署名
  3 「人権に関す る包括協定」署名
  6.23 歴史の真実究 明委員会(Comisio'n para Esclarecimiento Histo'rico)設置
1995 3 多民族・多文 化・多言語社会の理解のため の「先住民族の権利とアイデンティティー憲章」が成立
1996 1 アルバロ・ア ルス(国民進歩党)大統領就任
  5 政府、 URNGとの和平交渉に合意
  9 「民主社会に おける市民権と軍の役割強化 に関する法律」成立:治安のために内務省にPNCを設置、PACを 廃止される
  12.29 政府と URNG、包括的和平協定に調印(翌年5月URNGの武装解除完了)
1997 5 [米国で情報公開法にもとづきCIAによる54年クーデタ関連文書を公開]
  7 国連真相究明委員会発足
1998 4.26 ファン・ヘラルディ司教、暗殺。『グアテ マラ:歴史の想起—二度と再び』編集の1人
1999 2 歴史の真実究明委員会『グアテマラ:沈黙 の記憶』
  5 URNGとの合意を盛り込んだ憲法改正案の成立
2000 1 アルフォンソ・ポルティージョ大統領(FRG)が大統領に就任、リオス・モント国会議長 (FRG総 裁)
2001


2002


2003


2004
1
Óscar José Rafael Berger Perdomo(国民団結党・大国民同盟)が大統領に就任
2005


2006


2007


2008
1
Álvaro Colom Caballeros(国民希望党)が大統領に就任
2009


2010


2011


2012
1
Otto Fernando Pérez Molina(愛国党・大国民同盟)が大統領に就任(任期途中の2015年9月に辞任)
2013

リオス・モント、内戦中の戦争犯罪について有罪判決を受ける。
2014


2015
9
Alejandro Maldonado Aguirreが、大統領Otto Fernando Pérez Molinaの辞任の後を継いで大統領代行に就任
2016
1
Jimmy Morales(国民集中戦線)が第38代大統領に就任
2017


2018

リオス・モント再審中の2018年4月1日に91歳で生涯を終える。
2019


2020
1
Alejandro Eduardo Giammattei Falla(バモス党)が第39代大統領に就任
2021


2022


2023


2024
1
César Bernardo Arévalo de León(セミージャ運動)が第40代大統領に就任

参考資料:

★グアテマラ内戦(Guatemalan Civil War, 1960-1996)

The Guatemalan Civil War

The Guatemalan Civil War was a civil war in Guatemala fought from 1960 to 1996 between the government of Guatemala and various leftist rebel groups. The government forces have been condemned for committing genocide against the Maya population of Guatemala during the civil war and for widespread human rights violations against civilians.[15] The context of the struggle was based on longstanding issues of unfair land distribution. Wealthy Guatemalans, mainly European-descended, and foreign companies such as the American United Fruit Company had dominated control over much of the land, and paid almost zero taxes in return – leading to conflicts with the rural indigenous poor who worked the land under miserable terms.

Democratic elections during the Guatemalan Revolution in 1944 and 1951 had brought popular leftist governments to power, who sought to ameliorate working conditions and implement land distribution. A United States-backed coup d'état in 1954 installed the military regime of Carlos Castillo Armas to prevent reform, who was followed by a series of right-wing military dictators.

The Civil War started on 13 November 1960, when a group of left-wing junior military officers led a failed revolt against the government of General Ydigoras Fuentes. The surviving officers created a rebel movement known as MR-13. In 1970, Colonel Carlos Manuel Arana Osorio became the first of a series of military dictators representing the Institutional Democratic Party or PID. The PID dominated Guatemalan politics for twelve years through electoral frauds favoring two of Colonel Carlos Arana's protégés (General Kjell Eugenio Laugerud García in 1974 and General Romeo Lucas García in 1978). The PID lost its grip on Guatemalan politics when General Efraín Ríos Montt, together with a group of junior army officers, seized power in a military coup on 23 March 1982. In the 1970s social discontent continued among the large populations of indigenous people and peasants. Many organized into insurgent groups and began to resist the government forces.[16]

During the 1980s, the Guatemalan military assured almost absolute government power for five years; it had successfully infiltrated and eliminated enemies in every socio-political institution of the nation, including the political, social, and intellectual classes.[17] In the final stage of the civil war, the military developed a parallel, semi-visible, low profile but high-effect, control of Guatemala's national life.[18]

It is estimated that 140,000 to 200,000 people were killed or forcefully "disappeared" during the conflict, including 40,000 to 50,000 disappearances. While fighting took place between government forces and rebel groups, much of the violence was a large coordinated campaign of one-sided violence by the Guatemalan state against the civilian population from the mid-1960s onward. The military intelligence services coordinated killings and "disappearances" of opponents of the state.

In rural areas, where the insurgency maintained its strongholds, the government repression led to large massacres of the peasantry, including entire villages. These took place first in the departments of Izabal and Zacapa (1966–68), and in the predominantly Mayan western highlands from 1978 onward. In the early 1980s, the widespread killing of the Mayan people was considered a genocide. Other victims of the repression included activists, suspected government opponents, returning refugees, critical academics, students, left-leaning politicians, trade unionists, religious workers, journalists, and street children.[16] The "Comisión para el Esclarecimiento Histórico" has estimated that government forces committed 93% of human right abuses in the conflict, with 3% committed by the guerrillas.[19]

[16] Uppsala Conflict Data Program n.d. Uppsala Conflict Data Program (n.d.). "Guatemala, Government of Guatemala – civilians". Conflict Encyclopedia. Archived from the original on 5 March 2016.

[19]"Truth Commission: Guatemala". 1 February 1997. Archived from the original on 6 April 2018.

In 2009, Guatemalan courts sentenced former military commissioner Felipe Cusanero, the first person to be convicted of the crime of ordering forced disappearances. In 2013, the government conducted a trial of former president Efraín Ríos Montt on charges of genocide for the killing and disappearances of more than 1,700 indigenous Ixil Maya during his 1982–83 rule. The charges of genocide were based on the "Memoria del Silencio" report – prepared by the UN-appointed Commission for Historical Clarification. The Commission concluded that the government could have committed genocide in Quiché between 1981 and 1983.[8] Montt was the first former head of state to be tried for genocide by his own country's judicial system; he was found guilty and sentenced to 80 years in prison.[20] A few days later, however, the sentence was reversed by the country's high court. They called for a renewed trial because of alleged judicial anomalies. The trial began again on 23 July 2015, but the jury had not reached a verdict before Montt died in custody on 1 April 2018.[21]
グアテマラ内戦

グアテマラ内戦(グアテマラないせん)は、1960年から1996年に かけてグアテマラ政府と様々な左派反乱軍との間で戦われたグアテマラの内戦である。政府軍は内戦中、グアテマラのマヤ系住民に対してジェノサイドを行い、 市民に対する広範な人権侵害を行ったとして非難されている[15]。この闘争の背景には、長年にわたる不公平な土地分配の問題があった。主にヨーロッパ系 の裕福なグアテマラ人と、アメリカのユナイテッド・フルーツ・カンパニーなどの外国企業が、土地の大部分を支配しており、その見返りとしてほとんど税金を 払っていなかった。

1944年と1951年に行われたグアテマラ革命の民主的選挙で、労働条件の改善と土地分配の実施を目指した民衆左派政権が誕生した。1954年、アメリ カの支援を受けたクーデターにより、改革を阻止するためカルロス・カスティージョ・アルマスの軍事政権が樹立された。

内戦は1960年11月13日、左翼の下級将校グループがイディゴラス・フエンテス将軍の政府に対して反乱を起こし、失敗したことから始まった。生き残っ た将校たちは、MR-13として知られる反政府運動を起こした。1970年、カルロス・マヌエル・アラナ・オソリオ大佐が、制度的民主党(PID)を代表 する一連の軍事独裁者の第一号となった。PIDは、カルロス・アラナ大佐の2人の子分(1974年のキェル・エウジェニオ・ラウゲルド・ガルシア将軍と 1978年のロメオ・ルーカス・ガルシア将軍)を支持する不正選挙によって、12年間グアテマラの政治を支配した。PIDは、1982年3月23日の軍事 クーデターでエフライン・リオス・モント将軍が下級陸軍将校のグループとともに権力を掌握すると、グアテマラ政治への支配力を失った。1970年代には、 先住民や農民の大規模な集団の間で社会的不満が続いた。多くの人々が反政府グループを組織し、政府軍に抵抗し始めた[16]。

1980年代、グアテマラ軍は5年間にわたりほぼ絶対的な政府権力を保証し、政治、社会、知識階級を含む国家のあらゆる社会政治制度に潜入し、敵を排除す ることに成功した[17]。 内戦の最終段階において、軍はグアテマラの国民生活において、並行して、半可視的で、目立たないが効果の高い支配を展開した[18]。

紛争中、14万人から20万人が殺害され、あるいは強制的に「失踪」さ せられたと推定されており、その中には4万人から5万人の失踪者も含まれている。戦闘は政府軍と反政府グループとの間で行われたが、暴力の 大部分は、1960年代半ば以降、グアテマラ国家による民間人に対する一方的な暴力の大規模な調整キャンペーンであった。軍の諜報機関は、国家に反対する 者の殺害と「失踪」を調整した。

反政府勢力が拠点を維持していた農村部では、政府の弾圧によって、村全 体を含む農民の大規模な虐殺が行われた。こうした虐殺は、まずイザバル県とサカパ県で(1966~68年)、1978年以降はマヤ族が多い西部高地で起 こった。1980年代初頭、マヤの人々の広範な殺害はジェノサイドとみなされた。その他の弾圧の犠牲者は、活動家、政府反対派の容疑者、帰還難民、批判的 な学者、学生、左派政治家、労働組合員、宗教活動家、ジャーナリスト、ストリートチルドレンなどであった[16]。"Comisión para el Esclarecimiento Histórico "は、紛争における人権侵害の93%を政府軍が、3%をゲリラが行ったと推定している[19]。

[16] Uppsala Conflict Data Program n.d. Uppsala Conflict Data Program (n.d.). "Guatemala, Government of Guatemala – civilians". Conflict Encyclopedia. Archived from the original on 5 March 2016.

[19]"Truth Commission: Guatemala". 1 February 1997. Archived from the original on 6 April 2018.

2009年、グアテマラの裁判所は、強制失踪を命じた罪で初めて有罪判決を受けた元軍事総監フェリペ・クサネロに判決を下した。2013年、政府は 1982年から83年の統治時代に1,700人以上の先住民イクシルマヤを殺害・失踪させたジェノサイドの罪で、エフライン・リオス・モント元 大統領の裁判を行った。ジェノサイドの容疑は、国連が任命した歴史解明委員会が作成した「沈黙の記憶(Memoria del Silencio)」報告書に基づいている。同委員会は、政府が1981年から1983年の間にキチェ州でジェノサイドを行った可能性があると結論づけた [8]。モントは、自国の司法制度によってジェノサイドの罪で裁かれた最初の元首であり、有罪が確定し、懲役80年の判決を言い渡された[20]。彼ら は、司法の異常が疑われるとして、裁判のやり直しを求めた。裁判は2015年7月23日に再び始まったが、2018年4月1日にモントが拘留中に死亡する まで、陪審は評決に至らなかった[21]。

Queqchí people carrying their loved one's remains after an exhumation in Cambayal in Alta Verapaz department, Guatemala. Since 1997, the Centre of Forensic Anthropology and Applied Sciences (CAFCA) has been helping to heal the deep wounds caused by Guatemala’s internal conflict. The impact of CAFCA’s forensic work is twofold: It helps families to find their loved ones and come to terms with their loss and it gathers the evidence needed to bring their murderers to justice. Photo: CAFCA archive.

グアテマラ、アルタ・ベラパス県カンバイアルでの発掘調査後、愛する人の遺骨を運ぶケッキ族の人々。1997年以来、法医人類学・応用科学センター (CAFCA)は、グアテマラの国内紛争がもたらした深い傷を癒す手助けをしてきた。CAFCAの法医学的作業の影響は2つある。それは、家族が愛する人 を見つけ、その喪失と折り合いをつけるのを助けることと、殺人犯を裁くために必要な証拠を集めることである。写真 CAFCAアーカイブ
Background

See also: Rafael Carrera, Manuel Estrada Cabrera, José María Orellana, Jorge Ubico, Juan José Arévalo, and United Fruit Company

After the 1871 revolution, the Liberal government of Justo Rufino Barrios escalated coffee production in Guatemala, which required much land and many workers. Barrios established the Settler Rule Book, which forced the native population to work for low wages for the landowners, who were Criollos and later German settlers.[22] Barrios also confiscated the common native land, which had been protected during the Spanish Colony and during the Conservative government of Rafael Carrera.[23] He distributed it to his Liberal friends, who became major landowners.[22]

In the 1890s, the United States began to implement the Monroe Doctrine, pushing out European colonial powers in Latin America. Its commercial interests established U.S. hegemony over resources and labor in the region. The dictators that ruled Guatemala during the late 19th and early 20th centuries were very accommodating to U.S. business and political interests, because they personally benefitted. Unlike in such nations as Haiti, Nicaragua, and Cuba, the U.S. did not have to use overt military force to maintain dominance in Guatemala. The Guatemalan military/police worked closely with the U.S. military and State Department to secure U.S. interests. The Guatemalan government exempted several U.S. corporations from paying taxes, especially the United Fruit Company. It also privatized and sold off publicly owned utilities, and gave away huge swaths of public land.[24]


President Manuel Estrada Cabrera's official portrait from his last presidential term. During his government, the American United Fruit Company became a major economic and political force in Guatemala.

Societal structure

Main article: Manuel Estrada Cabrera

In 1920, the prince Wilhelm of Sweden visited Guatemala and described Guatemalan society and Estrada Cabrera government in his book Between Two Continents, notes from a journey in Central America, 1920.[25] He analyzed Guatemalan society at the time, pointing out that even though it called itself a "Republic", Guatemala had three sharply defined classes:[26]

Criollos: a minority made up of descendants of the Spaniards who conquered Central America; by 1920, the Criollos made up much of the members of both political parties and the elite in the country. For centuries they had intermarried with Indians and other people of European ancestry. The great majority had some indigenous ancestry but largely identified with European culture.[27] They led the country both politically and intellectually, partly because their education was far superior to that of most of the rest of the residents. Only criollos were admitted to the main political parties,[26] and their families largely controlled and, for the most part, owned the cultivated parts of the country.[27]
Ladinos: middle class. Descendants of peoples of indigenous, African, and criollo ancestry, they held almost no political power in 1920. They made up the bulk of artisans, storekeepers, tradesmen, and minor officials.[28] In the eastern part of the country, they worked as agricultural laborers.[28]
Indians: The majority of the population was composed of native or indigenous Guatemalans, most of whom were Mayan peoples. Many had little to no formal education. Many natives served as soldiers for the Army, and they were often raised to positions of considerable trust.[28] They made up most of the agricultural workers.
The prince classified them into three categories:

"Mozos colonos": settled on the plantations. Were given a small piece of land to cultivate on their own account, in return for work in the plantations a certain number of months a year, similar to sharecroppers or tenant farmers in the US.[28]
"Mozos jornaleros": day-laborers who were contracted to work for certain periods of time.[28] They were paid a daily wage. In theory, each "mozo" was free to dispose of his labor as he or she pleased, but they were bound to the property by economic ties. They could not leave until they had paid off their debt to the owner. They were often victimized by owners, who encouraged them to get into debt by granting credit or lending cash. The owners recorded the accounts and the mozos were usually illiterate and at a disadvantage. [29] If the mozos ran away, the owner could have them pursued and imprisoned by the authorities. Associated costs would be added to the ever-increasing debt of the mozo. If one of them refused to work, he or she was put in prison on the spot.[29] The wages were also extremely low. The work was done by contract, but since every "mozo" starts with a large debt, the usual advance on engagement, they effectively became servants indentured to the landowner.[30]
"Independent tillers": Living in the most remote provinces, some people, often Mayan, survived by growing crops of maize, wheat or beans. They tried to cultivate some excess to sell in the market places of the towns. They often carried their goods on their back for up to 40 kilometres (25 mi) a day to reach such markets.[30]

Jorge Ubico regime

Main article: Jorge Ubico

In 1931, the dictator General Jorge Ubico came to power, backed by the United States. While an efficient administrator,[31] he initiated one of the most brutally repressive military regimes in Central American history. Just as Estrada Cabrera had done during his government, Ubico created a widespread network of spies and informants and had political opponents tortured and put to death. A wealthy aristocrat (with an estimated income of $215,000 per year in 1930s dollars) and a staunch anti-communist, he consistently sided with the United Fruit Company, Guatemalan landowners and urban elites in disputes with peasants. After the crash of the New York Stock Exchange in 1929, the peasant system established by Barrios in 1875 to jump start coffee production in the country[32] faltered, and Ubico was forced to implement a system of debt slavery and forced labor to make sure that there was enough labor available for the coffee plantations and that the UFCO workers were readily available.[22] Allegedly, he passed laws allowing landowners to execute workers as a "disciplinary" measure.[33][34][35][36][37] He also identified as a fascist; he admired Mussolini, Franco, and Hitler, saying at one point: "I am like Hitler. I execute first and ask questions later."[38][39][40][41][42] Ubico was disdainful of the indigenous population, calling them "animal-like", and stated that to become "civilized" they needed mandatory military training, comparing it to "domesticating donkeys". He gave away hundreds of thousands of hectares to the United Fruit Company, exempted them from taxes in Tiquisate, and allowed the U.S. military to establish bases in Guatemala.[33][34][35][36][37] Ubico considered himself to be "another Napoleon". He dressed ostentatiously and surrounded himself with statues and paintings of the emperor, regularly commenting on the similarities between their appearances. He militarized numerous political and social institutions—including the post office, schools, and even symphony orchestras—and placed military officers in charge of many government posts. He frequently travelled around the country performing "inspections" in dress uniform, followed by a military escort, a mobile radio station, an official biographer, and cabinet members.[33][43][44][45][46]

After 14 years, Ubico's repressive policies and arrogant demeanor finally led to pacific disobedience by urban middle-class intellectuals, professionals, and junior army officers in 1944. On 1 July 1944, Ubico resigned from office amidst a general strike and nationwide protests. He had planned to hand over power to the former director of policy, General Roderico Anzueto, whom he felt he could control. But his advisors noted that Anzueto's pro-Nazi sympathies had made him unpopular and that he would not be able to control the military. So Ubico instead chose to select a triumvirate of Major General Buenaventura Piñeda, Major General Eduardo Villagrán Ariza, and General Federico Ponce Vaides. The three generals promised to convene the national assembly to hold an election for a provisional president, but when the congress met on 3 July, soldiers held everyone at gunpoint and forced them to vote for General Ponce rather than the popular civilian candidate, Dr. Ramón Calderón. Ponce, who had previously retired from military service due to alcoholism, took orders from Ubico and kept many of the officials who had worked in the Ubico administration. The repressive policies of the Ubico administration were continued.[33][47][48]


John Foster Dulles, Secretary of State of the Eisenhower administration and board member of the United Fruit Company.

Opposition groups began organizing again, this time joined by many prominent political and military leaders, who deemed the Ponce regime unconstitutional. Among the military officers in the opposition were Jacobo Árbenz and Major Francisco Javier Arana. Ubico had fired Árbenz from his teaching post at the Escuela Politécnica, and since then Árbenz had been living in El Salvador, organizing a band of revolutionary exiles. On 19 October 1944, a small group of soldiers and students led by Árbenz and Arana attacked the National Palace in what later became known as the "October Revolution".[49] Ponce was defeated and driven into exile; Árbenz, Arana, and a lawyer named Jorge Toriello established a junta. They declared that democratic elections would be held before the end of the year.[50]

The winner of the 1944 elections was a teaching major named Juan José Arévalo, Ph.D., who had earned a scholarship in Argentina during the government of general Lázaro Chacón due to his superb professor skills. Arévalo remained in South America for a few years, working as a university professor in several countries. Back in Guatemala during the early years of the Jorge Ubico regime, his colleagues asked him to present a project to the president to create the Faculty of Humanism at the National University, to which Ubico was strongly opposed. Realizing the dictatorial nature of Ubico, Arévalo left Guatemala and went back to Argentina. He went back to Guatemala after the 1944 Revolution and ran under a coalition of leftist parties known as the Partido Acción Revolucionaria ("Revolutionary Action Party", PAR), and won 85 percent of the vote in elections that are widely considered to have been fair and open.[51] Arévalo implemented social reforms, including minimum wage laws, increased educational funding, near-universal suffrage (excluding illiterate women), and labor reforms. But many of these changes only benefited the upper-middle classes and did little for the peasant agricultural laborers who made up the majority of the population. Although his reforms were relatively moderate, he was widely disliked by the United States government, the Catholic Church, large landowners, employers such as the United Fruit Company, and Guatemalan military officers, who viewed his government as inefficient, corrupt, and heavily influenced by communists. At least 25 coup attempts took place during his presidency, mostly led by wealthy liberal military officers.[52][53]

In 1944, the "October Revolutionaries" took control of the government. They instituted liberal economic reform, benefiting and politically strengthening the civil and labor rights of the urban working class and the peasants. Elsewhere, a group of leftist students, professionals, and liberal-democratic government coalitions developed, led by Juan José Arévalo and Jacobo Árbenz Guzmán. Decree 900, passed in 1952, ordered the redistribution of fallow land on large estates, threatening the interests of the landowning elite and, mainly, the United Fruit Company.

Given the strong ties of the UFCO with high Eisenhower administration officers such as the brothers John Foster Dulles and Allen Dulles, who were Secretary of State and Central Intelligence Agency (CIA) director, respectively, and were both in the company board,[54] the U.S. government ordered the CIA to launch Operation PBFortune (1952–1954) and halt Guatemala's "communist revolt", as perceived by the United Fruit Company and the U.S. State Department.[54] The CIA chose right-wing Guatemalan Army Colonel Carlos Castillo Armas to lead an "insurrection" in the 1954 Guatemalan coup d'état. Upon deposing the Árbenz Guzmán government, Castillo Armas began to dissolve a decade of social and economic reform and legislative progress, and banned labor unions and left-wing political parties, a disfranchisement of left-wing Guatemalans.[55] He also returned all the confiscated land to the United Fruit and the elite landlords.[54]

A series of military coups d'état followed, featuring fraudulent elections in which only military personnel were the winner candidates. Aggravating the general poverty and political repression motivating the civil war was the widespread socioeconomic discrimination and racism practiced against Guatemalan indigenous peoples, such as the Maya; many later fought in the civil war. Although the indigenous Guatemalans constitute more than half of the national populace, they were landless, having been dispossessed of their lands since the Justo Rufino Barrios times. The landlord upper classes of the oligarchy, generally descendants of Spanish and other Europe immigrants to Guatemala, although often with some mestizo ancestry as well, controlled most of the land after the Liberal Reform of 1871.[56]
背景

以下も参照: ラファエル・カレラ、マヌエル・エストラーダ・カブレラ、ホセ・マリア・オレリャーナ、ホルヘ・ウビコ、フアン・ホセ・アレバロ、ユナイテッド・フルー ツ・カンパニー

1871年の革命後、フスト・ルフィノ・バリオス自由党政権はグアテマラでのコーヒー生産を拡大させた。バリオスはまた、スペイン植民地時代やラファエ ル・カレーラの保守党政権時代に保護されていた先住民の共有地を没収した[23]。バリオスはそれを自由党の友人たちに分配し、彼らは大地主となった [22]。

1890年代、アメリカはモンロー・ドクトリンを実行に移し、ラテンアメリカにおけるヨーロッパの植民地大国を追い出した。その商業的利益は、この地域の 資源と労働力に対するアメリカの覇権を確立した。19世紀末から20世紀初頭にかけてグアテマラを支配した独裁者たちは、個人的に利益を得ていたため、ア メリカのビジネスや政治的利益に非常に好意的だった。ハイチ、ニカラグア、キューバなどとは異なり、アメリカはグアテマラの支配を維持するためにあからさ まな軍事力を行使する必要はなかった。グアテマラ軍/警察は米軍や国務省と緊密に連携し、米国の利益を確保した。グアテマラ政府はいくつかのアメリカ企 業、特にユナイテッド・フルーツ・カンパニーの納税を免除した。また、公営の公益事業を民営化して売却し、広大な公有地を手放した[24]。


マヌエル・エストラーダ・カブレラ大統領の最後の大統領任期中の公式肖像。エストラーダ・カブレラ政権時代、アメリカのユナイテッド・フルーツ社はグアテ マラの主要な経済・政治勢力となった。

社会構造

主な記事 マヌエル・エストラーダ・カブレラ

1920年、スウェーデンのウィルヘルム王子はグアテマラを訪問し、著書『Between Two Continents, notes from a journey in Central America, 1920』の中でグアテマラ社会とエストラーダ・カブレラ政権について記述した[25]。彼は当時のグアテマラ社会を分析し、グアテマラは自らを「共和 国」と称していたにもかかわらず、次の3つの階級が明確に定義されていたと指摘した[26]。

クリオージョ:中央アメリカを征服したスペイン人の子孫からなる少数派。1920年までには、クリオージョは国内の両政党の党員とエリートの多くを占めて いた。何世紀にもわたり、彼らはインディオやヨーロッパ系の人々と交配してきた。彼らは政治的にも知的にも国をリードしていたが、その理由のひとつは、彼 らの教育が他の住民のそれよりもはるかに優れていたからである。クリオージョのみが主要政党に名を連ね[26]、彼らの一族が国内の耕作地をほぼ支配し、 大部分を所有していた[27]。
ラディーノ:中産階級。先住民、アフリカ人、クリオージョの血を引く人々の子孫で、1920年当時はほとんど政治的権力を持たなかった。東部では農業労働 者として働いていた[28]。
インディアン 人口の大半は先住民またはグアテマラ人で構成され、そのほとんどはマヤ族であった。多くは正規の教育をほとんど受けていなかった。原住民の多くは陸軍の兵 士として仕え、かなりの信頼を得ていた[28]。
王子は彼らを3つのカテゴリーに分類した:

「モゾス・コロノス」:プランテーションに定住。農園に定住し、農園で1年に一定期間働く代わりに、自分の勘定で耕作するための小さな土地を与えられた。
「モゾ・ジョルナレロス」:一定期間労働を請け負う日雇い労働者。理論上、各「モゾ」は自分の労働力を好きなように自由に処分することができたが、経済的 な結びつきによってその土地に拘束されていた。彼らは所有者への借金を返済するまで、その場を離れることはできなかった。彼らはしばしば所有者の犠牲とな り、所有者は彼らに信用を与えたり現金を貸したりして借金をするよう勧めた。所有者は帳簿をつけるが、モゾたちはたいてい読み書きができず、不利な立場に あった。[29] モゾが逃げ出せば、オーナーは彼らを当局に追わせ、投獄することができた。それに関連する費用は、モゾの借金が増え続けることになる。労働を拒否すれば、 その場で牢屋に入れられた[29]。仕事は契約によって行われたが、どの「モゾ」も多額の借金、つまり通常の婚約の前借金から始まるので、彼らは事実上、 地主に年季奉公する使用人となった[30]。
「独立耕作者」: 最も人里離れた地方に住む一部の人々は、多くの場合マヤ人であったが、トウモロコシ、小麦、豆などの作物を栽培することで生き延びていた。彼らは町の市場 で売るために余剰分を栽培しようとした。彼らはしばしば、そのような市場に到達するために、1日に40キロ(25マイル)もの距離を背負って商品を運んだ [30]。

ホルヘ・ウビコ政権

主な記事 ホルヘ・ウビコ

1931年、アメリカの支援を受けた独裁者ホルヘ・ウビコ将軍が政権を握った。ウビコ将軍は有能な行政官であったが[31]、中米史上最も残虐な軍事政権 を発足させた。エストラーダ・カブレラが政権時代に行ったように、ウビコは広くスパイや情報提供者のネットワークを構築し、政敵を拷問や死刑に処した。裕 福な貴族(1930年代のドル換算で推定年収21万5,000ドル)であり、強固な反共主義者であった彼は、農民との紛争において、一貫してユナイテッ ド・フルーツ社、グアテマラの地主、都市エリート側についた。1929年のニューヨーク証券取引所の暴落の後、1875年にバリオスによって確立された コーヒー生産を飛躍させるための農民制度[32]は頓挫し、ウビコはコーヒー農園に十分な労働力を確保し、UFCOの労働者を容易に利用できるようにする ため、債務奴隷制度と強制労働制度を実施せざるを得なくなった。 [22]伝えられるところによると、彼は「懲戒」措置として地主が労働者を処刑することを認める法律を可決した[33][34][35][36] [37]。彼はまたファシストであることを認め、ムッソリーニ、フランコ、ヒトラーを賞賛し、ある時こう言った。私はヒトラーのようだ」[38][39] [40][41][42] ウビコは先住民を「動物のようだ」と呼んで軽蔑し、「文明化」するためには強制的な軍事訓練が必要だと述べ、それを「ロバの家畜化」に例えた。彼は何十万 ヘクタールもの土地をユナイテッド・フルーツ社に譲渡し、ティキサーテの税金を免除し、米軍がグアテマラに基地を設置することを許可した[33][34] [35][36][37]。ウビコは自らを「もう一人のナポレオン」だと考えていた。彼は仰々しい服装をし、皇帝の像や絵画に囲まれ、定期的にその外見の 類似性についてコメントした。郵便局、学校、交響楽団など、数多くの政治的・社会的制度を軍国主義化し、多くの官職に軍人を配置した。彼は頻繁に、軍服、 移動ラジオ局、公式伝記作成者、閣僚を従えて、国内を「視察」して回った[33][43][44][45][46]。

14年後、ウビコの抑圧的な政策と傲慢な態度はついに1944年に都市の中産階級の知識人、専門家、下級陸軍将校による平和的な不服従につながった。 1944年7月1日、ウビコはゼネストと全国的な抗議の中で退陣した。ウビコは、前政策局長のロデリコ・アンズエト将軍に権力を譲るつもりだった。しか し、彼のアドバイザーは、アンズエトが親ナチス派であったために不人気であり、軍をコントロールできないだろうと指摘した。そこでウビコは代わりに、ブエ ナベントゥーラ・ピニェダ少将、エドゥアルド・ビジャグラン・アリザ少将、フェデリコ・ポンセ・バイデス大将の三人組を選んだ。3将軍は国民議会を招集し て臨時大統領選挙を実施すると約束したが、7月3日に議会が開かれると、兵士たちは全員に銃を突きつけ、民間の人気候補ラモン・カルデロン医師ではなく、 ポンセ将軍に投票するよう強要した。ポンセ将軍はアルコール中毒のため退役していたが、ウビコの命令を受け、ウビコ政権で働いたことのある官僚を多く残し た。ウビコ政権の抑圧的な政策は継続された[33][47][48]。


ジョン・フォスター・ダレス、アイゼンハワー政権の国務長官、ユナイテッド・フルーツ社の取締役。

ポンセ政権を違憲と見なした多くの著名な政治・軍事の指導者が加わり、反対派が再び組織され始めた。反対派の軍人の中には、ハコボ・アルベンスとフランシ スコ・ハビエル・アラナ少佐がいた。ウビコはアルベンスを政治学院の教職から解雇し、それ以来、アルベンスはエルサルバドルに住み、革命亡命者の一団を組 織していた。1944年10月19日、アルベンスとアラナに率いられた兵士と学生の小集団は、後に「十月革命」として知られるようになる国家宮殿を襲撃し た[49]。ポンセは敗北し亡命に追い込まれ、アルベンス、アラナ、ホルヘ・トリエロという弁護士の3人は政権を樹立した。彼らは年内に民主的な選挙を実 施すると宣言した[50]。

1944年の選挙で当選したのは、フアン・ホセ・アレバロ博士という名の教育学専攻の学生であった。彼は、その優れた教授能力を買われ、ラサロ・チャコン 将軍の政府時代にアルゼンチンで奨学金を得ていた。アレバロは数年間南米に留まり、いくつかの国で大学教授として働いた。ホルヘ・ウビコ政権の初期にグア テマラに戻った彼は、同僚から国立大学にヒューマニズム学部を創設するプロジェクトを大統領に提出するよう依頼されたが、ウビコはこれに強く反対した。ウ ビコの独裁的な性格を知ったアレバロはグアテマラを去り、アルゼンチンに戻った。彼は1944年の革命後にグアテマラに戻り、パルティド・アクシオン・レ ボルシオナリア(「革命行動党」、PAR)として知られる左派政党の連合の下で出馬し、公正で開かれた選挙であったと広く考えられている選挙で85パーセ ントの得票率を獲得した[51]。アレバロは、最低賃金法、教育資金の増額、ほぼ普遍的な参政権(文盲の女性を除く)、労働改革などの社会改革を実施し た。しかし、これらの改革の多くは上層中産階級に恩恵を与えただけで、人口の大半を占める農民農業労働者にはほとんど恩恵を与えなかった。彼の改革は比較 的穏健であったが、アメリカ政府、カトリック教会、大地主、ユナイテッド・フルーツ・カンパニーなどの雇用主、グアテマラ軍将校からは広く嫌われ、政府は 非効率的で腐敗し、共産主義者の影響を強く受けているとみなされた。彼の大統領在任中に少なくとも25回のクーデター未遂が起こり、そのほとんどが裕福な リベラル派の軍人によって主導された[52][53]。

1944年、「十月革命派」が政府を掌握。彼らは自由主義的な経済改革を実施し、都市労働者階級と農民の市民権と労働権に恩恵を与え、政治的に強化した。 その他の地域では、フアン・ホセ・アレバロとハコボ・アルベンス・グスマンに率いられた左派の学生、専門家、自由民主主義の政府連合が発展した。1952 年に可決された法令900号は、大規模農地の休耕地の再分配を命じ、地主エリートや主にユナイテッド・フルーツ社の利益を脅かした。

UFCOがアイゼンハワー政権の高官であるジョン・フォスター・ダレス兄弟やアレン・ダレス兄弟(それぞれ国務長官と中央情報局(CIA)長官であり、と もに会社の役員であった)と強い結びつきがあったことから[54]、アメリカ政府はCIAにP. 政府はCIAに対し、PBフォーチュン作戦(1952年-1954年)を開始し、ユナイテッド・フルーツ社とアメリカ国務省が認識していたグアテマラの 「共産主義者の反乱」を阻止するよう命じた[54]。CIAは1954年のグアテマラ・クーデターで「反乱」を指揮するため、右派のグアテマラ陸軍大佐カ ルロス・カスティージョ・アルマスを選んだ。アルベンス・グスマン政権を退陣させると、カスティーリョ・アルマスは10年にわたる社会・経済改革と立法の 進歩を解消し始め、労働組合と左翼政党を禁止し、左翼グアテマラ人の権利を剥奪した[55]。

一連の軍事クーデターが続き、軍関係者だけが勝者候補となる不正選挙が行われた。内戦の動機となった一般的な貧困と政治的抑圧をさらに悪化させたのは、マ ヤ族などのグアテマラ先住民に対して行われた広範な社会経済的差別と人種差別であった。グアテマラ先住民は国民の半数以上を占めるが、フスト・ルフィノ・ バリオス時代から土地を奪われ、土地を持たなかった。1871年の自由民権改革以降、寡頭制の地主上流階級は、一般的にスペインやその他のヨーロッパから グアテマラに移住した人々の子孫であったが、メスティーソの祖先も持っていることが多かった[56]。
Initial phase of the civil war: 1960's and early 1970's

On 13 November 1960, a group of left-wing junior military officers of the Escuela Politécnica national military academy led a failed revolt against the autocratic government (1958–63) of General Ydígoras Fuentes, who had usurped power in 1958, after the assassination of the incumbent Colonel Castillo Armas. The young officers' were outraged by the staggering corruption of the Ydígoras regime, the government's showing of favoritism in giving military promotions and other rewards to officers who supported Ydígoras, and what they perceived as incompetence in running the country. The immediate trigger for their revolt, however, was Ydígoras' decision to allow the U.S. to train an invasion force in Guatemala to prepare for the planned Bay of Pigs Invasion of Cuba without consulting the Guatemalan military and without sharing with the military the payoff he received in exchange from the U.S. government. The military was concerned about the infringement on the sovereignty of their country as unmarked U.S. warplanes piloted by US-based Cuban exiles flew in large numbers over their country and the U.S. established a secret airstrip and training camp at Retalhuleu to prepare for its invasion of Cuba. The rebellion was not ideological in its origins.[57]

The CIA flew B-26 bombers disguised as Guatemalan military jets to bomb the rebel bases because the coup threatened U.S. plans for the invasion of Cuba as well as the Guatemalan regime it supported. The rebels fled to the hills of eastern Guatemala and neighboring Honduras and formed the kernel of what became known as MR-13 (Movimiento Revolucionario 13 Noviembre).[58] The surviving officers fled into the hills of eastern Guatemala, and later established communication with the Cuban government of Fidel Castro. By 1962, those surviving officers had established an insurgent movement known as the MR-13, named after the date of the officers' revolt.

MR-13 attacks United Fruit Company office

They returned in early 1962, and on 6 February 1962 in Bananera they attacked the offices of the United Fruit Company (present-day Chiquita Brands), an American corporation that controlled vast territories in Guatemala as well as in other Central American countries. The attack sparked sympathetic strikes and university student walkouts throughout the country, to which the Ydígoras regime responded with a violent crackdown. This violent crackdown sparked the civil war.[58]

Through the early phase of the conflict, the MR-13 was a principal component of the insurgent movement in Guatemala.[59] The MR-13 later initiated contact with the outlawed PGT (Guatemalan Labour Party, composed and led by middle-class intellectuals and students) and a student organization called the Movimiento 12 de Abril (12 April Movement) and merged into a coalition guerilla organization called the Rebel Armed Forces (FAR) in December 1962. Also affiliated with the FAR was the FGEI (Edgar Ibarra Guerrilla Front). The MR-13, PGT and the FGEI each operated in different parts of the country as three separate "frentes" (fronts); the MR-13 established itself in the mostly Ladino departments of Izabal and Zacapa, the FGEI established itself in Sierra de las Minas and the PGT operated as an urban guerrilla front. Each of these three "frentes" (comprising no more than 500 combatants) were led by former members of the 1960 army revolt, who had previously been trained in counterinsurgency warfare by the United States.[60][61][62][63][64]

U.S. intelligence and counterinsurgency assistance to government

1961 CIA map of British Honduras-Guatemala border

In 1964 and 1965, the Guatemalan Armed Forces began engaging in counterinsurgency operations against the MR-13 in eastern Guatemala. In February and March 1964, the Guatemalan Air Force began a selective bombing campaign against MR-13 bases in Izabal, which was followed by a counterinsurgency sweep in the neighboring province of Zacapa under the code-name "Operation Falcon" in September and October of the following year.[65]

It was at this phase in the conflict that the U.S. government sent Green Berets and CIA advisers to instruct the Guatemalan military in counterinsurgency (anti-guerrilla warfare). In addition, U.S. police and "Public Safety" advisers were sent to reorganize the Guatemalan police forces.[66] In response to increased insurgent activity in the capital, a specialty squad of the National Police was organized in June 1965 called Comando Seis ('Commando Six') to deal with urban guerilla assaults. 'Commando Six' received special training from the U.S. Public Safety Program and money and weapons from U.S. Public Safety Advisors.[67]

In November 1965, U.S. Public Safety Advisor John Longan arrived in Guatemala on temporary loan from his post in Venezuela to assist senior military and police officials in establishing an urban counterinsurgency program.[68] With the assistance of Longan, the Guatemalan Military launched "Operation Limpieza" (Operation Cleanup) an urban counterinsurgency program under the command of Colonel Rafael Arriaga Bosque. This program coordinated the activities of all of the country's main security agencies (including the Army, the Judicial Police and the National Police) in both covert and overt anti-guerrilla operations. Under Arriaga's direction, the security forces began to abduct, torture and kill the PGT's key constituents.[69]

With money and support from U.S. advisors, President Enrique Peralta Azurdia established a Presidential Intelligence Agency in the National Palace, under which a telecommunications database is known as the Regional Telecommunications Center or La Regional existed, linking the National Police, the Treasury Guard, the Judicial Police, the Presidential House and the Military Communications Center via a VHF-FM intracity frequency. La Regional also served as a depository for the names of suspected "subversives" and had its own intelligence and operational unit attached to it known as the Policía Regional.[70] This network was built on the "Committees against Communism" created by the CIA after the coup in 1954.[71]

Escalation of state terror

On 3 and 5 March 1966, the G-2 (military intelligence) and the Judicial Police raided three houses in Guatemala City, capturing twenty-eight trade unionists and members of the PGT. Those captured included most of the PGT's central committee and peasant federation leader Leonardo Castillo Flores. All subsequently "disappeared" while in the custody of the security force and became known in subsequent months by the Guatemalan press as "the 28". This incident was followed by a wave of unexplained "disappearances" and killings in Guatemala City and in the countryside which were reported by the Guatemala City press. When press censorship was lifted for a period, relatives of "the 28" and of others who had "disappeared" in the Zacapa-Izabal military zone went to the press or to the Association of University Students (AEU). Using its legal department, the AEU subsequently pressed for habeas corpus on behalf of the "disappeared" persons. The government denied any involvement in the killings and disappearances. On 16 July 1966, the AEU published a detailed report on abuses in the last months of the Peralta regime in which it named thirty-five individuals as involved in killings and disappearances, including military commissioners and members of the Ambulant Military Police (PMA) in coordination with the G-2.[72] After the publication of this report, "death-squad" attacks on the AEU and on the University of San Carlos began to intensify. Many law students and members of the AEU were assassinated.[73]

The use of such tactics increased dramatically after the inauguration of President Julio César Méndez Montenegro, who – in a bid to placate and secure the support of the military establishment – gave it carte blanche to engage in "any means necessary" to pacify the country. The military subsequently ran the counterinsurgency program autonomously from the Presidential House and appointed Vice-Defense Minister, Col. Manuel Francisco Sosa Avila as the main "counterinsurgency coordinator". In addition, the Army General Staff and the Ministry of Defense took control of the Presidential Intelligence Agency – which controlled the La Regional annex – and renamed it the Guatemalan National Security Service (Servicio de Seguridad Nacional de Guatemala – SSNG).[74]

In the city and in the countryside, persons suspected of leftist sympathies began to disappear or turn up dead at an unprecedented rate. In the countryside most "disappearances" and killings were carried out by uniformed army patrols and by locally known PMA or military commissioners, while in the cities the abductions and "disappearances" were usually carried out by heavily armed men in plainclothes, operating out of the army and police installations.[75] The army and police denied responsibility, pointing the finger at right-wing paramilitary death squads autonomous from the government.

One of the most notorious death squads operating during this period was the MANO, also known as the Mano Blanca ("White Hand"); initially formed by the MLN as a paramilitary front in June 1966 to prevent President Méndez Montenegro from taking office, the MANO was quickly taken over by the military and incorporated into the state's counter-terror apparatus.[76] The MANO – while being the only death squad formed autonomously from the government – had a largely military membership, and received substantial funding from wealthy landowners.[77] The MANO also received information from military intelligence through La Regional, with which it was linked to the Army General Staff and all of the main security forces.[78]

The first leaflets by the MANO appeared on 3 June 1966 in Guatemala City, announcing the impending creation of the "White Hand" or "the hand that will eradicate National Renegades and traitors to the fatherland."[79] In August 1966, MANO leaflets were distributed over Guatemala City by way of light aircraft openly landing in the Air Force section of La Aurora airbase. Their main message was that all patriotic citizen must fully support the army's counterinsurgency initiative and that the army was "the institution of the greatest importance at any latitude, representative of Authority, of Order, and of Respect" and that to "attack it, divide it, or to wish its destruction is indisputedly treason to the fatherland."[80]

Counterinsurgency in Zacapa

With increased military aid from the United States, the 5,000-man Guatemalan Army mounted a larger pacification effort in the departments of Zacapa and Izabal in October 1966 dubbed "Operation Guatemala." Colonel Arana Osorio was appointed commander of the Zacapa-Izabal Military Zone and took charge of the counter-terror program with guidance and training from 1,000 U.S. Green Berets.[81] Under Colonel Arana's jurisdiction, military strategists armed and fielded various paramilitary death squads to supplement regular army and police units in clandestine terror operations against the FAR's civilian support base. Personnel, weapons, funds and operational instructions were supplied to these organizations by the armed forces.[82] The death squads operated with impunity – permitted by the government to kill any civilians deemed to be either insurgents or insurgent collaborators.[76] The civilian membership of the army's paramilitary units consisted largely of right-wing fanatics with ties to the MLN, founded and led by Mario Sandoval Alarcón, a former participant in the 1954 coup. By 1967, the Guatemalan army claimed to have 1,800 civilian paramilitaries under its direct control. [83]

Blacklists were compiled of suspected guerilla's collaborators and those with communist leanings,[84] as troops and paramilitaries moved through Zacapa systematically arresting suspected insurgents and collaborators; prisoners were either killed on the spot or "disappeared" after being taken to clandestine detention camps for interrogation. [75] In villages which the Army suspected were pro-guerrilla, the Army rounded up all of the peasant leaders and publicly executed them, threatening to kill additional civilians if the villagers did not cooperate with the authorities. In a 1976 report, Amnesty International cited estimates that between 3,000 and 8,000 peasants were killed by the army and paramilitary organizations in Zacapa and Izabal between October 1966 and March 1968.[60][85] [86] Other estimates put the death toll at 15,000 in Zacapa during the Mendez period.[87] As a result, Colonel Arana Osorio subsequently earned the nickname "The Butcher of Zacapa" for his brutality.

State of Siege

On 2 November 1966 a nationwide 'state of siege' was declared in Guatemala in which civil rights – including the right to habeas corpus – were suspended. The entire security apparatus – including local police and private security guards – was subsequently placed under then Minister of Defense, Col. Rafael Arriaga Bosque. Press censorship was imposed alongside these security measures, including measures designed to keep the Zacapa campaign entirely shrouded in secrecy. These controls ensured that the only reports made public on the counter-terror program in Zacapa were those handed out by the army's public relations office. Also on the day of the 'state of siege,' a directive was published banning publication of reports on arrests until authorization by military authorities.[79]

At the time of the Zacapa campaign, the government launched a parallel counter-terror program in the cities. Part of this new initiative was the increased militarization of the police forces and the activation of several new counter-terror units of the army and the National Police for performing urban counter-terror functions, particularly extralegal activities against opponents of the state. The National Police were subsequently transformed into an adjunct of the military and became a frontline force in the government's urban pacification program against the left.[88]

In January 1967, the Guatemalan Army formed the 'Special Commando Unit of the Guatemalan Army' – SCUGA – a thirty-five man commando unit composed of anti-communist army officers and right-wing civilians, which was placed under the command of Colonel Máximo Zepeda. The SCUGA – which the CIA referred to as a "government-sponsored terrorist organization...used primarily for assassinations and political abductions"[89] – carried out abductions, bombings, street assassinations, torture, "disappearances" and summary executions of both real and suspected communists. The SCUGA also worked with the Mano Blanca for a period before inter-agency rivalry took over.[90] In March 1967, after Vice-Defense Minister and counterinsurgency coordinator Col. Francisco Sosa Avila was named director-general of the National Police, a special counterinsurgency unit of the National Police known as the Fourth Corps was created to carry out extralegal operations alongside the SCUGA.[91] The Fourth Corps was an illegal fifty-man assassination squad which operated in secrecy from other members of the National Police, taking orders from Col. Sosa and Col. Arriaga.[92]

Operations carried out under by the SCUGA and the Fourth Corps were usually carried out under the guise of paramilitary fronts, such as RAYO, NOA, CADEG and others.[90] By 1967, at least twenty such death squads operated in Guatemala City which posted blacklists of suspected "communists" who were then targeted for murder. These lists were often published with police mugshots and passport photographs which were only accessible to the Ministry of the Interior.[93] In January 1968, a booklet containing 85 names was distributed throughout the country entitled People of Guatemala, Know the Traitors, the Guerillas of the FAR. Many of those named in the booklet were killed or forced to flee. Death threats and warnings were sent to both individuals and organizations; for example, a CADEG leaflet addressed to the leadership of the labor federation FECETRAG read: "Your hour has come. Communists at the service of Fidel Castro, Russia, and Communist China. You have until the last day of March to leave the country."[93] Victims of government repression in the capital included guerrilla sympathizers, labor union leaders, intellectuals, students, and other vaguely defined "enemies of the government." Some observers referred to the policy of the Guatemalan government as "White Terror" -a term previously used to describe similar periods of anti-communist mass killings in countries such as Taiwan and Spain.[94]

By the end of 1967, the counterinsurgency program had resulted in the virtual defeat of the FAR insurgency in Zacapa and Izabal and the retreat of many of its members to Guatemala City. President Mendez Montenegro suggested in his annual message to congress in 1967 that the insurgents had been defeated. Despite the defeat of the insurgency, the government's killings continued. In December 1967, 26-year-old Rogelia Cruz Martinez, former "Miss Guatemala" of 1959, who was known for her left-wing sympathies, was picked up and found dead. Her body showed signs of torture, rape and mutilation. Amidst the outcry over the murder, the FAR opened fire on a carload of American military advisors on 16 January 1968. Colonel John D. Webber (chief of the U.S. military mission in Guatemala) and Naval Attache Lieutenant Commander Ernest A. Munro were killed instantly; two others were wounded. The FAR subsequently issued a statement claiming that the killings were a reprisal against the Americans for creating "genocidal forces" which had "resulted in the death of nearly 4,000 Guatemalans" during the previous two years.[citation needed]

The kidnapping of Archbishop Casariego

On 16 March 1968, kidnappers apprehended Roman Catholic Archbishop Mario Casariego y Acevedo within 100 yards of the National Palace in the presence of heavily armed troops and police. The kidnappers (possible members of the security forces on orders from the army high command) intended to stage a false flag incident by implicating guerilla forces in the kidnapping; the Archbishop was well known for his extremely conservative views and it was considered that he might have organized a "self-kidnapping" to harm the reputation of the guerillas. However, he refused to go along with the scheme and his kidnappers plan to "create a national crisis by appealing to the anti-communism of the Catholic population."[95] The Archbishop was released unharmed after four days in captivity. In the aftermath of the incident, two civilians involved in the operation – Raul Estuardo Lorenzana and Ines Mufio Padilla – were arrested and taken away in a police patrol car. In transit, the car stopped and the police officers exited the vehicle as gunmen sprayed it with submachine gunfire. One press report said Lorenzana's body had 27 bullet wounds and Padilla's 22. The police escorts were unharmed in the assassination. Raul Lorenzana was a known "front man" for the MANO death squad and had operated out of the headquarters of the Guatemalan Army's Cuartel de Matamoros and a government safe house at La Aurora airbase.[96] The army was not left unscathed by the scandal and its three primary leaders of the counterinsurgency program were replaced and sent abroad. Defense Minister Rafael Arriaga Bosque was sent to Miami, Florida to become Consul General; Vice-Defense Minister and Director-General of the National Police, Col. Francisco Sosa Avila was dispatched as a military attache to Spain and Col. Arana Osorio was sent as Ambassador to Nicaragua, which was under the rule of Anastasio Somoza Debayle at the time. Political murders by "death squads" declined in subsequent months and the "state of siege" was reduced to a "state of alarm" on 24 June 1968.[97]

The assassinations of Ambassador John Gordon Mein and Count Karl Von Sprite

The lull in political violence in the aftermath of the "kidnapping" of Archbishop Casariego ended after several months. On 28 August 1968, U.S. Ambassador John Gordon Mein was assassinated by FAR rebels one block from the U.S. consulate on Avenida Reforma in Guatemala City. U.S. officials believed that FAR intended to kidnap him in order to negotiate an exchange, but instead, they shot him when he attempted to escape.[98] Some sources suggested that the high command of the Guatemalan Army was involved in the assassination of Ambassador Mein. This was alleged years later to U.S. investigators by a reputed former bodyguard of Col. Arana Osorio named Jorge Zimeri Saffie, who had fled to the U.S. in 1976 and had been arrested on firearms charges in 1977.[99][100] The Guatemalan police claimed to have "solved" the crime almost immediately, announcing that they had located a suspect on the same day. The suspect "Michele Firk, a French socialist who had rented the car used to kidnap Mein" shot herself as police came to interrogate her.[95] In her notebook Michele had written:

It is hard to find the words to express the state of putrefaction that exists in Guatemala, and the permanent terror in which the inhabitants live. Everyday bodies are pulled out of the Motagua River, riddled with bullets and partially eaten by fish. Every day men are kidnapped right in the street by unidentified people in cars, armed to the teeth, with no intervention by the police patrols.[101]

The assassination of Ambassador Mein led to public calls for tougher counterinsurgency measures by the military and an increase in U.S. security assistance. This was followed by a renewed wave of "death squad" killings of members of the opposition, under the guise of new Defense Minister Col. Rolando Chinchilla Aguilar and Army chief of staff Col. Doroteo Reyes, who were both subsequently promoted to the rank of "General" in September 1968. [102]

On 31 March 1970 West German Ambassador Count Karl Von Sprite was kidnapped when his car was intercepted by armed men belonging to the FAR. The FAR subsequently put out a ransom note in which they demanded $700,000 ransom and the release of 17 political prisoners (which was eventually brought up to 25). The Mendez government refused to cooperate with the FAR, causing outrage among the diplomatic community and the German government. Ten days later on 9 April 1970, Von Sprite was found dead after an anonymous phone call was made disclosing the whereabouts of his remains.

Domination by military rulers

Main article: Carlos Arana Osorio

In July 1970, Colonel Carlos Arana Osorio assumed the presidency. Arana, backed by the army, represented an alliance of the MLN – the originators of the MANO death squad – and the Institutional Democratic Party (MLN-PID). Arana was the first of a string of military rulers allied with the Institutional Democratic Party who dominated Guatemalan politics in the 1970s and 1980s (his predecessor, Julio César Méndez, while dominated by the army, was a civilian). Colonel Arana, who had been in charge of the terror campaign in Zacapa, was an anti-communist hardliner who once stated, "If it is necessary to turn the country into a cemetery in order to pacify it, I will not hesitate to do so."[103][104]

Despite minimal armed insurgent activity at the time, Arana announced another "state of siege" on 13 November 1970 and imposed a curfew from 9:00 PM to 5:00 AM, during which time all vehicle and pedestrian traffic — including ambulances, fire engines, nurses, and physicians—were forbidden throughout the national territory. The siege was accompanied by a series of house to house searches by the police, which reportedly led to 1,600 detentions in the capital in the first fifteen days of the "State of Siege." Arana also imposed dress codes, banning miniskirts for women and long hair for men.[105] High government sources were cited at the time by foreign journalists as acknowledging 700 executions by security forces or paramilitary death squads in the first two months of the "State of Siege".[106] This is corroborated by a January 1971 secret bulletin of the U.S. Defense Intelligence Agency detailing the elimination of hundreds of suspected "terrorists and bandits" in the Guatemalan countryside by the security forces.[107]

While government repression continued in the countryside, the majority of victims of government repression under Arana were residents of the capital. "Special commandos" of the military and the Fourth Corps of the National Police acting "under government control but outside the judicial processes",[108] abducted, tortured and killed thousands of leftists, students, labor union leaders and common criminals in Guatemala City. In November 1970, the 'Judicial Police' were formally disbanded and a new semi-autonomous intelligence agency of the National Police was activated known as the 'Detectives Corps' – with members operating in plainclothes – which eventually became notorious for repression.[109] One method of torture commonly used by the National Police at the time consisted of placing a rubber "hood" filled with insecticide over the victim's head to the point of suffocation.[60]

Some of the first victims of Arana's state of the siege were his critics in the press and in the university. In Guatemala City on 26 November 1970, security forces captured and disappeared journalists Enrique Salazar Solorzano and Luis Perez Diaz in an apparent reprisal for newspaper stories condemning the repression. On 27 November, National University law professor and government critic Julio Camey Herrera was found murdered. On the following day, radio station owner Humberto Gonzalez Juarez, his business associate Armando Bran Valle and a secretary disappeared, their bodies were subsequently found in a ravine. Later in 1975, a former member of the Detective Corps of the National Police – jailed for a non-political murder – took credit for the killing.[110]

In October 1971, over 12,000 students at the University of San Carlos of Guatemala went on a general strike to protest the killing of students by the security forces; they called for an end to the "state of siege." On 27 November 1971, the Guatemalan military responded with an extensive raid on the main campus of the university, seeking cached weapons. It mobilized 800 army personnel, as well as tanks, helicopters and armored cars, for the raid. They conducted a room-to-room search of the entire campus but found no evidence or supplies.[111]

A number of death squads – run by the police and intelligence services – emerged in the capital during this period. In one incident on 13 October 1972, ten people were knifed to death in the name of a death squad known as the "Avenging Vulture." Guatemalan government sources confirmed to the U.S. Department of State that the "Avenging Vulture" and other similar death squads operating during the time period were a "smokescreen" for extralegal tactics being employed by the National Police against non-political delinquents.[112] Another infamous death squad active during this time was the 'Ojo por Ojo' (Eye for an Eye), described in a U.S. State Department intelligence cable as "a largely military membership with some civilian cooperation".[113] The 'Ojo por Ojo' tortured, killed and mutilated scores of civilians linked to the PGT or suspected of collaborating with the FAR in the first half of the 1970s.[8]

According to Amnesty International and domestic human rights organizations such as 'Committee of Relatives of Disappeared Persons', over 7,000 civilian opponents of the security forces were 'disappeared' or found dead in 1970 and 1971, followed by an additional 8,000 in 1972 and 1973.[114] In the period between January and September 1973, the Guatemalan Human Rights Commission documented the deaths and forced disappearances of 1,314 individuals by death squads.[115] The Guatemalan Human Rights Commission estimated 20,000 people killed or "disappeared" between 1970 and 1974.[116]

Amnesty International mentioned Guatemala as one of several countries under a human rights state of emergency, while citing "the high incidence of disappearances of Guatemalan citizens" as a major and continuing problem in its 1972–1973 annual report.[117][118] Overall, as many as 42,000 Guatemalan civilians were killed or "disappeared" between 1966 and 1973.[119]
内戦の初期段階:1960年代と1970年代初頭

1958年、現職のカスティーリョ・アルマス大佐が暗殺され、権力を簒奪したイディゴラス・フエンテス将軍の独裁政権(1958~63年)に対し、 1960年11月13日、国立士官学校の左翼下級将校のグループが反乱を起こし、失敗した。若い将校たちは、イディゴラス政権の驚くべき腐敗、イディゴラ スを支持する将校に軍人の昇進やその他の褒賞を与えるという政府の優遇ぶり、そして国の運営における彼らの無能さに憤慨した。しかし、彼らの反乱の直接的 な引き金となったのは、イディゴラスがグアテマラ軍に相談することなく、また彼がアメリカ政府から受け取った報酬を軍に伝えることなく、キューバへのピッ グス湾侵攻計画に備えてアメリカがグアテマラで侵攻部隊を訓練することを許可したことであった。軍部は、米国在住のキューバ亡命者が操縦する無名の米軍機 が自国上空を大量に飛行し、米国がキューバ侵攻に備えてレタルフレウに秘密の滑走路と訓練キャンプを設置したことから、自国の主権が侵害されることを懸念 した。反乱の起源はイデオロギー的なものではなかった[57]。

CIAはグアテマラ軍のジェット機に偽装したB-26爆撃機を飛ばして反乱軍の基地を爆撃したが、それはクーデターがキューバ侵攻のためのアメリカの計画 だけでなく、それが支援していたグアテマラ政権をも脅かしたからであった。反乱軍はグアテマラ東部と隣接するホンジュラスの丘陵地帯に逃げ込み、MR- 13(Movimiento Revolucionario 13 Noviembre)として知られるようになる核を形成した[58]。生き残った将校たちはグアテマラ東部の丘陵地帯に逃げ込み、後にフィデル・カストロ のキューバ政府と連絡を取り合うようになった。1962年までに、生き残った将校たちは、将校たちの反乱の日にちなんで名付けられたMR-13として知ら れる反政府運動を立ち上げた。

ユナイテッド・フルーツ社のオフィスを襲撃するMR-13

彼らは1962年初めに帰還し、1962年2月6日にバナネラで、グアテマラだけでなく他の中米諸国に広大な領土を支配するアメリカ企業、ユナイテッド・ フルーツ・カンパニー(現在のチキータ・ブランズ)の事務所を襲撃した。この襲撃事件は、グアテマラ全土で同調ストライキや大学生のウォークアウトを引き 起こし、イディゴラス政権は暴力的な弾圧でこれに対抗した。この暴力的な弾圧が内戦の火種となった[58]。

紛争の初期段階を通じて、MR-13はグアテマラの反乱運動の主要な構成要素であった[59]。MR-13は後に非合法なPGT(グアテマラ労働党、中流 階級の知識人と学生によって構成され、指導された)とMovimiento 12 de Abril(4月12日運動)と呼ばれる学生組織と接触を開始し、1962年12月に反乱軍(FAR)と呼ばれる連合ゲリラ組織に合併した。FARには FGEI(エドガー・イバラ・ゲリラ戦線)も加盟していた。MR-13、PGT、FGEIはそれぞれ3つの「フレンテ」(戦線)として国内の異なる地域で 活動した。MR-13はラディーノが多いイザバル県とサカパ県に、FGEIはシエラ・デ・ラス・ミナス県に、PGTは都市ゲリラ戦線として活動した。これ ら3つの「フレンテ」(500人以下の戦闘員で構成)はそれぞれ、1960年の陸軍反乱の元メンバーによって率いられ、彼らは以前にアメリカによって対反 乱戦の訓練を受けていた[60][61][62][63][64]。

政府に対する米国の諜報活動と対反乱援助

1961年CIAによる英領ホンジュラス・グアテマラ国境の地図

1964年と1965年、グアテマラ軍はグアテマラ東部でMR-13に対する反乱作戦に従事し始めた。1964年2月と3月、グアテマラ空軍はイザバルの MR-13基地に対する選択的爆撃作戦を開始し、翌年の9月と10月には「ファルコン作戦」というコードネームの下、近隣のサカパ県で反乱軍の掃討作戦が 行われた[65]。

米国政府がグリーンベレーとCIAの顧問を派遣してグアテマラ軍に対ゲリラ戦を指導したのは、紛争のこの段階であった。さらに、グアテマラ警察部隊を再編 成するために、米国警察と「公安」顧問が派遣された[66]。首都における反政府勢力の活動の活発化に対応して、1965年6月、国家警察の専門部隊が都 市ゲリラ襲撃に対処するために「コマンド・シックス」(Comando Seis)と呼ばれる特殊部隊を組織した。コマンドー・シックス」は米国公安プログラムから特別訓練を受け、米国公安アドバイザーから資金と武器を受け 取った[67]。

1965年11月、ジョン・ロンガン米国公安顧問は、ベネズエラの赴任先からグアテマラに一時的に出向して到着し、軍と警察の高官を支援して都市反乱プロ グラムを確立した[68]。ロンガンの支援を受けて、グアテマラ軍はラファエル・アリアガ・ボスケ大佐の指揮の下、都市反乱プログラム「リンピエサ作戦」 (クリーンアップ作戦)を開始した。この作戦は、グアテマラの主要な治安機関(陸軍、司法警察、国家警察を含む)の活動を調整し、秘密裡に、また公然と対 ゲリラ作戦を展開した。アリアガの指揮の下、治安部隊はPGTの主要構成員を拉致、拷問、殺害し始めた[69]。

エンリケ・ペラルタ・アズールディア大統領は、米国のアドバイザーからの資金と支援を受けて、国立宮殿内に大統領情報局を設立し、その下に、国家警察、財 務省警備隊、司法警察、大統領官邸、軍事通信センターをVHF-FMの都市内周波数で結ぶ地域通信センター(La Regional)として知られる通信データベースが存在した。このネットワークは、1954年のクーデター後にCIAによって作られた「共産主義に反対 する委員会」に基づいて構築された[71]。

国家テロの激化

1966年3月3日と5日、G-2(軍事情報部)と司法警察はグアテマラ・シティの3つの家屋を急襲し、28人の労働組合員とPGTのメンバーを捕らえ た。捕らえられた者の中には、PGT中央委員会の大部分と農民連盟指導者のレオナルド・カスティージョ・フローレスも含まれていた。その後、全員が治安部 隊に拘束されたまま「失踪」し、その後数カ月間、グアテマラのマスコミによって「28人」として知られるようになった。この事件の後、グアテマラ・シティ と地方で原因不明の「失踪」と殺害が相次ぎ、グアテマラ・シティのマスコミによって報道された。報道検閲が一時解除されると、「28人」やサカパ・イサバ ル軍事地帯で「失踪」した人々の親族が、報道機関や大学生協会(AEU)に相談に行った。AEUはその後、法務部を利用して、「失踪」した人々のために人 身保護令状を請求した。政府は殺害と失踪への関与を否定した。1966年7月16日、AEUはペラルタ政権最後の数ヶ月間の虐待に関する詳細な報告書を発 表し、その中で殺害と失踪に関与した35人の個人を挙げ、その中には軍事委員やG-2と連携した機動軍事警察(PMA)のメンバーも含まれていた [72]。この報告書の発表後、AEUとサンカルロス大学に対する「決死隊」の攻撃が激化し始めた。多くの法学部の学生やAEUのメンバーが暗殺された [73]。

このような戦術の使用は、フリオ・セザール・メンデス・モンテネグロ大統領の就任後に劇的に増加した。彼は、軍部をなだめ、軍部の支持を確保するために、 軍部に、国を平和にするために「必要なあらゆる手段」に従事する全権を与えた。その後、軍は大統領府から独立して対反乱プログラムを運営し、国防副大臣の マヌエル・フランシスコ・ソサ・アビラ大佐を主要な「対反乱コーディネーター」に任命した。さらに陸軍参謀本部と国防省は、ラ・リージョナル分室を管理し ていた大統領情報局を掌握し、グアテマラ国家安全保障局(Servicio de Seguridad Nacional de Guatemala - SSNG)と改称した[74]。

都市部でも田舎でも、左翼シンパと疑われた人物が失踪したり、死体で発見されたりすることがかつてない勢いで起こり始めた。田舎では、ほとんどの「失踪」 と殺害は、軍服を着た軍隊のパトロール隊と地元で知られるPMAまたは軍事委員によって実行され、一方、都市では、拉致と「失踪」は通常、軍隊と警察の施 設から活動する私服の重武装した男たちによって実行された[75]。

この時期に活動していた最も悪名高い決死隊のひとつが、マノ・ブランカ(「白い手」)としても知られるMANOであった。当初、MANOは、メンデス・モ ンテネグロ大統領の就任を阻止するため、1966年6月にMLNによって準軍事戦線として結成されたが、すぐに軍に引き継がれ、国家の対テロ組織に組み込 まれた。 [76]MANOは、政府から独立して結成された唯一の決死隊でありながら、大部分は軍のメンバーであり、裕福な地主たちから多額の資金援助を受けていた [77]。MANOはまた、ラ・リージョナルを通じて軍の諜報機関から情報を得ており、ラ・リージョナルは陸軍参謀本部と主要な治安部隊のすべてとつな がっていた[78]。

MANOによる最初のビラは1966年6月3日にグアテマラ・シティに現れ、「白い手」あるいは「祖国への反逆者と反逆者を撲滅する手」の差し迫った創設 を告知した[79]。1966年8月、MANOのビラはラ・アウロラ空軍基地の空軍セクションに公然と着陸する軽飛行機によってグアテマラ・シティ上空で 配布された。その主なメッセージは、すべての愛国的市民は軍隊の反乱イニシアチブを全面的に支持しなければならず、軍隊は「どの緯度においても最も重要な 機関であり、権威の代表であり、秩序の代表であり、尊敬の代表」であり、「それを攻撃し、それを分裂させ、その破壊を望むことは、紛れもなく祖国に対する 反逆である」というものであった[80]。

サカパにおける反乱

アメリカからの軍事援助の増加により、5,000人のグアテマラ軍は1966年10月、サカパ県とイザバル県で「グアテマラ作戦」と呼ばれる大規模な平和 化活動を行った。アラナ・オソリオ大佐がサカパ・イザバル軍事地帯の司令官に任命され、1,000人の米国グリーンベレーの指導と訓練を受けて、対テロプ ログラムを指揮した[81]。アラナ大佐の管轄下で、軍事戦略家たちは、正規軍と警察部隊を補完するために、さまざまな準軍事的決死隊を武装させて実戦投 入し、FARの民間人支援基盤に対する秘密テロ作戦を展開した。これらの組織には、軍から人員、武器、資金、作戦指示が提供された[82]。決死隊は、政 府によって反乱分子または反乱分子協力者とみなされた市民を殺害することが許可されていたため、不自由なく活動した[76]。軍の準軍事組織の市民メン バーは、1954年のクーデターの元参加者であるマリオ・サンドバル・アラルコンによって創設され率いられたMLNとつながりのある右翼狂信者から主に構 成されていた。1967年までにグアテマラ軍は1,800人の民間の準軍事組織を直接支配下に置いていると主張した。[83]

軍と準軍事組織がサカパを組織的に移動し、反乱軍と反乱軍協力者と疑われる者たちを逮捕するなかで、ゲリラの協力者と疑われる者たちのブラックリストが作 成され[84]、囚人たちはその場で殺されるか、尋問のために秘密の収容所に連行された後に「失踪」した。捕虜はその場で殺されるか、秘密収容所に連行さ れた後に「失踪」した。[75]陸軍が親ゲリラだと疑った村では、陸軍は農民指導者を全員検挙して公開処刑し、村民が当局に協力しなければさらに民間人を 殺すと脅した。1976年の報告書で、アムネスティ・インターナショナルは、1966年10月から1968年3月の間にサカパとイザバルで3,000人か ら8,000人の農民が軍と準軍事組織によって殺害されたという推定を引用した[60][85][86] 他の推定では、メンデス時代のサカパでの死者数は15,000人とされている[87] その結果、アラナ・オソリオ大佐はその後、その残虐性から「サカパの虐殺者」というニックネームを得た。

包囲状態

1966年11月2日、グアテマラで全国的な「包囲状態」が宣言され、人身保護権を含む公民権が停止された。その後、地方警察や民間の警備員を含む治安組 織全体が、当時の国防大臣ラファエル・アリアガ・ボスケ大佐の下に置かれた。サカパ作戦を完全に秘密にするための措置も含め、こうした治安対策と並行して 報道検閲が行われた。こうした統制によって、サカパでのテロ対策プログラムについて公表されるのは、軍の広報室から配られる報告書だけとなった。また「包 囲状態」の当日には、軍当局の承認があるまで逮捕に関する報告の公表を禁止する指令が発表された[79]。


サカパ・キャンペーンのとき、政府は都市における並行テロ対策プログラムを 開始した。この新たなイニシアチブの一環として、警察部隊の軍事化が強化され、 都市部での対テロ機能、特に国家の敵対者に対する非合法的な活動を行うために、陸軍と国家警察のいくつかの新しい対テロ部隊が活性化された。国家警察はそ の後、軍の付属部隊へと変貌し、左翼に対する政府の都市平定プログラムの最前線部隊となった[88]。


1967年1月、グアテマラ陸軍は「グアテマラ陸軍特別コマンド部隊」-SCUGA-を結成した。SCUGAは反共軍将校と右翼市民から構成された35人 のコマンド部隊で、マキシモ・ゼペダ大佐の指揮下に置かれた。SCUGAは、CIAが「政府が支援するテロ組織...主に暗殺と政治的拉致のために使用さ れる」[89]と称した組織で、本物の共産主義者と疑わしい共産主義者の拉致、爆弾テロ、路上暗殺、拷問、「失踪」、即決処刑を行った。1967年3月、 国防副大臣で対反乱コーディネーターのフランシスコ・ソサ・アビラ大佐が国家警察長官に任命されると、国家警察の対反乱特別部隊として知られる第4部隊が 創設され、SCUGAとともに非合法活動を行った[91]。 [91] 第4部隊は、ソサ大佐とアリアガ大佐の命令を受け、国家警察の他のメンバーから秘密裏に活動する50人の非合法暗殺部隊であった[92]。


SCUGAと第4部隊の下で実行された作戦は、通常、RAYO、NOA、CADEGなどの準軍事戦線を装って実行された[90]。1967年までに、少な くとも20のこのような暗殺部隊がグアテマラ・シティで活動し、殺人の標的とされた「共産主義者」と疑われる人物のブラックリストを掲載していた。 1968年1月、「グアテマラの人々よ、裏切り者、FARのゲリラを知れ」と題された85人の名前を含む小冊子がグアテマラ全土に配布された。小冊子に名 前を挙げられた者の多くは殺されるか、逃亡を余儀なくされた。殺害予告や警告は、個人と組織の両方に送られた。例えば、CADEGのリーフレットは、労働 総連合FECETRAGの指導部に宛てられ、こう書かれていた: 「あなたの時代が来た。フィデル・カストロ、ロシア、共産中国に仕える共産主義者たちよ。3月末日までに出国せよ」[93]。首都で政府の弾圧の犠牲に なったのは、ゲリラのシンパ、労働組合の指導者、知識人、学生、その他漠然と定義された「政府の敵」であった。一部のオブザーバーはグアテマラ政府の政策 を「ホワイト・テロ」と呼んだが、これは以前、台湾やスペインなどの国々で同様の反共産主義者による大量殺戮の時期を表すのに使われていた言葉である [94]。


1967年末までに、対反乱プログラムは、サカパとイザバルにおけるFAR反乱軍の事実上の敗北と、そのメンバーの多くがグアテマラ・シティに退却すると いう結果をもたらした。メンデス・モンテネグロ大統領は1967年、議会への年次メッセージで、反乱軍は敗北したと示唆した。反乱軍の敗北にもかかわら ず、政府による殺害は続いた。1967年12月、1959年の元「ミス・グアテマラ」で、左翼シンパとして知られていた26歳のロジェリア・クルス・マル ティネスが逮捕され、遺体で発見された。彼女の遺体には拷問、レイプ、切断の跡があった。1968年1月16日、この殺人事件への反発の中、連邦保安庁が アメリカ軍の顧問団を乗せた車に発砲した。ジョン・D・ウェバー大佐(在グアテマラ米軍公館長)とアーネスト・A・マンロー海軍中佐が即死、他2人が負傷 した。その後、FARは、この殺害は、それまでの2年間に「4,000人近いグアテマラ人を死に至らしめた」「大量虐殺勢力」を作り出したアメリカ人に対 する報復であると主張する声明を発表した[要出典]。


カサリエゴ大司教誘拐事件

1968年3月16日、誘拐犯は、重武装した軍隊と警察の面前で、ローマ・カトリックのマリオ・カサリエゴ・イ・アセベド大司教を国立宮殿から100ヤー ド以内で逮捕した。誘拐犯(陸軍上層部の命令を受けた治安部隊のメンバーの可能性)は、ゲリラ部隊を誘拐に関与させることで、偽旗事件を演出するつもり だった。大司教は極めて保守的な見解でよく知られており、ゲリラの評判を落とすために「自己誘拐」を組織したのではないかと考えられた。しかし、大司教は この計画に乗ることを拒否し、誘拐犯は「カトリック信者の反共主義に訴えることで国家的危機を作り出す」ことを計画した[95]。事件の余波で、作戦に関 与した2人の民間人、ラウル・エストゥアルド・ロレンサナとイネス・ムフィオ・パディージャが逮捕され、警察のパトカーで連行された。移動中、車は停車 し、警察官たちは銃撃者がサブマシンガンを浴びせる中、車を降りた。ある報道によると、ロレンサナの遺体には27発、パディラの遺体には22発の銃弾が あったという。この暗殺事件で護衛の警察官は無傷だった。ラウル・ロレンサナはMANO決死隊の「フロントマン」として知られ、グアテマラ陸軍のクアルテ ル・デ・マタモロス本部とラ・アウロラ空軍基地の政府の隠れ家を拠点に活動していた[96]。軍はこのスキャンダルに無傷ではいられず、対反乱プログラム の3人の主要指導者が交代し、海外に派遣された。ラファエル・アリアガ・ボスケ国防相はフロリダ州マイアミに派遣され総領事となり、フランシスコ・ソサ・ アビラ国防副大臣兼国家警察長官はスペイン駐在武官として派遣され、アラナ・オソリオ大佐は当時アナスタシオ・ソモサ・デバイレの支配下にあったニカラグ ア駐在大使として派遣された。死の部隊」による政治的殺人はその後の数ヶ月で減少し、「包囲状態」は1968年6月24日に「警戒状態」へと縮小された [97]。


ジョン・ゴードン・マイン大使とカール・フォン・スプライト伯爵の暗殺

カサリエゴ大司教の「誘拐」の余波による政治的暴力の小康状態は、数ヵ月後に終わった。1968年8月28日、ジョン・ゴードン・マイン米国大使が、グア テマラ・シティのレフォルマ通りにある米国領事館から1ブロックのところで、FARの反乱軍によって暗殺された。米政府関係者は、FARが交換交渉のため に彼を誘拐するつもりだったと考えたが、その代わりに、彼が逃げようとしたときに射殺された[98]。いくつかの情報源は、グアテマラ軍の最高司令部がマ イン大使の暗殺に関与していたことを示唆した。これは、1976年に米国に逃亡し、1977年に銃器使用容疑で逮捕されたホルヘ・ジメリ・サフィというア ラナ・オソリオ大佐の元ボディガードとされる人物によって、数年後に米国の捜査当局に主張されたことであった[99][100]。 グアテマラ警察は、ほぼ即座にこの犯罪を「解決」したと主張し、その日のうちに容疑者を突き止めたと発表した。その容疑者「ミケーレ・ファークは、マイン の誘拐に使われた車を借りていたフランス人社会主義者」で、警察が彼女を取り調べに来たときに拳銃自殺した[95]:


グアテマラに存在する腐敗の状態、そして住民たちが生きる永続的な恐怖を表現する言葉を見つけるのは難しい。モタグア川からは毎日、銃弾を浴びた死体が引 き上げられ、一部は魚に食べられている。警察のパトロールが介入することもなく、毎日、路上で、武装した車に乗った正体不明の人々によって男性が誘拐され ている[101]。


マイン大使が暗殺されたことで、軍によるより厳しい対反乱対策と米国の安全保障援助の増額を求める世論が高まった。これに続いて、新国防大臣ロランド・チ ンチラ・アギラール大佐と陸軍参謀長ドロテオ・レイエス大佐が、1968年9月に「大将」に昇進したことを口実に、反対派メンバーの「決死隊」による殺害 が再開された。[102]


1970年3月31日、西ドイツ大使カール・フォン・スプライト伯爵は、FARの武装した男たちに車を妨害され、誘拐された。その後、FARは身代金70 万ドルと17人の政治犯(最終的には25人にまで引き上げられた)の釈放を要求する身代金要求書を出した。メンデス政府はFARとの協力を拒否し、外交界 とドイツ政府の怒りを買った。10日後の1970年4月9日、フォン・スプライトは匿名の電話で遺体の所在を知られ、遺体で発見された。


軍事政権による支配

主な記事 カルロス・アラナ・オソリオ

1970年7月、カルロス・アラナ・オソリオ大佐が大統領に就任。軍の支援を受けたアラナは、MANO決死隊の発案者であるMLNと制度民主党(MLN- PID)の同盟を代表した。アラナは、1970年代から1980年代にかけてグアテマラの政治を支配した、制度民主党と手を組んだ一連の軍人支配者の最初 の人物であった(彼の前任者フリオ・セザール・メンデスは、軍が支配していたとはいえ、文民であった)。サカパでのテロ作戦を担当していたアラナ大佐は反 共強硬派で、「国を平和にするために墓地にする必要があるなら、私は躊躇なくそうする」と述べたこともある[103][104]。


当時、武装反乱軍の活動は最小限であったにもかかわらず、アラナは1970年11月13日に再び「包囲状態」を宣言し、午後9時から午前5時まで夜間外出 禁止令を出し、その間、救急車、消防車、看護師、医師を含むすべての車両と歩行者の通行は国土全域で禁止された。包囲は警察による家宅捜索を伴い、"包囲 状態 "の最初の15日間で首都で1,600人が拘束されたと報告されている。アラナはまた服装規定を課し、女性のミニスカートと男性の長髪を禁止した [105]。当時、外国人ジャーナリストによって引用された政府高官筋は、「包囲状態」の最初の2ヶ月間に治安部隊または準軍事的な決死隊によって700 人が処刑されたことを認めている[106]。 これは、治安部隊によってグアテマラの田舎で「テロリストと盗賊」と疑われた数百人が排除されたことを詳述した、1971年1月のアメリカ国防情報局の秘 密情報によって裏付けられた[107]。


田舎では政府の弾圧が続いたが、アラナの下での政府の弾圧の犠牲者の大半は首都の住民であった。「政府の統制下でありながら司法手続きの外で」行動する軍 と国家警察の第4部隊の「特殊コマンド」[108]は、グアテマラ・シティで数千人の左翼、学生、労働組合の指導者、常習犯を拉致し、拷問し、殺害した。 1970年11月、「司法警察」は正式に解体され、国家警察の新しい半自律的な情報機関として、私服で活動するメンバーで構成される「刑事団」が発足し、 最終的には弾圧で悪名高いものとなった[109]。 当時国家警察が一般的に使用していた拷問方法のひとつは、殺虫剤を入れたゴム製の「フード」を被害者の頭からかぶせて窒息させるというものであった [60]。


アラナによる包囲状態の最初の犠牲者の一部は、マスコミや大学における彼の批判者であった。1970年11月26日、グアテマラシティで、治安部隊は、弾 圧を非難する新聞記事に対する明らかな報復として、ジャーナリストのエンリケ・サラサール・ソロルサノとルイス・ペレス・ディアスを捕らえ、消息を絶っ た。11月27日、国立大学法学部教授で政府批判者のフリオ・カメイ・エレーラが殺害されているのが発見された。翌日、ラジオ局経営者のウンベルト・ゴン ザレス・フアレス、仕事仲間のアルマンド・ブラン・バジェ、秘書が失踪し、その後、谷間で遺体が発見された。その後、1975年に、国家警察の刑事部隊の 元メンバー(非政治的な殺人罪で収監)が、この殺人の手柄を立てた[110]。


1971年10月、グアテマラ・サンカルロス大学の12,000人以上の学生が、治安部隊による学生殺害に抗議するゼネストを行い、「包囲状態」の終結を 求めた。1971年11月27日、グアテマラ軍は武器庫を求めて大学のメインキャンパスを大々的に襲撃した。800人の軍人と戦車、ヘリコプター、装甲車 を動員した。彼らはキャンパス全体を一部屋一部屋捜索したが、証拠も物資も見つからなかった[111]。


この時期、首都では警察と諜報機関によって運営される多くの決死隊が出現した。1972年10月13日のある事件では、"復讐するハゲタカ "として知られる決死隊の名の下に、10人がナイフで刺殺された。グアテマラ政府筋は米国務省に対し、この時期に活動していた「復讐のハゲタカ」やその他 の類似の決死隊は、国家警察が非政治的な非行者に対して採用していた非合法戦術の「煙幕」であったことを確認した[112]。 [112] この時期に活動していたもうひとつの悪名高い決死隊は、「オホ・ポル・オホ」(目には目を)で、米国務省の情報公電では「民間人の協力もあったが、大部分 は軍人のメンバーであった」と記述されている[113]。「オホ・ポル・オホ」は、1970年代前半に、PGTに関係する、あるいはFARに協力した疑い のある民間人を拷問し、殺害し、切断した[8]。


アムネスティ・インターナショナルや「失踪者親族委員会」などの国内の人権団体によれば、1970年と1971年には治安部隊に反対する7,000人以上 の民間人が「失踪」または死体で発見され、1972年と1973年にはさらに8,000人が失踪した[114]。 グアテマラ人権委員会は、1973年1月から9月の間に、決死隊による1,314人の死亡と強制失踪を記録した[115]。


アムネスティ・インターナショナルは、1972年から1973年の年次報告書において、「グアテマラ市民の失踪の多発」を主要かつ継続的な問題として挙げ ながら、人権非常事態下にあるいくつかの国の一つとしてグアテマラに言及した[117][118]。 全体として、1966年から1973年の間に42,000人ものグアテマラ市民が殺害されるか「失踪」した[119]。内戦の初期段階:1960年代と 1970年代初頭

Franja Transversal del Norte

Main article: Franja Transversal del Norte

Location of Franja Transversal del Norte -Northern Transversal Strip- in Guatemala.

The first settler project in the FTN was in Sebol-Chinajá in Alta Verapaz. Sebol, then regarded as a strategic point and route through Cancuén river, which communicated with Petén through the Usumacinta River on the border with Mexico and the only road that existed was a dirt one built by President Lázaro Chacón in 1928. In 1958, during the government of General Miguel Ydígoras Fuentes, the Inter-American Development Bank (IDB) financed infrastructure projects in Sebol.[b] In 1960, then Army captain Fernando Romeo Lucas García inherited Saquixquib and Punta de Boloncó farms in northeastern Sebol. In 1963 he bought the farm "San Fernando" El Palmar de Sejux and finally bought the "Sepur" farm near San Fernando. During those years, Lucas was in the Guatemalan legislature and lobbied in Congress to boost investment in that area of the country.[120]

In those years, the importance of the region was in livestock, exploitation of precious export wood, and archaeological wealth. Timber contracts were granted to multinational companies such as Murphy Pacific Corporation from California, which invested US$30 million for the colonization of southern Petén and Alta Verapaz, and formed the North Impulsadora Company. Colonization of the area was made through a process by which inhospitable areas of the FTN were granted to native peasants.[121]

In 1962, the DGAA became the National Institute of Agrarian Reform (INTA), by Decree 1551 which created the law of Agrarian Transformation. In 1964, INTA defined the geography of the FTN as the northern part of the departments of Huehuetenango, Quiché, Alta Verapaz and Izabal and that same year priests of the Maryknoll order and the Order of the Sacred Heart began the first process of colonization, along with INTA, carrying settlers from Huehuetenango to the Ixcán sector in Quiché.[122]

It is of public interest and national emergency, the establishment of Agrarian Development Zones in the area included within the municipalities: San Ana Huista, San Antonio Huista, Nentón, Jacaltenango, San Mateo Ixtatán, and Santa Cruz Barillas in Huehuetenango; Chajul and San Miguel Uspantán in Quiché; Cobán, Chisec, San Pedro Carchá, Lanquín, Senahú, Cahabón and Chahal, in Alta Verapaz and the entire department of Izabal.

-- Decreto 60–70, artítulo 1o.[123]
The Northern Transversal Strip was officially created during the government of General Carlos Arana Osorio in 1970, by Legislative Decree 60–70, for agricultural development.[124]

Guerrilla Army of the Poor

Main article: Guerrilla Army of the Poor

On 19 January 1972, members of a new Guatemalan guerrilla movement (made up of surviving former leaders of the FAR) entered Ixcán, from Mexico, and were accepted by many farmers; in 1973, after an exploratory foray into the municipal seat of Cotzal, the insurgent group decided to set up camp underground in the mountains of Xolchiché, municipality of Chajul.[125]

In 1974 the insurgent guerrilla group held its first conference, where it defined its strategy of action for the coming months and called itself Guerrilla Army of the Poor (-Ejército Guerrillero de Los Pobres -EGP-). In 1975 the organization had spread around the area of the mountains of northern municipalities of Nebaj and Chajul. As part of its strategy, EGP decided to perpetrate notorious acts which also symbolized the establishment of a "social justice" against the inefficiency and ineffectiveness of the judicial and administrative State institutions. They also wanted that with these actions the indigenous rural population of the region identified with the insurgency, thus motivating them to join their ranks. As part of this plan it was agreed to do the so-called "executions"; in order to determine who would be subject to "execution", the EGP gathered complaints received from local communities. For example, they selected two victims: Guillermo Monzón, who was a military Commissioner in Ixcán and José Luis Arenas, the largest landowner in the area, and who had been reported to the EGP for allegedly having land conflicts with neighboring settlements and abusing their workers.[125][c]


ノルテ横断鉄道

主な記事 フランハ・トランスヴェルサル・デル・ノルテ

グアテマラのフランハ・トランスヴェルサル・デル・ノルテ(北部横断帯)の位置。

FTNにおける最初の入植者プロジェクトは、アルタ・ベラパスのセボル-シナハであった。セボルは当時、メキシコとの国境にあるウスマシンタ川を通じてペ テンと連絡していたカンクエン川を通るルートであり、戦略上の要衝とみなされていた。1958年、ミゲル・イディゴラス・フエンテス将軍の政権時代に、米 州開発銀行(IDB)はセボルのインフラ・プロジェクトに融資した[b] 1960年、当時の陸軍大尉フェルナンド・ロメオ・ルーカス・ガルシアは、セボル北東部のサキスキブとプンタ・デ・ボロンコ農場を相続した。1963年に は「サン・フェルナンド」エル・パルマル・デ・セジュクス農場を購入し、最終的にはサン・フェルナンド近郊の「セプール」農場を購入した。この時期、ルー カスはグアテマラ議会議員を務め、同国の同地域への投資を促進するよう議会に働きかけた[120]。

当時、この地域の重要性は、畜産、貴重な輸出木材の開発、考古学的な富であった。木材契約は、ペテン南部とアルタ・ベラパスの植民地化のために3,000 万米ドルを投資し、ノース・インプルサドーラ社を設立したカリフォルニアのマーフィー・パシフィック社などの多国籍企業に付与された。この地域の植民地化 は、FTNの人を寄せ付けない地域が先住民の農民に与えられるというプロセスを通じて行われた[121]。

1962年、農地改革法を制定した法令1551号によって、DGAAは国立農地改革研究所(INTA)となった。1964年、INTAはFTNの地理をフ エヘテナンゴ県、キチェ県、アルタ・ベラパス県、イザバル県の北部と定義し、同年、メリーノール修道会と聖心修道会の司祭たちがINTAとともに、フエヘ テナンゴからキチェのイクスカン地区への入植者を運ぶ最初の植民地化プロセスを開始した[122]。

公共的な関心と国家的な緊急事態であり、市町村に含まれる地域に農業開発地帯を設立することである: フエウエテナンゴのサン・アナ・ウイスタ、サン・アントニオ・ウイスタ、ネントン、ハカルテナンゴ、サン・マテオ・イスタタン、サンタ・クルス・バリジャ ス、キチェのチャジュルとサン・ミゲル・ウスパンタン、アルタ・ベラパスのコバン、チセック、サン・ペドロ・カルチャ、ランキン、セナフー、カハボン、 チャハル、イザバル県全域。

-- Decreto 60-70, artítulo 1o.[123]。
北部横断帯は、カルロス・アラナ・オソリオ将軍の政権時代の1970年に、農業開発のために政令60-70号によって正式に創設された[124]。

貧民ゲリラ軍団

主な記事 貧民ゲリラ軍

1972年1月19日、新しいグアテマラ・ゲリラ運動(FARの生き残りの元指導者たちから成る)のメンバーがメキシコからイクスカンに入り、多くの農民 たちに受け入れられた。1973年、コツァルの市庁所在地に探検的に侵入した後、反乱グループはチャジュルの自治体であるソルチチェの山中に地下キャンプ を張ることを決定した[125]。

1974年、反乱ゲリラ・グループは最初の会議を開き、そこで今後数ヶ月の行動戦略を定義し、自らを貧民ゲリラ軍(Ejército Guerrillero de Los Pobres -EGP-)と名乗った。1975年、この組織はネバジとチャジュルの北部自治体の山間部一帯に広がっていた。その戦略の一環として、EGPは、司法・行 政国家機関の非効率・無能に対する「社会正義」の確立を象徴する悪名高い行為を行うことを決定した。彼らはまた、こうした行為によって、この地域の先住民 である農村住民が反乱軍に同調し、彼らの仲間入りをする動機付けになることを望んでいた。この計画の一環として、いわゆる「処刑」を行うことが合意され た。「処刑」の対象となる人物を決定するために、EGPは地元コミュニティから寄せられた苦情を集めた。例えば、彼らは2人の犠牲者を選んだ: 例えば、イクスカンの軍事委員であったギジェルモ・モンソンと、この地域で最大の地主であり、近隣の集落との土地紛争や労働者の虐待の疑いでEGPに報告 されていたホセ・ルイス・アレナスである[125][c]。

Mass movement for social reforms: 1974–1976

For several years after the "state of siege," the insurgency was largely inactive, having been defeated and demoralized on all fronts. Massive economic inequality persisted, compounded by external factors such the 1973 oil crisis, which led to rising food prices, fuel shortages, and decreased agricultural output due to the lack of imported goods and petrol-based fertilizers. A blatant electoral fraud during the 1974 presidential elections favored Arana's Defense Minister, General Kjell Eugenio Laugerud García, who was also a veteran of the 1966–68 Zacapa campaign.[126] Laugerud, like his predecessor, represented the right-wing alliance between the MLN and the Institutional Democratic Party (MLN-PID), this time against a center-left alliance promoting the ticket of Christian Democrat General José Efraín Ríos Montt (later president from 1982 to 1983) and leftist economist Alberto Fuentes Mohr. Inflation, imbalance, public outrage at the electoral fraud, and discontent with human rights violations generated widespread protest and civil disobedience. A mass social movement emerged that persisted throughout much of the decade.

Coinciding with the election of Kjell Laugerud was the rise to prominence of labor organizations in rural Guatemala, such as the CUC. When the CUC (Committee for Peasant Unity) first began organizing in the countryside in the early 1970s more than 300,000 rural peasants left the Guatemalan altiplano every year to work on plantations on the Pacific coast to supplement their minuscule earnings. The CUC was the first Indian-led national labor organization and the first to unite Ladino workers and Indian farmers in a struggle for better working conditions.[127] The growth of cooperatives could be attributed to the fact that the new military government – at least on the surface – appeared to support the establishment of cooperatives and unions to improve working conditions.

Unlike his predecessor, General Laugerud did not begin his term with the use of military repression to consolidate power and seemed to favor negotiation between unions and industries over than silencing the workers through violence.[128] The public support given to cooperatives under General Laugerud prompted the U.S. Agency for International Development (AID) to grant Guatemala $4,500,000 to finance the purchase of fertilizers and other supplies, while the Inter-American Development Bank granted an additional $15,000,000 for "cooperative development" in early 1976.[129]

On Saturday, 7 June 1975 landowner José Luis Arenas was assassinated on the premises of his farm "La Perla." In front of his office there were approximately two to three hundred peasant workers to receive payment. Hidden among the workers were four members of the EGP, who destroyed the communication radio of the farm and executed Arenas. Following the assassination, the guerrillas spoke in Ixil language to the farmers, informing them that they were members of the Guerrilla Army of the Poor and had killed the "Ixcán Tiger" due to his alleged multiple crimes against community members. The attackers then fled towards Chajul,[125] while José Luis Arenas' son, who was in San Luis Ixcán at the time, took refuge in a nearby mountain and awaited the arrival of a plane to take him directly to Guatemala City to the presidential palace. There he immediately reported the matter to Minister of Defense, General Fernando Romeo Lucas García. Romeo Lucas replied, "You are mistaken, there are no guerrillas in the area".[125]

Despite the Defense Minister's denial of the presence of guerrillas in Ixcán, the government responded to these new guerrilla actions by systematically eliminating many cooperative leaders in the Guatemalan highlands. While the new government appeared to support cooperative development on the surface, previous statements had been made by General Laugerud in which he had condemned cooperatives as a facade for Soviet Communism.[130] Due to the fact that cooperatives had largely been drawn out into the open, it was relatively easy for the intelligence services to collate the names of cooperative members in order to designate targets for an extermination program, which seems to have begun shortly thereafter.

On 7 July 1975, one month to the date after the assassination of Arenas, a contingent of army paratroopers arrived in the marketplace of Ixcán Grande. There they seized 30 men who were members of the Xalbal cooperative and took them away in helicopters; all were subsequently "disappeared".[131] The case of the thirty men seized on 7 July, as well as seven other cases of "disappearances" among the same cooperative were named in a sworn statement to General Kjell Laugerud in November 1975. The Ministry of the Interior responded by denying that the "disappeared" persons had been taken by the government.[132] That same month, a disturbing mimeographed letter sent to Guatemala City cooperatives in the name of the MANO "death squad" was reported in the press:

We know of your PROCOMMUNIST attitude...We know by experience that all labor organizations and cooperatives always fall into the power of Communist Leaders infiltrated into them. We have the organization and the force to prevent this from happening again... There are THIRTY THOUSAND CLANDESTINE PEASANT GRAVES TO BEAR WITNESS....[133]

A total of 60 cooperative leaders were murdered or "disappeared" in Ixcan between June and December 1975. An additional 163 cooperative and village leaders were assassinated by death squads between 1976 and 1978. Believing that the Catholic Church constituted a major part of the social base of the EGP, the regime also began singling out targets among the catechists. Between November 1976 and December 1977, death squads murdered 143 Catholic Action catechists of the 'Diocese of El Quiche.'[134] Documented cases of killings and forced disappearances during this time represent a small fraction of the true number of killings by government forces, especially in the indigenous highlands, as many killings of persons went unreported.

On 4 February 1976, a devastating 7.5 Mw earthquake shook Guatemala. Over 23,000 Guatemalans perished in the disaster and close to a million were left without adequate housing. The earthquake had a political effect as well: the visible incapacity and corruption of the government to deal with the effects of the catastrophe led to a rise in independent organizing and left many survivors deeply critical of the government. The political system was ineffective to ensure the welfare of the populace. In the aftermath of the earthquake, more citizens wanted infrastructural reforms, and many saw it as the government's responsibility to invest in these improvements. In the poor barrios disproportionately affected by the quake, due to poor infrastructure, neighborhood groups helped to rescue victims or dig out the dead, distribute water, food and reconstruction materials, and prevent looting by criminals.[135] The political pressures generated in the aftermath of the earthquake put greater pressure on the military government of Guatemala to induce reforms. The security forces subsequently took advantage of the disorder to engage in a wave of political assassinations in Guatemala City, of which 200 cases were documented by Amnesty International.[136] A period of increased militarization began in the Indian highlands after the earthquake, accompanied by additional counterinsurgency operations.

At the same time, the Guatemalan government was becoming increasing isolated internationally. In 1977, the administration of US-president Jimmy Carter targeted Guatemala and several other Latin American regimes for a reduction in military assistance in pursuance with Section 502B of the Foreign Assistance Act, which stated that no assistance will be provided to a government "engages in a consistent pattern of gross violations of internationally recognized human rights."[137]


社会改革を求める大衆運動:1974-1976年

包囲状態」後の数年間、反政府勢力はほとんど活動せず、あらゆる面で敗北し、戦意を喪失した。大規模な経済的不平等が続き、1973年の石油危機などの外 的要因も重なり、食料価格の高騰、燃料不足、輸入品やガソリン系肥料の不足による農業生産の減少を招いた。1974年の大統領選挙では、明白な不正選挙が 行われ、アラナ国防相のキェル・エウジェニオ・ラウゲルド・ガルシア将軍が支持された。 [126] ラウゲルドは、前任者と同様、MLNと制度的民主党(MLN-PID)の右派連合を代表し、今回はキリスト教民主党のホセ・エフライン・リオス・モント将 軍(後に1982年から1983年まで大統領)と左派経済学者アルベルト・フエンテス・モアのチケットを推進する中道左派連合に対抗した。インフレ、不均 衡、不正選挙に対する国民の怒り、人権侵害に対する不満が、広範な抗議と市民的不服従を引き起こした。大衆的な社会運動が勃発し、それは10年間続いた。

キェル・ラウゲルードの当選と同時に、グアテマラ農村部ではCUCなどの労働組織が台頭した。CUC(農民団結委員会)が1970年代初頭に農村で組織化 を始めたとき、毎年30万人以上の農村農民がグアテマラのアルティプラーノを離れ、わずかな収入を補うために太平洋沿岸のプランテーションで働いた。 CUCはインド人主導の最初の全国労働組織であり、労働条件の改善を求める闘いでラディーノ労働者とインド人農民を団結させた最初の組織であった [127]。協同組合の成長は、新しい軍事政権が、少なくとも表面上は、労働条件改善のための協同組合や組合の設立を支持しているように見えたことに起因 していると考えられる。

前任者とは異なり、ラウゲルド将軍は権力を強化するために軍事的な弾圧を行使して任期を開始することはなく、暴力によって労働者を黙らせることよりも、組 合と産業界との交渉を好んでいるように見えた[128]。ラウゲルド将軍の下で協同組合に与えられた公的支援によって、アメリカ国際開発庁(AID)はグ アテマラに肥料やその他の物資の購入資金として450万ドルを供与し、米州開発銀行は1976年初めに「協同組合開発」のためにさらに1,500万ドルを 供与した[129]。

1975年6月7日土曜日、地主ホセ・ルイス・アレナスは、彼の農場 "ラ・ペルラ "の敷地内で暗殺された。彼の事務所の前には、支払いを受けるためにおよそ200人から300人の農民労働者がいた。労働者の中にはEGPの4人のメン バーが隠れており、彼らは農場の通信無線を破壊し、アレナスを処刑した。暗殺後、ゲリラたちは農民たちにイシル語で話しかけ、自分たちは貧民ゲリラ軍のメ ンバーであり、地域住民に対する複数の犯罪の容疑により「イクスカンの虎」を殺したと告げた。その後、襲撃者たちはチャジュルに向かって逃走し [125]、一方、当時サン・ルイス・イクスカンにいたホセ・ルイス・アレナスの息子は近くの山に避難し、グアテマラ・シティの大統領官邸に直接向かう飛 行機の到着を待った。そこで彼はすぐに国防大臣フェルナンド・ロメオ・ルーカス・ガルシア将軍にこの件を報告した。ロメオ・ルーカスは「あなたは間違って いる、この地域にゲリラはいない」と答えた[125]。

国防相がイクスカンのゲリラの存在を否定したにもかかわらず、政府はグアテマラ高地の多くの協同組合指導者を組織的に抹殺することによって、これらの新た なゲリラの行動に対応した。新政権は表面的には協同組合の発展を支持しているように見えたが、ラウゲルド将軍は以前、協同組合をソビエト共産主義の隠れ蓑 として非難する発言をしていた[130]。協同組合が大部分公然の場に引き出されていたという事実のために、諜報機関が協同組合員の名前を照合して絶滅プ ログラムの標的を指定することは比較的容易であった。

アレナス暗殺から1ヵ月後の1975年7月7日、陸軍の空挺部隊がイクスカン・グランデの市場に到着した。そこで彼らは、ザルバル協同組合の組合員であっ た30人を拘束し、ヘリコプターで連行した。内務省はこれに対し、「失踪」した人々が政府によって連行されたことを否定した[132]。同月、MANO 「死の部隊」の名でグアテマラ・シティの協同組合に送られた不穏なガリ版刷りの手紙が報道された:

我々は、あなた方のプロ共産主義者の態度を知っている......我々は、すべての労働組織と協同組合が、そこに潜入した共産主義者の指導者の権力に常に 陥ることを経験的に知っている。われわれには、このようなことが再び起こらないようにする組織と力がある。その証となる3万3千のクランダスティン・ピー サントの墓がある......[133]。

1975年6月から12月にかけて、イクスカンで合計60人の協同組合指導者が殺害されるか「失踪」した。1976年から1978年にかけて、さらに 163人の協同組合と村の指導者が決死隊によって暗殺された。カトリック教会がEGPの社会基盤の大部分を占めると考えた政権は、カテキスタの中にもター ゲットを絞り始めた。1976年11月から1977年12月にかけて、決死隊は「エル・キチェ教区」のカトリック・アクションのカテキスタ143人を殺害 した[134]。この間に記録された殺害と強制失踪の事例は、政府軍による、特に先住民の高地における殺害の実数のごく一部であり、多くの殺害が報告され なかった。

1976年2月4日、マグニチュード7.5の大地震がグアテマラを襲った。この災害で23,000人以上のグアテマラ人が死亡し、100万人近くが適切な 住居を失った。地震は政治的な影響ももたらした。大災害の影響に対処する政府の目に見える無能力と腐敗は、独立組織の台頭を招き、多くの被災者が政府を深 く批判するようになった。政治体制は、住民の福祉を確保するためには無力だったのだ。震災後、より多くの市民がインフラ改革を望み、多くの人々が、こうし た改善に投資するのは政府の責任だと考えた。貧弱なインフラのために地震の被害を大きく受けた貧しいバリオでは、近隣のグループが被災者の救助や死者の掘 り起こしを手伝い、水、食料、復興資材を配給し、犯罪者による略奪を防いだ[135]。地震の余波で生じた政治的圧力は、改革を誘導するようグアテマラ軍 事政権に大きな圧力をかけた。その後、治安部隊はこの混乱に乗じてグアテマラ・シティで相次いで政治的暗殺を行い、そのうちの200件がアムネスティ・イ ンターナショナルによって記録された[136]。

同時に、グアテマラ政府は国際的に孤立を深めていった。1977年、ジミー・カーター米大統領政権は、「国際的に認められた人権に対する重大な侵害を一貫 して行っている」政府には援助を提供しないとする対外援助法第502条Bに基づき、グアテマラをはじめとするいくつかのラテンアメリカの政権を軍事援助の 削減の対象とした[137]。
Transition between Laugerud and Lucas Garcia regimes

Due to his seniority in both the military and economic elites in Guatemala, as well as the fact that he spoke q’ekchi perfectly, one of the Guatemalan indigenous languages, Lucas García became the ideal candidate for the 1978 elections; and to further enhance his image, he was paired with the leftist doctor Francisco Villagrán Kramer as his running mate. Villagrán Kramer was a man of recognized democratic trajectory, having participated in the Revolution of 1944, and was linked to the interests of transnational corporations and elites, as he was one of the main advisers of agricultural, industrial and financial chambers of Guatemala.[138] Despite the democratic facade, the electoral victory was not easy and the establishment had to impose Lucas García, causing further discredit the electoral system[138] -which had already suffered a fraud when General Laugerud was imposed in the 1974 elections.

In 1976 student group called "FRENTE" emerged in the Universidad de San Carlos de Guatemala, which completely swept all student body positions that were up for election that year. FRENTE leaders were mostly members of the Patriotic Workers' Youth, the youth wing of the Guatemalan Labor Party -Partido Guatemalteco del Trabajo- (PGT),[17] the Guatemalan communist party who had worked in the shadows since it was illegalized in 1954. Unlike other Marxist organizations in Guatemala at the time, PGT leaders trusted the mass movement to gain power through elections.[17]

FRENTE used its power within the student associations to launch a political campaign for the 1978 university general elections, allied with leftist Faculty members grouped in "University Vanguard". The alliance was effective and Oliverio Castañeda de León was elected as President of the Student Body and Saúl Osorio Paz as President of the university; plus they had ties with the university workers union (STUSC) through their PGT connections.[17] Osorio Paz gave space and support to the student movement and instead of having a conflictive relationship with students, different representations combined to build a higher education institution of higher social projection. In 1978 the University of San Carlos became one of the sectors with more political weight in Guatemala; that year the student movement, faculty and University Governing Board -Consejo Superior Universitario-[d] united against the government and were in favor of opening spaces for the neediest sectors. In order to expand its university extension, the Student Body (AEU) rehabilitated the "Student House" in downtown Guatemala City; there, they welcomed and supported families of villagers and peasant already sensitized politically. They also organized groups of workers in the informal trade.[17]

At the beginning of his tenure as president, Saúl Osorio founded the weekly Siete Días en la USAC (Seven Days in USAC), which besides reporting on the activities of the university, constantly denounced the violation of human rights, especially the repression against the popular movement. It also told what was happening with revolutionary movements in both Nicaragua and El Salvador. For a few months, the state university was a united and progressive institution, preparing to confront the State head on.[17]

Now, FRENTE had to face the radical left, represented then by the Student Revolutionary Front "Robin García" (FERG), which emerged during the Labor Day march of 1 May 1978. FERG coordinated several student associations on different colleges within University of San Carlos and public secondary education institutions. This coordination between legal groups came from the Guerrilla Army of the Poor (EGP), a guerrilla group that had appeared in 1972 and had its headquarters in the oil rich region of northern Quiché department -i.e., the Ixil Triangle of Ixcán, Nebaj and Chajul in Franja Transversal del Norte.[139] Although not strictly an armed group, FERG sought confrontation with government forces all the time, giving prominence to measures that could actually degenerate into mass violence and paramilitary activity. Its members were not interested in working within an institutional framework and never asked permission for their public demonstrations or actions.[17]

ラウゲルド政権とルーカス・ガルシア政権の変遷

ルーカス・ガルシアは、グアテマラの軍部と経済エリートの両方における年長者であり、グアテマラの先住民言語のひとつであるケクチ語を完璧に話すことか ら、1978年の選挙で理想的な候補者となった。さらに彼のイメージを高めるために、左派の医師フランシスコ・ビジャグラン・クラマーを伴走者とした。ビ ジャグラン・クラマーは、1944年の革命に参加し、民主主義の軌跡を認識した人物であったが、グアテマラの農商工金融会議所の主要顧問の一人であったた め、多国籍企業やエリートの利益と結びついていた[138]。民主主義の体裁をとっていたにもかかわらず、選挙での勝利は容易ではなく、体制側はルーカ ス・ガルシアを押し付けざるをえず、選挙制度[138]の信用をさらに失墜させることになった。

1976年、サン・カルロス・デ・グアテマラ大学に「FRENTE」と呼ばれる学生グループが出現し、その年の選挙に立候補していたすべての学生団体の役 職を完全に独占した。フレンテの指導者たちは、1954年に非合法化されて以来、陰で活動してきたグアテマラ共産党であるグアテマラ労働党(PGT)の青 年部である愛国労働者青年団[17]のメンバーであった。当時のグアテマラの他のマルクス主義組織とは異なり、PGTの指導者たちは選挙を通じて権力を獲 得する大衆運動を信頼していた[17]。

フレンテは、1978年の大学総選挙のために、「大学前衛」にグループ化された左派教員と同盟して政治キャンペーンを展開するために、学生団体内での権力 を利用した。この同盟は効果的で、オリベリオ・カスタニェーダ・デ・レオンが学生会長に、サウル・オソリオ・パスが大学長に選出され、さらに彼らは、 PGTとのつながりで大学労働者組合(STUSC)との関係も持っていた[17]。オソリオ・パスは学生運動にスペースと支援を与え、学生と対立的な関係 を持つ代わりに、より高い社会的投影を持つ高等教育機関を建設するために、異なる表現が組み合わされた。1978年、サン・カルロス大学は、グアテマラで より政治的重みを持つセクターのひとつとなった。この年、学生運動、教員、大学運営委員会(Consejo Superior Universitario)[d]は、政府に反対して団結し、最も困窮しているセクターのためにスペースを開放することに賛成した。大学の拡張を拡大す るため、学生自治会(AEU)はグアテマラシティーのダウンタウンにある「学生会館」を修復し、そこで、すでに政治的感化を受けていた村人や農民の家族を 迎え入れ、支援した。彼らはまた、非正規雇用労働者のグループを組織した[17]。

サウル・オソリオは学長在任の初めに、週刊誌『Siete Días en la USAC(USACの7日間)』を創刊し、大学の活動を報告するとともに、人権侵害、特に民衆運動に対する弾圧を絶えず非難した。また、ニカラグアとエル サルバドルの革命運動で何が起きているかも伝えていた。数ヶ月間、州立大学は団結した進歩的な機関であり、国家と正面から対決する準備を整えていた [17]。

そして今、フレンテは、1978年5月1日の労働者の日の行進の際に出現した学生革命戦線「ロビン・ガルシア」(FERG)に代表される急進左派に立ち向 かわなければならなかった。FERGは、サン・カルロス大学内のさまざまなカレッジや公立中等教育機関の複数の学生団体を調整した。この合法的なグループ 間の調整は、1972年に登場し、キチェ県北部の石油が豊富な地域、すなわちフランハ・トランスヴェルサル・デル・ノルテのイクスカン、ネバジ、チャジュ ルのイシル三角地帯に本部を置くゲリラ・グループである貧民ゲリラ軍(EGP)に由来するものであった[139]。そのメンバーは、制度的な枠組みの中で 活動することに関心がなく、彼らの公的なデモや行動に許可を求めることはなかった[17]。

Lucas García presidency

See also: Romeo Lucas García and Guatemalan genocide § Genocide under Lucas Garcia
Romeo Lucas García escalated state terror under guise of repressing leftist rebels but in practice was used to murder civilians. This caused an uprising in the city.

Civil war in the city

See also: Burning of the Spanish Embassy

In response to the increasing number of disappearances and killings, the insurgency began targeting members of the security forces, beginning with the assassination of Juan Antonio "El Chino" Lima López – a notorious torturer and second in command of the Commando Six unit of the National Police – on 15 January 1980. On the day of his death, Lima López was sporting a U.S. Army signet ring.[109] The National Police said López, 32, had driven away from his house in downtown Guatemala City when gunmen in another vehicle pulled up next to him and opened fire with automatic rifles, killing him instantly. None of the insurgent groups operating in the Guatemala immediately took responsibility.[140]

On 31 January 1980, a group of displaced K'iche' and Ixil peasant farmers occupied the Spanish Embassy in Guatemala City to protest the kidnapping and murder of peasants in Uspantán by elements of the Guatemalan Army. Guatemalan government officials, including the National Police Detective Corps Chief, branded them as guerilleros, collaborators, and subversives, warning people on radio and television not to be fooled by the campesinos' appearance. A special meeting was held in the National Palace by President Romeo Lucas, Col. Germán Chupina Barahona, and Minister of the Interior Donaldo Álvarez Ruiz. Despite pleas by Spanish Ambassador Máximo Cajal y López to negotiate, a decision was made among Gen. Lucas Garcia's cabinet to forcibly expel the group occupying the embassy.[141] Shortly before noon, about 300 heavily armed state agents cordoned off the area to vehicular traffic and cut the electricity, water and telephone lines.[142] Under the orders from Lt. Colonel Pedro Garcia Arredondo, the Commando Six unit of the National Police proceeded to occupy the first and third floors of the building over the shouts of Ambassador Cajal that they were violating international law in doing so.[143] The peasants barricaded themselves, along with the captive embassy staff and the visiting Guatemalan officials, in the ambassador's office on the second floor.[144] A fire ensued as "Commando Six" prevented those inside of the embassy from exiting the building. In all, 36 people were killed in the fire. The funeral of the victims (including the father of Rigoberta Menchú, Vicente Menchú) attracted hundreds of thousands of mourners, and a new guerrilla group was formed commemorating the date, the Frente patriotico 31 de enero (Patriotic Front of 31 January or FP-31). The incident has been called "the defining event" of the Guatemalan Civil War.[145] The Guatemalan government issued a statement claiming that its forces had entered the embassy at the request of the Spanish Ambassador, and that the occupiers of the embassy, whom they referred to as "terrorists," had "sacrificed the hostages and immolated themselves afterward." Ambassador Cajal denied the claims of the Guatemalan government and Spain immediately terminated diplomatic relations with Guatemala, calling the action a violation of "the most elementary norms of international law."[143] Relations between Spain and Guatemala were not normalized until 22 September 1984.

The climate of fear maintained by the Lucas government in Guatemala City persisted through 1980 and 1981. Political killings and disappearances of residents were common-place and ordinary residents lived in terror of the death squads.[146] A coordinated campaign against trade unionists was undertaken by the National Police under Col. German Chupina, who had close ties with the American Chamber of Commerce and with numerous business leaders. The manager of the Coca-Cola franchise in Guatemala City, John C. Trotter from Texas, was apparently a personal friend of Col. Chupina. Trotter would allegedly contact Col. Chupina via telephone regarding the activities of the union at the plant, and many unionists subsequently disappeared or were found dead later.[147] The insurgents had attempted unsuccessfully to assassinate Col. Chupina, as well as Interior Minister Donaldo Álvarez, in February and March 1980.[148]

In one incident on 21 June 1980, 60 non-uniformed agents – likely from the Detectives Corps – seized and detained 27 members of the National Workers Union (CNT) during an attack on its headquarters, in which uniformed police blocked off the streets surrounding the building. The trade unionists were taken away in unmarked Toyota jeeps or forced into their own cars and taken away. All 27 members of the CNT seized on that day disappeared while in the custody of the police.[149] Among those abducted were members of the union representing the workers of the Coca-Cola plant under John Trotter.[150]

On 7 July 1980, Col. Miguel Angel Natareno Salazar, head of the infamous Fourth Corps of the National Police, was assassinated along with his driver and two bodyguards while on his way to work. This was followed by the assassinations of three police agents, two special agents of the Army G-2 and a security guard of the Ministry of the Interior in the following week.[151]

On 24 August 1980, plainclothes National Police and Army soldiers under the direction of Alfonso Ortiz, the Deputy Chief of the Detectives Corps, abducted 17 union leaders and a Catholic administrator from a seminar at the "Emaus Medio Monte" estate belonging to the diocese of Escuintla, on the southern coast of Guatemala. The detainees were taken to the garages of National Police in Zone 6 of Guatemala City where they were tortured under the direction of the former head of Commando Six, Col. Pedro Garcia Arredondo, who had been promoted to Chief of the Detectives Corps. All 17 unionists subsequently disappeared after being tortured under Col. Arredondo.[152]

Beheaded corpses hanging from their legs in between what is left from blown up cars, shapeless bodies among glass shards and tree branches all over the place is what a terrorist attack caused yesterday at 9:35 am. El Gráfico reporters were able to get to exact place where the bomb went off, only seconds after the horrific explosion, and found a truly infernal scene in the corner of the 6th avenue and 6th street -where the Presidential Office is located- which had turned into a huge oven -but the solid building where the president worked was safe-. The reporters witnessed the dramatic rescue of the wounded, some of them critical, like the man that completely lost a leg and had only stripes of skin instead.

-- El Gráfico, 6 September 1980[153]
On 5 September 1980 the Ejército Guerrillero de los Pobres (EGP) carried out a terrorist attack right in front of the Guatemalan National Palace, then the headquarters of the Guatemalan government. The intention was to prevent a huge demonstration that the government had prepared for Sunday, 7 September 1980. In the attack, six adults and a little boy died after two bombs inside a vehicle went off.[154] There was an undetermined number of wounded and heavy material losses, not only from art pieces from the National Palace, but from all the surrounding buildings, particularly in the Lucky Building, which is right across the Presidential Office.[155][e]

As killings by government security forces and death squads increased, so did terrorist attacks against private financial, commercial and agricultural targets by the insurgents, who saw those institutions as "reactionaries" and "millionaire exploiters" that were collaborating with the genocidal government.[156] The following is a non-exhaustive list of the terrorist attacks that occurred in Guatemala city and are presented in the UN Commission report:

Despite advances by the insurgency, the insurgency made a series of fatal strategic errors. The successes made by the revolutionary forces in Nicaragua against the Somoza regime combined with the insurgency's own successes against the Lucas government led rebel leaders to falsely conclude that a military equilibrium was being reached in Guatemala, thus the insurgency underestimated the military strength of the government.[159] The insurgency subsequently found itself overwhelmed on both urban and countryside fronts.

On the urban front, the armed forces began to utilize more sophisticated technology to combat the insurgency. With help of advisors from Israel, a computer system was installed in the annex of the EMP behind the presidential palace in 1980. This computer used a data analysis system used to monitor electrical and water usage as a means of pinpointing the coordinates of potential guerrilla safe-houses. In the July 1981, tanks and shock troops were mobilized for a massive series of raids to shut down the guerrilla bases operating in the city. Thirty ORPA safe-houses were raided in Guatemala City in the summer of 1981 according to G-2 sources.[160] Large caches of small arms were located in these raids, including 17 American-made M-16s which had previously been issued to American units in Vietnam in the late 1960s and early 1970s[161]

Insurgent mobilization in the countryside

The daily number of killings by official and unofficial security forces increased from an average of 20 to 30 in 1979 to a conservative estimate of 30 to 40 daily in 1980. Human rights sources estimated 5,000 Guatemalans were killed by the government for "political reasons" in 1980 alone, making Guatemala the worst human rights violator in the hemisphere after El Salvador.[162][163] In a report titled Guatemala: A Government Program of Political Murder, Amnesty International stated, "Between January and November of 1980, some 3,000 people described by government representatives as "subversives" and "criminals" were either shot on the spot in political assassinations or seized and murdered later; at least 364 others seized in this period have not yet been accounted for." [164]

With the mass movement being ravaged by covertly sanctioned terror in the cities and brutal army repression in the countryside, its constituents saw no other option than to take up arms against the regime, which led to the growth of the insurgent movement. At the same time the EGP was expanding its presence in the Highlands, a new insurgent movement called the ORPA (Revolutionary Organization of Armed People) made itself known. Composed of local youths and university intellectuals, the ORPA developed out of a movement called the Regional de Occidente, which split from the FAR-PGT in 1971. The ORPA's leader, Rodrigo Asturias (a former activist with the PGT and first-born son of Nobel Prize-winning author Miguel Ángel Asturias), formed the organization after returning from exile in Mexico.[165] The ORPA established an operational base in the mountains and forests above the coffee plantations of southwestern Guatemala and in the Atitlán where it enjoyed considerable popular support.[166] On 18 September 1979, the ORPA made its existence publicly known when it occupied the Mujulia coffee farm in the coffee-growing region of the Quezaltenango province to hold a political education meeting with the workers.[167]

In 1979 the EGP controlled a large amount of territory in the Ixil Triangle and held many demonstrations in Nebaj, Chajul and Cotzal. That year, the owners of "La Perla" established links with the army and for the first time a military detachment was installed within the property; in this same building the first civil patrol of the area was established. The Army high command, meanwhile, was very pleased with the initial results of the operation and was convinced it had succeeded in destroying most of the social basis of EGP, which had to be expelled from the "Ixil Triangle". Army repression in the region became more intense and less selective then it had been under Laugerud Garcia; the officers who executed the plan were instructed to destroy all towns suspected of cooperating with EGP and eliminate all sources of resistance. Army units operating in the "Ixil Triangle" belonged to the Mariscal Zavala Brigade, stationed in Guatemala City. Moreover, although the EGP did not intervene directly when the army attacked the civilian population – allegedly due to a lack of supplies and ammunition – it did support some survival strategies. It streamlined, for example, "survival plans" designed to give evacuation instructions in assumption that military incursions took place. Most of the population began to participate in the schemes finding that they represented their only alternative to military repression.[168]

In December 1979, the Guatemalan Army staged a false flag incident in Chajul – ostensibly to justify repressive measures against the city. On 6 December 1979, the Guatemalan Army abducted nine peasants from Uspantán and transported them to Chajul in a helicopter. Two of the peasants captured by the army managed to escape, while those remaining were dressed in olive drab by the army. After being put in uniform, the peasants were equipped with shotguns and instructed by soldiers to march down a road outside of Chajul. The soldiers then opened fire on the peasants, killing all seven. The army announced that the campesinos were guerillas, who had attempted to assault the detachment at Chajul. The bodies were later burned and buried. Within three weeks the army presence in Chajul grew and repression escalated.[169]

The repression and excessive force used by the government against the opposition was such that it became source of contention within Lucas Garcia's administration itself. This contention within the government caused Lucas Garcia's Vice President Francisco Villagrán Kramer to resign from his position on 1 September 1980. In his resignation, Kramer cited his disapproval of the government's human rights record as one of the primary reasons for his resignation. He then went into voluntary exile in the United States, taking a position in the Legal Department of the Inter-American Development Bank.[170]

In 1980, armed insurgents assassinated prominent Ixil landowner Enrique Brol, and president of the CACIF (Coordinating Committee of Agricultural, Commercial, Industrial, and Financial Associations) Alberto Habie.[171] In October 1980, a tripartite alliance was formalized between the EGP, the FAR and the ORPA as a precondition for Cuban-backing.[172]

In early 1981, the insurgency mounted the largest offensive in the country's history. This was followed by an additional offensive towards the end of the year, in which many civilians were forced to participate by the insurgents. Villagers worked with the insurgency to sabotage roads and army establishments, and destroy anything of strategic value to the armed forces.[173] By 1981, an estimated 250,000 to 500,000 members of Guatemala's indigenous community actively supported the insurgency. Guatemalan Army Intelligence (G-2) estimated a minimum 360,000 indigenous supporters of the EGP alone.[174]

List of massacres perpetrated by the EGP in FTN
According to a report by the rightist magazine "Crónica", there were 1258 guerrilla actions against civilians and infrastructure in Guatemala, including more than two hundred murders, sixty eight kidnappings, eleven bombs against embassies and three hundred twenty-nine attacks against civilians. Almost all guerrilla massacres occurred in 1982 when further militarization reigned and there was widespread presence of PAC in communities; many of them were victims of non-cooperation with the guerrillas and in some cases they came after a previous attack by the PAC. In the massacres perpetrated by the guerrillas there is no use of informants, or concentration of population, or separation of groups; also, there are no recounts of rape or repetitive slaughter. There are cases of razed villages and less tendency to mass flight, even though it occurred in some cases. The use of lists was also more frequent.[175]

In a publication of the Army of Guatemala, sixty massacres perpetrated by the EGP were reported, arguing that they were mostly ignored by REHMI and the Historical Clarification Commission reports.[176] It is also reported that in mid-1982, 32 members of "Star Guerilla Front " were shot for not raising the EGP flag.[177]

'Operation Ceniza' 1981

See also: Guatemalan genocide § Genocide under General Benedicto Lucas

Relying on continued material support from the United States and US-allied third parties, the armed forces under Army Chief of Staff, Benedicto Lucas Garcia (the president's brother, known as "General Benny") initiated a strategy of "scorched earth"[178] to "separate and isolate the insurgents from the civilian population",[179] under the code-name "Operación Ceniza" ("Operation Ash"). In a strategy developed jointly by Benedicto Lucas Garcia and Lieutenant Col. George Maynes (U.S. Defense Attache and Chief of the U.S. MilGroup in Guatemala),[180] some 15,000 troops were deployed on a gradual sweep through the highlands.[181]

By way of a policy of forced recruitment, Gen. Benedicto Lucas began organizing a "task-force" model for fighting the insurgency, by which strategic mobile forces of 3,000 to 5,000 troops were drawn from larger military brigades for search and destroy missions in the highlands.[182] These operations led to massive civilian casualties, numbering in the tens of thousands. The use of genocidal scorched-earth tactics radicalized the population, creating antipathy towards the government and causing the ranks of the insurgents to swell to unprecedented levels.

Meanwhile, relations between the Guatemalan military establishment and the Lucas Garcia regime worsened. Professionals within the Guatemalan military considered the Lucas approach counterproductive, on grounds that the Lucas government's strategy of military action and systematic terror overlooked the social and ideological causes of the insurgency while radicalizing the civilian population. Additionally, Lucas went against the military's interests by endorsing his defense minister, Ángel Aníbal Guevara, as a candidate in the March 1982 presidential elections.[183]


ルーカス・ガルシア大統領就任

以下も参照: ロメオ・ルーカス・ガルシアとグアテマラ大虐殺 § ルーカス・ガルシア政権下の大虐殺
ロメオ・ルーカス・ガルシアは、左翼反乱軍を弾圧するという名目で国家テロをエスカレートさせたが、実際には市民の殺害に使われた。これが市内での反乱を 引き起こした。

市内での内戦

関連記事 スペイン大使館焼き討ち

1980年1月15日、国家警察のコマンド6部隊の副司令官で、悪名高い拷問官だったフアン・アントニオ "エル・チノ "リマ・ロペスが暗殺されたのを皮切りに、反政府勢力は治安部隊のメンバーを標的にし始めた。国家警察によると、ロペス(32歳)がグアテマラ・シティの ダウンタウンにある自宅から車で走り去ろうとしたとき、別の車に乗った武装集団が彼の隣に停車し、自動小銃で発砲して即死させたという。グアテマラで活動 する反政府武装勢力はいずれも直ちに責任を取らなかった[140]。

1980年1月31日、グアテマラ軍の一部によるウスパンタンでの農民の誘拐と殺害に抗議するため、離散したキチェ族とイシル族の農民の一団がグアテマ ラ・シティのスペイン大使館を占拠した。国家警察の刑事部長を含むグアテマラ政府高官たちは、彼らをゲリラ、協力者、破壊活動家と決めつけ、ラジオやテレ ビでカンペシーノたちの姿に騙されないようにと警告した。ロメオ・ルーカス大統領、ジェルマン・チュピナ・バラホナ大佐、ドナルド・アルバレス・ルイス内 務大臣による特別会議が国立宮殿で開かれた。スペイン大使のマキシモ・カハル・イ・ロペスによる交渉の嘆願にもかかわらず、ルーカス・ガルシア元大統領の 内閣の間では、大使館を占拠しているグループを強制的に追放することが決定された[141]。 正午の少し前、約300人の重武装した国家捜査官が車両通行禁止区域を封鎖し、電気、水道、電話線を遮断した[142]。ペドロ・ガルシア・アレドンド中 佐の命令の下、国家警察のコマンドー6部隊は、そうすることは国際法に違反しているというカハル大使の叫びを押し切って、建物の1階と3階の占拠を進めた [143]。 農民たちは、捕らえられた大使館職員と訪問中のグアテマラ政府高官とともに、2階の大使室にバリケードを築いた[144]。この火災で36人が死亡した。 犠牲者(リゴベルタ・メンチューの父親ビセンテ・メンチューを含む)の葬儀には何十万人もの弔問客が集まり、この日を記念して新たなゲリラ・グループ「1 月31日の愛国戦線」(Frente patriotico 31 de enero、FP-31)が結成された。この事件はグアテマラ内戦の「決定的な出来事」と呼ばれている[145]。グアテマラ政府は声明を発表し、自国の 軍隊がスペイン大使の要請で大使館に侵入し、「テロリスト」と呼ばれる大使館占拠者たちが「人質を犠牲にし、その後焼身自殺した」と主張した。カハル大使 はグアテマラ政府の主張を否定し、スペインはこの行動を「国際法の最も基本的な規範」の違反であるとして、直ちにグアテマラとの外交関係を解消した [143]。

グアテマラ・シティのルーカス政府によって維持された恐怖の風土は1980年と1981年まで続いた。住民の政治的殺害や失踪は日常茶飯事で、一般住民は 決死隊におびえながら生活していた[146]。労働組合員に対する組織的なキャンペーンは、アメリカ商工会議所や多くのビジネスリーダーと密接な関係に あったジャーマン・チュピナ大佐率いる国家警察によって実施された。グアテマラ・シティのコカ・コーラ・フランチャイズの経営者であるテキサス出身のジョ ン・C・トロッターは、チュピナ大佐の個人的な友人であったらしい。トロッターは工場での組合の活動についてチュピナ大佐に電話で連絡していたとされ、そ の後多くの組合員が消息を絶つか、後に死体で発見された[147]。反乱軍は1980年2月と3月に、チュピナ大佐と内務大臣ドナルド・アルバレスの暗殺 を試みたが失敗した[148]。

1980年6月21日のある事件では、全国労働者組合(CNT)本部が襲撃された際、制服警官が本部周辺の道路を封鎖していたにもかかわらず、60人の非 服装の捜査員(おそらく刑事部隊のものと思われる)が27人の組合員を拘束した。労働組合員たちは、ノーマークのトヨタ製ジープで連行されるか、自分の車 に無理やり押し込まれて連行された。拉致された者の中には、ジョン・トロッター率いるコカ・コーラ工場の労働者を代表する組合の組合員もいた[150]。

1980年7月7日、国家警察の悪名高い第4部隊のトップであったミゲル・アンヘル・ナタレノ・サラサール大佐が、出勤途中に運転手と2人のボディーガー ドとともに暗殺された。これに続き、翌週には3人の警察捜査官、陸軍G-2の特別捜査官2人、内務省の警備員が暗殺された[151]。

1980年8月24日、探偵団副団長アルフォンソ・オルティスの指揮の下、私服の国家警察と陸軍兵士が、グアテマラ南岸のエスクイントラ教区に属する「エ マウス・メディオ・モンテ」地所でのセミナーから、17人の組合幹部とカトリック行政官を拉致した。拘束された者たちは、グアテマラ・シティのゾーン6に ある国家警察の車庫に連行され、そこで、刑事隊長に昇進していたコマンド6の元トップ、ペドロ・ガルシア・アレドンド大佐の指示の下、拷問を受けた。その 後、17人の組合員全員が、アレドンド大佐の下で拷問を受けた後に姿を消した[152]。

爆破された車から残されたものの間に足からぶら下がった斬首された死体、ガラスの破片やそこらじゅうの木の枝の中にある形のない死体が、昨日の午前9時 35分にテロ攻撃によって引き起こされたものである。エル・グラフィコの記者は、恐ろしい爆発のわずか数秒後に爆弾が爆発した正確な場所に行くことがで き、大統領府がある6番街と6番街の角で、巨大なオーブンと化した本当に地獄のような光景を目の当たりにした。記者たちは負傷者の劇的な救助を目撃した が、中には足を完全に失い、皮膚の縞模様だけが残った男のような重体者もいた。

-- 1980年9月6日、エル・グラフィコ紙[153]。
1980年9月5日、Ejército Guerrillero de los Pobres(EGP)は、当時グアテマラ政府の本部であったグアテマラ国立宮殿の目の前でテロ攻撃を行った。その意図は、政府が1980年9月7日 (日)に準備していた大規模なデモを阻止することだった。この攻撃では、車両内の2つの爆弾が爆発し、大人6人と少年1人が死亡した[154]。負傷者の 数は未定であり、国立宮殿の美術品だけでなく、周囲の建物すべて、特に大統領府の真向かいにあるラッキービルの物的損失も大きかった[155][e]。

政府治安部隊と決死隊による殺害が増加するにつれて、反乱軍による民間の金融、商業、農業の標的に対するテロ攻撃も増加した。反乱軍はこれらの機関を大量 虐殺政府に協力している「反動主義者」や「大富豪の搾取者」とみなしていた[156]。以下は、グアテマラ市内で発生し、国連委員会の報告書で紹介されて いるテロ攻撃の非網羅的なリストである:



反乱軍の前進にもかかわらず、反乱軍は一連の致命的な戦略ミスを犯した。ニカラグアの革命軍によるソモサ政権に対する成功と、反乱軍自身のルーカス政府に 対する成功とが相まって、反乱軍の指導者たちは、グアテマラでは軍事的均衡が達成されつつあると誤信するようになり、そのため反乱軍は政府の軍事力を過小 評価するようになった[159]。反乱軍はその後、都市と田舎の両方の戦線で圧倒されていることに気づいた。

都市戦線では、武装勢力は反乱軍と戦うためにより高度な技術を活用し始めた。イスラエルからのアドバイザーの協力を得て、1980年、大統領官邸裏の EMPの別館にコンピューターシステムが設置された。このコンピューターは、ゲリラの隠れ家になりそうな場所の座標をピンポイントで特定する手段として、 電気や水の使用状況を監視するデータ分析システムを利用した。1981年7月、市内で活動するゲリラの拠点を閉鎖するため、戦車とショック部隊が動員さ れ、大規模な空襲が行われた。G-2の情報源によれば、1981年の夏にはグアテマラ・シティで30のORPAの隠れ家が急襲された[160]。これらの 急襲で大量の小火器の隠し場所が発見されたが、その中には1960年代後半から1970年代前半にかけてベトナムのアメリカ軍部隊に支給されたことのある アメリカ製のM-16が17丁含まれていた[161]。

地方における反政府勢力の動員

公式・非公式の治安部隊による1日の殺害件数は、1979年の平均20~30件から、1980年には控えめに見積もっても1日30~40件に増加した。人 権情報筋は、1980年だけで5,000人のグアテマラ人が「政治的理由」で政府によって殺害されたと推定しており、グアテマラはエルサルバドルに次いで 半球で最悪の人権侵害国となった[162][163]: アムネスティ・インターナショナルは、「1980年の1月から11月にかけて、政府代表によって「破壊活動家」や「犯罪者」とされた約3,000人が政治 的暗殺でその場で射殺されたか、あるいは拘束され、後に殺害された。[164]

大衆運動は、都市部では秘密裏に公認されたテロリズムによって、地方では軍隊による残忍な弾圧によって荒廃し、その構成員は政権に対して武器を取る以外の 選択肢はないと考え、反政府運動の拡大につながった。EGPがハイランド地方で存在感を高めていた同じ頃、ORPA(武装人民革命組織)と呼ばれる新たな 反政府運動が姿を現した。地元の若者と大学の知識人で構成されたORPAは、1971年にFAR-PGTから分裂したオクシデンテ地域(Regional de Occidente)と呼ばれる運動から発展した。ORPAの指導者であるロドリゴ・アストゥリアス(PGTの元活動家であり、ノーベル賞受賞作家ミゲ ル・アンヘル・アストゥリアスの長男)は、メキシコへの亡命から戻った後、組織を結成した[165]。ORPAは、グアテマラ南西部のコーヒー農園とア ティトランにある山や森林に活動拠点を置き、かなりの民衆の支持を得た。 [166]1979年9月18日、ORPAはケサルテナンゴ州のコーヒー生産地域にあるムジュリアコーヒー農園を占拠し、労働者たちと政治教育会議を開い た際に、その存在を公にした[167]。

1979年、EGPはイクシル・トライアングルの広大な領土を支配し、ネバジ、チャジュル、コツァルで多くのデモを行った。その年、「ラ・ペルラ」の所有 者は軍との関係を築き、初めて軍の分遣隊が敷地内に設置された。一方、陸軍上層部は、この作戦の最初の成果に非常に満足し、「イクシル・トライアングル」 から追放しなければならなかったEGPの社会基盤の大部分を破壊することに成功したと確信した。この地域における陸軍の弾圧は、ラウゲルド・ガルシアの時 代よりも激しさを増し、選択的なものではなくなった。計画を実行した将校たちは、EGPに協力していると疑われるすべての町を破壊し、抵抗勢力をすべて排 除するよう指示された。イクシル・トライアングル」で活動する陸軍部隊は、グアテマラ・シティに駐屯するマリスカル・サバラ旅団に属していた。さらに、 EGPは、軍が民間人を攻撃したとき(物資や弾薬が不足していたためとされる)には直接介入しなかったものの、いくつかの生存戦略を支援した。例えば、軍 の侵攻を想定して避難指示を出すための「生存計画」を合理化した。住民のほとんどは、この計画が軍事的抑圧に代わる唯一の選択肢であることを知り、参加し 始めた[168]。

1979年12月、グアテマラ軍はチャジュルで偽旗事件を起こした-表向きはチャジュルに対する弾圧措置を正当化するためであった。1979年12月6 日、グアテマラ軍はウスパンタンから9人の農民を拉致し、ヘリコプターでチャジュルに移送した。軍に捕らえられた農民のうち2人は逃げおおせたが、残った 農民は軍によってオリーブドラブの服を着せられた。軍服を着せられた農民たちは散弾銃を装備させられ、兵士たちにチャジュル郊外の道を行進するよう指示さ れた。その後、兵士たちは農民たちに発砲し、7人全員が死亡した。軍は、カンペシーノたちはゲリラで、チャジュルの分遣隊を襲撃しようとしたと発表した。 遺体は後に焼却・埋葬された。3週間以内にチャジュルにおける軍隊の存在感は増し、弾圧はエスカレートした[169]。

政府による反対派に対する弾圧と過剰な武力行使は、ルーカス・ガルシアの政権内部でも争いの種となった。この政府内の対立により、ルーカス・ガルシアのフ ランシスコ・ビジャグラン・クラマー副大統領は1980年9月1日に辞任した。クラマーは辞任の際、政府の人権記録への不服を辞任の主な理由の一つに挙げ た。その後、彼は自主的に米国に亡命し、米州開発銀行の法務部の職に就いた[170]。

1980年、武装反乱軍は著名なイシルの地主エンリケ・ブロールとCACIF(農業・商業・工業・金融団体調整委員会)会長アルベルト・ハビエを暗殺した [171]。1980年10月、キューバ支援の前提条件として、EGP、FAR、ORPAの間で三者同盟が正式に結ばれた[172]。

1981年初頭、反乱軍は国内史上最大の攻勢をかけた。この後、年末にかけて追加攻勢が行われ、多くの市民が反乱軍に強制参加させられた。村人たちは反乱 軍と協力して道路や軍の施設を破壊し、軍にとって戦略的に価値のあるものを破壊した。グアテマラ陸軍情報部(G-2)は、EGPの先住民支持者だけで最低 36万人と見積もっていた[174]。

FTNにおけるEGPによる虐殺のリスト
右派雑誌『Crónica』の報告によると、グアテマラでは、200人以上の殺人、68件の誘拐、大使館に対する11件の爆弾、市民に対する329件の攻 撃を含む、市民とインフラに対する1258件のゲリラの行動があった。ゲリラによる虐殺のほとんどは、軍国主義化が進み、PACが地域社会に広く存在する ようになった1982年に起こった。ゲリラによる虐殺には、情報提供者の利用も、住民の集中も、集団の分離もない。村が荒らされたケースもあり、集団逃亡 の傾向は少ない。リストの使用もより頻繁であった[175]。

グアテマラ軍の出版物では、EGPによって行われた60の虐殺が報告されており、それらはREHMIや歴史解明委員会の報告書ではほとんど無視されている と論じている[176]。 また、1982年半ばに「スターゲリラ戦線」の32人のメンバーがEGPの旗を掲げなかったために射殺されたことが報告されている[177]。



「セニーザ(灰)作戦」 1981年

以下も参照: グアテマラ虐殺§ベネディクト・ルーカス将軍の下での虐殺

ベネディクト・ルーカス・ガルシア陸軍参謀総長(大統領の弟、「ベニー将軍」として知られる)率いる軍隊は、米国と米国と同盟関係にある第三者からの継続 的な物質的支援を頼りに、「セニサ作戦」(「灰作戦」)というコードネームの下、「反乱軍を民間人から分離・隔離」する「焦土作戦」[178]を開始した [179]。ベネディクト・ルーカス・ガルシアとジョージ・メインズ中佐(米国防総省付兼グアテマラ米軍グループ長)が共同で策定した戦略[180]で は、約15,000人の部隊が高地を徐々に掃討する形で展開された[181]。

強制徴用政策によって、ベネディクト・ルーカス将軍は反乱軍と戦うための「タスクフォース」モデルを組織し始め、それによって3,000人から5,000 人の部隊からなる戦略的機動部隊が、高地での捜索・破壊任務のために大規模な軍旅団から引き抜かれた[182]。大量殺戮的な焦土戦術の使用は住民を過激 化させ、政府に対する反感を生み、反政府勢力の隊列を前例のないレベルまで膨れ上がらせた。

一方、グアテマラ軍部とルーカス・ガルシア政権との関係は悪化した。グアテマラ軍の専門家たちは、ルーカス政権の軍事行動と組織的テロリズムの戦略は、反 乱の社会的・イデオロギー的原因を見過ごし、一方で市民を過激化させるという理由で、ルーカスのアプローチは逆効果だと考えた。さらに、ルーカスは 1982年3月の大統領選挙で国防相であるアンヘル・アニバル・ゲバラを候補者として推薦することで、軍の利益に反することを行った[183]。
1982 coup d'état and Ríos Montt regime

On 23 March 1982, junior officers under the command of General Efraín Ríos Montt staged a coup d'état and deposed General Romeo Lucas Garcia. The coup was not supported by any entities within the Lucas government aside from the junior officers involved in engineering the coup. At the time of the coup, the majority of Lucas Garcia's senior officers were reportedly unaware of any previous coup plotting on the part of the junior officers or any other entity. General Lucas was reportedly prepared to resist the coup, and could have easily opposed the coup with his own contingent of troops stationed at the presidential palace, but was coerced into surrendering by being shown his mother and sister held with rifles to their heads.[184] After the overthrow of Lucas Garcia, the home of Lucas's Interior Minister Donaldo Álvarez Ruiz was raided, uncovering a printing press, clandestine jail cells and property taken from police torture victims, including fifty stolen vehicles and scores of gold graduation rings.[185]

Within two months after seizing power, Ríos Montt worked to strengthen his personal power and began eliminating those officers which he believed to be involved in counter-coup plotting. One particularly cohesive group of officers opposed to Ríos was the Guatemalan Military Academy promotion class number 73. To intimidate these officers and stifle plans for a counter-coup, Ríos Montt ordered the arrest and investigation of three of its most prominent members: Captains Mario López Serrano, Roberto Enrique Letona Hora and Otto Pérez Molina. He threatened to expose evidence of their corruption if they continued to oppose him.[186] On 9 July 1982, Ríos Montt forced two members of the junta to resign, leaving him in complete control of the government, as both the de facto head of the armed forces and Minister of Defense.

'Victoria 82' and 'Operation Sofia'

See also: Guatemalan genocide § Genocide under Ríos Montt

The architects of the counterinsurgency program under Rios Montt were aware of the social problems generated by the counterinsurgency under Lucas Garcia; the most counterproductive was the widespread antipathy generated amongst towards the State through indiscriminate mass murder. A compromise was reached between the army's drive to eradicate the insurgency and the desire to "win the hearts and minds" of the civilian population and new counterinsurgency program known as "Victoria 82" was implemented on 6 June 1982. The authors of the plan emphasized that "The population's mentality is the principal objective".[187] The program combined the brutal scorched-earth tactics developed and executed under Benedicto Lucas Garcia with social welfare programs and government assistance, both to incentivize civilian cooperation with the army and mitigate the negative effects of army massacres. Ríos Montt also expanded on the "civic action" strategy, which began under Benedicto Lucas. The civilian paramilitary bands fielded by Lucas were renamed "civilian self-defense patrols" (PACs), and the army began conscripting large portions of the rural civilian population into the militias. At the start of the Rios Montt period there were approximately 25,000 civilians in the PACs. In the subsequent eighteen months, this number grew to 700,000, due to a policy of forced conscription. Dissenters to the establishment of civil patrols in their villages were often marked for death or other violent reprisal by the army.[188]

Despite the implementation of social welfare and civil action programs, "Victoria 82" still sought first and foremost to destroy the guerrilla forces and their base through operations of annihilation and the scorched earth tactics. As stated in the plan's "Purpose" (II/A/1-3), the army's job was to:

Defend the population.

Recover members of the Irregular Local Forces (Fuerzas Irregulares Locales-FIL) when possible while eliminating subversives who refuse to lay down their weapons.
Annihilate the Clandestine Local Committees (Comités Clandestinos Locales-CCL) and the Permanent Military Units (Unidades Militares Permanentes-UMP) of the enemy.
Although the plan distinguished between the army's objectives regarding the FIL and the CCL, both groups were local unarmed campesinos living and working in the targeted areas of operation. The FIL were civilians whose routine labors continued – tending their crops in the field or their domestic responsibilities – while they contributed to self-defense actions to hinder the Army's activities. The CCL were local leaders, often communitarian authorities, who served as political representatives for the guerrilla. The death of these leaders was a priority for the Army because it signified the end of the political connection between the guerrilla units and their bases of social support.[189]

Urban Reforms

While wholesale killings of indigenous peasants escalated to unprecedented levels in the countryside, "death squad" killings in the cities decreased. A U.S. defense attaché report informed Washington in April 1982 that "The army intended to act with two sets of rules, one to protect and respect the rights of average citizens who lived in secure areas (mostly in the cities) and had nothing to do with subversion. The second set of rules would be applied to the areas where subversion was prevalent. In these areas ('war zones') the rules of unconventional warfare would apply. Guerrillas would be destroyed by fire and their infrastructure eradicated by social welfare programs."[190]

Pursuant with the army's new "set of rules", Rios Montt began to make changes in the intelligence apparatus and disbanded – or renamed – some of the security structures which had become infamous for repression in the capital under previous regimes. In March 1982, shortly after the coup, Rios Montt disbanded the 'Detectives Corps' of the National Police and replaced it with the 'Department of Technical Investigations' (DIT). Additionally, Col. Germán Chupina Barahona – who was responsible for much of the repression in the capital under Lucas – was forced to resign and Col. Hernán Ponce Nitsch, a former instructor at the U.S. Army School of the Americas, was appointed as director-general of the National Police. Col. Hector Ismael Montalván Batres was retained for a period as the chief of the EMP after the coup, due to his experience.[190]

Since the insurgency operated in remote rural areas, the application of "unconventional warfare" became less prevalent in the capital. According to some observers, the decline in extralegal tactics by the National Police and intelligence services and the passing of press censorship laws offered the regime some degree of plausible deniability and fostered the misconception on the outside and among city dwellers that political repression was on a downward trend in Guatemala.[159]

However, in February 1983, a then-confidential CIA cable noted a rise in "suspect right-wing violence" in the capital, with an increasing number of kidnappings (particularly of educators and students) and a concomitant increase in the number of corpses recovered from ditches and gullies, previously a characteristic of state-terror under the Lucas Garcia regime. The cable traced the wave of death squad repression to an October 1982 meeting by General Ríos Montt with the "Archivos" intelligence unit in which he gave agents full authorization to "apprehend, hold, interrogate and dispose of suspected guerrillas as they saw fit."[191] This marked the beginning of a gradual return to the conditions which prevailed in Guatemala City under Rios Montt's predecessors.[192]
1982年クーデターとリオス・モント政権

1982年3月23日、エフライン・リオス・モント将軍の指揮下にあった下級将校がクーデターを起こし、ロメオ・ルーカス・ガルシア将軍を退陣させた。こ のクーデターは、クーデター工作に関与した下級将校を除けば、ルーカス政権内のいかなる組織からも支持されていなかった。クーデター当時、ルーカス・ガル シアの上級将校の大半は、下級将校やその他の組織が以前にクーデターを企てたことを知らなかったとされる。ルーカス将軍はクーデターに抵抗する準備ができ ていたとされ、大統領官邸に駐屯していた自分の部隊でクーデターに対抗することも容易だったが、ライフル銃を突きつけられた母親と妹を見せられ、降伏する よう強要された。 [184]ルーカス・ガルシアの打倒後、ルーカスの内務大臣ドナルド・アルバレス・ルイスの自宅が家宅捜索され、印刷機、秘密の留置場、50台の盗難車や 数十個の金の卒業指輪を含む警察の拷問被害者から奪われた財産が発見された[185]。

権力を掌握してから2ヶ月以内に、リオス・モントは個人的な権力の強化に取り組み、反クーデター計画に関与していると思われる警官たちを排除し始めた。リ オスに反対する将校の特にまとまったグループの1つは、グアテマラ陸軍士官学校の昇進クラス73番であった。これらの将校を威嚇し、反クーデターの計画を 阻止するために、リオス・モントはその最も著名なメンバーの3人の逮捕と捜査を命じた: マリオ・ロペス・セラーノ大尉、ロベルト・エンリケ・レトナ・ホラ大尉、オットー・ペレス・モリーナ大尉である。1982年7月9日、リオス・モントは軍 事政権の2人のメンバーを辞任に追い込み、事実上の軍隊の長として、また国防大臣として、政府を完全に掌握した。

ビクトリア82」と「ソフィア作戦

以下も参照: グアテマラ虐殺§リオス・モント政権下の虐殺

リオス・モント政権下の反乱計画の立案者は、ルーカス・ガルシア政権下の反乱によって生じた社会問題を認識していた。最も逆効果だったのは、無差別大量殺 人によって国家に対する反感が広まったことだった。反乱を根絶しようとする軍と、民間人の「心をつかむ」という願望との間で妥協が成立し、1982年6月 6日、「ビクトリア82」として知られる新たな反乱計画が実施された。この計画の作成者は、「住民の精神が主要な目的である」と強調した[187]。この プログラムは、ベネディクト・ルーカス・ガルシアの下で開発され、実行された残忍な焦土戦術を、社会福祉プログラムと政府援助と組み合わせることで、軍に 対する市民の協力を促し、軍の虐殺の悪影響を緩和するものであった。リオス・モントはまた、ベネディクト・ルーカスの下で始まった「市民行動」戦略を拡大 した。ルーカスが派遣した民間準軍事バンドは「民間人自衛パトロール」(PACs)と改名され、軍は農村の民間人の大部分を民兵に徴用し始めた。リオスモ ントの時代が始まったとき、PACにはおよそ25,000人の民間人がいた。その後18ヵ月間で、強制徴兵政策により、この数は70万人に増加した。村に 市民パトロール隊を設置することに反対する者は、しばしば軍による死やその他の暴力的な報復の対象となった[188]。

社会福祉と市民活動プログラムの実施にもかかわらず、「ビクトリア82」は、殲滅作戦と焦土戦術によってゲリラ部隊とその拠点を破壊することを何よりもま ず求めていた。計画の「目的」(II/A/1-3)にあるように、軍隊の仕事は次のようなものであった:

住民を守る。

可能な限り、非正規地方軍(Fuerzas Irregulares Locales-FIL)のメンバーを回収し、武器を捨てることを拒否する破壊活動家を排除すること。
敵の秘密地方委員会(Comités Clandestinos Locales-CCL)と常設軍事部隊(Unidades Militares Permanentes-UMP)を全滅させる。
計画では、FILとCCLに関する軍の目的は区別されていたが、どちらのグループも作戦対象地域に住み、働いている地元の非武装カンペシーノであった。 FILは、畑での作物の世話や家事など、日常的な労働を続けながら、軍の活動を妨げるための自衛行動に貢献する民間人であった。CCLは、ゲリラの政治的 代表者としての役割を果たす地元の指導者、しばしば共同体主義的権威であった。これらの指導者の死は、ゲリラ部隊とその社会的支持基盤との政治的つながり の終焉を意味するため、陸軍にとって優先事項であった[189]。

都市の改革

農村では先住民の農民に対する大規模な殺戮が前代未聞のレベルにまでエスカレートした一方で、都市における「決死隊」による殺戮は減少した。1982年4 月、アメリカの国防担当官の報告書はワシントンに、「軍隊は2組の規則で行動するつもりだった。1つは、安全な地域(主に都市部)に住み、破壊活動とは無 関係な一般市民の権利を守り、尊重するためのものだった。第二の規則は、破壊工作が蔓延している地域に適用される。これらの地域(「戦争地域」)では、非 従来型戦争のルールが適用される。ゲリラは火災によって破壊され、そのインフラは社会福祉プログラムによって根絶やしにされるだろう」[190]。

軍の新しい「一連の規則」に従い、リオス・モントは情報機関に変更を加え始め、以前の政権下で首都での弾圧で悪名高いものとなっていた治安組織のいくつか を解散させ、あるいは名称を変更した。1982年3月、クーデター直後、リオス・モントは国家警察の「刑事部隊」を解散させ、「技術捜査局」(DIT)に 置き換えた。さらに、ルーカス政権下で首都の弾圧の多くを担っていたジェルマン・チュピナ・バラホナ大佐が辞任に追い込まれ、米陸軍アメリカ大陸学校の元 教官エルナン・ポンセ・ニッチュ大佐が国家警察長官に任命された。ヘクトル・イスマエル・モンタルバン・バトレス大佐は、その経験により、クーデター後も 憲兵隊長として一定期間留任した[190]。

反政府勢力が人里離れた農村部で活動していたため、「非通常戦」の適用は首都ではあまり普及しなくなった。一部のオブザーバーによれば、国家警察と諜報機 関による非合法的な戦術の減少と報道検閲法の成立は、政権にある程度のもっともらしい否認の余地を与え、グアテマラでは政治弾圧が減少傾向にあるという誤 解を外部や都市住民の間に醸成した[159]。

しかし、1983年2月、当時のCIAの機密電報は、首都における「容疑者の右翼による暴力」の増加を指摘し、誘拐の件数(特に教育者と学生)が増加し、 それに伴って、以前はルーカス・ガルシア政権下の国家テロの特徴であった、溝や側溝から回収される死体の数が増加していることを指摘した。この電報は、死 の部隊による弾圧の波を、1982年10月にリオス・モント将軍が「アーキボス」諜報部隊と行った会議にまで遡るものであり、その中で彼は、「容疑者のゲ リラを適当に逮捕し、拘束し、尋問し、処分する」完全な権限を諜報員に与えた[191]。
Mejia Victores regime and democratic transition: 1983–1986

Ríos Montt was deposed on 8 August 1983 by his own Minister of Defense, General Óscar Humberto Mejía Víctores. Mejía became de facto president and justified the coup, saying that "religious fanatics" were abusing their positions in the government and also because of "official corruption." Ríos Montt remained in politics, founding the Guatemalan Republican Front party in 1989. Elected to Congress, he was elected President of Congress in 1995 and 2000.[59][193]

By the time Oscar Humberto Mejia Victores assumed power, the counterinsurgency under Lucas Garcia and Ríos Montt had largely succeeded in its objective of detaching the insurgency from its civilian support base. Additionally, Guatemalan military intelligence (G-2) had succeeded in infiltrating most of the political institutions. It eradicated opponents in the government through terror and selective assassinations. The counterinsurgency program had militarized Guatemalan society, creating a fearful atmosphere of terror that suppressed most public agitation and insurgency. The military had consolidated its power in virtually all sectors of society.[194]

In 1983, indigenous activist Rigoberta Menchú published a memoir of her life during that period, I, Rigoberta Menchú, An Indian Woman in Guatemala, which gained worldwide attention. She is the daughter of one of the peasant leaders that died in the Spanish Embassy massacre on 31 January 1980. She was later awarded the 1992 Nobel Peace Prize -on the year of the Fifth Centennial celebration of America Discovery- for her work in favor of broader social justice.[h] Her memoir drew international attention to Guatemala and the nature of its institutional terrorism.

Due to international pressure, as well as pressure from other Latin American nations, General Mejía Victores allowed a gradual return to democracy in Guatemala. On 1 July 1984 an election was held for representatives to a Constituent Assembly to draft a democratic constitution. On 30 May 1985, the Constituent Assembly finished drafting a new constitution, which took effect immediately. General elections were scheduled, and civilian candidate Vinicio Cerezo was elected as president. The gradual revival of "democracy" did not end the "disappearances" and death squad killings, as extrajudicial state violence had become an integral part of the political culture.[195]

The Mutual Support Group (GAM)

On 18 February 1984, student leader Edgar Fernando Garcia "disappeared" after being seized and dragged into a van on the outskirts of a market near his home in Guatemala City. Fernando Garcia was a trade unionist and member of the outlawed PGT who was studying engineering at the University of San Carlos. The kidnappers were uniformed policemen with the BROE and the Fourth Corps of the National Police who were conducting stop-and-search patrols in the area. Those identified in his kidnapping were policemen Ramírez Ríos, Lancerio Gómez, Hugo Rolando Gómez Osorio and Alfonso Guillermo de León Marroquín.

In the wake of García's kidnapping, his wife, Nineth Montenegro – now a member of Congress – launched the Mutual Support Group (Grupo de Apoyo Mutuo—GAM), a new human rights organization that pressed the government for information about missing relatives. Co-founded with other families of the disappeared, GAM took shape in June 1984, holding demonstrations, meeting with government officials and leading a domestic and international advocacy campaign over the years to find the truth behind the thousands of Guatemala's disappeared. The organization was quickly joined by hundreds of additional family members of victims of government-sponsored violence, including Mayan Indians affected by the Army's genocidal counterinsurgency sweeps in the late-1970s and early-1980s.

In November 1984, the GAM boldly organized a "symbolic journey" to the constituent assembly where they met with the assembly president to demand information on the whereabouts of their "disappeared" relatives. After several days, they were received by General Mejia personally.[196] There they repeated their demands for the whereabouts of their missing. A second meeting on 30 November 1984 led to the formation of a government commission to investigate the reports of the GAM's charges. The following month, the GAM met with the commission. The subsequent inaction of the commission in the following months led to protest.[197]

Repression against the GAM
The military government of General Mejia Victores evinced no real desire to make concessions with the GAM and treated the organization as a front for leftist subversion. This was especially true when the GAM's actions began to attract international attention to the human rights situation in the Republic. On 1 March 1985 the office of the Guatemalan Attorney General was occupied by 100 members of the GAM in protest over the lack of action by the government investigative commission. In the subsequent period the government began to issue warnings to the GAM regarding illegal public protests, starting with a warning from the Interior Minister Gustavo Adolfo Lopez Sandoval to the GAM to cease and desist any protests which blocked public traffic. Gen. Mejia subsequently stated in interviews that he believed the group was being manipulated by leftist forces.[198]

On Easter "Holy Week" in March 1985, the government's liquidation units began targeting the GAM's leadership. On 30 March 1985, senior GAM member Héctor Gómez Calito was abducted. U.S. Embassy sources reported that Calito had been under surveillance by the Department of Technical Investigations (DIT) for some time. His body later appeared bearing signs of torture. Following his murder, GAM co-founder and widow of missing student leader Carlos Ernesto Cuevas Molina, Rosario Godoy de Cuevas, who had delivered the eulogy at Gómez Calito's funeral, was found dead at the bottom of a ditch three kilometres (2 mi) outside Guatemala City, along with her 2-year-old son and 21-year-old brother. All of the three victims bodies bore signs of extreme torture prior to death. Human rights monitors who had seen the bodies reported that Godoy's 2-year-old son's fingernails had been ripped out. While the government claimed their deaths was an accident, Embassy sources discounted the official version of the events, and claimed that Godoy was targeted and her death was a premeditated homicide.[199]
メヒア・ビクトレス政権と民主化移行: 1983-1986

リオス・モントは1983年8月8日、自身の国防大臣であったオスカル・ウンベルト・メヒア・ビクトレス将軍によって退陣させられた。メヒアは事実上の大 統領となり、「宗教狂信者」が政府内の地位を乱用していたこと、また「官僚の汚職」が原因であったとして、クーデターを正当化した。リオス・モントは政界 にとどまり、1989年にグアテマラ共和国戦線党を結成した。議会議員に選出され、1995年と2000年に議会議長に選出された[59][193]。

オスカー・ウンベルト・メヒア・ヴィクトレスが政権を奪取するまでに、ルーカス・ガルシアとリオス・モントの下での反乱活動は、反乱軍を民間人の支持基盤 から切り離すという目的にほぼ成功していた。さらに、グアテマラ軍情報部(G-2)は政治機関のほとんどに浸透することに成功した。テロと選択的暗殺に よって政府内の反対派を根絶やしにした。対反乱プログラムはグアテマラ社会を軍国主義化し、恐怖の雰囲気を作り出し、ほとんどの民衆の扇動や反乱を抑圧し た。軍は社会の事実上すべての部門でその権力を強化していた[194]。

1983年、先住民の活動家リゴベルタ・メンチューは、その時期の彼女の人生についての回想録『グアテマラのインディアンの女、リゴベルタ・メンチュー』 を出版し、世界的に注目を集めた。彼女は1980年1月31日のスペイン大使館虐殺事件で死亡した農民指導者の一人の娘である。彼女の手記は、グアテマラ とその組織的テロリズムの本質に国際的な注目を集めた。

国際的な圧力と他のラテンアメリカ諸国からの圧力により、メヒア・ヴィクトレス将軍はグアテマラの民主主義への段階的な復帰を許可した。1984年7月1 日、民主的な憲法を起草する制憲議会の代表選挙が行われた。1985年5月30日、制憲議会は新憲法の起草を終え、直ちに発効した。総選挙が予定され、民 間人候補のビニシオ・セレーゾが大統領に選出された。民主主義」が徐々に復活しても、超法規的な国家暴力が政治文化の不可欠な一部となっていたため、「失 踪」と決死隊の殺害は終わらなかった[195]。

相互支援グループ(GAM)

1984年2月18日、学生指導者のエドガー・フェルナンド・ガルシアは、グアテマラ・シティの自宅近くの市場はずれで取り押さえられ、バンに引きずり込 まれた後、「失踪」した。フェルナンド・ガルシアは労働組合員で、サン・カルロス大学で工学を学んでいた非合法組織PGTのメンバーだった。誘拐犯は、 BROEと国家警察第4部隊の制服警官で、この地域で停止捜査パトロールを行っていた。誘拐犯として特定されたのは、ラミレス・リオス、ランセリオ・ゴメ ス、ウーゴ・ロランド・ゴメス・オソリオ、アルフォンソ・ギジェルモ・デ・レオン・マロキンの各警官であった。

ガルシアが誘拐された後、彼の妻であるニネス・モンテネグロ(現在は下院議員)は、行方不明の親族に関する情報を政府に求める新しい人権団体、相互支援グ ループ(Grupo de Apoyo Mutuo-GAM)を立ち上げた。他の失踪者家族と共同で設立されたGAMは、1984年6月に結成され、何千人ものグアテマラ失踪者の真相を究明する ため、デモを行い、政府高官と面会し、何年にもわたって国内および国際的なアドボカシー・キャンペーンを主導した。この組織には、1970年代末から 1980年代初頭にかけて軍が行った大量虐殺的な反乱作戦の影響を受けたマヤ・インディアンを含む、政府による暴力の犠牲者の家族が数百人加わり、すぐに 活動を開始した。

1984年11月、GAMは大胆にも選挙区議会への「象徴的な旅」を企画し、「失踪した」親族の所在に関する情報を要求するため、議会議長と面会した。数 日後、彼らはメヒア将軍に直接面会した[196]。そこで彼らは行方不明者の所在を求める要求を繰り返した。1984年11月30日の2回目の会合で、 GAMの告発報告を調査する政府委員会が設置された。翌月、GAMは委員会と面会した。その後数ヶ月間、委員会が無為無策であったことから抗議が起こった [197]。

GAMに対する弾圧
メヒア・ビクトレス将軍の軍事政権は、GAMに譲歩する真の意欲を見せず、GAMを左翼の破壊活動の隠れ蓑として扱った。特に、GAMの行動が共和国の人 権状況に国際的な注目を集めるようになると、その傾向が顕著になった。1985年3月1日、グアテマラ検事総長の執務室は、政府の調査委員会が行動を起こ さないことに抗議して、GAMのメンバー100人によって占拠された。その後、政府はGAMに対して違法な抗議行動に関する警告を発し始め、グスタボ・ア ドルフォ・ロペス・サンドバル内相がGAMに対して、公共交通を妨害する抗議行動を中止するよう警告したのがその始まりであった。その後、メヒア元大統領 はインタビューで、GAMは左翼勢力によって操られていると考えていると述べた[198]。

1985年3月の復活祭の「聖週間」に、政府の清算部隊はGAMの指導部を標的にし始めた。1985年3月30日、GAM幹部のエクトル・ゴメス・カリト が拉致された。米国大使館筋によると、カリートはしばらくの間、技術調査局(DIT)の監視下に置かれていた。彼の遺体には拷問の形跡があった。彼の殺害 後、GAMの共同創設者で行方不明の学生指導者カルロス・エルネスト・クエバス・モリナの未亡人、ロサリオ・ゴドイ・デ・クエバスは、ゴメス・カリトの葬 儀で弔辞を述べたが、2歳の息子と21歳の弟とともに、グアテマラ・シティから3キロ離れた溝の底で死んでいるのが発見された。人の犠牲者の遺体には、い ずれも生前に極度の拷問を受けた形跡があった。遺体を見た人権モニターによれば、ゴドイの2歳の息子の爪は引きちぎられていた。政府は彼らの死は事故であ ると主張したが、大使館筋は公式見解を否定し、ゴドイは狙われており、彼女の死は計画的な殺人であると主張した[199]。
Transition to elections

In 1985 the United States encouraged civilian rule and elections in Guatemala. When these emerged, Washington proclaimed the birth of "democracy" in one of its client states. The elections themselves were internationally acclaimed procedurally fair but were also considered deficient in terms of instituting substantive democratic reforms:

The elections in Guatemala in 1985 and 1990 as well as those in El Salvador in 1982, 1984, 1988, 1989, and 1991 were held against a background of state-sponsored terror that had taken tens of thousands of lives and had disarticulated most mass-based civic and political organizations. Candidates perforce came mainly from center to far-right parties, and independent or critical media outlets were nonexistent. Repression confined most citizen participation in formal national politics to voting. Only a tiny minority of center and right-wing party activists engaged in campaigns, and repression kept turnout low.[200]

Historian Susanne Jonas writes that "for the most part from 1986 through 1995, civilian presidents allowed the army to rule from behind the scenes."[201] After an initial decline, death squad violence and other abuses by the army had actually increased significantly in the late 1980s.[202]
選挙への移行

1985年、アメリカはグアテマラの民政と選挙を奨励した。これが実現したとき、ワシントンはそのクライアント国家のひとつに「民主主義」が誕生したと宣 言した。選挙自体は、手続き的には公正であったと国際的に評価されたが、実質的な民主改革を行うという点では不十分であった:

1985年と1990年のグアテマラの選挙も、1982年、1984年、1988年、1989年、1991年のエルサルバドルの選挙も、何万人もの命を奪 い、ほとんどの大衆ベースの市民組織や政治組織を解体させた国家主導のテロを背景に行われた。候補者は中道から極右政党が中心で、独立したメディアや批判 的なメディアは存在しなかった。弾圧によって、正式な国政への市民の参加はほとんど投票だけに限られていた。選挙運動に参加したのはごく少数の中道政党や 右派政党の活動家だけであり、抑圧によって投票率は低く抑えられていた[200]。

歴史家のスザンネ・ジョナスは、「1986年から1995年までのほとんどの期間、文民大統領は軍が舞台裏から支配することを許していた」と書いている [201]。当初は減少していたが、1980年代後半には軍による決死隊の暴力やその他の虐待が実際に大幅に増加していた[202]。
Cerezo Administration

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Vinicio Cerezo, a civilian politician and the presidential candidate of the Guatemalan Christian Democracy, won the first election held under the new constitution with almost 70 percent of the vote, and took office on 14 January 1986.[59]

Upon its inauguration in January 1986, President Cerezo's civilian government announced that its top priorities would be to end the political violence and establish the rule of law. Reforms included new laws of habeas corpus and amparo (court-ordered protection), the creation of a legislative human rights committee, and the establishment in 1987 of the Office of Human Rights Ombudsman. The Supreme Court also embarked on a series of reforms to fight corruption and improve legal system efficiency.

With Cerezo's election, the military moved away from governing and returned to the more traditional role of providing internal security, specifically by fighting armed insurgents. The first two years of Cerezo's administration were characterized by a stable economy and a marked decrease in political violence. Dissatisfied military personnel made two coup attempts in May 1988 and May 1989, but military leadership supported the constitutional order. The government was heavily criticized for its unwillingness to investigate or prosecute cases of human rights violations.

The final two years of Cerezo's government also were marked by a failing economy, strikes, protest marches, and allegations of widespread corruption. The government's inability to deal with many of the nation's problems – such as infant mortality, illiteracy, deficient health and social services, and rising levels of violence – contributed to popular discontent.[citation needed]

Presidential and congressional elections were held on 11 November 1990. After the second-round ballot, Jorge Antonio Serrano Elías was inaugurated on 14 January 1991, thus completing the first transition from one democratically elected civilian government to another. Because his Movement of Solidarity Action (MAS) Party gained only 18 of 116 seats in Congress, Serrano entered into a tenuous alliance with the Christian Democrats and the National Union of the center (UCN).

The Serrano administration's record was mixed. It had some success in consolidating civilian control over the army, replacing a number of senior officers and persuading the military to participate in peace talks with the URNG. He took the politically unpopular step of recognizing the sovereignty of Belize, which until then had been officially, though fruitlessly, claimed by Guatemala. The Serrano government reversed the economic slide it inherited, reducing inflation and boosting real growth.

Serrano government dissolution and recovery

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On 25 May 1993, Serrano illegally dissolved Congress and the Supreme Court and tried to restrict civil freedoms, allegedly to fight corruption. The autogolpe (or autocoup) failed due to unified, strong protests by most elements of Guatemalan society, international pressure, and the army's enforcement of the decisions of the Court of Constitutionality, which ruled against the attempted takeover. Serrano fled the country. An Intelligence Oversight Board report (secret at the time) states that the CIA helped in stopping this autocoup.[203]

Pursuant to the 1985 constitution, the Guatemalan Congress on 5 June 1993 elected de León, the Human Rights Ombudsman, to complete Serrano's presidential term. He was not a member of any political party; lacking a political base but with strong popular support, he launched an ambitious anti-corruption campaign to "purify" Congress and the Supreme Court, demanding the resignations of all members of the two bodies. Shortly after he took office, his cousin, leader of the liberal party and two-time presidential candidate, was assassinated.

Despite considerable congressional resistance, presidential and popular pressure led to a November 1993 agreement brokered by the Catholic Church between the administration and Congress. This package of constitutional reforms was approved by popular referendum on 30 January 1995. In August 1994, a new Congress was elected to complete the unexpired term. Controlled by the anti-corruption parties: the populist Guatemalan Republican Front (FRG) headed by Ríos Montt, and the center-right National Advancement Party (PAN), the new Congress began to move away from the corruption that characterized its predecessors.

Renewed peace process (1994 to 1996)

Main article: Guatemalan Peace Process 1994-1996
Under de León, the peace process, now brokered by the United Nations, took on new life. The government and the URNG signed agreements on human rights (March 1994), resettlement of displaced persons (June 1994), historical clarification (June 1994), and indigenous rights (March 1995). They also made significant progress on a socio-economic and agrarian agreement.[204]

National elections for president, Congress, and municipal offices were held in November 1995. With almost 20 parties competing in the first round, the presidential election came down to a 7 January 1996 run-off in which PAN candidate Álvaro Arzú Irigoyen defeated Alfonso Portillo Cabrera of the FRG by just over 2 percent of the vote.[205] Arzú won because of his strength in Guatemala City, where he had previously served as mayor, and in the surrounding urban area. Portillo won all of the rural departments except Petén.

Under the Arzú administration, peace negotiations were concluded, and the government and the guerrilla umbrella organization URNG, which became a legal party, signed peace accords ending the 36-year internal conflict on 29 December 1996.[204] The General Secretary of the URNG, Comandante Rolando Morán, and President Álvaro Arzú jointly received the UNESCO Peace Prize for their efforts to end the civil war and attaining the peace agreement. The United Nations Security Council adopted Resolution 1094 on 20 January 1997 deploying military observers to Guatemala to monitor the implementation of the peace agreements.[206]

Casualties

Main article: Guatemalan genocide

By the end of the war, it is estimated that 140,000–200,000 people had been killed or had disappeared.[12][13][i] The overwhelming majority of those killed in human rights abuses were victims of official-sanctioned terror by government forces.[209][210] The internal conflict is described in the report of the Archbishop's Office for Human Rights (ODHAG). ODHAG attributed almost 90.0 percent of the atrocities and over 400 massacres to the Guatemalan army (and paramilitary), and less than 5 percent of the atrocities to the guerrillas (including 16 massacres).

In a report in 1999, the UN-sponsored Historical Clarification Commission (CEH) stated that the state was responsible for 93 percent of the human rights violations committed during the war, the guerrillas for 3 percent.[211] They peaked in 1982. 83 percent of the victims were Maya.[212] Both sides used terror as a deliberate policy.[8]
セレッソ行政

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民間の政治家であり、グアテマラ・キリスト教民主主義の大統領候補であったビニシオ・セレソは、新憲法下で行われた最初の選挙で70%近い得票率で勝利 し、1986年1月14日に大統領に就任した[59]。

1986年1月に発足したセレーゾ大統領の文民政府は、政治暴力の終結と法の支配の確立を最優先課題とすると発表した。改革には、人身保護法とアンパロ法 (裁判所命令による保護)の新設、立法人権委員会の設立、1987年の人権オンブズマン事務所の設立などが含まれた。最高裁判所はまた、汚職と闘い、法制 度の効率性を向上させるための一連の改革に着手した。

セレーゾの当選により、軍は統治から離れ、武装反乱軍との戦闘を中心とした国内治安の提供という、より伝統的な役割に戻った。セレーゾ政権の最初の2年間 は、経済が安定し、政治的暴力が著しく減少した。不満を持った軍人が1988年5月と1989年5月に2度のクーデター未遂を起こしたが、軍指導部は憲法 秩序を支持した。政府は人権侵害事件の捜査や訴追に消極的で、大きな批判を浴びた。

セレーゾ政権の最後の2年間は、経済破綻、ストライキ、抗議デモ行進、汚職疑惑が蔓延した。乳幼児死亡率、非識字率、医療・社会サービスの不備、暴力レベ ルの上昇など、国民の抱える多くの問題に対処できなかったことが、国民の不満の一因となった[要出典]。

1990年11月11日に大統領選挙と議会選挙が行われた。第2回投票の後、1991年1月14日にホルヘ・アントニオ・セラーノ・エリアスが就任し、民 主的に選出された文民政権から別の政権への最初の移行が完了した。セラーノが率いる連帯行動運動(MAS)党は議会で116議席中18議席しか獲得できな かったため、セラーノはキリスト教民主党および全国中央連合(UCN)と微妙な同盟関係を結んだ。

セラーノ政権の実績はまちまちだった。軍に対する文民統制を強化し、多くの上級将校を交代させ、軍をURNGとの和平交渉に参加させることに一定の成功を 収めた。彼はそれまで正式に、実りのないものの、グアテマラによって主張されていたベリーズの主権を認識する政治的に不人気のステップを取った。セラーノ 政権は、インフレを削減し、実質成長率を押し上げ、それが継承した経済の低迷を逆転させた。

セラーノ政権の解散と復興

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1993年5月25日、セラーノは議会と最高裁判所を違法に解散させ、汚職撲滅のためと称して市民の自由を制限しようとした。グアテマラ社会のほとんどの 要素による統一された強力な抗議、国際的な圧力、そして買収の試みに反対する判決を下した憲法裁判所の決定を軍が執行したため、オートゴルペ(またはオー トクーデター)は失敗に終わった。セラノは国外に逃亡した。情報監視委員会の報告書(当時は極秘)によれば、CIAはこの自クーデターを阻止する手助けを したとされている[203]。

1985年憲法に従い、1993年6月5日、グアテマラ議会は人権オンブズマンであるデ・レオンを選出し、セラーノの大統領任期を全うさせた。デ・レオン はどの政党にも属さず、政治的基盤はなかったが、民衆の強い支持を得て、議会と最高裁判所を「浄化」する野心的な反汚職キャンペーンを展開し、両機関の全 メンバーの辞職を要求した。就任直後、自由党党首で大統領候補を2度務めた従兄弟が暗殺された。

議会の抵抗もあったが、大統領と民衆の圧力により、1993年11月、カトリック教会の仲介で政権と議会の間で合意が成立した。この憲法改革パッケージは 1995年1月30日の国民投票によって承認された。1994年8月、任期満了前の新議会が選出された。反腐敗政党であるリオス・モント率いるポピュリス トのグアテマラ共和国戦線(FRG)と中道右派の国民進歩党(PAN)が新議会を支配し、前任者の特徴であった腐敗から脱却し始めた。

和平プロセスの再開(1994年~1996年)

主な記事 グアテマラ和平プロセス 1994-1996
デ・レオンの下、和平プロセスは国連の仲介で新たな生命を得た。政府とURNGは、人権(1994年3月)、避難民の再定住(1994年6月)、歴史の明 確化(1994年6月)、先住民の権利(1995年3月)に関する合意に調印した。また、社会経済・農業協定についても大きな進展があった[204]。

1995年11月、大統領、議会、自治体の選挙が行われた。大統領選挙は、20近い政党が第1ラウンドで争ったため、1996年1月7日の決選投票にもつ れ込み、PANのアルヴァロ・アルズー・イリゴエン候補がFRGのアルフォンソ・ポルティージョ・カブレラ候補を2パーセント強の得票率で破った [205]。アルズーが勝利したのは、彼が以前市長を務めていたグアテマラ・シティとその周辺の都市部で強かったからである。ポルティージョは、ペテンを 除くすべての地方県で勝利した。

アルズ政権下で和平交渉が妥結し、政府と合法政党となったゲリラの上部組織URNGは1996年12月29日、36年に及ぶ内戦に終止符を打つ和平協定に 調印した[204]。URNGの書記長コマンダンテ・ロランド・モランとアルバロ・アルズ大統領は、内戦終結と和平協定達成への努力に対して共同でユネス コ平和賞を受賞した。国連安全保障理事会は1997年1月20日に決議1094を採択し、和平合意の履行を監視するために軍事監視団をグアテマラに派遣し た[206]。

死傷者

主な記事 グアテマラ虐殺

戦争終結までに、14万~20万人が殺害されたか失踪したと推定されている[12][13][i]。人権侵害で殺害された人々の圧倒的多数は、政府軍によ る公認テロの犠牲者であった[209][210]。内部紛争は、人権大司教事務所(ODHAG)の報告書に記述されている。ODHAGは、残虐行為のほぼ 90.0パーセントと400以上の虐殺をグアテマラ軍(および準軍事組織)に起因し、残虐行為の5パーセント未満をゲリラ(16の虐殺を含む)に起因する とした。

国連主催の歴史解明委員会(CEH)は1999年の報告書で、戦争中に行われた人権侵害の93パーセントは国家に責任があり、ゲリラは3パーセントであっ たと述べている[211] 。犠牲者の83パーセントはマヤ人であった[212]。双方は意図的な政策としてテロを用いた[8]。
Foreign support and involvement

United States Involvement

Wikinews has related news:
Documents show U.S. knew of Guatemalan human rights abuses
Declassified CIA documents report that the U.S. Government organized, funded, and equipped the 1954 coup d'état, deposing the elected Guatemalan presidential government of Jacobo Árbenz Guzmán.[213] Analysts Kate Doyle and Peter Kornbluh report that "after a small insurgency developed, in the wake of the coup, Guatemala's military leaders developed and refined, with U.S. assistance, a massive counter-insurgency campaign that left tens of thousands of massacred, maimed or missing [people]." Historian Stephen G. Rabe, reports that "in destroying the popularly elected government of Jacobo Arbenz Guzman (1950–1954), the United States initiated a nearly four-decade-long cycle of terror and repression."[214] The coup d'état installed lead usurper Colonel Castillo Armas as head of government, and then he and "the United States began to militarize Guatemala almost immediately, financing and reorganizing the police and military."[215]

US changes approach

The report by the Historical Clarification Commission (CEH) shows that the United States institutionalized its "National Security Doctrine" in nearly every country in Latin America. In Guatemala, this strategy was first implemented "as anti-reformist, then anti-democratic policies, culminating in criminal counterinsurgency."[216] In 1962, the Kennedy administration shifted the mission of the armies in Latin America, including Guatemala, from "hemispheric defense" to "internal security". Charles Meachling Jr., who led U.S. counterinsurgency and internal defense planning from 1961 to 1966, explains the results of this new initiative as a shift from toleration of "the rapacity and cruelty of the Latin American military", to "direct complicity" in their crimes, to U.S. support for "the methods of Heinrich Himmler's extermination squads."[217]

US training

Also in 1962, Guatemalan specialist Susanne Jonas has alleged that U.S. Special Forces set up a secret military training base. After a successful (U.S. backed) coup against president Miguel Ydígoras Fuentes in 1963, U.S. advisors began to work with Colonel Carlos Manuel Arana Osorio to defeat the guerrillas, borrowing "extensively from current counterinsurgency strategies and technology being employed in Vietnam." In subsequent years, Arana earned the nickname "Butcher of Zacapa". Amnesty International cited estimates that 3,000 to 8,000 peasants were killed by the army and paramilitary organizations in Zacapa and Izabal under Colonel Arana between October 1966 and March 1968.[218] Other estimates are that 15,000 peasants were killed to eliminate 300 suspected rebels.[219] After July 1966, when President Julio César Méndez Montenegro signed a pact permitting the army to pursue a more aggressive counterinsurgency program, there was an influx of American military and security advisors in Guatemala. Up to 1,000 U.S. Green Berets were estimated to be operating in Zacapa during the 1966–68 period, providing training and support for Guatemalan counterinsurgency operations.[81] Jonas claims that the ratio of military advisers to local military officials in Guatemala was the highest of any Latin American country in the late 1960s and 70s, and moreover that "there is substantial evidence of the direct role of U.S. military advisers in the formation of death squads: U.S. Embassy personnel were allegedly involved in writing an August 1966 memorandum outlining the creation of paramilitary groups, and the U.S. military attaché during this period publicly claimed credit for instigating their formation as part of "counterterror" operations."[220]

A retrospective analysis of U.S. government Biographic Register and Foreign Service Lists revealed that many of the same U.S. personnel operating in Guatemala during the 1960s and 70s also served in South Vietnam, particularly in Civil Operations and Revolutionary Development Support (CORDS).[221]

Carter Administration

In 1977, the Carter administration published a report citing the Guatemalan government as a "gross and consistent human rights violator" while noting that the situation was improving under the administration of president Kjell Eugenio Laugerud García. Angered by this report, the Laugerud government renounced all U.S. military assistance on 11 March 1977. Congress then reduced military aid to Guatemala for that year and prohibited military aid after 1978. Despite the prohibition, covert and overt U.S. support for the Guatemalan army continued as the administration continued to send equipment to Guatemala through the CIA or reclassified military items as non-military. In fiscal years 1978, 1979 and 1980 (the three years for which the Carter administration can be held responsible), the U.S. delivered approximately $8.5 million in direct military assistance to Guatemala, mostly Foreign Military Sales credits, as well as export licensing for commercial arms sales worth $1.8 million, a rate which differs very little from that of the Nixon-Ford Administrations.[222][223] According to Elias Barahona, former Press Secretary for the Ministry of Home Affairs in Guatemala from 1976 to 1980, the United States also worked closely with the government of Gen. Romeo Lucas Garcia on the development of anti-guerilla strategies through the "Programme for the Elimination of Communism". This was also confirmed by several other senior civil servants who worked under Lucas Garcia.[224]

Additionally, the reaction of U.S. policymakers in multilateral lending institutions was at best ambiguous during the Carter administration and economic and financial aid continued to reach Guatemala. The U.S. only voted against 2 of 7 multilateral development bank loans for Guatemala between October 1979 and May 1980. In August 1980, it was reported that the U.S. had reversed its position entirely on multilateral development assistance to Guatemala. At that time, the U.S. refused to veto a $51 million loan from the IDB that was earmarked for government use in the turbulent Quiché area of northern Guatemala.[225]

Reagan increases military assistance and cooperation

After the election of Ronald Reagan, the U.S. undertook more active measures to ensure close relations with the Guatemalan government. In April 1981, President Reagan's national security team agreed to supply military aid to the Guatemalan regime in order to exterminate leftist guerrillas and their "civilian support mechanisms," according to a document from the National Archives.[226]

The U.S. provided military logistical support to the Guatemalan Army, which was reclassified as non-military "regional stability controls" to circumvent the Congressional Embargo.[227] Such aid included a $3.2 million shipment of 150 jeeps and trucks and shipments of three Bell-212 and six Bell-412 helicopters – worth $10.5 million – which were reportedly indispensable to the Guatemalan Army's capacity to transport its troops into the highlands for counterinsurgency sweeps.[228][229][230] Lieutenant Col. George Maynes – former U.S. Defense Attache and Chief of the U.S. MilGroup in Guatemala – also worked with Guatemalan Army Chief-of-Staff Benedicto Lucas Garcia in the planning and development of the counterinsurgency program which was implemented by the Lucas Garcia regime in the highlands in late-1981 and early 1982. Maynes had close relations with Gen. Benedicto Lucas, functioning as an advisor in counterinsurgency matters. In an interview with investigative journalist Allen Nairn, Lt. Col. Maynes stated that Benedicto Lucas consulted with him on a regular basis.[180] USAID assisted the army's "model village" or resettlement camp programs there as well.[231]

When Gen. Efrain Rios Montt seized power in 1982, the administration saw an opportunity to justify additional aid for Guatemala, including a $4 million shipment of helicopter spare parts.[232] In October 1982, it was discovered that the U.S. Army Special Forces were instructing Guatemalan Army cadets in a wide range of counterinsurgency tactics at the Escuela Politecnica, the Guatemalan Army's main officer training school.[233] Captain Jesse Garcia, a 32-year-old Green Beret interviewed by the New York Times during a training exercise in October 1982, described his work in Guatemala as "not much different" than that of U.S. advisors in El Salvador. The U.S. Special Forces had been operating in Guatemala since at least 1980 under the guise of the Personnel Exchange Program, and were officially classified as "English Instructors". The curriculum offered to Guatemalan cadets by the U.S. Special Forces during this period included training in surveillance, small arms, artillery, demolitions, ambushes, "helicopter assault tactics" and how to destroy towns. Another U.S. Green Beret interviewed by the New York Times – Major Larry Salmon – who had operated in Guatemala from 1980 to 1982, described how he had helped the Guatemalans plan their tactical training and had given course instructions to the Guatemalan Army Parachute Brigade.[234] By 1983, it was also confirmed that Guatemalan military officers were once again being trained at the U.S. School of the Americas in Panama.[235]

In early 1982, with authorization from the State Department and The Pentagon, ten American-made M41 Walker Bulldog light tanks were illegally delivered to Guatemala by ASCO – a Belgian company – at a cost of US$34 million. The 10 tanks were part of a U.S. government authorized shipment of 22 tanks from Belgium to the Dominican Republic. Only twelve of the tanks were unloaded and the remainder were shipped to the Guatemalan military in Puerto Barrios on the Caribbean coast.[236][237]

Reagan administration dismisses reports of human rights abuses
Human Rights Watch in 1984 criticized U.S. President Ronald Reagan for his December 1982 visit to Ríos Montt in Honduras, where Reagan dismissed reports of human rights abuses by prominent human rights organizations while insisting that Ríos Montt was receiving a "bum rap". Human Rights Watch reported that soon after, the Reagan administration announced that it was dropping a five-year prohibition on arms sales and moreover had "approved a sale of $6.36 million worth of military spare parts," to Rios Montt and his forces.[238] Human Rights Watch described the degree of U.S. responsibility thus:

In light of its long record of apologies for the government of Guatemala, and its failure to repudiate publicly those apologies even at a moment of disenchantment, we believe that the Reagan Administration shares in the responsibility for the gross abuses of human rights practiced by the government of Guatemala.[239]

In January 1983, shortly after President Reagan's "bum rap" comment, Assistant Secretary of State for Human Rights Elliott Abrams went on television to defend the announced resumption of military aid: The army massacres and the ensuing refugee flows should be blamed "on the guerrillas who are fighting the government", he said. Massacres and refugees are "the price of stability."[240] As opposition to U.S. policy grew, the London Economist, three months later observed, "What liberal Americans can reasonably expect is that a condition of military help to Guatemala should be an easing of the political persecution of the center – which played into the hands of the extreme left in the first place."[241]

Support for Army Intelligence

The CEH's coordinator, Christian Tomuschat, stated that until the mid-1980s the United States government and U.S.-based multinationals exerted strong pressures "to maintain the country's archaic and unjust socioeconomic structures." In addition, he said, U.S. intelligence agencies, including the CIA, provided direct and indirect support to "some illegal state operations".[242] In the 1980s and 1990s, the CIA employed Guatemalan intelligence officials as informants and supplied them with intelligence for their war efforts against guerrillas, farmers, peasants, and other opponents.[243]

Among them, Colonel Julio Roberto Alpirez, base commander of the Military Intelligence Section (G-2). Alpirez discussed in an interview how the CIA helped advise and to run G-2. He claimed that U.S. agents trained G-2 men. Alpirez described attending CIA sessions at G-2 bases on "contra-subversion" tactics and "how to manage factors of power" to "fortify democracy." He said the CIA officials were on call to respond to G-2 questions, and that the G-2 often consulted the agency on how to deal with "political problems."[244]

The agency also helped to provide "technical assistance" including communications equipment, computers and special firearms, as well as collaborative use of CIA-owned helicopters that were flown out of a piper hangar at La Aurora civilian airport and from a separate U.S. Air facility. The CIA also supplied the Guatemalan army and G-2 with "civil material assistance," which included medical supplies, Vietnam-era metal jeep parts, compasses, and walkie-talkies.[244][245] When asked to summarize the CIA's relations with the Army Intelligence Directorate (D-2), one D-2 commander stated, "It's quite simple and I won't deny it: between the 1960s and 1990s, we had a structure from the CIA. The money, the resources, the training, and the relations were all from and through the CIA. This was the case because our intelligence, in the end, has had to serve the interests of the U.S."[246]

An Intelligence Oversight Board report from 1996 writes that military aid was stopped during the Carter administration but later resumed under the Reagan Administration. "After a civilian government under President Cerezo was elected in 1985, overt non-lethal U.S. military aid to Guatemala resumed. In December 1990, however, largely as a result of the killing of U.S. citizen Michael DeVine by members of the Guatemalan army, the Bush administration suspended almost all overt military aid." "The funds the CIA provided to the Guatemalan liaison services were vital to the D-2 and Archivos." The CIA "continued this aid after the termination of overt military assistance in 1990." "Overall CIA funding levels to the Guatemalan services dropped consistently from about $3.5 million in FY 1989 to about 1 million in 1995." The report writes that "the CIA's liaison relationship with the Guatemalan services also benefited U.S. interests by enlisting the assistance of Guatemala's primary intelligence and security service – the army's directorate of intelligence (D-2) – in areas such as reversing the 'auto-coup" of 1993'" "In the face of strong protests by Guatemalan citizens and the international community (including the United States) and – most importantly – in the face of the Guatemalan army's refusal to support him, President Serrano's Fujimori-style 'auto-coup' failed."[203]

U.S. role in torture

It is unknown to what extent American military and intelligence personnel participated directly in torture and human rights abuses in Guatemala. Few citizens who were taken and tortured by the military and intelligence services survived and most were "disappeared". However, a handful of those who did survive torture in Guatemala over the years have recounted that American agents were present during torture sessions or interrogated them after they had already been tortured.

One man known as "David" was abducted by plainclothes soldiers in Guatemala City in 1969. He was stripped, beaten, burned with cigarettes and hooded with a bag full of insecticide before being fondled and threatened with rape. He was then subjected to repeated electric shocks on the sensitive parts of his body under the supervision of a "gringo" (a man speaking in an American accent) and told repeatedly to confess to being a guerrilla. After days of torture, his blindfold was removed and he was confronted by two Americans claiming to be from the Red Cross who told him that if he confessed to being a guerrilla, they would protect him from further torture. When "David" did not confess, they left and he never saw them again.[247]

In another testimony, a fourteen-year-old boy known as "Miguel" was abducted in Guatemala City with two of his friends in 1982. Members of his family and several other friends were also seized by security forces. Over the course of two days, "Miguel" and his friends where beaten, denied food and suffocated with hoods. They also witnessed a dying man lying on the floor, bleeding through bandaged eyes. They were then taken one-by-one to the headquarters of the feared DIT (Department of Technical Investigations) where they were interviewed by an American. The American was described as a short-haired caucasian man in his forties, with a military build who was flanked with two Guatemalan guards. It was noted that the "gringo" seemed to be an experienced interrogator, who knew many details about him and his family. One of his surviving friends (also interrogated by the "gringo") noted how he bragged about his experiences in Vietnam and Africa. At one point he threatened to "burn Miguel's ass" with hot coals if he didn't cooperate. Two of his friends who were captured later "disappeared".[248]

Another man "Juan" was a URNG guerrilla who was captured by the army in 1988 and turned over to the G-2 for interrogation. He was beaten with a bat, shocked on the testicles and underarms with electrodes and suffocated with a rubber hood full of insecticide (a very common torture technique in Guatemala). The army also seized his children from their church and threatened to drag them to death behind a car if he did not give better information. During one session, he was ushered into a room with two men, one of whom was notably taller than the other man and spoke in a heavy North American accent. The American promised Juan better treatment under the condition that he answer his questions, most of which pertained to the URNG's ties with Cuba and whether or not they had received training or medical treatment from the Cubans.[249]

Perhaps the best known and most highly publicized case is that of Sister Dianna Ortiz, an American Roman Catholic nun who later founded a human rights advocacy group, the Torture Abolition and Survivors Support Coalition International (TASSC). In 1989, while working as a missionary in Guatemala, Ortiz was kidnapped, tortured, and gang raped by state security agents, receiving 111 second-degree cigarette burns. She identified the leader of the unit as a North American with the U.S. embassy[250] and said that several members of the George H. W. Bush administration "slandered" her by denying her story.[251] On a trip to Guatemala in 1999 after the publication of the Truth Commission report, U.S. President Bill Clinton issued an apology declaring that "support for military forces or intelligence units which engaged in violent and widespread repression of the kind described in the report was wrong."[209]

Israeli support

During the Central American crisis, the Israeli government cooperated closely with the United States in providing supplementary military and intelligence support for US-backed regimes in the region. This was especially true in Guatemala after 1977, when U.S. support became subject to constraints stemming from the rising tensions between Guatemala and Belize and Congressional opposition to the Guatemalan government's human rights practices. While the CIA and the U.S. Green Berets continued to function covertly in Guatemala – providing training and counterinsurgency advice – a critical aspect of American support involved outsourcing operations to proxies such as Israel and Argentina. In a declassified National Security Council memo dated 1 August 1983, NSC aids Oliver North and Alfonso Sapia-Bosch reported to National Security Advisor William P. Clark that his deputy Robert McFarlane was planning to exploit Israeli intelligence networks to secretly arrange for the loan of 10 UH-1H "Huey" helicopters to Guatemala, which lacked the FMS (Foreign Military Sales) credits to obtain the helicopters. The memo reads, "With regard to the loan of ten helicopters, it is [our] understanding that Bud [Robert McFarlane] will take this up with the Israelis. There are expectations that they would be forthcoming."[252]

By 1983, the New York Times reported that Israel was not only acting as a surrogate for the United States (in a similar fashion to its actions in Nicaragua), but also working to oppose the Soviet Union and grow the market for Israeli arms.[253] The Stockholm International Peace Research Institute (SIPRI) calculates that 39 percent of Guatemala's weapons imports between 1975 and 1979 were from Israel. These shipments included Galil automatic rifles,[115] IMI Uzi submachine guns, FN MAG general purpose machine guns, IAI Arava STOL aircraft,[254][255][256] RBY MK 1 armored cars, patrol boats, field kitchens, and large quantities of ammunition.

Numerous sources – including the Israeli press – estimated that up to 300 Israeli advisors were operating in Guatemala. The nature of Israel's advisory role in Guatemala included training in intelligence and surveillance and courses in urban counterinsurgency.[257] With funding from USAID, Israeli specialists – acting as subcontractors for the United States – held torture workshops with the Contras in Guatemala, Nicaragua and Honduras. High-ranking officers from Guatemala also attended courses in interrogation in Tel-Aviv – also with funds from USAID.[258]

Though primarily a proxy for the United States, impact of Israeli training and the role of Israeli advisors in prosecuting the war during this period was publicly emphasized numerous times by top-ranking Guatemalan military officials during the 1980s. In 1981, Guatemalan Army Chief-of-Staff Gen. Benedicto Lucas Garcia – the architect of the Guatemalan army's "scorched-earth" policy – proclaimed that the "Israeli soldier is the model for our soldiers". In a 1982 interview with ABC News, Gen. Efraín Ríos Montt attributed the success of his coup to the fact that his soldiers "were trained by Israelis".[259] General Rodolfo Lobos Zamora, a leading military official during the conflict, mentioned the United States, Israel, and Argentina as countries that "spontaneously" offered military aid Guatemala.[260] Despite some public praise for Israel, some Guatemalan officials were nonetheless critical of Israel's role. General Héctor Gramajo stated in an interview, "Maybe some Israeli's taught us intelligence but for reasons of business...The hawks (Israeli arms merchants) took advantage of us, selling us equipment at triple the price."[261]

Argentine support

Military regimes in the South American Southern Cone provided material support and training to the Guatemalan government. Argentina in particular was a prominent source of both material aid and inspiration to the Guatemalan military. Many of the tactics used by the Guatemalan security forces were similar to those used by Argentina during the Dirty War. Argentina's involvement with the Guatemalan government fit within the broader context of Operation Charly, a covert operation (backed by the CIA) aimed at providing intelligence training and counterinsurgency assistance to the governments in El Salvador, Honduras and Guatemala as a supplement to U.S. operations in the region.[262]

Argentine involvement in Guatemala is believed to have begun in 1980 and consisted of training in counterinsurgency methods, many of which were employed by the Videla regime during its own "dirty war" against leftist "subversives" and suspected guerillas. Argentine military advisors sent to Guatemala (as well as El Salvador and Honduras) were veterans of the "dirty war" who were familiar with the techniques employed by the military and security forces and were experienced in the use of torture and political assassination. A squadron of the notorious Batallón de Inteligencia 601 (Argentina's elite special forces battalion) worked directly with the death squads. Through its connections in the Guatemalan security forces, the Argentines were involved with the 'Secret Anticommunist Army' (ESA) carried out thousands of assassinations of leftist political activists, students, unionists and others in Guatemala City during the Lucas Garcia regime as part of its "pacification campaign." Argentine military advisors also participated in the Guatemalan army's rural counteroffensive in 1981 during "Operation Ash 81".[263] Argentina's collaboration with the governments in Central America came to an end during the Falklands War in 1982.

One Argentine intelligence officer who is known to have been active in Guatemala during this time is Alfredo Mario Mingolla, who participated in the 1980 'Cocaine Coup' in Bolivia which put General Luis García Meza in power. With the help of former SS officer and Nazi German war criminal Klaus Barbie and Argentine advisors such as Mingolla, the Bolivian regime violently repressed its opposition. Mingolla was also one of the Argentine advisors known to have been involved in training Battalion 3–16 in Honduras with the CIA, which was responsible for hundreds of disappearances. In Guatemala, Mingolla worked with the military intelligence services (G-2), which was responsible for coordinating many of the assassinations and disappearances in Guatemala.[264]

In addition to training officers in Guatemala, Argentine advisors are alleged to have trained Guatemalan officers in Honduras. Argentine training of Guatemalans in Honduras has been attested to by a defector from Battalion 3–16, Jose Federico Valle, who described his training in intelligence in 1980. Valle was one of 120 trainees from several Central American countries who attended courses offered by American, Argentine, Chilean and Panamanian advisors. Valle claims that among these trainees were 60 to 70 officers from El Salvador and Guatemala.[265] Guatemalans were also trained in Argentina as well. In October 1981, the Guatemalan government and the Argentine military junta formalized secret accords which augmented Argentine participation in government counterinsurgency operations. As part of the agreement, two hundred Guatemalan officers were dispatched to Buenos Aires to undergo advanced military intelligence training, which included instruction in interrogation.

Argentina also provided shipments of military hardware to the Guatemalan regime in the late-1970s and early-1980s, though the scale of these shipments is unknown. The government of Argentina is known to have supplied quantities of Israeli-made weapons and hardware to the Guatemalan military on several occasions.[266]

South African support

During the 1980s, the Guatemalan intelligence services had covert ties with South Africa. It is known that South Africa provided the Guatemalan government with military advice and training in counterinsurgency tactics based on those the SADF and paramilitary forces (such as the Koevoet) employed in Namibia and elsewhere. Of particular interest to the G-2 was the experience that the South Africans had in fighting Cuban forces in Angola.[267] This cooperation coincided with a time when South Africa enjoyed warm relations with the United States and Israel, both of which were key allies of the Guatemalan regime. At the time, the CIA was actively supporting the apartheid regime's efforts to undermine the MPLA government in Angola, mainly through its support of UNITA. Israel had also helped South Africa develop its own arms industry at a time when it was becoming increasingly internationally isolated.

While the full extent of this cooperation is unknown, it is reported that a number of Guatemalan officers traveled to South Africa and Namibia in early 1983 to study South African techniques being employed against the SWAPO independence movement. South Africa is also alleged to have offered to deploy counterinsurgency troops to Guatemala, though what was made of this offer by their Guatemalan counterparts is unknown.[268] It was also reported in November of the following year, that high ranking South African Generals L.B. Erasmus and Alexander Potgeiter headed an SADF delegation to Guatemala which toured Guatemalan military bases and installations and held talks with high-ranking officials of the Mejia Victores government to discuss military aid.[269]
海外からの支援と関与

アメリカ合衆国の関与

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米国がグアテマラの人権侵害を知っていたことを示す文書
CIAの機密解除された文書によれば、アメリカ政府は1954年のクーデターを組織し、資金を提供し、装備を整え、選挙で選ばれたグアテマラ大統領ハコ ボ・アルベンス・グスマン政権を退陣させた。 [213] アナリストのケイト・ドイルとピーター・コーンブルーは、"クーデター後、小規模な反乱が発生した後、グアテマラの軍指導者たちは、大規模な対反乱キャン ペーンを展開し、米国の支援を受けて洗練させた。"その結果、何万人もの人々が虐殺され、傷つけられ、行方不明となった。歴史家のスティーヴン・G・レー ブは、「民衆に選ばれたハコボ・アルベンス・グスマン政権(1950~1954年)を崩壊させることで、アメリカはおよそ40年にわたるテロと抑圧のサイ クルを開始した」と報告している[214]。 クーデターによって、簒奪者のカスティージョ・アルマス大佐が政府首班に任命され、その後、彼と「アメリカはほとんど即座にグアテマラの軍事化を開始し、 警察と軍隊に資金を供給し、再編成した」[215]。

米国のアプローチ変更

歴史解明委員会(CEH)の報告書は、米国がラテンアメリカのほぼすべての国で「国家安全保障ドクトリン」を制度化したことを示している。1962年、ケ ネディ政権はグアテマラを含むラテンアメリカの軍隊の任務を「半球防衛」から「国内安全保障」へと移行させた。1961年から1966年まで米国の対反 乱・国内防衛計画を指揮したチャールズ・ミーチリング・ジュニアは、この新しいイニシアチブの結果を、「ラテンアメリカ軍の強暴さと残虐さ」の容認から、 彼らの犯罪への「直接的な加担」へのシフト、さらには「ハインリッヒ・ヒムラーの絶滅部隊の手法」への米国の支援へのシフトと説明している[217]。

米国の訓練

また1962年、グアテマラの専門家スザンネ・ジョナスは、米軍特殊部隊が秘密軍事訓練基地を設置したと主張している。1963年にミゲル・イディゴラ ス・フエンテス大統領に対する(米国の支援による)クーデターが成功すると、米国のアドバイザーはカルロス・マヌエル・アラナ・オソリオ大佐と共にゲリラ 討伐を開始し、「ベトナムで採用されている現在の対反乱戦略や技術を広範囲にわたって借用」した。その後、アラナは "サカパの虐殺者 "と呼ばれるようになった。アムネスティ・インターナショナルは、1966年10月から1968年3月までの間に、アラナ大佐の下、サカパとイザバルで 3,000人から8,000人の農民が軍と準軍事組織によって殺害されたという推定を引用している[218] 。 [219] 1966年7月以降、フリオ・セサル・メンデス・モンテネグロ大統領が、より積極的な対反乱プログラムを追求することを軍に許可する協定に署名すると、グ アテマラにはアメリカの軍事・治安顧問が流入した。1966年から68年にかけて、最大1,000人の米軍グリーンベレーがサカパで活動し、グアテマラの 対反乱作戦に訓練と支援を提供していたと推定されている[81]。 ジョナスは、グアテマラにおける軍事顧問と現地軍関係者の比率は、1960年代後半から70年代にかけてラテンアメリカ諸国の中で最も高く、さらに「決死 隊の結成に米軍顧問が直接関与したことを示す相当な証拠がある」と主張している: アメリカ大使館員は、1966年8月に準軍事組織の創設を概説する覚書の作成に関与したとされ、この時期のアメリカ軍のアタッシェは、「対テロ」作戦の一 環としてその結成を扇動した手柄を公に主張した」[220]。

アメリカ政府の経歴登録簿と外交官名簿の回顧的分析によって、1960年代から70年代にかけてグアテマラで活動していた同じアメリカ軍人の多くが、南ベ トナム、特に市民作戦と革命開発支援(CORDS)でも勤務していたことが明らかになった[221]。

カーター政権

1977年、カーター政権はグアテマラ政府を「重大かつ一貫した人権侵害者」とする報告書を発表する一方、キェル・ユージニオ・ラウゲルド・ガルシア大統 領の政権下で状況は改善されていると指摘した。この報告に怒ったラウゲルド政権は、1977年3月11日、アメリカの軍事援助をすべて放棄した。議会はそ の年のグアテマラへの軍事援助を削減し、1978年以降の軍事援助を禁止した。禁止にもかかわらず、政権はCIAを通じてグアテマラに装備を送り続けた り、軍事品目を非軍事品目に分類し直したりしたため、グアテマラ軍に対する米国の秘密・表向きの支援は続いた。1978、1979、1980会計年度 (カーター政権が責任を負うことができる3年間)に、米国はグアテマラに直接軍事援助として約850万ドルを提供したが、そのほとんどは対外軍事販売クレ ジットであり、また180万ドル相当の商業武器販売の輸出許可も行っており、この割合はニクソン-フォード政権時代とほとんど変わらない。 [222][223] 1976年から1980年までグアテマラ内務省で報道官を務めたエリアス・バラホナ(Elias Barahona)によると、米国はロメオ・ルーカス・ガルシア(Romeo Lucas Garcia)元大統領の政府とも緊密に協力し、「共産主義撲滅プログラム」を通じて対ゲリラ戦略を策定した。このことは、ルーカス・ガルシアの下で働い ていた他の複数の上級公務員によっても確認されている[224]。

さらに、カーター政権の間、多国間融資機関におけるアメリカの政策立案者の反応はせいぜい曖昧なものであり、経済的・財政的援助はグアテマラに届き続け た。米国は、1979年10月から1980年5月までの間に、グアテマラに対する7件の多国間開発銀行融資のうち2件に反対票を投じただけであった。 1980年8月、グアテマラへの多国間開発援助について、米国が立場を完全に翻したことが報じられた。そのとき米国は、グアテマラ北部の激動するキチェ地 域で政府が使用することを目的としたIDBからの5,100万ドルの融資に対する拒否権を拒否した[225]。

レーガン、軍事援助と協力を拡大

ロナルド・レーガンの当選後、アメリカはグアテマラ政府との緊密な関係を確保するため、より積極的な措置を講じた。1981年4月、レーガン大統領の国家 安全保障チームは、国立公文書館の文書によれば、左翼ゲリラとその「市民支援機構」を絶滅させるために、グアテマラ政権に軍事援助を供給することに合意し た[226]。

アメリカはグアテマラ軍に軍事的な後方支援を提供したが、それは議会による禁輸措置を回避するために、非軍事的な「地域安定統制」として再分類された [227]。そのような援助には、150台のジープとトラックの320万ドルの出荷と、3機のベル-212と6機のベル-412ヘリコプターの出荷 (1,050万ドル相当)が含まれており、これらはグアテマラ軍が対反乱掃討作戦のために高地に部隊を輸送する能力にとって不可欠なものであったと伝えら れている。 [228][229][230]ジョージ・メインズ中佐(元米国防次官兼在グアテマラ米軍グループ長)もまた、グアテマラ陸軍参謀長ベネディクト・ルーカ ス・ガルシアと協力して、ルーカス・ガルシア政権が1981年後半から1982年前半にかけて高地で実施した対反乱プログラムの計画と開発に携わった。メ インズはベネディクト・ルーカス将軍と親密な関係にあり、反乱に関するアドバイザーとして機能していた。調査ジャーナリスト、アレン・ネアンとのインタ ビューで、メインズ中佐は、ベネディクト・ルーカスが定期的に彼に相談していたと述べている[180]。USAIDは、陸軍の「モデル村」または再定住 キャンプ・プログラムをそこでも支援した[231]。

1982年にエフレイン・リオス・モント将軍が権力を掌握すると、政権はヘリコプターのスペア部品の400万ドルの出荷を含むグアテマラへの追加援助を正 当化する機会を見出した[232]。1982年10月、米陸軍特殊部隊が、グアテマラ陸軍の主要な将校訓練学校であるエスクエラ政治学院で、グアテマラ陸 軍の士官候補生に幅広い対反乱戦術を指導していたことが判明した[233]。1982年10月の訓練中にニューヨーク・タイムズ紙のインタビューを受けた 32歳のグリーンベレー、ジェシー・ガルシア大尉は、グアテマラでの仕事について、エルサルバドルでの米軍顧問の仕事と「大差ない」と述べた。米軍特殊部 隊は少なくとも1980年以来、人的交流プログラムという名目でグアテマラで活動しており、公式には「英語指導員」と分類されていた。この時期、米軍特殊 部隊がグアテマラの士官候補生に提供していたカリキュラムには、監視、小火器、大砲、解体、待ち伏せ、「ヘリコプター突撃戦術」、町の破壊方法などの訓練 が含まれていた。1980年から1982年までグアテマラで活動していたラリー・サーモン少佐は、ニューヨーク・タイムズ紙のインタビューを受け、グアテ マラ軍の戦術訓練の計画を支援し、グアテマラ陸軍パラシュート旅団にコースの指示を与えたと述べている[234]。 1983年までに、グアテマラ軍の将校が再びパナマのアメリカ大陸学校で訓練を受けていたことも確認されている[235]。

1982年初頭、国務省と国防総省の許可を得て、アメリカ製のM41ウォーカー・ブルドッグ軽戦車10両が、ベルギーの企業であるASCOによって、 3400万米ドルをかけてグアテマラに違法に納入された。この10両の戦車は、ベルギーからドミニカ共和国への22両の戦車の米国政府公認輸送の一部で あった。戦車のうち12両だけが荷揚げされ、残りはカリブ海沿岸のプエルト・バリオスにあるグアテマラ軍に輸送された[236][237]。

レーガン政権、人権侵害の報告を却下
ヒューマン・ライツ・ウォッチは1984年、ロナルド・レーガン米大統領が1982年12月にホンジュラスのリオス・モントを訪問した際、著名な人権団体 による人権侵害の報告を却下する一方で、リオス・モントは「不当な評価」を受けていると主張したことを批判した。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、その直 後、レーガン政権が5年間の武器売却禁止を取りやめ、さらにリオス・モントと彼の軍に対して「636万ドル相当の軍事予備部品の売却を承認した」と発表し たと報じた[238]。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、アメリカの責任の度合いをこう説明した:

グアテマラ政府に対するその長い謝罪の記録と、幻滅した瞬間でさえもそれらの謝罪を公に否定しなかったことに照らして、レーガン政権はグアテマラ政府に よって行われた人権に対する重大な濫用に対する責任を共有していると我々は考える。

1983年1月、レーガン大統領の「クズラップ」発言の直後、エリオット・エイブラムス人権担当国務次官補はテレビに出演し、発表された軍事援助の再開を 擁護した: エリオット・エイブラムス国務次官補は、発表された軍事援助の再開を擁護するためにテレビに出演し、軍隊による虐殺とそれに伴う難民の流入は「政府と戦っ ているゲリラのせい」にすべきだと述べた。虐殺と難民は「安定の代償」[240]であり、アメリカの政策への反発が強まるなか、3ヵ月後の『ロンドン・エ コノミスト』誌は、「リベラルなアメリカ人が合理的に期待できるのは、グアテマラへの軍事援助の条件として、中央の政治的迫害を緩和することだ。

陸軍情報部への支援

CEHのコーディネーターであるクリスチャン・トムシャット(Christian Tomuschat)は、1980年代半ばまで、米国政府と米国を拠点とする多国籍企業は、「この国の古臭く不公正な社会経済構造を維持するために」強い 圧力をかけていたと述べた。加えて、CIAを含むアメリカの諜報機関は、「いくつかの非合法な国家活動」に対して直接的・間接的な支援を行ったと彼は言う [242]。1980年代から1990年代にかけて、CIAはグアテマラの諜報関係者を情報提供者として雇用し、ゲリラ、農民、農民、その他の敵対者に対 する戦争活動のために彼らに情報を提供した[243]。

そのなかには、軍事情報部(G-2)の基地司令官フリオ・ロベルト・アルピレス大佐もいた。アルピレスは、CIAがどのようにG-2に助言を与え、G-2 の運営を助けたかをインタビューで語った。彼は、アメリカのエージェントがG-2の部下を訓練したと主張した。アルピレスは、G-2の基地で、"民主主義 を強化する "ための "反転覆 "戦術と "権力の要因を管理する方法 "についてのCIAのセッションに出席したことを語った。彼は、CIA職員はG-2の質問に答えるために待機しており、G-2はしばしば「政治的問題」に 対処する方法についてCIAに相談したと述べた[244]。

CIAはまた、通信機器、コンピュータ、特殊銃器などの「技術支援」の提供や、ラ・オーロラ民間空港のパイパー格納庫や別の米空軍施設から飛ばされた CIA所有のヘリコプターの共同使用にも協力した。CIAはまた、グアテマラ軍とG-2に、医薬品、ベトナム時代の金属製ジープ部品、コンパス、トラン シーバーなどを含む「民間物資援助」を提供した[244][245]。CIAと陸軍情報総局(D-2)との関係を要約するよう求められたとき、あるD-2 司令官は、「非常に単純なことで、否定するつもりはない。資金も、資源も、訓練も、人間関係も、すべてCIAのものであり、CIAを通じてのものだった。 というのも、われわれの諜報活動は、結局のところ、米国の利益に奉仕しなければならなかったからだ」[246]。

1996年の情報監視委員会の報告書によれば、軍事援助はカーター政権下で停止されたが、その後レーガン政権下で再開された。「1985年にセレーゾ大統 領率いる文民政府が選出された後、グアテマラへのあからさまな非致死的米軍援助が再開された。しかし1990年12月、グアテマラ軍のメンバーによる米国 市民マイケル・デバインの殺害を主な原因として、ブッシュ政権はほとんどすべての明白な軍事援助を停止した。「CIAがグアテマラ連絡機関に提供した資金 は、D-2とアーキボスにとって不可欠だった。CIAは "1990年の表立った軍事援助の終了後もこの援助を続けた"。"グアテマラ・サービスに対するCIAの全体的な資金レベルは、1989年度の約350万 ドルから1995年の約100万ドルまで一貫して低下した。" 同報告書は、「CIAとグアテマラ政府機関との連絡関係は、グアテマラ政府関係者の協力を得ることによって、米国の利益にも貢献した」と書いている。グア テマラの主要な諜報・治安機関である陸軍情報総局(D-2)の支援を、1993年の『自動クーデター』の逆転などの分野で得ることによって、米国の利益に もなった」「グアテマラ市民と(米国を含む)国際社会の強い抗議に直面し、そして最も重要なことは、グアテマラ軍が彼を支援することを拒否したことに直面 し、セラノ大統領の藤森式『自動クーデター』は失敗した」[203]。

拷問における米国の役割

グアテマラでの拷問や人権侵害に、アメリカの軍や諜報機関がどの程度直接関与していたかは不明である。軍や諜報機関に連行され拷問を受けた市民で生き残っ た者はほとんどおらず、ほとんどが「失踪」した。しかし、長年にわたってグアテマラで拷問を生き延びた一握りの人々は、アメリカの諜報員が拷問セッション に同席していた、あるいはすでに拷問を受けた後に尋問を受けたと証言している。

1969年、グアテマラ・シティで私服兵士に拉致された "デビッド "という男がいる。彼は裸にされ、殴られ、タバコで焼かれ、殺虫剤の詰まった袋で頭巾を被せられた後、愛撫され、レイプすると脅された。その後、"外人" (アメリカ訛りで話す男)の監視下で、体の敏感な部分に何度も電気ショックを与えられ、ゲリラであることを自白するよう何度も言われた。拷問が何日も続い た後、目隠しが外され、赤十字社から来たと名乗る2人のアメリカ人に、ゲリラであることを自白すれば、それ以上の拷問から守ってやると言われた。ダヴィ ド」が自白しなかったので、彼らは立ち去り、彼は二度と彼らに会うことはなかった[247]。

別の証言では、「ミゲル」として知られる14歳の少年が、1982年に2人の友人とともにグアテマラ・シティで誘拐された。彼の家族のメンバーと他の数人 の友人も治安部隊に拉致された。日間にわたり、「ミゲル」とその友人たちは殴打され、食事を与えられず、頭巾で窒息させられた。また、瀕死の男が包帯を巻 かれた目から血を流しながら床に横たわっているのを目撃した。その後、彼らは一人ずつ、恐れられていたDIT(技術調査局)の本部に連行され、そこでアメ リカ人から事情聴取を受けた。そのアメリカ人は40代の白人の短髪の男で、2人のグアテマラ人警備員と一緒にいた。その "外人 "は経験豊富な尋問者のようで、彼と彼の家族について詳しく知っていた。生き残った友人の一人(同じく "外人 "に尋問された)は、彼がベトナムやアフリカでの経験をいかに自慢していたかを記している。あるとき彼は、協力しなければミゲルの尻を熱い炭火で「焼く」 と脅した。捕らえられた彼の友人2人は後に「失踪」した[248]。

もう一人の男「フアン」はURNGゲリラで、1988年に軍に捕らえられ、尋問のためにG-2に引き渡された。彼はバットで殴られ、電極で睾丸と脇の下に ショックを与えられ、殺虫剤入りのゴム頭巾で窒息させられた(グアテマラでは非常に一般的な拷問手法)。軍隊はまた、彼の子どもたちを教会から拘束し、も し彼がより良い情報を与えなければ、車の後ろに引きずり込んで殺すと脅した。あるセッションでは、彼は2人の男のいる部屋に案内され、そのうちの1人はも う1人よりも明らかに背が高く、激しい北米訛りで話した。そのアメリカ人は、彼の質問に答えることを条件に、フアンの待遇改善を約束した。その質問のほと んどは、URNGとキューバとの関係や、彼らがキューバ人から訓練や医療処置を受けているかどうかに関するものだった[249]。

おそらく最もよく知られ、最も公にされたケースは、後に人権擁護団体である拷問廃止・生存者支援連合インターナショナル(TASSC)を設立したアメリカ のローマ・カトリック修道女、シスター・ダイアナ・オルティスのケースである。1989年、グアテマラで宣教師として働いていたオルティスは、国営警備隊 に誘拐され、拷問を受け、集団レイプされた。彼女は部隊のリーダーをアメリカ大使館所属の北米人であると特定し[250]、ジョージ・H・W・ブッシュ政 権の複数のメンバーが彼女の話を否定することによって彼女を「中傷」したと述べた[251]。 1999年に真実委員会の報告書が発表された後にグアテマラを訪問したビル・クリントン米大統領は、「報告書に記載されたような暴力的で広範な弾圧を行っ た軍隊や諜報部隊への支援は間違っていた」と宣言する謝罪を発表した[209]。

イスラエルの支援

中米危機の間、イスラエル政府は米国と緊密に協力し、米国が支援する地域の政権に軍事的・諜報的な支援を補足的に提供した。特に1977年以降のグアテマ ラでは、グアテマラとベリーズ間の緊張の高まりや、グアテマラ政府の人権慣行に対する議会の反対から、米国の支援が制約を受けるようになった。CIAとグ リーンベレーはグアテマラで秘密裡に機能し続け、訓練と対反乱作戦の助言を提供したが、アメリカの支援の重要な側面は、イスラエルやアルゼンチンなどの代 理国に作戦を委託することであった。1983年8月1日付の機密解除された国家安全保障会議のメモの中で、オリバー・ノースNSC補佐官とアルフォンソ・ サピア=ボッシュは、ウィリアム・P・クラーク国家安全保障顧問に、副顧問のロバート・マクファーレンがイスラエルの情報網を利用して、ヘリコプターを入 手するためのFMS(対外軍事販売)クレジットがないグアテマラへのUH-1H「ヒューイ」ヘリコプター10機の貸与を秘密裏に手配しようと計画している ことを報告した。10機のヘリコプターの貸与に関しては、バド(ロバート・マクファーレン)がイスラエルと話し合うと(我々は)理解している。貸与してく れるだろうという期待がある」[252]。

1983年までに、ニューヨーク・タイムズ紙は、イスラエルが(ニカラグアでの行動と同様の方法で)米国の代理として行動しているだけでなく、ソ連に対抗 し、イスラエルの武器市場を拡大するために働いていると報じた[253]。 ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)は、1975年から1979年にかけてのグアテマラの武器輸入の39パーセントがイスラエルからのものであっ たと計算している。これらの出荷には、ガリル自動小銃、[115] IMI Uziサブマシンガン、FN MAG汎用機関銃、IAI Arava STOL航空機、[254][255][256] RBY MK 1装甲車、パトロール艇、野外炊事場、および大量の弾薬が含まれていた。

イスラエルの報道機関を含む多くの情報源は、最大300人のイスラエル人顧問がグアテマラで活動していたと推定した。グアテマラにおけるイスラエルの助言 的役割の本質には、諜報と監視の訓練、および都市反乱のコースが含まれていた[257]。USAIDからの資金援助を受けて、イスラエルの専門家は、米国 の下請けとして行動し、グアテマラ、ニカラグア、ホンジュラスでコントラとともに拷問ワークショップを開催した。グアテマラの高級将校もまた、USAID からの資金で、テルアビブで尋問の講習を受けた[258]。

主に米国の代理人であったが、この時期の戦争遂行におけるイスラエルの訓練の影響とイスラエル人アドバイザーの役割は、1980年代にグアテマラ軍高官に よって何度も公に強調された。1981年、グアテマラ軍の「焦土化」政策の立役者であるベネディクト・ルーカス・ガルシア陸軍参謀総長は、「イスラエル兵 はわが軍の兵士のモデルである」と宣言した。1982年のABCニュースとのインタビューで、エフライン・リオス・モント将軍は、自身のクーデターが成功 したのは兵士が「イスラエル人によって訓練された」からだと述べている[259]。 紛争中の主要な軍事当局者であったロドルフォ・ロボス・サモラ将軍は、グアテマラに「自発的に」軍事援助を提供した国として、米国、イスラエル、アルゼン チンを挙げている[260]。 イスラエルに対するいくつかの公的な賞賛にもかかわらず、グアテマラ政府高官の中には、イスラエルの役割に批判的な者もいた。エクトル・グラマジョ将軍は インタビューで、「イスラエルの何人かは私たちに諜報活動を教えたかもしれないが、ビジネスの理由からだ......タカ派(イスラエルの武器商人)は私 たちを利用し、3倍の値段で装備を売りつけた」と述べた[261]。

アルゼンチンの支援

南米サザンコーンの軍事政権は、グアテマラ政府に物質的な支援と訓練を提供した。特にアルゼンチンは、グアテマラ軍に対する物質的援助とインスピレーショ ンの両方において、顕著な供給源であった。グアテマラ治安部隊が使用した戦術の多くは、アルゼンチンがダーティー戦争の際に使用したものと類似していた。 グアテマラ政府へのアルゼンチンの関与は、エルサルバドル、ホンジュラス、グアテマラの政府に情報訓練と対反乱支援を提供することを目的とした(CIAの 支援を受けた)秘密作戦である「チャーリー作戦」のより広い文脈の中で、この地域における米国の活動を補完するものとして位置づけられた[262]。

グアテマラへのアルゼンチンの関与は1980年に始まったと考えられており、対反乱手法の訓練で構成されていた。この手法の多くは、ビデラ政権が左翼の 「破壊活動家」やゲリラ容疑者に対する「汚い戦争」の際に採用していたものであった。グアテマラ(およびエルサルバドル、ホンジュラス)に派遣されたアル ゼンチン軍の顧問は、軍や治安部隊が採用した技術に精通し、拷問や政治的暗殺の使用経験もある「汚い戦争」のベテランだった。悪名高いBatallón de Inteligencia 601(アルゼンチンのエリート特殊部隊)の中隊は、死の部隊と直接協力していた。グアテマラ治安部隊のコネクションを通じて、アルゼンチン軍は「秘密反 共軍」(ESA)に関与し、ルーカス・ガルシア政権下のグアテマラ・シティで、「平和化キャンペーン」の一環として、左派政治活動家、学生、組合員などを 数千人暗殺した。アルゼンチンの軍事顧問はまた、1981年の「アッシュ81作戦」において、グアテマラ軍の農村反攻作戦に参加した[263]。1982 年のフォークランド紛争において、アルゼンチンと中央アメリカの政府との協力関係は終わりを告げた。

この時期にグアテマラで活動していたことで知られるアルゼンチン情報将校のひとりが、1980年にボリビアでルイス・ガルシア・メザ将軍を政権に就けた 「コカイン・クーデター」に参加したアルフレド・マリオ・ミンゴラである。元SS将校でナチス・ドイツの戦犯クラウス・バービーやミンゴラのようなアルゼ ンチン人アドバイザーの助けを借りて、ボリビア政権は反対派を暴力的に弾圧した。ミンゴラはまた、数百人の失踪者を出したホンジュラスの第3-16大隊の CIAとの訓練に関与したことで知られるアルゼンチン人アドバイザーの一人でもある。グアテマラでは、ミンゴラは軍情報部(G-2)と連携し、グアテマラ における暗殺と失踪の多くを調整する役割を担っていた[264]。

グアテマラでの将校の訓練に加えて、アルゼンチンのアドバイザーはホンジュラスでグアテマラ人将校を訓練したとされている。ホンジュラスでのアルゼンチン によるグアテマラ人の訓練は、1980年の諜報訓練について語った第3-16大隊の脱北者ホセ・フェデリコ・バレによって証言されている。バジェは、アメ リカ、アルゼンチン、チリ、パナマのアドバイザーが提供するコースに参加した中米諸国からの120人の訓練生の一人であった。バジェは、これらの訓練生の 中にはエルサルバドルとグアテマラの将校60~70人が含まれていたと主張している[265]。1981年10月、グアテマラ政府とアルゼンチン軍事政権 は、政府の対反乱作戦へのアルゼンチンの参加を増強する秘密協定を正式に締結した。この協定の一環として、200人のグアテマラ人将校がブエノスアイレス に派遣され、尋問の指導を含む高度な軍事情報訓練を受けた。

アルゼンチンはまた、1970年代後半から1980年代前半にかけて、グアテマラ政権に軍事物資を提供したが、その規模は不明である。アルゼンチン政府 は、何度かグアテマラ軍に大量のイスラエル製の武器とハードウェアを供給したことが知られている[266]。

南アフリカの支援

1980年代、グアテマラの情報機関は南アフリカと秘密裏に連携していた。南アフリカはグアテマラ政府に対し、SADFや準軍事組織(コエボエトなど)が ナミビアなどで採用していた戦術に基づく対反乱戦術の軍事的助言と訓練を提供していたことが知られている。G-2にとって特に興味深かったのは、南アフリ カ人がアンゴラでキューバ軍と戦った経験であった[267]。この協力は、南アフリカがグアテマラ政権の重要な同盟国であった米国およびイスラエルと温か い関係を享受していた時期と重なった。当時CIAは、主にUNITAへの支援を通じて、アンゴラのMPLA政権を弱体化させようとするアパルトヘイト政権 の努力を積極的に支援していた。イスラエルはまた、南アフリカが国際的に孤立しつつあった時期に、自国の兵器産業の発展を支援していた。

この協力の全容は不明だが、1983年初め、多数のグアテマラ人将校が南アフリカとナミビアを訪れ、SWAPO独立運動に対して採用されている南アフリカ の技術を研究したと報告されている。南アフリカはまた、グアテマラに対反乱部隊を派遣することを申し出たとされているが、グアテマラのカウンターパートが この申し出をどう受け止めたかは不明である[268]。翌年の11月には、南アフリカの高官であるL.B.エラスムス将軍とアレクサンダー・ポトガイター 将軍がSADF代表団を率いてグアテマラを訪問し、グアテマラの軍事基地や施設を視察し、メヒア・ヴィクトレス政府の高官と軍事援助について会談を行った ことも報告されている[269]。
Salvadoran Civil War
Blessed Archbishop Oscar Romero
Colombian Armed Conflict
List of civil wars
MINUGUA: United Nations verification/peacekeeping mission in Guatemala, 1994–2004
Guatemala National Police Archives
Assassinated Catholic priests in Guatemala
Blessed Rev. Fr. Stanley Rother
Latin America–United States relations
2005 Guatemalan protests
サルバドル内戦
福者オスカル・ロメロ大司教
コロンビア内戦
内戦リスト
MINUGUA:国連グアテマラ検証/平和維持ミッション(1994~2004年
グアテマラ国家警察公文書館
グアテマラで暗殺されたカトリック司祭たち
祝福されたスタンリー・ロザー師
ラテンアメリカと米国の関係
2005年グアテマラ抗議デモ
https://en.wikipedia.org/wiki/Guatemalan_Civil_War











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