フリーダ・カーロと痛み の芸術
Frida Kahlo and the Art
of Pain
フリーダ・カーロ(1907-1954)と痛みの芸術について
[→この授業のハンドアウト]パスワード付き(このページとほとんど同じ内容です)
[引用はウィキペディア:http://bit.ly/1HvYrA4
]
==以下、引用始まり==
■フリーダ・カーロとは?
マグダレーナ・カルメン・フリーダ・カー ロ・イ・カルデロン(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón;1907年7月6日 - 1954年7月13日)は、メキシコの画家。インディヘニスモの代表的美術作家。 メキシコの現代絵画を代表する画家であり、民族芸術の第一人者(→「フリーダ・カーロ」)。
■フリーダ・カーロの年譜と痛み経験のまとめ
・1891年 父ギジェルモ・カーロ渡
墨。
・1907 7月6日コヨアカンで父ギ
リェルモ・カーロと母マティルデ・カルデロン=イ=ゴンサレスの三女として生まれる
・1913年:6歳になった頃に急性灰白 髄炎(ポリオ)にかかり、およそ9ヶ月にわたって寝たきりの生活を送った。 この影響で右腿から踝にかけて成長が止まって痩せ細り、これを隠すためにズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用。
・1921 ギジェルモ、メキシコ独立 100年祭の写真目録の作成に従事。
・1922 ドイツ上級実業学校卒業後、 国立予科高等学校に進学。
・1923 カチュチャスのグループで、アレハンドロとの恋愛。
Georgia O'Keeffe,
American, 1887 - 1986 "Grey Lines with Black, Blue and Yellow," 1923,
on canvas, 122 x 76.2 cm Museum of Fine Arts, Houston, Texas, USA
・1925年9月17日[18歳]、通学に使用していたバスが路面電車と 衝突し、多数の死傷者が出る事故が発生した。 フリーダも生死の境をさまよう重傷で、3ヶ月の間ベッドの上での生活を余儀なくさ れ、その後も事故の後遺症で背中や右足の痛みにたびたび悩まされるよ うに なった。 痛みと病院での退屈な生活を紛らわせるために本格的な絵を描くようになった(事故以前からフェルナンド・フェルナンデスにスケッチを習う)。
・1928 アレハンドロ・ゴメス・アリアスの肖像、クリスティナ・カーロの肖像、アウグスティン・M・オルメドの肖像を制作
・1930年[22歳]にフリーダは妊娠 したが、事故の影響で骨盤や子宮に損傷を受けていたことから流産。11月サンフランシスコに転居
・1931 6月メキシコに帰郷。しかし11月にニューヨークに転居。11月ディエゴの回顧展がニューヨーク近代美術館で開催。
・1932 4月デトロイト。妊娠したが7月に流産。9月母マチルデ死亡。
・1933 ディエゴ壁画にまつわる「ロックフェラー事件」おこる。年末に帰国。
・1935年[28歳](彼女の夫)リベ ラが妹のクリスティナと関係を持ったことにショックを受けたフリーダは、サン・アンヘルの家を出てメキ シコシティ 中心街に居を移した。この年に発表した『ちょっとした刺し傷』はフリーダの心理状況をつぶさに反映している。同年の終わりごろにはサン・アンヘルの家に 戻ったが、フリーダはリベラへのあてつけのようにアメリカ人彫刻家イサム・ノグチと関係を持」つ。
・1936 スペイン内戦により、共和主義者のための国外委員会のメンバーになる。「祖父母、父母、私」を制作
・1937 亡命中のトロツキー夫妻を青い家に迎える。
・1938 「私とエスクインクレ」制作。トロツキーの第四インター(Cuarta Internacional)に加盟。ニューヨークで、はじめての個展。ニコラス・ムライとの恋愛。
・1939 1月渡仏。3月パリのメキシコ展で出品。[32歳]フリーダの成功と 精力的な活動によって次第に夫婦間の熱は冷めていき、1939年11月6日リベラと の離婚が成立。「ふたりのフリーダ」「ドロシー・ヘイルの自殺」
「ふたりのフリーダ」
「断髪の自画像」
・1940 メキシコ美術ギャラリー「国際シュルレアリスム展」に出品。この年にトロツキー暗殺。12月リベラとの再婚。「断髪の自画像」
[33歳]年9月、再び脊椎の 痛みに悩まされ始め、加えて右手が急性真菌性皮膚疾患にかかったため、作品制作が続けられなくなり、治 療のためサ ンフランシスコへと向か」う。
Self-Portrait with Thorn Necklace and Hummingbird (1940)
1941 4月ギジェルモ死亡。
1942 メキシコ文化セミナーの創設メンバーに選ばれる。アナワカリ博物館の建設開始(1946年に公開)
1943 教育省絵画彫刻学校「ラ・エスメラルダ」の教授に任命。
1944 「ひび割れた背骨」「ディエゴとフリーダ 1929-1944」
「ひび割れた背骨」
「希望なく」
・1945 「without hope(希望なく)」「モーセ」「小猿と一緒の自画像」
1946 政府奨励金を受領する。9月「モーセ」で教育大臣賞を受賞。
・1940年代の終わり[41歳〜]ごろ になるとフリーダの健康状態はさらに悪化し、入退院を繰り返すようになった。
・1949 「宇宙、大地(メキシコ)、 ディエゴ、わたし、そしてショロトル氏による愛の抱擁」制作(池田 2017:61)
・1950[43歳]年には右足の血液の 循環が不足して指先が壊死したため、切断手術。作品制作が再開できるようになるのは1950年11月ご ろに入って からで、ベットの上に特製の画架を取り付け、寝たままで制作できるよう整備。
・1951[44歳]年以降は痛みのため 鎮痛剤無しでは生活がままならなくなり、特徴であった緻密なテクニックを駆使した作品を作り上げる事も 難しくな」 る。「ファン・ファリール博士の肖像画と一緒の自画像」
1952 「父の肖像」
・1953 4月メキシコで初めての個展。8月右足の切断。
[46歳]年8月には右足の痛 みが鎮痛剤では耐えられないほどになったため、主治医は膝までの切断を取り決めた。以後フリーダは義足 を使用する ことにより歩くことができるようになったが、リベラが「彼女は生きる気力を失った」と語っているように、ふさぎこむ事が多くなった。
・1953 5月13日の日記のなかに「ショロトル犬へのメッセージ」(池田
2017:59)
・1954[47歳]年2月の日記にフ リーダは次のように綴っている。「6ヶ月前、脚を切断され、一世紀にもおよぶと感じられるほどの長く、耐 えがたい苦 痛に見舞われて、私は時々正気を失った。いまだに自殺したくなる時がある。ディエゴだけがそんな私を思いとどまらせてくれる。なぜなら、私がいなくなれ ば、彼がさびしがるだろうと思うから」。
・1954[47歳]年7月13日、フ リーダは肺炎を併発して死去した[50]。 日記に自殺のことがたびたび出ていることや、前夜にリベラへ8月21日の銀婚式の贈り物を手渡していたことなどから自殺ではないかという憶測も。
1958 7月フリーダ・カーロ記念館、開館。
==以上、引用終わり==
■資料映像
エイミー・ステッチラー監督『フリーダ・ カーロ:愛と芸術に捧げた生涯』アップリンク (発売・販売), [2004]、86min.
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA79013382
■課題
■参照:
下記の文章を読んで、痛みを受けること——例えば、フリーダ・カーロの「痛み」を我々が「経験」すること——の意味について考えてみよう! (=この課題は、キリスト教の信仰の問題としてではなく「他者」の痛みに直面する宗派をこえたあらゆる現代人の課題であると考えてください。「十字架」や 「神」などは、あなたの信念や信条に相応しい代替事物に置き換えて考察してください)
■北森嘉蔵『神の痛みの神学』より
主イエス・キリストは我々に向かって、「人もし我に従い来らんと思わば、己をすて、己が十字架を負いて我に従え」(マタイ伝16:24)と 命じ給い、「おのが十字架をとりてふさわ従わぬ者は、我に相応しからず」(マタイ伝10:38)と宣言し給うた。この命令は至上命令であり、この宣言は絶 対宣言である。十字架の主に奉仕する途は、我々自身が十字架を負うということである。——主の十字架の真相は神の痛みであった。十字架の主に従うというこ とは、神の痛みに奉仕するということである。したがって、十字架の主に従う者が己が十字を負わねばならぬということは、神の痛みに奉仕する者が彼自身痛み を負わねばならぬということである。自己の痛みをもって神の痛みに奉仕せよ、——これが主イエスの至上命意味である。自己の痛みをもって神の痛みに奉仕し ない者は、痛みにおける神にふさわない、——これが主イエスの絶対宣言の意味である(北森 1986:78)
「己が十字架を負いて我に従え」、「自己の痛みを以て神の痛みを以て神の痛みに奉仕せよ」——この命令は残酷な命令であろうか。もし我々が この命令のもつ真の意図を了解しないなら、この命令は残酷なものと映ずるでもあろう。しかしその意図を洞察するなら、この命令は決して残酷なものではなく かえって我々にとって救となるべきものである。我々はこの意図を探究せねばならぬ(北森 1986:82)。
結論を先にいえば、この命令の意図は我々の痛みを真実に癒すことに存するのである。我々の痛みは神の痛みに奉仕するとき、かえって真実に癒 されるのである。主のために己が生命を失う者に対して、己が生命を得るべきことを主は約束し給うた(マタイ伝 16:25)。己が傷をもって主の傷に奉仕するとき、かえって傷は癒されるのである(ペテロ前書2:24参照)。ーーーかかる事はいかにして起るのであろ うか(北森 1986:82)。
我々人間の痛みはそれ自体としては単なる闇であり無意義であり非生産的である。痛みの真相は神の怒である。死は罪の価であり(ロマ書6: 23)、「死は神の怒である」(ルターEA.el. 18, 267)。我々の神の怒の現実にほかならざるが故にこの痛みは癒され難く救なきものなのである。——しかるに神は我々のこの痛みをば驚くべき仕方において 取り扱い給うた。すなわち神は彼御自身の痛みへの証として我々の痛みをば奉仕せしめんとし給うたのである。神が彼御自身の痛みを我々人間に伝え示そうとし 給うときには、彼は我々人間の痛みを通さずしては、これを示し得たまわないのである。神は彼御自身の悼みへの証として、我々の痛みを用い給うのである。し かしこのとき我々の痛みはいかになるであろうか。我々の痛みが神の痛みへの証として奉仕するに至るとき、我々の痛みは光に化せしめられ、意義を獲得し、生 産的となるのである。神の怒の現実に過ぎなかった我々の痛みは、この神の怒を克服せる神の痛みによって、この怒より救い出されるに至るのである。我々の痛 みは、この救の音ずれたる神の痛みに奉仕することによって、この救にあずからしめられるに至るのである。神の痛みは我々の痛みをば自己に奉仕せしむること によって、かえってこの我々の痛みを救い癒すのである(北森 1986:82-83)。
北森嘉蔵『神の痛みの神学』新教出版社、1946年(講談社学術文庫、1986年)
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