はじめによんでください

グアテマラ西部高地における先住民コミュニティの自治

Buscando La Autonomía Comunal en el Época de la Descentralización del Poder Político en el Occidente de Guatemala en la Actualidad.

解説:池田光穂, Mitzub'ixi Qu'q Ch'ij

I.はじめに

本稿は現地調査に基づき、グアテマラ共和国西部高地 の先住民コミュニティにおける水源地の土地確保の問題に端を発する町長派と地元協議会派のあいだの紛 争事例を紹介し、地方分権における民主主義にもとづく自治とは何かについて考えるものである。先住民コミュニティ成員が、それまでの地方のネポティズム (縁故主義)にもとづく自治の運用慣行から地方分権による「民の支配(dêmos + kratos)」の新制度の導入に際して、どのように法の正義や自治を考え、それらを行動の基盤とし実践しているのか、さらには紛争をめぐる実践の中でそ れを正当化する論理をどのように理解しているのかについて考えるものである。地方分権という用語は、スペイン語での公式的な表現である脱中央集権 (descentralización)のほうが、そのニュアンスを正確に表現できるが、この論文では従来の訳語である地方分権に従う。

このI節では、まず地方分権化に至るこの国の歴史的 文脈について解説する。それに続き、II節では本稿の舞台である地方自治体であるムニシピオの状況の 説明を、またIII節では、地方自治をめぐる紛争の具体的経緯を紹介する。IV節は、この紛争状況を可能にした新しい政治空間としての地方分権化について 法整備の観点から説明する。V節では、現時点における紛争の位置づけと今後の方向性を示唆する。そこからグアテマラ先住民の地方自治をめぐる紛争が、一見 関係を持たない我々自身の社会の「統治」についてもたらす課題やヒントについて考えてみたい。

グアテマラの内戦時代(1961〜1996年)に軍 部から自治体に対して提案され、リオス・モント政権期(1982年3月〜1983年8月)に本格導入 された旧式のライフルという武器の供与により、自治体が組織した自警団組織(Patrulla Autodifensa Civil, PAC)という制度は、共同体内での紛争の抑止と秩序の維持に、対話と合意にもとづく民主主義ではなく、暴力と恐怖による秩序維持の原理を持ち込んだ (Ikeda 2000;池田 2002)。1996年12月29日調印の政府とグアテマラ国民革命連合とのあいだの17項目の和平合意(Acuerdo de Paz firme y duradera)によって実現された、自警団組織の解体は、先住民を含むグアテマラ国民に対して国家から付与された銃と暴力による治安維持から、法と民 主主義による自治へという、当時ほとんど忘れられていた、あるいは未だかつて存在してこなかった「正常化」への途を切り拓いた。

しかし和平合意後の1年4ヶ月後の1998年4月に 起こったファン・ヘラルディ神父(Juan José Gerardi Conedera ,1922-1998)の暗殺がおこる。ヘラルディ神父は、虐殺の事実関係の集積と目撃者への聞き取り、さらにはこの歴史的悲劇の検証をおこなった歴史的 記憶の回復プロジェクトであるREMHI (Recuperación de la Memoria Histórica)を指導したグアテマラのカトリック司教である。「歴史的記憶の回復」4巻本の“Guatemala: Nunca más” を公開した2日後の1998年4月26日グアテマラ市のサン・セバスティアン教区教会の敷地内で暗殺された。犯人グループの検挙、訴追とその審理は 2001年から始まるが、再審請求中の受刑者の1人が刑務所内で殺害されるなど、現在にいたるまで不明瞭なことが多く、およそ真相が究明されたとは言いが たい状況にある。その翌年、和平合意での改革のアジェンダを含んだ1999年5月の憲法改正国民投票での信任が否定されるという事態にまで到る。

統治の「正常化」プログラムは、武力紛争状態の終焉 だけが目的でない。内戦で疲弊したグアテマラの経済を回復し、さらには進展させることを意味する。 1996年の和平合意の17項目のうち、項目5(多民族性の尊重)、6(国民全体の参加の必要性)、7(正義の実現)、8(貧困克服と健康の実現)、およ び9(農業問題)の、合わせて5項目約3分の1の項目が経済に関する言及や語彙が含まれているのである。

内戦期の後半に激化するグアテマラ西部高地への軍部 による対反乱作戦は、先住民に対する虐殺と国外難民を増加させたと言われているが、内戦期全体で20 万人の犠牲者と45万人の国外難民を生んだと推計されている。そして2005年までの国外移民数は総計で140万人に及ぶとされている (Migration Policy Institute, Washington D.C.)。グアテマラ内戦の難民は、メキシコ国境にあったUNHCRのチアパス州やベラクルス州の難民キャンプから、内戦後本国に帰還した者がほとんど だが、アメリカ合衆国に政治難民化した先住民もいる。グアテマラでの民政移管後の1986年以降、グアテマラでは経済的な理由によるメキシコ経由でアメリ カへの非合法移民が増加し、アメリカ国土安全保障省(Department of Homeland Security)の推計では2000年では29万人であったものが2009年のグアテマラの合法移民18万人、非合法(unauthorized)移民 数は48万人に増大する(Hoefer et al. 2010)。北米への非正規の労働移民のこのような増大により、彼らの本国に対するドル送金による本国経済への好況という経済的影響は最盛期には外貨収入 の2/3、GDPの1/10にまで占めていた(CIA Online)。この活況は米国のサブプライムローン住宅危機問題が表面化する2007年を経由して2009年の同国の経済危機まで続いたと思われる。グ アテマラの経済状況は1980年以降、10%未満を推移している消費者物価のインフレーション率が3割を超えたのは、ビニシオ・セレソ大統領による民政移 管直後の1986年と執政の最終年の1990年と、憲法停止スキャンダルの2年半で大統領を辞任したホルヘ・セラノの政権1年目の1991年の3度のみで あり、これまで極度の財政破綻をみることはなかった。

2011年現在グアテマラ国内人口が1,382万人 (CIA Factbook)である、グアテマラ共和国は22の県(departamento)と332の市町村の統一カテゴリーとしてムニシピオ (municipio)に分かれている。1984年当時、同数の県と324のムニシピオがあったので、新しいムニシピオの数は人口の成長(1984年人口 750万人に対して過去27年間に人口は84%増加)に比して増えていない。その理由としては、ムニシピオは地方自治の強固なユニットであり、その統治の 相対的な自律性にあると考えられる。グアテマラにおける県の行政責任者は中央政府からの任命であり、本稿で扱う地方自治体の政治に介入する権限を持ってい ない。地方自治に権限をもつのはムニシピオの首長アルカルデ(alacalde:本稿では「町長」と呼ぶ )であり、役職は住民の直接選挙により選出される。このことにより住民は、県民であるという文化的アイデンティティこそ持つが、政治的アイデンティティの 帰属はそれぞれのムニシピオにあるという意識を強く持つ。ムニシピオの同質性は、植民地時代からの教区や地理的境界に由来し、また事実、先住民共同体では 民族衣装あるいは方言などの文化的同一性が保たれてきた(Tax 1937)。

町長は、議会を構成する町会議員 (regidores)を任命し、また役所を運営する司法(juez de paz)、警察(policía o aguaciles)および共益管財人(síndicos)も任命する権限を有していた。また時に一定の徴税権をもち、首長には比較的強い権限が与えられ ていた(Código municipal: Decreto número 1183, 1957年)(Adams 1970; Nyrop 1983)。しかしながら、内戦期以前では、町長職が人口においては少数派のラディーノに独占され、多数派の男性先住民は「公民=宗教階梯組織あるいはカ ルゴ体系(civil-religious hierarchy or Cargo System)」と呼ばれる、プリンシパーレス(principales)をリーダーとする成人男性からなる階層化された在俗者による祭祀組織を護持して いた(cf. Cancian 1965; Dewalt 1975)。しかしながら、1958年のイディゴラス・フエンテス大統領期以降のグアテマラの国家政治と村落共同体との政治的節合以降は、このカルゴ体系 は、機能的に世俗政治を補完することとなった。グアテマラのクチュマタン高原やシエラ・マドレ高原の先住民共同体では、聖人祭祀集団であるコフラディア (cofradía)に加入への加入は、カルゴ体系より制約が緩やかで、成人の女性はラディーナ、先住民を問わずことができたものもあったので、準政治的 な社会参加は宗教がその機能を担っていたということができる。しかし1950〜1960年代には、グアテマラ革命やIII節で述べるような、その後の反共 を目的としたカトリック教会によるアクション・カトリカ(Acción Catórica, AC)の社会的活動の進展により、在俗信徒のカテキスタ(教理教育者)の組織化され、共同体内で伝統的宗教組織に対する公然とした批判運動が展開した。イ ディゴラス・フエンテス大統領期には、協同組合運動がおこり、先住民共同体への近代経済への巻き込みなどが加速した。

その変化に決定的な影響を与えたのはクーデタにより 政権を奪取しまた同じ権力メカニズムによって政権から追われた(1982年3月〜1983年8月)リ オス・モント大統領である。彼は政権期の初期にすべての自治体の首長を解任し、多くが軍人や福音主義派のキリスト教徒の市民からなる政府の任命者としたか らである。内戦の軍事紛争地域では、首長による自治体の統治を停止し、駐屯する軍人がそれに替わった。軍事評議会を結集しリオス・モントを政権から降ろし たメヒア・ビクトレス大統領期の1985年に現行憲法が制定され、地方自治はそれ以前のタイプの統治制度に復帰した。そして1986年に民政移管したビニ シオ・セレソ大統領の執政2年目に現在の制度と共通する地方自治への法律改正が行われた(IV節参照)。

II .ムニシピオの状況

ここで紹介する西部高地の先住民コミュニティ(ラ ディノ人口は僅少)は、共和国西南部にあるサン・マルコス県にあるムニシピオで、その人口は約4万6千 人(国立統計局、2002年)であった。ジョン・ホーキンス(John Hawkins)はサン・マルコス県の県庁所在地でラディーノの街と見なされているサン・マルコス市に隣接する双子の兄弟都市であり、商工業に従事する先 住民の町サンペドロ・サカテペケス(San Pedro Sacatepequez)におけるラディーノと先住民の社会関係と民族アイデンティティについて1970年代後半に調査したが、このムニシピオについて 「『本物』の先住民コミュニティのひとつ(one of these ‘true’ Indian Communities)」であるとして、同地において短期間の調査をしている(Hawkins 1984:286-299)。

この町(ムニシピオ)全体の主たる産業は農業であ る。またこの町の中心では大きな定期市があるために近隣から商人の一時的流入が多く、コミュニティ内で も商業に従事する者も多い。住民のほとんどがマヤ系の先住民であり中南部方言のマム語(Mam)を話す。言語使用者のほとんどは公教育によりスペイン語の バイリンガルであるが、先住民の家庭内ではマムが多く使われる。商業的取引の現場ではスペイン語とマムの二言語併用の状況が、教会のミサの朗読や説教の際 にはマム語の通訳がつく。少なくとも1960年代からアクション・カトリカの活動が活発であった。アクション・カトリカは19世紀のスペインやイタリアな どにはじまった反教権主義(Anticlericalismo)への抵抗からうまれた在俗者の活動に焦点化されたカトリック刷新運動である。1930年代 には反共主義と結びつきケツァルテナンゴ教区とりわけトトニカパンで盛んになる。1960年にマリオ・サンドバル・アラルコン(Mario Sandoval Alarcón)によって結成された国民解放運動党(Movimiento de Liberación Nacional, MLN)は、ミゲル・イディゴラス・フエンテス(Miguel Ydígoras Fuentes)将軍がクーデタで政権を追われた後に、議会で第一党となり、軍部と結びついた反共政党のもとでアクション・カトリカ(AC)は西部高地の 村落部で大きな勢力をもつようになる。MLNは米国CIAの支援を受けてグアテマラ革命を終焉したカスティージョ・アルマス大佐(1954年9月大統領就 任したが1957年7月に暗殺)が創設した極右政党の国民民主運動(Movimiento Democrático Nacional)がその先行組織である(Adams 1970:294-301; Falla 2001:12-13)。

カトリック勢力は1959年のキューバ革命の成功以 降、アクション・カトリカを含めて教会のカテキズム機能を強化し、地域の経済開発を支援し、また次世 代のリーダーを養成するためにグアテマラ全土、とりわけ先住民地域を中心に教育支援の活動を展開する。この町もまたアクション・カトリカを組織した神父が 先住民に対する教育振興に深く関わった。この神父は先住民の「伝統的迷信」を嫌い、この町の若い世代に積極的に近代教育を授け、神学校や師範学校へと勉強 を勧めることで、この町の近代化を推進させようとした。それゆえこれまで、先住民の中から大学卒業者を含む高学歴者を多く輩出してきた。彼/彼女らは町の 内外で教職や教育省官僚職、あるいは政府系の人権擁護団体やNGOの代表として、文化や教育振興などの政策に積極的に関わっている。またアクション・カト リカは、カテキズム重視のため、伝統的なマヤ儀礼やコフラディアによる儀礼行為に関しては極めて不寛容な態度で臨む。それゆえ少なくとも1960年ごろか らは民族舞踊が町の中心地で行われることはほとんどなくなり久しく絶えていた。1996年末の和平合意後からの全国各地でのマヤ先住民運動の影響を受けて 回復の兆しがあるが、ここでは現在でも伝統的なマヤの宗教儀礼が公然と行われることはない。このコミュニティでは北米の福音主義派のプロテスタント宗派の セクトが1980年代に進出してきたものが2,3あるが、他のグアテマラの先住民共同体とは異なりその宗教としての社会的影響力は極めて少ない。

サン・マルコス県サンミゲル・イシュタウァカンとシ カパカには、2004年から本格的に金と銀の採掘がはじまったマリリン鉱山(当初グラミス社が開発 し、カナダ・バンクーバーに本社がある世界最大規模の金の採掘会社ゴールドコープが2006年に会社ごと買収した)がある。西部高地の多くの先住民コミュ ニティでは、この鉱山を、植民地時代の征服者や独立以降の近代国家のクリオージョから先住民が受けてきた抑圧の象徴として住民みずからが表現することが多 い。この共同体では、植民地時代の植民者スペインの圧政、リベラル期の改革者(サン・マルコス県出身の)バリオス大統領(1873-1885年)によるマ ヤの家族と個人名のマヤ風の呼称をスペイン風の姓名に改名する命令、そしてウビコ大統領独裁時代(1931-1945年)の強制労働法令(Ley contra Vagancia, 政令1996, 1934年)として関連づけられて、鉱山開発を批判するのである。

言い換えると「先住民の富の収奪」と「調和的自然を 破壊する」植民地主義のシンボルとして、この鉱山を意味づけることが多く、それゆえ西部高地を中心に外 国資本による鉱山開発に激しい抗議活動が行われてきた。この町でも住民投票が2006年5月27日と、2008年5月14日の二度にわたり実施され「鉱山 開発(に対しては)ノー(“No a la Minería”)」というスローガンによる住民投票が採択されている。サン・マルコス県の先住民コミュニティでは、住民の態度として鉱山開発を拒絶する ことは実質的に合意されている。しかしながら、自分の土地を外国人に売却したり、町長が会社の試掘などを許可することに対して、人々は過敏と言えるほど警 戒する。現実には、欧米人の「技術者」のこれらの地域への訪問すなわち「侵入」と住民の側からの「裏切り」という事態を危惧している。

2008〜2011年の調査当時の町長の所属党派 は、政権与党と同じ中道左派の国民統一希望党(Unidad Nacional de la Esperanza, UNE)であったが、2011年11月の大統領選挙と地方首長選挙では、2012年からの政権与党である右派政党の愛国党(Partido Patriota, PP)と同じ党派の同地域の候補者が当選した。

III.紛争の経緯

以下に述べるコミュニティの水源をめぐる紛争問題 は、外国企業に対して先住民コミュニティ排外主義的な政治的文脈のなかで、ネポティズム的性格を残しな がら行政をおこなう町長と、地方分権に関連する3つの法令が生み出した地元協議会 COCODE(Consejos Comunitarios de Desarrollo)を通した住民の発言権の強化をめざす市民グループの確執である。地方自治法に関する細かな規定は次のIV節で解説する。

【第一幕】この町の中心市街の水源は3カ所あった。 AT(地名)水源に2カ所と、FT(地名) 水源の1カ所である。2008年8月頃、50メートル平方ほどの後者の水源に地元の住民が侵入し(告発状によれば)「水源地周辺の樹木伐採をし、貯水タン クの境界に、幅1.5メートル、深さ3メートル、長さ15メートルの堀を構築した」。この時、町の中心部のCOCODE——2002年地方行政改革関連法 案によって規定された代議協議会組織——が、これを問題視し、町役場にその住民を告発した。同年の11月28日に町は調停委員会を組織し、両者による紛争 を調停しようとしたが、この住民は所有権を主張しCOCODEの主張に耳を貸さなかった上に、さらに個人に対する人権侵害だとして、逆にCOCODEのメ ンバーを告発した。町役場には、この水源が町の共有地である旨の文書が保管されているはずであるが、その文書は見つからなかった。このことについて COCODEの主だったメンバーは、町長の管理責任を問う一方で、侵入住民を刑事告発(刑事訴訟法 Proceso Penal 90-08 の貯水および流水の「横領罪」)して、裁判の結果、最終的に侵入の件が立証され住民は収監された。COCODEのメンバーが水源地のコミュニティによる安 定共有を確保するために東奔西走——上訴や抗議した機関は、各審級の裁判所、自治省や国立森林局など6機関——したにもかかわらず、町長と役場の町会議員 (concejales)はなにも協力しなかったと不満を述べあった。これが町長派とCOCODEの確執という、幕開け直後の出来事であった。

【第二幕】およそ1年後の2009年9月、町のこれ とは別の共有地の2クエルダ(約128ha)の土地を、カナダのプロテスタント系援助団体に売却する話がもちあ がった。この団体は地元の男性——彼の父親はこの町に最初のプロテスタント教会を設立する——が代表を務めるNGOの団体と共同のプロジェクトとして、虫 歯の抜歯を主体とするクリニックやその他の慈善プロジェクト用の土地を探しており、この代表が町役場と交渉して、クリニック建設のために町の共有地を提供 する計画を続けていた。これに対して町のCOCODEは異議申し立てをし、町長の権限で町の共有地を外国人に売り渡すことはまかりならないと主張した。 COCODEの外国人排斥的なこの主張には伏線があった。この町の各地のコミュニティにおいて、外国の企業や個人に土地の売却をする者がいるという風評が たち、その企業こそが鉱山会社のカモフラージュではないかと人々が警戒しているからである。従って2006年と2008年の2度にわたり鉱山開発に反対す るこの町の住民投票は、総勢が反対を唱えるある種の沸騰状態におかれていた。2008年5月14日の2回目の投票は就任後半年にもならない現在(2011 年)の町長が、先住民運動に理解のあるメキシコ人神父を巻き込んでこの住民投票のイニシアチブをとり大キャンペーンを張ったので、“No a la Minería”のスローガンに代表されるこの政治的シンボルは、両陣営にとっての政治的動員をかける「象徴的資源」にもなった。先般の1年前の水源地確 保のための紛争において、町長の指導力はまったくないと公衆に印象づけることに成功したCOCODEのメンバーたちは、ここでも同じような論調で非難す る。そして、件の援助団体と町長との癒着関係に疑いをかけるメンバーもいた。この状況を打開しようとした(土地売却の意思が明確な)町長は、COCODE より上位の意思決定機関であるCOMUDE(Consejo Municipal de Desarrollo)の構成員たちを招集した。COMUDEは、ムニシピオレベルでの協議会で町長がコーディネーターを務めるもの(政令11-2002 協議会法第11条条項a)である。町長を告発した側の証言によると、町長は町の共有地をプロテスタント団体に関係する町内のNGOに売却してもかまわない という主旨の文書を作成しCOMUDEのメンバーに「十分な議論をさせずに」署名させたという。その後、この町長の策略はじつは共有地の売却だけではな かったことが、そのアクタ(acta)と呼ばれる文書のなかにCOCODEのメンバーによって発見される。アクタには、署名を伴う文書、つまり議事録や証 明書、教会の活動記録など多様な意味があるが(植民地権力が持ち込んだこの歴史的遺産としての)署名の伝統は、先住民社会でも重要な公証性をもつものとし て重要視される。それが次のステージへの序幕となる。

【第三幕】2010年1月、町長とCOMUDEが署 名したアクタには、新しくできた市庁舎の2階部分に役所が入り、1階部分にはバンルラール=農村開発銀行 (BANRURAL, Banco de Desarrollo Rural S.A)銀行——1997年の関係民営化法に基づいて国立銀行系のBANDESAを売却し1998年に設立された(Trivelli 2007)——に15年間無償契約で入居する条件もあわせて記載してあった。現在の庁舎は、1960年に、それまでの植民地時代の老朽化した庁舎を取り壊 して作られたものだが、2009年にはさらにそれを取り壊して庁舎の新築工事がおこなわれていた。COCODEのメンバーたちは、町長と町会議員に対し て、自分たちの遺産を容易に外国人に売り渡す破廉恥な町長などは、かつてこれほどまでなかったと主張した。歴代の町の長老たちは、町の共有物を安易に売り 渡す行為などは決してやってこなかったからだ。それゆえ現在の町会議員たちの行為は不正であるとCOCODEのメンバーたちは告発した。COCODEは抗 議を目的として何度も町長に会う約束をとりつけたが、それらはすべて反故にされてしまった。COCODEとその支援者は、町長とCOMUDEが作成したア クタの書類の無効を唱えて、共同体内で抗議活動をすると同時に、サン・マルコス県庁に数度でかけて、マスコミや調停機関および法廷に訴えるにいたった。集 会のたびに彼らの支援者は増えていった。

【第四幕】再三の抗議活動によって、最終的に COCODEとその支援者たちは「ムニシパリダ同意(Acuerdo de Municipalidad)」という文書を作成し、町長との間で調印することになった。Acuerdo de Municipalidad は明らかに、グアテマラでもっとも人口に膾炙した1996年末の和平合意文書名(“Acuerdo de Paz”:正式名称はAcuerdo de paz firme y duradera)を多くの人に想起させる。アクエルド(同意)という語の借用は、その文書におおきな政治的正当性を与える。COCODEの中核的リー ダーは、共有土地の売却をもとめたNGOの代表や、重大なところで何も発言しないことで結果的にそれに協力した教育省の視学官などの専門家たち (profesionales)を批判する。彼らはこの一連の動きににおいて、コミュニティに対して反動的あるいは保守的な立場をとったと批判したのであ る。このリーダーは「町の人びとは勝利し、町長は屈辱を得た(Pueblo ganan, Alcalde estaba humillado)」とこの運動を評価する。「ムニシパリダ同意」があった日には、町は活気をとりもどし、また(慶事があると上がる)花火が上がった。 「ムニシパリダ同意」には(1)銀行に庁舎の1階のすべてのスペースを銀行には貸さない、(2)2クエルダの町の共有地は誰にも売り渡さない、という事項 が2つ記載されてあった。

【第五幕】これに対して、屈辱を受けた町長と COMUDEに属するアルデア(村落部落)のCOCODEのリーダーたちは反転攻勢に出た。前夜に町長の家で、肉や ソーセージが焼かれ食事を振る舞われた後、翌日に町の多目的サロンと呼ばれる会議場で集会がもたれ、COCODEと村のリーダーたちは討議をおこない、 COCODEの行為などが露骨に非難された。期せずして呉越同舟となったCOCODEのメンバーがその場で批判の局面に立たされたとき、COCODEのメ ンバーの1人がマイクを奪い、そのリーダーに手渡しマム語で——これまでの会議はすべてマム語が使われている——「ムニシパリダが共有地を先祖から受け継 いだ土地をわずかの一断片でも外国人に売り渡してはならない。なぜバンルラール=農村開発銀行だけが独占的に市庁舎の1階を支配するのか」と事の理不尽さ を再度訴えた。これにより集会での形勢が逆転しCOCODEは名誉と体面を保つことができた。このことによりバンルラールへの無償貸与の是非について住民 投票がおこなわれた。その結果、無償貸与の案は否決されて最終的に「住民」——COCODEサイドの表現——が勝利した。2010年5月のことである。こ のため、COCODEのメンバーは「コミュニティの内部に[町長派以外にも]敵ができてしまった」と、数ヶ月後に述懐した。もちろん、このことで町長は一 時的に面目を失いはしたが、この件で彼の統治能力が致命的な障害を受けたわけではない。2011年1月1日、町長の政権の最後の年に、町内の欠くコミュニ ティの役員の年度の引き継ぎ行事(sucesión de cargo comunitaria)には、いつも通り2千人近くの人が集まり、盛大に儀式が営まれた。だが、このことがたとえコップの中の嵐であったとしても、町長 の統治に疑問符を打ち、行動を起こしたCOCODEのメンバーの意識の中には、それまでとは異なった「町の統治」についての別の考え方が目覚めたことは誰 も否定することはできまい。

IV.国家と地方自治法

2008年の鉱山開発反対の住民投票を成功させた町 長にとって、前節で紹介した、反町長派のCOCODEの男性が、町の共有地である水源地への侵入とそ の処罰を契機に、村落外部からやってくる開発計画(外国の援助機関によるクリニックの建設)やバンルラールの営業開始(経済的活動)に異議申し立てをし、 町長派の篭絡を跳ね返す過程は、町長によるこの町の統治全体とってみれば、全くもって些細な出来事(=コップの中の嵐)かもしれない。しかし反町長派の人 たちが、この一連の抵抗運動を語る時に、彼らは生き生きとしている。これらの動きは、コミュニティの未来を決める主体は誰かを定義する論争をおこない、決 めたことを書面で確認し、それでも問題が解決しないと、別の調停機関や法廷に訴えるという過程を辿るという戦術において、柔軟でありながら着地するところ の目的意識が明確な行動であったと言えよう。このような実践を誘発したのは、町長派のガバナンスが不透明性な手法でかつ住民の合議を経ず、明らかに時代遅 れのことをしていると感じたからだと、反町長派の当事者たちは自己分析する。

さて、このような先住民共同体における「統治」をめ ぐるマイナーな住民の間での紛争は、従来の地方政治研究では、例えば分派主義 (fraccionismo)と統合主義(intergracionismo)の循環(あるいは弁証法)のダイナミズムで、その内的メカニズムを分析する ことが可能である(Geertz 1978, Chap.10)。また、その内的メカニズムへの外部からの変動要因として、中央政治からもたらされる権力あるいは端的に利権との節合 (articulación)関係をもって、事態の推移(=生起した事例)を社会学的に解釈することもできる。しかしながら、私は、この共同体内のマイ ナーな紛争が生起したと思われる反町長派としての政治主体の形成、すなわち彼/彼女らの「政治的アイデンティティ」の形成について考えてみたい (Meister 1990)。

このテーマが焦点化される理由は、和平合意後のグア テマラのマヤ系先住民社会では、ひろくマヤ運動(movimiento Maya)、汎マヤ運動、あるいはマヤ主義者運動(movimiento Mayista)という社会現象がおこっており、このことと関連づけて考察してみたいからである。マヤ運動は、言語学研究や言語復興、口頭伝統の復興や近 代文芸などの創作、儀礼の復活、伝統知識の教育普及、さらにはマヤ言語によるロック音楽まで、幅広い活動の範囲を持つ。その中から次世代のリーダーと目さ れる知識人たち(intelectuales)が、それぞれの言語共同体の代表のようなかたちでグアテマラ社会に登場してきた(Fischer and Brown 1996; Warren 1998)。しかしながら、その運動がもつ民族アイデンティティ形成という政治的なニュアンスとは裏腹に、グアテマラ国家政治の視点からは、政治運動とは 無縁の文化復興運動と捉えられているのである。マヤ運動の「政治的性格」を分析するためには、文化が持つ政治的側面と、政治がもつ文化的側面 (Geertz 1978, Chap.8)の両方からのアプローチにより、政治と文化がもつ関係をより明確にしなければならない。私は、本節においてこの「政治がもつ文化的側面」に ついて、行為主体がもつ「政治的アイデンティティ」の形成について考えてみたい。

反町長派の人たちの間に生まれた新たな主体形成を可 能にした、社会的条件や、政治経済的状況とは何であろうか。私には、それは以前とは異なる地方自治を 可能にする政治的枠組の変化であり、地方自治への住民の参加を当然視する風潮への変化であると思われる。本節では、「社会の統治」をめぐる国際的な枠組の 変化と、それに連動したグアテマラ国内における法改正と、それに呼応する地域社会という3つの要素から、このことについて考察してみたい。

まず和平合意前後のグアテマラも復興のための世界銀 行ならびにインターアメリカン開発銀行からの国際融資を受けるために1991年以降導入している構造 調整政策を一貫して履行しつづけ、脱中心化=地方分権化の政策が進んだことである(Ruthrauff 1998)。構造調整のスキームは、その導入前の理想とされたことよりも、実際に導入した後に起こった問題から、その特徴をあぶり出すことができる。なぜ ならば、そこに理想と現実のギャップを我々が見ることができるからであり、何らかの形で失敗の経験を活用する可能性が広がるからである。初期の構造調整政 策への批判と解釈は以下の7点にまとめることができる。

1)構造調整政策の有効性の範囲の不明確さ:海外か らの財政政策への介入は、国際社会と当事国との「合意」にもとづいているはずなのに、国家主権の侵害とみなされた。このことは政策の成否の国際的判断に混 乱をもたらした。それゆえ政府の財政担当者は成功すれば国際協調した自分たちの業績とみなし、失敗すれば外国や国際金融機関の責任に転嫁できた。

2)経済効率を高めるためにとられた民営化政策への 批判:経営の効率化のために最初に犠牲になるのが労働者の人員整理や解雇であり、失業率が上昇した。

3)現地農業の市場経済化への加速:小農経営に利す る点が少なく大規模経営者による買収や、アグロビジネスの参入により作物転換や農民経営への私企業のコントロールが増加した。

4)経済優先のための自然環境悪化:天然資源開発や 観光振興など環境負荷産業が増大した。

5)緊縮財政による公共福祉サービスの低下:小さな 政府による財政の緊縮が、とりわけ福祉公共サービスの予算の減少や、公共セクターの民営化をもたらした。それゆえ経済的貧困層には、医療費や公共料金の負 担増を招いた。

6)女性労働力の市場参加によるジェンダー構造の変 化:マキラドーラ(関税減免などの恩恵特区における労働集約型の軽工業団地)などの女性向けの賃労働化による、家計に対する女性労働力依存の増大をもたら した。

7)経済機会獲得のための自発的・非自発的な移住の 促進:規制緩和などを通して政府が企業の自由な活動を優先したために、工場の移転や業務内容を急速に変化させたために、労働者の雇用調整をより弾力化した ために、労働者の移動・移住を加速化させた。

以上である。これらは米国政府と国際通貨基金および 世界銀行が当初考えていたワシントン・コンセンサスなるものが実際の適用においては失敗したものだと理 解されている。

グアテマラにおける構造調整政策は、先のような政策 に加えて、民主化とそれを保証する政治システムの透明化、財源委譲、住民の財政的自立と自己管理など を、その理念として謳っていた。これは先のワシントン・コンセンサスの失敗を受けて1990年代後半に「第二ワシントン・コンセンサス」の政策パッケージ の影響を受けたものと推測される(狐崎 2004:225-226; Williamson 2003:13)。なぜなら国際社会がポスト内戦後のグアテマラに期待したのは、治安の安定と民主化の確立であり、それが国際的な投資環境を整備し、社会 の安定と経済の繁栄の条件になると考えたからである。実際に、地方分権が本格化するのが、アルフォンソ・ポルティージョ大統領期の2002年であり、関連 法案が矢継ぎ早に改正される。グアテマラ政府は1987年に制定された政令52-87「都市と村落の発展のための協議会法(Ley de los Consejos de Desarrollo Urbano y Rural)」を、2002年に同名の法律・政令11-2002へと改正し、また1988年に制定された政令58-88「市町村法規(Código Municipal)」を、やはり同じ2002年に同名の法律・政令12-2002へと改正した。なお1987年制定の政令52-87の23条は翌 1988年に政令 49-88 で改正され、中央政府から自治体への予算配分比率が改正されている。さらに1995年の政令 13-95 では村落開発省の廃止に伴う関連する事項の改正があった。グアテマラの民政移管期以降の政治システムの改革を可能にしたのは、軍事政権期末期に制定された 1985年憲法であったが、すでにこの憲法の224条において地方分権化が謳われ、225条においてそれを可能にする「都市と村落の発展のための協議会」 の創設が規定されていたのである。しかし実際には、2002年の法律改正まで実際には機能していなかった。これらの法律が機能するようになったのは、「地 方分権基本法(Ley General de Descentralización)」(政令14-2002)が新たに制定されたからだと考えることもできる。なぜなら、地方分権化の文言や理念は遅く とも1965年には登場していたからである。すなわち、イディゴラス・フエンテス大統領解任(1963年の)後の暫定軍事政権期に公布された1965年憲 法231条と236条に市町村の自律性が謳われており、同憲法に基づいて施行された「地方振興制度関連法(Ley Orgánica del Instituto de Fomento Municipal)」(政令1132, 1965年)の前文の中に「迅速な統治の地方分権化」という形ですでに登場している。言い方を変えると、有名無実化していた「都市と村落の発展のための協 議会」の制度を、地方分権化のより一層の促進手段として復活させようと制定されたのが「地方分権基本法」であった可能性は捨てきれない。

この新しい法体系によると、協議会法は国家レベルか ら地方の行政自治体の基本単位であるムニシピオ、さらには下位のコミュニティのレベルまで協議会を設 置することが義務づけられている。「都市と村落の発展のための協議会法」(政令11-2002)の4条には開発(あるいは発展)の協議会の5つのレベル が、上位のものから下位のものまで規定されている。すなわち、a)国家では「都市と農村の発展のための国民協議会」、b)地方では「都市と農村の発展のた めの地方協議会」、c)県(departamental)では、「開発のための県協議会(Consejos Departamental de Desarrollo, CODEDE)」、d)地方自治体(municipal)では、「開発のためのムニシピオ協議会」(Concejos Municipales de Desarrollo, COMUDE)、e)コミュニティ(comunitario)では、「開発のためのコミュニティ協議会」(Consejos Comunitarios de Desarrollo, COCODE)が設けられる規定になっている。さらに、同法15条では、ムニシピオ内のコミュニティの数により、その数が20の地元共同体を超える場合 は、ムニシピオの共同体と、コミュニティ協議会との間に、「第2のレベル」のコミュニティ協議会を設ける必要があることも規定されている。

国民協議会の構成メンバーをコーディネイトするトッ プが共和国大統領となる国家レベルから地方への末端まで、首尾一貫したように見えるが、その役割内容 は、より末端にいくほど話し合いと合議による具体的な意思決定のやり方が重視されるよう、法律には示されている。また「都市と村落の発展のための協議会 法」23条には先住民顧問による協議会(Cosejos Asesores Indígenas)の設置規定があり、それらはCOCODEとCOMUDEに対して連携するとされている。さらに、同法26条には、先住民による住民投 票(Consultas a los Pueblos Indígenas)の規定も定めている。したがって、この協議会法は、政治的意思決定においてトップダウンの権限を謳ったものではなく、同じ2002年 に制定された「市町村法規」および「地方分権基本法」と併せて地方分権を促す一貫した体系的な法整備過程の結果であると考えることができる。とりわけ、市 町村法規の21条には、先住民どうしの民の間の関係の尊重と承認が謳われ、地方分権基本法の4条に9箇条ある基本原則のうち第4項には「グアテマラの複数 民族、多元的文化、複数言語の現実への尊重」という文言がみられるように、先住民社会の固有の方法について敬意を払うように配慮されている。

これらの法律は、1985年憲法に基づいているが、 とりわけ法的レジームという観点からは、1996年12月29日に政府とURNG(グアテマラ国民革 命統一組織)との間で調印された「確実で永続的な和平合意(Acuerdo de paz firme y duradera)」の第5項、グアテマラの先住民に対する複数民族、多元的文化、複数言語の尊重という基本認識を基づいて立法化されたものとみてよいだ ろう。ただ、言うまでもなく、この理念が直截的に、地方自治に先住民権が過不足なく容認されるという社会的効果を生んだものではないことも、明らかであ る。一例を挙げると、1999年当時の教育相アラベラ・カストロ・キニョネスは、書状129号(Circular 129) で知られる先住民衣装着用をして授業を受ける権利に関する通知を発送し、教育行政における多元的文化への容認が高まる一方で、憲法の中に複数民族、多元的 文化、複数言語の尊重という修正条項を盛り込むための「先住民のアイデンティティと権利に関する合意に基づく国民投票」では、投票率12%のなかで反対票 が57%の結果、否決されている。

V.結論

現代の国民国家あるいはそこに帰属する様々な共同体 (コミュニティ)は、第二ワシントン・コンセンサス以降の、ネオリベラル経済ないしはネオリベラリズ ムの政治経済の元に巻き込まれているという議論がある(Williamson 2003:11-12;スティグリッツ 2002)。今やグローバリゼーションの強力な推進力となっているネオリベラリズムのイデオロギー的シンボルは、世界銀行や国際通貨基金(IMF)であ る。ネオリベラリズムへの市民社会の側からの反発は、しばしば先進国における経済格差の拡大と途上国の経済状況を悪化への懸念の形で表明される。先進国首 脳会議や蔵相会議などへのデモ活動などがその代表例である。ネオリベラリズムに対する批判とは、ローカルな自己決定能力が打撃を受け共同体がこれまで維持 してきた政治経済システムが破壊されるという懸念の表明であり、それを「市民の抵抗」で示すことである。

さてマヤ系の先住民マム語を話す反町長派の COCODEの構成員達は、中央からもたらされる利権を地方で配分するこれまでの政治スタイルに反発、抵抗す るローカルな側の反応としてのマム反逆派(Mam Rebelde)と呼びうる存在である。このグアテマラの先住民社会の来るべき地方自治の民主化の使徒とも言えるCOCODEのリーダーは、私の友人であ り、情報源の多くを彼に負う。マム反逆派の名称はリカルド・ファーリャ(Falla 1978, 2001)の著作『キチェ反逆派』(Quiché Rebelde)からのインスピレーションによっている。リカルド・ファーリャの著作は、トトニカパン県のサン・アントニオ・イロテナンゴというムニシピ オで1948年に始まり1970年まで続く、伝統的宗教の文脈の中に近代的カトリック(AC)の地歩を築き、やがて伝統的な考え方そのものを駆逐すること で新しいキチェ・マヤのアイデンティティを模索する「反逆者」を描く(近現代の)歴史民族誌である。キチェのそれとは異なり、本論文のCOCODEのマヤ 司祭のリーダーは伝統主義——復古主義ではなく新解釈派(=伝統のリビジョニスト)のそれであるが——の復権を求めて、カトリック(AC)とプロテスタン トに反逆する点で、このネーミングはある意味で非常に皮肉に満ちている。なぜならば、このマム反逆派は、保守政治に対する革新主義的抵抗のスタイルこそ取 るものの、マム反逆派の町長に対する抵抗を可能にしたのは、第二ワシントン・コンセンサスに淵源するネオリベラリズムに基づく構造調整政策とそれに呼応す るグアテマラ政府の地方分権化を促進させる法的整備の結果によるからである。

反町長派のCOCODEのリーダーは小学校の教師 で、また通信制の大学で学び人類学の学位取得を目指す学生でもあった。また半ば公然の事実ではあるが、 この町ではカトリック教会からは禁制とされている若い新世代のマヤ司祭でもある。4年近く前の2007年当時に私が彼と知り合った時には、マヤ司祭(当時 は見習い)の身分を隠しつつ、マヤ文化復興運動と自分自身の宗教活動を関連付け伝統的文化価値を擁護していた(Warren 1998)。彼が調査者である私にマヤ司祭であることを匂わせるのはその翌年であり、実際に私に告白し、儀礼の現場に連れていってくれるようになったのは 邂逅から2年後であった.

しかし、彼自身の政治的コミットメントが示すマヤ司 祭からより近代的な政治への〈転回〉について、マヤ運動とりわけマヤ司祭の彼の活動とさほど矛盾しな いという。抑圧されてきたマヤの伝統宗教の市民権を再びコミュニティに復興させること。民主主義にもとづく先住民としてのプライドがないから外国人に容易 にマヤ文化の所有権を譲渡してしまうことへの批判的態度。そして、その強力な市民の発言の可能性を開く政治的回路としてのCOCODEの意味の発見は、と もにそれらは相互に関連しているはずだと、彼は言う。さらに彼はマヤ司祭になるために、これまで他のコミュニティのマヤ司祭の導師に教えを受けながら学ん だことで伝統的なマヤの世界観の復権と、それを具現化するマヤ宗教儀礼のこのコミュニティでの再開が、内戦で疲弊したマヤ人のアイデンティティの復興に大 きな意味をもつことを理解したという。この理解により、彼と同胞の関係性に変化が生じ、今度は彼自身が大衆の前で雄弁に話すことができるようになったとい う。これらの一連の出来事は、政治的資源としてCOCODEを彼が機会的に利用(=動員)しているのだという解釈で片づけることもできる。しかし、別の角 度から見ると、アイデンティティにもとづく政治が、新たな先住民コミュニティと参加の実践概念を創造しつつあるという理解もまた我々は提示することができ る。少なくともマヤ運動は、抑圧されてきたマヤの人たちの「文化の復興」という観点から理解される以上の広がりをもつ。しかしながら、このことを文化運動 が政治化したと結論づけるべきではない。そこには人間の実践領域の理解の方法として、文化と政治のあいだに質的な区分を設けて、文化の概念から「生身の政 治現象(Realpolitik)」を捨象して理解しようとする危険性があるからだ。少なくともこの論考で扱ったケースの登場人物の物語には、マヤ文化を 生きる人びとのアイデンティティ・ポリティクスから、政治的アイデンティティとしてのマヤ人への移行が見られるからである。このことは、グアテマラ国家の 民主化運動の中で、マヤ人の復権はマヤによる政治権力の掌握や民族政治(エスノポリティクス)を目指しているのではなく、国家成員の多元性を認め、民族の 差異の承認と国民間における和解——寛容性の創造——ということ関連しているように思われる(太田 2009;Menchú 1998)。同じ国家空間に生きる成員がそれぞれのコミュニティの文化の差異を承認することは、文化の認識論であると同時に政治的な決定でもあるからだ。 これらの解釈の妥当性を検証するためには、COCODEの他のメンバーや、その反対側の町長派による一連の出来事に関するインタビューや対話を重ねること を通した、彼/彼女ら自身の政治的アイデンティティに関する「厚い記述」の実践が欠かせないことは論を待たない(Meister 1990; Geertz 1973)。

ラテンアメリカの構造調整政策における重要な課題で ある政府の機能縮小と地方分権化、そして情報公開などの政治の透明化の社会的課題は、しばしばネオリ ベラル政治経済に道を拓く第一歩だと批判的に取り上げられる。だが、地方政治に生じた社会参加の新たな空間は、これまでのパターナリズムを大義にしたネポ ティズムの運用原則しか存在しなかったこの町に、自由な発話と異議申し立ての回路を提供できることをCOCODEのメンバーは発見した。2011年1月に 彼らと最後に会ってから、私が日本に帰国して考えている際に、非常に奇妙な事に、類似の経験が我が同胞の間で語られていることに気がついた。それは 2011年3月11日の東日本大震災と大津波それに引き続く福島第一原子力発電所の原子炉爆発事故や、その年の秋以降に「国民的議論」にまでなった環太平 洋経済連携協定(TPP)への協議参加/不参加をめぐる議論の中においてであった。あるいはポスト・フクシマという時代の中で、新しい世代を中心とする脱 原発派の人々が、どのようにして彼らの主張をより広い国民的合意とするのかということに関する議論の中においてであった。そこでは「市民とは誰か?」ある いは「民主主義とは何か?」という審問と、民主主義を文字通り「民の支配」としてその社会に定着させ、自分たちがよきことをなす自己決定をめぐる主体形成 に関する事柄が議論されているのである。このような政治的主体形成の契機は、一方のグアテマラの先住民コミュニティでは水源地の土地所有の権原をめぐる紛 争が、他方の日本では放射能汚染とその国家の管理能力を問う論争のなかで生まれている。フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルは1831年に渡米 した経験を『アメリカのデモクラシー』の中で考察し、地方自治への直接参加の中に民主主義の可能性を見いだした。少なくとも、民主主義や統治性について考 察することにおいて、グアテマラの先住民共同体が経験していることを、日本と比べて後進性の中に位置づけることはできないことだけは確かである。

謝辞

本研究は日本学術振興会科学研究費補助金・基盤研究 (B)「中米先住民運動における政治的アイデンティティ:メキシコとグアテマラの比較研究」(2010 年度〜:研究代表者:池田光穂)に負っている。研究分担者を含めた関係各位に謝意を表したい。

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Buscando La Autonomía Comunal en el Época de la Descentralización del Poder Político en el Occidente de Guatemala en la Actualidad.

Mitsuho IKEDA

    Desde la firma del Acuerdo de Paz Firme y Duradera a finales del año 1996, el pueblo guatemalteco enfrenta varios obstáculos políticos de anarquía y de terror, sin embargo la situación económica ha seguido relativamente estable por las ayudas internacionales y las remesas desde EE. UU, de los emigrantes legales e ilegales. Desde la década de 1990 el Estado ha introducido la política del ajuste económico estructural en el marco internacional del Consenso de Washington en un primer momento, luego el segundo Consenso a finales de los 90s. Este panorama económico prepara a los países que reciben apoyo internacional con compromisos y acciones política internas para aceptar el “neoliberalismo”; la aceptación de la reforma de ajuste económico estructural, la privatización, la modernización del mercado agrícola, y la descentralización política.
    
Con la presente investigación que  hemos realizado  desde el año 2007 hasta el presente, se ha abordado la historia política local en conflicto entre la corriente política y personal del alcalde municipal y la de los integrantes de los Consejos Comunitarios de Desarrollos,  los COCODES, en el marco del contexto político de la descentralización en el actual momento en Guatemala y específicamente en una comunidad  de un municipio del occidente de Guatemala. En este punto los comunitarios buscan y definen que tipo de gobierno necesitan o desean en el marco democrático de la descentralización, la reforma jurídica sobre la política guatemalteca, sobre este tema en el año 2002, especialmente la Ley de los Consejos de Desarrollo Urbano y Rural (Decreto 11-2002), el Código Municipal (Decreto 12-2002), y la Ley General de Descentralización (Decreto 14-2002). Sobre todo las reformistas indígenas del grupo de consejos tratan de lograr sus propósitos intentando salir principalmente del nepotismo político local clásico hasta alcanzar una nueva forma o camino de gobernarse por el mismo pueblo, “dêmos-kratos, ” término que significa Democracia.

    Uno de los casos conflictivos en la comunidad estudiada comienza con la invasión del territorio “comunal” del nacimiento de agua, lo que provoca el problema de la demanda de responsabilidad administrativa del alcalde. Aunado al debate  nacional y local por el desarrollo de la minería en la zona occidental del país, de tal forma que el pueblo ha hecho las consultas para el desarrollo de la minería dos veces, en el 2006 y 2008, los resultados han sino un: “No a la minería. ”  Bajo el mismo sentido se desarrolla el debate entre el alcalde y uno de los COCODES sobre la venta del terreno comunitario para una agencia internacional o “del exterior, ” lo que provoca en el pueblo un sentimiento xenófobo. Y un tercer conflicto comunitario es el que se da sobre la prestación de un espacio físico en una parte de la municipalidad a un banco privado sin costo alguno. Los miembros del COCODE han continuado negociando con el grupo del alcalde, que lo consideran “enemigo, ” y al fin han logrado alcanzar un acuerdo y firmar un documento de acuerdos y compromisos, algo parecido a “Acuerdo de Municipalidad” con su forma similar al Acuerdo de Paz.

    Podemos denominar a este grupo que ha luchado contra el alcalde con un neologismo como el de “Mam Rebelde, ” buscando su propio poder en el espacio político en un  nuevo marco del proceso de la descentralización política del Estado. Estos rebeldes se pueden considerar como los representantes de la nueva imagen de la identidad política del pueblo  después de la toma de decisión de la descentralización. Al mismo tiempo sus desafíos para buscar nuevos caminos de la democracia y hacernos reflexionar a nosotros los Japoneses para que también busquemos otra u otras formas alternativas para con ello construir un nuevo consenso político estatal y local en el época “Post-Fukushima” denominación que viene luego de la explosión de la planta nuclear japonés el 11 de marzo de 2011 (311).   

◎池田の方法論と、その調査の歴史(→「『暴力の政治民族誌』を舞台裏から読む」)



御注意→初出は「地方分権における先住民コミュニティの自治:グアテマラ西部高地における事例の 考察、『ラ テンアメリカ研究年報』No.32、Pp.1-31、2012年6月」ですが異同があります。引用の際には、間違いを避けるためにオリジナル文献にあたっ てください。

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