グアテマラ社会における先住民表象のダイナミズム Ver. 1.0
Dinamismo sobre las representaciones de l@s pueblo indigena Maya en Guatemala:Vercion numero uno
El director ladino y profesora Mam en Todos Santos Cuchumatán, Huehuetenango, Guamela, ca. 1990
アイヌ社会での民話は、話す者だけが生きていて、聞き手になる若者がいないのです——
萱野茂(1974)「あとがき:キツネのチャランケ」より
グアテマラ社会における先住民表象のダイナミズム(1)
国家主権や領土を確立する際に、先にそこに存在していた人々、すなわち先住民を、排他的にあるいは包摂する形で成立が保証された国家を「植民国 家」(2)と呼ぶ。植民国家としてグアテマラ共和国をみると、マヤ系を含む先住民が近代国家の一員(国民)として迎えられるために長大な時間と多大なる犠 牲が払われてきたことがわかる。本論文では、グアテマラの先住民のうち多数派を占めるマヤ系先住民が文化遺産としての言語をどのように〈救済〉し、また 〈復興〉してきたのかについて概観し、先住民、国家、言語学者がそれらの過程にどのように関与してきたのかについて考察する。
さて、文化顕示(heritage work)とは、太田(3)によると、植民国家が先住民を抑圧してきた歴史的状況や、それによる喪失の経験に対抗して、先住民の人たちがみずから提示する 文化的表象のことである。具体的には「口承伝承の現地語による記録化、文法や辞書、バイリンガル教育の現場での言語教授法の整備、口承歴史の回復、フィル ム作成や音楽演奏、現地語による出版、博物館や文化資料館の設立」(4)などが含まれる。
文化人類学を含めてこれまでの人文社会科学は、この文化顕示が現代社会にもたらす重要な社会現象であるということを適切に提示することができな かった。例えば、先住民の人たちが自分たちの文化に愛着を感じ、またその文化復興を通して自らのアイデンティティを確認するという作業について考えてみよ う。これまでの文化人類学者ならば、それは近代化に巻き込まれた先住民が対抗的に過去の伝統を再構成したものであり「本物の伝統文化」ではないと指摘する だろう[e.g. ホブズボウムとレンジャー 1993]。政治学や国際関係論の分野では、先住民が共同体を守るべき伝統的価値を前面に出して、その価値を守ろうとすることは、グローバル化する状況の なかで個人の自己決定を尊ぶリベラルデモクラシーの原則に反し、狭量な復古主義ないしは反動にほかならないと指摘するかもれない。
本論文では、世界の先住民運動にみられる文化顕示に関するこれまでの分析から自由になり、その違った角度からの評価を試みたい。私の理解では、 第四世界と呼ばれる周縁部から、等級化された市民、最も端的には二級市民と呼ばれる、もっとも底辺に位置してきた人々が、近代国家に参入する際に、文化に まつわる諸権利について、先住民の個人と集団が共有する基本的人権のひとつとして重要な価値を見出すことのなかに文化顕示への動きがみられることに着目し たい。文化顕示の運動を観察、検討することを通して、我々は、(1)その国家の中心にいる人たちが不問にしてきた近代国家と市民の関係についての再考を余 儀なくされる。そして、(2)さまざまな局面ですすむグローバリゼーションのプロセスの渦中にある世界各地で、近代国家(=植民国家)と市民(=先住民) との関係について、大いなる社会的試みがおこなわれている可能性をみる。
本文は以下の3つの部分から構成される。
まず、今回の調査期間に遭遇した先住民表象にまつわるグアテマラ国内でのさまざまな動き、すなわち(I)現地社会での社会問題とその中における 先住民像の素描を提示する。それらの出来事は報告をうける部外者にとっては、一見エピソードの集積にすぎないかの印象を受ける。しかしながら、それらのな かに先住民表象がどのように提示され、また誰がどのように表象を理解し、その理解にもとづいて行動を起こすか、すなわち社会的に効果をもつのかということ を考える。そうすることで、先住民の表象が取り扱われている文脈の〈文化〉の政治力学が見えてこよう。
次に、グアテマラにおいて先住民言語に焦点が当てられてきた歴史的経緯を示す。そこでは(II)マヤ系先住民の言語がどのような形で、理解さ れ、取り扱われ、分析され、また文化顕示として使われてきたのかについて興味深い特異性について知ることができる。1996年の和平合意以降、多文化・多 言語主義を国是とするためにその後に創設、整備されてきたグアテマラ言語学アカデミー(Academia de Lenguas Mayas de Guatemala, ALMG)は、言語使用の実態把握、言語学的資料の集積、書記法の確立、文法規則の公定化、そして教育を通した次世代への継承という活動に従事してきた。 これらの前過程には先住民の知識人、北米の言語学者、そして両者のダイナミズムから生まれた現地の言語学者たちの活躍をみることができる。先住民言語の文 化顕示をめぐる物語には明確な歴史的社会的変化があることを確認する。
最後に、(III)先住民言語の文化顕示のように文化の要素——あるいは表象そのもの——が、その都度の社会的文脈や〈文化〉の位置づけをめぐ る政治力学のなかでどのように布置されているのかについて分析する。
2.事件にあらわれる先住民表象
私は、この調査研究プロジェクトにおいて2005年から2007年にかけてグアテマラ共和国マヤ系先住民、とくにウェウェテナンゴ県やサン・マ ルコス県を中心とした先住民の言語共同体と多言語が交錯する地域において聞き取り調査をおこなった。調査期間のうち2006年(グアテマラでの滞在は同年 8月13日から9月12日まで)において遭遇した先住民の文化顕示とそれに関する国家の対応に関する議論には以下のようなものがあった。この調査期間中に 遭遇し、かつ筆者が感心をもったテーマは以下の5点である。(1)先住民の慣習法に関する報道とそれにまつわるジレンマ、(2)教育改革に関する論争の展 開、(3)西部諸県の先住民コミュニティにおける鉱山開発反対の住民投票、(4)サン・マルコス県における大規模な麻薬掃討作戦、(5)エボ・モラーレス 大統領のグアテマラ来訪、の5点である。
2005年ならびに2007年の調査でえられた資料を加味して、これらのテーマのなかに先住民表象がどのように現れ、植民国家たるグアテマラ政
府がそれらに対してどのような政策をとり、メディアはそれらをどのように報道し、また人びとはどのようなコメンタリーをしたのかについて紹介する。
(1)先住民の慣習法に関する報道とそれにまつわるジレンマ
2006年当初よりPrensa Libre等の新聞報道において先住民の慣習法にもとづく処罰が多く報じられるようになってきた。報道された処罰の内容は共同体内における、窃盗や銃を 使った同胞への脅迫などに対する鞭打ち、誘拐容疑で逮捕された家族の共同体からの追放、子供の人身売買犯に対する砂利への跪きと(女性への)斬髪などであ る。グアテマラ政府はILO-169号条約について1996年に批准しているが、国内法では先住民共同体が処罰をおこなうことに関して明確な規定がない。 マヤの慣習法の実践は、それ自体がメディアの対象になりやすく、擁護論者にも批判論者にも等しく定式化(ステレオタイプ)した議論に陥りやすかった。
批判派の識者たちは、先住民の権利への誤解の解消と先住民権に関する法的整備や、処罰の司法権力への移管を強く勧めている。たとえば国連のグア テマラにおける人権高等弁務官アンドレス・コンパスは、先住民による慣習法的な処罰のうち極めて暴力なものは先住民の慣習法の実行に関する権利をすでに逸 脱しており、それは「マヤとしての権利を誤って庇護している」のだと批判する。他方、先住民護民官のマルティン・サカルショト(Mart?n Sacalxot)は、マヤの権利が長老会議やコミュニティ評議員たちよって実行されるひとつのシステムであるとしてこれを基本的には擁護している。しか し後者の擁護派の立場においても、そこに三審制を導入するなど、制度そのもの改善が不可欠であることを主張している。マヤの慣習法は尊重すべきであるが、 現状には問題が山積しておりじゅうぶんに改善の余地があるわけだ(Prensa Libure, 10 de septiembre de 2006)。
マスメディアにおけるマヤ先住民の慣習法の実施に関しては、報道そのものが鞭打ちや断髪など、扇情的な視覚表象が全面に出て、その慣習法の実施 にいたる経緯などについて詳しく触れられる機会は少ない。そのため先住民の当事者を含め、具体的なコメントを求めると十分に知らない場合は、当惑ないしは 異議が多く返ってくる。たとえば、マヤ先住民が残虐であるイメージというものは植民者やラディーノが長年の間に培ってきたものであり、「本来のマヤのも の」ではないという意見がある。このコメントを私に語ってくれた先住民の男性は、マヤの暴力的な処罰は過去500年の間に、異端審問や租税の不払いに対し て植民者が先住民におこなってきた残虐なやり方を、マヤ自身が後になって模倣したものだと言う。平和な先住民が、残虐な植民者の悪い面を模倣するに至った のが、慣習法の残虐な側面であるらしい。別のあるマヤ司祭は、実際に彼が経験した長老会議の運営が自分たち自身の文化に対して敬意と感受性豊かなものであ り、告発する側も処罰される側も、長い時間をかけて合意形成が達成できるまで議論されるもので、必ずしも人権を逸脱する残虐なものではないと反論する。ま た近代法による処罰が、犠牲者への賠償というものがほとんどなされず、また加害者の長期にわたる留置が残された家族への経済的負担ばかりをなすという点 で、マヤの慣習法の道徳的な利点を強調した。マヤ(ともにマム人である)の両者に強調するのは、メディアの報道はマヤの凶暴さを過度に強調するものである という点で一致している。新聞報道はマヤ民族が非合理的で凶暴であってほしいラディーノの欲望の反映ということになる。それゆえにマヤの慣習法に関する報 道は皮相的であるというのだ。
たしかにマスメディアは、長老会議における慣習法の実践と、地方における警察の腐敗によって司法機能が不能になった状態でしばしば生起する群集 暴動的なリンチ事件を「暴力的なマヤ・イメージ」として同じ次元で取り扱う傾向がみられる。
折しも2006年6月にウェウェテナンゴ県のアカテコ語が話されるサン・ミゲル・アカタンにおいてグアテマラ共和戦線党(FRG)の市長 Pasqual Tomas Jos? が市中の治安の乱れに対して84項目の「犯罪」——その中には児童虐待、飲酒放浪、器物損壊のなどの他に夜間の飲酒販売、教師の職務怠慢、家庭調和を乱す 者、男性のピアス・入れ墨・長髪、午後9時以降の往来などが含まれる——を独自に定めそれらを犯したものに対して制裁措置をおこなうことができる独自の 「法律」を市の当局者と104名の住民(アカタンの人口は約2万2千人である)の間で締結した。それゆえ、多くの住民を拘束——最初の犠牲者はそのような 条例を知らない近隣の町の先住民であった——したり、制裁金を科したりするという事件が発生し、地域に大きく報道された。共同体内部における暴力排除や秩 序の取り戻しに対して国家の法とは別のシステムを発動させることに対する報道は、先の先住民の慣習法的制裁に対する違和感を「凶暴なマヤ」——ただしこの 場合は「凶暴な市長」——を通して表現されている(Prensa Libre, 6 de septiembre de 2006の記事および風刺画[コラム]を参照)。
挿画:Prensa Libre の著名な挿画作家 Fo ことAlfredo Morales による風刺画「サン・ミゲル・アカタンにおける司法=正義」:法の女神(ユスティシア)の剣で女性先住民の髪を切る市長(Alcalde)と、自警団と思 われる男性は「ここに跪け」と言いながら同じく女神の秤から奪った砂利を地面に敷いている。
(2)教育改革に関する論争の展開
文部大臣 Maria del Carmen Ace?a (当時)が進める初等教育の有償化や民営化路線に対する教員組合および学識経験者の反発は強く2005年頃より頻繁に抗議行動が行われた。その中でも 2006年2月9日の抗議行動では、全国から招集された学校教師たちが、大統領府前の憲法広場をほぼ埋め尽くした。デル・カルメン・アセーニャ大臣は就任 直後から教育の変化(transformaci?n educativa)を政策目標として掲げ、教師の質の向上や教育のインフラ整備を唱道してきた。またその改革には、2004年の時点で初等前教育の普及 率が44%であったものを、2005年から4年間に75%から100%に上げるなど具体的な数値目標をあげた。任期の後半ではジーグフリード・エンゲルマ ン考案による本国でも論争が絶えないダイレクト・インストラクション(DI)の教育手法を導入すべく米国から専門家を呼び試行的カリキュラムを実験してい る。彼女は教師の実績評価制度を導入し、本人および第三者評価にもとづいて昇給水準を決める効率化のための手法も導入した。
それに反発する教育組合や在野の教育改革論者の主張は以下のようなものである。初等教育の無償の維持と教育の質の発展維持、初等教育の民営化の 動きへの反対表明、(教育の変化政策で一番遅れていると言われている)多民族・多文化・多言語教育の具体的な実施、初等教育から高等教育にかけた首尾一貫 した政策の必要性、社会改革の一環としての教育改善への国民的コンセンサスづくりである(”Es necesario impulsar reforma,” Prensa Libre, 11 de septiembre de 2006.)。
(3)鉱山開発反対の住民投票
2005年6月18日のサン・マルコス県サン・ミゲル・イシュタウァカンでの米国グラミス・ゴールド社(モンタナ鉱山開発)による鉱山開発「マ ルリン」(Proyecto Glamis Gold Marlin)を拒絶する、サン・ミゲルに隣接するシカパカの住民投票(5)以降、サン・マルコス県やウェウェテナンゴ県の各先住民自治体での投票が相次 いだ。その例として2006年8月29日のサンタ・エウラリアでの住民投票があげられる[別記コラム参照]。"No a la Miner?a [de Metales]"という標語で有名になったこの運動の、サンタ・エウラリアで私がみた鉱山開発反対のポスターはノルウェー教会が支援するマドレセルバが 資金提供していた。都市の書肆にはグアテマラの天然資源に関する書籍が売られ活動家の1人は、私にその本[Solano 2005]を見せて資源の外国人への売り渡しについて勉強しているところだと説明してくれた。
[写真キャプション]サンタ・エウラリアのいくつかの家族は、この地域の鉱山探査と開発に関する住民投票(consulta
popular)にでかけたばかりである。 【鉱山】総計1万8千89の住民が認可に反対の表明 —— 住民投票結果 首都へ(Traen resultados)—— 【ウェウェテナンゴ】マイク・カスティージョ署名記事 サンタ・エウラリア発:当地の79のコミュニティにおいて一昨日実施された住民投票の結果で1万8千のカンホバル人の居住民は、ウェウェテナンゴ県におけ る鉱山探査と開発に不同意であることを表明した。 コミュニティの指導者であるリゴベルト・ファレスは、1万8千89人の住民がノー、5人がイエスと答え、62人が無効ないしは棄権であったと報告した。 サンタ・エウラリアの市民ホール(sal?n municipal)には投票情報が集約集計された。 投票所はそれぞれのコミュニティに設置された。そこでは立会人による管理のもとで、住民が申し立て制度によってその一票によって意見表明し、投票の真正 性を証明する記録簿に登録された。 それぞれのコミュニティからなる代表から構成された住民代表団は、昨日首都にむけて旅立ち、国会議員におよび鉱山エネルギー省の当局者に接見し、投票の 諸結果を報告するために本日集結することになっている。 「ウェウェテナンゴでは我々が鉱山[開発]を望んでいないことを政府が理解することを我々は望んでいる。なぜなら鉱山は自然環境(la naturaleza)に害をもたらすからだ」と、匿名を希望する住民の一人は指摘した。 今年になって、サン・ファン・アティタン、コンセプション・ウィスタ、トドス・サントス・クチュマタン、コロテナンゴ、サンティアゴ・チマルテナンゴの 住民たちもまた鉱山[開発]について拒絶している。 『プレンサ・リブレ』紙、2006年8月31日 |
(4)サン・マルコス県における大規模な麻薬掃討作戦
サン・マルコス県の山岳地帯(タフムルコ、イシチグアン、テフトラ、コンセプション・トゥトゥアパ、サン・ミゲル・イシュタウァカン)で大規模 な芥子(けし)栽培が発見、2006年8月30日にその栽培組織の大物中の大物コルネリオ・チレル(Cornelio Chilel)容疑者が摘発された。投入された人員は800名の警察官、300名の兵士、23名の検事、3名の判事が同行している。芥子の栽培に関する情 報は、そのアメリカ大陸におけるその最大の消費国の米国政府の取締当局からの衛星写真による情報提供によっている。都市スラムにおける薬物濫用と南米から 北米への麻薬交易ルートの中継地としてのグアテマラでは、麻薬取引に関する種々の犯罪が報じられない日はない。
マム系先住民が多く住むサン・マルコス県は、ハリケーン・スタンの最大の被災県であり、同時に低開発地域である。内戦時代のゲリラの山岳ベース が存在したように遠隔の地であり、近年治安が悪い。私の知人の父親も同県の村落部において強盗団の嫌疑をかけられリンチ寸前になり収監されたことがある。 収監に纏わる自治体と警察のスキャンダルを暴露しようとした私の知人は、のちに電話による脅迫を受け地元警察の監視下のもとにありながら代償金を強奪され たという痛ましい経験をしている。
さて件の麻薬王チレルは翌年の2007年7月23日に収監先のケツァルテナンゴから、全く不可解な理由で麻薬栽培地の近隣の小さな町タカナに護 送途中で、武装集団により奪還された(=逃亡した)。同年2月に起こったエルサルバドル議員殺害にからむフティヤパの麻薬コネクションの関係者の逮捕、容 疑者の組織犯罪担当(DINC)の警官たち4名のボケロン刑務所での殺害。これにつづく5月のカルロス・ビルマン内務相の辞任。さらに国家警察長官、国家 刑務所システム長官の相次ぐ辞任。これらの一連の出来事から、チレル逮捕に関わった警察や軍関係者への報復の畏れから、当局が自作自演の(なぜなら犠牲者 は皆無であった)解放劇をおこなったのではないかと、地元の識者たちは噂をしていた。
グアテマラのスペイン語で麻薬の運搬屋・栽培者・交易ディーラーなどを総称するnarcotraficante あるいは単純にナルコ(narco)という名称は、サン・マルコス県では極悪人やマフィアと同義語であり、政敵を罵倒するための決まり文句でもある。しか し同時に、その当事者たちの実態とは無関係に、多くの人びとは「貧しい山間部での農民の味方でもはや彼らとは無縁で生きていくことができない」山村の窮状 こそがnarcoという魚たちを生きながらえさせる水源であることに誰も異論を挟まない。ナルコたちが生息せざるをえない社会状況を想像し共感すること を、サン・マルコスの人たちはほとんど苦労することなくやってのける。
(5)エボ・モラーレス大統領の来訪
2006年9月12日ラテンアメリカ先住民基金第7回国際会議のためボリビア大統領エボ・モラーレスがグアテマラを来訪した。モラーレスは同年 1月22日に大統領に就任したばかりで、ボリビアの大統領選挙中でのグアテマラ国内での報道については国際欄で簡単に報道されるにすぎなかったが、大統領 就任後は、彼の出自であるアイマラ先住民のスタイルでの演説や伝統的儀礼への参加の写真がグアテマラ訪問の直前から大きく報道されるようになった。また、 彼はボリビアのチャパレ(Chapare)(6)でのコカ栽培者たちの労働運動に参加していたこともあり、先住民としてのコカ栽培の合法化論者でもあっ た。しかし、グアテマラ訪問におけるモラーレスの姿は、むしろ先住民大統領ということで、リゴベルタ・メンチュとの対比がされるかたちで報道されていた。
モラーレスは、グアテマラ国会での招待演説で米国のラテンアメリカ移民の政策について批判し、親米のグアテマラの政策に注文をつけた。
先住民の日が制定されている8月9日前後はグアテマラにおいてはマヤをはじめとする先住民会議などが開催され、メディアの報道も政治に関わらな い文化的側面に関する報道が増える。他方で、その偏った報道にメディアみずからが均衡を取るかのように、先住民の人権擁護に関わるマヤ護民官 (Defensor?a Maya)のコメントを掲載する。グアテマラでは基本的人権への侵害が引き続き起こり、政治的・経済的・法的にさまざまな不利益を被る現状と多文化主義政 策をとらない政府の対応を護民官のメッセージを通して報道する。
以上が2006年の調査期間内に起こった事件であり、ここで私が関心をもって報告するものである。それらの出来事は報告をうける部外者にとって は、相互に十分な関連性をもたないようにみえる。だが、先住民表象が見え隠れする点では共通した話題だ。それらのテーマは解決済でもないし、類似の事件が 繰り返し起こる。それぞれにみられる先住民表象の要素がお互いに関連性をもちながら、現在進行形としての先住民に関わる社会問題を形成していると言えよ う。
このような諸事件を羅列しても、それらの要素の間に伏在する関係はなかなか見えてこない。そのため次節では、角度を変え、言語に焦点を絞り、そ の研究がどのように生成し、現在に至っているのかという変化を追いかけてみよう。これまでに述べた文化的要素の断片の布置を整理するため、現象を時間的展 開のなかで捉えることが次節の目的である。
3.マヤ運動による言語研究の活性化とその影響
マヤ運動や汎マヤ運動(Movimiento Maya/ Pan-Mayan movement)あるいは、フィッシャーとブラウン編による著名な論文集の書名から借りるとMaya Cultural Activism という1990年代から非常に活発化してくる先住民社会運動において、マヤの先住民言語の維持と継承は非常に重要なテーマでありつづけている [Fisher and Brown 1996]。先住民言語が維持されるためには、言語使用の実態把握、言語学的資料の集積、書記法の確立、文法規則の公定化、そして教育を通した次世代への 継承ということが不可欠である[太田 2001:167-174]。自分たちの言語の消失に対する危機感を感じ、それを維持/復権し、公定化しようとする人々を、Joshua Fishmanは言語忠誠運動(Language Loyalty Movement)と呼んだ[Brown 1996]。
人間の生活にとって不可欠であり、その維持継承について普通は問題化されない先住民族の言語の使用というが、なぜこれほどまでに重要になってき たか。それはマヤの人たちにとって、生活に密着してきた言語が、先住民文化のもっとも強力な文化表象すなわち、先住民性にとっての強力な指標に他ならな かったからである。それゆえに、先住民性を否定する植民者・独裁者・近代主義者・ならびにネオリベラル論者からは、先住民の価値下落のために言語使用の卑 俗さ、言語としての完成度の低さや非論理性、家庭用すなわちドメスティックな言語、普遍性をもたないヴァナキュラーで汎用性に欠ける言語、近代化により消 滅する言語、および経済的成功には無縁の言語であるという俗説があたかも真実のように取り扱われてきており、今日においてすらスペイン語の「方言」という 偏見が流通している。
ラディーノによるマヤ言語の否定がこの典型で、これは先住民言語に関する現地の知識人や一般庶民の間でのステレオタイプになってきた。すなわち 「マヤ言語は方言(dialecto)である」「マヤ文法は、スペイン語文法の亜流——「贋のスペイン語」——であり、独特の文法体系をもたない」。これ らは、言語学者たちが、マヤ語言語が能格言語であるというユニークさを特に強調するのとは好対照をなす。また、マヤ語独特の声門閉鎖音 (glottalized)などの特徴的な発音を理解できずに正常でない奇妙な発音(動物や鳥の鳴き声に擬される)であると難ずる者もいる。もうひとつの 先住民言語の否定表現は、家庭内と公的な場におけるバイリンガル的使い分けの実態を知らずに、先住民言語が公的な場で使われなくなったという観察にもとづ いて、先住民言語の存在を無自覚的に否定していることもある。
しかしながら1980年代以降、マヤ言語についての知見は、北米の言語学者と彼らが指導する言語学教育を受けたマヤ人たちの協働作業により、急 速に発展する[本論文末の年表を参照]。考古学者によるマヤ碑文の研究は早くから始まっているが、現代マヤ言語の表記法は、1950年代に Instituto Verano Ling?istico / Summer Institute of Linguistics (SIL)とInstituto Indigenista Nacional(IIN、グアテマラ先住民局)による聖書翻訳を通した布教から始まったと言われる。SILは1934年にウィリアム・キャメロン・タウ ンゼントが始めたプロテスタント系宗派のひとつである。この宗派の教義は、世界のすべての言語において新約聖書の翻訳が完成する時にイエス・キリストが光 臨すると解釈していることにある[SIL online]。今日において、世界各地で布教活動を目的としてさまざまな福祉サービスを提供すると共に言語学データの収集に基づいて表音文字化し、そこ から聖書を現地語に翻訳しているのがSILである。しかしながら、創始者のタウンゼントは1919年にすでにグアテマラのカクチケル語の先住民地区におい て住民教育に携わっている。そのためカクチケル語によるSILの聖書翻訳は、他のマヤ語のそれよりも最も早い時期におこなわれ、出版された。
他方、1940年のインターアメリカン・インディヘニスタ会議(パツクアロ会議)の結果として、メキシコとグアテマラではインディヘニスタ政策 にもとづく先住民局の設置がもたらされた。グアテマラでは革命後の翌年の1945年に設置され、Antonio Gouband Carreraが局長に就任した。先住民局の政策は要約すると先住民に対する次の3つのテーゼを基調としている。すなわち、1.先住民の経済的ならびに社 会的脆弱性の認識、2.先住民の国民文化への統合の必要性、3.先住民文化の積極的評価である。メキシコにおける先住民庁(Institute Nacional Indigenista, INI)とはことなり、グアテマラでは、1. の先住民の経済的ならびに社会的脆弱性は、それほど意識されず、設立当初はもっぱら、2. の先住民の国民文化への統合が政策の中心となっていた。しかし、後の研究者によると先住民局は十分にその機能を全うせず、1960年代に唯一、先住民文化 に関するさまざまな報告が出版されたにすぎなかったといわれている。ちなみにこの時期1960年代には教育省がSeminario de Integraci?n Social という一種の文化局な組織を設置し、北米の文化人類学のモノグラフや理論的論文(例えばAmerican Anthropologist収載のもの)のスペイン語版翻訳物を多種多量に出版した。
1952年にSILの援助で先住民局がグアテマラでの先住民向けの初等教育の教科書の配布と教員への研修をはじめた。その際に、宣教師でもある SILの言語学者たちはマヤ語のコミュニティの方言の差異に即したマヤ語の表記法を作成することに着手した。
他方、先住民側からは自らのポポル・ブフの翻訳を通して文芸復興をめざしたトロニカパン県サン・フランシスコ・デル・アルト出身のアドリアン・ イネス・チャベス(Adri?n In?s Chavez)によって、すでに1945年にキチェ語で表記法を提唱していたが、チャベスの表記法は、彼に私淑する弟子たちの間でしか普及しなかった。し かし彼のマヤ語に対する情熱は生涯変わらず。またその弟子たちの相互の紐帯はつよく、1949年には第1回国民言語学会議を開催し、1959年にはマヤ・ キチェ言語アカデミーを創設するにいたる。このような先住民の知識人の地道な活動により、1970年代前半にはチャベスの活動基盤になったケツァルテナン ゴ県はマヤ先住民によるマヤ人のためマヤ言語学研究の中心地になった。
さて、北米人類学者による言語研究は、70年代以降、テレンス・カウフマン(Terrence Kaufman)、ノラ・イングランド(Nora England) らの北米言語学者たちと彼らをグアテマラ側で受け入れたフランシスコ・マロキン言語プロジェクト(PLFM)による記述言語学上の蓄積を通してはじまると 言えよう[太田 2001:174-180]。このプログラムが我々にとって大変興味深いのは、北米言語学者たちが、若い先住民の人たち——主に初等教育の教師たち——に 基礎的な記述言語学の知識を授け、彼らが共同体に戻った時に、自分たち自身で言語学の調査ができるように育てたことにある。この努力の結果、1975年に はフランシスコ・マロキンの指導部に先住民出身の言語学者が就任することになった。また北米言語学者たちは、歴史言語学的分析手法の導入により、マヤ語の 祖先型であるプロト・マヤ語を再構成し、かつてSILが固執していたコミュニティレベルのみで通用するマヤ語表記を、標準語化を可能にする一般的な表記法 を考案し、提唱するに至った。
PLFMの主任言語学者であったカウフマンは、それまでの誤って教えられていた、マヤ言語の発音体系をスペイン語のそれに当てはめるという自民 族中心主義的な手法を矯正し、近代言語学にもとづく教育法を導入すると同時に、地方共同体ごとのSILによる言語表記法を批判した。グアテマラのSILの リーダーたちは、これに対抗してアメリカの本部に対して、新しい表記法の開発を要請した。この当時PLFMにより研修をうけたマヤ先住民の数は80名を超 えるといわれ、カウフマンが指導したマヤ語の表記法と言語学的手法にもとづいて文法・辞書編纂に従事している。
これらの出来事は、結局のところヴァナキュラーな文法規則を超えて、同一言語集団間での意思疎通をより円滑するための標準文法づくりや語彙の統 一化へと結実することになる。専門の言語学者から出発した、このような運動はきわめて特異的である。なぜなら、日本の国語教育や韓国における訓民正音(ハ ングル)のように、国家における言語の標準化のほとんどは国家や王朝からなされ、言語の標準化が母語の使い手自身からコンセンサス形成を通して決まってい くことは未曾有の経験に他ならない。
このような歴史的経験を経て、過酷な内戦状況が沈静化する1984年には第2回国家言語学会議が開催され、これを契機にグアテマラ・マヤ言語ア カデミー(ALMG)が今日公式に認められた表記法を採用することになる。同アカデミーは1990年の政府系の独立法人になり、現在に至っている。この 1984年の会議とは、1949年のチャベスが招集した第1回目の会議を歴史的に継承するものと記憶されており、この会議に参加したマヤ(グアテマラ)の 言語学者や教育学者たちは、マヤ語の復興におけるチャベスの歴史的意義の顕彰とその歴史的継承を最重要視していることがよくわかる。
他方、国家はマヤの先住民たちをスペイン語化するためのバイリンガル教育を60年代に開始したが、言語表記法を通して先住民性を取り戻してきた マヤの人たちの先の運動とは逆のモーメントをもつと言える。すなわちインディヘニスタの政策を踏襲しつつ、バイリンガル教育とは国民統合のために、モノリ ンガルのマヤ系先住民にスペイン語の運用能力をつけさせるための導入のためにおこなうというものである。そのためバイリンガル教育は初等教育の初期だけに のみ使われ、バイリンガルの先住民教師によっておこない、その後の高学年の教育はラディーノの教師たちによってスペイン語の運用能力の向上を図るという計 画にほかならなかった。
バイリンガルによる初等教育に関しては、実はSILよりも政府教育省のほかにカトリック教会が大いに協力した。カトリック教会は1940年代末 から、村落の反共と近代化をめざすアクション・カトリカという刷新運動をマヤ村落で開始した。当初は、カソリックのカテキズモを徹底化させ、プロテスタン ト布教への歯止めと、マヤの伝統宗教の廃止を目指していたが、1960年代後半からは宗教的実践よりも、社会運動のほうにその力点が移動してくる。そこで は協同組合、学校教育、保健センターの設置などが行われることになる。カトリック教会は、バイリンガルの先住民教師を養成するために多くの奨学金を交付 し、先住民の優秀な子弟を師範学校に送り込んでいった。しかし皮肉なことに、この子供たちは、彼らの形成途上の師範学校でラディーノの教師や生徒たちから 過酷な人種・民族差別を受け辛酸を嘗めた。その結果、皮肉なことに、1980年代にいたって、マヤ言語の復権が謳われた時に、自らの文化復興の重要性に目 覚め、村落で最初に反応し、また文法書の整備や標準語化への協力を惜しまなかった。他方で、先住民のバイリンガル教師たちは、内戦の後期においてはゲリラ のシンパサイザーの嫌疑をかけられ、拷問や殺害の対象になり、多くの人が命を失った。
●これはヨーロッパ中世のカテキズム(カテキズム)の様子
1996年末の内戦の和平合意後においては、グアテマラが民主国家化するための要件として多民族・多言語・多文化性の承認とともに、バイリンガ ル教育において提供側と受け手側では微妙に齟齬が生じていった。現在、文化ならびに教育関係の省庁に先住民出身の人たちが僅かずつ参入していき、先住民族 の文化を理解することのなかに言語教育の重要性が認識されるようになった。今日では、バイリンガル教育は和平合意後の多文化・多言語・多民族政策の具体的 な遂行として位置づけられ、内戦終結以降の教育改革にとって重要な課題と位置づけられるようになった。
しかし他方で、近年の北米への移民労働者の増大による経済の復興などを通して、ネオリベラル経済主義の影響を受けた新しいラディーノ官僚や商工 会議所のエリート経営者たちの登場により、伝統的な先住民文化の尊重や先住民言語の使用は、新しい社会経済体制においてはそぐわないものとされた。先住民 文化や言語はグアテマラ国民国家の〈栄光の遺産〉すなわち記念碑的な添え物としてのみ扱われるようになりつつある面についても指摘する必要がある。ネオリ ベラル主義流の主張によると、グアテマラにおけるバイリンガル(bilig?e, biling?ismo)とは、英語とスペイン語を流暢に操る話者のことを指し、新しい時代のビジネス・パーソンの資質とされるようである。この新しい思 想について、マヤの人たちにもその影響力は無視することができない。たとえば、現地のマヤ語と第一の国家公用語でありつづけるスペイン語を流暢に話す先住 民の人に、その人の素晴らしいバイリンガル能力について我々が指摘して、彼らははじめてその「事実」を自ら発見することを私はなんども経験してきた。しか し、そのような先住民の能力とプライドを理解する「事実」は、いまだ公的な言説としては流通していないのが現状だ。かつてラディーノたちが声高にスペイン 語に対するマヤ語の劣等性を主張していたが、今日ではグローバルなビジネス・スタンダードという理想が、マヤ語の使用をナンセンスなものとする。このよう なネオリベラル主義の価値観は、マヤ人たちの文化顕示としてのマヤ諸語をより洗練させていこうとする価値観とさまざまな局面で衝突する。
このように、言語使用を先住民性の標識としてみても、その重要性を誰が主張し、どのように利用を促進していくのか、またその利用がより上位のコ ンテクストのどのような評価を受けて流通していくのかということを峻別しないかぎり、文化顕示(heritage work)がグローバル化した世界のローカルな文脈のなかで多様な政治実践になりうることが見えてこないように思われる。そこで、マヤ言語の使用をめぐる 価値観の多様性についてのおおまかなアウトラインを占めそう。
それはマヤ語という言語に直面したコミュニティ(共同体)の外部の人と、他ならぬ言語使用者との間にできた〈言語の取り扱いに関する当事者間の 合意〉に関する多様性であった。生活の中で母語を自然に使用するのではなく、母語の使用者の助けを借りて理解不能なものを理解可能なものにする過程でもあ る。別表に掲げたように、布教、文化政策、自らの文化アイデンティティの復興、国家教育などさまざまな目的のために言語を理解し、使おうとする歴史的変遷 でもあった。ただし、マヤ語に与えられた地位や、そのことにもとづいてマヤ語に取り組もうとしてきたエージェントは歴史的変遷をたどるが、人はその目的に 従って、これらの表にあげたさまざまな言語の機能を活用しようとする。したがって、それらはすべて現在同時進行する活用の実態に関する多様性を示すもので もある。
【以下は表[画像]にあるテキストデータです】
マヤ語の地位(エージェント) 機能 利用者 流通 評価 |
4.マヤ民族とその表象の位相
私が第2節で述べた「報告書」の中のメモランダム風の記述にみられるそれぞれの先住民表象、すなわち、(1)先住民の慣習法に関する報道とそれ にまつわるジレンマ、(2)教育改革に関する論争の展開、(3)鉱山開発反対の住民投票、(4)サン・マルコス県における大規模な麻薬掃討作戦、(5)エ ボ・モラーレス大統領の来訪を、さまざまな文化表象の幾つかの弁別的要素の組み合わせの中で位置づけられるならば、それらの要素がどの程度近接し、また、 どの程度乖離しているのかについて明らかにできるはずである。
そのための、それぞれの文化的要素あるいは文化的テーマの配置に関する分析のためのひとつの仮説が別図である。この図の縦軸での、上方の極はそ のテーマと先住民性との強い結びつきが強調されるものであり、下方の極は正反対に先住民性をそのテーマのなかに認めにくいというもので構成される軸であ る。ネオリベラル政策をとるラディーノがヘゲモニー(あるいはより直截的には権力そのもの)を握る国家であるグアテマラでは、先住民性は単に標識として識 別されるだけでなく、文化的価値観をもって峻別される。
グアテマラ国家がマヤ先住民と対峙する時に、もっとも気がかりなのは、少数派であるラディーノが国民統合による運営に多数派の文化表象をどのよ うに取り込むのかというものがある。そもそも混血の末裔であるメスティソすなわちラディーノは、ヨーロッパ起源の植民者と先住民という2つのルーツをも ち、そのことは十分に自覚されている。にもかかわらず植民地からの独立以降もラディーノは人種政治において植民者の役割を継承し、自らの先住民性を忘却・ 否定することでアイデンティティを保持するようになった。他方、先住民アイデンティティは、アプリオリというよりも国民国家化に抵抗したり交渉したりする 過程の中で育まれてきた。このような両義的な感情はラディーノの人種意識が、自らの属性の一部として具有し、かつ同胞であるとも言える先住民の文化要素に 対して賞賛と抑圧という分裂した態度の中に表出する。したがって、ラディーノの文化政治におけるマヤ先住民の表象は端的に言うと、国民統合の政策に都合の よいマヤの文化表象すなわち〈よいマヤ民族〉と、画一的な国民統合のイメージにそぐわないマヤの文化表象すなわち〈わるいマヤ民族〉の価値の左右に分裂せ ざるを得ない。ちょうど9/11以降、当時の米国大統領ジョージ・ブッシュ・ジュニアが「テロとの戦い」を正当化するためにイスラム教徒をこの「よい/わ るい」という二分法に分類したように[マムダーニ 2005:15-16,302]、グアテマラ政府やメディアにとってその国民の多数派をしめるマヤ系先住民は、その統治に都合のよいマヤ民族と共同歩調を とることが国益になると考え、わるいマヤは統治のための弊害と考えるようになる。これらの分裂傾向は、その傾向性として水平の軸の間にそれぞれの文化の要 素を位置づけることができる。
もちろんこれらは、図に固定されつづけるようなスタティックなものではない。調査期間を通して、それぞれの座標の方向に動くモーメントのように 微妙な力学が働いて移動しつつあるように思える。つまり、これらの動きはある植民国家の歴史が直面する必然性として見るべきものではなく、むしろ植民国家 の歴史がもちうる蓋然性つまり、さまざまな形を持ちうる社会の一種の可能態として、具体的なフィールドワークを通して我々が読み取るべきものであると思わ れる。
5.結論
〈わるい〉マヤがラディーノにつきつける中心的な主張の中には、西洋=植民者への批判というメッセージがあるために、むしろ自分たちの主張に耳 を傾けるグアテマラ以外の聴衆を意識した反植民地主義的な主張に多く彩られている。そのような(呼びかける相手と耳を傾ける相手の)矛盾は、グアテマラ国 内でもっとも脅威を感じているラディーノの保守派あるいは先住民嫌悪の感情からみると、きわめて狭量な原理主義、本質主義に映る[e.g. Morales 1998]。他方、マヤの本質主義的主張を認める/認めないにかかわらずマヤ運動を見守る研究者にとっては、たしかに居心地は悪くないポジションである。 それは今日においては、マヤ問題はマヤの先住民の主張の難しさではなく、それを受け入れる(べき?)ラディーノ国家がまだ国内問題としての先住民の権利を 認めていないことに起因し、外国人研究者にとっては、自分たちに疑問を突きつける問題系として登場していない証左であるかもしれない。
マヤの人たちの存在様式という自己主張をめぐる研究が、グアテマラ国内における人権問題であるという研究の枠組みを超えて我々に対して興味深く 感じるのは、それを外国の研究者としてどのように理解し、自国の人たちにどのように伝え、どのように関わるべきなのかという問題を、実践的関与という標題 を掲げなくても、常にフィールドワークを通してマヤの人たちが突きつけてくるからである。
マヤのグアテマラの場合は、そのようなマヤ運動の文化概念の形成にとって、グアテマラの国外から入った言語学や文化人類学が貢献している。この ような文化=政治運動における文化人類学の貢献は、これまでの植民地状況下における先住民の統治制度に関して適切な助言をおこなうことを期待されたり、逆 に人間の多様性の証明という文化相対主義的な使命をおびた現地資料の収集をしてきたりした、従来の文化人類学の活動とはまったく違った学問像の可能性を [学問実践を通して]提示している。グアテマラと同様、コロンビアのように先住民運動の活動家や地元の研究者への暗殺が日常化するなかでは、そのような新 しい社会関与のスタイルが求められるのはなおさらである。[Rappaport 2005]。
ネオリベラル理論家の中には、多文化主義や人種差別反対は、ネオリベラルの主張と軌を一にするので、それまでの経済体制同様に先住民への抑圧が 続くということは今やありえないという楽観論的な主張がある。なるほど言いかえると、ネオリベラルの問題系においては、民族や文化の差はグローバリゼー ションの過程の中で消失してゆくので、文化や民族の差異に関する関心そのものがないということに過ぎない。ネオリベラリズムにおける人間観は、文化的アイ デンティティをもつ主体ではなく、経済的自己決定権をもち、自由競争のもとで自分の努力と能力を使って経済的に豊かになる主体を想定しているからだ。また それ以上に、ネオリベラル思想は、先住民の考え方とは連結しにくい。そういう状況にこそ政治経済において周縁化された先住民は、容易に〈よい/わるい〉の 相互排他的なイメージの二元論のなかで容易に〈わるい先住民〉として分類されてしまう。
そのようなステレオタイプの悪循環から逃れるための方途は、この思想的単純化から自由になることに他ならない。マムダーニ[2005:299]が指摘する
ように、単純な善悪の二元論の呪縛から距離をおき、対話にもとづく和解を模索することにある。2006年に2度にわたる対立候補である愛国党
(Partido
Patriota)のオットー・ペレス・モリーナ元将軍とのデッドヒートになった大統領選挙を勝ち抜いて勝利した国民希望同盟(Uni?n
Nacional de Esperanza,
UNE)のアルバロ・コロン・カバジェーロスは2007年1月14日の大統領就任演説で「国民和解」をキーワードにして、(i)地域[分権]化、(ii)
生産性、(iii)統治性、(iv)連帯、という4つの国家プログラムを提示した。先住民文化の尊重については連帯のプログラムで触れられていたが、それ
はこれまでの政権の公式見解を超えるほどのものではなかった[Gobierno
de Guatemala,
online]。これは21世紀に入って以降、米国のグアテマラ労働移民からの送金と自由貿易協定のもとでの経済成長を維持している国家元首が、国民の多
数を占めている先住民に訴えかける就任メッセージとしては、私にとってはいささか落胆すべきものであった。ネオリベラル経済の文脈においては、国家にとっ
て〈わるい〉ものを含めても、先住民や文化は重要な要因にはならないものになってしまったのであろうか。
しかしながら、マヤ系先住民のうちでもさらに「辺境」に住むサン・マルコスやウェウェテナンゴの村落民からみれば、国家元首が替わったぐらいで 自分たちの政治的、経済的状況に大きな変化がもたらされるだろうという期待をもつほうがどうにかしていると笑われるだろう。植民者のパターナリズムに期待 することは馬鹿げているからだ。本論文で言語表象の社会的地位がさまざまな変遷を遂げながら多様性を獲得していったように、先住民社会そのものも、我々の 想像以上に国家やグローバル経済といった外部環境の変化に柔軟に対応してゆくに違いない。そのような事態についてより明確に説明をするための次の我々の課 題がグアテマラの先住民社会と国家の関係になかには山積している。
註
文献
2
3
4
5
6
7
8
9
【以下は年表[画像]中のテキストデータです】 附表:グアテマラの「先住民と国家、および先住民言語」に関する年表 年 先住民と国家 先住民言語 |
出典:『先住民の文化顕示における土着性の主張と植民国家の変容』平成17年度〜平成19年度科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告 書(研究代表者:太田好信)、(担当箇所:池田光穂「グアテマラ社会における先住民表象のダイナミズム」Pp.89-116)平成20(2008)年5月
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099