かならず 読んでください

「語り」は出来事そのものである

Le récit n'est pas la relation de l'événement, mais cet événement même

池田光穂

語りは出来事の報告ではなく、出来事そのものである (Le récit n'est pas la relation de l'événement, mais cet événement même)

Cependant, le caractère du récit n'est nullement pressenti, quand on voit en lui la relation vraie d'un événement exceptionnel, qui a eu lieu et qu'on essaierait de rapporter. Le récit n'est pas la relation de l'événement, mais cet événement même, l'approche de cet événement, le lieu où celui-ci est appelé à se produire, événement encore à venir et par la puissance attirante duquel le récit peut espérer, lui aussi, se réaliser. (Blanchot 1959:13)

「ところで物語のこのような性格は、人々がそのなか に、現実に起りそれを伝えようと試みられている或る例外的な出来事の報告を見ている場合は、けっして予感されてはいない。物語とは、出来事の報告ではな く、出来事そのものなのである。この出来事への接近であり、この出来事が、未だなお来たるべきものであるような出来事として、生まれ出でることを求められ ている場所である。物語そのものもまた、その吸引力を通して自己実現を期待するような場所である」(ブランショ[粟津則雄訳]1989: 10)

「言葉ができごとの中に読み取られるように、できご とは言葉の中に閉じこめられている」——テルトゥリアヌス(Quintus Septimius Florens Tertullianus, ca.160 - 220)引用は[クロソフスキー2008:185]

 Credo quia absurdum(不合理故に我信ず)は彼の言葉でなく、次のように言ったのが彼の言葉とのことだ:"et mortuus est dei filius: prorsus credibile est, quia ineptum est. et sepultus resurrexit: certum est, quia impossibile."- "De Carne Christi", Quintus Septimius Florens Tertullianus:「そして、神の子が死んだということ:これは信じなければならない、なぜなら無意味なことだからだ。そして、彼は墓に葬られ生 き返った、これは事実だ、なぜなら不可能なことであるからだ」

・(クロソフスキー経由の解釈によると)モーリス・ ブランショの主張は、「言語は存在そのものである」ということになる。

「美しい物語に耳をかたむけるがよい。君は、これを ひとつ寓話だと思うだろう。だが、私に言わせれば、これはひとつの物語なのだ。これから君に話すことを、私はひとつの真理として話すつもりだ」——プラト ン『ゴルギアス』(523)

■経験としての物語

ドイツ語のゲシヒテ(Geschichte)とは、 起こる(geschehen)という 動詞から派生して、起こったこと、出来事を意味するが、それは術語としての歴史をも意味する。歴史とは物語であると同時にすでに起こった出来事だからであ る。それゆえ、今後起こりえることは歴史とは言わない。今後起こりえることを、すでに起こった歴史から説明することを、時間を未来に向かって脱臼させる (verrenken)ことである。この歴史からみると、物語は経験に刻印された時間そのものである。

■文学研究と物語論

・アリストテレス『詩学』

・ローマン・ヤコブソン:詩の音構造

・ウラジミール・プロップ:民間説話(民話)の形態 論

・ケネス・バーグ:戯曲における『動機の文法』

・ロラン・バルト:読者が作品の意味をつくりあげて ゆく『物語の構造分析序説

■バルト『s/z』:バルザック『サラジーヌ』をも とに、小説が5つのコードからなりたつ解釈の相互作用を通して意味を獲得する。

テクスト:コードの束の集積、解釈者(α):コード の抽出と分類、解釈者(β):コード間の相互作用の解析

もしテクストが、多重な意味のコードが無かったとす ると、読者はただたんにストーリーを受け取るだけだ。《多重な意味のコード》をテキスト読解に不可欠な装置として考える。

■ 語り研究の位相

Adam, Le récit, 1984

・ナラトロジー、1920年代、フォルマリズム な らびに記号学

・テキストの内的構成法(→ロシア・フォルマリズ ム)

1928 ウラジミール・プロップ『昔話の形態学』

1958 ウラジミール・プロップ『昔話の形態学』 の英訳刊行

1960 レヴィ=ストロース『構造主義2』にプ ロップへの言及

1963-1964 A・J・グレマス(ポアンカレ 学院)が「意味論」講義はじまる

1964 C・ブレモン『コミュニカシオン』4号、 「物語のメッセージ」論文

1965 T・トドロフ『文学の理論』スイユ社(テ ル・ケル叢書)

1966 A・J・グレマス『構造意味論』

1966 『コミュニカシオン』8号:バルト、ブレ モン、エーコ、ジャネット、グレマス、メッス、トドロフが寄稿

1967,1969, W・ラボフとジョシュア・ワレツキーとの共著(仏訳 1978):バフチンとの関連性?

1970 プロップ『昔話の形態学』仏訳刊行

1972 G・ジュネット?(ジャネット)「フィ ギュール III」

1972 J=P・ファイ「全体主義の言語活動」 「物語の理論」:

1978 アファナシェフ『ロシア民話集』

++

■ナラトロジーの系譜

バフチン/ヴォロシノフ/メドヴェデフ

1)言説内部への主体の取り込み(アダン, p.11)

2)対話の形態の理解

2’)対話の対応発言の付与としての理解 (p.11)

総じて、他者との歴史的かつ社会関係において主体の 考慮

■言語活動の「物質性」(=マルクス主義/史的唯物 論との関連性)

J=P・ファイ「物語の理論」において:「言語活動 は……社会の物質的な基盤に作用して……実際に歴史を生み出す」(p.107)

■語りつくすことの意義

「歴史学における最もすぐれた種類の証拠、あらゆる 人々をもっともよく感動させ説得することができ、ごくわずかの疑念も許さず、ごくわずかの迷いも残さない証拠とは、語りつくすことである」(Adam, Le recit, Pp.13-14)——元の出典はオーギュスタン・ティエリ『メロヴィング王朝史話』(1851)Jacques Nicolas Augustin Thierry, 1795-1856. Récits des temps mérovingiens, Bruxelles, Complexe, 1995, coll. Historiques, 94.

"De tout ceci, l'historien Augustin Thierry avait déjà eu l'intuition en écrivant 'dans ses Récits des temps mérovingiens (1851) : « On a dit que le but de l'historien était de raconter, non de prouver; je ne sais, mais je suis certain qu'en Histoire le meilleur genre de preuve, le plus capable de frapper et de convaincre tous les esprits, celui qui permet le moins de défiance et laisse le moins de doutes, c'est la narration complète. » Barthes, dans son article sur « Le discours de l'histoire » ( 6), et 1. -P . Faye, dans La critique du langage et son économie (Galilée, 1973, p. 23 et suiv.), se réfèrent également à lui." (Adam 1984:8)

■プロップ以降の物語論について

■リクールにとってのストーリー

ストーリーは「世界を描写しなおすためのモデル」で ある。

■語りと現実——表象とリアリティ

現実は、人びとが語り記述するという表象そのものを 媒介にして現実性(リアリティ)を増殖してゆく。これが、現実と表象が切り分けられない理由のひとつである。

■他人の物語聞き入っていてはならないと警告するイ アン・パーカー先生.

イアン・パーカー先生の「ナラティブには気をつけろ!

■病いの語り、とは特殊なジャンルなのか?

この論考は日々ほとんど無尽蔵に作り出され、そして忘却の彼方に追いやられて いる「病いの語り」の断片の数々を、記録という手段ではなく、想起という方法で取り戻すための一助として計画されたものである」。

フランク『傷ついた物語の語り手 : 身体・病い・倫理』について

●D.デイヴィドソン著 ; 服部裕幸, 柴田正良訳『行為と出来事』勁草書房, 1990.3

1 意図と行為(行為・理由・原因;意志の弱さはい かにして可能か;行為者性;意図すること)

2 出来事と原因(行為文の論理形式;因果関係;出 来事の個別化)

3 心理学の哲学(心的出来事;哲学としての心理 学)

●ナラティブ論拾遺

病いの語り:批判
このノートは「病いの語り:哲学と人類学・社会学の 架橋」のノートから、より強く私の主張、つまり「病いの語り研究」の限界を指摘するものである。「人間は脚色好きな生きものであり、日々の生活が平 凡なことに不満を抱いている。それに振り返って見れば、たいていの出来事はその後訪れた幸運や自分史にとって決定的な事件だったように思えるものだ。その せいでわれわれは、実際の出来事を倫理的なメッセージを含む限られたテーマの物語に脚色して語っている。しかも語り手は、歳を重ねるとともにテーマを絞り こむことで関心の叩りかたと教訓の与えかたにいっそうの磨きをかけていく」——スティーブン・ジェイ・グールド『ワンダフル・ライフ』
語りをのこす行為
語りを残す行為は、語りとしての「記憶」が失われるという恐怖や脅威に 対する抵抗として 位置づけられることができる。もちろん、ただ、語っ て記録に残せばいいというものではなく、記録が公開されたり、出版 されたりして、より多くの人たちに伝わる(=散種する/される)ことが重要なのである。ここでいう、伝わるとは、別の人たちに「記憶」が伝わるということ である。
患者の 語りの管理について:病いの語り批判序説
患者の語りを解放しようとする臨床人類学 の企ては、えてして〈患者の語りの管理〉という新たな支配を生む (2000.03.16 M.ikeda)。
クラインマン『病いの語り』研究
「フィールドワークの報告は間接話法で記 されているだけでなく,著者の言葉がフィールドの人々の言葉よりも優先される。数々の議論を呼び起こしたクラインマンの医療人類学的著作『病いの語り』で さえ,患者の語り(ナラティブ)をパラフレーズしてしまっており,その過程で,それらを精神医学における病歴聴取の方法論的枠組みに押し込んでしまう傾向 が見られる」(スカルタン「人類学と語り」『ナラティブ・ベイスド・メディスン』斎藤清二ほか訳、p.232、金剛出版、2001年)。
『経済発展』の人びとの語りのなかで:グアテマラのマヤ系先住民の事例 から
池 田光穂が「『経済発展』の人びとの語りのなかで:グアテマラのマヤ系先住民の事例から」の原稿を、現場力研究会(2007年2月28日)での口頭発表し て、おおよそ次のようなことを 述べた。 (1)この原稿の来歴について (2)文化および言語の翻訳のプロセスへの再帰性への関心の喚起 (3)この論文が前提とする政治経済学上の諸理論 (4)民族誌的データの構築のされ方と、それに介入する人類学者の関わり (5)人間の文化実践活動における「寓意」が果たす役割。この発表に対して、種々の意見交換があり、現場力の定義をめぐる「力」の概念と権力の定義とその 取り扱い方について、日本語の語彙における 「力(ちから)」の使われ方、インタビュー調査において取られた発話主体の取り扱い方[=理解の仕方]などについて議論した。
「サバルタンは語れるか」入門
「文 明人は語り、野蛮人は沈黙する。語る者はつねに 文明人である。より正確に言えば、言語が文明の表現ある限りにいて、暴力は沈黙的である。言語と文明が世界を構成するとすれば、暴力が文明からのみなら ず、人間自身からも(なぜなら人間と言語は同じものだから)追放されるのは必至であろう」澁澤龍彦(1989:89)
ナラティブ・ターン
1990年代の前半ごろに指摘されるようになった学術ジャーゴンであ る。ナラティブ=物語る行為や物語に議論が焦点化されて、みんなの研究関心 や実践が、ナラティブ中心に回りだす現象やブームを指して、そう呼ぶ。家族療法家の医師である英国のジョン・ローナーによると、他の医療や社会科学とはこ となり、精神療法においては、ナラティブを治療/加療/分析 などの実践に使うことは古くからあったので、ナラティブ・ターンを論じても、精神療法とそれ意外の分野では、ナラティブに対する基本姿勢が異なるという。 つまり、古くは、ジーグムンド・フロイトによる「会話による治療」——ただし命名者は彼の患者のベルタ・パッペンハイム(Bertha Pappenheim)——がすでに確立していたからである。社会科学では、フィールドワークの方法論である、ライフヒストリー研究法に造詣が深く、また 研究論文・研究書も多く出版しているケネス・プラ マー(ケン・プラマー)などの方法論の普及が、それによる研究論文・研究書が出版されて、今日におけるようなナラティブ研究ブームを生んだと考えられる。
書簡体小説
書簡体小説あるいは書簡小説とは、物語の架空の登場人物間の一連の手紙 として書かれた小説のことである。この用語はしばしば、手紙に他の種類の文書、最も一般的なのは 日記や新聞の切り抜きなどを織り交ぜた小説にまで拡張され、手紙をまったく含まない場合でも文書で構成された小説を含むと見なされることがある。最近で は、書簡には録音やラジオなどの電子文書、ブログの投稿、電子メールが含まれることもある。エピストーリーの語源はギリシャ語で手紙を意味 するepistolē(Đπιστοήλ)に由来するラテン語である(epistleを参照)。このタイプのフィクションは、ドイツ語でブリーフロマン (Briefroman)とも呼ばれる。書簡体という形式は、登場人物の生活の中にテキストが直接的に存在するため、物語に大きなリアリズムを加えると考 えられる。特に、全知全能の語り手(omniscient narrator)という 装置に頼ることなく、異なる視点を示すことができる。書簡小説において、書簡の信憑性を印象づけるための重要な戦略的装置は、架空の編集者である。


+

●旧クレジット:「出来事そのものとしての「語 り」」Le récit n'est pas la relation de l'événement, mais cet événement même

関連リンク

リンク

文献(ブランショ)

文献

その他の情報


---------------------------------------------------------------------------
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

Do not copy & paste, but [re]think this message for all undergraduate students!!!