経験を交換する能力としての《物語》
Erzählung als Geschichte
Nikolai Leskov, 1831-1895
ドイツ語のゲシヒテ(Geschichte)とは、起こる(geschehen)という 動詞から派生して、起こったこと、出来事を意味するが、それは術語としての歴史をも意味する。歴史とは物語であると同時にすでに起こった出来事だからであ る。それゆえ、今後起こりえることは歴史とは言わない。今後起こりえることを、すでに起こった歴史から説明することを、時間を未来に向かって脱臼させる(verrenken)ことである。
現代(すくなくともベンヤミンが執筆したこの頃)では、人間の物語る能力に陰りがみえて きた。そして、それと共に物語というジャンルそのものも《薄れて》きた。
次の文章は、ベンヤミンの「物語作家」であるニコライ・レスコフ論の冒頭の文章である。
私はそこから、経験を交換する能力として《物語=歴史》というものがあることを、ベンヤミンの構想力を借りて主張したい。
■「物語作者(Erzähler)は——この名称が私たちにいかに親しい響きをもってい ようとも ——現在、生き生きと活動する存在では必ずしもない。物語作者は、私たちにとってすで に遠くなってしまったもの、そしていまなおさらに遠ざかりつつあるものだ。レスコフの ような作家を物語作者として描くことは、彼を私たちに近づけるものではなく、むしろ逆 に、彼との距離を大きくしようとするものである。一定の距離をおいて考察したときには じめて、物語作者の明瞭で大きな特徴が彼のなかで優位を占めてくるのだ。もっと分かり やすい比鳴を使うなら、正しい距離と適切な角度から観ると、岩の表面に人の顔や動物の 体が見えてくることがあるように、距離をおいてはじめて、物語作者の特徴が彼のなかに 現われてくる。このような距離や視角を私たちに教えてくれるのは、私たちがほとんど毎 日のように接する機会のある、ある種の経験である。この経験は私たちに、物語る技術が いま終駕に向かいつつあることを告げている。まともに何かを物語ることができる人に出 会うことは、ますますまれになってきている。そして、なにか物語をしてほしいという戸 があがると、その周囲に戸惑いの気配が広がっていくことがしばしばである。まるで、私 たちから失われることなどありえないと思われていた能力、確かなもののなかでも最も確 かだと思われていたものが、私たちから奪われていくかのようだ。すなわち、経験を交換 するという能力がある」(浅井健二郎編訳 1996:284-285)
"Familiar though his name may be to us, the storyteller in his
living immediacy is by no means a present force. He has already
become something remote from us and something that is getting
even more distant. To present someone like Leskov as a storyteller
does not mean bringing him closer to us but, rather, increasing
our distance from him. Viewed from a certain distance,
the great, simple outlines which define the storyteller stand out
in him, or rather, they become visible in him, just as in a rock a
human head or an animaPs body may appear to an observer at the
proper distance and angle of vision. This distance and this angle
of vision are prescribed for us by an experience which we may
have almost every day. It teaches us that the'art of storytelling is
coming to an end. Less and less frequently do we encounter people
with the ability to tell a tale properly. More and more often
there is embarrassment all around when the wish to hear a story
is expressed. It is as if something that seemed inalienable to us,
the securest among our possessions, were taken from us: the
ability to exchange experiences."
他方で、読者に解釈を要求しないことも、物語の定義として与えられる。物語を消費する読
者は、あれこれ想いをめぐらすが、最終的に物語の襞に入っていかないと物語を玩味することができないからである。他方で、物語の登場人物たちの奇矯な言動
や理解を超えたエピソードは、物語の劇中のなかでも、事後的にでもつねに「解釈を要求する」。これは、上記の経験を交換する能力とは別である(→「ニコライ・レスコフの作品についての考察」中の「プサンメニトスの逸話」に対す
るボルテールの解釈を想起)。
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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
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other people the trouble of thinking. But, if possible, to stimulate
someone to thoughts of his own," - Ludwig Wittgenstein