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病いの語り:哲学と人類学・社会学の架橋

Comparative study between Philosophy and Sociology on Illness Narrative

池田光穂

【キックオフスピーチ】

0.目的

この論考は日々ほとんど無尽蔵に作り出され、そして忘却の彼方に追いやられている「病いの語り」の断片の数々を、記録という手段ではなく、想起という方法で取り戻すための一助として計画されたものである。

Mi objeto de este tesis es para rescatar los pedazos numerosos de las narrativas sobre las experiencias de ser enfermos/enfermas, los que se hacen en todo los tiempos y los días, y los que se hacen aparentemente de ser olvidado, no por de notar y inscribir sino por de recordar mnemónicamente como metodología humanística.

1.物語について問うこと

ジャン=ミッシェル・アダンは次のように言います。

「語るというのは、ごくありふれた、日常的でかつ広 く行きわたった形の行為であるだけに、物語とは何かと問う必要はないと思われるかもしれない。だが実際 には、物語行為一般について問うことは、日常の経験を言葉に置き換える仕方について考えることである。それはまた物語行為に頼ることのできる様々な言説に ついて考えることである」――ジャン=ミッシェル・アダン『物語論』末松・佐藤訳、Pp.15-16、白水社、2004[1999]

このラウンドテーブルディスカッション(円卓議論) は、昨年のこの大会の議論の延長上にあります。そこでの議論は次のようなものでした。

■語り概念の拡張、とりわけ日本語の「物語」という 語との関連において(→「ミハイル・バフチン『ドストエフスキー の創作の問題』1929年,ノート」)

2.医療・翻訳・語り

「医療は翻訳行為である。翻訳は倫理性を伴う実践で ある(to make it fidelity, by one's fidelity)。従って医療は倫理性をもつ実践である。そして医療も翻訳も「対象」をもつ。翻訳は、解釈されるべき原文をもつ。医療は治癒されるべき 患者を必要とする」と(→「医療と翻訳」)。

もし、そのように考えたら、医療の対象である患者 は、いったいどのような存在になるのでしょうか?

少なくとも多くの患者は「語る存在」です。そうする と、医療者は患者に「語らせる存在」であると同時に「患者の声を聴く存在」である(存在=役割として も可能)と言っても過言ではないでしょう。医療者は患者に語らせることを通して、自らの医療という翻訳と解釈という両方の行為を遂行することができるので はないでしょうか。

もし、そのように考えたら、医療の対象である患者 は、いったいどのような存在になるのでしょうか?

3.ナラティブの定義

語ること、ナラティブ、さらにはストーリーテーリン グ(=物語る、Arthur Frank がしばしば好む言葉)とはなんでしょうか?

古典的には、ウィリアム・ラボフ(William Labov, 1927- )の「特定の過去の出来事に関するストーリー」という現象論的定義(Lavov and Waletzky 1967)がなされています。その通りです。常識的な定義です。しかし、ナラティブとは、私にとって、なにかを生み出す契機のことをさします。なにかの目 的(teleology)を目指すもの、あるいはナラティブというものの後に何かが起こるわけですから、それはナラティブの機能的定義と言うことができます。

ナラティブ(語り)とは、言説実践を通した主体形成 のことです。そして、ナラティブ=語りを通して、個々の「語られた物語」というものが生まれます。さ らに、ナラティブが多数生まれると、個々のナラティブには、他者が意識を投影することができる「語りのジャンル」というものができあがります。

4.3つのポイエーシス

これらの3つの諸相は、語ること、語ることにまわる 実践、語ることの帰結としての制作がみられることを通して、広く制作行為(古代ギリシャ文化における ポイエーシス)であるとみなすことができます。ナラティブは、語るという実践を通して、それと同時的に(simul:ラテン語)「 (i) 語る主体」を形成します。また語る主体は、事後的に(post hoc)「(ii)語られた物語」を造るようになります。そして、そのような活動は、さらに、当事者以外の他者がそこに意識を投影することができる 「(iii)語りのジャンル」を形成するような状況が生まれます。これらの3つの諸相にみられる制作実践を、我々はここで、「3つのポイエーシス」と呼ん でおきましょう。

人々は、その語りのジャンルを経由して、再度、語る 主体の意識の形成に与り、新たな語られた物語をつくるようになります。そのようにして語りのジャンル は、さらに洗練され、進化を遂げるようになるのではないでしょうか。

(ii)語られた物語に、〈現実性というフィクショ ン〉を与える、情動の装置が、迫真性(Verisimilitude)あるいは本当らしさ(believability)ということです(ブルーナー 1998;Bruner 1991)

5.語りの特権化

しかしながら、語り一般ではなく、我々が「病いの語 り」について、聞く時、急に構えてしまう/そう感じるのは、なぜでしょうか? 言い方を変えると、語 り一般がもつ、価値中立的な独自のジャンル内で起こることよりも、「病いの語り」というジャンル内での発話が、我々にとってより固い、あるいは頑固な心証 をもつのはなぜなのでしょうか?

どうも、「病いの語り」は語り一般よりも狭量で頑固 ではあるが、聴く人の心を掻きむしるという点でよりパワフル(=影響力を与える)なジャンルなような 気がします。はたして、病いの語りが、今日において強い影響力を与える、すなわちある特定のジャンルにおいて、その発話が特権化する理由はなぜなのでしょ うか?

ナラティブ・ターン(下線リンク先)が起こる時期と、医療分 野における語り研究や語りを焦点化した臨床の専門家(Narrative-Based Medicine, NBM)の台頭はほぼ同じ時期のような気がします。その背景には、患者の発話権利のエンパワメント過程であった可能性がみられるような気がします。すなわ ち、病いの語りは、誕生した時から、純粋な分析の対象なのではなくむしろ、そこから教訓(=患者の「声」を聴く)を得るジャンルとしての方向性を、その誕 生の出発時から持つのではないかという気がしてきます。

正統な医学・医療の中心的な規範から「病いの語り」 がまだ十分には承認を得られていない今日の社会状況のなかで、「病いの語り」を危険視することは、ナ ラティブを評価したい人や、そこに希望を見出す人、さらには橋頭堡として、生物医学帝国主義に抵抗していこうという人たちの情熱に水をさすような行為のよ うにも思えます。

しかしながら、今後の病いの語りがもつ可能性と限界 を――現時点において――適切に評定しておくことは、そのようなナラティブに希望を見出す人たちに、 なんらかの恩恵をもたらすのではないでしょうか。病いの語りの特権化が生む危険性は、ナラティブがうみだす「3つのポイエーシス」に関係すると思われま す。すなわち、 (i)語る主体の形成、 (ii)語られた物語の固定化、 (iii)語られるジャンルの形成、 の3つの観点に注目することです。

病いの語りは、当事者を主題化・特権化するようにみ えて、ほんとうは物語のなかに物象化されて、都合のよい管理可能な領域となり、中立化させられてしま うのではないか、という危惧があります。

「聞き手の語り手に対する素朴な関係は語られたこと を覚えておこうという関心によって支配されている、ということは、これまでほとんど顧みられ ることがなかった。無心な聞き手にとって重要な点は、話を再現する可能性を確保することだ。記憶(ゲデヒトニス)こそ、他の何ものにもまして叙事的な能力 である。すべてを包括する記憶によってのみ、叙事文学は、一方では事物の成り行きをわがものとし、他方ではそれら事物の消滅、すなわち死の暴力と和解する ことができる」――ヴァルター・ベンヤミン「物語作家」1936年(→翻訳者の課題(翻訳 者の使命)ノート

6.アイデンティティ主義とその批判

このようなことを起こす現象の背景にあることを考え るべきです。それは、病いの語りをうむ、いわばジェネレイター(発生機)たる「語る主体」に起こって いることがらについて考えることです。

それを私は「アイデンティティ主義」と呼びます。そ して、そのアイデンティティは、3つのポイエーシスに対応する、3つの強制力(フォース=権力)があ るのではないかと、私は考えます。すなわち、 (i)病いの語りというジャンルが生む「語る主体」というアイデンティティ形成を、つまり当の語り手に強制するのではないかという〈役割の強制〉。 (ii)語りのジャンルで定式化された語りの図式を内面化する〈語るスキームの強制〉。 (iii)語るジャンルの構成員であることを自覚させる制度である〈成員であることの強制〉、の3つです。

語る主体のなかに、起こっているこのアイデンティ ティ主義とは、いったい何なのでしょうか?

それは、まず第一に、アイデンティティは、同一性 (=単声性)に回収する、近代理性が用意した人間志向のエコノミーなのではないかということです。その ことを自覚した時に、アイデンティティ主義に抵抗するひとつの方法として考えられることは、「語る主体」を非同一性ないしは多声的な存在として、その都 度、生成として、過程として捉える視点を獲得することではないでしょうか。

私は、このアイディアを――彼らの思想を適格に理解 している自信はそれほどありませんが――ミハイル・バフチンと、ジル・ドゥールズらの思想から影響を 受けています。あるいは、私のこのような危惧――語りの同一性・単声性への強制回収――を克服してくれる希望を次のような命題で表現してもよいでしょう: 「すべての語りのジャンルが単声アイデンティティ主義に凝り固まっているわけではない」と。

7.結論:{{語る存在}を聴く存在}の生成変化

すなわち、多声的語り、複眼的視点、複数の解決法へ の模索という中に、語る主体とその状況、さらにはそのジャンルに向かう強制力としての「アイデンティ ティ主義」を克服する可能性をもつのではないでしょうか。多声的(polyphonic)な語りとしての物語のジャンルがあるではないでしょうか。同一性 に回帰しない、過程としての語り、生成としての語りの可能性の模索する余地があるのではないか。

したがって、私の話の結論は、病いの語りのみなら ず、「{語る存在}を聴く存在」――人類学者や医療者――生成変化に着目しよう、ということになりま す。我々が調査を通して知る「語る存在」である患者がアイデンティティ主義の呪縛から解放された/されつつある時を想像してみましょう。そこでは「患者の 声を聴く存在」である医療者の翻訳や解釈の行為の中にも変化が生じるはずです。

ラウンドテーブルディスカッションの皮切りとして、 企画者が発表者や会場の皆さんに提言したいことは、このような議論と交錯するための「キーワード」や 「キーコンセプト」をあげていただき、皆さんが持参された「病いの語り」についてのお考えを披瀝し、この会場そのものを、「病いの語り」をめぐる、多声的 な「現場」にしたいということです。

御静聴ありがとうございました。

+ 「病いの語り」とは、身体・心・精神そして世界 存在の意味についての表象であると言うことができる(=話者による環境世界とのコミュニケーション)。しかしながら同時に、「語る」という行為は「聴く 者」あるいは「読む者」への話者・表現者による働きかけをするという意味での言説実践でもある(=話者による他者とのコミュニケーション)。

+ 振り返ってみれば、我々の日常生活には、じつに夥しい「病いの語り」がある。それらの中で語られている病いの経験とは、我々自身の〈遠い経験〉から〈近 い経験〉(ともにC・ギアーツ(Geertz 1974)の言葉:もともとはハインツ・コフートの用語:)まで、多様にある。

「大まかに言えば、〈近い=経験〉 (experience-near)という概念は、ある人――患者、被調査者、われわれの場合にはインフォーマント――が、自分や自分の仲間が見たり感じ たり考えたり想像したりすることを表現する際に、自然に無理なく使い、他人が同様に使った場合にもやはり容易に理解できるような概念のことである。〈遠い =経験〉という概念は、何らかの専門家――分析医、実験者、民族誌学者、また神父やイデオロギー論者でも――が、その科学的、哲学的、また実際的目的を果 たすために用いるような概念のことである。「愛」は〈近い=経験〉であり、「カセクシス対象」は〈遠い=経験〉である。「社会成層」や、大抵の人にとって はおそらく「宗教」も(「宗教体系」なら間違いない)〈遠い=経験〉である。「カースト」や「涅槃」は、少なくともヒンドゥー教徒や仏教徒にとっては〈近 い=経験〉である。(ギアーツ『ローカルノレッジ』邦訳、p.100、岩波書店、1999年)

 But perhaps the simplest and most directly appreciable way to put the matter is in terms of a distinction formulated, for his own purposes, by the psychoanalyst Heinz Kohut, between what he calls "experience-near" and "experience-distant" concepts.

An experience-near concept is, roughly, one that someone--a patient, a subject, in our case an informant--might himself naturally and effortlessly use to define what he or his fellows see, feel, think, imagine, and so on, and which he would readily understand when similarly applied by others. An experience-distant concept is one that specialists of one sort or another--an analyst, an experimenter, an ethnographer, even a priest or an ideologist--employ to forward their scientific, philosophical, or practical aims. "Love" is an experience-near concept, "object cathexis" is an experience-distant one. "Social stratification" and perhaps for most peoples in the world even "religion" (and certainly "religious system") are experience-distant; "caste" and "nirvana" are experience-near, at least for Hindus and Buddhists. - "From the Native's Point of View":

+話者による他者とのコミュニケーションとしての 「病いの語り」に関する数多くの素材を提供してき たのは文学である。フィクションあるいはノンフィクションを問わず文学は、この種の言説実践が人々の想像力に働きかける作用を通して、我々の日常世界にお ける社会的行為に多大なる影響をもたらしている。他方、話者による環境世界とのコミュニケーションとしての「病いの語り」に焦点化するジャンルは哲学であ る。哲学(とりわけ現象学的なアプローチ)は、哲学者自身の経験や思索をも含めて、このことに関する多様な理論を提供してきた。文学と哲学における「病い の語り」とは、それ自体が「病いの語り」を反省的にとらえ直すメタ理論的行為を形成しているために、「病いの語り」という理論ジャンルを非常に豊かに構成 してきたとも言える。

+このRTDは、文学と哲学で産出される「病いの語 り」に関するさまざまな現象や理論に対峙する、日常世界を中心に取り扱ってきた人類学者・社会学者の役 割や位相について考える。「病いの語り」が日常生活に対して与える物象化現象や、医療化という我々にとってのお馴染みの現象が「病いの語り」とどのような 位相を織りなすのかについて考察する。

+ Tout s’y trouve éclairci et vérifié en ce qui regarde les temps, les lieux, la valeur des témoignages et l’authenticité des preuves historiques ; les lacunes des textes , les omissions et les négligences des chroniqueurs sont remplies et réparées par des inductions du plus parfait bon sens; il y a exactitude complète quant à la succession des faits et à l’ordre matériel du récit, mais ce récit, on est forcé de l’avouer, manque de vie et de couleur. - Récits des temps mérovingiens précédés de Considérations sur l'histoire de France par Augustin Thierry, 1840, p.31.

この文章の英語のグーグルトランスレターでの翻訳 は:Everything is clarified and verified with regard to the times, the places, the value of the testimonies, and the authenticity of the historical proofs; The shortcomings of the texts, the omissions and the negligences of the chroniclers are fulfilled and repaired by inductions of the most perfect common sense; There is complete accuracy as to the succession of facts and the material order of the narrative, but this narrative is forced to confess, lack of life and color. - Stories of Merovingian times preceded by Considerations on the History of France by Augustin Thierry, 1840, p.31.

+【補記】

その後、私は、ミハイル・バフチンのドストエフス キー論(1929)からインスピレーションを受けて、語りがもつ「実践の創造」について関心が広がりました。そして、なぜ、実践が生まれるのかについて、ジョン・オースティンの言語行為論を応用すれば、簡単に説明は付くはずでないかとも、思いを 馳せました。下記の図を参照ください(→「行為遂行的発話と事実確認的発話」)。

話題提供者(所属は当時)

+ 2013年5月18日 日本保健医療社 会学会第39回日本保健医療 社会学会大会)ラウンドテーブルディスカッション(RTD)での発表テーマです。

このメンバーは2012年の同学会のラウンドテーブ ルディスカッション(RTD)で「医療と翻訳」というテーマで話しあいました。

医療と翻訳(趣旨説明):池田光穂

翻訳の社会的問題:池田光穂

キックオフのスピーチ:この文章のpdfはこちらで す【yamai_Gatari_2013.pdf
病いの語り
哲学と人類学・社会学の架橋
池田光穂・松岡秀明・吉田尚史・島薗洋介
第39回日本保健医療社会学会大会 2013年5月18日東洋大学朝霞キャンパス


1.物語について問うこと
2.医療・翻訳・語り
3.ナラティブの定義
4.3つのポイエーシス
5.語りの特権化
6.アイデンティティ主義とその批判
7.結論:{{語る存在}を聴く存在}の生成変化

リンク

用語集

文献

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