ハゲタカの言い分とハゲタカの声を聞くこと
——我々はどうしてハゲタカの立場からメソアメリカの寓意を理解しないのか——
私が好きなグアテマラ西部高地のマム語を話すマヤ先住民の人々を中心にグアテマラ西部高地でよく 話される民話に「怠惰な男とハゲタカ男」とい う物語がある。この物語については、私がそれを愛するがゆえに各地での世間話のついでに人にいろいろ聞いてみて、多少の異同はあるものの、マヤの言語集団 を越えてさまざまな各地で語りつがれていることを実際に確認している。スペイン語でのタイトルは El hombre perezoso y el hombre zopilote と対句で表現されるので「怠惰な人間とハゲタカ人間」とでも翻訳できよう。後者のハゲタカ(スペイン語ではzopilote, マム語では k'utz, カクチケル語では k'uch)——k'は声門化した無声軟口蓋閉鎖音:uには記号としてスペイン語ではディエレシス dieresis、あるいはドイツ語ではウムラウト記号がつき、発音では、音声学では高後舌弛緩母音、英語の発音では put の母音のように発音する——はとハゲタカ男あるいはハゲタカ人間xjal k'utzは人間と同等の中味の存在で、ただ着ている「衣装」が異なるというのが特徴である。私が記憶している、この物語の梗概は以下のようなものであ る。
ある村に怠惰な農夫がおりました。彼はトウモロコ シ畑で仕事をするのがとても嫌で、いつも奥さん に小言を言われていました。今日も畑で仕事をせず、ぼおーっと空を見上げています。空には高くハゲタカが獲物を探して旋回しています。「ああ、ハゲタカは いいなぁ、ああやってのんびり空を旋回できて」と男はため息をついています。それを聞きつけた一羽のハゲタカは、空から降りてきて、怠惰な男に「おい、そ んなにハゲタカがいいのか?俺は人間になりたいんだ。どうだ?俺の来ている衣装と君の衣装を取り換えっこしないか?」と持ちかけました。男は喜んで「本当 か?ではそうしよう!」と言って、その話に乗ることにしました。ハゲタカは自分の黒い羽根の衣装を、男の人間の姿と取り換えっこしました[註:男が衣装を 脱ぐとどんな姿になるのかは説明されない]。怠惰な男は、ハゲタカになり空を悠々と飛ぶことができ、すごく満足しました。他方、ハゲタカ男は、トウモロコ シ畑で働き、それまで雑草の生えたままになった畑がすっかりきれいになりました。家に帰ったら、すっかり働き者になった夫に、奥さんが「あんた、どうして こんなに働きものになったの!」と驚き、それまでとは一変して夫に尽くすようになりました。それからというものハゲタカ男は畑で一生懸命働くようになっ た。他方、空を飛んでいた今はハゲタカの元農夫はそれに飽き、お腹が空いてきました。しかし仲間と共に降り立った食事の場所とは、ごみ捨て場であり、食事 とはうち捨てられた獣の腐肉やゴミでした。「うへーっ、これはたまらん」とハゲタカの元農夫は、再び空に舞い戻り、現在は農夫のハゲタカ男のところに戻っ てきました。ハゲタカ男に「もうハゲタカの生活は飽きたので、ふたたび衣装を取り換えてくれないか?」と言いました。勤勉になったハゲタカ男は「俺は人間 になり畑で働くことに満足している、君は怠惰だからハゲタカになることを望んだのだろう」といってとりあってくれませんでした、とさ。
私がこの民話を最初に聞いたのは、1990年代の中頃に習っていたマヤ諸語のひとつマム語の先生からであった。外国人にマヤの文化——その中 には内戦の虐殺と内戦記憶を諸外国に伝えるという政治的意義もあった——を知ってもらうためにスペイン語を教えるNGOの語学学校の中では、私は唯一のマ ム語学習の生徒であった。私のコンパドレ(=洗礼の名付け親と両親とのあいだの儀礼的親族)が、バイリンガル教育の研修を受けたことのあるこの学校の同僚 の教師を紹介してくれたのである。資金の貧しい学校——数年後に使途不明会計で破産して閉校になる——の庇もまた柵もない屋上の全方位オープンのこの町の 標高3,000mの壁のような峰に囲まれた谷をみあげながら、この話を聞いたのである。いうまでもなくハゲタカはこの地では常在種で、天気のよい午後には いつも空に大きく輪を描いて飛んでいる姿を認めることができる。マヤの民話には他にも動物の変身譚があり、ケチな婆さんがネズミに変身するなど、生き方の モラルと動物への変身が関連づけられているのだろうと、私はそれほど気にはとめなかった。
まったく農民へのよくある勤勉・勤労のすすめという訓話と言えないことはない。なぜなら怠惰な生 活をし[怠惰な生活をしているように見える] ハゲタカに憧れてしまうと、ハゲタカの甘言に乗ってしまい、とうとう最後は「本物の」ハゲタカになってしまい腐肉を喰らうことを余儀なくされるのだ、とい うことをこの民話は我々に諭しているからである。しかし、ここで私が気になるのは、その民話的想像力の中で語られている存在論的位相である。すなわち動物 と人間が「衣装」を変えるだけで変身(変換)できるということであり、また人間と動物は、思考し自分の意思をもち行動することで、我々とは別個の資格を もった「独自」の存在であることだ。ハゲタカにしても、ネズミにしても、マヤの先住民と同じ世界を生きている存在論的他者であり、人間の衣装を交換すれば 我々も他の動物に変身できるし、また人間と他者の動物の関係は、表面的な外見上の違いと、中味の共通性(ただし民話の中ではそれが視覚的ビジョンでは示さ れない)が特徴である。これは後に触れるディスコラの身体性(±)と内面性(±)に関する4つの「同一化の様相(mode of identification)」の種類からいうと身体性(−)と内面性(+)アニミズムに相当するものである[DESCOLA 2006:3-6]。
マヤを含めたメソアメリカと呼ばれる文化圏では、ナグアルあるいはナワール(nagual, nahual)に関する信仰がある。アステカのナワトル語ではカレンダーと日付に関連づけられた動物(あるいはそれに励起させられる力)を意味するトナー ルあるいはトナーリ(tonal, tonalli)という語がある。ナワトル語で tonal-li は太陽の暖かさ、夏期、そして日にちの意味があるからだ[BRINTON 1894; KARTTUNEN 1992:246]。これらによると、各人にはそれぞれに対応する動物(コヨーテ、イヌ、ウサギ、シチメンチョウ、ジャガー、サルなど)がいて人間と同じ ような人格をもち、かつそれぞれの価値観をもってまったく別の世界で生きている。これらのナグアル動物は、それに対応する人間に善良あるいは邪悪な力を もっており、さまざまな形で対応する人間の生活を支配する。人はシャーマンや伝統的慣習(costumbre)の司祭の助力なしにはそのナグアルを知るこ ともできないし、その動物の種類がわかったとしても、どの個体が自分のナグアルかもわからない。これらの「同一化の様相」では身体性(−)と内面性(−) の類比主義(analogism)という用語[DESCOLA 2006:7-8]が最適だと私には思われるのが、その根拠は人びとが説明する次のようなことばである:「君のナグアルが死ぬとき、君も死ぬ。あるいは君 が死ぬときには、君のナグアルも運命をともにする」。
ナグアル信仰は人間と動物はそれぞれ完全にパラレルな世界の住民で(たぶんカレンダーなどに支配 される生まれた日時にしか存在しない)特異な 時間的結節点を除いて両者が邂逅することはない。シャーマンなどが占いを通して我々がどのナグアルをもつのか診断してくれることはあっても、それを知るこ とはほとんどない。ハゲタカ男と人間のあいだの「同一化の様相」とナグアルのそれとは異なることから、メソアメリカでは、少なくとも2つの「同一化の様 相」があることが認められる。
人間を動物と異なる存在であり、かつ人間は万物の霊長と見なし、動物を蔑む世界観があるが、近代西洋の
人間中心主義
(anthropocentrism)はその代表である。しかしながら、古代から現在にまで西洋思想のなかには、人間中心主義への反省——あるいは種間相
対主義への誘惑——が伏在し、しばしば動物の行動様式や性質を人間のそれらよりも高い価値をおいて讃美する観念複合体(ideal
complex)が見られるという[ボアズ 1990:139]。これをセリオフィリー(theriophily,
動物優越論)といい提唱者のジョージ・ボアズはプリミティビズム(未開[崇拝]主義)の形成にも貢献した思潮で古代ギリシャにもその淵源を遡れるものであ
るとしている[BOAS
1933:1-2]。ボアズがまとめるセリオフィリーのテーゼは次の3点である。(1)動物は人間と同じくらい理性的である(仮にそうでなくても動物は人
間よりも「幸福」だという付帯条件がつく)。(2)人間にとって自然は継母かもしれないが、動物にとっての生母は自然であり、それゆえ動物は幸せである。
(3)動物は人間よりも道徳的である[ボアズ
1990:139]。おしなべて歴代のセリオフィリスト(動物優越論者)にも言えることだが、その主張は思想的にはそれほど洗練されてはおらず「怠惰な農
夫」が空を舞うハゲタカを見て、それを憧れるような(屈折はしているが素直な)人間中心主義批判のようにも思える。
人間の衣装をハゲタカのものと交換して後悔する(元)怠惰な農夫の末路に私たちは感情移入して、 畑では一生懸命働かねばならないという教訓は 誰でも引き出すことができる。しかし我々は、ヴィベイロ・デ・カストロ(あるいは、エドゥアル ド・ビベイロス-デ-カストロ)がとった観点主義(perspectivisomo)に倣って、アマゾン低地の先住 民の思考法においては、それぞれの生物種は「内的様態(forma interna)」あるいは「動物の精神(espirito do animal)」を着ている存在に過ぎない[VIEROS DE CASTRO 1996:117]ものだとすれば、彼がいう西洋の多文化主義へのアンチテーゼとしてある先住民の多自然主義(multinaturalismo)の観点 に立って、我々はどうしてハゲタカの立場からメソアメリカの寓意を理解しないのかという批判について我々は開襟して聞かねばならない。(高い空から人間を 長く観察していた)ハゲタカは意思の弱い怠惰な人間と交渉して両者の衣装を交換し、結果的に人間の奥さんを得ることができ(それまでの怠惰な評判だった農 夫の名誉を挽回してあげて)その後幸せに暮らしたというのが、ハゲタカの言い分であろう。
■文献
グアテマラ研究(ヴァー チャル論文集)
■Los chojchojotro
"El eclipse del sol es más triste que el de la Luna; los chojchojotro bajan a sacar los ojos de la gente"" (Guiteras-Holmes 1986) Los chojchojotros son grandes aves, águilas o halcones que materializan las 13 fuerzas destructoras del cosmos"
■付録「ハゲタカと研究倫理について」
「ハゲタカジャーナルは、査読などがいい加減で、高額な掲載料を要求されますが、同時に すぐ に業績をだしてくれる安易な雑誌のことをさします。そのようなジャンクなものでも業績をださなきゃならないという、研究者の疎外状況が、ハゲタカジャーナ ルの問題といえば問題です。したがって、これは広義の研究倫理の社会 性について考えることに繋がりますね」2018年10月17日
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