翻訳者の課題(翻訳者の使命)ノート
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Die Aufgabe des Übersetzers. In: Charles Baudelaire, Tableaux parisiens (U"bertragung), Heidelberg, 1923
Just as the progress of a disease shows a doctor the secret life of a body, so to the historian the progress of a great calamity yields valuable information about the nature of the society so stricken. -- MARC BLOCH
英訳:The Task of the Transla'tor' An Introduction to the Translation
of Baudelaire's with password walterbenjamin_cscdX.pdf
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■翻訳者の課題(翻訳者の使命)ノート
・「翻訳者の課題(翻訳者の使命)」は12パラグラフからなるヴァルター・ベンヤミンのエッセーである。
・三島憲一(1998:166- )によると、このエッセーは「ボードレール『悪の華』の中の「パリ風景」の対訳につけたベンヤミン自身による序文」であり、この翻訳の出版は、世間の注目 をほとんど引く事はなかったという。(→このページの最後を参照)
※「要するに、翻訳がひとつの独自な形式であるように、翻訳者の課題も独自の課題として把握され ねばならぬ——創作者の課題とは厳密に区別して」(岩波・野村修訳:82)。
"Isaac (ben Solomon) Luria Ashkenazi (1534 – July 25, 1572) (Hebrew: יִצְחָק בן שלמה לוּרְיָא אשכנזי Yitzhak Ben Sh'lomo Lurya Ashkenazi), commonly known as "Ha'ARI" (meaning "The Lion"), "Ha'ARI Hakadosh" [the holy ARI] or "ARIZaL"[the ARI, Of Blessed Memory (Zikhrono Livrakha)], was a foremost rabbi and Jewish mystic in the community of Safed in the Galilee region of Ottoman Syria. He is considered the father of contemporary Kabbalah, his teachings being referred to as Lurianic Kabbalah. While his direct literary contribution to the Kabbalistic school of Safed was extremely minute (he wrote only a few poems), his spiritual fame led to their veneration and the acceptance of his authority. The works of his disciples compiled his oral teachings into writing. Every custom of the Ari was scrutinized, and many were accepted, even against previous practice."
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(1)
・「芸術作品ないし芸術形式について考察しようとするとき、受容者を考慮することは、それらの理解にとっていかなる場合にも決して実りある ものとはならない」(筑摩・内村博信訳:388)。
・芸術的行為の独自性や自律性が主張されている。
・「芸術自体もまた、人間の身体的および精神的な本質を前提とする——けれども、芸術はいかなる個々の作品においても、人間から注目される ことを前提提としてはいない」(岩波・野村修訳:69)。
(2)悪しき翻訳を識別する標識
・「文学の本質をなすものは、伝達ではないし、言表内容でもない。それにもかかわらず媒介しようとする翻訳は、まさに伝達を、したがって非 本来的なものを媒介しうるだけだろう。実際また、これが悪しき翻訳を識別するための標識なのである。」(筑摩・内村博信訳:389)
・つまり、〈本質〉を伝えることをなく媒介するのは良い翻訳とは言い難いということか。
・「悪しき翻訳は、非本質的な内容を厳密さを欠くままに伝達することと定義できる」(筑摩・内村博信訳:389)
・「(α)翻訳が読者のためにあるとするのなら、原作もまたそうでなければならないだろう。(β)原作が読者のためにあるわけではないとす れば、翻訳はこの関係からいったいどのよう理解されるべきなのだろうか」(筑摩・内村博信訳:389)。ベンヤミンは(β)の側に立つことを第1パラグラ フで主張しているので、この後者のこと、翻訳と作品の〈本質〉のことが議論の俎上に上ると思われる。
(3)翻訳はひとつの形式である
「翻訳とはひとつの形式である。翻訳をそのようなものとして理解するためには、原作へと立ち返ってみることが重要である。なぜなら、原作の なかにこそ、その【翻訳可能性】として、翻訳の法則が内包されているからである」(筑摩・内村博信訳:389)。
・翻訳可能性の二重の意味:「つまり第一に、その作品が、その読者全体のなかに信頼しうる翻訳者を見出せるのか。……第二に……その作品は その本質からいって翻訳を許容するのか、したがって——翻式の意味に即して——翻訳を要求するものでもあるのか」(筑摩・内村博信訳:389-390)。
・その答えは、第一のものは不確定で、第二のものは必然だという。
・作品における「その生ないし瞬間」への焦点化
・「言語作品の翻訳可能性は、その言語作品が人間にとって翻訳不可能な場合にも、依然として考慮に値するだろう。そして翻訳という概念をま じめに考えるなら、【言語作品は実際にある程度まで翻訳不可能】ではないだろうか」(筑摩・内村博信訳:390)。
・「翻訳がひとつの形式であるとすれば、翻訳可能性はある種の作品にとって本質的なものでなければならない、という命題が成り立つからであ る」(筑摩・内村博信訳:390-391)。
・(大方の予想を裏切り?)作品が【翻訳可能性】をもつことが【作品の本質】であることを示唆する。これは(4)の冒頭で次のように語られ る。
(4)翻訳可能性はある種の作品に本質的に内在する
・「翻訳可能性はある種の作品に本質的に内在する——このことは、その作品の翻訳はその作品自体にとって本質的なものだというのではなく、 あくまで原作に内在するある特定の意味がその翻訳可能性として顕わになる、ということを言っている」(筑摩・内村博信訳:391)。
・翻訳は原作にとって、特定の意味は持たないが、翻訳は【翻訳可能性=作品の本質】によって原作と密接な関係をもつ。この関係=連関をベン ヤミンは「自然な連関」あるいは「生の連関」と呼ぶ。
・なんで【生の連関】か?それは翻訳が、原作の後に登場する時間性のギャップをもっているからだ:「生の顕われが生あるものにとって何も意 味することなく、その生あるものときわめて密接に連関しているのとちょうど同じように、翻訳は原作に由来する。しかも、原作の生というより、その〈存[な がら]える生(Uberleben)〉に由来する。というのも、翻訳は原作よりも後からやってくるものであり、それが成立した時代には決して選り抜きの翻 訳者を見出すことのない重要な作品においては、翻訳はその作品の〈死後の生(Fortleben)〉の段階を示すものだからである」(筑摩・内村博信訳: 391)。
・「芸術作品の生とその死後の生という考え方は、メタファーとしてではなく、まったく文字通りに理解されねばならない」(筑摩・内村博信 訳:391)。
・【あらゆる存在に生の概念と権利を認めよ!】——このベンヤミンの命題は、まるで今日の観点主義を先取りしているようにも思える。
・「歴史をなすあらゆる存在、たんに歴史の舞台であるにとどまらないあらゆる存在に生を認めるとき、はじめて、生の概念はそれにふさわしい 権利を獲得することになる」(筑摩・内村博信訳:392)。生の承認と生の権利を認めることは、ここではセットになっている。
・「なぜなら、自然によってではなく、ましてや感覚や魂といった曖昧な現象によってではなく、最終的には歴史によってこそ、生の圏域は規定 されるからである。そこから、あらゆる自然の生を歴史のより包括的な生から理解する、という哲学者の使命が生じる。そして、少なくとも作品の死後の生は、 被造物の死後の生よりも、比較しえないほどずっと容易に認識できるのではないだろうか」(筑摩・内村博信訳:392)。
・「媒介以上のものである翻訳は、死後の生のなかで作品がその名声の時代に到達したときに成立する。したがって翻訳は、悪しき翻訳者がつね づね自分の仕事に対して要求するのとは違って作品の名声に寄与するのではなく、翻訳のほうが作品の名声にみずからの存立を負うているのだ。翻訳において、 原作の生はそのつねに新しく最終的な、最も包括的な発展段階に到達する」(筑摩・内村博信訳:392-393)。
(5)【私にとって非常に難解なパラグラフ】
「生のすべての合目的的な現象は、その合目的性一般と同様、結局のところ、生に対して合目的的なのではなく、生の本質の表出に対して、その 意味の表現(Darstellung)に対して合目的的なのである。そのようなわけで翻訳は、究極的には、諸言語間の最も内的な関係の表出に対して合目的 的である。翻訳はこの隠れた関係そのものを明るみに出す(Offebaren〔啓示する〕)ことはできないし、それを作り出す(herstellen)こ ともできない。しかし、翻訳はこの関係を萌芽的ないし内包的に実現することによって、それを表現することはできる。しかも、ある意味されるものを、それを 作り出すことの萌芽である試み(Versuch〔着手、企て〕)によって表現するというそのやり方は、非言語的な生の領域ではほとんど見出すことのできな いような、まったく独自な表現様式なのである。なぜなら非言語的な生がもろもろの類似や徴表(しるし)において知っているのは、内包的ですなわち先取り的 で予示的な実現とは別のタイプの指示様式だからである」(筑摩・内村博信訳:393-394)。
(6)諸言語のあいだの類縁性
「しかし実際には、諸言語間の親縁性は、二つの文学作品の表面的で定義不可能な類似性においてよりも、翻訳においてこそはるかに深く明確に 証明されるものなのである」(筑摩・内村博信訳:394)。
「認識批判において、認識は、現実的なものの模写である場合には客観的ではありえないし、それどころか客観性を主張する権利すらないという ことが示されるとすれば、この考察においては、翻訳は、その究極の本質として原作との類似を目指すかぎり、そもそも不可能であることが証明されうる。とい うのも、原作はその死後の生において変化するからであり、もし死後の生が生あるものの変容と新生でなかったら、死後の生とは言えないからである」(筑摩・ 内村博信訳:395)。
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「認識批判において、認識が現実的なものの模写にとどまる限り、認識にはいかなる客観性もないこと、それどころか、客観性の要 求を掲げることすらできないことが、示されるとすれば、こちらでは、翻訳が究極的に原作との類似性を追求するものである限り、いかなる翻訳も不可能である ことが、立証される。なぜなら、原作はその死後の生のなかで変化してゆくからである。生きたものが死後の生のなかで変容し更新してゆくのでなければ、死後 の生という呼び名は意味をなさなくなるだろう」(岩波・野村修訳:75-76)。
・「定着された言葉にも後熟というものがある」(筑摩・内村博信訳:395)。
・「偉大な文学作品の音調と意味とが幾世紀の経過とともに完全に変容するように、翻訳者の母語もまた変容するからである。それどころか、詩 人の言葉がその母語のなかで生き存えていく一方で、翻訳は、最も優れたものであっても、必ずその言語の生長のなかへ取りこまれ、新たな言語の内部で滅んで いかざるをえない」(筑摩・内村博信訳:395-396)。
・「翻訳は二つの死滅した言語のむなしい等質化などではなく、他言語〔原作の言語〕の後熟に注意をはらい、自身の言語〔翻訳の言語〕の生み の陣痛に配慮することが、あらゆる表現形式のうちでまさに翻訳という形式に、最も固有な特性として与えられているのだ」(筑摩・内村博信訳:396)。
(7)類縁性があるからといって類似性が姿を現すわけではない
・「諸言語間のあらゆる歴史を超えた類縁性の実質は、それぞれ全体をなしている個々の言語において、そのつど一つの、しかも同一のものが志 向されているという点にある」(筑摩・内村博信訳:396-397)。 ・「とにかく、文学作品の類似性のなかにでもなければ、言葉の類似性のなかにでもない。むしろ歴史を超越した諸言語の親縁性は、あげて、完全な言語として のおのおのの言語において、ひとつの、しかも同一のものが、志向されている点にある。そうはいってもこの同一のものは個別的な言語のいずれかによって到達 されるようなものではない」(岩波・野村修訳:77)。
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【大胆な思考実験:MOkaさんがみるA氏のスキゾフレニーの診断(=翻訳)とYodaさんがみるB氏のスキゾフレニーの診断(=翻訳)間の関 係を想起せよ】
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・「ドイツ語の「ブロート」とフランス語の「パン」とでは、意味されるものは同一だけれども、言いかたは異なっている。言いかたからすれ ば、二つの語はドイツ人にとってとフランス人にとってとでそれぞれに別の意義をおびていて、互いに交換がきかないどころか、けっきょくは互いに排除し合お うとさえする。しかし意味されるものからすると、二つの語は絶対的に同一のものを意味している。このように、この二つの語において、言いかたは互いに相手 に逆らっているのに、これらの語を生んだ二つの言語のなかでは、その言いかたが互いに補完しあう。しかも、意味されるものについて補完しあう。すなわち、 補完されていない個別的な言語の場合、そこで意味されるもの、志向されるものは、個々の語や文の場合とは違って、相対的な自立性を見せることはけっしてな く、むしろ不断の変容のなかにあるのだが、それは究極的には、あのありとあらゆる言いかたの調和のなかから、純粋言語として現出しうるまでに至るわけであ る」(岩波・野村修訳:78)。
■言語の成長と翻訳
・(「あらゆる翻訳が、諸言語の異質性と対決する一種の暫定的な方法にすぎないことを、容認した上」で[同:79])「諸言語がこのように して、その歴史のメシア的な終末に至るまで生長してゆくものとすれば、その過程にあって翻訳は、諸作品の永遠な死後の生と諸言語の不断の更新とに触発され て点火されては、つねに新たに、諸言語のあの神聖な生長を検証してゆくのだ。つまり、言語に秘められているものがどれほど啓示からまだ遠くにあるか、そし てその秘められたものがこの隔たりを知って、どれほどまで現前しうるかを、そのつど翻訳は検証する」(岩波・野村修訳:79)。
(8)
・「しかし、諸宗教の生長が諸言語のなかにより高次の言語の隠れた種子を成熟させている。だから翻訳は、その形成物の永続性を要求できない という点で芸術とは異なるにもせよ、あらゆる言語結合の最終的・決定的・究極的な段階へと向かう方向性を、否認するものではない。翻訳において原作は、い わば言語より高次でより純粋な気圏のなかへ伸びてゆく」(岩波・野村修訳:79)。
・「より正確にいえば、伝達をこえたこの本質的な核は、その翻訳自体において逆翻訳することの不可能なものとして、定義されうる。いいかえ ると、翻訳から伝達の部分を可能な限り取り出して、これを逆翻訳することはできても、それでも真の翻訳者の仕事がめざした当のものは、手を触れられないま まに残るのである。この残るものは、原作の作者の言葉とひとしく、翻訳できない。逆翻訳が不可能な理由は、内容と言語との関係が、原作と翻訳とではまった く違っているからだ」(岩波・野村修訳:80)。
・「この【内容と言語の】関係は、原作にあっては果実と表皮との関係のような、ある種の一体性だとすれば、翻訳にあっては言語は、王のゆっ たりとした、ひだの多いマントのように、その内容を包んでいる。なぜなら翻訳は、それ自体よりも高次の言語を予示していることによって、それ自体の内容に ぴたりと合うことがなく、暴力的で異質的なところを残すからである。こういった不整合は、あらゆる翻訳の障碍になっていると同時に、翻訳をなお促してもい る。というのも、ひとつの作品の翻訳という翻訳は、言語の歴史のある特定の時点で生まれれば、作品の内容という一定の側面にかんして、ほかのすべての言語 での数かずの翻訳と同じ段階にあることになるのだから」(岩波・野村修訳:80)。
・「原作はいかなる翻訳によってももはやこの領域から移されえない、というわけではないが、ただしつねに新たに、かつ別の部分で、同じこの 領域へ高められる、と」(岩波・野村修訳:81)。
・「ロマン派のひとたちは誰よりも早く、作品の生というものを洞察していた。……しかし、かれらの理論が翻訳にはほとんど目を向けなかった にせよ、かれらの偉大な翻訳作品自体は、この形式の本質と品位をかれらが感じ取ったことと、切っても切れない。翻訳の本質と品位についてのこの感覚——そ れはいたるところから窺える——は、創作者にあっては必ずしも、もっとも強烈である必要はない」(岩波・野村修訳:81)。
(9)
・「翻訳者の課題は、翻訳言語のなかに原作のこだまを呼びさまそうとする志向を、その言語への志向と重ねるところにある。この点に、創作と はまるで違う翻訳の特徴がある。なぜなら創作の志向は、けっして言語そのものに、その総体性に向かうものではなくて、もっぱら言語内容の特定の関連へ直接 に向かうものなのだから」(岩波・野村修訳:82)。
「異質な言語の内部に呪縛されているあの純粋言語をみずからの言語のなかで救済すること、作品のなかに囚われているものを/言語置換[改
作]のなかで解放することが、翻訳者の使命にほからない」(ちくま文庫版 2:407-408)
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■「創作者の志向は素朴で初原的で具象的であり、翻訳者の志向は派生的・究極的・理念的」なぜなら「多くの言語をひとつの真の言語に積分す るという壮大なモティーフが、翻訳者の仕事を満たしている」からである(岩波・野村修訳:82)。
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・「翻訳は……文学作品がいわば言語の内部の山林自体のなかにあるのとは異なり、その山林の外側に位置して、その山林と対峙している。そし て山林に足を踏み入れることなしに、自身の言語のなかのこだまが他言語の作品のこだまとそのつど重なってゆけるような唯一無二の場所を見いだし、その場所 にあって、翻訳は原作を呼びこむのである。このように翻訳の志向は、原作の志向が向かうのとは別のものに、つまり他言語の個別的な芸術から出発しつつ総体 としての言語に、向かうわけだが、それだけではない。志向そのものもまた、翻訳と原作とでは違う」(岩波・野村修訳:82)。
■真理の言語
・「ところで、もしあらゆる思考が努力の的とする数かずの究極的な秘密が、みずからは沈黙しつつ、うちとけてそのなかに保たれているような 真理の言語があるとするならば、この真理の言語こそ——真の言語にほかならない。そしてまさにこの言語を予感し記述するところに、哲学者が自身のために希 望しうる唯一の完全ないとなみがあるわけだが、この言語は、じつは翻訳という翻訳のなかに、集約的に秘められている」(岩波・野村修訳:83)。
(10) ■翻訳の不可能性
・「翻訳者の課題がこのような光のなかに現われてくると、その課題の解決の方途は、いっそう見通しがたい闇に包まれてしまいかねない。じっ さい、翻訳において純粋言語の種子を成熟させるというこの課題は、畢竟解決できないもの、どのように解決されるとも定めえないものと思える。なぜといっ て、意味の再現が規準とはならなくなるのなら、解決は足許から揺らぐことになりはしないか? そしてこれまで述べてきたすべての考えは、裏返せばそれ以外 のことではない」(岩波・野村修訳:84)。
■忠実と自由
「忠実と自由——意味を再現する上での自由と、その作業過程にあっての語への忠実——は、あらゆる翻訳論議での古来の概念である。意味の再 現とは別のものを翻訳にもとめるような理論には、このニつの概念は、一見してはもはや役立たない。たしかに、この二つの概念の伝統的な用法はつねに、この 二つをとうてい両立しえないものと見なしてきた。なぜなら、意味の再現にかんしては、忠実は何ができるだろう? 個々の語の翻訳におげる忠実は、原作のな かで語がもつ意味を完全に再現することがほとんどできない。というのも意味は、原作にとっての文学的な意義からすれば、意味されるもので尽くされるもので はないからだ」(岩波・野村修訳:84)。
・ヘルダーリンのソポクレス翻訳の問題(岩波・野村修訳:85)
■言葉に対する翻訳
・「翻訳は、原作の意味に自身を似せてゆくのではなくて、むしろ愛をこめて、細部に至るまで原作の言いかたを自身の言語の言いかたのなかに 形成してゆき、その結果として両者が、ひとつの容器の二つの破片、ひとつのより大きい言語の二つの破片と見られるようにするのでなくてはならない。だから こそ翻訳は、何かを伝達するという意図を、意味を、極度に度外視せねばならぬ。この点で原作は翻訳にとって、何を伝達するべきかという次元の苦労を翻訳者 と翻訳作品とに免除してくれる限りにおいてのみ、本質的なものとなる。翻訳の領域においても、初メニ言葉アリキが妥当するのだ」(岩波・野村修訳: 85)。
■意味に対する翻訳
・「意味にたいしては、翻訳言語は自主的であってよいし、自主的でなければならならない。意味の志向の再現がめざされるのではなくて、その 志向を伝達していた原語にたいする補完物として、翻訳言語独自の志向の在りかたをひびかせ、そこに和音を生みだすことがめざされる」(岩波・野村修訳: 86)。
■語が根源的な要素
・「真の翻訳は透明であって、原作を蔽い隠すこともなければ、原作の光をさえぎることもない。真の翻訳は純粋言語を、翻訳の固有の媒体であ
る翻訳言語によって補強され増幅された分だけ、原作の上へ投げかける。そのことは何よりも、シンタクスを逐語的に訳出することから、可能になる。逐語性こ
そが、文ではなくて語が翻訳者の根源的な要素であることを、明証する。というのも、文は原作の言語の前に立つ壁であり、逐語性はアーケードだからである」(岩
波・野村修訳:86)。
※以前にはアーチとなっていましたふぁ、正確には下記のよ
うにアーチであるという御指摘をK.Akimoto
氏より御指摘いただきました。記して、訂正いたします。ちなみに晶文社版にはきちんとアーケード版となっております。現在、岩波文庫版が手元にない状態な
ので確認できませんでした。たぶん私の書き写しの際のエラーかもしれません。おわびして訂正します(2017年6月7日)。
Das vermag vor allem Wörtlichkeit in der Übertragung der Syntax
und gerade sie erweist das Wort, nicht den Satz als das Urelement des
Übersetzers. Denn der Satz ist die Mauer vor der Sprache des Originals,
Wörtlichkeit die Arkade.
(11)
・「あらゆる言語とその構築物には依然として、伝達可達なもののほかに、伝達不可能なものが内在している」(岩波・野村修訳:87)。
■純粋言語そのものの核
・「あらゆる言語とその構築物には依然として、伝達可能なもののほかに伝達不可能なものが内在している。それが置かれている関連に応じて、 象徴するもの、あるいは象徴されるものとなる何かが。象徴するものはもっぱら、諸言語の数限りない構築物のなかに、だが象徴されるものは、諸言語自体の生 成のなかに位置している。そして諸言語の生成のなかで自己を表出しようと、いや作り出そうとしているものこそ、あの純粋言語そのものの核にほかならない。 しかしこの核は、秘められた断片としてではあれ、それでも象徴される当のものとして現に生きているとはいうものの、諸構築物のなかでは、象徴するものとし ての形しかとらない。あの本質的なものは、諸言語自体のなかではもっぱら言語的なものおよびこれの変遷と結びついて、純粋言語そのものであるとすれば、諸 構築物のなかでは、重苦しい異質な意味をまといつかされている。この意味から本質するものを解放して、象徴するものを象徴される当のものに転化させ、純粋 言語の形成を言語の運動に取り戻すことが、翻訳の、力強い無二の能力である」(岩波・野村修訳:87)。
・「(ルードルフ・パンヴィツ『ヨーロッパ文化の危機』を引用して)翻訳者の基本的な誤謬は、自身の言語を他言語によって力づくで運動させ ることをせずに、自身の言語の偶然的な状態に執着しているところにある。翻訳者は、僻遠の言語から翻訳する場合にはとくに、語とイメージと音調とがひとつ になる究極の言語要素自体にまで遡って、これに肉迫しなければならない」(岩波・野村修訳:89)。
(12)
・「ある翻訳がどこまでこの形式の本質(=「語とイメージと音調がひとつになること」?)にふさわしいものとなりうるかは、原作の翻訳可能 性によって、客観的に規定されている」(岩波・野村修訳:89)。 ・「翻訳は、付着していいる意味の重さのゆえにではなくて、意味があまりにも一時的なものであるゆえに、明らかに再翻訳できない」(岩波・野村修訳: 90)。
・「テクストが意味に媒介されずに直接に、その逐語性において真の言語に、真理ないし教説に、結ばれているところでならば、テクストは徹底 的に翻訳可能である。ただしこのことは、もはやテクストのためではなくて、もっぱら諸言語のために意義をもつのだけれども。このテクストにたいしては翻訳 は、無限に信頼を寄せていなくてはならない。そうすれば、テクストにおいて言語と啓示とが、うちとけて合一しているように、翻訳において逐語性と自由と が、行間翻訳の形態をとって合一することなろう。なぜなら、あらゆる偉大な文書はある程度まで、しかし聖書は最高度に、その行間に潜在的な翻訳を内包して いるのだから。聖書の行間翻訳こそ、すべての翻訳の原像ないし理想にほかならない」(岩波・野村修訳:91)。
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アーカイブワークするヴァルター・ベンヤミンと、彼のノート(部分)
「アウラとはなにか?」ヴァルター・ベンヤミンのノートとその【英語翻訳】
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三島憲一によるベンヤミン「翻訳者の使命」の解説
ボードレール『悪の華』の中の「パリ風景」の対訳につけた序文。
芸術作品の絶対的な自存性から出発し、そうであるだけに作品の中に翻訳への可能性を要請が潜んでいること、そして当該作品から無限の翻訳可能 性が生じること、そしてひとつひとつの翻訳がまたそれ自身として、作品の〈死後の生〉の自存的形態であることを論じている。こうした思考を支えているの は、諸民族の言語の総体としての純粋言語という思考である。
一方でヘルダーリンによる『アンティゴーネ』の翻訳のようなぎくしゃくした訳、あるいは聖書の行間逐語訳のように〈教説〉が言語と一体化して いる翻訳可能性への信頼に基づいた訳が重視されると同時に、他方で、社会学的思考はいっさいないものの、結果として受容美学にも道を拓く内容である。 以上、(三島 1998:436)。
以下は、三島(1998:166- )からの諸説
・ボードレール(1821-1867)そのものの影響力の大きさ
M・ウェーバー『職業としての学問』に、真善美の分裂を示す例として、ニーチェとならんでボードレールの詩に言及。
・ベンヤミン(1892-1940)のライバルとしてのシュテファン・ゲオルゲ(1868-1933)
『悪の華』の翻訳者。ベンヤミンは1923年に対訳で出版するが、売れ行きはさっぱりだった。この翻訳に付した序文が「翻訳者の使命」であ る。
・関連するものとして「言語一般および人間の言語」の他、非感覚的類似性の議論や、ミメーシス能力に関する諸論文がある。→(三島 1998:123-126)
・翻訳理論に関する解釈学的立場:ガダマー『真理と方法』(1960):原文が多義的な場合は、翻訳者はひとつの解釈の立場を選んで訳すべきと みる。
・ベンヤミンの立場は、芸術の絶対的自存性を前提にする。また、翻訳はそれ自体で独立的存在である。翻訳される原文とは異なる別の言語の可能性 を拡げる。(この考え方は、1960年代末に登場する受容美学とも異なる)
受容美学 Rezeptionasthetik
1960年代末に文学研究から生まれた美学研究上の立場。受容者としての[主体からの]解釈行為の中から作品の意味を考えていこうとする。こ れに対して、作者の意図に主眼を置く美学概念は「生産美学」と呼ばれ、作品の成立基盤を重視する立場を「叙述美学」と呼ぶ。
「受容美学」の概念的基盤となったのはH・G・ガダマーの作用史概念である。このことを元に、それを定式化したのはH・R・ヤウス(→『挑発 としての文学史』轡田収訳、岩波現代文庫、2001)とW・イーザー(→『行為としての読書』『解釈の射程』)を中心とする「コンスタンツ学派」と言われ る。
ヤウスらは、作者も読者の1人として定位し、作者・テクスト・受容者の3極構造を分析した(『挑発としての文学史』)。ヤウスらは、未だ解釈さ れていない作品の「期待の地平」が、この3極構造にどのような影響を及ぼすかを解明しようとする。イーザーにとって、解釈される作品にとってもっとも重要 になるのは、読者であり、そもそも読者がいなければ作品の存立基盤そのものが揺らぐからである。このアイディアは、文学はコミュニケーションである、とい う単純化された命題で表象することができる。
文献
Wolfgang Iser, Das Fiktive und das Imagina"re. Perspektiven literarischer Anthropologie, 1991.
出典:暮沢剛巳「受容美学」 www.artgene.net/dictionary/cat74/
Walter Benjamin's Archive, Verso. 2007.
ウィキペディア(日本語)「イーザー」http://bit.ly/IiPU56
・作品の翻訳における〈死後の生 Nachleben〉という考え方が重要(→作品の自己展開という観点から受容美学にも関与する)。
1)言語は行動のための伝達の手段ではない
2)人間における多様な諸言語間の類縁性
3)芸術作品の自立的存在の客観性
(三島 1998:167-168)
・「純粋言語の前ではあらゆる志向が消滅する」(三島 1998:168)
・純粋言語とは……(三島 1998:169-170)
・翻訳とは非連続的存在である(三島 1998:170-171)
・「翻訳する側の言語は、歴史とともに変化していく以上、常に新たな、常に最終的な、作品の死後の生が作られねばならない。そしてそれぞれの バージョンは、原作の特定の側面、独自の存在へと救出しているのである」(三島 1998:172)。
「聞き手の語り手に対する素朴な関係は語られたことを覚えておこうという関心によって支配されている、ということは、これまでほとんど顧みられ ることがなかった。無心な聞き手にとって重要な点は、話を再現する可能性を確保することだ。記憶(ゲデヒトニス)こそ、他の何ものにもまして叙事的な能力 である。すべてを包括する記憶によってのみ、叙事文学は、一方では事物の成り行きをわがものとし、他方ではそれら事物の消滅、すなわち死の暴力と和解する ことができる」——ヴァルター・ベンヤミン「物語作家」1936年(Banjamin_NIkolai_Leskov1936.pdf)
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文献
その他の情報
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