ルカーチとシンプソン家
Lukacs [Gyorgy]and the Simpsons
パロディからはじめよう。あるいはクソ訓古学を嗤ってみよう。
〈もしビンラディン(Usama bin Muhammad bin 'Awad bin Ladin, 1957-2011)がこれまでの世界秩序の解体を告げたとしても、それはまさしく自分自身のあり方の秘密を表明しているにすぎない。なぜならばビンラ ディンは、この社会秩 序の事実上の解体であるからだ〉——(オリジナルはマルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』にあり、本物は彼の固有名の代わりにプ ロレタリアートという名詞が入る[cf. ルカーチ 1975:25])。
この文句を読んだ人が警世の念をもつならば、その人は、世の中の変動により今では歴史の変革者の 主役が代わったという予感をもつ人にほかならない。
ここでの授業は、ジェルジ・ルカーチの「物象化とプロレタリアートの意識」(1923)の読解を まずおこない、資本主義社会における人間と人間の関係が商品を通して、どのように客体化されるのかを理解する。次に、(ルカーチが描いた)資本主義社会に おける人間と家族のあり方を、マット・グロウニング原作『ザ・シンプソンズ』(シンプソン家)を題材に、ルカーチ流のマルクス主義的批判を実践する。
もし、どうしようもないホーマーやバートの中に、革命的精神を見るとするならば、それがポスト産 業化の「市民社会」——マスコミ用語のお茶の間と共に死語になりつつあるが——における理論についての実践である、ということだけではなく、実践そのもの のなかに理論(=社会を変革する設計図)が食い込んでいることを意味する。
「プロレタリア階級にとっては、自己意識がそのまま社会全体の正しい認識となり、しかもこの 現状認識が闘争において自己主張をする条件をつくりだし、社会変革を進める過程となるのである。プロレタリアートは、歴史過程における主体と客体との分裂 と統一という弁証法をもって生きるのであるから、そこでの意識化としての理論は、ただちに歴史過程を革命的におし進める実践となるのだ」[城塚と古田 1975:555]。
つまり、ホーマーやバート、そしてマージとリサは、傍観的事実——断片化され抽象化されたマッハ 主義的客観である——と、主観的な「あるべきこと」(定言命令法、Sollen, oughtness, devoir)の分裂の中を生きているのである。
現在において、よりよく生きようとするものは、マージやリサのように振る舞わねばならず、また、 身体活動における性向=配列(disposition)は、彼女たちの内面性をも規定している(内面性と身体活動は、もちろん〈弁証法〉的な関係にあると ルカーチ主義者なら言うだろう)。そして、彼女たちの思考・発想・発話・実践は、まさにブルジョア的デモクラシーの真骨頂ならざるを得ない。なぜなら、そ れは市民社会のもっとも〈合理的〉な実践を構成するからである。
「ルカーチの独自な立場は、商品形態があらゆる社会現象の基本的カテゴリーとなった資本主義 社会においては、この物象化が生産過程の抽象化(合理化)をもたらすだけでなく、政治(国家権力)の合理的組織化(官僚制)、法律制度の合理化をもたら し、さらにはイデオロギー(諸科学や哲学)の合理主義的・実証的な孤立化・固定化をもたらしたとし、ブルジョア的な思考や意識の根本的な欠陥を指摘するこ とにある」[城塚と古田 1975:558]。
冷戦構造の終焉が、資本主義的システムの「合理化」の勝利という歴史観(=「経済的合理/合理的 選択の勝利者史観」)で説明される今日において、ルカーチが、我々に問いかけた審問の検討は意義深いものがある。なぜなら、一方で自己正当化しか能のない 勝利者史観があり、他方で官僚的全体的社会帝国主義の理論という余計なノイズが低減した現在、よりクリアに画面の読解を試みることが可能になるからだ。
●物象化とプロレタリアートの意識、について
1.物象化の現象
2.ブルジョア的思考の二律背反
3.プロレタリアートの立場
頁 |
パラ |
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161 | 1 |
緒言 | 商品構造の謎の解明が重要 |
162 |
2 |
1.物象化の現象 1. |
商品構造の本質は、「人間関係」の隠蔽にある。 |
3 |
商品の物神性 ・商品流通の特徴(164-165) |
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166 |
4 |
・物象化「第二の自然」(166) |
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5 |
・物象化により、人間関係の客体化や、客体が人間から独立しているという感覚、固有の法則が人間を支配しているという感覚がうまれる(166-167)。 |
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167 |
6 |
・商品の普遍化は、人間労働の抽象化に直結する(167)。 ・テイラーシステムの合理機械化は、労働者の魂まで食い込む。 |
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170 |
7 |
・計算可能性の合理化 ・合理的分解化は、労働の「有機的部分」を破壊する=疎外労働 |
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171 |
8 |
・生産主体の分裂 ・時間の秩序化 ・「もの」と「活動」が、ひとつの空間のなかに凝縮される。 |
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173 |
9 |
・上のような状況は、資本主義社会の構造の「集中化」することが不可欠 ・つまり、労働を市場で自由に売却できる「自由」労働者があらわれることが不可欠(174) ・労働生産物の社会関係の凝縮が不可欠 |
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175 |
10 |
2. |
・資本主義生産の貫徹が必要 |
11 |
・合理的な客体化は、もの直接的ものの性格を覆い隠す ・人間関係のみならず、ものの性格も変える |
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12 |
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180 |
13 |
・物象化すると、そのものの背景にある人間的関係が見えなくなる。 |
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182 |
14 |
・近代システムと非近代システムのあいだの「断絶」 ・このような過程が、企業者と技術者、あるいは、その他もろもろの資本主義下における人間の態度が共通性を帯びるようになる |
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185 |
15 |
・近代官僚制をみるがよい。 ・物象化=資本主義におけるジャガーノートのような比喩をもちはじめる |
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187 |
16 |
・欲求充足の対象がすべて商品化する ・カントもいっている、性の共同体は性器的結合であり、結婚は両性の人間を結びつけることだ、と『道徳の形而上学』第1部第24節。 |
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188 |
17 |
・合理化の臨界点はどこだ?——恐慌 |
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189 |
18 |
・恐慌が「自然なプロセス」である理由は、これまで述べてきたような「合理的プロセス」が必然ではなく、偶然なものであるからの証拠になっている。 ・これをルカーチは「全体の非合理性」と呼ぶ。 |
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191 |
19 |
・「全体の非合理性」そのものは法則性をもつ。これが資本主義の法則性である。 ・それぞれの部分が合理的に(勝手に)すすんでいくと、全体の非合理的性格はますます強くなる。 ・そのような全体の非合理性を推し進めるのが「専門家」である。 ・エンゲルスは、このような専門家に「法律の専門家」がおり、彼らは、生産と商業に依存している。 |
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192-193 |
20 |
3. |
・業務の専門化で、全体像がうしなわれていく。 ・限界効用理論批判(193) |
195 |
21 |
・階級の社会的存在から出発し、存在を概念的に把握し、必然と欲求から成立する科学論 ・恐慌という課題 ・ヒルファーディングによる批判:量的な分析に質的なことを加味する必要がある(196) ・全体性の消失(ローザルクセンブルグの指摘)(197) |
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198 |
22 |
・「君たちは法を犯し、そして新しい法をつくるのだ」ヴォルテール ・カント主義者のフーゴーの奴隷制擁護の主張は、ブルジョア社会の法の構造と同じと批判(199) |
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23 |
・国民経済学は、恐慌を理解できず、法学者は法の物質的根拠を理解できず(201) |
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202 |
24 |
・取って返した刀をブルジョア哲学にも向けて「全体性」把握の不可能性を論じる ・総じて、近代ブルジョア思想の総切り、という感。 |
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205 |
25 |
2.ブルジョア的思考の二律背反 |
(合理主義と非合理原理を共存させる企ての失敗を言いたいのか?) |
26 |
1. |
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27 |
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28 |
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29 |
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30 |
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31 |
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32 |
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33 |
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35 |
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36 |
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37 |
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225 |
38 |
2. |
・古典哲学は過去の形而上学的な幻想を打ち砕いたが、自分たちの前提に関しては無批判で、そのまま形而上学的に受け入れた(225) |
226 |
39 |
・フィヒテ |
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40 |
・主客の統一性=活動性(227) |
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41 |
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229 |
42 |
・カント批判 |
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43 |
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44 |
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45 |
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46 |
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235 |
47 |
・数学や自然法則の必然性が認識の理念(主題?)になると認識は、主体の関与なしに現実のなかで働くようになる。このようなモーメントは、主体概念そのものを無化し、主観は単なる形式だけに陥ってしまう(235) |
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48 |
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236 |
49 |
・人間の認識論の不可能性(236) |
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50 |
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239 |
51 |
・このようにしてあらゆる人間関係が自然法則の水準におかれる。他方で、自然は「ひとつの社会的カテゴリー」でもある。カテゴリー概念の恣意性(=非自然法則性)と先の人間関係の自然法則的把握の理念とは明らかに衝突するだろう。 ・ヘーゲルは、フィヒテとの論争で、フィヒテの国家は「ひとつの機械」と主張するが、これは古代の原子論と変わらぬと批判する。 ・マルクス「デカルトが動物をたんなる機械だと定義するとき、中世とははっきり区別されるマニュファクチャーの時代の目でみている。中世は動物は人間のヘルパーとしてみていた」(239) |
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241 |
52 |
・エンゲルスの物自体に関するルカーチの批判 |
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245 |
53 |
・『実践理性批判』における合法則性と個人の倫理実践における「内的な自由」の分裂(245) |
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246 |
54 |
3 |
・プレハーノフ |
248 |
55 |
・1)合法則性に叶う自然 ・2)価値概念としての自然 ・3)物象化された定在の問題性を克服する自然(249) |
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250 |
56 |
・純粋理性と実践理性の止揚できない二元性(250) ・芸術の例外的存在(251) |
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251 |
57 |
・芸術の原理=形式の構想にしたがって具体的総体を創造することである。 ・カント『判断力批判』では、彼は、原理なしに融和しえない対立を媒介する役割、つまり体系を完成する機能を、原理に与えたのだ。 ・この原理は、芸術という現象を理解し解釈する枠組みを与えただけではなかった。この(発見された)原理は来歴からみてカントの自然概念と結びついている ために、さまざまな意味で解決できないすべての問題を解決する原理を、カントはその使命として与えたのであった(251) ・フィヒテによると、芸術とは「先験的観点を公共の観点とすることである」(『倫理学体系』第3部31節) |
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252 |
58 |
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253 |
59 |
・「人間はかれ(ママ)が遊んでいる場合だけ完全な人間なのである」シラー「人間の美的教育論」序文 |
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254 |
60 |
(シラーの議論をうけて蘊蓄のある主張がなされている) |
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61 |
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257 |
62 |
4. |
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63 |
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260 |
64 |
・スピノザの評価 |
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65 |
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66 |
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265 |
67 |
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266 |
68 |
・古典哲学の隘路 |
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69 |
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70 |
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27 |
71 |
3.プロレタリアートの立場 |
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72 |
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273 |
73 |
1. |
・マルクスのいう「価値判断」の重要性 |
278 |
74 |
・ブルジョア的方法論の限界 |
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75 |
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76 |
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77 |
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283 |
78 |
・直接性と媒介性 |
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284 |
79 |
・ジンメルのいう、物象化のイデオロギー的意識構造(284) |
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80 |
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81 |
2. |
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82 |
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83 |
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85 |
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297 |
86 |
・プロレタリアートの二重性(297-298) |
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87 |
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88 |
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300 |
89 |
・マルクス「時間は人間の発展の場である」『労賃、価格、および利潤』 |
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90 |
・このあたりから、プロレタリアートの自己意識の問題が徐々に議論されはじめる。 |
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91 |
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92 |
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304 |
93 |
・「労働者が自分を商品として認識することは認識としてはすでに実践的である」(304) |
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94 |
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95 |
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306 |
96 |
・プロレタリアートとブルジョアの自己認識の類似性 ・ブルジョアには、資本主義の合理化にいたる意味の道が拓けている |
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307 |
97 |
・プロレタリアートには、この(ブルジョアの)過程が、階級としての自己意識へと変化する(量から質への変化) |
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307-309 |
98 |
・ただし、プロレタリアートがそのような「階級としての自己意識」を獲得するためには、「定在の虚偽の現象形態の止揚」が必要になる(309) | |
99 |
・労働者は自分を労働力商品としての自覚が必要になる(310) ・マルクスが驚愕したプロレタリアートが目の前の資本家のみならずその場には存在しない金融家への憎悪という想像力=妄想力は、開発途上地域をフィールド ワークしたことのある人類学者なら「民衆反乱時における暴力の発露」の攻撃対象に他ならないことを知っているはず(311) |
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312 |
100 |
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101 |
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102 |
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103 |
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317 |
104 |
・プロレタリアートの疎外感覚「実現すべきいかなる観念ももっていない」(317)は、革命への希望的推進力であるとも読み取れる。 |
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318 |
105 |
・「ブルジョアジーにとって暴力とは、かれらの日常生活を直接的に継続することである」ルカーチ(319) |
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320 |
106 |
・物とは過程に解消あれた契機である(320) |
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323 |
107 |
・たんなる経験の「事実」よりも歴史の発展傾向のほうがより高次の現実性を付与される(323) |
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108 |
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326 |
109 |
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329 |
110 |
・物象化の弁証法 |
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111 |
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331 |
112 |
・フォイエルバッハによる哲学の人間学化への批判(332) |
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113 |
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114 |
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334 |
115 |
・歴史弁証法 |
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116 |
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337 |
117 |
・マルクスの「ヒューマニズム」問題(337-) |
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118 |
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119 |
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120 |
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121 |
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344 |
122 |
・「非決定論」 |
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123 |
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124 |
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349 |
125 |
6. |
・物象化論まとめ |
126 |
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127 |
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352 |
128 |
・客体の変革について(352) |
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129 |
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130 |
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131 |
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132 |
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361 |
133 |
・「プロレタリアートの階級意識」 |
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134 |
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135 |
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364 |
136 |
・ヘーゲル弁証法 |
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366 |
137 |
・「プロレタリアート自身の——自由な——行動」(366) |
■ルカーチの媒介の概念
「ルカーチの著作におけるキー概念のひとつは媒介である。それが意味するのは、社会的「事実」は存在しない、ということである。すなわち、 社会的 現実のいかなる面も、最終的な形である、あるいはそれ自体で完結していると観寮者に理解されることはありえない。媒介という考え方は次のことを認 める一一諸事実の個別的な「直接性」は、生成の過程にある「全体的な」現実によって不断に凌駕され続ける。そして、直接性のこうした乗り越えを実 現するためにプロレタリアートの意識がとるべき唯ーの形式は、共産党である。 古典的なドイツ観念論〔理想主義〕の最終目標は、客観的 現実として の自由と、人類愛それ自体によって作り出されるものとしての自由とを統ーすることであった。この目標の実現をルカーチは目指したのである。それ は、ルカーチ自身がのちに言ったように、「ヘーゲルを超ヘーゲル化する※」試みだった(p.88)。
※ルカーチ著作集第2巻への序文、1967年(英語版?)
「ルカーチの主要な関心は物象化にある。すなわち、歴史の 資本主義段階において、もろもろの社会的存在が「物象」へと変えられ、意味の世界が空洞 化されることである。あらゆるものは物象化されて〈商品〉となり、その結果、人間が生産した世界が、人間に敵対的で疎遠なものとなる。このことを ヘーゲルは「疎外」と呼んでいたが、マルクスは「商品 フェティシズム[物神崇拝]と分析した(p.89)。
ハワード・ケイギル, アレックス・コールズ, リチャード・アピニャネジ『ベンヤミン』久保哲司訳、筑摩書房、2009年
● チェックポイント
プロレタリアート、歴史、事実、物象化(→商品の物神性)、疎外論(初期マルクス)、抽象的 人間労働、労働力商品
● その後のシンプ ソン家
ポスト9/11 における最大の事件は、マージが2009年11月『プレイボーイ』誌のカバーガールに選ばれたことだ。既婚者であることのみならず、アニメの主人公である ことなど、異例ずくめではあるが、21世紀[少年]性を典型的に表現している。
Irwin, William, Conard, Mark T and Skoble,
Aeon J. eds., The Simpsons and philosophy : the d'oh! of Homer. Chicago
and La Salle: Open Court, c2001,
● その後のシンプ ソン家
ジェルジ(ドイツ語読みではゲオルグ(Georg))・ルカーチ Lukacs Gyorgy, 1885-1971
● 文献
◆ 資料リンク
▲ 文化人類学のパワーアップ・ツール
白水社版・ルカーチ著作集(巻別構成)
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099