現場と道具
Tools and their Contexts
現場と道具(→「道具と人間の身体がつくる世界」)
池田光穂(阪大CSCD): 現場力と実践知(Practical wisdom for Human Care)第8回 2010年11月30日
今日の実習
下記のスクリプトを実際に演じてください。最低「入室者(ゲスト)」と「接遇者(ホスト)」の役割を1度は演じるように。他の人たちはギャラ リーとして、2人の行為を観察する。
ゲスト:ノックする(あるいはコンコンと発声する)。その後、部屋に入る。
ホスト:「やあ〜♪ 」と言って椅子からたちあがり、ホストに近寄り、手を差し伸べる。
ゲスト:「久しぶり〜♪ 」といって、ホストの出した手をとり、握手する。
ホストとゲスト:お互いに適切に挨拶が終了したと思った時点※で手を離す(※時間任意:ただし10秒以上続けない)
記述すべきメモ
1)ゲストとしての経験(とりわけ身体に関する事柄)を記述する
2)ホストとしての経験を記述する
3)ギャラリーとして2人の行動を観察した時のことを思い起こして気づいたことを記述する
振り返りのための資料
【泳法の変化】
「かつてはわれわれは泳ぎを知った後ではじめて潜水を習ったものである。また、われわれは潜水を習ったときに、眼を閉じ、それから水中で眼 を開くように教えられた。今日の泳法ではその逆である。子どもを水中で眼を開いたままにしておくのに慣らすことから一切の遊泳が開始されるのである。この ようにして、子どもは、泳がないうちから、眼の、危険でしかも本能的な反射を抑制することをとくに稽古させられ、なによりもまず水に馴れさせられるわけ で、恐怖が除去され、多少の安心感が生れて、休止と運動が選択されるのである。それゆえ、わたくしの時代に発見された潜水の技法とその教育の技法が存在す るわけである。そこで、技法の教育ということが問題であり、また、すべての技法について言えるように、遊泳の練習というものが存在することが分るであろ う。他方、われわれの世代は、ここで技法の完全な変化を目のあたりにするのである。われわれは、平泳と頭を水面に出した泳ぎが各種のクロールにとって代ら れるのを見てきたのである。さらに、水を呑込んで吐き出す慣わしもなくなった。というのは、われわれの時代には、泳ぐものは自分をまるで汽船のように見立 てていたからである。それは馬鹿げたことであった。がしかし、結局のところ、わたくしは依然としてそのような動作をしているのである。わたくしは自分の技 法から脱することができないのである。そういうわけで、このようなものがわれわれの時代の特殊な身体技法、改良された体操術ということになる」(モース 1976:123-124)。
【道具と身体の結びつきの強さ】
「しかし、このような特殊性は技法全体の特色でもある。実は、わたくしは第一次大戦時中にこのような技法の特殊性に関する多くの見聞をする ことができたが、シャベルの使い方もその一例である。わたくしと一緒にいた英軍はフランス製のシャベルを使うことができなかったので、われわれがフランス 軍の一師団を交代させる場合には、師団ごとに8万丁のシャベルを取り替えることを余儀なくされたし、その反対の場合も同じようにしなければならなかった。 このことからも、手先の器用さというものがいかに徐々にしか習得されるにすぎないものであるかは明白である。いわゆる技法なるものには、すべてその型があ るのである」(モース 1976:124)。
【身体技法は意識的/無意識的に学ばれる】
「わたくしはある種の啓示を病院から得たのである。わたくしがニューヨークで病気になったときのことである。わたくしは、以前に付添いの看 護婦と同じ歩きぶりをする娘たちをどこかで見たような気がすると思った。わたくしは落着いてそのことを想い出してみたのである。やっと、わたくしはそれが 映画のなかであったことに気付いた。フランスに帰ってからも、とりわけパリで、よくこんな歩き方がわたくしの眼を惹いた。若い娘たちはフランス人であった が、彼女らもまたそのように歩いているのである。事実、アメリカ人の歩き方が、映画の力でわが国で見られはじめたのである。これは、わた、くしが一つの観 念に一般法則化することができるものであった。歩いている聞の腕の位置や手の位置は社会的な特質を形成していて、たんに純粋に個人的で、ほとんど完全に心 的な、なんらかの配置や機構の所産ではない、ということである。一例を挙げると、わたくしは修道院で躾を受けた若い娘を見分けられる、と思っている。それ らの娘たちは普通、こぶしを握りしめて歩くのである。また、わたくしは、《君はいつも大きな手を開けたままで歩いて、まるで動物と同じだぞ》とわたくしに 言った高等学校第六年級の担任の先生のことをいまでも覚えている。だから、歩き方の教育もまた存在するのである」(モース 1976:126)。
【身体技法:身体の道具化?技法の身体化?】
「われわれは、多年にわたって、道具がある場合にかぎり技法が存在すると考えるだけだという基本的な誤りを犯してきたし、わたくしもその例 外ではなかった。プラトンが音楽の技法、とくに舞踊の技法について語っているように、技法についての古代の概念というか、プラトンの所与に立ち戻り、つい で、その概念を拡張する必要があった。わたくしは有効な伝承的行為を技法と呼ぶ(そして、御存知のように、それは、この場合、呪術的、宗教的、象徴的行為 と別個ではない)それは伝承的で、しかも有効でなければならない。伝承なくしては、技法も、伝達もありえない。人間はそこでなにはさておき動物と区別され るのであって、技法の伝達、それもおそらくは口頭に基づく伝達によるのである」(モース 1976:132)。
【身体は技法対象であり、同時に技法手段】
「以上の諸条件を考慮すると、われわれの問題は身体技法にある、と端的に言わねばならない。身体こそは、人間の不可欠の、また、もっとも本 来的な道具である。あるいは、もっと正確に言えば、身体こそは、道具とまでは言わなくとも、人間の欠くべからざる、しかももっとも本来的な技法対象であ り、また同時に技法手段でもある。そうなると、わたくしが記述社会学で《様々な》と分類したものの、かの大範疇そのものが、たちまちこのような見出しから 消え失せ、形式と内容を取得することとなり、われわれはそれをどこに位置づけるべきかが分るのである。/道具を用いる技法に先立って、ありとあらゆる身体 技法がある。」(モース 1976:132-133)。
マルセル・モース『社会学と人類学 II』有地亨・山口俊夫訳、弘文堂、1976年
【池田の記録】
1)ゲストとしての経験(とりわけ身体に関する事柄)を記述する
・N先生がホストだったので、私は自然に握手した
・私は比較的意識的に彼女の眼をみるようにした。
・自分が(この授業の)司会者だったので、自分が終わりのタイミングをとるようにした。
・Nさんが立ち上がる前に、私を見上げたような気がした
・手を差し伸べるときに、どのような意識が去来するのか、他人の感じが気になる。
2)ホストとしての経験を記述する
・ひときは大きな声でゲスト(K君)を迎え入れるようにした。
・私の手は彼の肩に手を当てていた。これは自分がよく親しい人にする挨拶の様式である。(ただし出会いよりも、別れによく使う)
・ホストとして「あら〜っ」という声をあげたような気がする。彼の肩に手を当てながら。
・お辞儀をしていた。日本人は、握手してもお辞儀するので、極端な近接は視線を外すほうが礼儀正しいと考えるのではないか? つまり、闇雲 なアイコンタクトの主張は、日本人の挨拶の文化的パターンに必ずしも馴染んでいるわけではない。
3)ギャラリーとして2人の行動を観察した時のことを思い起こして気づいたことを記述する
・どの時点で終わろうとしているのか、困っているようなので、途中で私が割ってはいって「はい、ここまで」ということで、ようやくスムース に終わるようになったと思う。
・最初のコンコン(戸を叩く)への入り方が、最初のグループのほうがさっさと始まるような感じがしたので、タイミングをずらすように指示を した。なぜみんなは早くすますようになるのか?
・ギャラリーとしては、演技者の行動が面白くもあり、またつまらなくもあったので、アンビバレントな気分だった。
・人は他者の視点をどのようにして獲得するのか?(ミラー細胞なんか発見される前から、そうだろうという予測はしていたので、この科学上の 発見は、私にとっては何の新鮮味もなかった。逆に予言の自己成就ではないかと勘ぐるほどだ)
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■ルカーチの媒介の概念(→ルカーチとシンプソン家)
「ルカーチの著作におけるキー概念のひとつは媒介である。それが意味するのは、社会的「事実」は存在しない、ということである。すなわち、 社会的現実のいかなる面も、最終的な形である、あるいはそれ自体で完結していると観寮者に理解されることはありえない。媒介という考え方は次のことを認め る一一諸事実の個別的な「直接性」は、生成の過程にある「全体的な」現実によって不断に凌駕され続ける。そして、直接性のこうした乗り越えを実現するため にプロレタリアートの意識がとるべき唯ーの形式は、共産党である。 古典的なドイツ観念論〔理想主義〕の最終目標は、客観的 現実としての自由と、人類愛それ自体によって作り出されるものとしての自由とを統ーすることであった。この目標の実現をルカーチは目指したのである。それ は、ルカーチ自身がのちに言ったように、「ヘーゲルを超ヘーゲル化する※」試みだった(p.88)。
※ルカーチ著作集第2巻への序文、1967年(英語版?)
「ルカーチの主要な関心は物象化にある。すなわち、歴史の 資本主義段階において、もろもろの社会的存在が「物象」へと変えられ、意味の世界が空洞化されることである。あらゆるものは物象化されて〈商品〉となり、 その結果、人間が生産した世界が、人間に敵対的で疎遠なものとなる。このことをヘーゲルは「疎外」と呼んでいたが、マルクスは「商品 フェティシズム[物神崇拝]と分析した(p.89)。
ハワード・ケイギル, アレックス・コールズ, リチャード・アピニャネジ『ベンヤミン』久保哲司訳、筑摩書房、2009年