医療と翻訳
——翻訳行為としての保健(医療行為の新解釈)にむけて——
池田光穂
1.
はじめに
なぜ、医療が〈翻訳〉なのか? あるいは〈翻訳〉でなければならないのか? または医療はひょっとしたら〈翻訳〉かもしれないのか? さらには医療を
〈翻訳〉として捉えることに、どのような意味を私たちは生み出すべきなのか? そして私たちの声に耳を傾けてくださる参加者の皆さんに対して、私たちはど
のような演出的効果に基づき、この心証を伝えるべきなのか?
無責
任な事ながら、今となっては、なぜ医療が〈翻訳〉なのか、という香具師の口上と見まがうような、スローガンに自分自身で興奮して、学会発表の予稿集
の原稿をかつての私が書いたのか、全く不明である——あるいはそのような動機は現在忘却の彼方にある。それゆえに、無責任ついでに「医療が〈翻訳〉である
ことは、私の錯認であり、妄想でした。ゴメンナサイ、他意はございません」と釈明すべきなのか? だが待てよ?!これは本当に不誠実で無責任な発話なの
か? 発話者自身による〈釈明〉というのは、彼/彼女の〈真意の表明〉あるいは〈真意の翻訳〉であるかぎり、それは完全に無責任とは言い難い。そして研究
者どうしの繋がりが仮に刹那的であったとしても、当事者たちが重要だと思えることを腹蔵なく語り議論することは、まったく倫理的な行為でもあるようにも思
える。
我々が、翻訳という社会的事象や翻訳行為という社会的実践にまつわる発話をおこなう時に、しばしば出会う形容詞あるいは形容詞句として「原文に忠実な
(to make it
fidelity)」あるいは、そうでない(=忠実ではない)という表現がある。では、なぜ翻訳は忠実でなければならないのか、あるいは、場合によっては
「原文に忠実である」以上の要素を、翻訳家は時に「大胆に」読者に対してしかけるものなのだろうか。そこでは、翻訳という倫理的実践(by one's
fidelity)がもたらす価値と、原典の翻訳を読む人たちに齎すなんらかの価値の間で、その優先事項をめぐって、葛藤あるいはバトルが行われているこ
とを示唆する。このことは、翻訳家が生み出す翻訳をめぐる彼/彼女自身による翻訳語の選択や、その言葉が読者に対して齎す効果をめぐる、ぎりぎりの緊張感
が張りつめる議論にのみ有効なことなのだろうか。いや、現実には、いっけん素朴に思えるような教室内の英文解釈の授業においても、先生は生徒に、文法通り
の翻訳を心がけることを促しながら、実際にはその訳文を聴きながら、文脈を配慮した訳語の選択や著者の「言いたいことは何?」という、メタ解釈的な尋問を
おこなっているではないだろうか。そこでは、文章に忠実であるだけでなく、時にはその忠実性を犠牲にしても、著者(あるいはその主張)を適格に理解し表現
することが優先されることすらあると、先生は生徒に諭す。どんなレベルの翻訳者にも、複数の実践に即した複数の〈戦略〉があり、先生は生徒に対してこれを
有効に組み立てるように促す。原文に忠実(=倫理的)であることよりも、真意を理解し、そして伝達するという実践を通して読者に倫理的(=忠実)であろう
とすることとは、いったい何を意味するのか。これらの一連の言語活動は、ただ単純にそして時間のプロセスにとって均質的に倫理的であれということではな
い。そうではなく、翻訳は複数の行為からなり、それぞれの行為への忠実さには、なんらかの倫理の異所への配分(dislocation of
ethics, ethical
dislocation)、発話行為の中での要素間においてなんらかの倫理の不均等配分を行うことを意味しているのではないだろか。
2.
社会行為としての翻訳
医療も翻訳も、社会的実践であるので、その実践が行為者に対して暗黙裏に促す、あるいは仕向ける〈社会的行為の目標〉から、医療と翻訳を考えてみるのも
よかろう。医療というのは、病気を治すということを最終的な目標(telos)とする、プラグマティックな行為である。同様に、翻訳もまた文章をある言語
から別の言語へ、その多くは他者の言語から自分たちの言語へ、意味を伝える、やはりプラグマティックな行為である。この点において、医療も翻訳も、その実
践の構造と機能にはなんらかの共通性、あるいは並行性(parallelism)が見出すことができる。
というわけで、医療と翻訳を併置してみて、どちらがその行為の本源的な(primordial)ものであるかという斟酌や判別は、それほど生産的なもの
とは言えない。すくなくとも、この学会やこの企画に集った研究者たちは、保健や医療という実践行為の社会的文化的側面に関心があり、それをどのように理解
し、また、学問的にも実践的にも、それらの理解の成果を現実の保健や医療の分野に押し戻してゆくのか、ということに関心をもっておられる方々だからであ
る。だから、どうしても、我々は翻訳と医療の並行関係を論じながらも、医療や保健に関する実利的関心のほうに(最終的に)回帰せざるを得ないのである。そ
れゆえ、冒頭に吐露した私の現在の混乱とは裏腹に、予稿集では〈翻訳〉というメタファーあるいは隠喩的想像力が、医療と人類学の実践の現場において、どの
ような形で動員されているかということをあぶり出すこと」というこの集まりの目的を、なんの造作もなく——もちろん論証抜きで!——記述することができた
のである。また、翻訳と医療という現象の並行関係を、文化的社会的現象だと考えた際に、それらの異質なる目的と役割を果たすこの2つの行動を「比較」とい
う方法を通して、その内的な機構(mechanism[s])——仮にそのようなものが予め存在するとして、あるいは解析のためのモデル構築として——を
明らかにしたいと考えたのである。このような探究のプロセスは、それ自体が「医療の翻訳」あるいは医療というものを対象とした「翻訳の行為」(act
of
translation)という術語で表現される。しかし、翻訳行為としての医療行為の社会学的(あるいは人類学的)翻訳——さらには文化の解釈学——と
いうものは、その議論の構造から、どうしても堂堂巡りの循環論を生起してしまう。ちょうど解釈学における部分と全体の循環のごとくである。解釈学における
循環とはこういうことである。全体を理解しようとする際に、全体を構成する部分の理解が不可欠であるが、その部分を理解するためには、全体に関する予見的
な理解を不可欠なので、この解釈探究には終わることがなくなってしまうという「循環」が生じてしまう。
だが別の観点からみると、議論のポイントは、医療と翻訳の実践行為の並行関係だけにあるのではない、とも言える。なぜなら、医療という全体的行為のなか
に、翻訳という部分的行為があるのだという見解であって、医療は解釈だけから成り立っているのではないという主張である。翻訳という実践は、英文解釈やオ
リジナルの文芸作品の言語が、別の言語体系への〈転移〉や〈移植〉という狭義の意味の他に、あるものと別のものを関連づける実践、あるいは、あるものと別
のものを結びつける行為もまた指している。したがって、医療行為は翻訳行為である、と表現することは誤りだが、医療行為の中にさまざまな翻訳実践というも
のがある、と主張することに大きな反発は予想されないだろう。
3.メタ翻訳行為
これらの一連の解釈行為、それらは、実際の医療や実際の翻訳という実践を、さらに翻訳する医療社会学や医療人類学の実践も内包する。この後者の実践は、
実際の医療や実際の翻訳という実践を、翻訳という異なった論理階梯のフレームあるいは、メタファー的転移の記号論的位相の中で捉える試みなので、それを
〈メタ翻訳〉と呼んでもよいだろう。そして解釈学的循環と同様に、論理階梯や記号論的位相が仮想的に峻別されていない限り類似の循環が起こる可能性をも
つ。にも関わらず、この翻訳としての医療を〈メタ翻訳〉する医療社会学や医療人類学という試みが陥る翻訳論的循環への危惧に対して、我々が楽観的にならざ
るをえないのは、なぜだろう。それは、医療という行為実践が、解釈学的循環をもたらすような高度な自己反省機能をもった複雑な現象というよりも、むしろ、
外国語翻訳における定型句の翻訳のように、その都度の解釈で了解しつつ、翻訳のプロセスを先に進めてゆき、翻訳を完成させること、すなわち、病人を治癒す
るという終局的目的(telos)を持続させる、極めて健全な行為実践であることだからである。したがって、フィールドワークにもとづく経験的な手法を用
いて医療現象を調査する研究者の関心は、説明モデル(クラインマン)のような医療という形式の本源的図式——このことに対する反論は承知の上で——を、そ
れぞれの文化形式による修飾という形で説明すればよいということになる(Fabrega and Silver 1973; Frake 1980)。
以上のような小難しいことを言わなくても、医療と翻訳の間には非常に分かりやすい並行関係が見て取られる。そのことを次の一連の命題から考えてみよう。
この ページは「文化の翻訳」という人間の基本的な行動のレパートリーについて、ふたつの社会活動の比較の観点から考察するものである。そのふたつの 〈翻訳〉とは、まずひとつは、私の専門領域をなす文化人類学でおこなう「文化現象の翻訳」であり、他のひとつは私が近年、研究対象として関わるようになっ た、制度的通訳とりわけ公共サービス通訳における必要不可欠な実践課題とされている「言語文化の通訳・翻訳」のことである。
結論 を先取りして言えば、前者の翻訳は、文化人類学とりわけ北米学派において中心的な規範をなす「文化の解釈」(interpretation of cultures)[1]のことでありアート的な知的伝統のことをさす。この知的伝統には社会の価値意識と美的判断が含まれる点で、むしろそれは同時に文 化人類学者たちが共有しているエートスであると言ってもよい。また後者の通訳・翻訳は、多文化・多言語状況における民族的少数派の人権を保護するための具 体的な実践に連なるため、テクネーとしての正確さや技量が求められる「翻訳の行為」(act of translation)を指す。
未
完:現在、改稿中デス:以下も参照してください。
翻訳者の課題(翻訳者の使命)ノート
「人類学者は、数カ月ないし数年間、未開民族と生活を共にします。そしてできるだけ彼らと親しく 生活し、彼らの言語を学び、彼らの観念によって考え、彼らの価値観に従って感ずることを学びとります。そこで、人類学者は、自分の文化の、概念上のカテゴ リーや価値観によって、また人類学の全般的な知識によって、未開人との生活体験を、批判的に捉え、これに解釈を加えてゆくのです。言いかえますと、人類学 者は一つの文化を別の文化に翻訳するわけです。」(p.22)。これは歴史家がやっていることと同じである(p.25)。「社会人類学者が 社会生活を直接に研究するのに対して、歴史家は文書とその他残されている資料によって間接的に研究するという事実」があるが、「この違いは、研究技術にか かわるものであって、方法論的なものでは」ない(p.25)。歴史学も社会人類学も(クローバーに倣って)「出来事を統合的に叙述する」ことにある。すな わち<通時的>vs.<共時的>という違いは「特殊条件における力点の違い」であり、「両者の実際の関心の違いを意味するものではない」。民族誌的モノグ ラフ(ethnographic monograph)に近い歴史書としてブルクハルト(1818ー1897)『ルネサンスの文化』があり、人類学者が書く歴史書として(他に例がないとい う理由で)E・P『サヌシのキレナイカ』Sanusi of Cyrenaicaをあげる(p.26)。
para Walter Benjamin, 1892-1940
文献
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