文化の翻訳に資格はいらない
―制度的通訳と文化人類学―
Everyone interprets with other cultures in one's own perspective!
文化の翻訳に資格はいらない:制度的通訳と文化人類学
多言語・多文化の共存状況のなかで何らかの公共サービスが必要とされる社会や時代において、通訳者の資格の標準化や(専門職業としての)倫理 的規範の確立は不可欠です。ここでの問題は(1)いったい誰が、(2)別の誰に対して、(3)どのような権限を、(4)どのようにして与えるのか、そして (5)どのようにしてその制度を維持するのかということについて基本的設計をおこなうことです。また、このような制度設計の構築とそれに関するさまざまな 予算(資金)の充当に関する議論は、広く公開された状況のなかでおこなわれ、その結論への到達には多くの人たちの合意が得られなければなりません。
他方、人間の社会ではたとえ同一の言語を使用している際にも、標準語と方言、ジェンダーや世代の違い、専門家と非専門家などの差異による多様 な言語使用の実態がみられます。さらに同一文化においても人びとのあいだに(水と油との関係にも似た)価値観の多様性があります。人間が社会性を営むとい うことは、この種の言語使用と文化の解釈を不断に行っていることにほかなりません。ただしこの日常的実践は、我々がほとんど意識することなしに、おこなっ ています。つまり対話にもとづく合意形成を目的としているのではなく、生存のためにやむを得なくおこなっており、また自分自身の理解の〈誤読や誤訳〉さら には他者への〈偏見の確認と助長〉をも含むものです。
ここで重要なことは、資格化が求められている公共サービス通訳も、我々の生存のための状況の試行錯誤に満ちた解釈もまた、ある言語や文化を別 の言語や文化に置き換え理解するという、〈翻訳〉という概念を使っていることです。このために、現場では混乱がおこります。たとえば次のような不満や苦情 が考えられます:「配偶者や親族が翻訳することができるのになぜ有料の医療通訳者が必要なのですか?」や「通訳者は致命的な誤訳に対してそれに見合った責 任を負うのだろうか?」というふうに。
かたや責任に満ちた公共サービスとしての〈翻訳〉と、こなた、ふつうの人が誰でもおこなっている言語や文化の〈翻訳〉が、共通のひとつの用語 で表現されていることがここでの問題です。このようなジレンマを解消するために、日本人が得意とする外来語の輸入や奇天烈な新造語をつくる必要はありませ ん。まったくもって、両者はそれぞれ別々の人間にとっての基本的な制度や慣習であるということを理解することです。前者には先例がない場合は新たに作りだ さねばなりません。これには慣習に縛られることなく、諸外国の実例を参考にしながらもっとも適切なものを試行錯誤しつつ作り上げる覚悟が必要ですし、その ために多くの市民の味方を得ることが不可欠です。また後者の実態についての深い理解が不可欠です。文化人類学はこれらの支援に十分な威力を発揮するでしょ う。
日本パブリックサービス通訳翻訳学会第4回大会シンポジウム「通訳者の資格につ いて」大阪市 2008.10.5
多文化共生社会(池田光穂)