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多文化共生社会

Multicultural Symbiotic Societies

池田光穂

多文化共生社会とは、複数の他者の民族、他者の文化の相互承認と共存が可能になっている社会の 状態のことである[定義:Multicultural Symbiotic Societies](→ポータルは「多文化共生はじめの一歩」)。

The definition of our "Multicultural Symbiotic Societies," or the TABUNKA-KYOSEI-SHAKAI is the society or the societal situation in which our culture share common value with other cultures, then we can feel the symbiotic social condition without any kind of violence.

文化人類学やエスニック研究領域では、この用語に類するものとして、多文化社会(multicultural society)あるいは多民族社会(multi ethnice society)というものがある。文化民族というもの が複数あるという見方である。

しかし日本語使用の文脈では、多数派である「日本人」のなかに複数の少数民族集団を受け入れるとともに、民族間の紛争なく調和した状態を保つこ とが不可避であるという(いまだ十分国民の間ではコンセンサスがあるとは言えない)認識があり、これが逆に平和共存を暗示する「共生」という文言が入った 理由かもしれない。被差別部落民や在日コリアンに対する人権差別——英語では人種差別(racial discrimination)としばしば翻訳される——という歴史を繰り返さないという「配慮」もある。また、この言葉にある「文化」には、[学問的事 実としては必ずしも正しいとは言えないのだが]文化を担う民族集団が一対一の関係にある日本的ステレオタイプが前提になっている。そのため、多文化共生社 会という用語には、多文化・多民族が混ざっている以上に、紛争なく共存しているという理 念が込められている。

従って多文化共生社会という用語を英語に翻訳すると、日本語の用語をそのまま直訳して Multicultural Symbiotic Societies と呼べばよいだろう。なお社会が複数になっているのは、共存の前提に、複数の異種が同時に存在する(共生は生物学の用語でもある)というニュアンスが含ま れている。

日本政府・総務省(Ministry of Inernal Affairs and Communication)は、「地域における多文化共生」を2006年の報告書のなかで以下のように表現している。

地方自治体の多文化共生への取り組みは、教育や医療など切実な問題を現実に抱えている地方自治体のほうが、政府より早い対応をしており、その過 程のなかで多文化共生への取り組みを続けてきましたが、その理念には大きな違いはない。これは、官製による「足元からの異文化理解」と「多文化を可能にする社会の実現」という目標の提唱ということができる。

しかし、民間の草の根(グラスルーツ)レベルでの多文化共生運動とも言えるべきものは、地方自治体や政府のものとは多少ニュアンスを異にしてい る。

兵庫県にある「多文化共生センターひょうご」のウェブページには、彼らのミッションステートメントがあり、多文化共生を必要とする当事者(日本 における在住外国人)と彼らと身近に接する支援者からの真摯で切実な主張がかいま見られる。

ここには、まず在日外国人ひいては「社会的に排除されがちな人々」への人権保障と社会保障が十分なされていないという現実が震災において顕在化 したという事実が 控えめであるが語られている。

したがって、草の根運動の立場からみれば、多文化共生社会の実現は、医療や 福祉、そして(公的以外のセクターが担う)教育や文化活動などの実践を通してであると考えら れる。

多文化の「共生」は、それにむかって行動する市民にも、また支援しなければならない行政府にとっても、(たとえ実現が不可能であっても、何がなんでも)実現されなければならない理念として込め られていることを確認する必要がある。

多文化共生社会批判

ポストコロニアル批評家のガヤトリ・ スピバック(ないしはスピヴァック:Gayatri Chakravorty Spivak, 1942- )は、文化共生社会批判の代表格であろう。彼女は言う「多元論とは、中心的権威が 反対意見を受け入れるかのよう に見せかけて実は骨抜きにするために用いる方法論のことである」と。

「たとえばひとはそうですね、フラン スで産み出 されている理論的な事柄の一部は、アフリカや、インドや、こうしたいわゆる自然な場所からきた人々には、自然に手に入ると言われています。もしひとが啓蒙 主義以後の理論の歴史を吟味してみれば、これまでの主要な問題は自伝の問題であったのです。つまり主体的構造が事実、客観的真実を与えることができるので す。こうした同じ世紀の間、こうした他の場所に見いだされた「土着の情報提供者」の書いたものは、疑いもなく民族誌学、比較言語学、比較宗教学など、いわ ゆる諸科学の創始のための客観的証拠として扱われました。だから再び、理論的問題は知識のある人にのみ関連してきます。知識のある人は自我にまつわるすべ ての問題を持っています。世間に知られている人は、どういうわけか問題性のある自我をもっていないように思われます」(スピヴァック,1992:119- 120)『ポスト植民地主義の思想』彩流社。

これは、文化相対主義ならびに多 文化共生社会(=日本語独特の用語)あるいは多文化主義に 対する鋭い批判的論拠になっている。

そして、ブラニスロウ・マリノフス キーは、人類学者たるもの植民地人民にナショナリズムを煽ったり自治政府を持つこと勧めるを戒めていました。なぜならそれは宗主国政府と植民地の間の良好 な「共生」関係の考え方に背くからである。したがって、闇雲に共生社会の「共生」が理念だからといって、「ヤクザ」「麻薬販売組織」あるいは「犯罪組織」 との共生もいいのだという考え方すら生んでしまうからだ。共生社会を模索する権力者は、「なにと共生し、なにと共生してはならないか」についての独自の判 断をもつからであり、市民に対しては、そのようなフィルターのかかった情報のみを宣伝する。

認識論的批判

「差異は嫌悪にもとづく」というテー ゼがあります(ストリブラスとホワイト1995:259)。多文化共生に対して生理的嫌悪を抱く人たちに、お互いに仲良くしましょうという言説戦略だけ で、納得してもらうことはできません。多文化共生は、最初からよきものとして与えられているのではなく、人種差別や、大量殺戮、そして選択的テ ロリズムという、多文化と他文化に対する体質的とも言える嫌悪や生理的感情がどこに由来するのかについての理解からはじめるべきだという声もあります。

また多文化共生を支えるイデオロギー としても多文化主義に対する強い批判(=バックラッシュ)がある。

ナンシー・フレイザーによる批判

ナンシー・ フレイザー(2003:280-281)は、マルチカルチャリズムが潜在的にもつ、差異を本質主義化し、差異をポジティブで、本来「文化的」なものとして 見なして称揚することの欺瞞性に対してきわめて批判的である。これは、アイデンティティの 実体化であり、集団を一枚岩としてみなすことになる。これがなぜ問題かというと、その集団構成員の間の不平等(経済、ジェンダー、発言権、異なるものにな る可能性や潜在性などの不平等)や、集団内の権力関係とりわけ支配と従属などを無視したり、(知りながらも)やり過ごすことにつながるからである。

グローバル資本主義下における多文化主義へのスラヴォイ・ジジェクによる批判

そのポイントは(経済がもつ普遍的価 値への包摂を促進させるかにみえる)グローバルな状況においても、それぞれの文化が固有の価値をもつことを 称揚するが、その文化的差異は、人種主義(あるいは人種差別思想)が持つような、支配者が被支配者の差異があったまま、その差異を固定化させるようなイデ オロギーとして作用しているのだ、ということである。(詳細はリンク先「ジジェク教授による厄介な多文化主義批判」へ)

運動論

市民が、自分たちで動かす「多文化共生社会」を自己反省的にとらえる実践図式を下記に記してみよう。

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まず最初の次元[I]では、次の4つの項目が重要な働きをなします

次の水準[II]では、それらの4つの観点のバランスのとれた対応を考えることが不可欠です。

さらに第三の水準[III]では、より大きくなった計画を調和的にすすめる際には、それらの間の要素の能力をモニターし、評価し、弱点は強化 し、そして強力な面はどのように維持するのか、また、著しい財政や権力の不均衡はないかチェックして、適正なレベルに調整します。また実際の要素は、分業 化が高度にすすむと、それぞれの要素で働いている人たちが、全体性を見失う危険性がありますので、適宜、相互に介入し、適正な力のバランスをたもつように することが重要になります。



リンク (→「多 文化共 生はじめの一歩」からの抄録です)

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