多文化主義とその批判の理論家たち
Critiques against Multiculturalism
多文化主義は、 人間における文化のあり方を複数でと らえることを前提に、複数の文化が共存する状態を「善し」とする見解や実践の原理のことをさす。マルチカルチャリズム (multiculturalism)とも呼ぶ。
文化研究を専門とする文化人類学者においても、研究 の目的を、(1)文化の複数性を自明として、その「差異」にもとづく「異文化」研究を旨とする流れと、(2)人間にとっての抽象的な概念としての単数の文 化は人類にとって普遍的共通性をもつがうえに、その文化現象の表現のあり方に多様な「差異」をみる流れに大きくわけることができる。簡単に言うと、前者 は、異文化の違いを強調し、後者は文化現象の「表層」の違いから「深層」における人間の普遍性についてその理解の利点をおく立場の違いを反映している。
多文化主義は、現在の社会における「文化」のあり方 (=文化表象)を生活上の信条や行動原則にまで組み込む原理であるために、政治的立場で あり、ある種のイデオロギーになることは避けられない。つまり、多文化主義は、文化概念をインデックスとする、政治的立場でもある。ただし、文化の規定に おいて上述のように大きく分けて2つの流れがあり、また、文化的要素の隆盛や衰退、守るべき文化/歴史的使命を終えた文化など当事者たちの恣意的な選別 や、選好の自由、あるいは制度として維持するのか放棄するのか、など、常に論争の渦中にある。
多文化主義は、世界的トレンドとしては1970年代 には、カナダ、オーストラリア、スウェーデンなどで多文化主義政策がとられたことで、マイノリティの政治的関心は世界的に浮上することになったが、ポスト 911の時代(2001年9月11日以降)になると、多文化主義は退潮傾向にある。多文化主義を容認しない傾向のある国では、多元主義が国民統一と国民ア イデンティティへの脅威とみなされるようになった。その場合の移民は、エスニック・マイノリティ(同一国内での民族的少数派)や先住民と同様に、周辺化 (marginalize)する傾向がある。(→「先住民」「先住民とは誰か?について真剣に考えてみよう!」)
多文化主義に関するガヤトリ・スピヴァックの批判
ポストコロニアル批評家のガヤトリ・スピバック(ないしはスピヴァック:Gayatri Chakravorty Spivak, 1942- )は、その代表格であろう。彼女は言う「多元論とは、中心的権威が反対意見を受け入れる かのよう に見せかけて実は骨抜きにするために用いる方法論のことである」と。
「たとえばひとはそうですね、フランスで産み出 されている理論的な事柄の一部は、アフリカや、インドや、こうしたいわゆる自然な場所からきた人々には、自然に手に入ると言われています。もしひとが啓蒙 主義以後の理論の歴史を吟味してみれば、これまでの主要な問題は自伝の問題であったのです。つまり主体的構造が事実、客観的真実を与えることができるので す。こうした同じ世紀の間、こうした他の場所に見いだされた「土着の情報提供者」の書いたものは、疑いもなく民族誌学、比較言語学、比較宗教学など、いわ ゆる諸科学の創始のための客観的証拠として扱われました。だから再び、理論的問題は知識のある人にのみ関連してきます。知識のある人は自我にまつわるすべ ての問題を持っています。世間に知られている人は、どういうわけか問題性のある自我をもっていないように思われます」(スピヴァック,1992:119- 120)『ポスト植民地主義の思想』彩流社。
これは、文化相対主義ならびに多 文化共生社会(=日本語独特の用語)あるいは多 文化主義に対する鋭い批判的論拠になっている。
マルチカルチャリズムが隠蔽する文化の本質主義
ナンシー・フレイザー(2003:280-281)
は、マルチカルチャリズムが潜在的にもつ、差異を本質主義化し、差異をポジティブで、本来「文化的」なものとして見なして称揚することの欺瞞性に対してき
わめて批判的である。これは、アイデンティティの
実体化であり、集団を一枚岩としてみなすことになる。これがなぜ問題かというと、その集団構成員の間の不平等(経済、ジェンダー、発言権、異なるものにな
る可能性や潜在性などの不平等)や、集団内の権力関係とりわけ支配と従属などを無視したり、(知りながらも)やり過ごすことにつながるからである。
グローバル資本主義下における多文化主義へのスラヴォイ・ジジェクによる批判
ポイントは(経済がもつ普遍的価値への包摂を 促進させるかにみえる)グローバルな状況においても、それぞれの文化が固有の価値をもつことを 称揚するが、その文化的差異は、人種主義(あるいは人種差別思想)が持つような、支配者が被支配者の差異があったまま、その差異を固定化させるようなイデ オロギーとして作用しているのだ、ということである。(詳細はリンク先「ジジェク教授による厄介な多文化主義批判」へ)
"When, at the beginning of October 2005, the Spanish police dealt with the problem of how to stop the influx of desperate African immigrants who tried to penetrate the small Spanish territory of Melilla, on the Rif coast of Africa, they displayed plans to build a wall between the Spanish enclave and Morocco. The images presented - a complex structure replete with electronic equipment - bore an uncannily resemblance to the Berlin Wall, with the opposite function. This wall was destined to prevent people from coming in, not getting out The cruel irony of the situation is that it is the government of Jose Zapatero, at this moment leader of arguably the most anti-racist and tolerant administration in Europe, that is forced to adopt these measures of segregation. 'This is a dear sign of the limit of the multiculturalist 'tolerant' approach which preaches open borders and acceptance of others. If one were to open the borders, the first to rebel would be the local working classes. It is thus becoming dear that the solution is not 'tear down the walls and let them all in', the easy empty demand of soft-hearted liberal 'radicals'. The only true solution is to tear down the true wall, not the Immigration Department one, but the socio-economic one: to change society so that people will no longer desperately try to escape their own world." (p.88) - S. Zizek's "Violence: Six sideways reflections,"2008.
「2005
年10月初め、スペインの警察は、アフリカのリフ海岸にある小さなスペイン領メリリャに侵入しようとする絶望的なアフリカ系移民の流入をいかに阻止するか
という問題に取り組んだ際、スペインの飛び地とモロッコの間に壁を建設する計画を示した。電子機器を駆使した複雑な構造物であるその映像は、ベルリンの壁
に酷似していたが、機能は正反対だった。この壁は、人々が入ってくるのを防ぐものであって、出て行くのを防ぐものではない。この状況の残酷な皮肉は、今こ
の瞬間、間違いなくヨーロッパで最も反人種主義的で寛容な政権のリーダーであるホセ・サパテロ政権が、このような隔離措置の採用を余儀なくされていること
である。これは、国境を開放し、他者を受け入れることを説く多文化主義の『寛容な』アプローチの限界を示すものだ。国境を開放すれば、真っ先に反発するの
は地元の労働者階級である。こうして、解決策は「壁を取り壊し、彼らをすべて受け入れる」ことではなく、心優しいリベラルな「急進派」の安易で空疎な要求
であることが明らかになりつつある。唯一の真の解決策は、移民局の壁ではなく、社会経済的な壁を取り壊すことである」。
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