はじめによんでください

ジジェク教授による厄介な多文化主義批判

On  Prof. Slavoj Žižek's Ticklish Critique against Multiculturalism

池田光穂

ジジェクによると、グローバル資本主義下における多文化主義にはさまざまな厄介なイデオロギー的問題を抱えている。

そのポイントは(経済がもつ普遍的価値への包摂を促進させるかにみえる)グローバルな状況においても、それぞれの文化が固有の価値をもつことを 称揚するが、その文化的差異は、人種主義(あるいは人種差別思想)が持つような、支配者が被支配者の差異があったまま、その差異を固定化させるようなイデ オロギーとして作用しているのだ、ということである。それを下記の引用資料から、抽出して、それぞれにインデックスをつけて解説してみよう。

1.多文化主義は、自分が普遍的な認識論的立場を維持して他者の文化の多様性を称揚する矛盾する態度がある。

2.自らと関わりを持たずに他者の文化の多様性を称揚する態度とは「傍観する人種主義」である。

3.傍観する人種主義とは、他者の具体的な内容については、実は何の関心も思い入れもなく、極論すれば他者は文化の背景にまで後退する。

4.自分の生活とは無関係なものでありながら、それ自体固有の(sui generis)価値をもつために、他者は昆虫採集の対象のレベルにまで(縁もゆかりもない)客観的な他者に貶められてしまう。これは植民地時代の人類学 者と変わらないものになってしまう(危険性がある)

〈テクスト〉

「このようなグローバル資本主義というイデオロギーにとって最適な環境とは、多文化主義、つまりグローバルな視点という空文句を振り回して、お のおのすべての地域文化を、まるで植民地侵略者が被植民地の人びとに向き合うように——まるで「土着民(ネイティブ)」として、そのモーレスは事細かに調 査され、「尊重される」べきだとでもいうかのように扱う態度である。要するに、これまでの歴史的な帝国主義による植民地支配とグローバル資 本主義による自 己植民地化とをつなぐ関係は、〈西洋〉の文化帝国主義と多文化主義とを結ぶ関係とまったく同じものなのだ——グローバル資本主義が、植民地宗主国家の存在 を欠きながら植民地化が進んでいくというパラドクスを抱えているように、多文化主義とは、みずからに固有である特殊な文化の存在を欠いて、ヨーロッ パを中 心として距離を測定する視点を保持し、それと同時に/あるいは、地域文化の尊重を庇護しようと試みるパラドクスを抱えているのである。言い 換えれば、多文 化主義とは、対象との関わりを否認し、攻撃の矛先を反転させ、自己を持ち上げるための比較参照項を設定する形態をもった人種主義、つまり「傍観する人種主 義」なのである——多文化主義は〈他者〉のアイデ ンティティを「尊重する」態度を表明するが、それは〈他者〉とは自己囲繞(じこしゅうじょう)した「真正 な」共同体であると認識することによって、多文化主義を掲げる者が、みずからを特権的な普遍者の位置に就かせた結果として突き放すことができた〈他者〉と の距離を維持し続けているからに他ならない。多文 化主義とは、それを唱える者が立っている位置から、あらゆる具体的な内容のすべてを取り去ってしまうこと で成り立つ人種主義である(多文化主義を振りかざす者は、人種主義の立場を前面に押し出しているわけではない。彼ないし彼女は、〈他者〉 や、その独自の文 化が所有する固有の価値観を、真っ向から否定したりはしない)」(ジジェク 2005:385)。

文化とは、参与者に対して、自然化し、見えなくするようものである

「文化の基本的規則のひとつは、いつ、いかにして、知らない(気づかない)ふりをして、起きたことがあたかも起きなかったように行動し続けるべ きかを知ることである」(ジジェク 2008:8)

リンク

文献

その他の情報


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

Do not paste, but [Re]Think our message for all undergraduate students!!!