文化
culture, Culture, cultures
「文化人はコーヒーがお好き」上島珈琲株式会社の宣伝カー(1955年)
解説:池田光穂
【文化の定義】
文化とは、人間が後天 的に学ぶことができ、集団が創造し継承している(いた)認識と実 践のゆるや かな体系のことであると、とりあえず定義しておきます——これはエドワード・バーネット・タイラー(Edward Burnett Tylor, 1832-1917)にさかのぼる文化の概念の古典的な定義のひとつです。
そして文化(カルチャー)の英語は、耕作の意味に由来する culture ですが、おおまかに小文字、大文字、そして小文字の複数形で表現する方法があります。とりわけ、人類文化と表現する時の、単数と複数の文化の使い分けには 注意しましょう。
単数形(culture, Culture)では(小文字でも大文字でも)人間の文化概念すなわち先にあげた「人間が後天的に学ぶことができ、集団が創造し継承している認識と実 践のゆるや かな体系」は、人類というひとつの生物種が共通にもつ普遍的な性質であるので、文化は単数形で表現できるものである、と考える見方です。ルース・ベネディクト(Ruth Fulton Benedict, 1887-1948)の1934年の著作は、『文化の諸類型(Patterns of Culture)』となっています。
他方、複数形の「文化、あるいは諸文化(cultures)」は、文化相対主義(※) にもとづいて、世界の文化を見渡した場合、文化的多様性の存在を認め(あるいは意識し)、それぞれの民族集団ないしは社会集団のなかに、複数のタイプの文 化が存在しているのだという見方です。クリフォード・ギアーツ(Clifford James Geertz, 1926-2006)の1973年の著作のタイトルは『諸文化の解釈(The Interpretation of Cultures)』となっており、後者の立場をとっていることがわかります。
文化相対主義とは「他者に対して、自己とは異なった 存在であることを容認し、自分たちの価値や見解(=自文化)にお いて問われていないことがらを問い直し、他者に対する理解と対話をめざす倫理的態度」のことです。(→出典)
まとめましょう。文化とは、人間が後天的に学ぶことができ、集団が創造し継承している認識と 実 践のゆるや かな体系です。そして、文化の数え方は、1)人間という一つの種が共有してもつ集団的能力に由来するために単一である(あるのは文化の表出する型=パター ンの違いである)という考え方と、2)文化は、それぞれの社会集団によって複数ある(それゆえ文化を共有する集団を文化的集団と呼ぶ)という立場がある。 それゆえに、単数形の文化と複数形の文化という、2つの表現があるという見解にまとめられるということです。
【文化の定義は提唱者の数だけある!】
上に文化を「人間が後天的に学 ぶことができ、集団が創造し継承している認識と実 践のゆるや かな体系」と定義しましたが、これでは、なんでも文化の中に入ってしまって、収拾がつかない ではないか?という気分になります。そうです、文化の定義について考えれば、考えるほど、結局のところ「文化」が何をさすのかわかならなくなりま す。 その理由は、人々が考える文化の定義がきわめて多様であるからです。結論から先に言えば、文化には決定的な定義がないということです。
【定義は多様だが、文化の定義にこだわることは重要です!】
にもかかわらず「文化の定義」にかかわる議論は必要です。なぜなら、文化の定義を考えること は、 人間の創造的営みの意義とその多様性について考えることにほかならないからです。
【文化をその社会や人々に対して外在的なものと考えることの無効性】
「「イ ンドネシアはどこにいくのか?」という問いを真剣に考える必要性を感じ始めた私たちにとって「障害としての文化」という見方も「刺激としての文化」という 見方もどちらも役立ちそうにないことは明らかであった。これらの見方はどちらも地域固有の信念や価値観を制度変化の過程の外側にあるものとみなしている。 そして無形の力、おそらく心理的な力を、変化の速度を速めたり遅くしたり、ある点に関して歪め、別の点に関して合理化するものと見なしている。数年後、西 洋の政策立案者たち(そして一部の東洋の政策立案者たち)をアジアの農民への対処法として「個々人の心理を変えればよい」という考え方に陥らせることにな るアプローチである。生活において何が現実的であり、価値があり、望ましいことであるかについての確立された見方を、集団的行動から切り離すことは、圧倒 的な現実の重みの下で挫折することが判明した。国が何をしていても、それは変化している。そして明らかに同じ類の方法でそれは長い間、変化を続けてきた。 それがどのように変化していても、そえrは昔の状態の別の形式にすぎず、おそらく「発展的」なものではないであろう。なかり長い時間そのようなことが続い てきたように思われた」(ギアーツ 2001:198)。
【文化について考えたいすべての人が「文化の定義」に関わる資格を持ちます!】
このことは、文化人類学者のみが(特権的に)文化の定義に携わることができるという<文化の 番 犬>(C・ギアーツの用語)的な議論を意味しません。文化は21世紀を生きる我々には、きわめて重要な問題提起を孕んでいると思われるからです。あるい は、これらの文化の用語法がもし流布しているのであれば、むしろ文化とは人類学者が与えた用語ということもできます。ジェームズ・ピーコック(James Peacok) は「文化とは特定の集団のメンバーによって学習され共有された自明でかつきわめて影響力のある認識の方法と規則の体系に対して人類学者が与えた名前であ る」(邦訳 1993:29)と言っています。
"On a grander and more sweeping scale, Geertz (1980) identifies a 'culture shift', a ' refiguration of social thought' bringing the humanities and social sciences closer together in th eir intellectual kinship:
What we are seeing
is not just another redrawing of the cultural map - the moving of a few
disputed borders, the marking of some more picturesque mountain lakes -
but an alteration of the principles of mapping. Something
is happening to the way we think about the way we think.
Geertz
characterizes this as 'a turn ... by an important section of social
scientists, from physical process analogies to symbolic form ones', and
illustrates his argument by referring to the growing use of comparisons
between society and 'a serious game, a sidewalk drama, or a behavioural
text'. This change in 'the
instruments of reasoning' has 'disequilibriating implications' for
social scientists and humanists alike. The 'social technologist notion
of what a social scientist is ... the specialist without spirit
dispensing policy nostrums' is now brought into question; but 'the
cultural watchdog notion of what a humanist is ... the lectern sage
dispensing approved judgements' is by the same process being
systematically undermined."
Becher,
Tony and Paul R. Trowler(2001: 62) In, "Academic tribes and
territories," Philadelphia, PA : Society for Research into Higher
Education & Open University Press.
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