日本語の〈ブンカ〉
BUNKA in Japanese
「文化人はコーヒーがお好き」上島珈琲株式会社の宣伝カー(1955年)/垂水源之介(解説:池田光穂)
文化人類学でこれまであつかってきた「文 化の概念」については別項で説明しました。
ここでは日本語の日常用語として、文化がどのように扱われてきたのかということについて考えま す。
(i)身につけるべき教養としての〈文化〉
日本語の文化でもっともよく使われるものは「文化の程度」という表現であらわされるような、 「人間ないしはその集団が、獲得されたり、保持されるべきよきもの」としての〈文化〉です。文化に対して「程度」という説明が入るわけですから、それは発 展、発達するものであり、また、その獲得の度合いは数直線上に位置づけられたり、また、他者(ないしは集団)との相対的な評価が決まるようなものです。
こういうものは、獲得すべきものとしての高級感がともないますので、ハイカルチャー(高い文 化)とも言われてきたものをさします。ハイカルチャーという用語は、それに対応するローカルチャーがあり、それは「獲得されるものであるが、それほど社会 的な価値を持たされないもの」という意味をもっています。ハイとローという区分は、19世紀の英国の階級社会の価値観を反映するもので、ハイカルチャーは 貴族やブルジョアが身につけるべき高級な文化、ローカルチャーは労働者やプロレタリアが生まれながら自然に身につけたものという意味をもっていました。
日本でも20世紀に入ると、この文化概念のうちハイカルチャーとしての〈文化〉の概念がもち こまれ、日本社会に定着することになりました。文化包丁や文化住宅——これらは現在ではともに実質的な意味を失っているかポピュラーカルチャー(後述)に 属するものになりましたが——に冠されている文化にはもともとはこのような「獲得すべきよいもの」という意味が担わされていました。現在におけるカル チャースクールのカルチャー=文化にも、そのようなニュアンスが継承されています。こちらには、なにがなんでもカルチャーを学んで階級や教養(カルチャー には「教養」という意味があります)を上げるのだという切迫感はほとんどありません。当時の識者は、このような大衆の知識運動を「軽チャー」と呼んでさげ すんだことがありましたが、彼ら(男性が多かった)意識の中にハイカルチャーからみたカルチャースクールの「程度の低さ」という意識が多かれ少なかれあっ たことを示しています。
身につけるべき教養(=文化)としては、読み書き算盤という伝統的な子どもに対する習い事、 ピアノやエレクトーン、刺繍や洋裁(裁断のための型紙の切り方やミシン扱い方など)、料理、英会話を中心とした語学、
なお、カルチャーには耕すという意味があり、英語の話者には文化を身につけるということと、 耕作行為との類縁関係を容易に想像することができます。しかし、日本語の話者にはそのような想像が困難です。だからといって、文化はもともと耕すという行 為から来るということを訳知り顔で吹聴し、「本来そのような意味がある」と主張するのは、本末転倒な説明です。
(ii)権力者(=国家)と国民の文化
明治維新以降、この文化概念はなかなか数奇な歴史をたどっており複雑です。以下に述べるのは おおまかな図式ですので、将来その内容に修正を加える必要があるかも知れませんので、割り引いて聞いてください。
文化には文明というやっかいな同義語ないしは類似語があります。文明は、農業革命(たぶんオーストラリア出身で英 国の考古学者ゴードン・チャイルドの所説)などのブレイクスルーを通してできあがった大きな社会のなりたちをさします。ないしは、その社会の活力の源泉を 意味するものとして文明を使っているようです。それに対して文化とは、日常生活やそこから生まれてくる技芸的要素など、文明よりもより細かな視点をもつも ののようです。
ということは、多くの権力者(為政者)にとって、文明に関与することは重要だが、文化はその 派生的事実なのでもともと関心がなかったことになります。
しかし、国家制度が完備され、社会が全体的に動く必要——たとえば諸外国と全面戦争をする ——が生じたとき、国民の生活に根ざしている文化の領域に政治が介入することは重要な任務になります。すなわち国家による文化的な管理がはじまります。
国民の文化というものを管理することが、どれほど効果をもつものかを正当に判断した研究とい うものはありませんが、少なくとも20世紀中葉の第二次大戦の末期では、多くの戦争当事国では、国家体制を問わず多かれ少なかれ文化政策というものが引か れ、文化を国家が統制するという現象がみられました。
しかし、戦後は国連やそれに付随するユネスコなどの創設にみられるように、文化をそれぞれの 国家単位による管理や政治から解放し、人間文化という共通の資産として捉え直そうという動きがみられます。
日本は、第二次大戦期に文化と政治との結びつきが強く、それが戦争の遂行に深くかかわってい たため、1945年以降文化の脱政治化が急速に進んでいきます。ただし、そのような体制が占領軍のひとつであったアメリカ合州国に進められたために、国民 の間に文化の理解をめぐって大きな齟齬がおこります。例えば、欧米文化と日本文化の間の軋轢、共産主義の文化と自由社会の文化の間の軋轢、ハイカルチャー とローカルチャーの間の軋轢などです。
とくに、表現の自由が拡大すると、国家(政治)は国民の文化についてどの程度まで干渉しても よいのかという議論が出てきます。この時代の特徴としては、文化は与えられるものではなく、自分たちで選び獲得してゆくものであり、また再生産(=古い言 葉では伝承)すべきもの、という考え方がようやく国民に定着してきたことです。
しかし、国家(日本国政府)もふたたび文化の管理の必要性を感じるようになります。1950 年における文化財保護法の施行にともない、文化財保護委員会を設置、1966年に文化局を設置、それが発展して1968年に文化庁が生まれることになりま す。ただし、文化が政治化することへの警戒感がありましたので、文化庁の文化政策は、なるべく政治に深く関わることがなく、日本の文化活動を調査支援して ゆくという政策が長く続いてきました。
しかし1990年代以降、それまでの管理監督が主であった文化行政は、文化行政へと国民への 関与をより積極的に転換すべく姿勢を変更します。
現在、日本政府が文化をどのように理解しているのかについては、文化庁の文化審議会による 「文化を大切にする社会の構築について、[副題]一人一人が心豊かに生きる社会を目指して(答申)」(2002)をウェブ検索等で調べてください。そこに は、政府が、文化という曖昧な抽象概念を通して、どのように国民に提案(意地悪にみれば「国民を操作する」)しているのかが、よくわかります。
(iii)消費財としての文化
文化は、ある程度の強制的ないしは自発的な行為によって獲得されるものです。現代社会におい て、他の社会活動と同様、経済的なものを切り分けて考えることができません。
教養(例えば語学)を身につけることを「自分への投資」といって、将来の自分の社会的地位を 上げたり、その技能によりお金をもうけたりする可能性を想定しています。絵画鑑賞や音楽鑑賞のように、純粋に楽しむために教養(文化活動)が培われるため には興行をするほうも、楽しむほうにもお金がいります。公共図書館で無料で本を読むにしても、そこに行くのにバス代や電車賃がかりますし、また図書館自体 には施設整備にはお金が投入されています。
文化と経済というものは切っても切り離せません。
また、文化というものは、物質文化(マテリアルカルチャー)というものとも切り離せません。 まず文化というものは基本的に文化財とよばれるような物質の形態をもっています。博物館や遺跡のように、文化財を維持するためにはやはりお金がいります。 文化が物質と強い結びつきをもつゆえに、芸能の伝承などは無形文化財や人間国宝などといって、(物質の)形はないけれど文化ですよ、それも経済的なもの ——芸能の伝承などの無形文化財には伝承者という人間の資源が必要ですし、担い手になる人が少なければ金銭による支援が不可欠です——が伴うのだというこ とが暗示されています。
文化というのは、お金が使われてナンボという側面があるのです。それゆえに、文化の歴史は、 所有権の歴史、金銭のやりとりの歴史でもありました。
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文献
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