異文化理解
Understanding of other cultures
Nieuwe generatie museumbezoekers
vanmiddag in het [本日の午後の新世代美術館訪問者]より @rijksmuseum via @wijdopenogen
解説:池田光穂
異文化理
解(いぶんか・りかい;Understanding of
other cultures)とは、複数
の「文化」の概念を前提にして、自分のそれ(=文化)とは「異なる文化=異文化」を、理解した
り、解釈したりしようとする努力のことをさす。
異文化を理解するためには、自分が対象にしようとしている「異文化」ないしは「文化」が輪郭をもった集合体である ことを認識することが重要である。そして、異文化ないしは文化を理解する、さまざまな学問があり、自分が、どのような方法論に依拠するのかについて、次に 自覚することが重要である。ここでは、私が精通している文化人類学の学問的枠組みを つかって異文化理解について考える。なお、文化人類学という学問は、文化人類学者の専売特許というものではなく、この分野に興味をもつ、すべての人に拓か れていることをあらかじめ述べておこう。
文化人類学の基本的方法論は、1)フィー ルドワークと、2)民族誌=エスノグラフィーの記述(著作、論文、報告書 等)あるいは制作(映像や音声記録によるマルチメディア媒体)である。フィールドワークをするためには、現地語の習得と、その地域について書かれた民族誌 を含む報告書や記録(モノグラフという)の事前読解である。
自分が、民族誌というモノグラフの製作者となることを通して、文化人類学者は、他の研究者による 過去や同時代の記録を批判的に分析できるようになると言われている。また、自分の経 験の反省から「文化の記述については、さまざまな誤解や間違い(誤謬=ごびゅう)があることについて、気付くようになり、自分の理解と他者の理解の記述を、相対的に斟酌できるようになる——可能性が拓かれる。
また、異文化の理解の方法論を、自文化に対してむけることも可能である。その場合は、自分自身
が、他者の文化の住民であるかのような認識的態度とそれにもとづく実践が必要になる。これはなかなか困難な経験だるが、先人の中には、そのようなハンディ
をうまく克服した者がいる(下記のエ
ドワード・サイードがその実例)。
異文化理解について、文化人類学ではなく、パレスチナに対する政治的発言のおおかった比較文学者
であるエドワード・サイードの弁に耳を傾けてみよう!なお、サイードは、生前「オリエン
タリズム批判の論客」として、つとに有名であり、現在においても彼の主著のひとつ『オリエンタ
リズム』(1978)と『文化と帝国主義』
(1993)は、
ポストコロニアル批評の文献として最大級の評価(つまり必読文献)が与えられているものである。サイードの定義によるオリエンタリズムとは「オリエンタリ
ズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋のスタイル」のことである。つまり、西洋によって、オリエント(東洋ないしは近東)政治的に/文
化的に支配するときに生まれた知識(=情報と学知)と権力(=政治的力から象徴的権力まで)の融合の形式のことを指す。サイードは、このような独特の文化
批判概念としてのオリエンタリズムを、知と権力の結びつきについて思想史的に批判したミッシェル・フーコー(Paul-Michel
Foucault, 1926-1984)の諸研究からヒントを得たことを、その著作などで述べている。
●知識と解釈(サイード・ノート):エ ド ワード・ウィリアム・サイード(1935-2003)
「解釈は、誰によって解釈されたのか、誰に対し、何の目的で、また歴史のどの時点でそれがな されたのか、ということに大きくかかわっている。その意味で、すべての解釈された事象は、状況の産物といわねばならない。解釈は他の人びとがすでに解釈し たことに関係して生まれる。以前の解釈を確認するか、反論するか、またはそれを継続するかである。いいかえれば、いかなる解釈も、それに先行する解釈、ま たは他の解釈に何のかかわりをもたないものではありえない。」(「イスラム報道」1986:190)
「すべての解釈者は読者であり、まったく中立的で価値観をもたない読者はありえない。つまり 読者は自我をもつ人間で、多くのしがらみにしばられた社会の一員である。」(「イスラム報道」1986:192)
「ひとつの状況、解釈者が置かれている状況と、もうひとつの状況、すなわち、テキストがつく られた時と場所に存在した状況、との間の障害を突き破るためには、多大な努力が払わねばならない。文化の壁と距離をのりこえようとする強い意志の努力こそ が、他の社会および文化を知ることを可能にし、同時にその知識に限界を設定する。この時に、解釈者は、自分の置かれた人間的な状況の中で自分自身を理解 し、その状況との関係で文化のテキストも理解する。このことは距離に遠い異文化であるけれども、同じ人間世界に属するという強い自覚によって生まれる」 (「イスラム報道」1986:192-3)
・他の文化を知ることができるという仮説には2つの条件が満たされねばならぬ。
(1)「研究者は研究対象とする文化および人びとに責任をもち、かつそれらと強制される ことなく接触していると意識していなければならない」(「イスラム報道」1986:191)
(2)「解釈はつくることの一形態である。いいかえれば、解釈は人間精神の強い故意の動 きに頼り、関心のある対象を細心の注意を払って形成することにあるのだ。そのような活動は、特定の時に特定の場所で、特定の背景をもって、特定の状況にお かれた人物が、特定の目的のために力づくで行うことになる。したがって、他の国の文化を知るという作業の主たる基礎となるテキストの解釈は、臨床的に万全 な実験室でなされるわけでなく、また結果が客観的だといえるわけでもない。解釈は社会的な活動であり、状況とぴったりからみ合っている。その状況の中から まず解釈が生まれ、次いで解釈に知識という地位を与えたり、不適当とみなして拒否したりする。解釈はこの状況を無視できないし、いかなる解釈もそうした状 況の解釈なしには完全でありえない」(「イスラム報道」1986:192)
・「‥‥異質文化の中で生まれたテキストを読む際に最初に意識すべきことは、その距離であ り、時間的・空間的な距離の主要な条件は、とりも直さず、解釈者の置かれた時間的・空間的位置である(もちろん、それがすべてではない)。」(「イスラム 報道」1986:194)
・「‥‥誰のために、何の目的で、どうしてそのような解釈が、その文脈においてより説得性を もつのかということである。解釈、知識、それに、マシュー・アーノルドが述べているように、文化そのものがつねに論争の結果であり、単に天からの贈り物で はないのである。」(「イスラム報道」1986:197)
●練習問題(「静止映像の文化分析」 より)
小さい子どもたちが、 草履をスマホにみたててセルフィーを撮っているようにみえます。この子どもたちがおかれた、時代や、この子たちが、このようなジェスチャーを、どのような 文脈の中でおこなうようになったのか、説明してください。いつ、どこで、この写 真がとられる前に、この子どもたちはどのような経験をしているのか?について着目してください。
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