文化相対主義をめぐる質疑応答
Q & A & Discussion on Cultural Relativism
【質問】
初めまして、私は関西のK大学に通う学生なんですが、今、「文化相対主義はどこまで認められ るのか?」について調べているのですが、いきなりで失礼なんですが、質問してもよろしいですか?
文化相対主義は定義として、「それぞれの文化は、それぞれの文化の中でその価値は認められる べきであり、絶対的な価値基準はありえない」ということなんですが、 もし、ある民族が、ある一定までいかない子供は人として捉えず、掟に反すると大人に食べられてしまう というようになっていて、そこへ来た外国人がその掟 に反して食べられてしまった。/こういうことが起きた場合、その文化の中での事件のため認められることができるのでしょう か?
私は、道理に反していると最初思ったのですが、その「道理」というものは私の国での文化の一 つですよね?/ということは、私の文化でその民族の文化の優劣はつけることができないということになり、そ の民族の文化は認められてしまうのかもしれないと思うようになりました。
私個人の意見では絶対いけないことだと思うのですが、その民族の文化は認められるのでしょう か?
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【お答え】
池田光穂です。
文化相対主義については、 こちらを ご覧ください。君の文化相対主義とは、多少異なるニュアンスの説明がされていると思いますので、まず確認してください。
そこには「他者に対して、自己とは異なった存在であることを容認し、自分たちの価値や見解(=自 文化)において問われていないことがらを問い直し、他者に対する理解と対話をめざす倫理的態度のことをいう。」と説明してあります。このことを繰り返しよ く読んでください。これが回答にいたる糸口です。
次により具体的に考えましょう。
君の説明は私にとってわかりにくい部分もありますが、つまるところ君の質問や意見は次の3つに集 約できますね。つまり「(1)私は、道理に反していると最初思ったのですが、その「道理」というものは私の国での文化の一つですよね?。(2)ということ は、私の文化でその民族の文化の優劣はつけることができないということになり、その民族の文化は認められてしまうのかもしれないと思うようになりました。 (3)私個人の意見では絶対いけないことだと思うのですが、その民族の文化は認められるのでしょうか?」です。
それらに対して答えましょう。(1)は、そうです。その道理は君が属している「文化」に由来する ものでだといえます。(2)も、そうです。そして(3)はどうでしょうか? (3)は2つの部分からなりたっていますね。「絶対いけない」と感じること と、他の「民族の文化(ぶんか)」を認める/認めないことは2とおりの結びつきがあります。「絶対いけない」と感じて闇雲に反対して、他の文化を認めない ことは自民族中心主義とよべるものになります。
なお、「認める」という場合、誰が誰に対して認めるか?(誰に自己/他者/自分の集団/他者の集 団、などいろいろ充てはめて考えてください)ということも、はっきりさせておかねばなりません。
ここでもう一度、このページの私回答の冒頭にある文化相対主義の説明を読んでください。
そこには「他者に対して、自己とは異なった存在であることを容認し、自分たちの価値や見解(=自 文化)において問われていないことがらを問い直し、他者に対する理解と対話をめざす倫理的態度のことをいう。」と説明してあります。
君の言うように「文化」(全体)を認めるとか認めないというふうには書いていません。書かれてあ るのは「他者に対して、自己とは異なった存在であることを容認」するつまり認める態度だと言っています。ということは「絶対いけない」と感じ、さらにそれ を「認める」こともできるということです。ただし、これは普通は容易ならざる道です。つまり、これは「意図」しておこなうという意味です。だから「倫理的 態度」という言葉で説明しているのです。
君が「絶対いけない」という理由を真剣に考えずに、無反省に生きていること(これは多くの人たち の日常的態度だから一概に非難されるべきものではありません)。これが自民族中心主義で す。この態度とは異なり、意図して「自分たちの価値や見解(=自文化)において問われていないことがらを問い直し、他者に対する理解と対話をめざす」ため に、判断を差し控える態度を文化相対主義と言います。したがって、自分にとっては「絶 対いけない」と感じても、なぜいけないと自分は感じるのか、なぜ自分にとって嫌悪すべきものが、他者にとって常識になるのかという考えに至る道、つまり 「倫理的態度」が文化相対主義と言えるべきものです。
そもそも君が「絶対にいけない」と感じた文化がもし実在するなら、その反対側、つまり、その文化 の人たちも、君の属する文化を「絶対にいけない」と感じているかもしれません。もし先方が君のことを何とも感じないのなら、それは経済的な落差等によって 先方の社会において異文化を知る機会が失われているか、あるいは知っていても関心がないために無視している可能性があります。いずれにせよ、お互いに、 「絶対いけない」と感じて、お互いに「認め合わない」事態が続いているならば、両者のあいだには偏見と無知そして(価値判断にもとづく)憎しみの応酬しか 生まないでしょう。
「倫理的態度としての文化相対主義」からは、お互い文化が違うから、それぞれの文化で勝手に振る 舞えばよい、という態度は生まれません。「倫理的態度としての文化相対主義」とは、それらの違いが、なぜ生まれたのか、文化が異なる人たちが対話した時 に、どうしてある領域の議論については合意できるのに、別の領域の議論については合意できないのか、などを考える糸口を与える態度ということです。
従って、「絶対いけない」と感じることと「認める」ことに落差があればあるほど、この態度を受け 入れることに困難さが生じます。文化人類学は、長いあいだ「喰人、嬰児(えいじ)殺し、呪術、妖術」など、極端に落差のある文化的実践を好んで取り上げ て、西洋の白人の「良識」を逆なでしてきましたが、このような人の驚かし方そのものは、すでに古くさい手口になっています。(このことは、必ずしも喰人、 嬰児(えいじ)殺し、呪術、妖術の研究が古くさいということにはなりません。むしろ、その研究の意義は失われていません。)
現在の文化相対主義に対して試練を与えているのは、FGM(女性割礼)やさまざまな宗教における原理主義から、他国への直接武力介入によって民主主 義を根付かせることは果たして可能なのか(「政治的実践としての民主主義は文化的に多様なのか?」)などの問題を考えたり、ささいな文化の違いが、なぜ過 酷な人種差別を生み出すのか、ことなどです。つまり、倫理的態度としての文化相対主義というのは、現在のグローバル化した現実の政治世界(リアル・ポリ ティーク)には、ほどんど影響力を与えないほどに縮小してしまっていることにあります。
私の文化相対主義の解説のページで、 文化相対主義に対するバッシングと書きましたが、(現実は)大規模に批判される以前にすでに後退していた、つまり文化相対主義という思潮は、現代社会にお いて影響力がすでに失われていました。それは、一見良さそうだけど、(表面的には)生きるためには何の役にも立ちそうもないからです。
そこで、授業で「人喰いや嬰児殺し」などの、えげつない事例(ECF)——繰り返しますがこの事例は人類学的には重要な検討材料です、それがたとえ多くの人々 に嫌悪するものでも——をひっさげて「文化相対主義」という言葉が登場したのでしょう。そこで君の質問にあるように、君自身の心のなかで認知的な承認(= 「その社会の文化なのだから仕方がない」)と道徳的嫌悪(=「人を食べたり子供を殺したりすることは鬼畜である」)のジレンマ(=二者択一の選択でそのど ちらだけでも不完全と判断されるもの)に苛まれたというわけです。
このことについては、深く君に同情します。他方、しっかりと授業を聞いて、わからなかったことを 先生にお聞きして確認をとりました? もしこれをやっていなかったら、未熟慮の誹りを君も受けることになります。
文化相対主義について議論するのに、相変わらず「喰人」など人を驚かす——もう驚かないか?—— 現実には(犯罪などを除いて)通常行われない行為を文化的慣習の例にあげる同業の人類学者の現実感覚の無さに驚きます。文化相対主義を検討する課題は、女 性を社会参画させない日本の旧習や、宗教か慣習による食の違いやタブー、入れ墨のようにかつて白人のキリスト教宣教師たちが嫌悪した「未開慣習」の認知と その廃絶のための歴史上の実践などにもとめて、議論すべきでしょう。
文化相対主義に関する議論の怠慢は、文化相対主義のもつ実践的価値についての理論的深化を継続し て試みてこなかった人類学者(クリフォード・ギアツはその数少ない例外の一人です)の責任にあります。
このことを機会に、文化相対主義をもっと身近なものとして考えてみませんか?
以下、余談!
●おっと! こんなジョークを思い出しました。
人類学者か政治思想家であるかは失念しましたが、人口問題に関する議論の最中にこんなジョークが発せられたことがあるそうです。「人口がこんなに増えて困 るのなら、赤ん坊を食べたらどうだろうか? 肉が軟らかくて美味しいぞ〜」。
さすがジョナサン・スウィフト(1667-1745)を生んだ英国です。私はこのジョークを 思い起こすたびに、ある問題の解決には、じつにいろいろな解決方法があるはずなのだが、我々は自分たちのけちくさい道徳のフィルターによって、とんでもな い思考の可能性のことについて忘れてしまっているという反省の念に駆られます(「思いつかない」のではなく「忘れている」と主張する証拠は、この赤ん坊の ジョークで笑える——つまり人口問題の解決法を提示している、ただしとうてい受け入れられない理由で——からです)。
これは文化相対主義の応用ですがニーチェも「自分はバカだと卑下しなくていい」ことを超人ツァラストラの寓意(アレゴリー)から次のように解説しています。
●自分はバカだと卑下しなくていい正当性を証明します(出典は「人間というものの失敗性について」)
ましな人間に到達しないの は人間ではなく、失敗したり目標を失したりするのは人間ではなく、失敗したりその産物を失したりするのは人間の能動性ではない。ツァラトゥストラの訪問者 たちは、自分たちが偽りのましな人間だと感じているのではなく、ましな人間を何か偽わりのものと感じている。目標そのものは失敗し、挫折するが、それは不 十分な手段のゆえにではなく、目標の本性によってであり、それが目標であるという事実によってである。失敗するのは、目標に到達しないからというわけでは ない。それは達成された目様であると同時に、失敗した目標なのだ。産物そのものは失敗に終るが、それは不意を襲う偶然事によってではなく、能動性によっ て、産物をうみだす能動性の本性によってである。ニーチェが言わんとするのは、人間や文化の能動性〔活動〕は反動化〔反動的生成〕によって仮定された項と してしか存在せず、この反動化はこの能動性〔活動〕の原理を失敗するという原理に、この能動性〔活動〕の産物を失敗した作品に、変えてしまうということで ある。弁証法は能動性そのものの運動である。それはまた本質的に失敗作であり、本質的に失敗する。再所有の運動と弁証法的能動性は、人間の反動化、人間に おける反動化〔反動的生成〕と一つのものでしかない。
Q.E.D
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