「寛容であること」と相対主義の関係
On tolerance and relativism
文化相対主義に対するよくある誤解のなかに「極端な相対主義」というものが あります(→「さまざまな相対主義」を参照)。
例えばこういう例です。「相対主義者であ るから、目の前にくり広げられる(自分にとっての)不道徳なことも甘んじて受け入れなければならな い」。こんなものがもし文化相対主義だったら多くの人たちは、そのような行動原理を受け入れることはできないでしょう。
私はそのような見解は、文化相対主義の見 方の極端な例、あるいはその延長上にある逸脱だと考えます。
このような試練を超えて文化相対主義の概 念を鍛え直すためには、異文化で経験する(あるいは目の前にくりひろげられる異文化状況)ことが「受け 入れられる」つまり自分[たち]にとって寛容でありえるかどうかという観点から捉え直すことです。
その際に、論理的に理解可能であるか、あ るいは当事者が培ってきたこれまでの社会慣習的な行為として受け入れられるか(それを仮に「社会的」寛 容と呼んでおきます)を区別することです。
これによると寛容という観点からみると、 相対主義者は少なくとも3つのパターンに分かれます。相対主義者は、(表にある介入主義者からみると) 「首尾一貫性がなく、連中(=相対主義者)は訳わからん」と悪態がつかれることが、よくわかります。相対主義者にはいろいろなタイプがあるからで、それを 一概に「相対主義はだめだ」と断定することはできないのです。
「粗雑な相対主義」=「いかなる言明も普
遍的に——いつてのどこでも誰にとっても——真ということはないという主張」(バッチーニとフォスル
2007:127)
★この続きは、「さまざまな相対主義」でどうぞ!!!