人間というものの失敗性について
human being as "bull-shit," “The higher its type, always the seldomer doth a thing succeed”
池田光穂
ツァラトゥストラは彼の「訪問者たち」に向ってたえ ず、「あなた方は失敗であり、失敗の作品である」と言い続ける。この表現はこのうえなく強い意味において理解されねばならない。ましな人間に到達しないの は人間ではなく、失敗したり目標を失したりするのは人間ではなく、失敗したりその産物を失したりするのは人間の能動性ではない。ツァラトゥストラの訪問者 たちは、自分たちが偽りのましな人間だと感じているのではなく、ましな人間を何か偽わりのものと感じている。目標そのものは失敗し、挫折するが、それは不 十分な手段のゆえにではなく、目標の本性によってであり、それが目標であるという事実によってである。失敗するのは、目標に到達しないからというわけでは ない。それは達成された目様であると同時に、失敗した目標なのだ。産物そのものは失敗に終るが、それは不意を襲う偶然事によってではなく、能動性によっ て、産物をうみだす能動性の本性によってである。ニーチェが言わんとするのは、人間や文化の能動性〔活動〕は反動化〔反動的生成〕によって仮定された項と してしか存在せず、この反動化はこの能動性〔活動〕の原理を失敗するという原理に、この能動性〔活動〕の産物を失敗した作品に、変えてしまうということで ある。弁証法は能動性そのものの運動である。それはまた本質的に失敗作であり、本質的に失敗する。再所有の運動と弁証法的能動性は、人間の反動化、人間に おける反動化〔反動的生成〕と一つのものでしかない。
To many men life is a failure; a poison-worm gnaweth at their heart. Then let them see to it that their dying is all the more a success. - Thus Spake Zarathustra: A Book for All and None by Friedrich Wilhelm Nietzsche.
THAT however—namely, pity—is called virtue itself at present by all petty people:—they have no reverence for great misfortune, great ugliness, great failure.
And if great things have been a failure with you, have ye yourselves therefore—been a failure? And if ye yourselves have been a failure, hath man therefore—been a failure? If man, however, hath been a failure: well then! never mind!
The higher its type, always the seldomer doth a thing succeed. Ye higher men here, have ye not all—been failures?
Ye higher men, for you
doth it long, this joy, this irrepressible, blessed joy—for your woe,
ye failures! For failures, longeth all eternal joy.
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