ひとはなぜ〈現場力〉の把握に失敗するのか
Why proffesionals fail to grasp understanding empowerment faculty and sensibility in practice?
池田光穂
【現場力げんばりょく)】の定義:
現場力(とは、実践の現場で人
が協働する時に育まれ、伝達することが可能な技能であり、また
それと不可分な対人関係的能力などの総称のこと(→出典はこちらです)。
臨床コミュニケーション研究に おいて現場力が私たちによって「発見」されるはるか以前に、この用語「現場力」は経営の現場ないしは経営モデルそのものを商品化する人たちによってすでに 「発明」されていた。インターネットで現場力という言葉を検索すれば、いわゆる企業の現場力という言葉で括られるような企業の活力や活性化のノウハウに関 する数多くのページにリンクすることができる。これは書籍検索において現場力をキーワードにして調べたものと合致する。つまりビジネスの世界において現場 力は、今日の企業活動の活性化には不可欠な概念、より正確には意識し、かつ身につけなければならない能力(ファカルティ)や感受性と見なされてきたようで ある。
たとえば、早稲田大学教授とローランド・ベルガーという外資系コンサルティング会社の取締役会 長[2006年1月当時]の肩書きをもつ遠藤功は、ビジネスの現場力に関する主要な論者の1人である。なにが書名でなにが副タイトルか一見分からないよう なムック(雑誌形式の書籍)である『図解 現場力』は彼の著作のひとつである。表紙にはおびただしいキャッチフレーズが満載されており、一見見たところフ リーペーパーあるいはスポーツ新聞のような体を成す。書名や著者に関する情報を除いても、裏と表には次のような文字情報が満載されている。
「現場の『見える化』で企業は強くなる! 『強い企業』には『強い現場』が存在する! 『トヨタ や花王の競争力は現場にある!』 ベストセラー『見える化』の原点がここに! ・『現場力』とは『自律的問題解決能力』だ! ・ダブルループのPDCA※ を回すことで、現場は劇的に変わる! ・身の丈にあった戦略が優位性を構築する。/現場主導の戦略こそが実現性を生むのだ! 『強い現場』=『見えている 現場』の作り方が分かる!」(遠藤 2005)。
※ PDCA=品質管理の経 営学におけるエドワード・デミングとウォルター・シュハートの提 唱したマネジメントサイクルのモデルで、計画(Plan)・実行(Do)・点検(Check)・改善の実践(Act)の頭文字を順に並べたアクロニムのこ と。日本では西脇栄三郎が戦後から導入したことで、日本型のカイゼン(KAIZEN)と舶来のPDCAに対する信仰が新しいミレニアムになっても衰えな い。むしろ、現在では政府系エージェントや政府の機関でもPDCAによる業務改善が叫ばれる始末である(→出典:PDCA)。
この著作の書肆は、伝統的な学問主義者から貶まれるかもしれないゴマブックスである。しかし、私 はこの本で書かれてある香具師のような語り口で告げられる現場から生まれたかのような彼のビジネスモデルの提案に大いに魅力を感じる。昨今の授業の現場の 改善、とりわけはファカルティ・ディベロップメントには、凡百の教育理論家の言よりも、遠藤 が主張する現場力アップのノウハウのほうがより具体的で役立つ ように思われる——もちろん大学教育現場における修正や改良を加えた上という条件はつくが。
このように雄弁で私にとってエンパワーされる遠藤の主張ではあるが、結局のところ重要な点を外 しているという心証を私はぬぐい切れない。なぜだろうか。それはブルデュのいうドクタ・イグノラ ンチア、つまり言葉によって的確に表現できないような実践 に習熟している先生(師範)の語りのように、ある実践を言語で説明しようとする時に、自分の実践説明する準理論的な思考が、実践を首尾よく説明することを 邪魔をすることが働いているように思われるからだ。実践に精通していることが、逆に実践についての説明の核心から外れることがある。田辺繁治(2003, p.92)は、このようなことが実践知を語る際にしばしば生じることを指摘している。つまり現場力と実践知は、それらを外延的定義づけ作業を通して語ろう とする際には、現場という環境や実践という行為に関する準理論的な思考によって妨害を受けるという共通点をもつ。
ドクタ・イグノランチア(docta ignorantia)は、実践に精通しているものが、具体的な実践を言語化する際に彼/彼女 がもつ準理論的思考が、その正確な説明の邪魔をするということだが、現場について考察する際に、実践者が陥る陥穽は他にも考えられる。論集『「現場」のち から』の各論文において、人が個々の現場を語る時に見られる共通点がある。つまり、それぞれの具体的な現場とは「私の現場」「あなたの現場」というふうに 現場は所有格をつけて表現されるものなのだ。現場に関する語りとは、現場における当事者の経験について言及されるものだから、現場は当事者によってあたか も所有されるかのように語られるのである。これを〈現場〉概念の被所有性と名付けたい。しかしながら私の現場とは、畢竟、私がその場所で経験したことを場 所に関連づけて語られる物語であり、私という個人によって所有される場所のことではない。これは反省的に考えれば、誰にもわかる自明なことである。しかし ながらこのような誤解は、前節のオーラと同様、現場力理解にまつわるさまざまな錯認の一様式であろう。言語の意味作用によって個人の経験や記憶が、なにか 所有される空間のごとく当事者たちによって錯認されることは、十分に留意してよい。
以上、現場力を理解する際に、障碍として登場する対象把握の失敗のパターンについて考察してき た。そのひとつは実践を言語化する際に生じる、実践に精通していることから生じる準理論による妨害。他のひとつは、ある場所での実践とその経験が、想起さ れる時に、その場所を知っているという経験からひいてはその場所をあたかも所有しているような感覚へとシフトすることからくる対象把握の誤解という失敗で あった。
リンク
文献
(いけだみつほ)
クレジット:言葉に よる概念の受肉化に関するエッセイ
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
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