私の方法
池田光穂
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私の方法
現場力について考えることについて、私は特別な方法論を持っていない。関連文献を読み、自分で考え、ウェブページにアップし、ほかの人と議論を し、また意見を交換する。単純にそのことを繰り返しているだけである。
ではそもそもなぜ現場力なのだろうか。そのきっかけは大阪大学コミュニケーションデザイン・センター(CSCD)における平成18(2006) 年度の授業テーマ「現場力とコミュニケーション」に遡る。この授業のグランドデザインを構築したのは西村ユミだが、現場力という用語は彼女の発案による。 発案があったのは、およそその1年ほど前の2005年の暮れのことである。
現場力という用語は、私のお気に入りの須藤八千代や天羽浩一の論考が掲載されている尾崎新の編著『「現場」のちから――社会福祉実践における現 場とは何か』(2002)の書名に由来すると、西村はいう。ただし、西村との対話から推察するに、彼女の言う「現場力」は、かならずしもこの論集に寄稿し た論者のものと一致しない。
また尾崎自身も当該書において「現場力」という言葉を明示的に定義してはいない。同書の彼の巻末エッセーは「現場の力」とされており、「現場の 力、可能性とは何か。また、現場の力はどのように育てるべきか」(尾崎, 2002, p.379)と論じ始めているが、現場の力がどのようなものであり、またどのように議論(料理)すべきなのかについての主張は中途半端なままだ。尾崎は、 論集に参加した人たちや読者に対して〈現場の力〉をつけさせることに興味があり、現場における力とはどういうものかという問題には関心がない。力(ちか ら)の内実や意味というものが、彼の言葉によって具体的に明示されないのは、それが相矛盾するものを内包しているからである。尾崎の言に従えば、現場とい うのは(彼の前の編著のタイトル(尾崎 1999)のごとく)「ゆらぐことのできる力」と「ゆらがない力」という相矛盾した力(ちから)がせめぎあう場で あるという。このビジョンは先に触れた須藤の指摘する、現場に貼り付けられる相矛盾した性格(貶まれる場と賞賛される場)と重なる。このような曖昧な意味 や用語に対する偏愛感情をもつことは個々人において自由だが、現実的な問題に取り組む者にとっては欲求不満がたまるところだ。矛盾した場が現場ならば、地 球上の世俗な社会的空間のすべてが〈現場〉になってしまうと言っても差し支えない。現場という劇場では、現状肯定のイデオロギーとして現場――正確には 〈現場で働くこと〉――を賞賛するか、理論と実践というマニ教的世界観のなかで理論(=神学)に従属する存在として実践(=平信徒の日常行為)を貶むか、 というごく当たり前の人間感情の振幅が再演されているにすぎない。
整理してみよう。尾崎が考えている現場の力とは「ゆらぐことのできる力」と「ゆらがない力」という相矛盾する2つの力(ちから)のことである、 と。この説明における力(ちから)とは物理学における力(フォース)のことでも、その政治学的な隠喩語法の結果うまれた権力(パワー)のことでもない。尾 崎のいう現場の力は、現場におかれた当事者が発揮したり行使したりする人間の獲得能力(ファカルティ)のことなのだ。尾崎がこのような力(ちから)の性質 について十分自覚しているかどうかは不明瞭である。しかし現場の力を人間の獲得能力として意味づけて言及していることについて私は大いに同意する。
現場力について微に入り細を穿つ議論を経た社会福祉領域の研究者の諸姉諸兄におかれては、まったく幼稚な議論をしているように思われることだろ う。だが、現場力の概念を社会の場で使えるようにしたいと真剣に考える現場の人間にとって、またこれから現場力をまなぶ学徒にとって、これらの点は再三に わたり明確にしておく必要がある。なぜなら理論的議論が煮詰まった時に必ず議論の盆を覆す「私の現場はそうでない」という主張がまかり通り、現場の議論な らぬ議論の現場がリセットされてしまうからだ。そのような暴論が流通する理由は何であろう。
現場への貶みと賞賛という二重価値性にその理由がありそうだ。冒頭で引用した須藤が指摘するように現場は、当事者により貶まれたり、あるいは逆 に賞賛されたりする、謂わばオーラを放つ場所だからである。そのオーラはすばらしく貶まれてきた現場に新たな解釈の可能性という光を投げかけるが、同時 に、分析に正確たらんとするわれわれ観察者の鑑識眼を狂わせ、錯認を生む。現場は現場である。賞賛されるべき場でもなく、また貶まれるべき場でもない。私 は人間存在の矛盾の現場に留まりたんたんと仕事をすることが時に美しく感じられる者であるが、同時にまた自分を眺める反省的思考が身の回りに伏在する問題 点を浮かび上がらせ世界を変革することにも大いに興味を抱く人間でもある。どのような価値判断がされようが、現場は世界変革のための温床である。
このような現状理解に私が到達(逗留)することができたのは示唆に富む西村との対話によるものだけではない。現在も進行中の大阪大学大学院の全 研究科横断科目であるコミュニケーションデザイン科目の中の「現場力とコミュニケーション」の授業担当者である西村ほか、西川勝、中西淑美などを含む、 CSCDの関係者有志による現場力研究会におけるこれまでの様々な研究発表と各討議(格闘技)のおかげである。私はこれらの活動から大いに刺激を受けてき た。とくに授業の現場を同じくする西村、西川、中西、そして臨床哲学者の本間直樹や演劇プロデューサーの志賀玲子からは、現場力を考える新しいヒントをい つも、そしていくつも得ている。だから、ここでの議論は私だけのオリジナルな考えではなく、そのようなメンバーとの議論の産物とも言える。私の現場は彼ら との対話の中にある。
文献
Geertz, Clifford, 1983, Local Knowledge : further essays in interpretive anthropology. New York : Basic Books, 1983(ギアーツ,クリフォード, 1991, 『ローカル・ノレッジ:解釈人類学論集』梶原景昭ほか訳, 東京:岩波書店).
Ong, Walter J., 1982, Orality and Literacy : the technologizing of the word. London:Methuen. (オング,ウォルター J.『声の文化と文字の文化』桜井直文・林正寛・糟谷啓介 訳, 東京:藤原書店).
遠藤 功, 2005, 『図解 現場力』東京:ゴマブックス.
尾崎 新 編, 1999,『〈ゆらぐ〉ことのできる力――ゆらぎと社会福祉実践』東京:誠信書房.
尾崎 新 編, 2002,東京:誠信書房.
尾崎 新, 2002, 「現場の力――「ゆらぐことのできる力」と「ゆらがない力」」, 尾崎新編『「現場」のちから』, 東京:誠信書房, Pp.379-387.
須藤 八千代, 2002, 「ソーシャルワークの経験」尾崎新編『「現場」のちから』, 東京:誠信書房, Pp.24-54.
(いけだみつほ)
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