〈現場力〉概念の再構築
Ideological
Reconstruction of Genba-Ryoku, empowerment faculty and sensibility in
practice
池田光穂
〈現場力〉概念の再構築
常識からみていっけん無関係におもえる現場と力(りょく)という単語の連結としての「現場力」という奇天烈な新造語のお 陰で、われわれは現場 や力という用語がもつ奇妙な性格について反省的思考を促されてきた。これは、赤瀬川原平の「老人 力」と同様、言葉によるシュールレアリズム的並置である。 もちろん面白いと喜んでばかりはいられない。
ノミナリズムの知的伝統に立てば、現場力というものが実在するか否かという問いの立て方はナンセンスでいたずらに時間を浪費するだけである。 むしろ、われわれの身の回りに蔓延りつつある現場力をめぐる語の利用法——つまり語用論——の延長上に、より適切な解釈を与えることができれば、この現場 力という概念に直面した時に、意味の病いに陥る心配(ヒポコンデリー)煩わされることはなくなるはずだ。関連文献を読み、自分で考え、ウェブページにアッ プし、ほかの人と議論をし、意見を交換するという私の方法の結果として、現時点で到達している現場力に関する私の理解と解釈を以下に披瀝しよう。
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現場力(Genba-Ryoku)とは、実践の現場で人が協働する時に育まれ、伝達することが可能な技能であり、またそれと不可分な対人関係 的能力などの総称のことである。現場力は、現場にある物理的な力だけでも、個人に備わる能力だけでもない。その両方の性質を有するものである。またこの2 つの性質は同時に併存できるものである。言い換えると、現場力は、現場にあるのでも、個人あるのではなく、現場と個人がマッチした場に現れ、場と関わりを もつ人間の具体的な技能ないしは具体的な能力のことである。
現場力が観察できる場と条件とは次のものである。(括弧内)はその条件の抽象的属性をさす。
(1)人々が共同して動いたり、働いたりする場所、(場所性・状況性)
(2)人々が共同して働いているという必要最低限の身体の意識やアイデンティティ、(意識性)
(3)作業を遂行する場所や物理的道具、(物理性・道具性)
(4)人々が相互にコミュニケーションすることを可能にするメディア[共通言語ないしはそれに類似するコミュニケーションツール]、(媒介 性)
(5)参加する人たちの個々の身体、(身体性)である。
従って、人がある具体的な現場力について言及しようとする時には、上記のような場と条件に関する記述が不可欠となる。現場力は、現場で働く人 の意識や行動を通して理解されることがある(=現場力理解の受動性)。
他方、[当事者はドクタ・イグノランチアが及ぼす作用によって]当事者にはじゅうぶん認識されていないが、逆に観察者がそれを発見できる可能 性がある。つまりその場に居合わせた観察者が理解することもある(=現場力理解の能動性)。その場合には上記の現場力の場と条件に関する要素に着目すれ ば、現場力についての大まかな説明を得られることができる。「大まかな説明が得られる」とは、その具体的な現場力を、その現場にいない人が記述や解釈を通 して理解することができるという意味である。
人間の技能や能力のひとつである「現場力」を、あえてこのような記述を通して説明する私の理由は何であろうか。それは以下の3つの性質を現場 力に与えること、この概念により細かな輪郭を与えたいからだ。
(a)現場力は、場所を離れては人間個人ないしは集団に所有されるような技能や能力として把握することができないという特性をもつ。
(b)現場力は、コミュニケーション能力あるいは、その延長上に位置づけられる性質をもつ。
(c)現場力は、場所的かつ社会的な概念である。
【コラム】 現場力は、協働性に基づくもので、決して個人に属さない概念だとつねづね私は述べてのべてきたが、最近では、どうもそうでないような気もする。例えば、み んなで仕事をしているときに、思いつく「ブリコラージュ的想像力」などが浮かぶ時である。 |
次節において以下、上の3つの性質について説明してみよう。
現場力の3つの性質
1.現場力の非所有的性格
まず(a)人間の技能や能力(ともにfaculty)は、しばしばその人の個人の身体や意識に内在するという考え方があるが、空間的特性に従 属する現場力という概念はそれを拒絶する。現場力の研究は、そのような考え方をとらず、対人関係性の中や現場にある空間的特性や機械との協調行動に関連づ けられる技能や能力があるという経験的事実から出発する。
しかしながら、他方で、現場力は、単純にそれらの協働能力であると理解することも正確ではない。なぜなら仮にそうだとするとこの技能・能力 (=現場力)が、個人ではなく集団にある、というふうに理解されてしまうからだ。そうなると今や、技能や能力を集団が「所有」しているという考えに最後は 帰着してしまう。だが現場力は商品のようにトレードすることができない。経営学分野で経験主義に基づき理論的抽象度が低い現場力に関する議論の中には、こ のような見解をとるものもある。そのような議論の結論はドクタ・イグノランチアによる錯認のひとつとして疑ってかかる必要がある。所有される現場力をめぐ る議論は、労働力をめぐるイデオロギー機能を我々に想起させる。ビジネスにおける現場力を私の議論の仲間は「労働に効率よく従事させる経営者の論理であ る」と喝破した。
2.現場力の伝達可能性
(b)現場力は、その現場で構成される概念であると同時に[前節で書いたように]伝達することが可能なものである。もちろん、伝達することが可 能であるから「所有」することができるという考え方に戻ってしまうと元の木阿弥である。現場力は伝達可能だが、所有は不可能であるというイメージでとらえ 直すには、現場力を次のようなイメージで捉えることを提案しよう。つまり、現場力とはコミュニケーションの現場におけるメッセージそのもの、ないしはリア ルタイムで応答が要求されるメッセージ理解力であると考えてみよう。そのような鍛錬は現場において身に付くものであり、また理論的にノウハウを抽出して も、現場で使われなくては有効に作動しない(つまり獲得能力として所有されない)。自分の体に身に付いたものであるが、そのような社会的文脈(=現場)に おいてのみしか発揮できない。また、それらのスキルは集団内のここのメンバーとの動きと連動している。これらの意識と身体の動きはメッセージそのものであ る。
3.社会的な概念としての現場力
口頭における伝達とその場における理解を、現場力における要素のひとつであると考えよう。その場合、現場力の強度を左右する要因は、言語の理 解力、文脈決定性、そして音声能力や聴力などの身体特性などであろう。臨床コミュニケーション研究における、「聴覚」のメタファーの意義に注目した議論が ある(鷲田, 1999)(なおこの引用文の前半は本稿の冒頭で挙げたものと重複している)。
「語ること以上に、聴くことに神経を向ける必要があるということ。わたしは、哲学を〈臨床〉という社会のベッドサイドに置いてみて、そのことで 哲学の、この時代、この社会における〈試み〉としての可能性を探ってみたいとおもうのだが、そのときに、哲学がこれまで必死になって試みてきたような「語 る」——世界のことわりを探る、言を分ける、分析する——ではなく、むしろ「聴く」ことをこととするような哲学のありかたというものが、ほのかに見えてく るのではないかとおもっている」(鷲田, 1999, pp.46-47)。
唯我論(ソリプシズム)的に語る学問のイメージから脱却し、社会的公共空間の構築をめざす臨床コミュニケーション研究にとって、鷲田が表現する 聴覚のメタファーが、我々の言説戦略において優位になるのは次の2つの理由があるからだ。
まず、従来のコミュニケーション研究においては、意味理解における視覚のメタファーが優位とされていた時代が続いていたという世界理解であ る。視覚から識字能力へ、さらには[デリダ主義者とはいささか趣を異にする]ロゴセントリズムへと発展する論理が貫徹していると見るのである(cf. オング, 1991)。臨床コミュニケーション研究における視覚から聴覚への優位を転換させることは、視覚優位の黙読的なロゴセントリズム批判にオートマチックに連 なる。さらに2番目の理由だが、聴覚による理解とは、人の肉声を聴くことを意味する。生の肉声を聞き取るためには、(数メータ以内が妥当な範囲だろうが) 近づかなければならない。聴覚のメタファーに訴えることは、当該のコミュニケーションの近接性を含意し、臨床コミュニケーション行為にみられる身体的親密 性を喚起しているのである。鷲田が〈臨床〉という用語を好むのは、身体的親密性の圏内における日常的コミュニケーションの復権を求めているからである。現 場力が空間的要素を考慮する時、聴くことの意味が浮上する。
現場力を単純に現場におけるメッセージ感受能力と考えると、その伝達的側面だけが過度に協調される危険性がある。しかしメッセージが社会をも ちうるのは、技能を評価し、再生産されるからにほかならない。そのような条件が揃うとき(c)現場力は社会的な概念として把握されるはずである。
クレジット:〈現場力〉概念の再構築, 言葉による概念の受肉化に関するエッセイ
文献
(いけだみつほ)